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2018年度第5回関東例会(2019年1月26日)

下記の日程にて、関東例会(1月)を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。

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日時:2019年1月26日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

第一報告(13:30~15:30)
報告者:水野明日香氏(亜細亜大学経済学部)
コメンテータ:根本敬氏(上智大学)

報告題目:「日本占領下のビルマにおける産米増産計画」

報告要旨:本報告では、ミャンマー国立文書館に残された史料を利用し、1944年1月末から1945年にかけてビルマで実施された産米増産計画(Paddy Cultivation Scheme)の分析を行う。産米増産計画とは、①各県、郡、村落に農業委員会を作らせる、②中央で計画した耕作目標面積を、各県、郡、村落の農業委員会に割り当て耕作させる、また農業融資もこれらの委員会を通じて行う、③全ての地主は農地を貸し出す努力が求められ、地主が自力で小作人を見つけられない場合、政府が土地を収用し、村落農業委員会を通じて適切な小作人を斡旋することを骨子とした計画であり、全国規模で実施することが意図されていた。報告ではこの計画を分析し、歴史的文脈に位置づけることにより、これまで明らかにされていない日本軍の「独立」ビルマ政府への関与、日本の占領下での政策と独立後の政策の系譜的連続性、またビルマ共産党による戦時下での農村部の組織化活動の一端を示すことを目指す。

第二報告(15:45~17:45)
報告者:都築一子氏(NPO シニアボランティア経験を活かす会)
コメンテータ:原不二夫氏(元南山大学教授)

報告題目:「英領北ボルネオにおける1890年代の日本人移民—南繁蔵の組合伐採事業を中心として—」

報告要旨:1893年から95年にかけて日本人移民が英領北ボルネオ(以下北ボルネオ)へ渡航した先行研究がある。本発表の目的は,先行研究で明らかにできなかった「1893年の移民」を検証し,「1896年から北ボルネオ渡航旅券獲得者が約10年間途絶えた理由」を考察する。1893年夏に,和歌山県の17名が到着した。彼らは,同郷の資本を募り,木材コンセッションを獲得して南繁蔵をリーダーとする組合伐採事業を始めた。海外移住関西同志会も移民を送った。1895年に移民が予定の乗り継ぎ船に乗れず滞在費不足になり香港領事館に救済申請をした。中川領事が,「移民保護に関する意見書」で領事館と移民代理支店の無い北ボルネオへ自由渡航移民を送る危険性を指摘した時,大井憲太郎の「北ボルネオ開発計画」が調査されていた。大井に関する調査と「意見書」によって,自由渡航移民の容認は警戒に変わった。この政策変更が,北ボルネオ行き旅券獲得者が約10年間途絶えた主因であると考察する。

2018年度第4回関東例会(11月17日)議事録

11月17日(土)に行われました,2018年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:茅根由佳( 京都大学東南アジア地域研究研究所 )
題目: 現代インドネシアにおけるシーア派排斥運動の起源と展開
コメンテーター: 横田貴之(明治大学・准教授)


■横田貴之先生のコメント
中東諸国では2011年のアラブの春以降、イスラーム主義は役割を終えたと捉えられる傾向にあり、それに伴ってイスラーム主義研究も退潮している。他方で、インドネシアでは近年になってイスラーム主義運動が盛り上がりを見せている点が特徴的である。報告では従来穏健とされてきたナフダトゥル・ウラマー(NU)のメンバーによるシーア派排斥運動に焦点を当て、同国のイスラーム主義の展開を検討した。
湾岸諸国、とくにサウディアラビアでは1979年のイラン革命以降、国策として反イラン、反シーア派の言説が拡散されてきた。同国の反シーア派言説の政治的利用は、イブン・タイミーヤやムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの思想を端緒とする。近年では、イラクのザルカウィ・グループやISISも類似の言説を利用している。それではインドネシアの反シーア派の言説は一体どこから来たのか?
報告では、近年のインドネシアにおけるシーア派排斥運動の担い手として、サウディアラビアのウラマー、ムハンマド・アラウィ・アル・マリキに系譜を持つNU内の勢力(マリキの弟子たちと「NU正統派」)について分析した。マリキはワッハーブ派が主流派のサウディアラビアにおいて、スーフィーとして異端視され迫害された極めて珍しい存在であった。マリキ自身は、異なる考え方を異端視して否定するワッハーブ主義に批判的立場を示してきた。興味深いのは一体なぜ、異端と見なされたマリキの元に多くのNUの人々が集まり、なぜ彼らの中からワッハーブ主義と類似の反シーア派言説を利用するものが現れるようになったのかという点にある。
質問は、(1)インドネシアにおけるシーア派の実態や政治的位置付けについて、(2)シーア派排斥運動を担うNU正統派の目的、(3)イスラーム主義におけるNU正統派の位置付けに関するものであった。

報告者の回答
(1) インドネシアのシーア派はハドラマウト出身で預言者の子孫を名乗るアラブ系インドネシア人(サイイド、ハバイブ)が担ってきたが、1979年のイラン革命以降には非アラブ系の人々も数多くシーア派に転向した。国内の政治的立場としては、一部がシーア派を擁護する穏健派組織ないし世俗ナショナリスト系政党との同盟関係を強めてきた。例えば与党闘争民主党からはシーア派知識人であるジャラルディン・ラフマットが2014年に出馬、当選を果たしている。
(2) NU正統派はマリキの弟子たちの第二世代にあたる宗教指導者たちであり、民主化後、NU内の権力闘争で指導部参入を狙って台頭した。近年では、国政レベルでのシャリーアに基づく(イスラーム共同体のための)統治を目指し、影響力行使を図っている。
(3) インドネシアにおけるイスラーム主義は、1960年代以降サウディアラビアと緊密なネットワークを築いてきたナッシール(元首相・マシュミ党党首)やエジプトのムスリム同胞団に影響を受けた学生運動によって担われてきた。NUに関してはイスラーム主義を批判してきた穏健派指導者の役割が強調される一方で、NU正統派など組織内のイスラーム主義の存在は等閑視されてきた。NU正統派は伝統的法学派の権威や預言者ムハンマドの誕生祭などの慣習を重視する一方で、「異端」や「逸脱」に関しては極めて厳格な解釈をとる点でサラフィー主義への近親性を自認する。

●フロアからの質問(抜粋)
・NU正統派はどのような階層から支持を受けているのか?
(回答)支持者は貧困層から富裕層までおり極めて幅広い。特定の階層ではなく、既得権層批判を消費するソーシャルメディアユーザーを主なターゲットとしている。
・なぜ2010年代以降にシーア派排斥運動が増加したか?
(回答)シーア派排斥運動は1998年の民主化以降増加傾向にあるものの、2010年代に増加した背景には、中東情勢における宗派対立の加熱という国際要因に加えて、インドネシアにおいてイスラーム主義勢力が直接選挙や司法制度の有用性を学習したためであると考えられる。
・スハルト体制期に国家はシーア派をどのように捉えていたのか?また、同時期における異端と正統をめぐる議論はどう位置付けられるのか?
(回答)スハルト体制期に宗教省の管轄下にあったインドネシアウラマー評議会は、イランとの外交関係に配慮してシーア派を異端と認定せず、宗教活動も禁止しなかった。現在のインドネシア政府も同様の立場をとる。スハルト期のシーア派に関する異端と正統をめぐる議論は主に、出版や討論を利用した知的活動によって展開されてきた。民主化後、「多数派」が政治的影響力の源泉になると認識されるようになり、少数の「異端」排斥をアジェンダとする大衆動員や扇動を伴う運動に発展した。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:山本博之(京都大学東南アジア地域研究研究所)
題目:二重写しの国民的英雄――マレーシアの映画が描くハントゥアの正義・公正観
コメンテーター:弘末雅士(立教大学・名誉教授)


■弘末雅士先生のコメント
 演劇、映画、テレビドラマ等を社会史研究の資料にすることには二つの重要性がある。1950年のインドネシアの識字率は約10%で、人々は新聞よりも物語や演劇を通じて情報を共有していた。我々歴史学者は文字資料でナショナリズムや国民統合を研究しているが、文字資料の多くは宗教やエスニシティごとに刊行されるため、宗教やエスニシティが違う人々と日常で付き合う人々が実際に社会統合をどう考えていたかは文字資料ではでてこない。そういう中、演劇や映画には様々なエスニシティや宗教の人の交わりを題材にしたものがでてきており、活用すべき資料だと思う。
 演劇と言えば、インドネシアでは19世紀終わりにコメディ・スタンブルが流行った。インドネシアの演劇ではニャイの物語が人気で国民的英雄は出てこなかった。マレーシアで国民的英雄のハントゥアが演劇に出てきたのは興味深い。報告で紹介された映画の原典にあたるヒカヤット・ハントゥアは、スーフィズムの考え方がよく出ていて、スジャラ・ムラユと並ぶマレー語文学の二大傑作である。原典について大事なのは、スルタンすなわち支配者の物語ではなく、被支配者から見て支配者がどうあるべきかがテーマになっていること。そういう語りの伝統を引き継いできたマレー人の間で独立後もハントゥアとハンジュバをテーマにした物語が様々なメディアに常に出てくることが面白いし、1950年代の社会主義が盛んな頃にハンジュバを社会主義的反逆と読み替えた作品が出てくるのは現代のスーフィズムを思わせて興味深い。演劇や映画は人々の具体的な思いや営みといった文字資料から見えないものが見える媒体で、解釈にリテラシーが求められるという問題はあるが、社会史研究の非常に重要な資料だと改めて考えた。

■報告者の応答
 演劇の重要性は、観客が見て理解しやすいことに加え、自分で演じて内面化していくこともある。ハントゥアの物語はマレーシア各地の学校の演劇クラブで演じられており、資料があれば調べてみたい。ニャイの話と関連して、バンサワン演劇でハントゥアの物語が演じられる際に恋愛の物語になったことは一度もなかった。女性が出てくることがあっても、ハントゥアが女性をスルタンに差し出すことで男同士の絆を強める物語として登場した。1956年の映画でハントゥア物語に男女の恋愛要素が入るようになった。ナショナリズムと映画の関係については、きちんと調べてはいないが、東南アジア各国で地元の映画制作会社ができた時期と、全国的なナショナリズム運動の組織ができた時期とが大体重なるという印象があり、ナショナリズム運動の展開と映画の商業的な展開の重なりについても今後考えてみたい。

