関東例会10月例会(10月22日)のご案内

2016年度第4回関東例会を10月22日(土)に開催致します。

今回は、持田洋平会員による「シンガポール中華総商会の社会的機能の形成――その設立と初期活動を中心に」と、宮川慎司会員による「電力制度に関するインフォーマリティー ―フィリピンにおける「盗電」を事例に―」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

日時:2016年10月22日(土) 13:30~17:45

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30) 
報告者:持田洋平(慶應義塾大学・文学研究科・後期博士課程)
題目:シンガポール中華総商会の社会的機能の形成――その設立と初期活動を中心に
コメンテーター:村上衛(京都大学人文科学研究所・准教授)

<報告要旨>
 シンガポール中華総商会はその設立以降において、商業を管轄するのみならず、幇派により分断されていた華人社会をまとめる代表者としての機能を果たした。しかし清朝による規約にあげられているのは商業の管轄に関する内容のみであり、現地の華人社会をまとめるような内容は含まれていない。であるならば、このような機能は清朝が想定していた商業会議所としての本来の機能ではなく、シンガポール華人社会という場において副次的に備わったものであると考えるべきであろう。しかし、その具体的な過程に関して検討した研究は管見の限り存在しない。
 本発表は、この組織の創設過程と設立当初の運営・活動などについて、華人社会内部の幇派による分断とその克服のための試みという観点から整理することにより、この組織が商業の管轄という枠を超えて華人社会全体を代表するような役割・機能を担うことが可能となった歴史的・社会的背景を明らかとする。


☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:宮川慎司(東京大学・博士課程)
題目:電力制度に関するインフォーマリティー ―フィリピンにおける「盗電」を事例に―
コメンテーター:受田宏之(東京大学・准教授)

<報告要旨>
 近年、新制度学派が影響力を増し、多くの人々に経済活動への参加を促すような政治的、経済的制度の整備が目指されている。この考えと方向を一にする2001年のフィリピンの電力産業改革法は、電力公社を民営化した。利益を追求する民営電力会社は、主に貧困層が行う電力の違法利用である「盗電」への対策を強化した。その結果、現実には以下のように、制度への適応が困難な貧困層の経済活動への十分な参加が妨げられている。
 まず、上記の盗電対策の強化は、電力に支出の多くを割くことを強い、貧困層の生活を困窮させている。
 さらに仮説として以下が挙げられる。制度改革以降、正規契約者に発行される料金表に、電力会社の盗電による損失の補填料金が記載されている。盗電分の負担の明示化は貧困層と中間層の社会的分裂を招き、両者の経済圏の分離につながる可能性がある。
 本発表では以上の点に関し、電力制度の検討とマニラでの盗電に関する現地調査から考察する。


例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて懇親会を予定しております。

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ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までご連絡ください。([at]を@にして下さい)

2016年度第3回関東例会(6月25日)議事録

2016年6月25日に行われました、2016年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:加藤久美子 (上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科・院生)
題目:インドネシア南東スラウェシ州ワカトビ県バジョ集落モラにおける開発と観光地化
コメンテーター: 鈴木佑記 (東洋大学アジア文化研究所)

コメント(鈴木佑記氏)
 本報告は、対象地域における開発と観光地化に関わる多様なアクター(村落住民、地方政府(県レベルの行政)、中央政府(国家行政)、超国家的組織(NGO等))を分析し、その開発・観光地化が進展していく模様を明らかにした。その過程では、アクター同士の目的が異なっているにも関わらず、ときに共謀・協力しており、開発の重層性というものが明らかになった。さらにこの開発・観光地化の進展に伴い集落モラでは、「バジョ・モラ」というバジョ像が創造されていることが報告された。
 この報告の意義には、①サマ語系集団研究の「空白地帯」を埋める研究であること、②現地住民の視点から地域動態を解明しようと試みたこと、③ローカル・リージョナル・ナショナル・グローバルでのアクター分析を行ったことの3点が挙げられる。
 本報告は、地方開発の事例として、また海民の比較研究につながる事例としても考えることができる。例えばタイのアンダマン海域に居住する海民モーケンは、海域の国立公園化に伴い、域内での居住、漁業・採取などが禁じられる場合もあり、その結果、陸地への定住化が進んでいる。ワカトビ国立公園内に居住するバジョは、どのような国立公園化の影響を受けているのか。また、モラに訪れるツーリストやメディア、研究者などの外部者は同のように観光開発に関わっているのか。
加えて、海民のエスニシティの柔軟性として、バジャウ研究の長津一史氏はバジャウの混淆性を指摘しているが、その点に関してバジョ・モラには如何なる状況が見られるか。

回答
1. ワカトビにおける国立公園化の影響について。
 インドネシア政府による国立公園化は、管理が行き届いている状況ではなかった。2003年にワカトビ県が制定された後、国際NGO、国立公園事務局、ワカトビ県による管理体制が整えられた。ワカトビ国立公園の約3%の区域は、コア・ゾーンとして進入禁止区域に指定されているが、誤って侵入した際も罰則などが与えられることはない。しかし、一部のリゾートホテルなどが現地漁民を買収し、漁業を禁止しているという話も聞く。

2. ツーリスト、メディア、研究者などの外部者の影響。
 観光客の数はまだ少ない。集落モラとしては観光客を呼び込み、利益を上げたいが、難しい状況にある。観光者が影響を及ぼすというよりは、逆にモラ側に観光者に対してお金を落とす観光客であってほしいという期待がある。観光地化を一緒に実践するアクターとしての観光客が求められていると言えるのかもしれない。

3. バジョの混淆性について
 バジョ語を母語とするひとがバジョであると言われている。両親のどちらかがバジョであっても、バジョ語が話せなければバジョと認識されない。ブギスの屋根飾りを模した装飾が集落内に見られるが、南東スラウェシのバジョの起源はブギスであると語られており、混淆性を考えるのならば、今後はその点についても着目していきたい。

質疑応答
1. 1956年にモラへ大規模な移住があったとされているが、その要因は何か。
回答:インドネシアにおける1965年の混乱でも大規模な移住があったと言われるが、実際に何が要因であったのかは定かではない。一度に大規模な移住が起き集落が形成されたというよりも、徐々に住民が増え集落を形成したと言われている。住民それぞれに移住の理由があり、今後の調査で明らかにしていきたい。

2. 海を埋め立てているが、その所有権のようなものはあるのか。あるいは、埋め立てることによってそういった認識が発生しているのか。
回答:集落の位置する海域の埋め立てをワカトビ県が許可していないという話も聞かれる。モラ住民は、ワカトビ県によってそこ(海沿い)に住む許可は与えられているが、権利ではない。海の所有権などもない。しかし、指摘されたように、今後埋め立てにより土地(空間)所有という認識の発生する可能性がある。

3. ブトン系の住民がマジョリティであるが、彼らとの関係性はどのようなものか。
回答:内陸の住民には、利益を横取りするバジョという認識もある。開発の資金が集中することによって、嫉妬の対象としてのバジョという認識が強化されている。しかし、集落モラには、モラに頻繁に訪れるブトン系のひともおり、交流がある。集落内にはブトン系の住民もいる。

(文責:加藤久美子)

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第2報告(15:45~17:45)
報告者: 河野佳春 (国立弓削商船高等専門学校)
題目: マルク紛争への「アンボン人」の対応について――南マルク共和国旗掲揚運動とペラ再編運動を軸に
コメンテーター: 小池誠 (桃山学院大学)

