2014年度第5回(11月)関東例会の報告

2014年11月22日に開催されました関東例会での報告の議事録を掲載いたします。第二報告の議事録は近日中に掲載いたしますので、もうしばらくお待ちください。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:エリザベス・エスター・フィブラ・シマルマタ
(東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程 言語文化専攻)
コメンテーター:原真由子先生(大阪大学 言語文化研究科 言語社会専攻 准教授)
報告題目:「現代ジャワ若者におけるジャワ語の敬語使用の状況―ジョグジャカルタ特別州の高校生による敬語運用の実態調査―」

【コメントと質問(原真由子先生)】
 ジャワ語と同じく、敬語体系をもつ地方語であるバリ語を対象にしている研究者として重要な問題となるのは、バリ語とインドネシア語の二言語話者が、どのような言語使用を行っているのかという点であり、本報告ではその点について指摘している。特に敬語については、バリ語とインドネシア語のコード混在という視点から考察している。多言語社会インドネシアでは、地方語とインドネシア語の二言語使用は日常的に見られる現象で、二言語話者がほとんど大多数を占めている状態である。ただし、その現象は一様ではなく、民族、文化、言語において均質性が高く、比較的話者が多い一つの地方語が話されている地域もあれば、多数の民族と言語が混在している地域もある。ジャワやバリは前者に該当し、地方政府は一つの地方語に集中して政策を施すことができる。また、ジャワとバリの共通点として、敬語体系があることと、さらに独自の文字をもち、それに裏付けられた古典文学や芸術があることを指摘できる。そのような意味で、ジャワ敬語の現状に関する今回の報告は、インドネシア言語社会の一つの大きなタイプであり、民族と言語、地方政府がほぼ重なっている地域を理解するために役立つ。類似点の多いバリ語研究にとっても示唆が与えられる。高校生の敬語使用の実態を都市部と農村部800人分収集した点は、非常に評価できる。また、調査対象にジャワ語教員、高校教員も含めることで、規範意識、大人の実態、若者の実態を知ることができる。
 [質問]都市部居住者の高校生がンゴコ体を使用する傾向とクロモ体を使用する際に不正解率が高くなるという傾向をどう解釈するのか。単に敬語使用が間違っているのか、それとも規範自体が変化したのか。Brown and Gilmanによる、Power and Solidarityの理論が適用できるのではないか(Powerよりもsolidarityを重視している都市部の高校生が見られる(年齢<親密度))。言語以外の条件が変化しているのではないか。本来の規範的な敬語は、何を基準に決めるのか(年齢や職業か)。敬語は言語外の条件に基づくため、社会変化や親密さ等規範が変化していると見ることはできないか。

【コメントと質問に対する回答】
 結果をみると、ジャワ語教員(4人)の規範的な表現が一致したため、本来の規範的な敬語使用は変わらないといえるだろう。高校生は70歳近くの大先生に対してジャワ語で話す際には、最も敬意を表わす丁寧なジャワ敬語を使用するのが規範的だと考えている。しかし、相手の年齢と社会的地位が自分より遥かに上であるにもかかわらず、都市部の高校生は敬意を表す表現を用いず丁寧ではないンゴコ体をよく使う。その理由は、ジャワ敬語の使い方が理解できないというのがほとんどである。都市部の高校生の大多数は家や近所で会話をする際に、ンゴコ体とインドネシア語しか使わず、小学校でジャワ敬語を学んだとしても、日常生活では使わないため、ジャワ敬語の使用方法が分からない(一部は、大先生とより近い距離を求め、ンゴコ体を使用するというケースも見られた)。規範的な敬語が変化したというよりも、クロモ体が使えなくなってきている中でンゴコ体のみの使用に変化していると指摘できる。この点に関しては、Brown and GilmanによるPower and Solidarityにも関係があるといえるだろう。かつては、ンゴコ体は敬意を表さない、丁寧ではないと指摘されてきたがむしろ、ンゴコ体を使うことによってジャワ人としてのsolidarityを示そうとしているのではないかと指摘できるこれは、もちろん、社会変化に繋がりがあるといえるだろう。一方、農村部の高校生の間では、尊敬用語は規範的な敬語がある程度保たれているが、謙譲用語の表現は、クロモ体からマディオ体に変化している。つまり、彼らは丁寧さを大事にしているものの敬意の表わし方はクロモ体を使用するほどではないと認識する傾向があって、丁寧な表現の枠内で敬意度レベルの変化が見られる。

【質疑応答と指摘など】
指摘(加藤先生):かつては、ジャワ社会の中心クラトン(王宮)が都市にあって、ジャワ敬語の使用を含め都市こそがジャワ的文化の中心であり、農村部に住んでいる農民は敬語が話せず、ンゴコ体を使っていたと聞いたことある。今はそれが逆転してしまい、都市は国民文化の発信地として王宮の文化、踊り等ジャワ的文化があったとしても、言語面では中心性を失いつつあるという点に関心をもった。
質問1:資料の中で、高校生がよく使う表現の、1位から3位までの回答率を足したら100%を超えるのはなぜか。
回答1:複数回答可能なため。
質問2:尊敬用語に関しては、農村部(約8割)と都市部(約5割)の高校生が1位に選んだ表現は規範的な敬語だった。一方、謙譲用語では、両方とも規範的な敬語が理解できず、農村部の高校生が選んだ規範的な敬語の回答率が3割以下、都市部では間違っている表現が1位に選ばれている。現代ジャワ若者の敬語表現の使用が非常に良くないと考えても良いか。
回答2:現代のジャワの若者が敬語表現を使用できないというよりも、敬語使用の現状において、規範的な敬語使用に対する認識が変化してきていることを指摘したい。調査結果からは、敬語使用に対する認識が低く、前述のようにジャワ語を使用する際には、Powerよりも、ジャワジャワ人としてのsolidarityのほうが認識されている。良いかどうかの価値判断はともかく、現代の実態として指摘したい。
質問3:報告者が認識した変化というのはいつから始まったか。
回答3:報告資料でも触れたが、1930年に既にジャワ敬語の複雑さが認識され、1980年代のスハルト政権時代になると、Pudjosoedarmoが述べたように若者の間でジャワの敬語使用のこだわりがなくなり、さらに公用語と教育語のインドネシア語への使用が増え、ジャワ敬語使用の変化が見えるようになってきている。報告者自身スンダ地域に住んでいたが、1990年代の大学生の頃には、民族語よりもインドネシア語や通常語のスンダ語と、そのコード混在の言語などが常に使われていたことから、民族語使用が徐々に変化してきたことを認識してきた)。
質問4:量的調査も良いが、質的調査は行っても良いのではないか。
回答4:その通りである。今回の量的調査は、前回2回行った質的調査の結果に基づいて行った調査である。現地調査を行う際、アンケートのほかに、インタビューやロールプレーからもデータを収集して分析した。その結果は既に修士論文内で言及した。今回の調査は、前回の量的、質的調査を分析した結果をさらに分析するために800人の協力者に依頼して行った。
質問5:日本語では二人称の使用が難しく、「あなた」や「君(きみ)」などは日常的にはあまり言わない。それに対し、インドネシア語ではBapak(年上の男性の呼名・お父さん)、Ibu(年上の女性の呼名・お母さん)のような二人称があって非常に便利である。最近マレーシアの大学に行ったら、若者の間では「あなた」の二人称は英語の「You」で、自分を指す際に「I」を使用する傾向が見られたが、インドネシアではそのような傾向があるか。
回答5:英語の「You」と「I」を使用する傾向はないが、若者の間では若者の特有のことばがある。但し、マレーシアと同様で、このようなことばは丁寧ではなく、年上に向かって使用すると失礼になるため、使用には注意が必要である。ジャカルタのような大都市では最近、呼名は英語のように、相手の名前を呼ぶケースが時折見られるが、大多数は年上の人に対しては未だにBapakやIbuを使用する。

(文責:東京外国語大学大学院 エリザベス・エスター)

2014年度第4回(10月)の関東例会の報告

2014年10月25日(土)に開催されました2014年度第4回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:遠藤 正之(立教大学アジア地域研究所・研究員)
コメンテーター:北川香子先生(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

【コメント(北川香子氏)】
 従来の研究では、1658年反乱以降のカンボジアは、ベトナムとシャムの干渉が強まるなかで王権が弱体化する衰退期とみなされていた。しかし、上記の説は19世紀に編纂された『カンボジア王朝年代記』を史料としており、本報告が用いている17世紀オランダ語史料のほうが史料の信頼性は高い。その意味において、本報告の内容は、従来のカンボジア史研究を大きく書き換える可能性がある。
 その一方で、次のような疑問点も存在する。報告者は1658年反乱の目的を王権に近づいたマレー人の排除としている。しかし、同反乱で王位に就いた新国王が後に暗殺される事件に関して、年代記はマレー人が、フランス語史料は華人がそれぞれ関与していたと記述しており、複数の商業勢力が王権に大きく関わっていたことが明らかになっておる。この事実から考えると、1658年反乱についても、商業集団に王権が近づくという構図で捉えたほうが妥当ではないか。また、同反乱において反乱軍が広南阮氏の援助を仲介したとされるベトナム人王妃の存在をどう考えるのか。さらに、当時の交易におけるメコン川ルートの重要性については、カンボジアだけでなくラオスも含めて考えるべきなのではないか。これらについても、明確にする必要がある。

【回答】
 本報告では、王権とマレー人との関係について単純化してしまった面があるのは否めない。コメンテーターが指摘する商人集団に王権が近づくという構図は、まさしくその通りである。
 年代記やフランス語史料で存在が指摘されているベトナム人王妃については、オランダ語史料ではこのような書き方ではなく、反乱を起こした人物であるナック・ムントンの母と記述されている。このため、この人物について検討する際には、こうした各史料における記述の違いを考慮する必要がある。
 メコン川ルートの重要性については、コメンテーターが指摘する通りである。当時ラオスからの交易は、森林生産物をはじめとして非常に重要なものとなってあり、ラオス・カンボジア交易圏で考えるのが妥当である。但し、両地域の間にはコーンの滝が存在しており、当時の交易圏が同地で分かれていたのか否かも合わせて検討する必要がある。

【質疑応答】
 Q:1658年の広南阮氏による介入や、広南阮氏軍によるカンボジアのオランダ商館の略奪および破壊について言及している先行研究はあるか。
 A:ブッフによる研究がある。
 Q:広南阮氏がカンボジアに介入した意図はどのようなものであったか。広南阮氏はこれとほぼ同じ時期に、タイのナコンパトムに対しても強い関心を持っていた。このこととカンボジア介入との関係はあるか。
 A:後者について、両者の関係があったとすれば、その背景にはポルトガル人の存在があったのではないか。1658年の反乱に関する記述では、ナック・ムントン側は国王側にはない火器を保有しているとの記述があり、前者がポルトガル人と関係を持っていた可能性がある。
 Q:「第二次条約」締結のきっかけとなった1664年にマレー人のインチェ・アッサンが独断で出したオランダ東インド会社との関係再構築を求める内容の書簡を会社が受け入れたのはなぜか。1657年に当時のマレー人有力者インチェ・アッサムによるラオス交易独占で被った不利益の影響を、会社は考えなかったのか。
 A:1663年から1664年にかけてオランダ東インド会社とアユタヤとの関係が悪化していたため、会社はアユタヤとの交易がうまくいかなかったときのいわば保険としてカンボジアとの関係再構築を考えたのではないか。1657年のケースはたまたま起こったもので、会社にとっては後まで影響を残すものではなかったと考えられる。
 Q:17世紀のカンボジア王権におけるマレー人の位置づけどういうものだったのか。王の臣民だったのか、それとも外国人だったのか。
 A:オランダ史料の記述を見る限りでは、王の臣民だったと考えて良い。
 Q:当時のカンボジアにおけるマレー人は、一つの集団だった考えて良いのか。
 A:オランダ史料の記述では、マレー人の他にパタニ人という記述が見られる。ただしそのパタニ人にはパタニ出身のマレー人という意味づけがなされているので、当時のマレー人は一つのカテゴリとして考えられていたのではないか。
 Q:反乱後の新国王は、なぜマレー人を排除しようと考えたのか。前国王が改宗したイスラームが原因だったのか。
 A:現時点では、当時王朝内で強力となっていた勢力を淘汰するものとして、新国王によるマレー人排除を考えている。オランダ史料では、イスラームへの拒絶には言及していない。実際に前国王は、華人ムスリムやマレー人を取り込む狙いを持ってイスラームに改宗した一方で、他のムスリムではない人々も王権の中に取り込んでいた。ただ、この問題は非常に重要であるため、これらの点を踏まえながら今後更に検討していきたい。
 Q:17世紀中葉の長崎における唐船入港記録を見ると、カンボジアからの来航船の数は1650年代に増加している。この事実から考えると、前国王はマレー人を重視していても、華人を排除することはなかったのではないか。
 A:その通りである。当時は、主に海域や西方世界との交易に従事していたマレー人と主に日本との交易に従事していた華人とで、交易面において棲み分けができ共存していたため、前国王は華人を排除することはなかった。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 久礼克季)

■第二報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(東京大学大学院総合文化研究科 博士後期)
コメンテーター:加納啓良先生(東京大学名誉教授)
報告題:「スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ」

【コメント(加納啓良先生)】
[補足説明] 第一に、「商品作物」という言葉の定義についてである。インドネシア語のPerkebunan(日本語では「農園」という意)には小農も含まれているので、訳の当て方は注記しておくべきである。第二に、農家グループ(Kelompok Tani)は、協同組合の下部組織ではなく、農業指導員(Penyeruh Pertanian Lapangan; PPL)が定期的に指導を実施するためのグルーピングであるため,本報告での認識は間違っている。一方、村落ユニット協同組合(KUD)は、協同組合省の管轄であり、食料農業政策との関連で、米の集荷機能を持たせることを意図として形成されたものである。
[質問] 第一に、先行研究から引用していたアブラヤシ農園労働者が約300万人という数字であるが、これには小農が含まれているのか。第二に、インドネシアにおいて1990年代からアブラヤシ栽培が拡大したとあるが、蘭印百科事典におけるアブラヤシ栽培の歴史を遡ると、実際は1990年代よりも早く拡大し始めたのではないか。第三に、商品作物栽培の拡大は世銀の支援が終わってからであるという報告だったが、具体的に「支援」とはどのようなことが実施されていたのか。第四に、Koperasi Primerの概念は村落ユニット協同組合とは別物であるから、食料政策時代の村落ユニット協同組合と現代の商品作物用に融資のチャンネルとして使われた共同組合は別物であると考えた方が良いのではないか。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因として、人口増加、交通インフラ整備、通信インフラなどの拡充といった要素も考慮する必要があるのではないだろうか。第六に、中核農園プロジェクトの際,中核農園が統一的に管理するのと,小農と一緒に生産をおこなうのでは,生産効率が良いのはどちらか。
 