■質疑応答(抜粋)
質問:マレー人がクリスを掲げたときに華人は自分たちが攻撃されていると感じたのはなぜか。ハントゥアが国民的英雄であるならマレーシア華人にとっても自分たちの英雄であり、ハントゥアの象徴であるクリスが掲げられたら自分たちも守られると考えるのではないか。
回答:クリスを掲げたのがマレー人政党UMNOの大会だったため。クリスを掲げた政治家は日頃から危なかしい言動をする人ではあったが、マレー人の利益のために挑発的なことをあえて言うのがUMNO青年部長の役割だと考えた面もあったと思う。いずれにしろ、クリスが掲げられたのがマレー人の利益を守る政党の大会で、華人はその政党の庇護の対象外なので、華人は自分たちが攻撃の対象だと感じた。
質問:ハントゥアを引き合いに出すとハンジュバのイメージが出てしまうという二重写しの混乱に関連して、1956年の映画でハンジュバとメルーが犠牲になるのは作劇上ハントゥアの魅力を際立たせる仕掛けだと思うが、観客がハンジュバに親近感を持ってしまうことをどう考えるか。ハントゥアが情のない人に見えてしまう要因は、原典と現代的な展開のどちらにあるか。
回答:現代的なアレンジが大きいのではないかと思う。1956年の映画を監督したインド人がインドの物語を注入した影響があるかもしれない。映画の制作当時、監督がインド的な要素を入れすぎたためにマレー的な物語でなくなったという批判があった。ただしどの部分がインド的かについて資料的な裏付けがなく憶測の域を出ない。なお、死ぬという意味で犠牲になったのはハンジュバとメルーだが、犠牲の意味を広くとると、ハントゥアに騙された形でスルタンに嫁いだトゥンテジャもハントゥアを好きになって犠牲になった人物で、マレーシアではトゥンテジャへの仕打ちを一番ひどいと言う人が多い。
質問:UMNOでなく野党がハントゥアの物語を使うことはあるか。
回答:UMNOほど体系的ではないが、ハントゥアとハンジュバの物語を使っていた。例えば、旧野党のアヌアル・イブラヒムは、1962年の『ハンジュバ』という映画と自分を重ねて、ハンジュバが訴えた正義・公正(keadilan)とアヌアルが結成した国民公正党(Parti Keadilan Nasional)が繋がっているという見せ方をした。
(文責:光成歩)

10月27日(土)に行われました、2018年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:高田知仁会員(サイアム大学日本語コミュニケーション学科学科長、タイ日文化研究センター長)
題目: タイの寺院螺鈿扉に見るモチーフ・文様・表現技法の変遷とその歴史的意味
コメンテーター:小池富雄(鶴見大学文学部文化財学科・教授)

小池先生のコメント
 現在まで、タイの螺鈿工芸についてほとんど何もわかっていない。したがって今回の研究では、螺鈿扉に描かれた文様のブッダの象徴・梵天・帝釈天の意味上の解釈と言ったモチーフ解釈を含め極めて先駆的な研究であると言える。タイの螺鈿作品が、威信財として王権を表するものだったことは日本での螺鈿工芸の立場とも重なる点で興味深い。
 日本でも貝の使用は古い歴史とともに交易についても指摘することができる。特に17世紀頃からの琉球・中国との交易のほか、タイとの交易も注目できる。実際京都の民家からタイ産と見られる漆も発掘され、安土桃山時代の建築ラッシュを支えていたと見られる。こういった交易上に立つ貝文化と言った点からも、今後焦点が当てられて然るべき分野である。
 タイの螺鈿の起源がわかっていない点については、今後考古学発掘調査によって、わずかな断片でも発見されれば、分析科学によって解き明かされる可能性がある。実際30年前は琉球の螺鈿文化は認められていなかったが、その後の地道な発掘調査によって、今では琉球の螺鈿文化が認められている。タイでも分析科学の力を借りつつ文献研究や技法の研究が進むことを期待する。
 また、日本・タイ・カンボジア・ミャンマーといった地域の漆器との比較研究によって、交易の実態も含め、技法の関係性も解き明かされることが期待される。技法的には、いかに貝を切るか、いい色を出すかと言った技術を解明していかなければならない。

質疑応答
質問1: 螺鈿扉の数と分布域はどの様になっているのか。
回答: アユタヤ周辺とバンコクの寺院にあったが、現在多くがバンコクにある。一番北に位置するものでは、ピサヌローク県に現存例がある。チェンマイにも仏足があるが、これはアユタヤの職人によって制作されたと推測される。数量的には、第1期が最も多く、アユタヤ時代のものだけでも7対を数える他、経厨子などへの転用例も散見される。ラーマ1世時代のものはさらに多い。

質問2: 螺鈿に関する古い史料はどんなものがあるか。
回答: ターシャルの著した『シャム渡航記』には、王室船の船首に螺鈿の装飾があったことが書かれている。『カムハイガーン・クンルワンワットプラドゥーソンタム』や、『三印法典』にも螺鈿職人や螺鈿扉の建立について書かれている。

質問3: ラオスでは漆と土を混ぜる例があるが、タイの場合はどうか。
回答: 現在はココナッツの炭粉を混ぜるが、文献では、バナナの葉やチガヤを焼いた炭や煤が出てくる。伝世作品においてどのような素材が混入されたのかは、今後の課題としたい。

質問4: トライプームやデーヴァラージャといった思想のほかにパンヤースジャータカや、ミャンマーの経典、特に後者は1750年頃の成立だが、関連性はどうか。
回答: 未見であり、是非参照したい。

質問6: 螺鈿工芸の起源としてタイに渡った日本人町の居住者は考えられないか。
回答: 江戸幕府の海外渡航禁止令で新たな日本人の移入が絶え、混血が進んだ。タイに渡った人の中に螺鈿職人がいなかったとは言い切れないが、世代的に降り、また異なった技法であるため、日本の技法が伝えられたというには無理がある。

質問9: 第2期には華僑の3世4世が職人となっていたというが、どういうことか。
回答: タークシン王時代の移民を想定できる。作品は中国的な要素も強いが、タイ伝統的な技法の上に新たな技法が導入され、その受容にも差が見られることから、タイ生まれの華僑が関わっていたと想定できる。

質問10: 第1期の作品が国王の権威を示していることは想定できないか。
回答: ビシュヌ像を国王の象徴としてあげている説があるが、むしろ人間界を象徴するととりたい。


☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:片岡樹会員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
題目:日本宗教史モデルは東南アジア宗教の説明にどこまで使えるか―顕密論から見たタイ宗教論の試み―
コメンテーター:中西裕二(日本女子大学人間社会学部文化学科・教授)

■中西裕二先生のコメント
 本発表は、単純に顕密仏教をタイに当てはめたものではなく、タイにおける神仏の関係を、「顕密」という考え方で捉え直そうとする試みである。黒田が唱えた顕密体制論は、仏教と神祇祭祀は対立していたのではなく、仏教という共通前提の上に競合関係を構築していたと指摘するものである。このような関係性は明治期の神仏分離で崩壊したとされているが、日本国内で調査を行なって来た立場としては、依然として日本社会では根強く存在していると感じている。
 発表のポイントは、日本とタイにおける「異なる近代」のあり方である。日本は明治期、神仏を切り離すことで関係をリニューアルしたが、タイにおいては依然として習合したままとなっていることは興味深い。ただ、神と仏の関係性は描くことが難しく、自分も含め今後とも模索していく必要がある。

■質疑応答(抜粋)
発言1
・一口に顕密論というが、範囲が広く、具体的に何に焦点を当てているのか曖昧。顕密体制の終了時期をいつととらえるか。神仏習合の存続という点からは明治維新まで継続しているが、政教関係という意味では信長の叡山焼き討ちで終了している。どちらの顕密を意識しているのか、認識にブレがないかどうか。
(回答)「顕密」という枠組を用いる際、自分の説明にズレがあるのは事実。今後整理していきたい。

発言2
・大乗仏教と同様に、上座仏教にも雑多性・混沌性があるのではないか。タイの神仏習合は理論武装を欠いているというが、梵天や帝釈天を仏教的世界観の枠組内で整序するような理論化はあるのではないか。
(回答)大乗仏教に限らず、その周囲全体もハイブリッド化していると考えている。上座仏教においても外部価値観の取り込みは行われており、理論武装も一部ながら確認できる。

発言3
・発表タイトルには「東南アジア」が含まれているが、内容は仏教が中心。顕密体制的な政教関係が存在するとして、キリスト教徒やムスリムは顕密体制の傘下に組み込まれることになるのか。また東南アジアの他の国の事情はどう説明するか。
(回答)タイ国内では仏教教団に対する王法仏法相依論にもとづく相互依存関係のモデルがそのまま他宗教にも適用され、国王が仏教教団を保護するのと同じ論理で他宗教の保護も行っている。ただしここで提示するタイ国のモデルが、他地域に適用可能かについては議論の余地がある。たとえばミャンマーでは聖俗ないし僧俗の線引きの論理がタイ国と大きく異なるので、単純な比較は難しい。

発言4
・タイには様々な民族がいるが、これはタイの宗教事情にどのような影響を与えているのか。
(回答)大乗仏教に関しては、ベトナム系寺院・華人系寺院が存在しているが、それは開祖の出身地と経典の使用言語を示すもので、今日のエスニシティーには何ら関係がない。たとえばベトナム系寺院の僧侶がベトナム人である必然性は皆無である。一方、上座仏教に関してはサンガ統一以前、それぞれの民族性を反映させたサンガが存在していた。

発言5
・顕密体制が成り立つための条件を考えている。やはり稲作農耕による定住度の高い社会の成立が、荘園制度に基づく寺社勢力の全国的系列化を可能にしたのではないか。
(回答)稲作農耕という視点は、日本とタイの類似点よりは差異を説明する。土地が希少資源だった日本では土地の支配権の安堵によって権力のヒエラルキーが成立していた。しかし人間が希少資源だった東南アジアでは、支配地の拡大ではなく王都周辺に人口を集中させることで国家形成が進められた。

(文責:片岡樹)


2018年度第4回関東例会(11月17日)のご案内

11月17日(土)に、下記の通り、関東例会を開催致します。
皆様のご参加をお待ちしております。

**************
日時:2018年11月17日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:茅根由佳( 京都大学東南アジア地域研究研究所 )
題目: 現代インドネシアにおけるシーア派排斥運動の起源と展開
コメンテーター: 横田貴之(明治大学・准教授)

<報告要旨>
 本報告では、従来穏健であると見なされてきたインドネシア最大のイスラーム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU)に着目し、近年シーア派に対する排斥運動が多発している要因を明らかにする。NUに関する先行研究は多宗教の共存を説き、少数派の権利を擁護する穏健な指導者たちの役割を強調する一方で、同組織における排外的勢力の存在を等閑視してきた。そのため、なぜ1998年の民主化後にNUのメンバーによるシーア派排斥運動が生じるようになったのか、その理由を説明できない。
 本報告では以下の仮説を検証する。NU内における反シーア派意識は、抑圧的なスハルトの権威主義体制によって不可視化されてきた。しかし民主化後、シーア派排斥のアジェンダはシーア派に脅威を抱くメンバーの共鳴を広く得ただけでなく、穏健派指導者たちに批判的なNU内外の反抗勢力の凝集性を効果的に高めた。これらの仮説の検証を通じて、本報告ではこれまで見落とされてきたNU内の多様性のみならず、宗教的正統性をめぐる諸勢力間の競争とダイナミズムを示す。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:山本博之(京都大学東南アジア地域研究研究所)
題目:二重写しの国民的英雄――マレーシアの映画が描くハントゥアの正義・公正観
コメンテーター:弘末雅士(立教大学・名誉教授)