コメント(小池誠氏)
 マルク紛争の終息期に、マルク主権同盟の南マルク共和国旗掲揚運動が、インドネシア中央政府に国際社会の目を意識させ、さらに政治交渉の場において、いわば旗揚げと口先だけのマルク主権同盟が、現実に武力行使を行っていたラスカルジハードと等価となり、互いの指導者の取り締まりや運動の解体が交換条件となったことについて。
 インドネシア政府から見て、第三者的に見ていかに取るに足らない存在であっても、マルク主権同盟がインドネシアナショナリズムに反する点で明確に敵であり、紛争か激化の主犯であるラスカルジハード同様、許容できない存在である。
 関連してマルク主権同盟の取り締まりにおいて報告者が指摘した不自然から、彼らがいわば(政府によって)「泳がされていた」可能性がある。

質疑応答
1.マルク主権同盟の会員数150人程度に対し、具体的な場面で1000人ほどの支持者について言及があり矛盾している。綱領や規約、会員の人数構成について具体的にわかるのか。
回答:現時点で綱領・規約について把握できておらず今後の課題としたい。人数については会員と野次馬的なもの、社会的不満分子も含むシンパで大きく違う。関連して、活動の中心がアンボン市内クダマティ地区であった事から、2000年以降ラスカルジハードの攻撃が一過的殺戮放火破壊から、次第に占領征服に変化してきており、その前線がアンボン市中心に迫ってきていたことで、地区の人々が中心となったと考えている。

2.マルク主権同盟について報告者が主に用いた、カトリック教会アンボン司教区危機センターによる資料集、C.J.B?hm msc, Brief Chronicle of the Unrest in the Moluccas 1999 - 2006. CRISIS CENTRE DIOCESE OF AMBOINA. と新聞などそれ以外の資料に、マルク主権同盟の運動について表面的説明でなく、踏み込んだ分析見解が見つけられないか。
回答:現時点ではそのような情報を発見できて居らず、新聞各紙もアンボン司教区危機センターも、具体的な事件の顛末と、州知事や中央の政治家、警察幹部や宗教指導者ら各個人の発言紹介に留まっている。

3. 報告中で「アンボン人」社会の統合の弱さが指摘されたが、具体的にどういうことか。
回答:紛争以前にペラ慣行によって「アンボン人」の一体意識キリスト教イスラム間の調和が人口に膾炙していたが、紛争が拡大し地域外からラスカルジハードが介入した時、地域社会が団結してこれに対処できなかった点をこのように表現した。

4. マルク主権同盟に参加した人々はその後どうなったのか。
回答:実際には南マルク共和国旗掲揚など運動はその後も継続し、海外支部も存在している。そこにはムスリムの参加者も居る。

(文責:河野佳春)

2016年度第2回関東例会(5月14日)議事録

2016年度第2回関東例会(5月14日)の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:間瀬朋子(東洋大学)
報告題目:ジャワ汽水養殖池地域の社会経済――環境悪化下での地主、小作人、地域社会の駆け引きを中心に
コメンテーター:長津一史(東洋大学)

1 コメント(長津一史氏)
 本報告はインドネシア・東ジャワ沿岸部の汽水養殖池地域を取り上げ、多くの住民が養殖池で生計を立てる社会の全体構造を示した。自然生態環境が悪化するなかで池主が経済的に苦しくなり、小作人との利益の分配をめぐって葛藤がある。養殖池の富に群がる地域住民もいる。そこに展開する社会関係は、簡単な相互扶助では説明できない。イスラームの教えが、池主や小作人、地域住民の行動様式に影響をあたえている。ジャワの稲作農村社会の論理、たとえばインヴォリューション論は、ジャワの養殖池社会を読み解く手掛かりにはなっても、養殖池社会にしっくりとは当てはまらない。
 この研究調査は、東南アジア研究のなかにどのように位置づけられるのだろうか。ジャワ地域研究のなかにはどうだろうか。エビ、ナマコ、マグロ、ハタなどの自然資源の商業化は、何度でも繰り返し起こっていることである。たとえばそのような文脈に、このジャワのエビ養殖池地域における調査研究の位置づけを考えてみることが重要である。
 1970年以前の、ミルクフィッシュだけが養殖されていた時代に、池主の多くはほんとうにメッカ巡礼を果たせるほど潤沢な利益を上げられていたのだろうか。
回答:
 研究調査の位置づけには、苦心している。本報告で、ジャワ沿岸養殖池地域の分益小作制とジャワ稲作農村にみられるそれとの比較をおこなったり、農業のインヴォリューションを引きあいに出したりしたのも、その模索である。自然資源の商業化や環境悪化下での養殖の変化を時系列的に追いながら、自分がフィールドでみたものを検証し、東南アジア研究やジャワ研究のなかに位置づける作業はまだできてないが、今後の課題にしたい。
 ミルクフィッシュだけで池主が経済的に潤っていた時代についての検証が不十分だったかもしれない。そのような時代があったと思っているが、今後の聞き取りで確認する。

2 質疑応答
1)最近、エビ養殖がうまくいかないせいで収益があまり上げられていないのに、なぜ池主は養殖事業を止めないのか。シドアルジョの人間関係において、池主であること自体に特別な重要性があるのか。
回答:池主が経営するひとつの池で収益が上げられなくても、別の池では収益が上がっているかもしれない。今回の養殖サイクルで収益が上がらなくても、次のサイクルで上げられるかもしれない。前のサイクルでは収益を上げられたのかもしれない。このような形で、池主は池から上がる収益にまだまだ期待をしているために、養殖にしがみつく。池主というステータスでなく、かれらは池から上がる収益を求めている、と発表者は考える。

2)養殖池の小作人や日雇い労働者は地元出身者なのか。
回答:地元出身者がいないわけではないが、小作人や日雇い労働者の多くは東ジャワ州ラモンガン県やモジョクルト県などからの外来者である。かつてマングローブを切り拓いて養殖池を造ったのも、海を埋め立てて養殖池として整備したのも、多くは外来者であった。

3)養殖池の所有者と池主はちがうのか。昔から池主は地税を支払っていたのか。
回答:所有者はかならずしも池主ではない。というのも、池を賃貸ししていて、直接的に養殖業を営んでいない場合もあるからである。逆に、池主はかならずしも所有者ではない。池を賃借りして、養殖を営む場合があるからである。池の広さにもとづいて、所有者は地税を支払ってきた、と聞いている。

4)養殖池に2006年ラピンド熱泥事件の影響はみられるか。
回答:熱泥は川をつうじて池に入る。しかし、それで稚エビが死滅したり、養殖が大失敗したりしたという話を、現地のエビ養殖農民からはあまり聞かない。


第二報告(15:45~17:45)
報告者:深見純生(無所属)・田畑幸嗣(早稲田大学)
報告題目:「東南アジア古代史(7~10世紀)ウェブ版詳細年表の公表と今後の利用」
コメンテータ:奥平龍二(東京外国語大学名誉教授)・淺湫毅(京都国立博物館)