【コメントに対する回答】
[補足説明に対する回答] 第一に、本報告で「商品作物」という用語を使用した意図は、インドネシアの農業分野に精通していなければPerkebunanという語彙そのものが民間/国営農園を連想させ、誤認を招くと考えたからである。第二に、本報告における組合の位置づけだが、後半の15年間に低金利融資を主体としたプロジェクトが行われた窓口となったのが組合であった、というように認識していた。
[質問に対する回答] 第一に、先行研究におけるアブラヤシ農園労働者が約300万人存在しているという質問に関しては、小農の所有する農地で働いている労働者数を加算したものであったと記憶している。第二に、アブラヤシ栽培の拡大に関しては、1980年代からの伸びであったと記載する方が適切であったと考える。第三に、世銀のプロジェクトは、集約化と外延的拡大という二つの方向性をもって進められておいたのだが、本報告内では詳細な紹介ができなかった。一つの例として1980年のSmallholder Rubber Projectを挙げると、その当時すでにゴムを栽培していた小農の栽培方法を改善、あるいは肥料投入量を調整して、生産量を向上させるプロジェクトが実施されていた。第四に、Koperasi Primerに関して、「商品作物栽培に特化して」と記載したのは間違いであった。補足情報として、Koperasi Primerは畜産業や漁業を対象に支援も実際に行われていたため、商品作物のみが対象ではなかった。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因に関して、通信・インフラ整備も確かにあると考えられるが、とりわけアブラヤシに関しては90年代から国際価格が伸び始めたのも起因しているのではないだろうか。また、教育制度や農村社会における生活水準の向上など要因は一つに限ることはできないと考える。第六に、生産性に関して言えば、農園が管理した方が生産効率が高いように思われる。

●質疑応答
質問1:世銀のプロジェクトが国営農園を支援していたという話だが、どこまでが国営でどこから民間支援であったのか。
回答1:国営農園を対象にしたプロジェクトは1980年頃まで。最初は国営農園の再活性化を行い、活性化した農園に小農を組み込む支援が行われたが、1980年代以降からは民間農園の参入を推進した。

質問2:政策がトリガーとして効果を発揮する部分もあるが、同時に影響がない部分もある。具体的には、国営農園は政策の影響が出てくるが、民間大農園は、政策の息がかかっているところとそうではないところを兼ね備えている。現代においては、民間小農園は近年、民間大農園と区別し難くなってきた。こういった状況を鑑みて、国営農園、民間大農園、民間小農園という三つのプレイヤーがいることを踏まえ、いま一度包括的に概観した上で、小農の位置づけをすれば全体像がより明確になるのではないか。
回答2:本報告は、題目に政策と謳っているものの、政策決定プロセスに重点をおいたわけではなく、あくまで政策の変遷を追ったものとなっている。そのため、指摘いただいた部分に関しては今後の課題としたい。一方で、パーム油の価格や世界的な需要といった外的要因だけでなく、国内の政策的な要因を見つめ直すことが、今回の目的であった。

質問3:商品作物生産量として挙げられている図におけるコプラの生産統計は信用できるのか。小農生産も多く行われていた中で、どのように統計がとられていたのか。
回答3:コプラ生産には小農のココヤシ栽培が関わっており、それらをどのようにして集計したのかは不明である。一方で、統計データを信用できるかどうかは別にして、コプラの生産を向上させるためのプロジェクトが存在していたため、コプラの生産量を拡充させようという政策的な意識はあった。
関連コメント:1970年代に過程で使っている揚げ油のほとんどはコプラであった。パームオイルを使用するようになった転換点は気になるところである。

質問4:世銀のプロジェクトも始めはゴムであったことから、ゴムも注目に値するのではないか。小農の商品作物栽培を理解する上で、アブラヤシの比較軸とするのはどうか。
回答4:確かにスハルト政権期における農業政策の中で、ゴムは注目すべき作物である。ただ、ゴムと比べてアブラヤシには地方政府レベルにおいてもかなり大きな利権が付きまとっており、小農が得ている多額の収入を見ても、単純にゴムと比較しうるとも言い難い。

質問5:スハルト時代の「箍」が外れたからこそ、拡大したと考えられるのではないか。本報告で注目している政策的な観点からの仮説を決めつけずに、柔軟に考察する必要があるのではないか。
回答5:スハルト期の素地に関して、その後の分析が不十分であり、その点は今後の課題としたい。ただ、商品作物栽培は植民地末期から行われていたが、現在につながるスタート地点は、スハルト政権期における食品作物栽培の支援にあったのではないかと考えている点が本報告の趣旨である。

質問6:ゴムやココヤシと違い、アブラヤシは劣化が激しく、近くに搾油工場が必要である。しかし、現在は既存の小農がアブラヤシを植えるケースが増加している。その一要因として搾油工場は考えられないだろうか。
回答6:2000年以降に、小農が農園の周辺に拡大していくにつれて、農園を持たない搾油工場ができてきた。工場ができれば、そのまわりに小農が拡大し、また工場ができるというパターンが展開している。90年代以降はその要因が続いているのではないか。
関連コメント:現在は、RSPOというパームオイルの認証制度があり、サプライチェーンをコントロールする試みがある。つまり、登録した小農からしか購入をしなくなるということだが、国際的にブラックだった企業がクリーン企業化する様子が見られる。こうした背景を考えると、小農に焦点を当てることによって、様々な動きが見えてくる。

(文責:上智大学大学院 北川あゆ)

2014年度第5回(11月)関東例会のご案内

第5回関東例会(11月)を下記の日程で行います。

〈2014年度第5回関東例会(11月)〉
日時:2014年11月22日(土)(13:30~17:45)
会場:会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

〇第一報告(13:30~15:30)

報告者:エリザベス・エスター・フィブラ・シマルマタ氏 (東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程 言語文化専攻)

報告題目:
「現代ジャワ若者におけるジャワ語の敬語使用の状況―ジョグジャカルタ特別州の高校生による敬語運用の実態調査―」

コメンテーター:原真由子氏 (大阪大学 言語文化研究科 言語社会専攻 准教授)

報告要旨:
 多民族国家のインドネシアでは、500以上の言語が話されており、そのうち14の言語は話者人口が100万人を超える(Sneddon 2003)。公用語であるインドネシア語のほかに地方語(民族語)も使われており、二言語話者bilingualが多く見られる。特にジャワ語は、話者数が最も多い地方語であり(人口の約4割)、敬語を有する点で複雑な規範を持っている特徴的な言語とされる。ところが、近年、ジャワ語の敬語が使用できない若者や敬語の使用を避ける若者が増えているなど、現代ジャワの若者の敬語離れが指摘されている。しかし、若者自身の敬語認識や敬語の運用実態に関してはこれまで実証的な調査はなされてこなかった。そこで、本報告では、ジャワ人住居者が約9割以上であるジョグジャカルタ特別州において、農村部と都市部の高校生814人に対し2014年に実施した、敬語の運用実態に関する調査の結果を分析する。現代ジャワの若者が規範的な敬語が使用できなくなっているという現状を実証するために、敬語の運用実態を測るアンケートとインタビューを用いて、その正誤用法に関する実態調査を行い、若者の敬語使用の傾向を明らかにする。報告者はこれまでにジョグジャカルタのガジャマダ大学において、より知識を持つと考えられる大学生、さらに大学の教員への調査を実施した。高校生に対して実施した調査から明らかになった結果と比較することで、現代ジャワの若者におけるジャワ語の敬語使用の状況とその社会的意味を明らかにする。

〇第二報告(15:45~17:45)

報告者:長津一史氏 (東洋大学社会学部 准教授)

報告題目:
「研究工具としての空間情報―インドネシアとフィリピンの民族動態を題材に」

コメンテーター:加藤剛氏 (京都大学名誉教授・東洋大学アジア文化研究所客員研究員)

報告要旨:
 インドネシアとフィリピンが2000年に実施し、数年後に公表した人口センサスは、両国独立後はじめての有用な人口情報を提供するものであった。特に電子版のセンサスは、いずれの国のものもきわめて詳細であり、民族や宗教をはじめとする基本属性や移住歴等の情報を、個人単位(インドネシア)または村落単位(フィリピン)のレベルまで探ることを可能にした。また、2000年代のインドネシアでは、国家土地調査調整局(BAKOSURTANAL)を中心に、地理情報システム(GIS)データの整理も急速に進められた。GISデータは電子版センサスのデータに連繋させることが可能であり、結果、人口データを空間的に把握することが著しく容易になった。
 こうした資料状況の変化にもかかわらず、インドネシアとフィリピンの人文・社会科学の研究領域では、いまだ人口センサスやGISデータを研究工具として利用することは少ない。本報告では、インドネシアとフィリピンにかかわる人文・社会科学の研究工具としての空間情報――センサス、GIS、地図――とそれらを用いた視覚表現の方法について報告する。具体的には、「民族」に焦点をおきながら、2か国の電子版2000年センサスの内容・構成・使用法、GISや他の地図を用いたセンサス情報の地図化・概念図化の技法について説明する(ソフトとしては、マイクロソフト社のAccessとESRI社のArc GISを用いる)。ところで報告者は、センサスやGISのようなマクロ・データのみで東南アジアの社会・文化現象を理解できるとはもちろん考えていない。鳥瞰図を描くための研究工具は、微視的なフィールドワークや史料調査を土台として使ったときに、はじめてオリジナリティのある視点・接近法を導く。こうした認識をふまえて報告の最後では、「インドネシア海域における海民バジャウ人の生成過程」をテーマとする報告者の研究を紹介し、研究工具としての空間情報の利用可能性を考えてみたい。

2014年度第4回(10月)の関東例会のご案内

2014年度第4回関東例会(10月例会)についてのお知らせです。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

今回は、以下の二報告です。

第一報告:遠藤 正之(えんどうまさゆき)会員による「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

第二報告:小泉 佑介(こいずみ ゆうすけ)会員による 「スハルト政権期の農業:農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ」

詳細は下記をご覧下さい。

<2014年度10月関東例会>
日時:2014年10月25日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:遠藤 正之(立教大学アジア地域研究所・研究員)
コメンテーター:北川香子先生(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

<報告要旨>
オランダ東インド会社(VOC)は、1657年にカンボジアと友好平和条約(第一次条約と呼ぶ)を結び、同国との交易を再開した。しかし、1658年にカンボジアで王族の反乱が起き、それに伴う広南阮氏のカンボジア侵入によりオランダ商館は焼き討ちを受け、再びカンボジアとVOCの関係は断絶した。しかし、VOCにとって最大の利益を上げていた対日本交易に必要な諸産品を入手するために結んでいたアユタヤとの関係が悪化し、VOCはカンボジアと再び関係を結ぶ必要に迫られた。その結果、1664年11月から交渉が開始され、翌65年2月に再び友好平和条約(第二次条約とする)が締結された。しかしながら、第二次条約と第一次条約の条文を見ると、多くの相違点が存在する。両条約締結間に生じた諸情勢の変化や、第一次条約締結の際のVOC側の反省などが反映されたものと考えられる。本報告では1658年王族反乱から第二次条約締結に至るまでの過程を、VOC文書をはじめとするオランダ語史料を用いて分析し、同条約締結がカンボジア・VOC双方にとってどのような意義を持ったかについて考察する。

☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(東京大学大学院総合文化研究科 博士後期)
コメンテーター:加納啓良先生(東京大学名誉教授)
報告題:スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ

<報告要旨>
現在,インドネシア政府は輸出指向型工業化を進める一方で,豊富な自然資源を利用した商品作物栽培の拡大を促進している。特に,19世紀末から続く外島部(スマトラ島やカリマンタン島)でのゴムやアブラヤシ栽培は,スハルト政権下で大きな転換期を迎えた。しかしながら,スハルト政権期の農業・農村開発政策に関する先行研究は,米を中心とした食糧作物の増産政策に着目したものが多く,同時期の商品作物栽培に関する政策の変化を対象とした研究は少ない。そのため,現在,外島部で急速に拡大する商品作物プランテーションの動向を理解するためにも,スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけを明確にする必要がある。
そこで,本報告では,1968~1998年における農業・農村開発に関する年度ごとの報告書や統計データ,同時期の世界銀行が発行したプロジェクト・レポートを主たる分析対象とし,スハルト政権期の商品作物栽培に対する政策がどのように変化したのかを報告する。また,そうした変化が,現在の外島部におけるプランテーション拡大にどのような影響を与えているかを検討する。


終了後、懇親会を用意しております。

2014年度第3回(6月)の関東例会の報告

2014年6月28日(土)に開催されました2014年度第3回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:久礼 克季(立教大学アジア地域研究所特任研究員)
コメンテーター:鈴木 恒之(東京女子大学名誉教授)
報告題:「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」

【コメント(鈴木恒之氏)】
 第一に、先行研究としてルーロフスとナフテハールを挙げていたが、ド・フラーフの研究が挙げられていないのは不十分である。フラーフの研究は確かに華人の研究そのものを論じたものではないが、17世紀におけるマタラム王国の官僚制・地方の問題を論じつつ、華人に関する情報も相当量含まれている。やはり何らかの言及が必要ではなかったか。第二に、マタラムとの関係改善にオランダ東インド会社(VOC)が華人を利用したと論じていたが、この華人についてバタヴィア在住の華人か現地在住の華人かが明確にされていない。VOCの史料に現れる華人は「VOCの臣民」としてのバタヴィア在住華人であり、この点は明確にすべきである。また、交渉の主体は華人ではなくあくまでVOCであり、この点の相違も明確にする必要があろう。第三に、「現地の首長」という表現を用いていたが、これもマタラム王国の手によって送り込まれた者か、同王国が征服した地域を拠点とする文字通りの「現地の首長」であるのかを明確にする必要がある。基本的には史料に現れる「現地の首長」はマタラムが送り込んだ側の系列に属する事例が多い。第四に、「監督官」の訳をもう少し検討すべきである。この役職はマタラムが派遣する最高位の官吏を指す表現であり、「監督官」ではややそのあたりのニュアンスを表現するには不十分ではないか。第五に、1650年代のマタラム王国の貿易政策が、ジャワの商人、華人商人双方にとってどのような意味を持ったか、どちらにそれが有利に働くことになったのかを明確に論じる必要がある。

