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2019年度第5回関東例会(2020年1月11日)

下記の日程にて、関東例会(早稲田大学アジア太平洋研究センター・東南アジア島嶼部現代政治研究部会共催)を開催します。今回は東チモール特集です。
みなさまのご参加をお待ちしております。

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日時:2020年1月11日(土)13:30~17:45
場所:早稲田大学早稲田キャンパス 19号館 710教室(アクセス
例会終了後、1時間程度の簡単な懇親会を開催いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:須藤玲(上智大学大学院)
コメンテータ:福武慎太郎(上智大学)

報告題目:東ティモール教授言語政策の政策形成過程におけるポリティクス
     -「母語を基礎とした多言語教育(MTB-MLE)」を事例にー

要旨:本発表では、2013年から2015年にかけて試験的に実施された「母語を基礎とした多言語教育(MTB-MLE: Mother
Tongue-Based Multilingual Education)」の政策立案プロセスの分析から、多言語状況下にある東ティモールにおいて教授言語政策の政策形成過程におけるポリティクスを明らかにする。発表者は2019年4月、9月にフィールド調査を行い、MTB-MLEの立案に関わった組織・人物に対してインタビューを行った。その結果、MTB-MLEを国際的に推進するUNESCOに影響されて国外から持ち込まれたものではなく、初代大統領、シャナナ・グスマン氏の妻(クリスティ・グスマン氏)が本政策の立案のきっかけを作り、同氏を中心として政策が立案された過程が明らかとなった。東ティモールにおける教授言語政策は、国内外の様々なポリティクスによってなかなか立案されにくい状況にある中、国内外において様々なアクターとのつながりを有する同氏が主導して立案したことによってMTB-MLEが政策として立案されたといえる。しかし同時に、同氏が中心となって立案された政策であるがゆえに被る課題も浮き彫りとなり、当国の教授言語政策の政策形成過程における詳細なポリティクスが明らかとなった。


第二報告(15:45~17:45)
報告者:森田良成(桃山学院大学)
コメンテータ:福武慎太郎(上智大学)

報告題目:穴だらけの国境を越える
     ーティモール島国境地域における「周縁性」の考察

要旨:東ティモール民主共和国の成立によって、ティモール島はインドネシア共和国領西ティモールと東ティモール領とに分かれた。本発表では、東ティモール領の「飛び地」であるオエクシ県を囲む国境に注目する。国家の周縁に位置し、開発の遅れた山村にすぎなかった場所は、国境線が引かれることで、異なる政治経済体制が向かい合う場所となった。そこでは人と物の移動が制限を受けることになり、それゆえに新しい移動と経済的利益が生まれることになった。国境付近で暮らす農民たちは「ねずみの道(ジャラン・ティクス)」を使って「密輸」を行うようになり、それは村の日常の風景として「公然の秘密」といわれるものになっていった。
 本発表では、国境ができたことによって「可能」となった新しい移動の意味と、どちらかの国家の「国民であること」が人々の生活に何をもたらしているのかを明らかにしながら、国家の周縁における国民と国家の関係について議論する。

2019年度第3回関東例会(2019年10月5日)議事録

第一報告(13:35~15:15)
報告者:勅使河原章氏(東京外国語大学大学院)
コメンテータ:菊池陽子氏(東京外国語大学)

報告題目:仏印処理後のインドシナの諸相―ラオス駐在ベトナム人行政官帰国問題とベトナム在住ラオス王子の帰国要請を通して

コメンテーターによるコメント
■仏印は、フランス植民地政権と日本による共同統治が長く続き、1945年3月9日からの仏印処理後、日本の単独支配となった。数年間日本の軍政地域であった他の東南アジアでは、戦後50年の時に資料集の作成や、証言の聞き取りがなされた。しかし、仏印に関しては戦後50年の時にそのような作業がなされず、当時の研究するにあたっては個別に史料を探していかなくてはならない。また、これまでの仏印研究は、ベトナムの個別研究が中心で、ラオスやカンボジアに関しては資料の所在すら検討されてこなかった。 
他の東南アジアとは異なり、仏印は軍政が敷かれず、外交官が活躍しうる余地があった。しかし、日本本国の本省や現地との関係性については明らかになっていない。特に、日本の単独支配の時期に、ベトナム・ラオス・カンボジアの三国間に対して外交的な調整を行った責任者は誰なのかも分かっておらず、史料の有無や所在も確認されていない。

■日本の軍政が一定期間敷かれたラオス・カンボジアでは、第二次大戦後ナショナリズムが昂揚する。多くの研究者は日本の軍政期を、ナショナリズム萌芽の時期として捉えているが、史料がなくその内実は明らかになっていない。戦後70年以上たった今、体験や証言を集めるのが困難な状況のなかで、今後何を史料とし、どのような方向性で研究を進めていくか検討する時期に来ている。今回の勅使河原さんの発表はわずかな史料をもとに構成され、想像の余地が大きい結論が導かれている。しかし、現地のこれまで使われてこなかった史料を掘り起こして研究をするという、一つの方向性を示せたのではないか。

フロアからの質問やコメント
■当時ラオスで働く「外回りで働いている公務員、職人」階層のベトナム人は、何語で
現地のラオス人とやり取りをしていたのか。
=>仏印期のラオスは、都市人口の6割~7割はベトナム人が占め、ラオス人は圧倒的に少数。行政語としてラオス語は機能していなかったのでは。またベトナム人は都市で仕立屋や靴屋などを営んでおり、ベトナム人にとって日常生活のなかでもラオス語習得の必要はない。1941年の資源調査団のラオス訪問時には、働いている人の大半がベトナム人だったとの記録も残っている。

■スパヌボンが、ベトナムの公共事業に携わっていたとあるが、彼はベトナム現地の人とベトナム語でやり取りができたのか。
=>スパヌボンは、ベトナムの中学校と高校を卒業しておりベトナム語ができたのは確実である。

■「ベトナム外務省の職員は塚本ではなく横山正幸に行政官帰還問題について相談していることから、横山がある程度の権限を持っていた」とあるが、ベトナム帝国管轄下のベトナム外務省であれば、総督府の塚本ではなくベトナム帝国の最高顧問の横山に相談するのは当然ではないか。また、行政官帰還問題に関して、ベトナム側と日本側のそれぞれ意向が示せるような史料は見つかったのか。
=>インドシナ総督府の塚本まで本件はあげられずに、横山が最終決裁をしていることから、横山が一定の権限を与えられていたのではないかと考えている。

■横山正幸が行政官帰還問題を決裁したからといって、彼が内実を熟知して決断したとは言えない。横山の当時の役職は軍の嘱託であり、一人の外交官として活躍できるような状況ではなかったことも踏まえておくべき。
「ベトナム人の再雇用に関してはフランス人を解雇してベトナム人を雇用しようとした」
とあるが、それは可能性の話であり、史料がないなかで結論づけるのは慎重になるべき。

■「日本政府」と書いているが、どの機関を指しているのか分からないので、用語について精査するべき。聞き手には行政官帰還問題は見通しが立たずに、場当たり的に対応しているように見えてしまう。今後、どのような方向性で進められていたのか示すべき。

■「ベトナムの行政で重要な役割を果たしているラオス王族はベトナムにとどめる」ことが、
ベトナムのナショナリズムの現れだとしているが、なぜその2つが結びつくのか理解しづらい。

■スパヌボン王子の帰国要請についても、サワン皇太子からの電報と、1ヶ月後の塚本からの電報の2つしか見つかっておらず、経過が分かる史料が出てきていないため、まだ系統だった結論をだせないのではないか。



第二報告(15:45-17:45)
報告者:川島緑(上智大学名誉教授)
コメンテーター:菅谷成子(愛媛大学)