[コメント]
(奥平龍二氏)
・専門は11世紀から19世紀にかけての歴史である。この地域で非常に関心があるのは、セデスが提示したインド化と、あまり一般的には言われないが11世紀から14世紀にかけてのミャンマーに始まって、タイ、ラオス地域のシンハラ化(上座仏教需要の大陸部における文化変容)、同じ時期の島嶼部でのイスラーム化の受容、文化変容の起こった地域つまり外文明の受容と自省的な志向、外文明の受容と変容の視点から、私はこの地域を捉えている。7~10世紀は時期が外れるが、私自身は古代史にも関心がある。東南アジアの古代史における7~10世紀という時期はセデスのいう第二次インド化(4,5世紀)以降の時期であり、7世紀は土着化していく過程の時期だと思う。
・漢籍史料による文献史学が先行して行われ、そこに東南アジア研究が始まり、実際に発掘して、絶対年代のわかる刻文が出てきて、それを追っかける形で研究が行われてきた。考古学という別の分野ももちろん同時並行的に行われた。それに伴って美術史、建築史も行われた。報告を聞いていると、美術史、建築史、考古学すらも絶対年代が分からない分、絶対年代をもとに作られた年表に、相対的な考古、美術、建築のそれぞれの、相対的な年代の組合せ、統合を行うのは、相当大変な作業であると実感している。報告者の絶対年代に近づけていきたいという、東南アジアへの歴史への意気込みが感じられる。
・報告書全体を読んだ結果、いずれの論考も水準が高く、新しい知見が得られるものである。内容的に未知の分野が開拓されつつあり、また80年代の刻文研究を顧みると大変な進展だと思う。刻文研究がかなり進展し、それに伴い美術史、建築史及び考古学の水準の高さも、門外漢の私でも相当なものではないかと感じ取れる。
・(報告者は)東南アジア史の研究を統合することを試みていると思うが、(この年表は)綜合の第一歩だと考える。これからの史実の発見によって、研究の幅と深さができ、東南アジア古代史の立体化が進むことが期待されるのではないか。研究そのものも、ここに挙げられた分野だけでなく、他分野にわたる、横断的な研究がこれから行われ、またいわゆる学際的な研究が行われていくだろう。
・歴史年表は、7~10世紀の歴史が叙述されることによって、東南アジア大陸部と島嶼部の関係がさらに深まり、また南アジアや東アジアとの交渉史を考える際の有益な資料となると思われる。

(淺湫毅氏)
・日本・中国を中心にアジアの仏教彫刻を研究しているので、東南アジアのプロパーというわけではないが、仏教美術を研究している者としてコメントさせて頂きたい。
・このような困難な海に漕ぎ出されたことに敬意を表するとともに、大変感謝したい。このまま途中でやめることなく、続けてほしい。みなさん、見にくい表だとおっしゃるが、大変充実したものだと思う。あまり網羅的にやっても、重要な点が隠れてしまうと困るので、本当に重要なところでやって頂くのが良いのではと思う。年表を見ると、空白のところと密度の濃いところが一覧でわかる。そういった目で見てみると、何らかの意味が読めてくるのではないかと思う。たまたま、中国側の記録の多い時期ということもあるかもしれない。ただ、それ以外の可能性が、もしかしたら将来的に何か見えてくることもあるかもしれないので、データの集積を今後も行って頂きたい。
・ただし一利用者として利用するのは困難が伴う。ネットで公開する場合は、ダウンロードしてみるより、画面でクリックしてみせることにするほうが良いかと思う。例えば、マス型のこういうシートではなくて、帳票というのがあり、661年をクリックすると661年の横になっているものが、一ページの中に帳票形式で出てくると、すべての地域、すべての分野が一覧で、一画面で見ることができる。
・美術の観点からいうと、絶対的な年代が書いてある紀年作品というのは、残念ながら東南アジアにはないと思う。唯一東南アジアで手がかりになるのは、フランス極東学院が建物や刻文の年代から美術様式のある程度の物差しで置いてくれているので、それを一つの東南アジアの物差しとして、隣の国の物差しと対応させてどうか、というところで相対的な年代を出す。紀年はないが、基本的に、美術は同じ方向に進化しているというのが、インドや日本や中国をみていると思う。特に7~10世紀の仏教美術というのは、シンプルなものから複雑なものへ、文様の単純な少ないものから複雑怪奇なあるいは空白極小のようなことになっていく。東南アジアもおそらくは同じ傾向と考え、とりあえず、置いてみる。それをクメール、チャンパー、ドヴァーラヴァティ、タイとマレー半島、インドネシアでおいてみて、さらにそれがどれくらい地域ごとでずれがあるのかということで、ある種の文様とかで並べてみるのが一つの手かと思う。
・これだけの研究なので、世界的に有名になってもよいと思うので、将来的には、英語やフランス語で、外国の人が見てもわかるようにしてほしい。

質疑応答
・(報告者追加コメント):配布資料の年表の解題について。
漢籍の解題に、扱った時代を書き忘れた。実際には、隋から宋の初めまで記した。刻文班は刻文が出てくる時代から扱っているので、全体で、それぞれの開始年代が異なっている。漢籍については、7~10世紀以前の年表もすでに作成しノートとしてある。
・なぜ、隋以前を入れていないのか?ノートがあるなら、入れたほうが良い。
―科研の枠組みは7~10世紀の400年である。漢籍の場合は、王朝単位で扱う方が扱いやすい。唐からだと618年からになり、この期間に当てはまらない時期があるので、隋から扱っている。また、年表に挙げる際には点検し直す必要があり、この作業は7~10世紀の部分しか行っていない。
・西アジア、南アジアにはみ出す必要性は感じたということか。7~10世紀を把握するために、それ以前が入ってくる必要はないのか?
―海域アジアという発想が私にはある。ペルシャやアラブの船は東南アジアを通ってやってくる。それがインド洋から素通りして中国にいくはずがない。東南アジアに必ず本拠地があったはず。しかし、現在まで考古学ではその証拠は発見されていない。イスラームは墓を残すはずだが、墓は残っていない。西アジア・南アジアを取り上げている中で、いくつかは海を通ってやってきたはずである。そうすると、それは東南アジア地域外の問題ではないだろうと考え、(年表に)挙げる必要があるだろう。問題は西アジアという場合、どこを指すのかということである。中国史でいうと西域を指すが、それまで入れると作業量が多くなる、またその多くは陸路で来ているはずで東南アジア経由ではないと考える。そうすると、東南アジア経由の可能性があるのは漢文資料でいう西アジアだと波斯と大食の二つであるので、(年表に)挙げた。多くの場合、陸路で来たか海路で来たかわからないのが問題である。同じ事情はインドにもある。これらは東南アジアに本拠地、基地、中継港を持っていたはずであり、東南アジア外の問題ではない。
 ペルシャ・アラブがやってくると、漢文資料には朝貢記録もかなり多いが、明らかに民間交易である場合も多い。民間交易は王朝の記録には残りにくいので、ちらちらと出てくるだけであるが、明らかに民間と思われるものがある。例えば、広州に1年に40隻の西の船がやってくる。これがすべて朝貢とは考えられない。朝貢記録のないときに民間船が来ている可能性を考える材料として必要であると考え、挙げた。

(文責:山﨑美保)




2016年度第3回関東例会(6月25日)のご案内

2016年度第3回関東例会を6月25日(土)に開催いたします。
今回は、インドネシアに関するご報告が2本です。
多くの方のご参加をお待ちしております。
なお、例会終了後は簡単な懇親会を予定しております。

<日時・会場>
日時:2016年6月25日(土)(13:30~17:45)
会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

<プログラム>
第1報告(13:30~15:30)
報告者:加藤久美子 (上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科・院生)
題目:インドネシア南東スラウェシ州ワカトビ県バジョ集落モラにおける開発と観光地化
コメンテーター: 鈴木佑記 (東洋大学アジア文化研究所)

第2報告(15:45~17:45)
報告者: 河野佳春 (国立弓削商船高等専門学校)
題目: マルク紛争への「アンボン人」の対応について――南マルク共和国旗掲揚運動とペラ再編運動を軸に
コメンテーター: 小池誠 (桃山学院大学)

<報告要旨>
第1報告・加藤久美子
「本報告では、バジョ集落モラにおける開発と観光地化の実態を明らかにすることを試みる。インドネシア・南東スラウェシ州ワカトビ県のバジョ集落モラでは、近年急速な開発と観光地化が進んでいる。バジョは家舟や海上に形成した集落に居住する事でも知られるサマ語系集団の一派であり、同地域ではバジョ集落内の開発(埋め立て・住居増設)と同時に、バジョが形成する海上集落の観光地化が試みられていた。2015年に現地にて行った聞き取り調査及び参与観察を通じて、同集落で行われている観光地化には行政機関だけではなく、国立公園を管理する国際NGOも関与していることが明らかになった。一方で、集落住民による開発・観光地化の誘致が実現している事例もあった。このように複雑な状況下で多様なアクターは異なる理想を描き、対立し、時に共謀しながら、集落モラの開発と観光地化を実践している。また、これらの動態が集落モラへ及ぼす一作用として、「バジョ・モラ」アイデンティティが表明されつつあることにも言及したい。」