【回答】
 ド・フラーフの研究については、華人の活動を直接論じたものではないため、今回は積極的に利用することがなかった。今後の課題としたい。
 華人の問題については、バタヴィアから出航する華人は明らかにバタヴィア在住の華人である。ただ、彼らのなかには、地方に赴きその地に定着して「現地在住の華人」となった者がいる。こうして移住した華人やそれ以前から現地に在住していた華人が、マタラムに登用されて現地首長やシャーバンダルに昇進していったと考えられる。
 「現地の首長」については、1660~70年代にかけては、明らかにマタラム王国が派遣した者を指している。これを用語としてどのように考えるかが問題である。17世紀前半に現地の首長を指していた称号として「パンゲラン」があるが、これは同世紀後半にはマタラムの関係者にのみ付されるようになった。この称号がひとつの手がかりになる可能性がある。
 マタラム王国の貿易政策については、同王国の集権化政策が華人によるマタラムの経済の掌握につながり、1660~70年代にかけて華人の重要性を高めることにつながった。これはマタラム王権に対する反乱であるトルノジョヨ反乱(1675~79)後も変わることはなく、その後も「華人系の首長」が登場し、商業・商品作物栽培などの面でいっそう重要性を高めていくことになる。

【質疑応答】
 Q:VOCとマタラム王国との貿易関係、及び華人研究については先行研究で指摘されているのか。
 A:前者については、指摘されてはいるが具体的事例に踏み込んだ研究は管見の限りない。後者についてはルーロフス、ブリュッセイ、鄭維中らの研究がある。
 Q:マタラムは貿易に関心を持たなかったのか
 A:マタラムにとって米の輸出は国家の存立に不可欠であったから、関心を持たなかったとは考えられない。そうした交易を北岸地域の首長に任せず、自らと良好な関係にある華人に行わせたことからも、交易への関心を一定程度持っていたことは間違いない。
 Q:1646年のマタラム王国とVOCとの関係改善に華人が関わっていたというが、具体的にはどのような関与をしたのか。
 A:史料上に明確な記述があるわけではない。状況証拠になるが、1630~40年代の史料にある記述からそのようなイメージを持っているということである。
 Q:華人が情報をもたらした、ということだが、この「情報」は手紙及び報告書のことか。
 A:手紙が中心となる。具体的な事例としてVOC職員がマタラムに捕えられた際の連絡に華人がかかわっていた事実がある。
 Q:北岸地域以外での華人の活動はどのようなものがあったか
 A:内陸部に華人が入り込んで活動していた可能性は高い。また、華人シャーバンダルがマタラム宮廷に参内していた事例がある。ただ、具体的な活動については現在のところ史料上に明確な記述を見出せていない。
 Q:シャーバンダルに関し、マタラム王国による任命、称号や地位はどのようなものか。固定されたタイトルなどがあり、マタラム側の史料に相当する名称などがあるのか。
 A:固定された特有のタイトルは確認できない。マタラム側の史料も現状見出せておらず、今後の課題としたい。
 Q:マジャパヒト王国最後の王の側室が華人の王女であったと唱える史料があるが、この史料はどのように解釈すべきか
 A:ジャワの宮廷と華人が良好な関係を有しており、王朝の存立、経済活動における華人の重要性を反映しているのではないか。
 Q:華人商人を指すプラナカンと呼ばれる人々は明らかに華人的特性を強く示している。17世紀以降、イスラーム化する華人も増えたが、華人の現地化に関し発表者は何らかの見方を有しているか。
 A:17世紀についてはまだ明確な見解はない。ただ、18世紀になると、それ以前より多くの華人が流入することで「華人性」が強く意識されるようになっていったのではないかと考えている。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 遠藤正之)


■第二報告(15:45~17:45)
報告者:NHIM SOTHEAVIN(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
コメンテーター:北川香子(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards

[コメント]
 ポスト・アンコール時代の史料は少なく、①新史料が発見されるか、または②オランダ商館関係の史料を精査・分析するしか、現段階ではこの時代の歴史研究を進めることは難しい。残念ながら報告者の研究は、以上のどちらかを基盤としているわけではない。
 報告者の研究は、王都の移動に関する野心的な研究であると言える。しかし、まず既存の研究の信頼性をもう一度問い直すと同時に、史料批判を十分に行う必要がある。

・15世紀に政治的・経済的中心が南に移った理由として、1980年代以降[ヴィッカリー(M.Vickery)以後]は、一般的に同時代史料の多さから国際交易の観点から説明される。

・聞き取り調査が可能であるのは、せいぜい19世紀前半まで。内容は、話者につながる歴史に留まる。

・農業を遷都の要因として立証するのは、現存する史料からは難しい。また、デルベールやエイモニエの論を折衷的に引用しており問題と思われる。報告者が述べた観点から指摘するのであれば、やはり他の地域と比較して、スレイ・サントーやロンヴェークの農業生産性が優っていることを立証すべきである。また、農学的な用途・背景にも十分精査する必要がある。

・報告者が基礎史料として挙げている王朝年代記は、19世紀以降、現在の王家につながるロンヴェーク―ウドン王家によって編纂されたものである。王都は、スレイ・サントーからロンヴェーク,ウドンへと移ったのではなく、両者は同時並行的なライバルとして存在しており、王朝年代記はロンヴェーク―ウドン側がスレイ・サントー側を王位簒奪者として記録したのではないかと考える。
 ヴィッカリーは、ポスト・アンコール時代を研究する史料は、後代に編纂された王朝年代記ではなく、同時代の碑文史料であるとしている。これは正しい指摘であると考える。

[質疑応答(コメント)]
・15世紀以降の貿易陶磁器は、確かにスレイ・サントーでも出土しているが、ほとんどがロンヴェーク以南から採取・出土している。したがってスレイ・サントーに政治的中心が置かれたことは確かであると思われるが、現段階では、貿易陶磁からこの地域で国際貿易が行われていたことを立証することはできない。しかし、地勢をみて、この地に何らかの経済的中心が置かれていたことは推測でき、川港があったとしても不思議ではない。トンレー・トムの湾曲部分を踏査する必要性があると思われる。同一の器形の破片が山のように出るのが、川港の特徴である。破片が下流に流されてしまっている場合もあるが、存在の目安にはなる。

―シストルという場所に何らかの施設があったことは文献資料から判明しているが、場所の明確な比定にまでは至っていない。しかし、それはメコン東岸付近であろうと推測されている。また、この地は河川の浸食と堆積作用が激しく、16世紀頃に川港があったとしても、現在よりも内陸に位置していたか、また川の中に崩落してしまっている可能性がある。

・オランダ語史料から、スレイ・サントーの王宮跡に関する記述は断片的ではあるが確認できる。フランス語で訳注が出ているので参考にして頂きたい。

・スレイ・サントーとロンヴェーク―ウドンといった2つの勢力が無関係に存続していたわけではない。両者の内、最終的な政治・経済の中心としての位置を確立したのが、ロンヴェーク―ウドンであるということ。17世紀、外部史料(日本/フランス)には、カンボジアには2つの王都があったことを記している。

Q―なぜプノンペンに王都が移ったのか。
A(C)―プノンペン王都の時代は、19世紀始めの一時期と、フランス植民地時代から今日までである。プノンペンには4河川が流れ込んでおり、商業的には最も有利な場所である。しかし、ここに拠点を置くには防衛力を保持する必要があった。したがってプノンペンに王都を置くことができた19世紀始めの一時期とフランス植民地時代は、つまり川を防衛する力をもつ勢力の保護下に入っていたことを意味する。

文責:佐藤恵子(上智大学アジア文化研究所・特別研究員)

2014年度第3回(6月)の関東例会のご案内

2014年度第3回関東例会・6月例会のご案内を致します。

今回は、久礼 克季(くれ かつとし)会員による「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」およびNHIM SOTHEAVIN(ニム ソテイーヴン)会員による ”Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards”の2報告です

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。


<2014年度6月例会>
日時:2014年6月28日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:久礼 克季(立教大学アジア地域研究所特任研究員)
コメンテーター:鈴木 恒之(東京女子大学名誉教授)
報告題:「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」

<報告要旨>
 17世紀にジャワ北岸地域で活動した華人は、この時期のジャワ史の展開を方向づけるうえで重要な役割を果たした。当該の時期、多くの華人は、出身地との関係を維持しながらジャワ島での貿易活動に参入し、自らムスリムとなって現地人の女性と家族を形成しながら貿易を行い、富を蓄積した。また、同世紀にジャワの貿易に参入したオランダ東インド会社とも関係を構築した。
 こうした華人は、この時期に内陸部から北岸地域へと勢力を拡大したマタラム王国の経済活動に重要な意義を持つに至る。同王国は、特に東インド会社との貿易を行ううえで北岸地域の華人を活用し、米や塩、木材、さらにはこの時期に初めて栽培と生産が行われる砂糖の輸出を中心に貿易を展開させた。これらの貿易を通じて構築された両者の関係をもとに、同王国は、華人を経済活動において利用して、17世紀末まで集権的政策を進めた。
 本報告は、こうした17世紀におけるジャワ北岸地域の華人とマタラム王国との関係について、オランダ東インド会社文書をはじめとするオランダ人の記録を主に用いて検討する。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:NHIM SOTHEAVIN(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
コメンテーター:北川香子(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards
報告言語:英語

<報告要旨>
There have been a variety of factors that scholars working
on Cambodian history have proposed as a hypothetical cause of the change of
the Khmer capital from Angkor to southward locations (such as Srei Santhor,
Longvek, and Oudong) from the 15th century onwards. All these factors
contributed to a significant drop in the Cambodia’s political power,
leading to a gradual change in land use and a decline in agricultural
production. However, a determining factor seems to have been the rise of the
Sukhothai (Siam), which challenged Cambodia’s political and military
domination, and in particular its domination over the religious orthodoxy,
where Brahmins hitherto exerted their influences. It was during the “Middle
Period”, namely from the 14th to 18th centuries, that Cambodia adopted
Theravada Buddhism that came from Siam, giving rise to changes in
Cambodia’s philosophical and religious orientations.

It has been largely suggested that the purpose of the
southward change of the capital was on account of frequent Siamese
invasions. On the other hand, some argue that the purpose of moving the
capital to the south was to come closer to the sea so that its location
became more convenient for trade with foreign countries. The aim of this
presentation is not to disregard the above-mentioned hypotheses, but rather
to probe all possible factors for reconstructing the missing parts of
Cambodian history. In addition to earlier hypotheses, this study attempts
to consider other factors that can contribute to the reconstruction, among
which agriculture is a main factor.

Thus, I would like to propose a working hypothesis that three major factors
weighed heavily in the decision on the move of the Khmer capital.

1. A political factor, which can be internal (such as the usurpation of a
reign, or dispute over the succession to the throne), or external (such as
the collapse of power due to either a single or a long series of foreign
invasions). Presumably both were often combined.

2. An economic factor, mainly in the field of trade, such as a desire to
find a new fluvial anchorage or develop an existing one in relation to
other river or maritime ports, both national and international.

3. An economic factor, in particular of agricultural nature, in the form of
a desire to reclaim additional or long deserted land.

This study is principally based on information gained from the Cambodian
Royal Chronicles in Khmer, Rājabaṅsāvatār, with reference to a variety of
external sources. On-site field research was also carried out to discover
examples of archeological remains and geographical aspects.


終了後、懇親会を用意しております。
多くの方のご来場をお待ちしております。

2014年度第2回(5月)の関東例会の報告

2014年5月24日(土)に開催されました2014年度第2回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:松浦史明氏(上智大学/日本学術振興会特別研究員PD)
コメンテーター:肥塚隆先生(大阪大学名誉教授)
報告題:「アンコールの彫像にみる個人崇拝とその展開――刻文史料の検討から」

【コメント(肥塚隆氏)】
 肖像(portrait)の問題について、ジャヤヴァルマン7世像とされる彫刻も、同王の身体的特徴をそのまま写したものではなく、むしろ個人の内面的な素養や資質といったものが表現されているのではないかという定義をしたことは評価したい。私は、portraitという言葉を使ってもよいと思うが、肖像には2種類あり、フィジカルなものとスピリチュアルなものがあると考えており、ジャヤヴァルマン7世像は同王の精神を表現したものだと考えている。
 古クメール語の刻文中で彫像を指す「ルーパ」という用語について、「神格名+ルーパ+個人名」という用法を、「個人の姿を表した神」であると解釈されているが、果たしてこの読み方でいいのかというところは判断が難しい。
 ジャヤヴァルマン7世時代の寺院の部屋の入り口にあたる部分に1-3行の刻文があり、そこに神格名が刻まれているという。その中には、先ほども出てきた「神格名+ルーパ+個人名」という形式がみられると同時に、神格名と個人名との間に明らかな関連がみられるということであった。神格名と個人名の関連について、プレ・アンコール期からの伝統としてプシュカラ王によるプシュカレーシャというリンガ建立の例を挙げているが、このプシュカレーシャをどのように解釈するか。これは、そのまま神の名前なのか、プシュカラという王の「主(イーシャ)」、あるいはプシュカラの原義をとって「蓮華の主」などと読むべきなのか。
 また、彫像を安置した人物のなかに、「ラージャシルピ(「王の芸術家」を意味するサンスクリット由来の言葉)」の名が出てくるのは興味深い。
 最終的に、個人の姿をとった像の例は、刻文からみればジャヤヴァルマン7世時代に爆発的に増加するとのことだが、ここで報告者は非常に慎重な姿勢を示しており、これを「人物像の伝統の発達」などと簡単に結びつけることはできない、「自身の彫像を安置することによって王権の強化を図った」などと言うことはできないとしている。今までは単純にジャヤヴァルマン7世時代に個人崇拝が急激な高まりをみせたのだと推測されてきたが、これに対する強い反証を示されたものと高く評価したい。
 疑問としては、まず「個人崇拝の高まり」とは言えないのだとしたら、では何だったのかという点はきちんと示すべきであろうと感じた。また、刻文にこれだけの数の神格名が出てくるわけだが、実際の彫刻では、個人の像とされる例は非常に少なく、今明確に言われているのはジャヤヴァルマン7世自身とその王妃の像のみである。実際の作例としてどの程度の像があるのか検証する必要がある。