報告題目:「19世紀~20世紀初頭ミンダナオ島ラナオ地方における紙の流通 ―イスラーム写本に使用された紙の検討を通じて―」

 コメンテーターの菅谷氏は、スペイン帝国の統治は文書行政に支えられており、フィリピン統治に関する様々な文書がスペイン本国やマニラの公文書館に保存されており、その中にはフィリピン行政文書特有のデザインの文書もあることを指摘した。それに関連して、最近、マニラの公文書館では、スペイン統治期の文書は現物ではなくデジタル画像やマイクロフィルムで閲覧に供することになっているとの報告者の説明を受けて、紙を調査するためには文書の現物にあたる必要があるため、紙の研究は以前より難しくなっていることが確認された。そのうえで、スペイン政庁の紙の輸入に関する統計資料に関して、紙の種類の分類方法、単位の不統一、紙製品が紙の統計に含まれている可能性等についての質問がなされた。これに対し報告者より、1862年以前の紙の貿易統計にはこれらの問題点があるが、1863年からは紙の分類法が単純化され、単位も重量に統一されたため、1863年の統計を利用した旨、回答があった。菅谷氏は、中国から輸入された紙のなかには、紙巻きたばこ製造に使用されたものが含まれていることを指摘し、これに対し報告者より、貿易統計からは輸入時点で申告された紙の種類はわかるものの、実際にどのような用途で使用されたからは不明であるとの回答があった。さらに、スペイン領フィリピンとミンダナオとの間の沿岸交易の実態や、ミンダナオにおける紙の流通の担い手に関して質疑応答が行われた。
 フロアーからは、港市に輸出用産品を供給する内陸部後背地では、様々な人や情報が行きかう港市におけるよりも宗教運動が急進化しやすいという特徴があり、その点においてラナオ地方とスマトラ島ミナンカバウの間に共通性があるというコメントがあった。また、東南アジア大陸部の貝葉文書・折本との比較の観点から、紙製の写本の耐久性や保存状況を問う質問や、異教徒が製造した紙をイスラーム文書に用いることについてイスラームの観点からどうみるのか、知識伝達の媒体としてではなく、モノとしての紙にはどのような意味があるのか、20世紀に入ってからの紙の輸入先や種類の変容など、多岐にわたる質問があり、これらをめぐって活発に議論が行われた。(文責:川島緑)


2019年度第4回関東例会(2019年11月9日)

下記の日程にて、関東例会(11月)を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。

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日時:2019年11月9日(土)15:00~17:30
場所:早稲田大学早稲田キャンパス 19号館 309教室(アクセス
例会終了後、1時間程度の簡単な懇親会を開催いたします。

合評会
山口元樹『インドネシアのイスラーム改革主義運動―アラブ人コミュニティの教育活動と社会統合』慶応義塾大学出版会、2018年。

本書は植民地インドネシアで「イスラーム改革主義」運動の先駆的な役割を果たしたアラブ系住民が、どのようにしてホスト社会に統合されていったのかを、アラビア語、オランダ語、インドネシア語の文献を駆使して描き出した。
まず著者の山口元樹氏が本書の内容を要約して紹介する。続いて小林寧子がインドネシア近現代史研究の立場から、また中東・イスラーム研究の立場から飯塚正人氏がコメントを発表する。その後、フロアからの質疑応答も含め、ディスカッションに入る。

報告:山口元樹(東洋文庫)
報告:小林寧子(南山大学客員研究員)
コメント:飯塚正人(東京外国語大学)

2019年度第3回関東例会(2019年10月5日)

下記の日程にて、関東例会(10月)を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。

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日時:2019年10月5日(土)13:30~17:45
場所:早稲田大学早稲田キャンパス 19号館 710教室(アクセス
例会終了後、1時間程度の簡単な懇親会を開催いたします。


第一報告(13:30~15:30)
報告者:勅使河原章氏(東京外国語大学大学院)
コメンテータ:菊池陽子氏(東京外国語大学)

報告題目:仏印処理後のインドシナの諸相―ラオス駐在ベトナム人行政官帰国問題とベトナム在住ラオス王子の帰国要請を通して

報告要旨:
アジア太平洋戦争末期仏領インドシナ地域はわずかな期間(1945年3月9日ー8月15日)であるが日本占領下となった。しかしながら当該地域のその間の外交行政活動の研究はほとんど明らかにされて来なかった。仏印処理後のインドシナの諸相を日本国が総督府を統治していた時代に作成されたベトナムに残されている公文書を考察し、従来知られていない案件が明らかになってきたので報告する。一つはラオスのベトナム人行政官の帰国問題でありもう一つはラオス皇太子による副王家の王子帰国要請である。
 フランスの植民地政策でラオスの行政官の多くをベトナム人としてきた。仏印処理によりフランス人が撤退したのち、ラオス政府の上層部サワン皇太子とペッサラート副王はこの機に合わせてベトナム人をラオスから退去させようとはかった。
 一方、サワン皇太子はペッサラートの末弟スパヌボンの帰国を総督府に要請した。要請の理由と総督府の対応について考察する。


第二報告(15:45~17:45)
報告者:川島緑氏(上智大学)
コメンテータ:菅谷成子氏(愛媛大学)

発表題目:19世紀~20世紀初頭ミンダナオ島ラナオ地方における紙の流通―イスラーム写本に使用された紙の検討を通じて―

発表要旨:
写本は単にテキストの媒体であるのみならず、それがどのような材料でどのように作られたかを伝えるアーティファクトでもある。近年、東南アジアのイスラーム写本研究が盛んになり、その影響下、南部フィリピンのイスラーム写本についての研究上の関心も高まりつつある。しかし、「もの」としての写本に注目し、使用されている紙や表紙の素材を記述し、それに基づいてこれらの材料の流通や書籍文化を検討する試みはほとんど行われていない。本研究はこのような研究の先駆的な試みとして、ミンダナオ島西部の内陸部に位置するラナオ地方の個人所蔵イスラーム写本42点に使用されている紙の種類を検討し、18世紀末から20世紀初頭ラナオ地方における紙の流通や書籍文化の一端を明らかにする。ラナオ地方は内陸部に位置し、19世紀末までスペイン植民地政府の直接支配を受けなかったため、従来は、スールー諸島やコタバト周辺に比べ、孤立性が高いとみなされてきた。しかし、これらのイスラーム写本にスペイン、カタロニア産のラグ・ペーパーや厦門から輸入された中国製の手すき紙が使用されていることから、これらの商品がラナオ地方で流通していたことが確認できる。さらに、一部の写本に、粗く太い繊維の手製の紙が使用されていること、および、聞き取り調査から、この地域で、以前はローカルな紙生産が行われていたことも確認できた。さらに20世紀前半に作成された写本には、海外から輸入した機械生産による洋紙が使用されるようになる。以上から、19世紀以前のラナオ地方では、スペイン、中国からの紙の流入、および、ローカルな紙生産技術が、この地域におけるイスラーム知識の普及を支えていたことが明らかにされた。

2019年度第2回関東例会(2019年6月15日)議事録

2019年6月15日に開催されました、2019年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

合評会
長津一史著『国境を生きる:マレーシア・サバ州、海サマの動態的民族誌』木犀社、2019年

プログラム
司会:石井正子氏(立教大学)
15:00-15:40 報告 長津一史氏(東洋大学)
15:40-16:00 コメント1 鳥居高氏(明治大学)
16:00-16:20 コメント2 津田浩司氏(東京大学)
16:20-16:40 休憩
16:40-17:00 コメント3 鈴木佑記氏(国士舘大学)
17:00-18:00 ディスカッション