第2報告・河野佳春
「本報告は、マルク紛争に対する「アンボン人」の対応について、マルク主権同盟の南マルク共和国旗掲揚運動と地域支配層主導のペラ再編運動を軸に述べる。マルク主権同盟は2000年12月に活動開始、以来毎年4月25日にアンボン市クダマティ地区などで南マルク共和国旗掲揚をくりかえした。指導者A.マヌプッティは懲役3年の判決が確定した後、合衆国に事実上亡命した。一般に彼らは和解を妨げる分離主義とみなされてきたが、その運動はおおむね非暴力原則を貫き、インドネシア共和国政府と国際社会に対して、先住民=アリフルとしての権利を主張することで、侵略者を排除しようとするもので、一定の成果をあげたと言える。一方ペラ再編運動は地域社会の融和と団結を強化して、紛争を沈静化させたが、同時に非「アンボン人」排除など、あらたな問題を生じさせている。」


2016年度第2回関東例会(5月14日)

2016年度第2回関東例会を5月14日(土)に開催いたします。

多くの方のご参加をお待ちしております。

日時:2016年5月14日(土)(13:30~17:45)

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)

報告者 :間瀬朋子(東洋大学)

報告題目 :「ジャワ汽水養殖池地域の社会経済――環境悪化下での地主、小作人、地域社会の駆け引きを中心に」

コメンテイター:長津一史(東洋大学)

要旨:
 本発表は、東ジャワ州シドアルジョ県沿岸部の汽水養殖池地域で養殖業に関わる各種アクターの社会経済的な役割や位置づけを示し、そこに展開する社会階層や社会関係を説明するものである。生産物の分配のほか、生産費用の分担に留意しながら、養殖池の経営者である池主とその下でエビやミルクフィッシュを育てる小作人との関係性にとくに着目する。さらに、生産物の再分配慣行であるブリを手がかりにして、池主や小作人と地域住民とのあいだの関係性についても考察を加える。
 ともに苦しい経済状況下で、池主と小作人は互いの利益をめぐって葛藤を持ちつつ、現状を維持するための駆け引きをしている。そこにブリを介して関わってくる「厄介な」他者(地域住民)がいる。それらのバランスをとることにより、経済的にも自然生態的にも厳しい環境に向き合わねばならない養殖池地域の社会経済が一応は成り立っている。

☆第2報告(15:45-17:45)

報告者:深見純生(無所属)・田畑幸嗣(早稲田大学)

報告題目:「東南アジア古代史(7~10世紀)ウェブ版詳細年表の公表と今後の利用」

コメンテイター:奥平龍二(東京外国語大学名誉教授)・淺湫毅(京都国立博物館)

要旨:
 東南アジア古代史科研(2013~2015年度、代表者深見)では建築史・美術史・考古学の編年の統合および文字史料(漢籍・刻文)による絶対年代と建築史・美術史・考古学の相対年代の統合をめざして活動してきた。この目標は未達であるが、そのための土台として紙版報告書において重要事項年表を作成したほか、たいへん詳細なウェブ版年表を作成した。具体的には約60列、約800行、細胞数5万近い巨大なエクセルシートであり、そこには漢籍の原文、刻文の地域(言語圏ないし歴史圏)ごとの悉皆リスト、建築・美術・考古の諸項目が含まれている。
 この例会ではウェブ版年表の一般公開にあわせて、その内容を説明し、多くの方々の利用を促すとともに、今後の改良と充実のために関心ある方々からの意見を頂戴したい。


例会終了後、18時から19時頃まで、同じ会場で懇親会を予定しております。
ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai@tufs.ac.jp)までご連絡ください。

関東例会委員

2016年度第1回関東例会(4月)

2016年度第1回関東例会(4月16日)を開催いたします。

多くの方のご参加をお待ちしております。

2016年度第1回関東例会(4月16日)

日時:2016年4月16日(土)(13:30~17:45)
会場:東京外国語大学 本郷サテライト3階セミナー室
第1回関東例会(4月16日)のみ3階セミナー室です。
第2回以降は5階セミナー室です。
(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者 :宮田敏之(東京外国語大学)
報告題目 :「20世紀初頭のシャム土地法制定に関する一考察」
コメンテーター :島田竜登(東京大学)
要旨:19世紀後半以降、米の海外需要の拡大に対応する形で、シャムでは、チャオプラヤー川流域のデルタを中心に米生産が拡大した。しかし、この時期、シャム政府内で議論されたものの、稲作地の土地所有権を規定する土地法の整備は遅れた。米輸出の著しい発展を支えたチャオプラヤー・デルタでは土地法が十分に整備されなかったため、土地所有権が「曖昧」なままになっていた。その結果、逆に、チャオプラヤー・デルタでは、大土地所有が拡大しなかったといわれる。メコンデルタなどのように、大土地所有制が発展した東南アジアの他地域とは大きく異なる。なぜ、この時期のシャムでは、土地法の整備が遅れたのであろうか?これらの問題に関し、トーマス・ラールソン(Tomas Larsson2012)は、土地法整備の遅れ自体、ラーマ5世を中心とするシャム政府側が、意図的におこなったものであると評価している。ラールソンによれば、土地所有権の「曖昧さ」は、予算や人材の不足が原因であったばかりでなく、むしろ、国王ラーマ5世が、積極的に、外国資本(欧米人および英国籍・仏国籍のアジア人)の土地集積を防ぎ、王権とシャムの主権を守ろうとした、一つの「武器」であったという。本報告は、ラールソンの指摘するようにラーマ5世の外交的戦略があったにせよ、実際には、1901年に土地法が制定されたことに着目する。特に、この土地法に基づき土地所有者に配布された「地図付き地券」を作成するために重要な役割を果たした「地図局(Royal Survey Department)」に注目し、同局の地図作製業務と20世紀初頭の土地法成立の関係を考えたい。

☆第2報告(15:45-17:45)
報告者:高田洋子(敬愛大学)
報告題目:「ベトナム領メコンデルタにおける大土地所有制の成立と崩壊に関する一考察」
コメンテーター:高橋塁(東海大学)
要旨:『メコンデルタの大土地所有 ─無主の土地から多民族社会へフランス植民地主義の80年─』の刊行から2年が経ち、様々な分野や地域の研究者から貴重なご指摘やコメントを頂くことができた。そうした対話を重視し、改めて著者の問題意識・研究方法・やり残した課題・今後の展望などを報告する。著書の続編として、独立戦争からベトナム共和国期の資料を利用し、崩壊前夜の大土地所有の実態についても再構築を試みる。


例会終了後、18時から19時頃まで、同じ会場で懇親会を予定しております。

ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai@tufs.ac.jp)までご連絡ください。

関東例会委員

2016年度関東例会発表報告者募集

東南アジア学会会員のみなさま

今年度も東南アジア学会関東例会をよろしくお願いします。

さて、関東例会では下記のとおり、2016年度の報告者を募集いたします。
多くの方々のご応募をお待ちしています。
特に締め切りは設定していませんが、早目の申し込みをお願いいたします。

■2016年度東南アジア学会関東例会報告者募集

・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます。
討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。
ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、
この貴重な機会をご活用ください。

・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。
コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身で依頼していただくようお願いします。
(どうしても探せない場合は担当理事までご相談ください)