【回答】
 「神格名+ルーパ+個人名」の解釈についてだが、古クメール語は語順によって意味が決まってくる。これを例えば「個人が〔造立した〕神の彫像」などと読む場合には、神格名の前に「ルーパ」が来なければならない。この例では「ルーパ」は個人名の方にかかるべきだと考えている。次に「ルーパ」の語そのものの解釈が問題となるが、これについては従来の古クメール語学の成果に従った。ただし、「ルーパ」が彫像のみを指すとは断言できず、例えば絵画などであった場合も想定できるし、より漠然とした形をもたないものであったかもしれない。しかし、少なくともその一部に彫像が含まれると考えてよいのではないか。
 人名にちなんだ神格名については、セデスなどはこれを個人の神格化と直接結びつけているが、これは言い過ぎであると思う。プシュカレーシャを「プシュカラが確立した神」と読むこともできる。しかし、今回の「ルーパ」の例でもみられるように、個人と神を何らかの形で合致させようとする志向そのものは否定しがたい。人名にちなんだ神格名だけをもって個人の神格化を証明することはできないが、この言葉のみにこだわるのではなく、より多角的にこの問題を考える必要を感じている。その一つの角度として今回の報告があると位置付けている。
 ジャヤヴァルマン7世時代の用例の増加を「個人崇拝の高まり」とみなすことができないとするならば、では何なのかという問題については、まだ結論が出ているわけではないが、王の神格化はアンコール期の初めから行われていたのかもしれないが、11世期に入ると王以外の人物も同じようなことをやり始める。その中で、王が同じことをやっていても権力のアピールにつながらなかったのではないか。王はその他の台頭する勢力に対する優越性を誇示するために、様々な新しい方策を模索していたのではないか。その一つの表れとして、ジャヤヴァルマン7世時代の多数の「ルーパ」を一つの寺院に安置することが行われたのではないだろうか。
 個人像の実際の作例の検証については、彫刻史を専門とする研究者の応答を期待したい。

【質疑応答】
Q:「神格名+ルーパ+個人名」の解釈についてだが、サンスクリットの「ブラフマルーパ」のように、神格名に後置される形としては読めないのか。
A:刻文には句読点があり、神格名と「ルーパ」の間に句読点が入っている例がある。やはり分けて読むべきだと考える。
Q:神格が書かれた小刻文を見ると、出入り口の枠にもともと文様がある。それを後から削って刻文を書く下地を作っているのか。
A:全ての実例を見たわけではないが、後から削ったと思われる例はある。
Q:だとすれば、刻文が書かれた年代は少なくとも文様が刻まれた後だと分かるわけだが、年代の確定は字体によっているのか。その推定の年代幅は広いのか。
A:字体で判断される。この刻文の文字はジャヤヴァルマン7世時代に特徴的なもの。しかし、字体だけでは推定年代にかなりの幅が出てしまうので、細かい年代は確定できない。
Q:サンスクリットと古クメール語の刻文では、それぞれ違う対象について書かれるのか。同じことについて書かれることはないのか。
A:例えばスドック・カック・トム碑文など、両語で同じ内容を書く例もあるが、異例である。サンスクリット文で彫像と明記されるものの、古クメール語では彫像と明記せず、人物名を「奉献する」といった書き方になる場合もある。このあたりの例ももう少し時間をかけて解釈し、用例に組み込んでいきたい。
Q:大きな枠組みでいうと、本報告は国家統合・社会統合に関わる問題であり、個人像だけでは王権強化にはならないとのことだったが、王権の力が最も示されているのは、巨大寺院の建造だと思われる。その巨大建築物のなかに彫像を置いていくという行為をどのように解釈するべきか。
A:王権が巨大だったから巨大建築物ができたのか、巨大建築物を作ることで王権が巨大になったのかを慎重に考える必要がある。巨大建築物はアンコール期に多く造られたが、その要因や建造を可能にしたシステムは時代ごとに異なっていたのではないか。バイヨンにみられるような「万神殿」的表現は、そのような表現をしなければ寺院建立が難しかったとも考えられる。地方の台頭など、多様化する社会のなかで、王の名のもとに建てられた寺院の中に多様な神格を配置することが必要とされたのではないか。

(文責:上智大学 松浦史明)

■第二報告(15:45-17:45)
報告者 久志本裕子氏(上智大学/日本学術振興会特別研究員RPD)
コメンテーター 長津一史先生(東洋大学社会学部准教授)
報告題:「現代マレーシアと周辺諸国におけるイスラーム学習とスーフィズム:イスラーム学習の変容と新たな超域ネットワークの形成」

【報告の要約】
 本発表の目的は、近年急速に活発化している、マレー世界のアラブ系学者を中心とするスーフィズム関連活動を主な事例として、現代のマレーシアでイスラーム知識がどのような形で求められ、伝えられているのかを、制度的宗教教育とは異なる視点から明らかにすることである。
 マレーシアの伝統的イスラーム学習は、中東と東南アジアをつなぐ師弟関係のネットワークを通じて形成されてきた。この師弟関係と学習のネットワークにおいて、スーフィズムは重要な位置づけを与えられていた。しかし、近代的学校教育の普及とイスラーム学習のあり方の変容に伴い、師弟関係のネットワークは弱体化し、スーフィズムもまた周縁化していった。
 ところが近年のマレーシアでは、特に都市部においてスーフィズムへの関心の高まりや、新たな師弟関係のネットワークの構築が見られる。その事例としてここで考察するのが、「マウリド」と呼ばれる預言者ムハンマドの生誕を祝う儀礼を行う集会と、この集会に関連する学習会など一連のイベントである。「マウリド」自体はマレー世界で古くから行われている儀礼である。しかし近年の「ブーム」ともいえるマウリド集会は、古くからのマウリド儀礼とは異なる特徴を持つ。中でも目立つのが、サイイド、すなわち主にイエメンのハドラマウト地方にルーツを持つ預言者ムハンマドの子孫の一族が、これらの集会で指導的な役割を果たしていること、そして彼らが特にサイイドの中で伝えられてきたスーフィー教団であるタリーカ・アラウィーヤの教えを基盤としていることである。このような特定の指導的グループとの関連、特にスーフィー教団との関連は、従来のマウリド儀礼では見られない。
 マウリド集会は、2005年ごろからインドネシア、シンガポールを経由してマレーシアに伝わり、現在では預言者生誕月にとどまらず、年間を通じて集会が行われている。規模が大きいものでは数万人が動員されることもあり、マレーシアのイスラーム関連集会では異例といえる。集まる人々は都市の高学歴層が主であるが、政党や教育の程度、特に宗教教育の程度を問わず様々な人々が集まる点で、従来の宗教集会と異なる。
 マウリド集会はインドネシアのバンジャルマシン、ソロ、ジャカルタ、スラバヤ、そしてシンガポールといった広い地域をつなぐサイイドとタリーカ・アラウィーヤのネットワークを通じてマレーシアにもたらされた。マウリド集会との接触を通じて、マレーシアから多くの人々がこれらの地域を訪れ、各地の宗教指導者のもとで集会に参加したり、逆にこれらの地域からマレーシアのマウリド集会に多数の人々が訪れるといった人の流れが形成されている。
 人々がこれらの集会に求めるものは、血筋と知識の双方の系譜を持つ指導者との接触によって預言者とのつながりを持つこと、そして歌などを通じて預言者への愛を感じることである。これらの要素は、近代的学校教育制度にのっとったイスラーム教育の中には見出せない、あるいは伝統的イスラーム学習にはあったが失われたものと見ることができ、イスラーム諸学の中でもスーフィズムの分野とつながりが深いものである。この事例からは、スーフィズムに着目することによって、従来の研究で多く論じられてきたような制度化されやすい側面とは異なる、イスラーム知識伝達とネットワークのあり方が見えてくるという示唆を得ることができる。

【コメント(長津一史氏)】
 フィールドワークに基づくイスラーム実践の研究として社会現象としてのイスラームにアプローチしている点、知の伝達の文字化されない部分や身体的側面に着目している点などで重要な意義を持つ研究であり、トランスナショナルなイスラームの知の伝達や権威のあり方のメカニズムの解明に貢献するものと思われる。

【質疑応答抜粋】
Q:従来のマウリドとは全く違うものに見えるので、「マウリド集会」という語の使用は誤解を招くのではないか。現地ではどのような呼称が使われているのか。
A:確かに、集会にはマウリドという呼称だけでなく、サラワート(預言者をたたえる事)といった名称も使われていて、特にインドネシアでは後者のほうが一般的である。今後「サラワート集会」という語を使用することを考え直したい。
Q:マレーシアのイスラーム学習などにおいてインドネシア人が影響力を持つことは多く見られるのか。
A:全国的に影響力を持ちテレビなどにもしばしば出るインドネシア人宗教教師や説教師は何人もいる。こうしたインドネシア人教師の影響力については別途研究を進めたいと考えている。

(文責:上智大学 久志本裕子)

2014年度第2回(5月)の関東例会のご案内

2014年度第2回関東例会・5月例会のご案内を致します。

今回は、松浦史明会員による「アンコールの彫像にみる個人崇拝とその展開――刻文史料の検討から」および、久志本裕子会員による「現代マレーシアと周辺諸国におけるイスラーム学習とスーフィズム:イスラーム学習の変容と新たな超域ネットワークの形成」の2報告です。


詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。


<2014年度5月例会>
日時:2014年5月24日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース(※ 前回は4階でしたが、今回は5階です。ご注意下さい)
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:松浦史明氏(上智大学/日本学術振興会特別研究員PD)
コメンテーター:肥塚隆先生(大阪大学名誉教授)
報告題:「アンコールの彫像にみる個人崇拝とその展開――刻文史料の検討から」

<報告要旨>
アンコール・ワットに代表されるいわゆるクメール様式の建築物群を遺したアンコールは、主に9~14世紀の東南アジア大陸部に一大勢力を築いたとされる。しかし、アンコール史の主要な文字史料は宗教施設・儀礼の付随物としての刻文史料に限られるため、その統治のあり方についても王の神聖性を核とした神 権政治的な文脈で理解されてきた。
「アンコール最後の大王」として知られるジャヤヴァルマン7世の時代(1181~1214年頃)に王の「肖像」が造像・安置されたという定説は、王を崇拝対象とするアンコールの権力概念についてのキー・イメージを提供している。
本報告では、刻文史料にみられる造像の事例を検討し、彫像を含む崇拝対象物に人間性を込める伝統とその展開を明らかにする。特に、古クメール語刻文にみられる個人の「ルーパ(彫像、姿)」を造像する事例に焦点をあて、個人崇拝が王のみに与えられた特権ではなかったことを明らかにするとともに、キー・イメージとしてのジャヤヴァルマン7世時代の特異性を指摘する。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:久志本裕子氏(上智大学、日本学術振興会特別研究員RPD)
コメンテーター:長津一史先生(東洋大学社会学部准教授)
報告題:「現代マレーシアと周辺諸国におけるイスラーム学習とスーフィズム:イスラーム学習の変容と新たな超域ネットワークの形成」

<報告要旨>
マレーシアの伝統的イスラーム学習は、中東と東南アジアをつなぐ師弟関係のネットワークを通じて形成されてきた。この師弟関係と学習のネットワークにおいて、イスラームの内面的、精神的側面を伝えるスーフィズムは重要な位置づけを与えられていた。しかし、近代的学校教育の普及とイスラーム学習のあり方の変容に伴い、師弟関係のネットワークは弱体化し、スーフィズムもまた周縁化していった。ところが近年のマレーシアでは、特に都市部においてスーフィズムへの関心の高まりや、新たな師弟関係のネットワークの構築が見られる。本発表では、近年急速に活発化している、マレー世界のアラブ系学者を中心とするスーフィズム関連活動を主な事例として、現代のマレーシアでイスラーム知識がどのような形で求められ、伝えられているのかを、制度的宗教教育とは異なる視点から明らかにする。

終了後、懇親会を用意しております。
多くの方のご来場をお待ちしております。

2014年度第1回(4月)の関東例会の報告

2014年4月26日(土)に開催されました2014年度第1回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:北川香子氏(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
岡本真氏(東京大学史料編纂所助教)
コメンテーター:松方冬子先生(東京大学史料編纂所准教授)
報告題:「17~18世紀柬埔寨国書の分析」

【東京大学史料編纂所 松方冬子先生コメント】
 本報告の内容は、日本史研究の立場からしても非常に興味深い。江戸時代の対外関係を捉える観点として、「鎖国」「四つの口」「通信国、通商国」という語が19世紀の日本人によって自分たちの対外関係を表現する言葉として作り出された。研究上でも同時代の対外関係を捉える枠組みとして使用されることが多い。しかし、東南アジア諸国は19世紀に関係がなかったため、この枠組み論から抜け落ちてしまいがちであり、本報告の内容は日本史研究者としても刺激をうけるものであった。日本史研究との更なる共同研究が期待される。