 本合評会では、まず長津氏が著書の要約を報告した後に、マレーシア政治研究の立場から鳥居高氏、東南アジアのエスニシティ論の立場から津田浩司氏、海民研究の立場から鈴木佑記氏がコメントを発表し、ディスカッションを行った。
 海サマは、東南アジア島嶼部のインドネシア、マレーシア、フィリピンにまたがって居住している。長津氏は、1997年から1999年にかけて、フィリピンとの国境地帯に位置するマレーシア・サバ州センポルナ郡カッロン村で臨地調査を行い、史資料調査とあわせて『国境を生きる:マレーシア・サバ州、海サマの動態的民族誌』を執筆した。
 センポルナ郡カッロン村の海サマと国境との関わりを調査しようと思ったきっかけは、フィリピン側に生きる海サマとの社会文化面での顕著な違いであったという。長津氏は、マレーシアで調査を行う前に、フィリピン・スル諸島の海サマ社会で短期調査をおこなった。カッロン村から90キロメートルしか離れていないタウィタウィ州シタンカイ町では海サマは、きわめて可視的に周縁化されていた。これに対し、マレーシア側の海サマは社会的にも、経済的にも陸サマや他の民族集団と同等の地位を獲得し、地方政治で主要なアクターになっていた。とりわけ驚いたのは、カッロン村の海サマが地域社会で広くムスリムとして認められていたことであった、という。フィリピンの海サマはいまも「アッラーに祟られた民」として差別され続けている。
 こうした気づきから、長津氏は国境が民族に与える社会文化的な意味を、実際に国境に生きる人々の視点から探ろうとカッロン村で定点調査を開始した。すると、そこに浮かびあがったのは、国民や民族など国家が提供する制度に囲い込まれつつも、逆にそれを社会上昇のために利用するなど柔軟に対応し、自らの社会や文化を再構築してきた海サマの姿であった。『国境を生きる』では、このように近代国家に対峙しながら国境を生きてきた海サマの社会文化動態をひとつの民族誌として描きあげた。
 長津氏の著書に対し、鳥居氏は、マレーシア中央政府の政策が国家の周縁部サバ州のコミュニティにあたえた影響を実証的に示した貴重な人類学的研究であるとその意義を評価した。津田氏からは、民族という概念を「海サマ」といった通念上の枠組に限定するのではなく、差異に起因する様々なレベルのエスノジェネシスの過程として捉えてはどうか、という問題提起がなされた。鈴木氏は、タイとミャンマーの国境社会を生きる海民モーケンのあいだにも、海サマに見られるような儀礼の衰退と再編が起こっていると比較研究の展望を述べると同時に、国境がもたらす経済活動への影響を同書の射程に入れる必要性があったのではないかと指摘した。
 長津氏が3名のコメントに応えたのちには、サバ研究、フィリピン研究を専門とする参加者からの質問も寄せられ、活発な議論が行われた。締めくくりとして長津氏がフィールドで撮影した貴重な儀礼の映像が共有された。
(文責:石井正子)

2019年度第1回関東例会(2019年5月18日)議事録

2019年5月18日に開催されました、2019年度第1回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:加藤久美子(上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科・日本学術振興会特別研究員)
コメンテーター:伊藤眞氏(首都大学東京人文科学研究科客員教授)

報告題目:「インドネシア・スラウェシのバジョ集落における儀礼とバジョ起源説」

コメンテーターによるコメント
 まず報告者の研究、および今回の報告の意義として、これまでに民族誌的研究がほとんど行われてこなかった空白地帯(南東スラウェシ)において調査を行ったという点が挙げられる。特に今回の儀礼に関する報告は、南東スラウェシの民族誌的資料を填補するものである。
① 儀礼の名称について
儀礼という文化的行為を正当化する際にブギスの名前が語られているということだが、報告された儀礼の名称等にはほとんどブギス語に関連するような言葉は見当たらない。どちらかというと、インドネシ語なまりの言葉が使われているように思う。今後、研究や調査をしていく上で、こうした言語的な識別、語源というものに関しても慎重になるべきである。
② 後産の処理を重要視する出産儀礼に関して
 ブギスでは、後産の処理を椰子殻などに入れて若い椰子の実とともに地中に埋める。その椰子の成長と子供の成長が比例して考えられている。ブギスの後産の処理では、その後産を儀礼的に殺すという解釈が行われ、その死んだ者が守護霊になると考えられている。後産(羊膜と胎盤)だけでなく、羊水や血液、へその緒などが人格化し、精霊化するという見方はブギスだけでなく、かなり広い地域でみられる。バジョの後産の処理では重しとなるような石を付けて沈めているが、この習慣的行為がどういう認識で行われているのか。
③ バジョ起源神話に関して
 バジョの神話については、すでにいくつか研究がある。バジョの神話で特徴的なのは、Putri Hanyut(彷徨う王女)というものが特徴としてある。Gaynorは、バジョの神話についておおよそ二つの種類があるとしている。一つは、ブギスのルウから大洪水によって流されるものと、もう一つはJohor起源の話である。ジョホール起源の話には、さらに二つのパターンがあり、ジョホールの王国の王女が流される説とジョホールにいたバジョの首長(Papu)の娘が流されるという説がある。さらに、ジョホールから流されて辿り着く先は、ルウ、そこでブギスの叙事詩La Galigoに出てくる大木を切り倒す話と接続し、その際に起きた大洪水で再度流されるという話に続いていく。
 こうした神話や起源説は南スラウェシにたくさんあるので、この中でどういう位置づけで、モラの起源説がどういう特徴がでるのかということを考えていく必要がある。ブギスとかマカッサル、他集団の王国の名前というものがバジャウの歴史の中で定点となっていることを踏まえ、移動する集団の歴史という側面を見ていくと特徴が出るのかもしれない。あるいは、少数民族としてバジョの立ち位置を探る中で、マジョリティとの抗争があるのなら、そちらに着目することもできる。語りだけに特化してしまうと少し扱いが難しいと感じた。

フロアからの質問
① バジョの儀礼は、治療儀礼のみなのか。
バジョ集落で行われる儀礼の多くは「治療」という認識で行われている。こうした「治療儀礼」は、人間に対するものだけではなく、集落や海、舟(木材/森)を対象とするものがある。集落に対して行われる儀礼は、その安全を守るものであったり、海に対して行われるものは大漁を祈るものであったりするが、「治療(Obatan)」という括りで認識されている。舟の修理を請け負う船大工などの中には、舟(木材)に対する治療が施せる者もいて、棲みついた魔物を追い払うことで舟を修理する。今回は、調査不足と発表時間の関係で人間に対する治療儀礼のみをまとめた。
② フィリピン・マレーシアの先行研究と比較して儀礼など共通点があるのか。
 バジョの治療儀礼の中で最も大きいと言われるDuwataの儀礼はフィリピン・マレーシアの民族誌でも言及されている。しかし、管理する国家が異なるという状況の中で、こうした儀礼や慣習の実践が認められる地域とそうでない地域があり、慣習を禁じるような圧力や風潮の中で続けることは難しいと考えられる。しかし、近年のバジョの儀礼に関する研究が少ないため、異なる地域で現在どのような儀礼が行われているかはわからない。
③ モラで形成されるバジョのアイデンティティは、東南アジアに居住するバジョという意識であるのか。言語的な差異が大きく、文化的にも違いがあるのであれば、それぞれ異なる民族集団であるとも言えるのではないか。
 90年代のバジャウ研究の中には、各国に散らばったバジョが一つの集団としての意識を持っていないと言及するものもあった。しかし、近年の観光化の中で、「フィリピン・マレーシア・インドネシアに居住するバジョ」という言葉が広く使用されるようになったことと、フィリピン・マレーシアのバジョとの交流も皆無ではないことなどから、言葉や習俗に多少の差異があっても「バジョ/バジャウ」が一つの集団であるという意識が生成され始めている。少なくとも、報告者の集落では「バジョは世界中にいる」という認識がされていた。
(文責:加藤久美子)


第二報告(15:45~17:45)
報告者:川村晃一氏(アジア経済研究所)、増原綾子氏(亜細亜大学)、見市建(早稲田大学)

報告題目:(ミニパネル)「インドネシア選挙を読み解く」

川村氏は「大統領選と議会選の投票結果から」、見市は「社会運動と政治参加」、増原氏は「世論調査結果からみる政党支持者像」のタイトルで報告した。川村氏は、選挙速報の分析から、大統領選がこれまでで最も得票の地域的偏りが大きく、他方の議会選は最も変動の少ない選挙であったことを指摘した。見市は、社会運動の政治参加の事例として、福祉正義党(PKS)とインドネシア連帯党(PSI)に注目した。両党は、とくにジェンダーについて対照的な主張を行うことで、他政党からの差別化に一定程度成功したと主張した。増原氏は、2018年1月から2月にかけておこなった世論調査から、各政党の支持者の属性や思想的傾向などを分析した。例えば、国民民主(ナスデム)党は従来のイメージに反して、非民主的な意見や宗教的に保守的な傾向が強いことが明らかになった。