・これまでの報告事例については関東例会ウェブサイトをご覧ください。

http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■2016年度の関東例会 開催日程

2016年(平成28年)
第1回2016年4月16日(土)
第2回2016年5月14日(土)
第3回2016年6月25日(土)
第4回2016年10月22日(土)
第5回2016年11月26日(土)

2017年(平成29年)
第6回2017年1月28日(土)

毎回13時30分開会、17時45分閉会。1回につき2報告

■会場

・東京外国語大学・本郷サテライトです。
・第1回4月例会2015年4月16日(土)のみ3階セミナー室です。他の回はすべて5階セミナー室を使用します。
・住所:〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
・TEL&FAX:03-5805-3254
・アクセス:地下鉄(丸ノ内線・大江戸線)本郷三丁目駅下車徒歩5分
・会場へのアクセスは以下をご参照ください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■報告・コメント・討論の時間
・報告者は1回につき2名、途中に休憩をはさんで、それぞれ報告60分、コメンテーターによるコメント10分、フロアからの質問と討論50分を予定しています。

■応募方法
・関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレスの東南アジア学会関東地区担当・宮田敏之まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込みください。

関東例会連絡用アドレス:kanto-reikai@tufs.ac.jp

<記載情報>

・氏名と所属
・発表を希望する日を第2希望まで
・報告題目(仮題目可)および報告要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(Windowsノートパソコン、プロジェクター、レーザーポインターのご用意が可能です。その他の機材についてはご相談ください。)

■応募の取り扱い
・報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、報告の日程についてご希望に添えない場合があります。また、要旨については書き直しをお願いする場合もあります。ご了承ください。
・グループによる申請(ミニ・シンポなど)も受け付けていますのでご相談ください。

■報告記録
・関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
 これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。
・報告記録は、報告者ご自身でまとめていただくか、あるいは報告者ご自身で報告記録者を選びご依頼いただくようお願いいたします。

■懇親会
・例会終了後、簡単な懇親会を開催いたします。

■関東例会ウェブサイト
・関東例会のお知らせ、予定、報告記録を随時掲載しています。ご活用ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■問い合わせ
・宮田敏之(関東例会担当、東京外国語大学) tmiyata☆tufs.ac.jp
・関東例会委員
kanto-reikai☆tufs.ac.jp
(☆マークは@に変えてください)

2015年度第6回関東例会(1月23日)議事録

2016年1月23日に行われました2015年度第6回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者 : 下條尚志 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 研究員)
報告題目 : 脱植民地化過程のメコンデルタにおけるクメール人の言語・仏教・帰属
コメンテーター : 五島文雄(静岡県立大学国際関係学部国際言語文化学科・教授)

■コメント
①国民国家形成と公教育
本発表では、植民地国家から国民国家への移行過程、新興国家による国民統合と国家形成、国語教育という文脈のなかで、ベトナム―カンボジア国境線や、ベトナム、カンボジアの公教育の問題が論じられた。植民地末期からゴー・ディン・ジエム政権期初期に実施されていたクメール語の公教育は、教科書やカリキュラムの内容など、具体的にはどのようなものであったか。シハヌーク時代に実施された教育、特に歴史教育は、1970年代後半のポル・ポト政権に影響を与えたのではないか。

②国民統合のなかでの少数民族政策
本発表では、国民統合の過程で、新興国家によってどのような少数民族政策が実施されるのかという問題が、メコンデルタのクメール人を対象に議論された。この議論は、ベトナムや他の東南アジア諸国における華僑・華人政策、またカンボジアのベトナム人政策、さらには各国の少数民族政策と比較することが可能である。国家が、中華会館のような特定のエスニシティの集会所をどう扱ってきたのか、特定のエスニシティを対象とした学校ではいかなる言語・歴史教育が行われてきたのかなど、比較の観点から論じることが重要である。東南アジアの華僑・華人の国籍問題では、かれらが概して経済的に豊かであるため、その職業が問題視されたが、メコンデルタのクメール人はどうであったのか。

③南北分断状況下での少数民族政策
本発表では、クメール人が、ジエム政権下仏教界の動きに呼応する形で、南ベトナム解放民族戦線(以下、解放戦線)に参加していたことが指摘されている。解放戦線はクメール人に対していかなる政策を実施していたのか。なぜ、インフォーマント達が解放戦線に参加することになったのか。当時の北ベトナム(ベトナム民主共和国)は、中華人民共和国との関係性のなかで少数民族政策を策定しており、南ベトナムのゴー・ディン・ジエム政権の少数民族政策について、文化を尊重していないなどと批判していた。

④先行研究のなかでの本発表の位置づけ
先行研究との対比のなかで、自身の立場や主張をより明確にする必要がある。今後は研究をどのように発展させていくのか。

■コメントへの応答
①への返答:植民地期末期からジエム政権期初期、メコンデルタのクメール人を対象としていた公教育の教科書、カリキュラムについて、まだ十分に研究が進んでいない。今後の課題としたい。発表者は、当時実施されていた歴史教育が、後のポル・ポト政権に強く影響を与えたと考えている。
②への返答:クメール人や華僑・華人の国家への帰属が、仏領期において曖昧な状態にあったことが、国民国家成立初期の1950年代、1960年代に問題として表出したと考えている。
ベトナムにおけるクメール人の問題は、常にかれらとカンボジアという国民国家との関係性のなかで展開されてきた。そのため、クメール人問題を、ベトナムの少数民族問題として扱うことには疑問を感じる。クメール人問題は、いずれの国民国家に帰属するのかが問題にされてきた点で、華僑・華人問題との比較がより有効である。ただし、ジエム政権期の国籍変更問題において、精米業、米取引業など商業に従事していた華僑・華人と異なり、農業従事者が多かったクメール人の職業は、政治争点にならなかったと考える。
③への返答:解放戦線は、毎年行われるクメール人の祭祀の折に、兵士に休暇を与えるなど、クメール人の文化や宗教を尊重する姿勢をアピールし、支持を拡大しようとしていた。また上座仏教寺院に解放戦線兵士を僧侶として紛れ込ませ、活動させていた。
④への返答:先行研究では、1950年代、1960年代にベトナム南部で拡がっていった反乱の要因を、革命勢力側(解放戦線)の住民動員戦略という観点から説明する傾向があった。一方で本発表では、住民達の視点に着目し、国民国家成立初期のジエム政権による国境管理にともなう宗教、空間認識、移動傾向の変化に一部の住民が敏感に反応したことが、反乱が拡がっていた1つの要因であったと指摘した。

■質疑応答
Q本発表で取り上げられた村落の位置するソクチャン省の状況は、時代、地域によって大きく異なる。対象村落の状況を全体のなかに位置づける必要があるのではないか。本発表は仏領時代から南ベトナム時代までの時期が議論されているが、対象とする時間が長すぎるのではないか。
A調査対象とした村落の状況は特殊であり、メコンデルタの全体状況を示しているわけではない。発表者は、1つの地域社会で生じたローカルな歴史を詳細に明らかにした上で、今後の課題として、その地域社会の歴史的事象を全体のなかで俯瞰的に捉え直していきたいと考えている。

Q「空間認識」という言葉は曖昧なのではないか。
A「空間認識」は、人々の地理的感覚を意味している。対象村落の人々が想像できる地理的空間認識は、ベトナムではせいぜいサイゴンやニャチャンまでだが、カンボジアにおいては、タイ国境のプレア・ヴィヒア問題が意識されるなど、広範囲に及んでいる。

Qメコンデルタのクメール人と解放戦線の関係は必ずしも良好ではなかったのではないか。
A実際、調査地で解放戦線に参加したクメール人は少数である。にもかかわらず、本発表で解放戦線に参加したクメール人の個人史を敢えて取り上げたのは、エスニシティのみならず、宗教、国家への帰属意識、また地域、時期など様々な要素の組み合わせのなかで、当時の人々が、所属する政治組織を選択していたことを示したかったためである。