 全体として、漢文で書かれた書翰の「形式」「文法」に注目して読んでみたらどうなるだろうか?例えば、日本側は日本年号を使っているが、カンボジア側は干支を使っている(中国文化圏内にはいるが中国年号も日本年号も使いたくない、ことを示している)ことにも注意を払うべきであろう。以下、具体的な例をいくつか掲げる。
 書簡3Aの漢文書簡における「来貢」という表現について、家康のころ同時進行で関係構築が進められていた日朝間などでは受け取りを拒否されるほどの無礼な表現である。この漢文書翰は家康のもとに届けられなかったのではないか。長崎あるいは京都において、漢文の偽文書を作成し家康のもとに送付する、またはクメール語書簡あるいは内容摘記のみを家康に送り口頭伝達で相手の顔色を伺いながら適当な内容を伝えるということもあり得たのではないか。あるいは、カンボジア人は作法を知らないと馬鹿にして、笑って受け取った可能性もないではない。
 文書の形式上の問題から外交関係が悪化することを避けるためには、書簡の直接的なやりとりはあくまで家臣-家臣の間で行なうという形式をとる(奉書と披露状を用いる)というのが一つの方法である。書翰3A、4Aが問題を引き起こしたので、書翰6A以降国王の直書が送られなくなったという可能性も指摘できるだろう。
 書簡5Aは明らかに日本商人に宛てたものであり、5Bは商人宛の手紙を読んだという返書である。よって、国書(『集英社国語辞典』によれば「国家元首がその国の名前で出す外交文書」)というより内政文書の形式であったといえる。
 書簡7Bについて。中国文化圏では外交文書のやりとりの順序として先に手紙を送ったら自分が目下だと認めたことになることを考えると、この手紙は家康が送ったものか疑わしい。文面から見ても、長崎の誰かが作成した文書ではないだろうか。
 カンボジア側における漢文世界の作法や理解がどの程度のものであったのか、それを日本側がどう認識していたのか、という点は興味深い。クメール語書翰は、カンボジア王(ないしは側近)が漢文を理解できなかったので、王に対して漢文書翰の内容を担保する意味で、作成されたのではないか。一方、日本では家康や側近が漢文を理解できたので、日本語書翰を作成する必要がなかったのではないか、という仮説を提示したい。
 朱印状については、異国渡海朱印状(パスポート)と渡航許可朱印状(ビザ)という二種類が存在した。東南アジア向けのものは異国渡海朱印状のみが注目されている。朱印状および朱印船貿易は、朱印船以外の船の往来を制限し排除するための側面があったと考えられているが、その制限の要求が日本側だけでなく、カンボジアという相手側からも発せられていたという点が興味深い。
 カンボジア側が異国渡海朱印状発給を要請する場合も、漢文書翰とクメール語書翰で微妙なニュアンスの違いがあるように感じられる。カンボジア語書簡では、往来する船の隻数を減らして欲しいという要求が強いようだが、漢文書簡においては交易を促進するために朱印状の発行を求めているとも解釈できる。
 また、カンボジアにも朱印状と類似の制度が存在したようである点も注目される。

【コメントに対する報告者の回答】
[岡本]
 書簡5Aが日本国王宛ではないのではないかという点について、確かに文書の形式としては使節宛である。しかし、文書内には日本側に対する要求も記されており、実際のところ、この書簡はカンボジア側と使節の間のみで簡潔する性格のものではない。こうした性格を併せ持つ書簡は、前近代のアジアでは一般的では類例がある。
 書簡7Bについては、長崎の商人が適当に作成したものではないと考える。典拠に挙げた『異国日記』は家康のブレーンであった以心崇伝が収集・起草した外交文書集を基に編さんしたものである。よって家康の意向を呈した手紙であるといえる。

松方先生からの追加質問:形式自体が重要な意味を持つ漢文文書についてカンボジア側がどのように理解し、日本側の理解はどの程度であって、そのやりとりの中でどういったことが発生したのかという点を問題とすべきなのではないか。

 この点については整理が十分ではないが、カンボジア側の漢文書簡ではカンボジア国主がへりくだり家康を格の高い位に位置づけている。日本側の漢文書簡では家康を一段格上に位置づけている。このことから、返書の形態を取らずに最初に差し出す側が下手に出ることよりも、漢文書簡の書式のなかで相手の王と家康をどのように位置づけ権力関係を表しているかという点がより重要であったといえるのではないか。
 「来貢」という語の解釈について、日本側から朝貢使節がやって来たという意味合いで書かれた漢文書簡がカンボジアから送られてきた場合は確かに問題となったであろう。その場合、ご指摘のあったとおり商人や仲介した者が口頭で上手く言い換えた可能性はある。

[北川]
 カンボジア側は15世紀以降中国側へ朝貢を行なっていなかった。また、日本国王という初期の表現から日本国主へと表記の仕方が変化したこと、国王からの書簡から後に臣下からの書簡というように形式が変化した点については、この時期にカンボジア王朝が漢文の書式や作法をどのように理解していたのか考える必要がある。この点に関しては既に研究蓄積が厚いタイ側との比較研究を行なうことで考える筋道がみえてくるのではないか。漢文からのアプローチは今後の課題であり共同研究をすすめていきたい。
 クメール語書簡の内容からはこれの書簡は日本への友好書簡と位置づけていたようである。カンボジア王自身の尊厳にも関わることなので日本側の行為について「トヴァーイ(貢物)」「バンナーカー(献上する)」という表現をしないということは考えにくく、この点からもカンボジア王は家康を同等にみなしているようである。

【フロアからの質問・コメントと報告者による回答】
米谷氏のコメント:
 無礼な内容の書簡の事例と類似したものがアンナン書簡にみられる。通常は自らの忌み名を記し相手を持ち上げるものであるが、「瑞国公」と書き出し文言で記す、自分の敬称を自身で書くなど日朝間、日中間における漢文書簡の書式からはかけ離れた形式で書かれていた。
 家康の時代に限定すると、書簡の送付やそのやりとりについてぞんざいであり、7Bと同年にチャンパ王国へ家康側から書簡が送られたことがあった。返書ではなく往書を送ることは外交関係にも影響する場合もあるが、家康の場合は書簡を自ら送るということがあった。

質問①:『相国寺書翰屏風』について、公文書館の『外蕃書翰』のなかに明治19年の写しがあるが、関連はあるのか。
質問②:1605年の自分名義の朱印状を持っていなかったという点について、一般的に渡航者の名前は朱印状の本文に書かない。中国とは異なり日本の朱印状は渡航者の氏名を書くことはなかったので、この当事者は朱印状そのものを持っておらず船に飛び乗ったという可能性があるのではないか。

回答①:公文書館所蔵のものは消失して現存しない彰考館旧蔵本を写したものだが、同本目録には近藤重蔵写しと記されている。よって『外国関係書簡』と同系統と考えている。
回答②:クメール語の書簡のなかでは「自分の名前がない」という表現で記されていたのでそのまま紹介した。ご指摘のとおりおそらく飛び乗りでやってきたのであろう。ただ、渡航者とカンボジア側を仲介したのは中国商人らしいので、朱印状を持っていないのに持っている振りをしたというようなその場でのごまかしはきかなかったであろう。

東京大学文学部 島田先生
質問③:クメール語訳の箇所で国王か国主かクエスチョンマークがある意味は、カンボジア側が表記を迷ったわけではなく、ただ判読ができないということでいいのか。国王のスダチというのはカンボジア側の王自身にも用いる言葉なのか。
回答③:クメール文字が判読不可能であるため不確かであることを意味しており、カンボジア側が表記を迷ったということではない。「スダチ」という語は、カンボジアの王の呼称にも使う一般的な語で「王」を意味する語である。

質問④:カンボジア通詞は長崎にはいなかったのか。
回答④:置いていなかった。シャム通詞はいたのでシャム語知識をクメール語書簡の解読にある程度応用できた可能性はある。しかし、書簡内容を全て理解できたとは考え難い。

質問⑤:ハーティエンとはどういう繋がりか。ハーティエンから来たという意味か。
回答⑤:マックティエントゥという人物は、漢文・ベトナム語史料では鄚天賜と紹介され、クメール語文ではプレア・ソトアトと表される同一人物である。クメール語書簡の送り主の名前がプレア・ソトアトであり、漢文では「鄚」と表されることから、鄚天賜からの書簡であることは間違いない。

質問⑥:直行とはどういう意味か。
回答⑥:書簡15Aをみると、日本へ使節を送った年号がわかることから鄚天賜が当時の対日交易の状況をある程度把握していたと考える。これを長崎の出入港記録『唐船進港回棹録』と照合すると、1831,32年に入港した船が、鄚天賜が書簡15Aにおいて言及する日本に到達しなかったと考えた船と同定できるのではないかと考えている。

質問⑦:船の往来と外交関係を同一的に捉えているようだが、それは問題なのではないか。18世紀になると中国経由の日本‐カンボジア間の交易航路が出現し、従来の航海経路に変化が生じていたと考えられる。総体として中国経由の航路の出現に対抗するかたちで直行ルートが出てきたと考えてよいのか。
回答⑦:カンボジア(ハーティエン)から送られた書簡は届いていたことから、確かに国書が送られていたといえる。しかし、その内容の多くが日本国との交易に関するものであり、家康時代の書簡は商人を通じたものであった点を踏まえると、往来する船の流れと外交関係を同一視することに問題はないと考えている。中国経由の航路に対抗するためであったかはわからない。

(文責:上智大学大学院 藤村瞳)

■第二報告(15:45~17:45)
報告者:髙橋昭雄氏(東京大学東洋文化研究所教授)
コメンテーター:斎藤照子先生(東京外国語大学名誉教授)
報告題:「ミャンマー村落社会論構築の試み」

【斎藤先生によるコメント】
 結論部分に共感を覚えるが、出来るだけ異を唱えるようにコメントする。
 東南アジアの村落を論じるときに、比較の尺度として日本の村落は、性格・信仰・消費生活・規範において最左翼にあるということを意識する必要がある。中国とか他の東南アジア諸国という軸を置いたらどうなるか。例えば、17世紀の中国社会を扱った岸本さんの『明清交替と江南社会』を見ると、家族や宗族が個人を縛るのは強く思えるが、村落が人々を縛るというのは日本と比べると薄く思える。
 東南アジアはベトナムを除いて村落が緊密な繋がりをもっていないというイメージで描かれたり語られたりすることが多い。東南アジアの中で比較してみて、果たしてそうであるか。ビルマという国家を構成する、シャン、パラウン、チン、上ビルマ、下ビルマも歴史が異なるし、自然の利用方法や宗教も異なる。村という視点で見たとき、本当に共通して同じような現象が立ち上がってくるのか。
 現在のビルマの村についてはよく分かるが、これは歴史的な変遷を経てきていないのかが気になる。現代のビルマの村落が形成された要因として、生産に関わる集団が出来なかったのは、政治権力との関わりによるところが大であるという仮説に関する説明をもう少し聞きたい。
 王朝時代に土地の売買や土地の質入れが始まったころ、1760年代から1810年代以降、二者関係により処理されていく問題が、ユワールーヂーあるいはユワーダヂー、つまり村長や村の重立ちが出てきて土地を査定したり、価格を決めたりするようになるが、これは何なのだろうか。
 僧院とパゴダは違うように思う。パゴダを作るのは個人だが、村に僧院があるという観念はかなり強い。コンバウン時代に「サータテッ、チャウンタテッ、ユワータテッ」という諺があり、経典と寺院と村は常に一体という意味である。例えば19世紀半ばに、村と僧侶の紛争が仏教委員会の調停によって裁かれたという例がある。村の住職が生前に寺院の財産を一人の弟子筋の僧侶に委託して亡くなった。その弟子が自分の住むよその村にその財産を移動させたところ、村のルーヂーが怒った。結果として、後継者と目された僧侶が負けて、財産はもとの僧院に戻された。村の中に寺院が二つあるということは確かにあるが、観念の上では村と寺院は切り離せないものとして意識していたのではないか。
 村には垣根があり、不寝番をおくという慣行は今でもみられる。イギリス時代になって村の垣根は強化されたという議論もあるが、全く違う。植民地の役人たちが、ビルマの慣習法の中に、治安を回復する効果があると思われる村落の統治のあり方を見出し、それらを具申した。その中に、村の垣根の設置と村の周囲の密林を切り払い視界をよくすることなどがあった。また、慣習法の中には、水牛が盗まれたとき、牛の足跡を追跡し、足跡が消えたところの村が賠償しなければならいということもあった。
 歴史的な観点からみると、王朝時代の統治の中に、確かに村や地方の首長に任されているように見えても、人的な統治だけでなく、一つの共通した慣習法の存在が精神を与えている。以上をまとめると以下のようになる。
1. ミャンマー村落論の際に、比較の軸を日本以外にも立ててはいかがか。
2. 東南アジアの中で、自然条件や歴史条件が異なるので、村落のあり方に何らかの影響を及ぼしているのではないか。
3. ミャンマーという領域内に居住する違う人々に対して、同じ現象が見られるのはなぜか。
4. 政治権力との関係は何を意味するのか。生産的な集団ができないとはどういうことか。

【コメントへの回答】
 弱点である歴史的な視点からのご指摘に感謝する。中国とも類似点はあると考えている。また、国境のなかで同じというだけでなく、国を超えても同じだと考えている。北ベトナムとジャワ以外はほとんど似ているのではないか。民族毎に違いはあるだろうし、例外もたくさんあるだろう。
 一村に一つの寺院があったとしても、実際にそこに通うかどうかは決まっておらず、別の村に行くこともある。それは日本の村でも同じである。パゴダと寺院は明らかに異なっており、本報告においてもパゴダの場合は仏塔管理委員会、僧院については斎飯供与組が組織されると述べた。現在は宗派の違う僧院が村の中で増えており、共存している。また一つ以上作ってはいけないというきまりもない。また斎飯の供与先に関しても、一つの僧院にだけ持っていくという人は稀であり、複数の僧院に供与するという人が多い。
 自然条件との関係で言うと多種多様であるが、今回の報告では下ビルマも上ビルマもシャンもチンも同じようなところだけを切り取った結果をお話しした。また村には集団や組織があるが、村の柵は個人の責任であり、皆でやっているわけではない。ビルマの村落統治法でみても、村落の義務というよりは村長に対する規定しかない。村人に対する規定はあまりなく、村長の権力に全部任せてある。また、村長は限られた権限しか持っていない。
 生活の共通の場はそこにあるから、ある程度の集団は出来るだろうし、その集団の仕組みは何だというのが私の命題である。しかし村が全体として主体となるかは疑問である。政治権力との関係では供出制度の形において村請制をとらない。また、土地の管理を村がしない。村が主体となるのは、水田の管理においてであり、村が灌漑にコミットする。ミャンマーも日本もたまたま供出制度があったが、それぞれ全く違う供出の仕方をする。

【質問1】
1. 消費の為にそこに住む人々がまとまる必要があるのか。結合原理として消費が重要なのか。
2. 私有地と共有地の話で、共有地の期間が短くなって私有地となっていくのはなぜか。

【回答】
1. 生産活動以外は消費というように、消費を大きく捉えている。泥棒や火事からの防御も生産活動ではない。財に加えてサービスも消費と考える。さらに、サービスの提供も消費に入ってくる。また、結合原理としては触媒が重要である。その触媒の元になるのが、頻会による認知である。触媒の在り方によっては生産的なものが生まれる可能性もあったが、結果的にできたのは消費あるいはサービスの提供であった。
2. 土地を最初に開いた者が所有する。焼畑に関して、移動が出来なくなると、チンの場合は長子相続制をとり、分割できなくなると一子相続になる。これがうまくいかなくなると村が管理するようになる。商品化の度合いと人口圧の関係で共有化が進んでくじ引きを行ったりもするが、さらに人口圧が高まると有力者が私有地化するようになる。期間が長い短いというのは論理の問題かもしれない。共有期間が私有の間に挟まれていると考えることも出来る。