フロアからは、もっぱら今回の選挙の背景や捉え方について質問が相次いだ。例えば両大統領候補をポピュリストと捉えられるのか、大統領候補のプラボウォをより高所得者や高学歴者が支持する理由について、などである。川村氏はポピュリストの定義によるが、両候補は既存のエリートに攻撃的とはいえないと指摘した。見市は庶民出身のジョコ・ウィドド大統領とその大衆的な支持に対して、高学歴者が忌避する傾向があることを指摘した。
(文責:見市建)

2019年度第2回関東例会(2019年6月15日)

日時:2019年6月15日(土)15:00~18:00
場所:早稲田大学早稲田キャンパス 19号館 710教室
https://www.waseda.jp/gsaps/access/

合評会
長津一史著『国境を生きる:マレーシア・サバ州、海サマの動態的民族誌』木犀社、2019年

マレーシア・サバ州とフィリピンの国境を生きる海民=海サマ(バジャウ)の視点から国境の意味を探ることを試みた民族誌『国境を生きる:マレーシア・サバ州、海サマの動態的民族誌』の合評会を行う。著者の長津氏が本書の要約を報告した後に、マレーシア政治研究の立場から鳥居高氏、東南アジアのエスニシティ論の立場から津田浩司氏、海民研究の立場から鈴木佑記氏がコメントを発表し、ディスカッションを行う。

司会:石井正子氏(立教大学)
15:00-15:40 報告 長津一史氏(東洋大学)
15:40-16:00 コメント1 鳥居高氏(明治大学)
16:00-16:20 コメント2 津田浩司氏(東京大学)
16:20-16:40 休憩
16:40-17:00 コメント3 鈴木佑記氏(国士舘大学)
17:00-18:00 ディスカッション

2019年度第1回関東例会(2019年5月18日)

下記の日程にて、関東例会(5月)を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。非学会員のご参加も歓迎します。

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日時:2019年5月18日(土)13:30~17:45
場所:早稲田大学早稲田キャンパス 19号館710号室
 https://www.waseda.jp/gsaps/access/

第一報告(13:30~15:30)
報告者:加藤久美子氏(上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科・日本学術振興会特別研究員)
コメンテータ:伊藤眞氏(首都大学東京人文科学研究科客員教授)

報告題目:「インドネシア・スラウェシのバジョ集落における儀礼とバジョ起源説」

報告要旨:バジョは東南アジアに広く拡散居住する海洋民の一派であり、移動性が高く、その起源/故地、移動史は明らかになっていない。フィリピン・マレーシアの先行研究では、地域的優位集団との断絶、格差に関連したバジョの漂着・離散説の語りが示されたが、それは現在の社会的地位を反映し再生産されたものである可能性が指摘された。一方で報告者が調査を行ったインドネシア・スラウェシのバジョは、バジョ起源を語る口頭伝承の中で地域的優位集団ブギスとの婚姻関係を強調する。その一部は地域的優位集団が記録する王国史の内容と重なる。調査の結果、バジョ集落で行われている儀礼様式や儀礼衣装の中にも、ブギスとの繋がりを示す要素が見られた。本報告では南東スラウェシのバジョ集落における口頭伝承と儀礼の詳細を示すと共に、インドネシア・スラウェシにおけるバジョとブギスの関係、およびバジョアイデンティティの様相を明らかにする。

第二報告(15:45~17:45)
報告者:川村晃一氏(アジア経済研究所)、増原綾子氏(亜細亜大学)、見市建(早稲田大学)

報告題目:(ミニパネル)「インドネシア選挙を読み解く」

報告要旨:インドネシアでは4月17日に大統領・議会選挙が行われた。5年前と同じ組み合わせになった大統領選挙では現職のジョコ・ウィドドが再選が確実となった。同時に行われた議会選では与党の闘争民主党が第1党を維持する見込みである。したがって選挙前後の勢力図には大きな変化はないわけだが、決して平穏な選挙ではなかった。野党側の動員が繰り返され、ネット上も荒れ、「社会の分裂」や「二極化」が囁かれた。本ミニパネルでは、3人のインドネシア政治研究者がこれまでの研究を踏まえ、本選挙を読み解く。

2019年度の報告者募集

関東例会は下記のとおり、2019年度の報告者を募集いたします。多くの方々のご応募をお待ちしています。特に締め切りは設定していませんが、早めの申し込みをお願いいたします。

◆ 概要
・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます(報告60分、コメント10分、質疑応答50分)。討論内容は後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用ください。
・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身で依頼していただくようお願いします(どうしても探せない場合は担当理事までご相談ください)。
・ミニ・シンポなど通常報告とは異なる形態の申請も受け付けております。
・これまでの報告事例については関東例会ウェブサイトをご覧ください。 http://kantoreikai.blog.fc2.com/

◆ 開催日程:13時30分開会、17時45分閉会を基本とします。
(1)2019年5月18日(土)、(2)2019年6月15日(土)
(3)2019年10月5日(土)、(4)2019年11月9日(土)
(5)2020年1月18日(土)

◆ 会場:早稲田大学早稲田キャンパス19号館(アジア太平洋研究科) 〒169-0051 東京都新宿区西早稲田1-21-1

◆ 応募方法:以下を記載の上、関東例会委員(kanto.reikai2019[at]gmail.com)にメールで申し込みください。[at]を@に替えてお送りください。

(1)氏名と所属、(2)発表希望日(第二希望まで)、(3)報告題目(仮題可)および報告要旨(300〜400字)、(4)コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)、(5)報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)、(6)希望する使用機器(会場備え付けのWindowsノートパソコン、プロジェクター以外の機材を希望する場合はご相談ください)

◆応募の取り扱い:報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、日程についてご希望に添えない場合があります。また、要旨については書き直しをお願いする場合もあります。

◆ 報告記録:(1)関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。(2)報告記録は、報告者自身でまとめていただくか、あるいは報告記録者を選んでご依頼いただくようお願いします。

◆ 懇親会:例会終了後、1時間程度の簡単な懇親会を開催いたします。

◆ 問い合わせ:関東例会委員 kanto.reikai2019[at]gmail.com

2018年度第5回関東例会(2019年1月26日)議事録

2019年1月26日に開催されました、2018年度第5回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:水野明日香氏(亜細亜大学経済学部)
コメンテータ:根本敬氏(上智大学)

報告題目:「日本占領下のビルマにおける産米増産計画」

コメンテーターによるコメント
報告の学術的貢献は、(1)ビルマ国立公文書館(NAD)所蔵資料を積極的に活用した点、(2)日本占領期にバモオ政権は日本軍に対し「抵抗と協力のはざま」に立った対応を行ったが、その中の土地・農業政策に関する具体的な考察が行われた点、(3)独立ビルマの土地・農業政策との連続性を指摘した点、(4)この時期におけるビルマ共産党の影響力の強さと、同党と社会党との確執が戦後のビルマ政治と経済に与えたマイナスの影響を改めて具体的に指摘している点である。その上で、報告者の先行研究のまとめ方について、次の2点をコメントする。(1)テイラーが日本の占領期から1962年の軍事クーデターまでを1つの「時代」とみなしたのは、この時期には、反英ナショナリズムを軸とした様々な「政治プレーヤー」の活動をコントロールできる存在がなくなったことによる。(2)「断絶」か「連続」かという見方ではなく、1937年4月ビルマ統治法体制→日本占領期→独立期→ビルマ式社会主義期までをつなげて考察し、その上で何が連続し、何が断絶したのかを見極める必要がある。そうしない限り、より深みのある日本占領期の位置づけは行えない。