Qジエム政権の政策立案にソクチャン出身のクメール人がいかに関わっていたのか。
Aコーチシナ・カンボジア協会の有力者ソン・ターイ・グエン(ソン・ゴック・タンの実弟)が当初は政策立案に関わっていたが、ジエム政権崩壊直前には反ジエムを掲げた仏教運動に身を投じていた。

Qベトナムのクメール人は、かれらのアイデンティティをどのように維持しているのか。
A調査村ではクメール人と名乗る人々が多いが、実際にはベト人や華人との混血など、民族間の混淆が進んでいる。民族的境界は曖昧であり、揺らぎやすい。ただし、人々は、ラジオやテレビなどを通じて、カンボジアの情報を積極的に取り入れており、これがアイデンティティの維持につながっていると思われる。

Qフランス植民地期、カンボジアのモニボン王の写真がコーチシナのクメール人に配布されたという事実があるが、実際に現地でモニボン王の写真を所持している人がいたか。
A調査対象のなかには、写真を所持している人はいなかった。

Q仏領期末期からジエム政権期初期において、カンボジアに渡っていた人達は、パスポートを所持していたのか。
Aパスポートを所持せず、カンボジアへ渡った人がほとんどであると考えられる。聞き取りによれば、当時、ソクチャン市のコーチシナ・カンボジア協会において、カンボジアへの渡航許可証が交付されていたという。

Qレジュメに記載されている“「クメール系ベト人」という微妙なカテゴリー”とはどのような意味か。
⇒南ベトナム政府期、クメール人を、中部高原地域の山地民やチャム人と同様に少数民族政策の対象とすることは、クメール人がカンボジア人であることを認めることにつながり、ベトナムの政治がカンボジアの干渉を受けることになると考えられていた。そのため、当時の政府は「クメール系ベト人」というカテゴリーを設けて、かれらがベトナム国籍者であることを強調し、敢えてクメール人を少数民族とみなさなかった。
(文責:下條尚志)


第二報告(15:45~17:45)
渋谷節子(星槎大学教授)
報告題目:ベトナム•メコンデルタの都市で働く若者と農村の家族
コメンテーター:古屋博子(放送大学非常勤講師)

■コメント
この10年間でベトナム南部、特にメコンデルタの社会は急激に変化した。その間の変化に関する研究は貴重であろう。以下の点を、今後の議論と研究を発展させる上で考えると良いのではないか。①中国と異なり、メコンデルタでは近代化が進んでも家族の絆が弱まらない要因はなんであろうか。②新しくできた同僚や友人との関係が、共同体意識を生み出しているような側面はあるか。③同僚や友人との関係が、家族との関係や価値観と対立するような聴講はあるか。④都市へのネットワークを持たない層の不満というのは共有されているのか。⑤都市へのネットワークを持っているそうの不満というのは共有されているのか。(コメンテーターのホーチミン市における調査では、「新中間層」と言えるような比較的裕福な人々が不満を持っていることがわかってる。)

■質疑応答
1)「近代化」という言葉をどう使っているのか。
回答:たしかに、「近代化」というのは長い歴史のなかで起きているものであり、現在に限定されているものではない。この報告ではベトナムの人々がよく使う言葉「モデン」を「近代」という言葉に置き換えている。
2)1990年代の後半からの変化ということでの報告であったが、1990年代がむしろ特殊な時代であり、現在は伝統的な家族に戻ったのだとも言えるのではないか。
回答:そういう側面はあると思う。1990年代後半は、自由市場経済化の元で農業の生産単位が家族に戻され、「家族」の重要性が国家を挙げて言われた時代である。しかし、メコンデルタでは社会主義の集団農場はあまり浸透しておらず、その意味では、社会主義の影響は少なかったと言える。
3)ベトナムのメコンデルタの農村で起こっていることは、東南アジアのどこででも起こっていることではないのか。特殊性は何なのか。
回答:それは、メコンデルタの共同体意識の低さと家族の重要性である。ベトナム南部の人々にとって、家族は小宇宙であり、社会とはっきりと区別して考えられる一つの世界である。
4)データの提示がない。
回答:文化人類学におけるデータは「民族誌的データ」であり、それは参与観察に基づいて得られるものである。世帯調査などのデータは使用するが、それらは背景理解のために使用している。
5)報告の中心的テーマは何か。
中心的テーマは都市で働く若者が家族にもたらす影響や変化である。本日の報告に含めた格差などの問題は、それに付随して起こっていることとして紹介した。
(文責:渋谷節子)

2015年度第5回関東例会(11月28日)議事録

2015年11月28日に行われました2015年度第5回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告
報告者:南波聖太郎氏
(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程/日本学術振興会特別研究員DC2)

報告題目:社会主義国家建設の準備過程におけるラオス人民党の政治的主体性:1960年代半ばの「解放区国家化政策」とベトナムとの「特別な関係」

コメンテーター:菊池陽子氏(東京外国語大学・准教授)

コメント
① 近年のラオスにおける資料状況について。
ラオスには文書館がなく資料状況は困難であったが、ラオス人民革命党は2000年代に入りって史跡の観光地化などと共に史資料の公開も少しずつ開始している。報告者はこのような資料状況の変化に対応し、ラオス史の実証的な再考を試みている。
② 「解放区国家化政策」の歴史的背景について。
報告者は、ラオス人民党の中央会議決議13号(65年)を画期として「解放区国家化政策」が遂行され、党の支配地域である解放区を国家へと改造する試みがなされたとする。だが、50年に樹立された抗戦政府は、パテート・ラオ(ラオス国)を自称し、王国とは異なる国の建設を目指していた。「解放区国家化政策」の理念上の背景をどう捉えるのか。
③ 「解放区国家化政策」の実態について。
報告者は、人民党は13号決議以前から解放区での独自政策を遂行していたが、そこには独自の行政機構を整備し、外交関係を構築するという発想、つまり国家を建設するという発想がなかったとして「解放区国家化政策」の意義を強調している。では、解放区の国家としての実体化はどの程度達成されたのか。
コメントへの応答
資料状況は確かに改善されてきたが、まだ十分ではない。本報告では資料上の制約もあり、党の戦略・方針を分析の中心とした。人民党の60年代の政策と抵抗政府の50年代からの戦略との連続性については、今後検討を深めたい。ここでは、それまでは王国政府に依存する面の大きかった解放区が、「解放区国家化政策」の提唱と共に、それから独立して運営することを志向されるようになった事を重視しておきたい。

質疑応答
Q:当時のラオス人民党の戦略に対するソ連の影響をどう捉えるのか。
A:ソ連のラオス戦略に関しては不明な点が多く、報告者が利用できる資料も限られているが、中ソ対立の影響なども含め、今後の課題としたい。
Q:今回の報告では両党の路線対立は指摘されていないが、そういった事実は別の時期には確認できるか。
A:両党の中央委員会決議等を比較すると、両党が常に同一の路線を採っていたのではないことが確認できる。
Q:ラオスにベトナム人居住者が多いことなど、社会レベルでの関係と政治面での「特別な関係」はどのような関係にあるのか。
A:社会レベルでの両国の密接な関係から、ベトナム人との血縁やベトナム語の素養のあるラオス人が増加したことは「特別な関係」の土台の1つとなっている。
(文責:南波聖太郎)


第二報告(15:45~17:45)
報告者:平田晶子氏(京都文教大学総合社会学部 日本学術振興会特別研究員PD)
報告題目:「ラムをめぐる芸能・宗教実践―タイ・ラオスのモン・クメール系住民の旋律世界」

コメント
(綾部 真雄氏:首都大学東京人文科学研究科 社会行動学専攻 社会人類学教室・教授)