<報告要旨>
東南アジアのナショナリズムは、多様な背景を持つ人々が自らを運命共同体であ
ると認め合うことと、異民族による植民地支配から自らを解放することという2
つの側面を持ち、前者は独立後も課題であり続けている。従来のナショナリズム
研究が新聞・雑誌の役割に注目したのに対し、本報告では映画に目を向け、独立
後のマレーシアにおいて、国民的英雄の官製イメージが強化される裏でその対抗
イメージが創出され浸透していった様子を明らかにする。マレーシアの国民的英
雄ハントゥアは君主に忠誠を尽くすマレー人社会の勇者として知られ、その物語
は教科書や叙勲を通じて国民に教化されたが、他方で映画では残忍・不正な君主
への反逆に重きが置かれ、その結果ハントゥアと仲間の物語は対立する2つの正
義・公正観を纏うことになった。2000年代以降の「ハントゥアは中国人か」など
の論争を経て、今日のマレーシアでは理想の国民的英雄に動揺が見られる。

**************

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。
ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。
関東例会のブログ(http://kantoreikai.blog.fc2.com/)には、過去の議事録も掲載しております。ぜひご参照ください。

関東例会委員

2018年度第3回関東例会(10月27日)のご案内

10月27日(土)に、下記の通り、関東例会を開催致します。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

**************
日時:2018年10月27日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

<プログラム>
☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:高田知仁会員(サイアム大学日本語コミュニケーション学科学科長、タイ日文化研究センター長)
題目: タイの寺院螺鈿扉に見るモチーフ・文様・表現技法の変遷とその歴史的意味
コメンテーター:小池富雄(鶴見大学文学部文化財学科・教授)

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:片岡樹会員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
題目:日本宗教史モデルは東南アジア宗教の説明にどこまで使えるか―顕密論から見たタイ宗教論の試み―
コメンテーター:中西裕二(日本女子大学人間社会学部文化学科・教授)

<報告要旨>
☆第1報告:高田知仁会員
 タイには螺鈿工芸の伝統があることは現存作品から知られているが、その中でも寺院扉は螺鈿作品として大変大形のものであり、その多くは制作に王家が関わりを持つ作品である。そうした作品には王朝年代記や銘文から年代がわかる作品が含まれている。つまり、そうした螺鈿扉は各時代の最高の技術をもって造られた作品であると言うことができる。
 しかしタイの螺鈿工芸が始まって以来の変遷については、これまで詳しい研究が行われておらず、文様様式やモチーフの持つ意味、そして制作技法も含めて不明な点が多い。
 そこで本発表では、各時代の王朝美術の特徴が明瞭に表現されていると期待される螺鈿扉を中心として、特に年代が判明している作品を基準作として取り上げ、そこに現れているモチーフ・文様様式・表現技法の変遷を検討することによって年代の不明な作品を含めた時期の区分を行い、さらに螺鈿扉から読み取れる歴史的な意味を明らかにしたい。

☆第2報告:片岡樹会員
 本報告では、タイ国の事例から、日本宗教史論のモデルをヒントに東南アジア宗教を再検討することを試みる。タイ宗教論の分野では近年、国家公認の正統サンガを中心において構築された従来の研究パラダイムに対する新たな問題提起が相次いでいる。それをもたらしたひとつの要因は、タイ仏教といわれるもののハイブリッド化が顕著に進展しているという事実であり、さらにその背景にあるのは、中国系、インド系、土着民間信仰系など、従来の上座仏教論ではじゅうぶんにカバーできない要素の増殖である。こうした状況は、上座仏教、大乗仏教、ヒンドゥー教、あるいはタイ人、中国系・インド系住民というような、既存宗教を単位にとりあげそれを民族集団ごとに切り分けるアプローチがすでに非現実的であることを示している。本報告ではこの状況を統一的に把握するための新たな試みとして、日本宗教史論特に顕密体制論の応用を仮説的に提案する。もちろん荘園制度に裏打ちされた権門寺社による全国の末寺末社の系列化という日本の特殊事情が、ただちに現代の東南アジアに当てはまるわけではないが、両者の異同を考察することで、日本発の東南アジア宗教論モデル構築の可能性が見えてくるだろう。

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例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。
ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。

2018年度第2回関東例会(5月19日)議事録

5月19日(土)に行われました,2018年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告
報告者:池田昌弘(神戸大学大学院経済学研究科・博士後期課程) 
題目:20世紀初頭ベトナム南部における食糧問題と政府の対応:1911~12年の価格高騰と地域内米流通
コメンテーター:髙田洋子(敬愛大学国際学部・教授)


●髙田洋子先生のコメント(抜粋)
・「市場と国家」という点から植民政策と現地への影響を検証した報告として,1911〜12年に起こった食糧問題を期間分けした上で論証した点,そして1900年代の地域内消費動向を踏まえて説明した点で分かりやすい構成であった。また,該当年はこれまで主要とされてきた資料,著書からは接近されていない年であり,新たな資料を使用した点でも興味深い内容である。
・今回の報告では植民地政府側の資料をもとに議論が展開されていたが,実際の地域内における動きに接近する必要がある。生産不振といえども,開拓途上にあるこの年代では気象条件だけでなく,土地開発・運河建設による水系変化といった人為的な被害も当時は多く見られた現象であった。こうした開発途上にある中での地域内の動きを踏まえた議論展開を行い,さらには2年間という期間からさらに拡張した議論へ発展させるべきである。また,流通主体となる商人については,地主でありかつ商業にも進出した,土着化した華人の存在を見過ごしてはいけない。彼らがどのような動きを実際していたのかについては,政府や現地生産者の動きに注目した今回の報告に加えて非常に重要な位置を占めているはずである。近年では,2008年にベトナム政府が米輸出に制限をかけたことが挙げられるが,その背景には華僑・華人の買い占めという重大な動きが見られている。彼らの動きについても,より主体的に議論するべきである。
・質問:(1)植民地政府が域内に介入を見せたのは,この年が初めてであったのか,(2)報告では地主と小作人に注目していたが,当時は自作農も非常に多かった。彼らの存在は報告でどのような位置づけとなっているのか,(3)政府のこうした介入がその後の展開に与えた影響はどうか。

●報告者の回答
(1)省レベルでの介入は以前にも見られた事例がある。一方でコーチシナという地域レベル介入が行われたのは,当時の省行政官の報告では植民地史上初めてであると記述されている。
(2)確かに当時の生産主体として自作農は大きな割合を占めている。ただし,自作農でありながら一部の土地を借りて小作人として生産活動を行うものも存在しており,自作農と小作人を完全に分離して考察することは困難であると考える。そのために報告では自作農への言及が埋没してしまっている。こうした点を念頭に置き,再構成したうえでまとまった議論に今後発展させていきたい。
(3)現状では1900年〜第一次大戦期途中までしか政府関連の資料を手にしていない。今後資料収集を踏まえ,後の時代への影響については考察すべき課題だと考えている。

●フロアからの質問・コメント(抜粋)
(質問者1)報告では2度の輸出禁止がみられ,それぞれ異なった要因が存在しているように見受けられる。2度目については,地域内の生産要因が効いていると思われるが,当時の生産状況は実際どうだったのか。
(回答1)不作であったことまでは資料から接近できているが,収穫中に起こった措置でもあるので,コーチシナでの収穫時期のズレや品種等も議論に取り入れながらさらに細かい状況を今後資料より検出していきたい。

(質問者2)報告では地域内での食糧消費について,1900年代の状況と1911〜12年と,2段構成をとっていた。これらの年代でどのような違いがあり,それらがどう変化していったのか。
(回答2)後者の年代に起こった出来事を強調するため,このような報告構成をとったがこれら2つの年代は連続したものであると捉えている。つまり,地域内で形成される地域内消費の構造の特徴が1900年代には機能していたものの,1911〜12年にはこの時期に起こった諸現象のもと機能しなくなった,と考えている。

(文責)池田昌弘


☆第2報告
報告者:小泉佑介(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
題目「インドネシアにおける人口センサス個票データの利用可能性」
コメンテーター:長津一史(東洋大学・准教授)


■ 長津一史先生からのコメント
今回の報告は、全体として、民族の定義に関する議論には踏み込まず、クロス集計による分析方法の可能性を提示していた。本報告のように、民族別の就業構造を示すことで、民族に関する「イメージ」や「ディスコース」を、より体系的に捉えなおすことが可能となる。一方で、マレーシアやフィリピンなどの他地域との比較があれば、東南アジアにおける人口センサス利用という観点で議論することができたように思う。
人口センサスのようなビッグデータ分析は、インテンシブなフィールド研究があってこそ、生かされるものである。今回は、2000年以降の人口センサスデータを対象としていたが、スハルト政権期あるいは植民地期くらいまで時間軸を広げることはできないか。

□ 報告者の回答
今回の報告では、時間の制約もあり、インドネシアの2000年・2010年人口センサスを対象としたが、今後は、スハルト体制期の人口センサスや、東南アジアの他地域における人口センサスにも関心を広げていきたい。

■ 質問者(1)
・なぜ、北スマトラ州からの移住者が増加しているのか。
・リアウ州だけでなく、他州の個票データ分析を含めた方が良いのではないか。

□ 報告者の回答
・北スマトラ州からリアウ州へ移住してくる人が多い理由は、北スマトラ州の農村人口が過剰になっていることが、プッシュ要因として作用しているからだと考える。
・他州の個票データが手に入れば、複数の州をまたいだ分析が可能となると考える。

■ 質問者(2)
・人口センサス個票データの値段はどのくらいであり、調査許可がなくても購入可能なのか。
・北スマトラ州からリアウ州へ移住してくる者は、主に農園経営者なのか。また、ミナンカバウは、なぜ教育・医療・行政で働いている人が多いのか。

□ 報告者の回答
・人口センサス個票データは、全国版だと、数百万円になるが、州や県といった単位でも個票データを購入することは可能である。個票データの購入に際して、特に調査許可等の提示は求められない。
・北スマトラ州からの移住者に関しては、農園経営者と農園労働者が半々くらい。ほかの民族集団については、今後、学歴といった項目にも目を向けたい。

■ 質問者(3)
・なぜ、インドネシアでは、個人情報を含む個票データを購入することが可能なのか。
・個票データにおいて、民族という項目が村単位で集計できないというのは、どういうことか。

□ 報告者の回答
・個票データの取り扱いには十分な注意を払う必要があり、研究者とインドネシア側との信頼関係を構築していくことが必要となる。
・町・村単位の地域コードがすべて含まれているファイルに、民族の項目が含まれていないといったかたちで、データ分析に制限がかけられている。

■ 質問者(4)
・リアウ州における選挙結果と、地域別の民族分布との関係はどうか。
・最近は、政治コンサルタントが中央統計庁のデータを利用しているという話を聞くが、その実態はどうなのか。

□ 報告者の回答
・報告者自身は、政治が専門ではないが、リアウ州においても、クリスチャンの多い地域では、クリスチャンの議員の得票数が多い傾向にあると感じている。
・中央統計庁は、コンサルタントに対して、人口センサス個票データに基づき、社会調査のサンプルを抽出するサービスをおこなっている。