コメンテーターからの質問
①小作人との紛争調停の問題については、時間の幅を英領後半まで前倒しして見ていく必要があるのではないか。イギリスには、小作料調停に関する資料が残されている。
②産米増産計画に関し、必要な籾の量を1人あたりの年間消費量14バスケット(291.2kg)、精米換算で約200kgになるので、「過剰であった」と述べているが、この数値は1999-2001年の統計におけるビルマ国民の一人当たりの消費量(3.7合前後)と同等であり、過剰であるとは言えないのではないか。
③産米増産計画は日本への戦争協力の一つとして実施されたとされるが、河邊日記では「ビルマ政府が産米増産計画を日本側に一言の相談もなく発表したことに対し、駐在陸軍武官少将の磯村武亮が憤慨した」旨記載されているが、このこととのつじつまが報告ではいまひとつ説明されていないので、より詳しく解釈を示してほしい。
④ 報告中に「ビルマ防衛法第81条2項」とあるが、これはどのような法律か。

報告者からの回答
 先行研究のまとめ方については再考する。質問①については、同意する。英領期の小作争議と戦後の争議は性質が異なると感じている。ご教示いただいた資料は参照してみる。②については、納得した。③について。計画自体は協力事項でも、アッサムへの侵攻について触れた部分もあり、ビルマ政府の発表がフライングだったのではないか。また計画の具体的な内容は、日本軍が合意できるものではなかった。④については、実は調べがつかなかった。再度、資料中の原語を確認して調べてみる。なお②については、フロアからもビルマ政府は、近年に至るまで一人当たり消費量は14バスケットとしている、それは米粉緬などの消費も含まれるためであるとの補足がなされた。

フロアからの質問、コメント
Q:「農業委員会」の設置は日本より早いのか。また「農地管理令」等の日本の法律や政策との比較をより丁寧にやるべき。これを試みた研究があるので、それを参照するように。
A: 調べてみる。

Q: 種籾が1エーカーあたり1.6バスケットの根拠は何か。もっと多い。
A: 分からない。調べてみる。

Q: 形だけでもこのような史料が残っているのは珍しい。「独立」していなければ存在しない。産米増産計画は、マラヤなど近隣への米の輸出は考えていなかったのか。
A: 近隣への米の輸出は書かれていない。

Q: 米作に関して、日本の技術指導はあったのか。
A: そのようなことを書いた資料は見たことがない。

Q: 土地改革について、ビルマ共産党はモデルを外に求めたりしたのか?将来的には、農業集団化につなげる、その前段階と捉えていたのか。
A: ビルマ共産党は、インド共産党の指導で作られた。農業集団化はおそらく考えていなかった。

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:都築一子氏(NPOシニアボランティア経験を活かす会)
コメンテータ:原不二夫氏(アジア経済研究所:名誉研究員)

報告題目:「英領北ボルネオにおける1890年代の日本人移民―南繁蔵の組合伐採事業を中心として―」

原不二夫先生のコメント
一 先行研究者が知ることのできなかったこと,見落としたことを文献のみならず現地調査で発掘した。例えば,
1. 『殖民協会報告』第14号,明治27(1894)年6月23日,p.64「英領印度ニ於ル本邦人ノ事業」に,南繁蔵の「ボリテニオー」渡航が「英領印度」渡航として掲載されていたこと。
2. 1893年の「旅券下付表(渡航目的地北ボルネオ)」になかった移民が,実はオーストラリアを目指した者だったこと。多くが南の隣人だったらしいこと。
3. 大井憲太郎も北ボルネオ入植計画をしていたこと。
4. 南と「小倉幸」移民会社とのつながり。
5. 約10年間の「北ボルネオ渡航目的の旅券下付」が途絶えた原因を明らかにした。

二 さらに説明して欲しいこと
1. 条約改正と日本人移民はどう関わるのか
明治中期の条約改正交渉の末端に,1894年4月の在香港中川一等領事の北ボルネオ調査が繋がっている。ロシアの南下により,日本を障壁にしようとするイギリスの政策で条約改正は進捗しはじめていたが,困難点は国外よりも国民の反対にあった。陸奥宗光外相は,条約改正の成功以外には人心を鎮定することができないと強調して対英交渉を督励した。このような背景で在ドイツ青木公使が1893年11月7日付「イギリス北ボルネオ会社領有地」購入案件の公電を陸奥に打った。1892年クレー総督は帰任途中に同船した鮫島武之助元ローマ公使代理に日本人移民の導入に関して相談した。これが発端となり,1893年12月27日付の北ボルネオ政庁の公式な移民送出し照会へと続いた。外務省は,1894年2月23日付で中川領事に「購入案件」・「移民」調査の内訓をした。日英条約改正交渉に資するものなれば購入を提言するという大役を背負っていたからこそ,イギリス側の意向,及び日本の植民地としての可能性と移民に関する深刻な調査を行った。

2. 1909年に視察した染谷領事は,なぜ1890年代初頭の移民の存在を無視したのか
通商局長萩原守一から在バタビヤ染谷領事に「ボルネオ企業会新設願出ニ付同島事情取締ニ関スル件」1909年3月10日付送第10号が出された。その中には「明治26(1893)年頃本邦政府に買収を願出たることも有り。香港在勤中川領事が視察した後は今日に至るまで何等関係も不相生」とある。このことから記録に残さないための配慮だと考察する。

フロアからの質問1:45名のスキャンダル記事
中外商業新報(明治28年6月8日付)のスキャンダル記事は,香港領事館に提出した25名の救済願届と全く内容が異なっているので事実に反したものである。新聞は読者の関心を惹いて販売数を増やすために,故意に事実に反した記事を書くことがある。外務省の担当官は多種類の新聞を読み情報を常に収集していた。そのような情報収集で得られた当該スキャンダル記事を添付して通商局長は兵庫県知事に事実確認の照会を出した。

フロアからの質問2:1894年は移民史の中で転換期だったという報告があったが,どのように引用資料として使用できるのか
1894年4月に「移民保護規則」が公布された。岩本千綱のシャム入植計画・南の事業計画は,同規則の公布前から始まっている。公布前には違法でなかった移民募集が,公布後には違法になった。南の場合は,公布されたことを知らずに移民募集をして違反になったが,その後,「小倉幸」移民会社の移民取扱人代理人認可が出された。南の事例は、同規則に従って処理されていることを証明している。

(文責 都築一子)

2018年度第5回関東例会(2019年1月26日)

下記の日程にて、関東例会(1月)を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。

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日時:2019年1月26日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

第一報告(13:30~15:30)
報告者:水野明日香氏(亜細亜大学経済学部)
コメンテータ:根本敬氏(上智大学)

報告題目:「日本占領下のビルマにおける産米増産計画」

報告要旨:本報告では、ミャンマー国立文書館に残された史料を利用し、1944年1月末から1945年にかけてビルマで実施された産米増産計画(Paddy Cultivation Scheme)の分析を行う。産米増産計画とは、①各県、郡、村落に農業委員会を作らせる、②中央で計画した耕作目標面積を、各県、郡、村落の農業委員会に割り当て耕作させる、また農業融資もこれらの委員会を通じて行う、③全ての地主は農地を貸し出す努力が求められ、地主が自力で小作人を見つけられない場合、政府が土地を収用し、村落農業委員会を通じて適切な小作人を斡旋することを骨子とした計画であり、全国規模で実施することが意図されていた。報告ではこの計画を分析し、歴史的文脈に位置づけることにより、これまで明らかにされていない日本軍の「独立」ビルマ政府への関与、日本の占領下での政策と独立後の政策の系譜的連続性、またビルマ共産党による戦時下での農村部の組織化活動の一端を示すことを目指す。

第二報告(15:45~17:45)
報告者:都築一子氏(NPO シニアボランティア経験を活かす会)
コメンテータ:原不二夫氏(元南山大学教授)

報告題目:「英領北ボルネオにおける1890年代の日本人移民—南繁蔵の組合伐採事業を中心として—」

報告要旨:1893年から95年にかけて日本人移民が英領北ボルネオ(以下北ボルネオ)へ渡航した先行研究がある。本発表の目的は,先行研究で明らかにできなかった「1893年の移民」を検証し,「1896年から北ボルネオ渡航旅券獲得者が約10年間途絶えた理由」を考察する。1893年夏に,和歌山県の17名が到着した。彼らは,同郷の資本を募り,木材コンセッションを獲得して南繁蔵をリーダーとする組合伐採事業を始めた。海外移住関西同志会も移民を送った。1895年に移民が予定の乗り継ぎ船に乗れず滞在費不足になり香港領事館に救済申請をした。中川領事が,「移民保護に関する意見書」で領事館と移民代理支店の無い北ボルネオへ自由渡航移民を送る危険性を指摘した時,大井憲太郎の「北ボルネオ開発計画」が調査されていた。大井に関する調査と「意見書」によって,自由渡航移民の容認は警戒に変わった。この政策変更が,北ボルネオ行き旅券獲得者が約10年間途絶えた主因であると考察する。