【質問2】 日本史の立場から考えると、村の存在が希薄というのは納得できない。その違いは自然環境の違いから生じるものなのか。治安の面から考えると、自警団や青年団や消防団など、その時に応じて集まるというが、それは恒常的にこのような組織を作る必要がないからなのか。

【回答】 泥棒に関しては、村落統治法などにたくさん出てきており、柵を作ったり、見廻り組を作ったりしているが、全員が必ずしもそれに参加しなくてよい。消防団に関しても、やりたい人がやればよく、やりたくない人は無理に誘わないというのが、ミャンマーの考え方である。政府やNGOによる働きかけで利益になる場合はそのような組織を作るが、利益にならなくなると解散してしまう。

【質問3(コメント)】 税に関して補足すると、ミャンマーに村請制がなかったわけではない。日本との相違は、課税額が決まった際に、連帯責任として村人に押し付けるのではなく、納税の責任は村長にあって、村長は借金をしてでも払っていた点にある。

【回答】 村長はまるで徴税請負人のようである。村長は前金で税金を払い、悪い村長の場合は余分に儲け、良い村長の場合は損をするという形で税を集めている。これを果たして村請制と呼んでよいかは疑問である。

【質問4】 頻会について、居住の近接性が基礎にあるという議論だったが、労働の場における人々の出会いは重要ではないのか。他村から来た耕作者はヤッスェー・ヤッミョーに含まれないのか。

【回答】 人的なネットワークの中では村は閉じた世界ではないので、含まれる可能性もある。ただし、労働の場での出会いは少数であり、頻会にはならない。また、ミャンマーの水田は散らばっており、いつも田んぼで会うわけではない。また、耕地が入り組んでいるので、ヤッスェー・ヤッミョーの範囲が必ずしも村だけとは限らず、その範囲はおぼろげである。

【質問5】 私有・共有・私有という話は、ミャンマーの村を観察していると、典型的には初期の私有の段階、ある種の共有の段階、そして私有の段階が観察できるということなのか。現在の状況を見ていると、第三段階の私有の段階が今のミャンマーの村において観察されるので、過去にはこうあったのではないかと、データに基づいて推論し再構築しているように聞こえるがそのような理解で良いか。

【回答】 注意しておきたいのは、これはチンというミャンマーの一部の話だということである。また横倒しの歴史であり、現段階でこの3つの段階が併存している。自然条件というより、人口圧と商品化の度合いによって、そのようなものが語られる。歴史に出てくる長子相続から類推すると、この3つがこういう順序で推移したのではないか。チンの歴史文献はあまりないので、現状でみる類推にすぎない。

【質問5に関連して】 人口圧と商品化が大きな要因であるという主張だが、特に商品化から考えると、今あるミャンマーの状況は歴史的に形成されたもので、しかも現在の貨幣経済が一般化していくなかで、現れている状況であるという理解でよいか。

【回答】 商品化すると、自分が食べるよりも多くの耕地を持たなければならない。一人あたりの必要な耕地が拡大し、そうすると自分の私有地を拡張していき、商品化に対応していくものである。その一方で、多くの土地があり商品作物をあまり植えていない地域では、くじ引きなどの共有がみられる。歴史的な過程において見られるのではなく、あくまで地域的な商品化の度合いによって変化するのである。

(文責:東京外国語大学大学院 寺井淳一)

2014年度第1回(4月)の関東例会のご案内

2014年度第1回関東例会・4月例会のご案内を致します。

今回は、北川香子会員、岡本真氏による「17~18世紀柬埔寨国書の分析」及び、髙橋昭雄会員による「ミャンマー村落社会論構築の試み」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。
なお、今回の会場は通常とは異なる「4階セミナースペース」となっております。
ご注意ください。

<2014年度4月例会>
日時:2014年4月26日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト4階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:北川香子氏(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
岡本真氏(東京大学史料編纂所助教)
コメンテーター:松方冬子先生(東京大学史料編纂所准教授)
報告題:「17~18世紀柬埔寨国書の分析」

<報告要旨>
東京大学史料編纂所は、17・18世紀のクメール語書簡6通各2写本を所蔵している。これらは対になる漢文書簡とともに、近藤重蔵関係資料『外国関係書簡』と『外蕃書翰』に収められている。そのうち1742年に日本に送られてきた書簡は、2013年11月に開催された史料編纂所の第36回史料展覧会で展示され、その機会に報告者らが行った調査によって、『外国関係書簡』所収のものが原本に極めて忠実な写しであることが判明した。すなわち碑刻文以外では、現在知られている中で最古のクメール語文書と考えられる。残り5通は『相国寺書翰屏風』からの写しであり、1742年書簡よりも精度が劣るが、オリジナルの『相国寺書翰屏風』は「天明の大火」で焼失したとされているので、やはり『外国関係書簡』所収のものが、原本に最も近い写しということになる。今回は、これらのクメール語書簡を含めた柬埔寨国書の解読・分析によって、新しく判明した17~18世紀の日本とカンボジアの通交のあり方を報告する。

☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:髙橋昭雄氏(東京大学東洋文化研究所教授)
コメンテーター:斎藤照子先生(東京外国語大学名誉教授)
報告題:「ミャンマー村落社会論構築の試み」

<報告要旨>
1986年から現在に至るまで、ミャンマー農村200ヵ村以上を訪ね歩き、のべ一万人を超える村人たちと語り合った経験をもとに、「ミャンマー村落社会論」の構築を試みる。日本農村研究から生まれた同族論や自然村論、東南アジア村落研究から想起された家族圏論や屋敷地共住集団論を批判的に継承し、これらの諸理論に自らのインタビュー調査を重ね合わせて、「ミャンマーにおける村とは何か」という、私自身が長年抱き続けてきた問題にとりあえずの見通しをつけてみたい。日本農村社会との比較で得た当面の結論は、「日本の村が生産の共同体であるのに対し、ミャンマーの村は消費のコミュニティである」というものである。ここに至る過程について発表し、コメンテーターをはじめとする研究会参加者の皆さんの批判を仰ぎたいと思う。

終了後、懇親会を用意しております。
多くの方のご来場をお待ちしております。

2014年度の報告者の募集

東南アジア学会会員のみなさま

東南アジア学会関東例会では下記のとおり、2014年度の報告者を募集いたします。多くの方々のご応募をお待ちしています。特に締め切りは設定していませんが、早目の申し込みをお願いいたします。

■2014年度東南アジア学会関東例会報告者募集
・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます。討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用ください。
・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者者ご自身で依頼していただくようお願いします(どうしても探せない場合は担当理事までご相談ください)。

■2014年度の関東例会 開催日程
2014年(平成26年)
・第1回 4月26日(土)
・第2回 5月24日(土)
・第3回 6月28日(土)
・第4回 10月25日(土)
・第5回 11月22日(土)
2015年(平成27年)
・第6回 1月24日(土)
毎回13時30分開会、17時45分閉会。1回につき2報告

■会場
・東京外国語大学・本郷サテライトです。
・第1回4月例会のみ4階セミナースペース、他の回はすべて5階セミナースペースを使用します。
・住所:〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
・TEL&FAX:03-5805-3254
・アクセス:地下鉄(丸ノ内線・大江戸線)本郷三丁目駅下車徒歩5分
・会場へのアクセスは以下をご参照ください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■報告・コメント・討論の時間
・報告者は1回につき2名、途中に休憩をはさんで、それぞれ報告60分、コメンテーターによるコメント10分、フロアからの質問と討論50分を予定しています。

■応募方法
・関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレスの東南アジア学会理事(関東地区担当)青山亨まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込みください。

関東例会連絡用アドレス:kanto-reikai@tufs.ac.jp

[記載情報]
・氏名と所属
・発表を希望する日を第2希望まで(例:第1回4月26日、第2回5月24日)
・報告題目(仮題目可)および報告要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(例:パワーポイント)

■応募の取り扱い
・報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、報告の日程についてご希望に添えない場合にはご相談させていただくことがあります。また、要旨については書き直しをお願いする場合もあります。ご了承ください。
・グループによる申請(ミニ・シンポなど)も受け付けていますのでご相談ください。

■報告記録
・関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。
・報告記録は、報告者ご自身でまとめていただくか、あるいは報告者ご自身で報告記録者を選びご依頼いただくようお願いいたします。

■懇親会
・例会終了後は、周辺の店に場所を移して懇親会を開催しています。ご都合の付く方はぜひご参加ください。

■関東例会ウェブサイト
・関東例会のお知らせ、予定、報告記録を随時掲載しています。ご活用ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■問い合わせ
・青山亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)
taoyama@tufs.ac.jp
・関東例会委員(東京外国語大学院生)
kanto-reikai@tufs.ac.jp

2013年度第6回(1月)の関東例会の報告

2014年1月25日(土)に開催されました2013年度第6回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:小池誠先生(桃山学院大学国際教養学部教授)
コメンテーター:伊藤眞先生(首都大学東京都市教養学部教授)
報告題:「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」

<報告要旨>
 主な対象とするのは台湾在住のインドネシア人移住労働者と彼女/彼らが構築するネットワークである。彼女/彼らがどのようなネットワークを作り上げ、そして、そのネットワーク上で、出身地など背景の異なるインドネシア人がいかなる結節点(nodal points)でどのように出会うのか、その実態を俯瞰的に描き出すことが、報告の目的である。
 台湾で働くインドネシア人労働者は、2010年11月時点で約15万人であり、全体の80%以上を女性が占め、高齢者の介護という名目で雇用者宅に住み込みで働くケースが多い。台湾における移住労働者は、①地縁血縁から物理的に切り離された個人であり、②高齢者介護という3年程度の契約労働者であるため、永続的な定住を志向する移民と違い集団志向相対的に弱く、③働き先と居住地の選択や休日の取得や移動に関して労働者には厳しい制約が加えられているという特徴を有し、相対的に行動の自由を欠く、いわば「バラバラの個人」といえる。けれども、インドネシア人移住労働者は、雇用者に管理された生活環境下であっても、実際には多様なネットワークを構築し生活している。たとえばインドネシア人向け総合店舗(Toko Indo)は、休日に食事や買物・送金をおこなうだけに留まらず、カラオケを楽しみに多くの労働者が集まる場所(結節点)と位置付けられる。さらに、モスクなどの宗教施設、金曜礼拝やIdul Fitri(断食明けの祭)といったイスラームの祝日に合わせてインドネシア人ムスリム団体が主催する宗教イベントは、台湾各地に住む移住労働者が集まる機会を提供する結節点といえる。この他にも、インドネシア語の活字メディアやFacebook等のソーシャル・メディアは、離れた地域の労働者をつなぐ役割を果たしていると同時に、対面的なネットワークへと関係性が発展するツールともなっている。
 本報告では、インドネシア人店舗や宗教施設といったインドネシア人労働者が有するネットワークの結節点、およびそのような場所の担い手たる店舗経営者やインドネシア人ムスリム団体とそこに集うインドネシア人労働者に着目することで、彼女/彼らが構築するネットワークの次のような特徴を明らかにした。まずインドネシア人店舗に着目すると、経営者がおもにインドネシア華人であることから、いわば華人とプリブミ(非華人)との双方がネットワークの構築に重要な役割を果たしていることである。華人のエスネック・ビジネスに支えられると同時に、モスクという場所に依拠しつつインドネシア人留学生や労働者によるムスリム団体が中心となってネットワークの形成と結節点を生み出していることから、台湾におけるインドネシア人ネットワークはインドネシア社会の縮図のような側面があると指摘できる。

<コメントと質問>
 まず「地縁血縁から切り離されたバラバラな個人としての移民」という位置づけを仮説的に提示するならば、そういったバラバラな個人が新たな移住先・労働先でいかに結びつくのかという点が問題になる。それを報告では結節点(nodal points)と呼んでいたが、タイプ別に整理すれば、一つには台北駅前の広場や公園で出会うというケースにみられるように「場の共有性」ということが重要になる。二つにはIdul Fitriといった大規模な礼拝に参加すること、または独立記念日前後の色々な催しに参加することが繋がりの契機となることから「時間・機会を共有する」という点も重要と言える。三つには、メディアの存在に関して、香港で見た限りでもパソコンや携帯を利用して多くの者がSNSを利用している。それは、華人が営むインドネシアの商店の役割、また留学生を中心としたインドネシア人の組織やムスリム団体の役割にみられるように、いわばインドネシア人移民同士を媒介するものであると言える。
 台湾におけるインドネシア人移住労働者について、香港の事例を対照させつつコメントするならば、次のようなことが言える。まず一つ指摘できることは、香港のインドネシア人労働者も台湾の場合も、同じ労働システムが働いているという点である。インドネシア出身の移住家事/介護労働者は、斡旋会社(ブローカー)を介して香港や台湾の雇い主とマッチングが行われると同時に、家事/介護労働者は就労先が決定するまでの数か月間、斡旋業者によって移住先国の言語や社会・文化について学ばされる。他方で、台湾と香港の違いについて指摘するならば、香港のヴィクトリア・パークに数千人と言われるほどの移民労働者が休日になると集まってくる凝集性に対して、台湾では地理的な理由からそのような凝集性はないように思える。また政治的背景の違いも大きく、香港では集会や組織化・労働組合の自由が早い段階で成立しており、さらに労働組合同士の連携や国際NGOによる支援によって香港の労働法や悪徳な斡旋業者に対する反対運動が積極的に展開されている。加えて社会的要因としても、インドネシア人の人口が14万5千人程度であり、そのうち13万5千人程度が女性労働者であるとされる香港の場合には、いわゆる「女性の社会」というものが成立しているように思える。台湾で媒介者の役割を担ったインドネシア人留学生や男性労働者といった存在があまり見受けられない。
 このような台湾と香港との対比を踏まえて、以下に台湾の状況について質問したい。①出身地の地域性を契機とした再結合が移住先であるのか、②血縁や地縁、社縁といった繋がりについて、たとえばインドネシアでの斡旋業者による研修期間中のつながりが移住先でも継続しているのか、③海外への移住労働という経歴が彼女/彼らのキャリアをエンパワーメントするものであるのか、④ジルバッブといったイスラームの服装は移住先でも継続されるのか。

<報告者の返答>
①たとえば西ジャワ州インドラマユ県出身者による団体化が最初のケースとして挙げられる。また、西ジャワ州であればスンダ語で会話ができるといったように同じ出身地域であることが、当事者同士が親しくなることに繋がると考えられる。けれども、西ジャワ州出身という契機が組織的に展開されるということはあまりない。

②調査を通じてそのような語りが聞けなかったため、この点については分からない。

③台湾では労働者の自由がかなり制限されているなど相対的に権利が低いことから、移住労働の経験が女性のエンパワーメントに繋がるようなことは、香港に比べれば相対的に低いように思える。けれども、台湾に在住するインドネシア人の2割程度を占める男性労働者のなかには、ムスリム団体で活動した経験をもとに母国で孤児院建設を行ったという話もあることから、むしろ男性にとってエンパワーメントの機会となっている。

④台湾ではジルバッブの着用に関する雇用者の理解が得られないので、イスラームの集会や礼拝に参加する時のみ着用すると言うケースが多い。

<質疑応答>
質問1.移住労働を行うために斡旋業者に支払う金額は移住先の国によって異なるのか?