■ 質問者(5)
・インドネシアにおける人口センサスは、精度が高いという評価でよいか。

□ 報告者の回答
・個票単位では、やや誤差が多いかもしれないが、県単位・郡単位といったマクロなレベルで集計すれば、それなりに地域別の傾向として信頼できるような結果が見えてくると考えている。

■ 質問者(6)
・人口センサス個票データの分析から、都市化みたいなことも見えてくるのか。
・各産業の発展と、人口移動の関係について、もう少し詳しく知りたい。

□ 報告者の回答
・都市化に関しては、ジャカルタ大都市圏における都心の人口流出と、郊外の人口流入という現象を、個票データ分析から捉えることができる。
・産業の興隆と人口移動との関連について、外島では、人口過剰な農村から、新たな農業(特にアブラヤシ栽培)の展開による開拓農村への労働力移動といった動きが見られる。

■ 質問者(7)
・人口センサス調査票において、日常言語、インドネシア語能力、識字の違いは何か。
・最も広い床の面積という質問項目は、どのような意図で組み込まれているのか。

□ 報告者の回答
・調査票において、日常言語などは、辺境地にいる住民の言語状況を調査したい意図と思われる。
・最も広い床の面積という質問項目については、国連が定める人口センサスの質問項目の標準によるものであり、こうした居住空間に関する質問は、途上国一般に通じるものである。

■ 質問者(8)
・人口センサスにおいて、短期的な移動は、都市の雑業層や定住地を持たない人々は、本当に補足できているのか。
・北スマトラ州においても、アブラヤシ栽培が進んでいると思われるのにも関わらず、なぜ北スマトラ州の人々は、リアウ州に移住してくるのか。

□ 報告者の回答
・人口センサスにおいて、都市に出稼ぎへ出ている人などを、すべて捉え切れているとは考えにくく、取りこぼしは多いと思う。
・北スマトラ州は、土地の新規開拓が限界を迎えている一方で、リアウ州は、依然として未開地が多く存在するといった違いがある。

(文責:小泉佑介)

2018年度第2回関東例会(5月19日)のご案内

2018年度2回目の例会を,下記の通り,5月19日(土)に開催いたします。
皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2018年5月19日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

プログラム
☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:池田昌弘(神戸大学大学院経済学研究科・博士後期課程) 
題目:20世紀初頭ベトナム南部における食糧問題と政府の対応:1911~12年の価格高騰と地域内米流通
コメンテーター:髙田洋子(敬愛大学国際学部・教授)

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
題目:インドネシアにおける人口センサス個票データの利用可能性
コメンテーター:長津一史(東洋大学社会学部・准教授)

報告要旨
☆第1報告・池田昌弘
「ベトナム南部(コーチシナ)は,フランス植民地統治下にあった19世紀後半から20世紀前半にかけて,米輸出地域として急速な発展を遂げた。植民地政府による土地開拓事業と現地住民による積極的な生産活動は,地域内消費量をはるかに上回る輸出商品生産の原動力となった。そのような中,1911〜12年にかけて地域内消費量が不足しかねない事態が発生し,政府主導で輸出停止措置がとられるとともに飢饉対策が実施された。こうした食糧問題の発生は,地域内で形成された米流通構造,すなわち自給部門における自家消費分と輸出米としての商品流通分が極端に不均等な配分となった結果であり,また飢饉を未然に防ぐための有効な対策を政府に要請する現象として捉えられる。本報告では,この2年間を中心に①食糧問題が生じた地域内流通の構造的要因,②植民地政府の諸対応にみられる食糧政策の特徴,を論じる。報告に際しては,米価変動と国外・地域内の需給動向に留意しつつ,自給部門における地主・小作間での食糧分配の重要性を再評価する。さらに,問題解決に向けた植民地政府の諸対応がどのような方針のもと展開されたのかを議論する。」

☆第2報告・小泉佑介
「2000年以降のインドネシアにおける人口センサスは,調査項目に「民族」の項目が加えられ,デジタル形式に変換された個票単位のデータが公開されるようになったことで,大きな注目を集めている。本報告では,2000年と2010年の人口センサスについて,その調査方法や調査項目,公開されているデータ形式等の概要を紹介し,その上で,インドネシアの社会経済動態を,より広域的な視点から理解するための分析道具として,2億人を超える膨大な個票データの利用可能性を提示する。具体的には,報告者がこれまでフィールド調査を実施してきたスマトラ中部リアウ州を事例とし,2000年と2010年の人口センサス個票データをクロス集計した結果と,地理情報システム(GIS)によって作成した人口分布等の主題図をもとに,同州の人口動態と就業構造の変化を,州単位のマクロ・スケールで捉えることを試みる。」

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例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。
ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。

2018年度第1回関東例会(2018年4月21日)議事録

2018年4月21日に開催されました、2018年度第1回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
題目:日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学経済学部・名誉教授)


■報告要旨
『共栄報(Kung Yung Pao)』は、日本軍政下のジャワにおいて華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑社会の言語状況を反映し、華語(中国語)版とマレー語版とが別々に出されていた。本報告は、これまでその存在は言及されることはあっても、本格的に研究されてこなかったこの『共栄報』について、インドネシア国立図書館所蔵の原資料、および関係者の回想録を含む各種資料に基づきつつ、解題を加えた。
報告ではまず、『共栄報』が読者対象としたジャワの華僑社会の概要を大掴みで理解すべく、日本軍政が始まる以前の新聞等メディアを通した彼らの言論活動の状況について確認した。
次いで、軍政下の情報統制の概要、および『共栄報』発行の経緯や編集体制等について明らかにした。すなわち、華語版は1942年3月10日、戦前に最も影響力のあった華語紙『新報』の社屋を接収し創刊された『新新報』を、同年3月26日に『共栄報』と改題したものである(45年8月30日まで発行が確認できる)。他方のマレー語版は、1939年に創刊された『洪報(Hong Po)』(親日の論陣を張り、日本軍上陸後も発行を許されていた)を『共栄報』のマレー語版(発行後5カ月弱の間は「インドネシア語版」と表記)として吸収したものであった(45年9月15日で終刊)。マレー語版の方は、『洪報』時代からの体制をそっくり引継ぎ、黄長水(Oey Tiang Tjoei)をトップに司馬自成(Soema Tjoe Sing)が実質的な編集を担った。他方の華語版は、遅くとも43年初頭からは陳伯盈(Tan Pek Eng)が代表を、林若水(Liem Liok Swie)が編集のトップを担い、45年初頭からは林が代表の座に就いた。両版ともに旧『新報』の同一社屋でそれぞれ別個に編集発行され、44年初頭からはジャワ新聞会(邦語紙『ジャワ新聞』を幹事とする軍政監監督下の法人組織)から「内面指導」のため日本人指導員1名が派遣された。
最後に、『共栄報』の紙面の特徴について、原資料の撮影データを示しつつ何点か指摘した。『共栄報』は軍政下ジャワの華僑を動員するプロパガンダ・ツールであったことは事実であるが、一方で華僑社会の関心に一定程度応え情報提供する役割を果たしていたこともまた事実である。当時のジャワの華僑社会の動向を窺い知ることができる記事が多数掲載されているのは、両版とも第2面(以降)である。一般に日本軍政期(とその後の独立戦争期)は、ジャワの華僑史にとっては資料が大きく欠落したミッシングリンクの時期と言われるが、『共栄報』はその穴の一部を埋めてくれるものとして資料的価値が極めて高いと言えよう。

■倉沢愛子先生のコメント
 日本軍政期の華僑社会の研究はミッシングリングであった。オランダ時代とインドネシア独立後の時代をつなげる重要な研究である。
 ジャワは現地化した華人(プラナカン)が多数を占めていた。彼らの間にも中華ナショナリズムの高揚はあったが、プラナカンの中華ナショナリズムの目覚めはシンガポールのそれとはかなり違った性格だったと思われる。マレー語・ジャワ語の世界に生きていたプラナカンにとり、学校で中国語を習ったとしても、それは第一の言語にはなり得なかった。
 『共栄報』社長の黄長水は、ジャカルタ特別市華僑総会の会長で、独立準備調査会にも参加したが、そのバックグラウンドはいかなるものであったか。また、彼が独立準備委員会から外されたのはなぜか。
 その他の小さな質問は以下の通り。『共栄報』マレー語版の記事と他のマレー語の新聞の記事の間に違いがあったか。なぜマレー語版と華語版が同じ紙題なのか。発行部数はどのくらいだったのか。他の占領地における新聞発行の状況はどうだったのか。新聞以外のメディアを使った中国語による宣伝工作があったのか。

■報告者の回答
・黄は1937年に天地会(洪門)の系譜を引く和合会バタビア支部を立ち上げ、また『洪報』を差配していた。彼が日本軍に抜擢されたのは、その経歴から動員力が期待された可能性がある。独立準備委員会から除外された理由については不明である。ちなみに、同委員会で唯一の華僑委員となった葉全明は、プリアンガン華僑総会会長として、チマヒ収容所(「敵性外国人」を収容)に恒常的に食糧を供給するなどして頭角を現し、軍政からも信任が厚かったと思われる。
・他のマレー語紙との差異については今後比較したい。メダン等でも華僑向け華語紙が発行されていたようだ。
・軍政は華僑向け新聞として『共栄報』への一本化を考えていたが、言語状況を考慮し2言語体制になったというのが実情に近いかもしれない。
・『共栄報』指導員の辻衛の回想によれば発行部数は4千部であり、別の回想では5千部ともある。
・『共栄報』には映画上映案内が連日掲載されており、映画は重要な情報媒体であった。

■質問者1
・戦前の華僑系新聞の中に発行部数が1万というものもあるが、多過ぎはしないか。
■報告者の回答
・報告で示した数字はオランダの新聞発行統計に拠っている。華僑系新聞には長く継続しているものが多く、そこには華僑の識字率の高さも背景にあったであろう。

■質問者2
・『共栄報』の記者数を見ると華語版の方がマレー語版より圧倒的に多いが、日本軍政は華語版を重視していたということか。また、華語を理解する読者が当時どれだけいたのか。
・『共栄報』の読者は専らジャワ島内が想定されていたのか。
・日本軍政期の華僑社会の動向は、華僑以外の現地民にどのような影響を与えたのか。
■報告者の回答
・華語版の記者数が多いのは、日本語から中国語に訳すスタッフも含まれていたから、との指摘がある。『共栄報』の流通の範囲は不明であるが、実質的には主にジャワ島内で読まれていた。
・戦前に乱立していた華僑系諸団体は軍政下で華僑総会に一元化される。新聞記事中には、アジア民族、大東亜共栄圏の一員として中華民族も日本軍と協力すべしとのメッセージが多々見られる。しかし例えば、いわゆる原住民を主体とする警防団とは別に、華僑特別警防隊が結成された(これが独立戦争期の自警団組織(保安隊)に直接繋がるかは要精査)点などに示されているように、日本による対華僑政策が華僑とそれ以外の分断を助長したことは否めない。