2018年度第4回関東例会(11月17日)議事録

11月17日(土)に行われました,2018年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:茅根由佳( 京都大学東南アジア地域研究研究所 )
題目: 現代インドネシアにおけるシーア派排斥運動の起源と展開
コメンテーター: 横田貴之(明治大学・准教授)


■横田貴之先生のコメント
中東諸国では2011年のアラブの春以降、イスラーム主義は役割を終えたと捉えられる傾向にあり、それに伴ってイスラーム主義研究も退潮している。他方で、インドネシアでは近年になってイスラーム主義運動が盛り上がりを見せている点が特徴的である。報告では従来穏健とされてきたナフダトゥル・ウラマー(NU)のメンバーによるシーア派排斥運動に焦点を当て、同国のイスラーム主義の展開を検討した。
湾岸諸国、とくにサウディアラビアでは1979年のイラン革命以降、国策として反イラン、反シーア派の言説が拡散されてきた。同国の反シーア派言説の政治的利用は、イブン・タイミーヤやムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの思想を端緒とする。近年では、イラクのザルカウィ・グループやISISも類似の言説を利用している。それではインドネシアの反シーア派の言説は一体どこから来たのか?
報告では、近年のインドネシアにおけるシーア派排斥運動の担い手として、サウディアラビアのウラマー、ムハンマド・アラウィ・アル・マリキに系譜を持つNU内の勢力(マリキの弟子たちと「NU正統派」)について分析した。マリキはワッハーブ派が主流派のサウディアラビアにおいて、スーフィーとして異端視され迫害された極めて珍しい存在であった。マリキ自身は、異なる考え方を異端視して否定するワッハーブ主義に批判的立場を示してきた。興味深いのは一体なぜ、異端と見なされたマリキの元に多くのNUの人々が集まり、なぜ彼らの中からワッハーブ主義と類似の反シーア派言説を利用するものが現れるようになったのかという点にある。
質問は、(1)インドネシアにおけるシーア派の実態や政治的位置付けについて、(2)シーア派排斥運動を担うNU正統派の目的、(3)イスラーム主義におけるNU正統派の位置付けに関するものであった。

報告者の回答
(1) インドネシアのシーア派はハドラマウト出身で預言者の子孫を名乗るアラブ系インドネシア人(サイイド、ハバイブ)が担ってきたが、1979年のイラン革命以降には非アラブ系の人々も数多くシーア派に転向した。国内の政治的立場としては、一部がシーア派を擁護する穏健派組織ないし世俗ナショナリスト系政党との同盟関係を強めてきた。例えば与党闘争民主党からはシーア派知識人であるジャラルディン・ラフマットが2014年に出馬、当選を果たしている。
(2) NU正統派はマリキの弟子たちの第二世代にあたる宗教指導者たちであり、民主化後、NU内の権力闘争で指導部参入を狙って台頭した。近年では、国政レベルでのシャリーアに基づく(イスラーム共同体のための)統治を目指し、影響力行使を図っている。
(3) インドネシアにおけるイスラーム主義は、1960年代以降サウディアラビアと緊密なネットワークを築いてきたナッシール(元首相・マシュミ党党首)やエジプトのムスリム同胞団に影響を受けた学生運動によって担われてきた。NUに関してはイスラーム主義を批判してきた穏健派指導者の役割が強調される一方で、NU正統派など組織内のイスラーム主義の存在は等閑視されてきた。NU正統派は伝統的法学派の権威や預言者ムハンマドの誕生祭などの慣習を重視する一方で、「異端」や「逸脱」に関しては極めて厳格な解釈をとる点でサラフィー主義への近親性を自認する。

●フロアからの質問(抜粋)
・NU正統派はどのような階層から支持を受けているのか?
(回答)支持者は貧困層から富裕層までおり極めて幅広い。特定の階層ではなく、既得権層批判を消費するソーシャルメディアユーザーを主なターゲットとしている。
・なぜ2010年代以降にシーア派排斥運動が増加したか?
(回答)シーア派排斥運動は1998年の民主化以降増加傾向にあるものの、2010年代に増加した背景には、中東情勢における宗派対立の加熱という国際要因に加えて、インドネシアにおいてイスラーム主義勢力が直接選挙や司法制度の有用性を学習したためであると考えられる。
・スハルト体制期に国家はシーア派をどのように捉えていたのか?また、同時期における異端と正統をめぐる議論はどう位置付けられるのか?
(回答)スハルト体制期に宗教省の管轄下にあったインドネシアウラマー評議会は、イランとの外交関係に配慮してシーア派を異端と認定せず、宗教活動も禁止しなかった。現在のインドネシア政府も同様の立場をとる。スハルト期のシーア派に関する異端と正統をめぐる議論は主に、出版や討論を利用した知的活動によって展開されてきた。民主化後、「多数派」が政治的影響力の源泉になると認識されるようになり、少数の「異端」排斥をアジェンダとする大衆動員や扇動を伴う運動に発展した。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:山本博之(京都大学東南アジア地域研究研究所)
題目:二重写しの国民的英雄――マレーシアの映画が描くハントゥアの正義・公正観
コメンテーター:弘末雅士(立教大学・名誉教授)


■弘末雅士先生のコメント
 演劇、映画、テレビドラマ等を社会史研究の資料にすることには二つの重要性がある。1950年のインドネシアの識字率は約10%で、人々は新聞よりも物語や演劇を通じて情報を共有していた。我々歴史学者は文字資料でナショナリズムや国民統合を研究しているが、文字資料の多くは宗教やエスニシティごとに刊行されるため、宗教やエスニシティが違う人々と日常で付き合う人々が実際に社会統合をどう考えていたかは文字資料ではでてこない。そういう中、演劇や映画には様々なエスニシティや宗教の人の交わりを題材にしたものがでてきており、活用すべき資料だと思う。
 演劇と言えば、インドネシアでは19世紀終わりにコメディ・スタンブルが流行った。インドネシアの演劇ではニャイの物語が人気で国民的英雄は出てこなかった。マレーシアで国民的英雄のハントゥアが演劇に出てきたのは興味深い。報告で紹介された映画の原典にあたるヒカヤット・ハントゥアは、スーフィズムの考え方がよく出ていて、スジャラ・ムラユと並ぶマレー語文学の二大傑作である。原典について大事なのは、スルタンすなわち支配者の物語ではなく、被支配者から見て支配者がどうあるべきかがテーマになっていること。そういう語りの伝統を引き継いできたマレー人の間で独立後もハントゥアとハンジュバをテーマにした物語が様々なメディアに常に出てくることが面白いし、1950年代の社会主義が盛んな頃にハンジュバを社会主義的反逆と読み替えた作品が出てくるのは現代のスーフィズムを思わせて興味深い。演劇や映画は人々の具体的な思いや営みといった文字資料から見えないものが見える媒体で、解釈にリテラシーが求められるという問題はあるが、社会史研究の非常に重要な資料だと改めて考えた。

■報告者の応答
 演劇の重要性は、観客が見て理解しやすいことに加え、自分で演じて内面化していくこともある。ハントゥアの物語はマレーシア各地の学校の演劇クラブで演じられており、資料があれば調べてみたい。ニャイの話と関連して、バンサワン演劇でハントゥアの物語が演じられる際に恋愛の物語になったことは一度もなかった。女性が出てくることがあっても、ハントゥアが女性をスルタンに差し出すことで男同士の絆を強める物語として登場した。1956年の映画でハントゥア物語に男女の恋愛要素が入るようになった。ナショナリズムと映画の関係については、きちんと調べてはいないが、東南アジア各国で地元の映画制作会社ができた時期と、全国的なナショナリズム運動の組織ができた時期とが大体重なるという印象があり、ナショナリズム運動の展開と映画の商業的な展開の重なりについても今後考えてみたい。