本報告はラムあるいはモーラムがどのように生業サイクルに関わっているのか、あるいは芸能と宗教の間をどのように行き来しているのか、そして、それが現代のオンライン・バーチャル・コミュニティにおいてどのように消費されているのかについて、モーラムに関する幅広い領域で説明がなされた報告である。
本報告に対して、エスニシティ研究の専門家である綾部会員はモン・クメール系のカテゴリーに属するとされる人々が広義のラオ的なエスニシティに参入してきているのかという部分に関してコメントを行った。綾部会員曰く、本報告の着目すべき点は、以下2つである。第1に、 2つのカテゴリーのずれがうまく表れている点である。つまりは、通常モーラムは、ラオ的なエスニシティの代表的な記号性を持ったものととらえられているが、本報告ではいわゆるラオではなくソーやラオ・トゥンと言われた人々のなかに吸収・実践されているモーラムを扱ったことにより、これまで語られてきたモーラムと本報告でのモーラムにズレが見えてきており、エスニシティにおけるラオを「芸能―宗教」「芸能―生業サイクル」とモーラムの関係性などの多面的な側面から捉え、エスニシティを「共時的」に分析したことにある点である。第2に、モーラムがエスニシティの凝集性を持ったものであると仮定された場合、マジョリティに対する対抗性を表明するエスニシティとしての位置づけ以上に、内発的な存在として「存在論的安心」として湧き上がってきたものとして表層してきた点である。
 他方、本報告のさらなる展開のために、綾部会員は以下2点のコメントを寄せた。第1に、「モー(mo)」の定義についてである。タイ研究者であるコメンテーターの理解では、タイ語で「モー」とは単なる専門家ではなく、治療や医療にかかわる「匠」のことを指す概念である点から、本報告での「モー」の定義を改めて捉え直す必要があるのではないか。第2に、ラオに関する政策展開とモーラムの通時的な分析の必要性である。例えば、タイでは1990年代ローカルな文化芸能が下賤なものや下卑たものとして扱われていたが、1990年代以降、ローカルな文化への急激な回帰、文化振興や文化復興が起こり、それはエスニシティの凝集性を高める機能として採用されていった。 
以上を踏まえ、コメンテーターである綾部会員は本報告を評価するとともに、今後の通時的な分析、あるいはエスニシティの統制編成の行方に関するさらなる分析に対し、期待を寄せるコメントを行った。

回答
C1: 「モー」の定義
A1: 近代医療や制度が発達したタイの事情とは異なり、ラオスにおける「モー」という言葉は、専門家を差し、モーラムでいえば歌の名手を指す概念である。治療の場面では、「モー・スーン・ピー(霊を呼ぶ専門家)」などもいるため、「モー」はある分野に精通している者、特殊な技術を持つ者を意味している点で普遍的である。
C2: ラオに関する政策展開とモーラムの関係について通時的な分析
A2: ラオスでは、従来「モーラム」の唄が独立闘争のためのプロパガンダとして使われ、政治の駒として使用されてきた。他方で民衆の歌垣として生活の中に息衝く遊びや求愛行為として機能してきた。しかし、その後、1990年代以降、ユネスコの無形文化遺産の登録作業が徐々に制度化されていくなかで「国民文化」として位置付けられるようになっていった。
C3: エスニシティと文化的記号の関係
A3: 端的に言ってしまえば、モン・クメールとマジョリティとしてのラオの間に文化的対抗としてのエスニシティの側面はこれまでの分析ではまだ見られない。この点に関しては今後の課題としたい。

質疑応答
Q1:CD、ネット空間で音楽が伝播する以前、モン・クメール住民のラムはカセットテープやラジオなどのメディアを通じてどのようなものとして機能していたか。
A1: 1960年代以降、ラオスではまず国営ラジオがサム・ヌアに建てられ、ラオ語、モン語、カム語の3言語でラジオ放送がなされていた。その際は、モン・クメール系民族の言語でラムが放送されていたかどうかは資料収集できていないため分からないが、当時の国家政策や方針などは各言葉で発信されており、統一に向けた機運の盛り上がりを反映するものであっただろう。

Q2: 旋律が国境を越えて移動していくというところが興味深い。
A2: 旋律におけるエスニシティの表象の異なりや旋律のポータビリティやトランスモビリティに関してはさらなる分析を今後も行っていく。

Q3:「ノスタルジア」について時間を超えた分析を他者の「まなざし」という視点から考える必要があるのではないだろうか。「まなざした側」「まなざされた側」、あるいはそれらが電子空間により他者に介在されながら「語られる」点が大変興味深い。
A3:「ノスタルジア」の問題などは別稿で論じたこともあるが、冷戦期から革命期以降に書かれた手元の一次資料を検証しつつ、今後の課題として研究を深めていきたい。
以上

文責:細淵倫子(首都大学東京)




2015年度第6回関東例会(1月)

2015年度1月関東例会を1月23日(土)に開催いたします。

今回の報告は、下條尚志会員による「脱植民地化過程のメコンデルタにおけるクメール人の言語・仏教・帰属」と、渋谷節子会員による「ベトナム•メコンデルタの都市で働く若者と農村の家族」です。

詳細は以下をご覧ください。多くの方のご参加をお待ちしております。

2015年度1月関東例会

日時:2015年1月23日(土)(13:30~17:45)

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナースペース(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者 : 下條尚志 (京都大学大学院・研究員)
報告題目 : 「脱植民地化過程のメコンデルタにおけるクメール人の言語・仏教・帰属」
コメンテーター : 五島文雄(静岡県立大学国際関係学部国際言語文化学科・教授)

報告要旨:フランス植民地統治が終焉を迎えた20世紀半ば、メコンデルタのクメール人達は、南ベトナム,カンボジアという2つの国家と関わらざるを得なくなった。両地域が植民地として超域的に統合されていた仏領期、かれらは、クメール語や上座仏教を通じ、メコンデルタからカンボジアにかけて生成されていた広域的な社会環境のなかに生きていた。しかし、この社会環境は、フランスに代わって新たにメコンデルタを統治することになった南ベトナムのゴー・ディン・ジエム政権の統治によって、次第に変化を余儀なくされる。ジエム政権は、国籍変更や公立学校でのクメール語教育の廃止、従来のクメール人政治組織、仏教組織の再編を図り、メコンデルタのクメール人とカンボジア社会との紐帯を国境線で断絶しようとしたのである。この統治への不満は、カンボジア社会との従来の関わりに価値や利益を見出していた上座仏教界や住民達の間で高まってゆき、やがて反政府運動に身を投じる者も現れていった。本論は、メコンデルタ沿岸部ソクチャン省の一地域社会における言語・仏教・帰属という問題に焦点を当て、新たな国民国家が形成される過程で、住民達と新興国家との間で生じた軋轢について考察するものである。


☆第2報告(15:45~17:45)
報告者 : 渋谷節子(星槎大学共生科学部・教授) 
報告題目 : 「ベトナム•メコンデルタの都市で働く若者と農村の家族」
コメンテーター : 古屋博子(放送大学・非常勤講師)

報告要旨:
メコンデルタの農村では共同体意識が低く、家族が社会的、経済的位として重要な役割を果たしていることが、これまでの研究からわかっている。農業は家族単位で行われ、特に自由市場経済化のもとで競争が激しくなる中、家族の重要性も増して来た。しかし、近年、消費文化の浸透と現金収入の必要性から農業を離れ都市で仕事に就く若者が急増している。こうした新たな仕事がどのように農村の家族のあり方に影響しているかを知るために、2014年と2015年にカントー市(旧カントー省)ロントゥエン村から街に働きに出ている若者とその家族を対象としたインタビュー調査を行った。その結果、多くの若者が収入を利用して農村の家族のためにさまざまな消費財を購入していること、また、上司や同僚といった都市の仕事で築いた新たな社会関係も、農村の生活でも活用されるようになっていることがわかった。若者達が農業以外の仕事を通して経験している消費文化や社会関係は、一方では従来の農村の家族生活に取り込まれながら、他方ではそのあり方を変化させていると言える。