■質問者3
・『共栄報』はジャカルタのローカル色が強い新聞として捉えるべきか、それともナショナルなものか。
・ジャワには現地生まれだが中国への帰属意識が強い人々も多かった。1940年代に華語紙が重視されたのはプラナカンの中の多様性に配慮した結果ではないか。
・『共栄報』の紙面を見ると広告が少ないが、収入はどこから得ていたか。軍政から援助があったのか。
・華語版の記者の構成を見るとマレー語紙よりも若年層が多く、ジャカルタ外の出身者が多いのはどういう意味があるか。
■報告者の回答
・ジャカルタ近辺の記事が圧倒的に充実している。ただし『共栄報』としては、主要地方都市に通信員を置くなど、各地の華僑社会の出来事を積極的に報じていると自負していた。
・当初から広告は少なく、戦局の悪化とともにますます減った。『共栄報』はジャワ新聞会の会員社として、島内で発行を許可された新聞社同士で資材を融通、損失を補填し合っていた。法人化後のジャワ新聞会には、軍政から20万グルデンの資金援助があった。
・記者リストに掲載されている記者個々人の詳細は今後精査が必要である。

(文責:松村智雄・津田浩司)

第2報告(15:45~17:45)
報告者:佐藤章太(東京大学大学院・博士課程)
題目:ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~
コメンテーター:岩月純一(東京大学大学院総合文化研究科・教授)

●コメンテーターより(抜粋)
・東アジアにおける漢語語彙は、形音義からなる漢字を知っていることが前提となっているが、ベトナムでは漢字廃止により漢字の字形知識が失われている。ベトナム語における漢語理解の変容については、主に高齢の知識人など漢字識字層が漢字非識字層の言語使用を誤用として批判する視点しか出ず、一般的に研究テーマとなりにくい。本発表は外部の視点からこの問題を客観的に捉えようとするものである。
・語彙分析対象の数学分野は、ベトナムでは漢文時代の枠組みとは異なり、フランスがもたらした西洋の学問知識を基盤とする分野であり、医学や植物学など他の自然科学と比べ、漢文的伝統が弱い。また、非常に高度な専門用語の場合、一般的な話者の意識からずれる可能性があるため、中等教育における用語を分析に選んだことは、漢越語に対する共時的意識の解明を目指す本研究の問題関心に適合している。
・(質問)本発表は現代という一時点に限定して共時的現象として論じているが、短期間であっても語彙の変化は存在する。通時的理解を拡げていくことも必要ではないか。
・(回答)ご指摘の通りであり、1940年代以降の短期間に作られた数学用語について、当初作られた用語、定着した用語と定着しなかった用語、時代とともに交替した用語など、時系列的視点による研究は今後の課題としたい。

●質疑応答(抜粋)
・(質問1)なぜ語彙収集に教科書を用いたのか。なぜ初等教育は扱わなかったのか。
・(回答1)教科書は全国統一的に使用されており、そこに登場する語彙が標準的語彙と見なせるため。また、漢越語は学校教育において、語文科7学年で理論的学習が、中等教育段階の語文科および他教科を通して具体的学習がなされるため、初等教育段階よりも中等教育段階の方が多くの漢越語を収集できると期待できるため。また、ベトナム語能力自体が発達途上にある生徒に対しても理解しやすいよう工夫されている可能性があり、本発表の問題関心に適合しているため。

・(質問2)「土着化」という概念の定義が曖昧ではないか。「語種」の分類も判然としていないのではないか。
・(回答2)本発表では「土着化」を「ベトナム語の影響による変化」としており、これは中国語からもたらされた語彙が体系的ベトナム漢字音によって読まれる漢越語(純粋なベトナム語の外側と意識されるもの)が、ベトナム語固有の言語学的特徴の影響を受け変化している現象を指す。語種については、学問的(語源学的)な語種と、共時的な語種意識との間にずれがある。漢語由来語彙の中でも、本発表で「古漢越語」「越化漢越語」「中国語方言音模倣語」と呼んだものは、学問的には漢語由来だが、話者の共時的語種感覚の中では純粋なベトナム語と考えられている。そのずれが判然と理解できるような説明や図示を以後心がけたい。

・(質問3)漢字文化圏の言語における数学用語は、近代に造語される場合が多い。本発表が扱っているのは、「土着化」(変化)というより「造語」の問題ではないか。
・(回答3)本論における「土着化」とは、ある概念を表す語彙がどう変化しているかという表面的変化だけではなく、漢越語が持つ意味面や文法面の変化、更には現代話者の漢越語に対する意識の変化にも着目している。そのため、変化ではなく造語する場合でも、かつての漢越語にはないベトナム語的特徴があれば、それを広く漢越語の「土着化」として捉えている。

・(質問4)ベトナム語数学用語は1940年代のフランスと日本の共同統治期に作られたが、そこに日本がもたらした影響は見られるか。
・(回答4)1940年代前半にHoàng Xuân Hãnが作成したベトナム語自然科学用語集(Danh từ Khoa học)には、用語作成に際して、フランス語や中国語だけでなく、日本語の自然科学系辞典も参照したと明記されている。しかし、ベトナム語学では、漢越語はあくまで中国語由来であり、近代日本で作られた和製漢語も中国語経由で流入したと考えられており、歴史的・共時的な中国語に存在しない漢越語は「越製」と見なされる。そのような「越製」の漢越語のリストの中には、xác suất【確率】のように日本語にも存在する数学用語も含まれていた。これは、歴史的・共時的な中国語に存在しないと認定されているため、1940年代前半の専門用語ベトナム語化の中で、日本語からベトナム語に直接取り込まれた可能性が示唆される。

・(質問5)ベトナム語が「語順によって意味が決まる孤立型言語」というのは正確ではなく、機能語によっても意味は決まるのではないか。
・(回答5)ご指摘の通りであり、「言語類型学的には孤立型言語的特徴を多く持つ」などと説明すべきである。

・(質問6)cứu cánh【究竟】が、単音節で使われる漢越語cứu『助ける』や純粋ベトナム語cánh『翼』の影響を受けて、『よくない状況から救い出してくれる拠り所』のように見なされている現象は誤用なのではないか。
・(回答6)言語学では、異なる言語や言語理解の間に優劣を付けず対等に扱うため、「誤用」ではなく「ベトナム語における再解釈」と捉え、そこに正誤の価値判断を持ち込まない立場を取りたい。

(文責:佐藤章太)

2018年度第1回関東例会(4月21日)のご案内

東南アジア学会の皆様

2018年度最初の関東例会を4月21日(土)に開催いたします。
今回は、津田浩司会員による「日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究」と、
佐藤章太会員による「ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

日時:2018年4月21日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
題目:日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学経済学部・名誉教授)
<報告要旨>
『共栄報(Kung Yung
Pao)』は、日本軍政下のジャワにおいて華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑社会の言語状況を反映し、華語(中国語)版とマレー語版とが別々に出されていた。本報告は、これまでその存在は言及されることはあっても、本格的に研究されてこなかったこの『共栄報』について、インドネシア国立図書館所蔵の原資料、および関係者の回想録を含む各種資料に基づきつつ、解題を加えるものである。
報告ではまず、『共栄報』が読者対象としたジャワの華僑社会とはいかなるものであったのかを大掴みで理解すべく、日本軍政が始まる以前の新聞等メディアを通した彼らの言論活動の状況について確認する。次いで、軍政下の情報統制の概要、および『共栄報』発行の経緯や編集体制等について明らかにする。最後に、『共栄報』の紙面の特徴について、原資料の撮影データを示しつつ指摘する。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:佐藤章太(東京大学大学院・博士課程)
題目:ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~
コメンテーター:岩月純一(東京大学大学院総合文化研究科・教授)
<報告要旨>
ベトナムは歴史的に漢字文化圏に属したため、ベトナム語は現代に至るまでに非常に多くの漢語由来語彙を受容しており、その中でも体系的な漢字音で読まれる「漢越語」は、高級語彙や専門用語に多い。しかし、現代ベトナム語は漢字を使わず、アルファベットを用いており、かつては漢字で書かれた漢越語は意味面や文法面など様々な面で、土着化(ベトナム語的特徴を持つ変化)を起こしている。
本発表では、ベトナム中等教育の教科書に掲載されている数学用語を体系的に分析することにより、専門用語の漢越語においても、土着化現象が起きていることを指摘する。特に意味面では、ニュアンスの付与・意味明白度の違い・意味内容の変化について、文法面では語順の逆転について述べる。また、ベトナム人によって新たに創出された「越製」漢語についても指摘する。

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。

ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。

2018年度関東例会発表報告者募集

東南アジア学会会員のみなさま

2018年度も東南アジア学会関東例会をよろしくお願いします。

さて、関東例会では下記のとおり、2018年度の報告者を募集いたします。多くの方々のご応募をお待ちしています。特に締め切りは設定していませんが、早目の申し込みをお願いいたします。

■2018年度東南アジア学会関東例会報告者募集
・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます。討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用ください。
・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。
コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身で依頼していただくようお願いします。(どうしても探せない場合は担当理事までご相談ください)
・これまでの報告事例については関東例会ウェブサイトをご覧ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■2018年度の関東例会 開催日程・場所
2018年4月21日(土)4F セミナールーム
2018年5月19日(土)4F セミナールーム
2018年10月27日(土)5F セミナールーム
2018年11月17日(土)4F セミナールーム
2019年1月26日(土)5F セミナールーム

毎回13時30分開会、17時45分閉会。1回につき2報告

■会場
・東京外国語大学・本郷サテライトです。
・住所:〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
・TEL&FAX:03-5805-3254
・アクセス:地下鉄(丸ノ内線・大江戸線)本郷三丁目駅下車徒歩5分
・会場へのアクセスは以下をご参照ください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■報告・コメント・討論の時間
・報告者は1回につき2名、途中に休憩をはさんで、それぞれ報告60分、コメンテーターによるコメント10分、フロアからの質問と討論50分を予定しています。

■応募方法
・関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレスの東南アジア学会関東地区担当・宮田敏之まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込みください。

関東例会連絡用アドレス:kanto-reikai☆tufs.ac.jp (☆マークは@に変えてください)

<記載情報>

・氏名と所属
・発表を希望する日を第2希望まで
・報告題目(仮題目可)および報告要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(Windowsノートパソコン、プロジェクター、レーザーポインターのご用意が可能です。その他の機材についてはご相談ください。)

■応募の取り扱い
・報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、報告の日程についてご希望に添えない場合があります。また、要旨については書き直しをお願いする場合もあります。ご了承ください。
・グループによる申請(ミニ・シンポなど)も受け付けていますのでご相談ください。

■報告記録
・関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。
・報告記録は、報告者ご自身でまとめていただくか、あるいは報告者ご自身で報告記録者を選びご依頼いただくようお願いいたします。

■懇親会
・例会終了後、簡単な懇親会を開催いたします。

■関東例会ウェブサイト
・関東例会のお知らせ、予定、報告記録を随時掲載しています。ご活用ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■問い合わせ
・宮田敏之(関東例会担当、東京外国語大学) tmiyata☆tufs.ac.jp
・関東例会委員 kanto-reikai☆tufs.ac.jp(☆マークは@に変えてください)

2017年度第4回関東例会(2018年1月27日)議事録

1月27日に開催されました、2017年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

今回は「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」と題したシンポジウム形式で行いました。
プログラムは以下の通りです。

13:30~13:50 趣旨説明:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)
13:50~14:35 第一報告:西本太(長崎大学熱帯医学グローバルヘルス研究科・客員研究員)
「ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者」
14:35~14:45 質疑応答
14:45~15:00 休憩
15:00~15:45 第二報告:小島敬裕(津田塾大学学芸学部・准教授)
「ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して」
15:45~15:55 質疑応答
15:55~16:10 休憩
16:10~16:30 コメント:下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科・助教)
16:30~17:45 総合討論

(1)シンポジウム企画趣旨説明
報告者:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)

発言1
・プロジェクト全体として「被戦争社会」という概念をつかう意義はなにか。「社会史」でいいのではないか。各地域の共通項を見出せるのか。
(回答)この研究会で議論してきた結果,ミャンマーの戦争とインドシナの冷戦型の戦争とは大きく異なると認識している。「社会史」の中でも,国家建設や市場化などではなく,「戦争」に焦点を当てることに意義がある。
(コメント)「社会史」というより一般的な概念を用いることで,他地域と比較もできるようになるのではないか。

発言2
・研究会として,戦争の規模や実態が異なる中で多地域を比較した結果,見えてきたイメージがあれば知りたい。
(回答)各地域で戦争と地域住民の対応としてどのように整理できるか,については,研究会で議論を行っている最中であり,今後の大きな研究課題である。

(2)第1報告
西本太(長崎大学・熱帯医学グローバルヘルス研究科)
題目:ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者

発言1
・ベトナム語で同じ人にインタビューみたら,ベトナム人としての面が見えてくるかもしれない。彼はどんなアイデンティティをもっているのか?