■質疑応答(抜粋)
質問:マレー人がクリスを掲げたときに華人は自分たちが攻撃されていると感じたのはなぜか。ハントゥアが国民的英雄であるならマレーシア華人にとっても自分たちの英雄であり、ハントゥアの象徴であるクリスが掲げられたら自分たちも守られると考えるのではないか。
回答:クリスを掲げたのがマレー人政党UMNOの大会だったため。クリスを掲げた政治家は日頃から危なかしい言動をする人ではあったが、マレー人の利益のために挑発的なことをあえて言うのがUMNO青年部長の役割だと考えた面もあったと思う。いずれにしろ、クリスが掲げられたのがマレー人の利益を守る政党の大会で、華人はその政党の庇護の対象外なので、華人は自分たちが攻撃の対象だと感じた。
質問:ハントゥアを引き合いに出すとハンジュバのイメージが出てしまうという二重写しの混乱に関連して、1956年の映画でハンジュバとメルーが犠牲になるのは作劇上ハントゥアの魅力を際立たせる仕掛けだと思うが、観客がハンジュバに親近感を持ってしまうことをどう考えるか。ハントゥアが情のない人に見えてしまう要因は、原典と現代的な展開のどちらにあるか。
回答:現代的なアレンジが大きいのではないかと思う。1956年の映画を監督したインド人がインドの物語を注入した影響があるかもしれない。映画の制作当時、監督がインド的な要素を入れすぎたためにマレー的な物語でなくなったという批判があった。ただしどの部分がインド的かについて資料的な裏付けがなく憶測の域を出ない。なお、死ぬという意味で犠牲になったのはハンジュバとメルーだが、犠牲の意味を広くとると、ハントゥアに騙された形でスルタンに嫁いだトゥンテジャもハントゥアを好きになって犠牲になった人物で、マレーシアではトゥンテジャへの仕打ちを一番ひどいと言う人が多い。
質問:UMNOでなく野党がハントゥアの物語を使うことはあるか。
回答:UMNOほど体系的ではないが、ハントゥアとハンジュバの物語を使っていた。例えば、旧野党のアヌアル・イブラヒムは、1962年の『ハンジュバ』という映画と自分を重ねて、ハンジュバが訴えた正義・公正(keadilan)とアヌアルが結成した国民公正党(Parti Keadilan Nasional)が繋がっているという見せ方をした。
(文責:光成歩)

10月27日(土)に行われました、2018年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:高田知仁会員(サイアム大学日本語コミュニケーション学科学科長、タイ日文化研究センター長)
題目: タイの寺院螺鈿扉に見るモチーフ・文様・表現技法の変遷とその歴史的意味
コメンテーター:小池富雄(鶴見大学文学部文化財学科・教授)

小池先生のコメント
 現在まで、タイの螺鈿工芸についてほとんど何もわかっていない。したがって今回の研究では、螺鈿扉に描かれた文様のブッダの象徴・梵天・帝釈天の意味上の解釈と言ったモチーフ解釈を含め極めて先駆的な研究であると言える。タイの螺鈿作品が、威信財として王権を表するものだったことは日本での螺鈿工芸の立場とも重なる点で興味深い。
 日本でも貝の使用は古い歴史とともに交易についても指摘することができる。特に17世紀頃からの琉球・中国との交易のほか、タイとの交易も注目できる。実際京都の民家からタイ産と見られる漆も発掘され、安土桃山時代の建築ラッシュを支えていたと見られる。こういった交易上に立つ貝文化と言った点からも、今後焦点が当てられて然るべき分野である。
 タイの螺鈿の起源がわかっていない点については、今後考古学発掘調査によって、わずかな断片でも発見されれば、分析科学によって解き明かされる可能性がある。実際30年前は琉球の螺鈿文化は認められていなかったが、その後の地道な発掘調査によって、今では琉球の螺鈿文化が認められている。タイでも分析科学の力を借りつつ文献研究や技法の研究が進むことを期待する。
 また、日本・タイ・カンボジア・ミャンマーといった地域の漆器との比較研究によって、交易の実態も含め、技法の関係性も解き明かされることが期待される。技法的には、いかに貝を切るか、いい色を出すかと言った技術を解明していかなければならない。

質疑応答
質問1: 螺鈿扉の数と分布域はどの様になっているのか。
回答: アユタヤ周辺とバンコクの寺院にあったが、現在多くがバンコクにある。一番北に位置するものでは、ピサヌローク県に現存例がある。チェンマイにも仏足があるが、これはアユタヤの職人によって制作されたと推測される。数量的には、第1期が最も多く、アユタヤ時代のものだけでも7対を数える他、経厨子などへの転用例も散見される。ラーマ1世時代のものはさらに多い。

質問2: 螺鈿に関する古い史料はどんなものがあるか。
回答: ターシャルの著した『シャム渡航記』には、王室船の船首に螺鈿の装飾があったことが書かれている。『カムハイガーン・クンルワンワットプラドゥーソンタム』や、『三印法典』にも螺鈿職人や螺鈿扉の建立について書かれている。

質問3: ラオスでは漆と土を混ぜる例があるが、タイの場合はどうか。
回答: 現在はココナッツの炭粉を混ぜるが、文献では、バナナの葉やチガヤを焼いた炭や煤が出てくる。伝世作品においてどのような素材が混入されたのかは、今後の課題としたい。

質問4: トライプームやデーヴァラージャといった思想のほかにパンヤースジャータカや、ミャンマーの経典、特に後者は1750年頃の成立だが、関連性はどうか。
回答: 未見であり、是非参照したい。

質問6: 螺鈿工芸の起源としてタイに渡った日本人町の居住者は考えられないか。
回答: 江戸幕府の海外渡航禁止令で新たな日本人の移入が絶え、混血が進んだ。タイに渡った人の中に螺鈿職人がいなかったとは言い切れないが、世代的に降り、また異なった技法であるため、日本の技法が伝えられたというには無理がある。

質問9: 第2期には華僑の3世4世が職人となっていたというが、どういうことか。
回答: タークシン王時代の移民を想定できる。作品は中国的な要素も強いが、タイ伝統的な技法の上に新たな技法が導入され、その受容にも差が見られることから、タイ生まれの華僑が関わっていたと想定できる。

質問10: 第1期の作品が国王の権威を示していることは想定できないか。
回答: ビシュヌ像を国王の象徴としてあげている説があるが、むしろ人間界を象徴するととりたい。


☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:片岡樹会員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
題目:日本宗教史モデルは東南アジア宗教の説明にどこまで使えるか―顕密論から見たタイ宗教論の試み―
コメンテーター:中西裕二(日本女子大学人間社会学部文化学科・教授)

■中西裕二先生のコメント
 本発表は、単純に顕密仏教をタイに当てはめたものではなく、タイにおける神仏の関係を、「顕密」という考え方で捉え直そうとする試みである。黒田が唱えた顕密体制論は、仏教と神祇祭祀は対立していたのではなく、仏教という共通前提の上に競合関係を構築していたと指摘するものである。このような関係性は明治期の神仏分離で崩壊したとされているが、日本国内で調査を行なって来た立場としては、依然として日本社会では根強く存在していると感じている。
 発表のポイントは、日本とタイにおける「異なる近代」のあり方である。日本は明治期、神仏を切り離すことで関係をリニューアルしたが、タイにおいては依然として習合したままとなっていることは興味深い。ただ、神と仏の関係性は描くことが難しく、自分も含め今後とも模索していく必要がある。

■質疑応答(抜粋)
発言1
・一口に顕密論というが、範囲が広く、具体的に何に焦点を当てているのか曖昧。顕密体制の終了時期をいつととらえるか。神仏習合の存続という点からは明治維新まで継続しているが、政教関係という意味では信長の叡山焼き討ちで終了している。どちらの顕密を意識しているのか、認識にブレがないかどうか。
(回答)「顕密」という枠組を用いる際、自分の説明にズレがあるのは事実。今後整理していきたい。