報告者:サウジアラビアなど中東諸国へ行くことは、経費や渡航用件などの点でも比較的容易だが賃金は低い。他方で香港や台湾への渡航就労は、学歴が一定以上必要とされるなど困難であるものの、就労できた場合の賃金はいとされる。そして、台湾の場合は一年程度働いた時点で、出国経費などの負債を業者へ返済することができる。
  
質問2.労働需要の継続性と賃金上昇の問題は国際労働市場において重要な点となるが、たとえば台湾のインドネシア人労働者に関しても賃金が継続的に上昇しているのか、さらにはそのような上昇によって他国の労働者にシフトするという変化がみられるのか?

報告者:台湾の外国人労働者は1990年代に始まり、2000年代に増加したという経緯がある。最初の段階ではタイ人とフィリピン人が多かったものの、フィリピン人が次第に自らの権利を訴えるようになったため、インドネシア人やベトナム人にシフトしたという経緯がある。給料水準は英語ができるといった要素からフィリピン人の方が高いという話は聞いたことがあるものの、賃金の安さを求めてバングラデシュ人へ移行していく動きはみられない。台湾では「インドネシア人女性は使いやすい」といったようなイメージが浸透していることから、現状としてはインドネシア人の雇用が続くように思える。


(文責者:首都大学東京大学院 荒木亮)


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第二報告(15:45~17:45)
報告者:鈴木隆史先生(桃山学院大学兼任講師)
コメンテーター:加納啓良(東京大学名誉教授)
報告題:「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」

<報告要旨>
 本報告ではインドネシア西ジャワ州インドラマユ県カラソン村の流し漁業の発展過程とその特徴をオーラルヒストリーと商人や船主たちの残した帳簿類をもとに明らかにする。
 カランソン村の漁業は、沿岸で操業する小型延縄とパヤン(伝統的手繰網)が中心だったが、1960年代の半ばにナイロン製漁網を用いた流し網漁業が始まった。木造帆船に4人が乗組み、米などの食料の他、漁獲物保存用に塩を積んで1ヶ月以上操業し、1トンを越える塩漬けのサメ、ハマギギ、フエダイ、ソウダガツオなどの他、乾燥フカヒレを持ち帰った(この流し網をンガワという)。やがて船主たちは魚商人から操業経費の仕込みを受けるようになり、操業成績が上がらず漁船を商人に売却する船主も現れた。こうして徐々に商人がンガワ船主となり、数十隻の漁船を所有する商人も誕生し、「浜将軍」と呼ばれた。また、商人たちは西ジャワ州各地に新たな塩蔵魚市場を開拓し、販路を拡大した。
 漁船や漁網規模に大差がない中で、各船の漁獲量は漁撈長の能力に大きく左右された。商人船主たちは優秀な漁撈長や乗組員を確保するため、彼らに気前よく前貸し金を与え、寄港地での漁獲物販売による小遣い稼ぎも見逃す寛容さを示した。こうした船主と乗組員との関係は、当時の漁村の社会経済状況を反映したパトロンークライアント的な関係ともいえるが、貸付金の焦げ付きや寄港地での過剰な販売による利益の減少が経営を圧迫することもあった。
 1980年代半ばになると漁業協同組合と水揚施設(TPI)が設立され、セリが導入された。また、漁船の動力化と氷が漁獲物の保存に用いられるようになり、漁船も大型化した。水揚げされた多様な鮮魚は、仲買人たちの手を経て村落内外の市場や塩蔵魚、クルプックなどの加工業者に販売されたほか、ジャカルタなどの大都市へとも搬送された。この流し網漁業(エスエサンという)を行なうには、漁船の改造や新造船の建造、エンジンの購入などの新規投資と燃油代、氷代などの操業経費を必要としたが、動力化で航海日数が短縮され、年間出漁回数も増加したため漁獲量・金額ともに増加し、常に操業利益が確保でき、乗組員たちへの分配金も増加した。安定した利益を確保できるため、商人から仕込みを受けていた船主たちも、親戚や知人、漁協などから資金を調達してエスエサンへと転換し、ンガワ漁船は減少した。
 こうして発展してきた流し網漁業(エスエサン)は、2000年代に入って新たな技術的革新を遂げる。積載量50トン以上の大型木造船が建造され、そこに漁獲物の保存用にフリーザ(冷凍装置)を導入、高馬力のトラック中古エンジンが据え付けられた。漁網の品質も向上し、使用漁網量(長さ)も増加。また、省力化のために網揚げ機も設置され、GPS、無線機も導入された。漁場探索や航海で漁撈長の勘や経験に頼る時代は終わり、操業の効率性と長時間労働に耐えることのできる若い乗組員が求められるようになった。こうした第二の「近代化」により漁獲量はさらに増加し、漁獲物の長期鮮度保持も可能となった。セリでは鮮魚よりも冷凍魚の方が高価格で取引され、漁獲高に反映された。冷凍魚の多くは鮮魚としてではなく、塩蔵魚の他、すり身、クルプックなどの加工品原料となり、セリの最中に仲買人たちが携帯電話や電卓を用いて市場価格などの情報を確認し、競り落す姿が見られるようになった。
 現在、新規の流し網漁業には1000万円を越える初期投資が必要だが、およそ2年で投資資金を回収できるとも言われ、これまで漁業とは無縁だった町の医者や公務員、日本への留学経験を持つ若者(船主の息子)など新たな船主層が誕生している。彼らは、自己資金だけでなく、漁協や民間銀行などから融資を受けており、新しい漁船はさらに融資を受けるための担保ともなっている。こうした漁民以外の船主の参入や漁船・漁網規模の拡大競争が進む中で、資本力のない船主たちはカニカゴ漁や小型延縄漁業などに転換し、中には大型流し網漁船の漁撈長や乗組員になった者もいる。
 このようにカランソン村で始まった流し網漁業の発展過程を漁民や商人のライフヒストリーや商人の帳簿類をもとにひも解くことで、これまで明らかにされてこなかった商人や漁撈長・乗組員が漁業の発展に果たした役割、漁業の「近代化」が漁業経営や水産物流通にもたらした影響が明らかになった。しかし、漁撈長の中には漁獲量の減少を訴える者もおり、近年の急激な漁船の大型化、高性能化競争による生産力増加が資源の乱獲をもたらし、漁獲量の減少による経営への影響が懸念される。

<コメントと質問>
 インドネシアの漁港は河口付近の川縁に沿った場所に設置される傾向がある。Google Earthで確認したところ、鈴木氏の調査地である漁村もはっきり確認することができ、漁船の多さなどから漁業に活気づいた町の様子が窺える。

質問
① 村を流れる川は人工的な放水路のようだが、いつ頃、どのようなイニシアチブで作られたのか。

② 村の後背地は農地のようだが、現在のような漁業中心の村落になる前の生業形態は?

③ 近年の水産統計をみると、養殖業の成長が目覚ましいが、調査地の漁業と養殖業の関連は?

④ 漁業における華人商人の役割や関わりは?

⑤ 近年の漁業投資額は莫大な金額であるように思えるが、それに銀行などが貸付けを行っている場合、どのような銀行がいつ頃から参入・展開している?

<報告者の返答>
①チマヌク川は農業用水確保のために1960年代に改修工事が行なわれたが、村の中を流れる川は、改修工事以前にチマヌク川氾濫による洪水防止のための排水路だ。

②カランソン村はもともと農村だ。河口部に小型延縄を営む漁民たちの集落ができ、地主がパヤン漁業の船主となって漁業が営まれた。

③養殖池ではバンデンとエビが養殖されているが、養殖業者は漁民ではない。ただ、魚商人の中には養殖池を所有する者がいる。

④町に住む華人商人たちは、建築業や食品加工業、商店経営など様々な事業を行なっており、流し網漁業の船主もいたが、操業・漁獲物の販売は漁撈長や魚商人に任せており、フカヒレだけは華人自らが扱った。

⑤1990年代頃までは銀行からの積極的な貸付は行われず、土地や建物などの担保、信用のある者の紹介状がなければ、融資を受けることができなかったが、2010年以降、各銀行は競うように船主に貸付を行なっている。

<質疑応答>
質問1.フリーザーの導入によって塩蔵から鮮魚へと市場が変わったのか?燃油価格などは、漁業に影響をあたえるのか?

報告者:①鮮魚市場は1980年代後半の氷の導入により拡大した。②燃料は補助金により市場価格より安く、燃料費が経営を圧迫するには至っていない。

質問2.政府や地方当局による船舶所有の規制や漁獲量の制限基準はあるか?また漁場を変えたりすることで、漁獲高を保つ工夫がなされてきたのか?

報告者:漁船の規模70トンを越えると経営形態や補助金や税金も変る。所有漁船数の制限はない。カリマンタン沿岸で操業する漁船には、州政府発行の操業許可が必要となった。対象魚種に応じて漁網の設置水深を変えている。なんらの漁獲規制がない中で競争が激化すれば、資源の乱獲が懸念。

質問3.ジャワ海をめぐる漁業について、インドラマユの漁民と他地域の漁民とのあいだで、漁場などをめぐる競合は生じていないのか?

報告者:ジャワ海で操業するまき網などとは漁場や対象魚種が異なるため、漁場紛争は起きていない。カリマンタン島沿岸でも現地漁民が少ないため、争いは起きていない。ただし、流し網は様々な魚種を対象とするため、サメやフエダイなどを目的とする延縄漁業との間で競合が生じていると考える。操業規制や資源管理が必要となるだろう。


(文責者:首都大学東京大学院 荒木亮)


2013年度第6回(1月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

関東例会 2014年1月例会(2014年1月25日開催)のご案内を致します。

今回は、小池誠会員による「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」、および、鈴木隆史会員による「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」の2報告です。

詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2014年度1月例会>
日時:2014年1月25日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html


☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:小池誠先生(桃山学院大学国際教養学部教授)
コメンテーター:伊藤眞先生(首都大学東京都市教養学部教授)
報告題:「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」

<報告要旨>

主な対象とするのは台湾在住のインドネシア人移住労働者と彼女/彼らが構築するネットワークである。彼女/彼らがどのようなネットワークを作り上げ、そして、そのネットワーク上で出身地など背景の異なるインドネシア人がいかなる結節点でどのように出会うのか、その実態を明らかにしたい。台湾で働くインドネシア人労働者は2012年6月に185,000人であり、全体の80%以上を女性が占めている。高齢者の介護という名目で雇用主宅に住みこみで働く女性が多い。結節点として第一に挙げられるのが、インドネシア人向け総合店舗(Toko Indo)である。休日には食事や買物・送金だけでなくカラオケを楽しみに多くの労働者が集まる。第二は、金曜日の礼拝やインドネシア人ムスリム団体が主催する宗教イベントである。この他、インドネシア語の活字メディアと、Facebook等のソーシャル・メディアも、離れた地域の労働者をつなぐ役割を果たしている。



☆第二報告(15:45~17:45)

報告者:鈴木隆史先生(桃山学院大学兼任講師)
コメンテーター:加納啓良(東京大学名誉教授)
報告題:「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」

<報告要旨>

西ジャワ州インドラマユ県のカランソン村では1960年代の半ばに流し網が始まる。漁獲物の保存に塩を用いるようになったことで一ヶ月以上の長期間操業が可能となり、水揚量も飛躍的に増加した。しかし、一回の操業に多額の操業経費が必要なため、個人船主ではなく資本を有する魚商人たちが船主となった。一方、大量の塩蔵魚を販売するために商人たちが新たに市場を開拓した。1980年代の半ばになると、漁船の動力化が進み、漁獲物の保存に氷が用いられるようになり鮮魚生産が可能となる。セリ制度の導入で公正な魚価が形成され、水揚金額も増加。経費を短期で回収できるため、独立した個人船主が誕生し、それまでの商人経営の漁船は減少した。2010年になると、GPS、無線機、フリーザーを搭載した漁船が誕生し、冷凍魚が水揚げされるようになった。漁獲物の品質が安定し、水揚金額も増加した。漁船への初期投資に1000万円以上かかるものの、2年以内で投下資本は回収できるといわれ、流し網漁業は確実に儲かる事業と認識され、医者や公務員などの漁民以外の船主が誕生している。

 


終了後、懇親会を用意しております。




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今年度の例会の報告者募集は終了いたしました。
たくさんのご応募どうもありがとうございました。


来年度以降の関東例会の開催日程、報告者募集につきましては、
1月例会終了後にアナウンスいたします。


また下記のブログにて、過去の関東例会の議事録、
及び今後の例会の案内を掲載しておりますので、ぜひご参照ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/


青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程) 
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp




2013年度第5回(11月)の関東例会の報告

2013年11月16日(土)に開催されました2013年度第5回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載致します。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:山﨑美保氏(東京外国語大学大学院・総合国際学研究科・博士後期課程)
コメンテーター:青山亨先生(東京外国語大学大学院・総合国際学研究院・教授)
報告題:「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」


【報告要旨】
 本報告では、バリトゥン王時代に発布された19点の古ジャワ語刻文の分析を通して、バリトゥン王にとってのシーマ定立が、先行研究でも指摘されているように、ラケや寺院を統制するための1つの手段であったこと、そして救済、公共事業 や交易規定などの恩恵にみられるように民衆を王の統治に組み込むための手段として機能していたことを明らかにした。