(回答)奥さんがラオ人,子供もいるし,他のラオ人と同じようにしか見えなかった。詳しくは聞いてみないとわからない。

(3)第2報告
小島敬裕(津田塾大学・学芸学部)
題目:ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して

発言1
・ホールーが,中国に移住することは容易か?
(回答)国境100km以内は移動が自由。村からの許可があれば移住も可能。
・TNLAが求める自治権とはなにか。本来の目的は何か。
(回答)現在のように表面的な「自治権」ではなく、自民族による統治が目的であると主張されている。こうした主張の他に具体的な目的,利益があるかもしれないが多説あり,何が本当かは,わからない。連邦制に向けて今後どうなるか,注目される。

発言2
・ミャンマーにとどまって逃げない人の理由は何か。
(回答)村人は,茶畑を持っている。労働力として,あるいは財産を守るために誰かが残る必要がある。兄弟が交代で村外へ出て行くこともある。
・貧しい人がより徴兵されるのか。
(回答)徴兵はくじ引きで行われるが,裕福な人はお金を出して徴兵を代わってもらう。結果として貧しい人は徴兵を逃れる手段を持たず,徴兵される傾向にあると言える。

発言3
・軍部の下部組織の行動について,ミャンマー政府はどう思っているのか。また,タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げている理由は何か。他地域も同じように麻薬が資金源になっているが,他地域と異なる点は何か
(回答)2016年に新政権が誕生したばかりで, 現状では,政府は国軍に口出しできず,コントロールしきれていない。タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げる理由は,仏教の信仰と民族を守るため,というのが彼らの主張である。海外からの支援が目的かもしれないが,真相は不明である。

(4)コメンテーターによるコメント(抜粋)
下條尚志(静岡県立大学国際関係学研究科・助教)

(瀬戸報告および全体へのコメント)
・本研究は,20世紀後半の大陸部をどう捉えるのかを考察するうえで興味深い。ベトナム南部の村落で研究してきた視点からコメントすると,これまでベトナム戦争は,海外ジャーナリスト,現地エリート,海外在住のベトナム人,カンボジア人,ラオス人,ミャンマー人等によって語られてきたが,文字を残してこなかった人々の視点(村民,少数民族など)が欠けていた。地域住民の語りから戦争を理解することに重要性がある。一方で,大きな歴史と各事例をどのように結びつけるのか,という課題が残る。
・南ベトナムでは,ベトナム戦争以前に,クメール人対ベトナム人の民族対立が先にあった。冷戦的な構図にあてはめることで,元の問題が見えなくなる可能性がないか。
・タイは,ベトナム,ラオス,カンボジアから避難民の集まるところで,ゾミア的な意味合いがあったのではないか。

回答(抜粋)
・ラオスの事例でも,もともとの村の対立構造が戦争時に表面化した場合がある。
・タイは,自国の防衛のために政策的に難民を受け入れたと考えている。

(西本報告へのコメント)
・レーヴィアットムアン氏は,なぜ政治,戦争に参加したのか。
・宣撫工作期・協力を得る時期・徴兵,食糧調達期,それぞれで状況が異なっていたのではないか。
・ラオス王国政府側が,敵方による民族工作と似た政策を打ち出すということはあったか?
・カトゥ族にとってベトナムに協力することによるメリットはあったのか。

回答(抜粋)
・当時の若者は,カオダイにいかず,ベトミンを選択したという主張に,何か特別な意味があったのかもしれない。
・時期の変化とともに,ベトナムによるラオス側への働きかけにも地域差もある。今後整理していきたい。
・ラオス王国政府側も,少数民族に働きかけようとしていたと思う。
・カトゥにとっての協力のメリットについては,今後の研究課題である。

(小島報告へのコメント)
・普通の山地民にとっての国家とは何か。少数民族軍は,少数民族の人々にとって「国家」のような存在なのか。
・山地民は,国民国家成立以前に政治組織を作らなかったのか。
・なぜ山地民が武装化したのか。国民国家に編入される過程で,少数民族の組織化が進んだと理解してよいか?
・1950年代以降に,山地がゾミアでなくなったのか。

回答(抜粋)
・一般の山地民にとって,国家はやはり「ミャンマー」である。彼らは,同じ国家の中で,戦争する意味がわからない,という認識を持っている。
・国民国家成立以前に,山地民タアーン(パラウン)に藩王を頂点とする政治組織があったのは先行研究でも明らかである。ただ,そうした政治組織があったのは、シャン州ナムサンを中心とする地域のみである。
・少数民族地域で藩王が退位させられ,権力を失い国家に取って代わられる。そうした過程で,自治権を求める少数民族の武装組織ができあがった。
・1950年代以降も,山地で国家の統治が及んでいない地域もあるが,実態は不明である。

(文責:瀬戸裕之)

2017年度第4回関東例会(1月27日)のご案内


2017年度第4回関東例会を下記の通り、開催いたします。

今回は「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」と題した
シンポジウム形式で行います。詳細は以下をご参照ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

日時:2018年1月27日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

シンポジウム
「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」

プログラム
13:30~13:50 趣旨説明:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)
13:50~14:35 第一報告:西本太(長崎大学熱帯医学グローバルヘルス研究科・客員研究員)
「ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者」
14:35~14:45 質疑応答
14:45~15:00 休憩
15:00~15:45 第二報告:小島敬裕(津田塾大学学芸学部・准教授)
「ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して」
15:45~15:55 質疑応答
15:55~16:10 休憩
16:10~16:30 コメント:下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科・助教)
16:30~17:45 総合討論

要旨を以下に掲載させていただきます。
-------------------------
「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」

企画の趣旨:
現在,東南アジア大陸部は,1980年代以降の和平の進展と市場経済化の導入,1990年代以降のASEAN地域統合の展開を受けて,人々の生活や社会が大きく変化を遂げつつあります。しかし,ミャンマーなどでは独立後間もなくの時期から少数民族地域において紛争が継続し,インドシナ地域では1960年代,1970年代から1990年代前半まで,ベトナム戦争・カンボジア紛争をはじめとする国際紛争に巻き込まれるなど,長期に渡って戦争の被害や影響を受けた地域であるといえます。さらに,地域住民にとっては,戦火からの避難,生活の破壊や社会の分断,住民構成の変化などが生じ,その後の人々の生業や地域の社会形成にも大きな影響を与えたのではないかと推測されます。
「東南アジア大陸部の被戦争社会の変容とレジリエンス」研究会は,東南アジア大陸部を,戦争によって社会形成が大きな影響を被った地域(=被戦争社会)として位置付け,戦争下での地域住民の生存,戦後の生活再建などを考察することにより,戦争と地域住民との間のかかわりと,戦争が住民の生活・生業など社会変化に与えた影響を明らかにすることを目的とした研究を行っています。本研究の視点の特徴は,第1に,国レベルより下の地域・村レベルでみたときに,戦争が地域の人々にどのような影響を与えたのかを考察し,第2に,戦争中・戦争直後の人々の被害だけでなく,その後の生活・生業変化を考察することにより,戦争の影響を受けた人々の生存戦略が社会形成に与えた影響について再考することを課題としている点です。
本日の報告では,冷戦の影響を受けて激しい戦争が行われたラオス南部の事例と,低強度であるが長期にわたって紛争が続けられてきたミャンマー少数民族居住地の事例を報告し,戦争と人々の生存戦略が地域に与えた影響について議論したいと考えています。

(1)西本太(長崎大学・熱帯医学グローバルヘルス研究科)
発表題目:ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者

要旨:
ラオス南部とベトナム中部にまたがる国境周辺の山地では,第二次世界大戦の終結直後から,インドシナの共産主義勢力による拠点化が始まった。その拠点化が後のホーチミントレイルの基盤となった。当時の山地が国家権力の空白地帯だったわけではなく,統治システムが曲りなりにも根を下ろしていたため,共産主義側兵士の浸透は一筋縄では行かなかった。また,平地からきた共産主義側兵士にすべての住民が協力したわけではなく,むしろ米軍によるホーチミントレイル爆撃に一方的に巻き込まれ被害を被っただけの住民も多数あった。それでも,山地社会の協力者を獲得したことは,国民国家建設の大義にとって重要だった。この発表では,共産主義勢力と山地住民の相互関係に着目し,共産主義勢力が山地社会にどのように浸透をはかり,また一部の住民がどのように協力していったかを,当事者の回想から明らかにする。

(2)小島敬裕(津田塾大学・学芸学部)
報告題目:ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容—少数民族パラウンの生存の技法に注目して

要旨:
ミャンマーでは独立以降,国軍と少数民族軍の間で戦闘が断続的に発生してきた。本発表では,現在まで戦争が継続する中国国境周辺の少数民族パラウンとシャンに注目し,村人たちの戦争からの生存の技法と,それが地域社会に与える影響を明らかにする。調査は,2015年から2017年にかけて,シャン州,カチン州を中心に行った。
調査の結果,明らかになったのは,農村部の村人にとって自民族軍からの徴税・徴兵の被害が深刻だということである。中でも民族州内のマイノリティーは,国軍や州内の多数派民族軍からも含む多重の抑圧を受けている。これに対して村人たちは,出家,若年結婚,戸数詐称など様々な技法を用いて生存を図る。また他地域や都市への移住も頻繁に起こるが,その際には親族や知人のネットワークをたどる他,民族内での相互扶助も行われる。移住先は,開発が進む中国雲南省にも拡散しており,これらの活動が国境周辺地域に変容をもたらす要因ともなっていることを示す。

コメンテーター:
下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科)