発言2
・大乗仏教と同様に、上座仏教にも雑多性・混沌性があるのではないか。タイの神仏習合は理論武装を欠いているというが、梵天や帝釈天を仏教的世界観の枠組内で整序するような理論化はあるのではないか。
(回答)大乗仏教に限らず、その周囲全体もハイブリッド化していると考えている。上座仏教においても外部価値観の取り込みは行われており、理論武装も一部ながら確認できる。

発言3
・発表タイトルには「東南アジア」が含まれているが、内容は仏教が中心。顕密体制的な政教関係が存在するとして、キリスト教徒やムスリムは顕密体制の傘下に組み込まれることになるのか。また東南アジアの他の国の事情はどう説明するか。
(回答)タイ国内では仏教教団に対する王法仏法相依論にもとづく相互依存関係のモデルがそのまま他宗教にも適用され、国王が仏教教団を保護するのと同じ論理で他宗教の保護も行っている。ただしここで提示するタイ国のモデルが、他地域に適用可能かについては議論の余地がある。たとえばミャンマーでは聖俗ないし僧俗の線引きの論理がタイ国と大きく異なるので、単純な比較は難しい。

発言4
・タイには様々な民族がいるが、これはタイの宗教事情にどのような影響を与えているのか。
(回答)大乗仏教に関しては、ベトナム系寺院・華人系寺院が存在しているが、それは開祖の出身地と経典の使用言語を示すもので、今日のエスニシティーには何ら関係がない。たとえばベトナム系寺院の僧侶がベトナム人である必然性は皆無である。一方、上座仏教に関してはサンガ統一以前、それぞれの民族性を反映させたサンガが存在していた。

発言5
・顕密体制が成り立つための条件を考えている。やはり稲作農耕による定住度の高い社会の成立が、荘園制度に基づく寺社勢力の全国的系列化を可能にしたのではないか。
(回答)稲作農耕という視点は、日本とタイの類似点よりは差異を説明する。土地が希少資源だった日本では土地の支配権の安堵によって権力のヒエラルキーが成立していた。しかし人間が希少資源だった東南アジアでは、支配地の拡大ではなく王都周辺に人口を集中させることで国家形成が進められた。

(文責:片岡樹)


2018年度第4回関東例会(11月17日)のご案内

11月17日(土)に、下記の通り、関東例会を開催致します。
皆様のご参加をお待ちしております。

**************
日時:2018年11月17日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:茅根由佳( 京都大学東南アジア地域研究研究所 )
題目: 現代インドネシアにおけるシーア派排斥運動の起源と展開
コメンテーター: 横田貴之(明治大学・准教授)

<報告要旨>
 本報告では、従来穏健であると見なされてきたインドネシア最大のイスラーム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU)に着目し、近年シーア派に対する排斥運動が多発している要因を明らかにする。NUに関する先行研究は多宗教の共存を説き、少数派の権利を擁護する穏健な指導者たちの役割を強調する一方で、同組織における排外的勢力の存在を等閑視してきた。そのため、なぜ1998年の民主化後にNUのメンバーによるシーア派排斥運動が生じるようになったのか、その理由を説明できない。
 本報告では以下の仮説を検証する。NU内における反シーア派意識は、抑圧的なスハルトの権威主義体制によって不可視化されてきた。しかし民主化後、シーア派排斥のアジェンダはシーア派に脅威を抱くメンバーの共鳴を広く得ただけでなく、穏健派指導者たちに批判的なNU内外の反抗勢力の凝集性を効果的に高めた。これらの仮説の検証を通じて、本報告ではこれまで見落とされてきたNU内の多様性のみならず、宗教的正統性をめぐる諸勢力間の競争とダイナミズムを示す。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:山本博之(京都大学東南アジア地域研究研究所)
題目:二重写しの国民的英雄――マレーシアの映画が描くハントゥアの正義・公正観
コメンテーター:弘末雅士(立教大学・名誉教授)

<報告要旨>
東南アジアのナショナリズムは、多様な背景を持つ人々が自らを運命共同体であ
ると認め合うことと、異民族による植民地支配から自らを解放することという2
つの側面を持ち、前者は独立後も課題であり続けている。従来のナショナリズム
研究が新聞・雑誌の役割に注目したのに対し、本報告では映画に目を向け、独立
後のマレーシアにおいて、国民的英雄の官製イメージが強化される裏でその対抗
イメージが創出され浸透していった様子を明らかにする。マレーシアの国民的英
雄ハントゥアは君主に忠誠を尽くすマレー人社会の勇者として知られ、その物語
は教科書や叙勲を通じて国民に教化されたが、他方で映画では残忍・不正な君主
への反逆に重きが置かれ、その結果ハントゥアと仲間の物語は対立する2つの正
義・公正観を纏うことになった。2000年代以降の「ハントゥアは中国人か」など
の論争を経て、今日のマレーシアでは理想の国民的英雄に動揺が見られる。

**************

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。
ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。
関東例会のブログ(http://kantoreikai.blog.fc2.com/)には、過去の議事録も掲載しております。ぜひご参照ください。

関東例会委員

2018年度第3回関東例会(10月27日)のご案内

10月27日(土)に、下記の通り、関東例会を開催致します。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

**************
日時:2018年10月27日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

<プログラム>
☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:高田知仁会員(サイアム大学日本語コミュニケーション学科学科長、タイ日文化研究センター長)
題目: タイの寺院螺鈿扉に見るモチーフ・文様・表現技法の変遷とその歴史的意味
コメンテーター:小池富雄(鶴見大学文学部文化財学科・教授)

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:片岡樹会員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
題目:日本宗教史モデルは東南アジア宗教の説明にどこまで使えるか―顕密論から見たタイ宗教論の試み―
コメンテーター:中西裕二(日本女子大学人間社会学部文化学科・教授)

<報告要旨>
☆第1報告:高田知仁会員
 タイには螺鈿工芸の伝統があることは現存作品から知られているが、その中でも寺院扉は螺鈿作品として大変大形のものであり、その多くは制作に王家が関わりを持つ作品である。そうした作品には王朝年代記や銘文から年代がわかる作品が含まれている。つまり、そうした螺鈿扉は各時代の最高の技術をもって造られた作品であると言うことができる。
 しかしタイの螺鈿工芸が始まって以来の変遷については、これまで詳しい研究が行われておらず、文様様式やモチーフの持つ意味、そして制作技法も含めて不明な点が多い。
 そこで本発表では、各時代の王朝美術の特徴が明瞭に表現されていると期待される螺鈿扉を中心として、特に年代が判明している作品を基準作として取り上げ、そこに現れているモチーフ・文様様式・表現技法の変遷を検討することによって年代の不明な作品を含めた時期の区分を行い、さらに螺鈿扉から読み取れる歴史的な意味を明らかにしたい。

☆第2報告:片岡樹会員
 本報告では、タイ国の事例から、日本宗教史論のモデルをヒントに東南アジア宗教を再検討することを試みる。タイ宗教論の分野では近年、国家公認の正統サンガを中心において構築された従来の研究パラダイムに対する新たな問題提起が相次いでいる。それをもたらしたひとつの要因は、タイ仏教といわれるもののハイブリッド化が顕著に進展しているという事実であり、さらにその背景にあるのは、中国系、インド系、土着民間信仰系など、従来の上座仏教論ではじゅうぶんにカバーできない要素の増殖である。こうした状況は、上座仏教、大乗仏教、ヒンドゥー教、あるいはタイ人、中国系・インド系住民というような、既存宗教を単位にとりあげそれを民族集団ごとに切り分けるアプローチがすでに非現実的であることを示している。本報告ではこの状況を統一的に把握するための新たな試みとして、日本宗教史論特に顕密体制論の応用を仮説的に提案する。もちろん荘園制度に裏打ちされた権門寺社による全国の末寺末社の系列化という日本の特殊事情が、ただちに現代の東南アジアに当てはまるわけではないが、両者の異同を考察することで、日本発の東南アジア宗教論モデル構築の可能性が見えてくるだろう。

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例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。
ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。
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