【コメント】
 研究者が少ないなか、刻文を文字から読むことは有意義なことである。今回の報告では、商業的、農業的な面での経済活動を支える、舟渡しや灌漑などの公共事業のためのシーマ定立、またシーマ定立に伴う商業規定などを、単に社会の構造としてではなく、王の政策としてまとめたところが独創的なところである。
 
【質疑応答】
① 文字の転写に関して、ばらつきがあるので規定を作り、統一すべきだ。
→まだ文字をどのように転写するかは模索中であり、今回使用した転写は利用した文献の転写をそのまま採用している。今後は文字の転写規定をつくり、統一していきたい。

② マンティヤシI刻文とワヌア・トゥンガIII刻文は、誰が発布し、誰が歴代の諸王を列挙し記述しているのか。
→ともに、バリトゥン王が発布した刻文である。マンティヤシI刻文はシーマ定立の儀礼のなかで祈願される神々を列挙する際に、サンジャヤをはじめとし、7人の王のラケ称号のみが記述されている。また、ワヌア・トゥンガIII刻文では、僧院のシーマとなった水田に関して、歴代の諸王がどのような態度をとっていたのかを、その即位年とともに記している。

③ クブクブ刻文の説明の箇所で、灌漑の水路のためにシーマが定立されたとあるが、これは何を意味しているのか。
→刻文の最初の箇所で、シーマが定立される理由が書いてある。サン・アパティの水をこの水路に流すためであると記述されているが、詳細はよくわからない。しかし、「サン」という語は神聖なもの、例えば神などの語の前につけられる冠詞であり、おそらく、このサン・アパティも宗教的な、寺院に関係する人であったと推測できる。そのため、この水路は寺院のため、例えば寺院の水田のために使用されたと考えられる。このシーマはその水路を造るあるいは維持するために定立されたと考えられる。

④ バリトゥン王がカユワンギ王を重要視しているようだが、カユワンギ王とは中部ジャワ時代においてどのような存在であったのか。
→古ジャワ語で王を意味するラトゥではなく、初めてシュリー・マハーラージャというサンスクリット語の称号を用いた王であり、この王の時代に王の権力が強化され始めたと考えられている。

⑤ バリトゥン王の刻文は中部ジャワだけではなく、東部ジャワからも出てきており、バリトゥン王の権威が東部ジャワにまで及んでいるが、このことをどのように考えているか。
→東部ジャワまで権威が及ぶほどバリトゥン王の権威が強化されていたと推測できるが、現段階では考察中であり、明確な答えはもっていない。

⑥ バリトゥン王以前にも東部ジャワの刻文があるのか。
→少数だがある。しかし、中部ジャワの権威が東部ジャワに及んでいたことを示すものではない。9世紀初めには、古ジャワ語で書かれた最古の紀年をもつ、水路に関して書かれたハリンジンA刻文がある。

⑦ 中部ジャワ時代の都の位置は分っているのか。
→刻文の記述から、大まかな場所は推測できるが、特定はされていない。王によって、王宮の所在地は変わっているようである。バリトゥン王時代の刻文の記述から、バリトゥン王の王宮はクドゥ地域にあったと考えられる。

⑧ ラケによるシーマ定立を記す刻文のなかで、王の名前を記すものはバレット・ジョーンズの4つの方式のうち、どれに属するのか。
→その時の王の名前が記されるが、王の命令や恩恵によるものではなく、あくまでラケ自身によるシーマ定立であるので、バレット・ジョーンズは自立型に含んでいる。

(文責:山﨑美保)

第二報告(15:45~17:45)
報告者:梶村美紀氏(東京大学大学院・総合文化研究科・博士課程)
コメンテーター:根本敬先生(上智大学・外国語学部・教授)
報告題:「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」


【コメント】
 全体の感想として、ビルマで「民政移管」が始まって2年ほど経ったいま、在外のビルマ人が将来どうするのか岐路にたたされている時期でありタイムリーな研究課題だといえる。先行研究は軍政期の先の見えない時期に書かれているため詳細な考察が不可能であったが、報告者は軍政後の現実を見据えることができ、ビルマから難民が流出した歴史的な経緯をふまえた上で、24年間というスパンで定住ビルマ人組織の経緯を考察しており、その点は新鮮である。さらに、この経緯を漠然とみていくのではなく、第1期から第5期に分け、時期ごとに議論展開した点が興味深く説得力がある。組織一覧表に活動停止時の情報があればもっとよかったが、配布資料も適切に準備されている。
 次にコメントおよび質問であるが、今後の課題として、まずは比較の研究が挙げられる。政府の難民や外国人の受け入れ政策の不備に対抗すべく、日本では少数民族とバマーの接近がみられたが、諸外国のビルマ難民の状況はどうなのか。例えば、多文化共生政策を国策としているオーストラリアでは報告と全く逆の現象が見られ、民族別にコミュニティを作り、個人レベルの民族間交流はあるが、コミュニティ間の有機的なネットワークは形成されていない。このような違いが生み出される要因を研究していく必要がある。
 第2点は、日本社会がビルマ難民への認識を深めたと指摘しているが、それをどうやって実証できるのか。日本政府によるビルマ難民の受け入れの増加、カレン難民の第三国定住受け入れの開始、ビルマ難民に関連するイベントやエスニックレストランの増加から、日本社会の認識が深まったといえるのかどうか、再考が必要である。日本社会の難民に対する見方を別途調査する必要がある。
 第3点は、日本を含む海外十数カ国で組織形成がなされている在外ロヒンギャが配付資料の一覧表に含まれていないのはなぜか。定住ビルマ人のネットワークを議論していくなら、ビルマでは国民と認められていないロヒンギャを視野に入れる必要がある。質問としては、定住ビルマ人の将来を見据えた日本側の課題、日本の難民受け入れの課題は何かを聞きたい。特にビルマに関しては第三国定住受け入れ政策がうまくいっていないが、この点を含めて課題解決には何が必要なのか見解を聞かせてほしい。

【コメントに対する報告者の回答】
 1点目の比較の研究、以前、韓国の定住ビルマ人を調査研究したが、その際に受け入れ国の外国人政策や社会の受け入れのあり方によって、当事者の活動や意識が全く異なるという点を学んだのでその点をふまえ今後の課題として取り組みたい。オーストラリアやアメリカのように国土が広大な場合は民族毎に集住し、日本、韓国、イギリスなど国土が狭ければ民族に関係なく首都圏など一カ所に集住する傾向が強い。この点を比較したり、それ以外の要因についても研究していきたい。
 2点目の日本社会受け入れの根拠については、新聞記事の分析などを含めればよかった。例えば、日本人に関連した事件をきっかけに日本社会がビルマ国内の動向に注目するようになり、それに関連して日本にもビルマ難民がいるとの認識が共有され、同時にビルマ出身者の難民認定者数が急増したという点を実証すべきだった。
 3点目のロヒンギャ組織については、今回の報告では東京を拠点に活動している組織の一部を対象としているために含んでいない。そのため、群馬が活動拠点のロヒンギャの組織、名古屋が活動拠点の民主化組織やその他の地域の学生組織などは含んでいない。実態としては現在のところネットワークは形成されていないが、現状を問題視している人は少なくない。長期的にみていく必要がある。今後の日本の難民受け入れの展望については、まず失敗要因として、当初の受け入れのあり方、日本に暮らしている同胞と連絡も取れないなど日本政府側が囲い込みすぎていた点が指摘できる。日本の現状では外国人政策の中に難民政策が組み込まれているため、難民政策だけを改善していくのではなく、外国人政策全般の中で考えていく必要があるのではないか。そうしなければ、難民の受け入れという点だけは状況改善されるかもしれないが、その後の定住過程において結局外国人政策に影響を受け、難民が定住先として望まなくなると考えられる。

【質疑応答】
質問1:報告要旨で意識の変容と表現してあったので少数民族個人に焦点を当てた話と思っていたが、実際の報告では少数民族組織の話で、内容も個人の話と組織の話が混同していた。少数民族はビルマ/ミャンマーという国籍を持っているが、ビルマ人という意識を持っていなかったと言えるのか。
報告者:少数民族個人の話ではなく、組織の活動の変容を通して意識がどう変わったかを報告したが、表現が不適切であったかもしれない。本報告では詳細を触れる事ができなかったが、来日前の少数民族の居住パターンを、民族州出身、ヤンゴン出身、そして民族州からヤンゴンへ引っ越しという3つのパターンに分類し考察したところ、少数民族にはビルマ人という意識は希薄である。この点をまずは説明するべきであった。

質問2:ミャンマーではなくビルマという言葉を使用しているが、ビルマをどのような意識で使用しているのか。報告者と少数民族の間でビルマという言葉の捉え方について共通認識はあったのか。
報告者:聞き取り調査では日本に来る前と来てからの経験について述べてもらったため、ビルマ/ミャンマーをどのような意識で使用しているのかについては説明していない。ビルマ国内ではどうなのかという形で使用した。在外活動家の多くは現在の国名であるミャンマーではなくビルマを使用しているため報告者も同様にビルマを使用している。少数民族の中にはミャンマーを国名として使用する人もいる。その場合にはミャンマーを使用した。

質問3:配布レジュメには「ビルマ人」と括弧付きになっているが、括弧付きにはどういう解釈をもたせているのか。
報告者:来日前の少数民族の経歴を考察すると、それぞれ○○民族という意識はあるが、「ビルマ人」という意識があるとはいえない。ビルマ語を話したり、パスポートを持っているが、それが「ビルマ人」という意識を生み出しているとは言えない。その点を表現するため括弧付きにした。
コメンテーター:括弧付きの「ビルマ人」ではなく、ビルマ国民またはミャンマー連邦国民と表現すればこの問題は解決される。連邦国民としてのアイデンティティと民族としてのアイデンティティとどちらが優先されるかという聞き方をしていれば、はっきりと示す事ができた。ミャンマーとビルマについて、なぜこの問題が生じたのかという説明とともに、ビルマを使う理由を示すべきである。

質問4:「ビルマ少数民族」「在日ビルマ人」も同様にそれぞれの少数民族が、ビルマ国籍をもつ少数民族であり、日本に在住するビルマ国籍をもつ人という認識をもつようになったという意味で使っているのか。
報告者:その意味で使用している。

質問5:来日時に少数民族はミャンマー連邦共和国のパスポートを持っているはずであるが、それでも少数民族にはビルマ国民としての認識がなかったといいきれるのか。
質問6:組織としてどう看板をたてるかという点を議論していたのではないか。
報告者:組織のあり方を議論したかったが、そこにいたるまでの説明がきちんとできていなかったために変容したという点が証明できなかった。短時間で出国準備をする場合にはブローカーにパスポート手配を依頼するが、仮名のパスポートの場合もあり、パスポートとアイデンティティは一致しない場合もある。ミャンマー国籍のパスポートを持っていればミャンマー/ビルマ国民という認識をもっているとは言いきれない。
コメンテーター:少数民族の居住パターンに分類して得た結果として、来日後に周りから「ビルマ人」と扱われ最終的にビルマという国家の枠組みの中の少数民族だと意識するようになったという点を説明するべきだ。

質問7:少数民族が作ったAUNにはロヒンギャは入っていない。また一民族につき一組織が参加している。このように参加していない組織をどう扱かうのか。
報告者:AUN設立当初は一民族一組織という方針だったが、現在では同じ民族の複数の組織が参加している。参加していない組織については今後調査していきたい。

(文責:梶村美紀)

2013年度第5回(11月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

11月の関東例会(11月16日開催)のご案内を致します。

11月例会は、通常開催しております第4土曜日が祝日ですので、通常とは異なる第3土曜日に開催致します。通常とは開催日が異なりますので、皆様、ご注意下さい。
また、会場も通常とは異なり、「4階」となっておりますので、こちらもご注意下さい。

11月例会は、山﨑美保会員による「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」及び、梶村美紀会員による「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2013年度11月例会>
日時:2013年11月16日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト4階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:山﨑美保氏(東京外国語大学大学院・総合国際学研究科・博士後期課程)
コメンテーター:青山亨先生(東京外国語大学大学院・総合国際学研究院・教授)
報告題:「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」

<報告要旨>

 ジャワの前近代史研究における一次史料は刻文である。その刻文の記述に基づいた先行研究では、王朝や社会構 造を論じたもの、国家形態を論じたもの、交易や経済との関係から中部ジャワ社会を描くもの、当時の寺院組織や信仰に関して論じたものなど 王朝史や社会構造の観点から国を論じるものが多い。しかし、王がどのように国を統治し、民衆や寺院に対してどのように働きかけていたのかなど、王の統治政策に焦点をあてて論じたものはほとんど見られない。
 本報告では、従来の研究ではほとんど焦点が当てられなかった王の統治政策を刻文の記述から分析し、特にシー マ〔不輸不入地〕の定立が王の統治にどのように組み込まれていたのかを考えてみたい。王の統治政策を分析するためにバリトゥン王を考察の対象に採りあげ、彼の統治期間に発布された古ジャワ語刻文の記述内容から、バリトゥン王が行った統治政策について明らかにする。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:梶村美紀氏(東京大学大学院・総合文化研究科・博士課程)
コメンテーター:根本敬先生(上智大学・外国語学部・教授)
報告題:「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」

<報告要旨>

 2000年代以降、定住ビルマ人は日本における難民庇護者の大半を占めるようになり、目立つ存在になっている。しかも、定住ビルマ人は活発な組織活動を展開している。本報告では、少数民族とバマー(多数派ビルマ民族)の連帯に着目し、定住ビルマ人のネットワーク形成過程を考察する。まず、少数民族とバマーの連帯という観点から、1988~2012年にかけて東京を拠点に活動した組織の変遷をたどる。特に、これまであまり知られていない少数民族の組織活動を明らかにする。そのうえで、来日前にはビルマ人という自己認識の薄い少数民族が、来日後に組織活動への参加を通して意識を変化させる過程と、それに並行して日本社会の定住ビルマ人を捉える視点がいかに変化したのかを分析する。

終了後、懇親会を用意しております。

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今年度の例会の報告者募集は終了いたしました。
たくさんのご応募どうもありがとうございました。

来年度以降の関東例会の開催日程、報告者募集につきましては、
1月例会終了後にアナウンスいたします。

青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程) 
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp
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