2017年度第3回関東例会(2017年11月25日)議事録

11月25日に開催されました、2017年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告
報告者:小田なら氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員)
題目:「北ベトナム(1954~1975)の医療制度整備における「ベトナム伝統医学」の創出」
コメンテータ:板垣明美氏(横浜市立大学・准教授)

板垣明美先生のコメント(抜粋)
・植物資源・技術、政治・制度、実践が相互作用し、「伝統医学」が創出されたことが資料をもとに丁寧に検討されていた。
・社に診療所が建設され、薬草園が作られる様子が数値で見えたが、その信憑性は別の問題。当時の実践は、現在どのように活用されているのか。
・西洋医療、北薬、南薬、鍼灸、マッサージなどが集積した制度的東医はベトナムに特徴的。
・病院での治療例の数値も重要な資料だが、評価の項目に、悪化・変化なしという項目がない点をどう理解すべきか。病気の種類別の表があれば、治療面での特徴が引き出せるだろう。
・中国系ベトナム人と西洋医のベトナム人の調和は難しかったと推測できる。診断法の違いから、中国系東医にとって西洋医が南薬北薬を使用するのは複雑な気持ちだっただろう。
・ベトナムの伝統医療が科学化(科学的な装いの試み)しつつ東医に集積した例は、日本などと比較研究の可能性がある。
・少数民族の貢献は今後の課題。
回答(抜粋)
・現在、社の診療所・薬草園での南薬栽培は盛んとは言えない。制度化された「伝統医学」は、病院の伝統医学科・伝統医学専門病院で主に実践されている。
・病院での実践についての数値はそのまま事実と判断できないが、少なくとも、総合病院の伝統医学科での治療を試みていたことがいえる。今後、疾病別に表を作成し、傾向を読み取りたい。

発言1
1)少数民族の医療は制度化されたのか。
2)コメント:阮朝期1820年頃以降の資料には、交易品について南貨・北貨・西貨という区分が見られる。この頃から南・北・西の三分法の世界認識が形成されたのでは。
回答1
1)北ベトナム時代には、保健省が北部少数民族に伝わる薬草の治療法を収集していた。南北統一後に、「ベトナム民族」の「民族医学」として医療制度内に包摂されるようになった。

発言2
中国では中華人民共和国期から気功が中国医学の柱となっているが、ベトナムではどうか。
回答2
気功や太極拳の呼吸法を応用した治療が存在し、伝統医療の一つとされる。しかし、大部分が薬の治療である。

発言3
1)北ベトナム時代に薬が不足した時期、ソ連・中国からの援助はなかったのか。
2)伝統医学の「科学化」とは、どのような方向を指すのか。通常考えられる西洋化ではないなら、中国化という要素も考えられるのか。
回答3
1)伝統医学に関しては中国からの援助があったはずだ。しかし、中国国内でも中国医学を制度化する時期だったため、国外へ薬を送るほどの大規模な生産体制はなかったと考えられる。
2)西洋と中国双方の影響下からの脱出を図りながら、当時の科学技術によって効能が証明できる治療を蓄積していく過程と考えている。

発言4
1)伝統医学をめぐる制度整備により、結局何が起きたのか。
2)発表タイトルの「創出」は、何を指すのか。
回答4
1)「迷信・異端」とされるものが排除され、保健省をはじめとする国家が規定する伝統が規定されたといえる。
2)伝統が創出された過程の動態(誰が何を伝統とし、いかなる社会背景によって変化するのか)ということを示したかった。

発言5
制度内の「伝統医学」から、ローカルな実践は排除されたのか。また、それは制度化された医療と無関係に残ってきたのか。
回答5
「迷信・異端」は排除されたが、薬草治療に関しては、ローカルな実践から「科学的な」知見を取り入れようとしていた。一方、家庭内などでの薬草治療は、国家が実践を管理することも、積極的に後押しすることもなかった。

発言6
(コメント)「科学化」は、科学によって証明され得るか否かという基準ではなく、イメージとしての科学と考えるのが妥当ではないか。


第2報告
報告者:吉川和希氏(大阪大学文学研究科博士後期課程)
題目:「十八世紀のベトナム黎鄭政権と北部山地―諒山地域の在地首長の動向に関する分析を中心に―」
コメンテーター:武内房司氏(学習院大学・教授)

●武内房司先生のコメント
・発表者の使用史料は禄平州の韋氏が黎鄭政権との関係を構築するために作成した行政文書であり、他首長の動向も考察する必要がある。そこで発表者が取り上げた首長と異なる動きを知る手掛かりとして、『清実録』中の藩臣纉基(韋福琯)の反乱に関する記事を紹介する。今後中国側の史料とベトナム側の史料を突き合わせていく必要がある。
・西北地域では流入する華人に対して在地首長が積極的に対応していたが、黎鄭政権に与した在地首長のその後の動向や在地社会の変容の分析は可能か。
・一方では黎鄭政権に与する首長がおり、他方では黎鄭政権に対抗できる勢力との関係を維持することで地域のヘゲモニーを目指す首長がいる。複数のポリティカルセンターが存在する時に状況を見ながら対応する柔軟な戦略は、西北地域のタイ族首長と同様ではないか。

●発表者の回答
・藩臣纉基については今後さらに検討していく必要。
・移民の流入による在地社会への影響について、19世紀初頭に作成された地簿にはほとんど藩臣が出現しないため、大量の移民が流入すると藩臣の経済基盤が動揺したのではないかと推測している。

●発言者1
(質問)
・藩臣というと自立的なイメージがあったが、地方官は藩臣に対し強い力を持っていたと見るべきか。
・黎朝末期に諒山地域の藩臣はどのように対応したのか。
(回答)
・諒山地域の藩臣が王朝権力からの圧力を受けており、従来の在地首長イメージとは異なることには同意。ただどこまで一般化できるかは難しい。東北地域の藩臣には当てはまるかもしれない。
・おそらく諒山地域の首長は黎朝を支持したと思われる。

●発言者2
(質問)
・在地首長が中国と関係を持つことはなかったのか。
・清朝はこの地域の情報を把握していたのか。
(回答)
・黎朝に帰属している集団が清朝に帰順しようとする事例があったかどうか不明だが、可能性としては考えられる。
・清朝から黎朝に大量の華人が流入していた時期であり、かつ黎朝における動乱の情報も清朝の地方官に伝わっていたため、その影響が及ばないように通交を管理しようとしていた。

●発言者3
(質問)
・藩臣の財政基盤は何か。地理的には交易があると思うが、農業もあるのか。
(回答)
・農耕と交易の双方がある。

●発言者4
(質問)
・諒山地域に鉱山はあったのか。
(回答)
・鉱山はあったが西北地域と比べると小規模だと思われる。

●発言者5
(質問)
・ベトナム国内の研究状況はどうか。
(回答)
・独立後まもない時期から、山岳地帯の少数民族のベトナム国家への取り込みという視点から調査がおこなわれてきた。現在も在地民の主体性や生存戦略を明らかにするという視座は弱い。

●発言者6
(質問)
・頻発する反乱の背景に王朝権力の締め付け以外の要素はあるか。
・兵と民の管轄が頻繁に承認されていた背景は何か。
・率礼社韋氏の管轄の削減の話があったが、その背景と結末はどうか。
(回答)
・大量の移民が流入する一方諒山地域には大規模な鉱山がなく、限られた資源をめぐる利害対立が反乱につながった可能性はある。
・動乱の発生により藩臣の立場も不安定となっており、黎鄭政権も税収確保のため藩臣の管轄を頻繁に確認していたと思われる。
・従来率礼社韋氏が管轄していた社を「内鎮」に組み込むということだが、「内鎮」が「諒山鎮官が直接管轄する地域」という解釈で間違っていなければ、諒山鎮官がより確実にそれらの各社からの税収を確保しようとしたのかもしれない。事件の結末は史料には残っていないが、おそらく管轄が減少したままだったのではないか。

●発言者7
(質問)
・『清実録』に韋福琯が殺された後に族人がまだ禄平州を管理しているという記述はあるが、このようなことはあり得たのか。
(回答)
・直接的な答えではないが、韋福某は屈舎社韋氏かもしれず、もしそうだとすれば屈舎社韋氏の内部で利害関係の対立があったかもしれない。


2017年度第2回関東例会(2017年10月28日)議事録

2017年10月28日(土)に開催されました、2017年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:石橋弘之(早稲田大学人間総合研究センター・招聘研究員)
コメンテーター:丸井雅子(上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科・教授)
報告題目「カンボジアにおける交易品の産地形成-カルダモン産地の開拓史再考」


コメンテーターのコメント
 本報告は博士論文の一部である。歴史学の方法で近現代の資料を検討し、フィールドワークで現在の人の記憶、慣習を広く検討した。堅実な調査と分析による実証的研究である。カルダモン産地は流動的な地域であり、様々な状況で、広くなったり、狭くなったりする。地域の総合的理解を目指して様々なトピックを展開した。時系列に沿った論述から全体史を構成し、個別の事象の深層を掘り下げた。
 北川香子氏は、カルダモン山脈西側、パイリンの興隆史の研究で、その独自の自治体制や、単純に中央と周縁の対立に還元できない視点を提示した。この視点と本報告の視点は通じる。
 カルダモンは、西側に向かってはパイリンを経由しタイと繋がり域外の需要に応える商品であり、一方で南に向かってはカンボジア王権への貢納品にもされた。カルダモン産地は、地域を跨ぐ多方向のネットワークをもっていた。本報告は、流通や消費を望んだ王権の視点とは異なり、生産地に立脚した成果を提示した。
 今後は多角的な情報から中心と周縁の関係を再考する研究が求められる。

報告者の回答
 博士論文の補足説明。カンボジア研究は、中央部を対象とする研究と、山岳森林地域を対象とする研究は別々に進められてきた傾向があり、双方の地域の関係は、中心と周縁の二項対立や政治的対立に還元されてきた。博士論文では、山岳森林地域を対象としつつも、中央部の研究も参照して、人々が地域間を移動し交流してきた歴史を描いた。

質疑応答
Q1-1.植民地統治下の村長や区長の行政職者は、中央から派遣された人か、地元の人か?
Q1-2. カルダモン産地の人と、植民地行政との間で、どのように通訳を行ったのか?
A1-1. 植民地期は、地元の人が主に担当した。独立後は中央から派遣された人も担当した。
A1-2.フランス人民族学者の調査時は、地元の言葉からクメール語へ翻訳した。その上で、クメール語からフランス語へ翻訳した。地元の人はタイ語も話した。

Q2-1. 現地の人が語った「私たちの領土」は、何を意味するのか?
Q2-2. 今後は18世紀以降を対象としたリードの研究に位置づける展開を考えているのか?
A2-1.「領土」が何を意味するかは未確認。自分たちが住む身近な地域のことと思われる。
A2-2. 本研究を、東南アジアの歴史研究の議論にどう位置づけるかは、今後の課題。

Q 3-1. カルダモンの中国語表記は?
Q 3-2. 伝承の為政者は、王権そのものを指すのか?
A3-1. 『真臘風土記』によると「荳蔲」。『考証 真臘風土記』によると「白豆蔲」。
A 3-2. 王権そのものなのか、代理人なのかは、さらに検討が必要。

Q4.開拓の伝承は、植民地支配の言説から影響を受けていると論じたいのか?
A.4 事実レベルと解釈レベルを区別する必要がある。事実レベルでは、さらに検証が必要。解釈レベルでは、植民地史観に基づく解釈を再考して、地域の歴史を理解しようとした。

Q5-1. 3つの地域を調査地とした理由は?
Q5-2. 行政の関与の地域差と、カルダモン生産量の規模は関連するか?
A5-1. 開拓者は古代アンコール地域から来たと解釈された伝承の出所となったTT区は、その解釈の妥当性を確かめる対象とした。その解釈を他地域にも一般化しうるのかを確かめる際に、カルダモンの名産地OS区、カルダモンの情報が少ないRC区も対象とした。
A5-2. 行政と旧体制の自治が併存したOS区は、相対的に、生産量は多い。

Q6 1830年代、カルダモンは、産地からどこへ流通したのか?
A6.タイのチャンタブリーへ流通するルートがあった。
Q7.メコン川を経由したカルダモンの流通は?
A7. 二次資料からは確認している。

Q8. カルダモンは塗り薬の原料か?現地の人の消費の仕方は?どんな漢方薬に使った?
A8.タイガーバームの類似品の原料になると聞く。食べ方は、果実を、煎じて飲む。葉や茎を酒のつまみや、スープの材料にする。中国では、広東省などで蒸留、瓶詰にされた。

Q9. 栽培技術の向上はあったのか?狩猟採集に適した栽培方法はあったのか?
Q9. 栽培技術の向上の有無は未確認。生育過程を見張るなど、最小限の手入れをした。

Q10. 「カルダモン山脈」の地名は、どのように名づけられたのか?もともとカルダモンが生育した地域に、何らかの価値を求める立場が、地名を与えたのか?
A10. 19世紀前半から20世紀中頃までの「カルダモン山脈」の地名が指す地理範囲の変遷を文書資料から整理すると、その地理範囲は、徐々に広がっていた。これは植民地期にカルダモンに商品価値が見出され、産地が広がった過程とも対応する。

Q11 解禁日は、カルダモンの植物の性質と、指導者の地位、どちらを重視して決めたのか?
A11両方。雨季に果実が成熟する時期に解禁日を定めた。複数のカルダモンの森が隣接する場合は、より早く果実が熟す森の持主は、その他の持主よりも社会的地位は高かった。

(文責:石橋弘之)


第2報告(15:45~17:45)
報告者:工藤裕子(立教大学アジア地域研究所 研究員)
題目:「オランダ領東インドへの日本製品輸出と華人流通網-20世紀初頭のジャワ市場におけるマッチを中心にー」
コメンテーター:陳来幸(兵庫県立大学経済学部 教授)


コメンテーターのコメント
 アジア各地では20世紀初頭に商会(中華総商会)の発足が広まったが、オランダ領東インドの華人は国籍問題や中華ナショナリズムなどを背景にいち早く反応し、域内華人の連携を推し進めた。一方、日本の中華総商会の有力華商のうち梅県からバタヴィアに移り、神戸に人材を派遣した複数の一族の存在が近年明らかにされてきた。本報告で挙げられたバタヴィアのマッチ貿易者はまさにこれらの一族であり、神戸とバタヴィアの結びつきを商業活動の側面から考察した点が評価できる。
質問
・報告者がこれまで研究していたスマランの福建系と、広東・客家系華人が活躍したバタヴィアでは背景がどのように異なり、またスラバヤはどう位置づけられるのか。日本マッチの中心的な市場であったスマランでは、どのようなルートでマッチが流通したのか。
・ジャワの市場はなぜ、スウェーデン製と日本製の分水嶺となったのか。マレー半島や海峡植民地との違いは植民地宗主国の政策によるものか。

報告者からの回答
 スマランでは福建系のアヘン専売請負商が貿易商へと転換して勢力を温存し、砂糖などの産物取引と併せてマッチも扱った。一方、バタヴィアでは旧来の福建系は私領地取得を通じて地主化し、客家系華人が貿易や流通に参入する余地が大きかったといえる。バタヴィアやスラバヤはヨーロッパ系商社の力も強く、スマランに比べて華商による貿易量は少ない。日本の商社は中部ジャワの流通を握るこれら福建系との提携を模索し、台湾籍民との関係もこの流れで捉えられる。このように経済面からみると、バタヴィアとスラバヤの客家系華人は活動の連動性があるのに対して、スマランは独自の商圏が存在していたと考えている。
 ジャワの市場が分水嶺になった理由は、輸送コストを含めたスウェーデン製と日本製の価格が僅差だったためであり、日本製はジャワとインド以西では価格競争力がなかった。植民地統治上の制度上の違いについては、ジャワ以外の地域について今後さらに調べる必要がある。

その他のコメンテーターからの質問
Q:第一次世界大戦期の前半に日本製マッチが減っているが、なぜなのか?
A:日本製が急増したのは、ヨーロッパとの航路が絶たれた1917年以降であり、それ以前の減少は原料調達面などの国内の要因と考えられる。

Q:ニーロップ社による商標登録について、日本で登録後にオランダ領東インドでも登録しなければなかったのか?
A:日本では登録された商標のみ輸出が認められたが、輸出先には効力は及ばず、改めて現地で商標登録をする必要があった。同社は、華商との対抗上、同一の商標を先願することで華商による輸入の排除を試み、華商側もそれまでは商標の権利に関する意識は低かった。

Q:スウェーデンの商標が1910年頃からローカルを意識し始めたのは、日本製との競合によるものなのか。
A:日本も同じ時期にローカルを意識した商標を投入し始めている。どちらが先か分からない。1910年頃は両者の競合が激しくなった時期であり、互いの人気商標を剽窃する行為もみられた。

その他の発言者
Q:スウェーデン製マッチの流通は誰が担っていたのか。
A:スウェーデン製はほぼ1社が製造を独占しており、英蘭系の商社数社に限定して販売代理権を与えていた。しかし、輸入後は華商の卸売業者、小売業者に依存していた。

Q:ライターはそう簡単にはマッチに代わらないのではないか。どれほど普及していたのか。また、ジャワ以外でも日本製マッチは衰退したのか。
A:ライターは日本製マッチ衰退のひとつの要因である。当初はドイツからの輸入品だったが、1910年代半ばから現地生産に移行し、地場産業として発展した。かなり安価に普及できたのではないかと推定している。ジャワ以外でも日本製マッチは衰退しており、1920年代半ば以降に日本製造業者がスウェーデン資本の傘下に入り、競合地への輸出が阻止されたことが大きい。

Q:インド向け日本製タイルの輸出でも、デザインの模倣などがみられる。実際にマッチ商標のデザインを企画していたのは誰なのか。
A:日本での初期の段階では、中国での市場を視野に華商が製造業者に対してデザインを指定していた。ジャワの独自商標の場合は、製造業者側から提案したものを販売者が選択した、または市場をよく知る販売者がデザインを指定した可能性がある。ワヤンの図柄などは、茶や綿布などの多様な商品にも利用されている。

Q:商標の印刷はどこで行われたのか。マッチ自体の製造や箱詰めなども日本で行われてから輸出されたのか。
A:印刷は日本で行われていた。各種報告でラベルの箱貼りの状態の悪さや本数のばらつきなども指摘されており、すべて完成した状態でジャワに輸入されていた。

Q:日本製とスウェーデン製の価格差はどのくらいだったのか。
A:価格差はわずかであったが、1箱当たりの本数が異なり、スウェーデン製は軸木が太く本数が少なかった。日本製は細軸のために本数が多いが、折れやすいなどの問題もあり、消費者も随時使い分けていた。スウェーデン製マッチが価格を下げると即座に影響が出たといわれる。

Q:日本製造業者の進出に対して華商からの反応はあったのか。
A:日本製マッチの最盛期となった第一次世界大戦後期以降、商標から「Made in Japan」の表記が減少する。これはスウェーデン製との類似性を打ち出すことや、日貨排斥を意識したものと考えられ、流通を担う華商が売り易い商品を投入する意向が日本側にもあったとみられる。

Q:神戸や香港に拠点を持っていた広東・客家系華人は、ジャワからは対価として何を輸出していたのか。
A:元々は中国貿易を行っており、生薬や香木などを輸出していた。送金網を張り巡らすことによって、ジャワと中国、香港、日本の間で決済網が構築されていたと考えられる。具体的な商品の循環については、今後さらに調査を進めたい。

(文責:工藤裕子)


2017年度第3回関東例会(11月25日)のご案内

11月25日(土)に、関東例会(11月)を開催いたします。
皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2017年11月25日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

第1報告(13:30~15:30)
報告者:小田なら氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員)
題目:「北ベトナム(1954~1975)の医療制度整備における「ベトナム伝統医学」の創出」
コメンテータ:板垣明美氏(横浜市立大学・准教授)

報告要旨:
 本報告は、南北分断期のベトナム民主共和国(北ベトナム)で保健省が中心となって医療制度を整備していく過程で、伝統医学がどのように公的に定義され、制度内に位置づけられるようになったかを跡づけ、その利用を推進した理由を明らかにする。
 具体的には第一に、治療者の資格と組織が整備され、「科学的」な伝統医学を定義していった背景を明らかにする。第二に、医療現場ではベトナムの薬「南薬」のみならず、中国由来の「北薬」も伝統薬として利用されていた点、同時に鍼灸治療も積極的に用いられていた点とその理由を示す。伝統医学の内実は一貫したものではなく、その時々の実践によって変化していたのであった。これより、ホー・チ・ミンをはじめとした「上からの」改革によってベトナムの伝統医学が公的医療制度内に導入された、というイデオロギー先行の従来の語りに対し、公文書と病院での診療記録などの一次資料を用いて批判・検討を加えたい。


第2報告(15:45~17:45)
報告者:吉川和希氏(大阪大学文学研究科・博士後期課程)
題目:「十八世紀のベトナム黎鄭政権と北部山地―諒山地域の在地首長の動向に関する分析を中心に―」
コメンテータ:武内房司氏(学習院大学・教授)

報告要旨:
 18世紀は東南アジアの「華人の世紀」に当たり、北部ベトナムにも中国内陸地域から大量の華人が陸路で流入し、北部の山地社会に多大な影響を及ぼしたことが先学により指摘されている。一方で18世紀半ばには、流民の大量発生を背景に北部ベトナム各地で動乱が発生したが、それは山岳地帯も同様であった。ただしかかる時代における各地域の実情を多面的に描き出す作業は近年ようやく緒についたばかりであり、北部山地の在地首長たちの対応についても、史料の制約もありこれまで殆ど考察されてこなかった。そこで本発表では、北部山地の中でも諒山地域(現ランソン省)に焦点を当て、現地での史料調査を通して収集した首長一族の家譜や行政文書などを分析することで彼らの動向を考察する。そして、動乱に巻き込まれる中で不安定な立場に置かれた彼らが既得権益の保証のためにベトナム王朝との結びつきを強めていったことを明らかにする。
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