例会の終了後に、同会場にて懇親会を予定しております。

***

ご不明な点などございましたら、関東例会委員メールアドレスまでご連絡ください。
kanto-reikai☆tufs.ac.jp
(☆の部分は@マークにしてください)

多くの方のご参加をお待ちしております。

関東例会委員

2015年度第4回関東例会(10月24日)議事録

2015年10月24日に行われました2015年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30-15:30)
報告者:ウィンダ・スチ・プラティウィ(桃山学院大学大学院文学研究科修士課程)
報告題目:インドネシアにおけるコスプレ・コミュニティの形成と発展
コメンテイター:青山亨(東京外国語大学・教授)

1 コメント
1960年代、国営テレビ放送局TVRIによる放送内容はまるでスハルト政権下における政府広報活動であった。1982年、五輪真弓の『心の友』がラジオ放送されヒットした。メディアの中のラジオの重要性を指摘できる。音楽はカセットテープを通じて広まった。また、大きな影響の一つとして、1986年からTVRIによって放送が開始された「おしん」をあげることができるだろう。このように、1980年代後半から国策レベルで日本文化がインドネシアへ紹介されるという前段階があった。1989年インドネシア初の民放テレビ放送局RCTIの開始および1990年SCTVの開始が影響している。民放テレビ放送局の開始によって日本の番組やアニメ放送の開始などテレビ番組の枠組みが大きく変わった。1990年代に入ると大衆文化の導入は民間レベルに広まった。民放メディアの役割は大きかった。
日本でコスプレという言葉ができたのは1984年である。もともとはアメリカの言葉でありSFの大会で仮装する習慣をコスプレと呼んだ。コスプレという言葉はアメリカから日本へ、日本からインドネシアを含む世界へと拡散した。ここにインドネシアのメディアの発展、とりわけ、民放の普及のタイミングが重なっていた。また、FB(インターネット)の影響は大きい。大規模な資本と設備がないと発信できない情報発信(マスメディア)からSNSのようなスマホさえあれば誰もが出来る情報発信へと変わってきた。
遡れば、日本文化に対する関心の前段階として以下をあげることが出来る。1974年国際交流基金がジャカルタに事務所を開設した。同年には田中首相に対する反日暴動があった。単なる経済的プレゼンスばかりではなく文化交流の大切さが政府レベルにあり国際交流基金の事務所開設につながったと考えられる。その後1977年福田首相の、いわゆる、「福田ドクトリン」によって、東南アジア諸国と日本が対等である方向性が示された。
スマトラにコスプレ・コミュニティが出現した2000年代はユドヨノ政権で安定した時代だった。この時代こそ日本発のオタク文化がインドネシアの地方まで広がったことの重要性を考えなければならない。

2 質疑応答
1)音楽に登場するキャラクターとは何か。
回答:もともと音楽から始まったJロック、Jポップ・バンドのキャラクターである。

2)インドネシアのコスプレは世界の他の地域と違いがあるか。
回答:インドネシアのコスプレの特徴は、
ⅰ)3つ(主流派、イスラム教、オリジナル・コミュイティ)のコミュニティがある
ⅱ)インドネシアのオリジナル・キャラクターがある
ⅲ)インドネシアの物語独自のヒーローがあり、これは他の国にはない

3)コスプレは若者のホビーである。若者が若者でなくなるとコスプレを卒業するのか。
回答:両親世代はコスプレに参加しないが、見ることでかかわっている。

4)メディアとのかかわりについて。
回答:コスプレに興味を抱く人々は幼少期にテレビでアニメを見て、翻訳された漫画を読み、現在FBで情報を仕入れる。スマートフォンのSNSが一番重要である。

5)できるコスプレとできないコスプレは分かれているのか。イスラムの服装の規範に対する受け止め方によっても違うのではないか。男性が女性のコスプレをする、トランスジェンダーについてどのように考えるか。
回答:絶対できないキャラクターというのはない。イスラム教のルールで肌が出ない衣装に変更する。創造性として乗り越えている。2000年以降のイスラムの考え方として、信仰の内面化、個人化、一人一人の判断に任せる傾向が見られる。

6)コミュニティはいくつあるか。全インドネシアを統一する団体はあるか。
回答:スマトラだけで15のコミュニティがある。ジャワならもっと多いが全体の数は把握していない。日本語コースがある地方都市の国立大学の文化祭がきっかけとなり、それが場となってコミュニティが形成された。

7)メンバーになるのはどういう人達か。教育水準、家庭環境、経済状況、日本語を勉強して来た人達など、日本語コースのないイスラム系の大学でもいるのか。
回答:興味があれば誰でも参加できる。経済状況は関係ない。イスラム系の大学にもいる。

8)コスプレ・サミット、アニメ・フェスティバル・アジア(AFA)には何か国が参加しているか。
回答:AFAに参加している国は、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピン。一方、名古屋・世界コスプレ・サミットへは、アメリカ、インドネシア、マレーシア、中国、韓国など、2015年「ワールド・コスプレ・サミット」には28か国が参加。

(文責:東京外国語大学・合地幸子)


第二報告の議事録は後日掲載いたします。

2015年度第5回関東例会(11月)

東南アジア学会会員の皆様

2015年度11月関東例会を11月28日の土曜日に開催いたします。

今回の報告は、南波聖太郎会員による「社会主義国家建設の準備過程におけるラオス人民党の政治的主体性:1960年代半ばの「解放区国家化政策」とベトナムとの「特別な関係」」と、平田晶子会員による「ラムをめぐる芸能・宗教実践―タイ・ラオスのモン・クメール系住民の旋律世界」です。

詳細は以下をご覧ください。多くの方のご参加をお待ちしております。

2015年度11月関東例会
日時:2015年11月28日(土)(13:30~17:45)

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html(会場アクセス)

○第1報告(13:30~15:30)

報告者: 南波聖太郎氏
(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程/日本学術振興会特別研究員DC2)

報告題目
社会主義国家建設の準備過程におけるラオス人民党の政治的主体性:1960年代半ばの「解放区国家化政策」とベトナムとの「特別な関係」

コメンテーター
菊池陽子氏(東京外国語大学・准教授)

要旨:
ラオス人民党は、ラオスの民族解放を目指して1955年に結成されたが、幹部の大半は元インドシナ共産党員であり、「特別な関係」の名の下で「兄弟党」であるベトナム労働党からの支援が行われた。ラオスでは国内諸勢力の連合による中立化も試みられたが、第2次連合政府が崩壊し、米国による空爆が本格化した60年代半ば、党は「解放区国家化政策」を提唱し、自らの支配地域(解放区)において社会主義的な経済・文化政策を本格的に実施して行政機構、教育や経済の体制等を建設し、それらは75年以降の一党支配体制の基礎となった。同時に、その過程で顕在化する問題、特に慢性的な人材不足の解決を図るため、「専門家」と呼ばれるベトナム人の招聘、党員等の北ベトナムへの留学といった形でのベトナム労働党との協力が一層強化されたが、責任の所在や「専門家」の資質に関してなど、協力関係の在り方に対する問題提起もされるようになった。

○第2報告(15:45-17:45)

報告者: 平田晶子氏
(京都文教大学総合社会学部/日本学術振興会特別研究員PD)

報告題目
「ラムをめぐる芸能・宗教実践―タイ・ラオスのモン・クメール系住民の旋律世界」

コメンテーター
綾部真雄氏(首都大学東京・教授)

要旨
 本報告はグローバルな状況下での歌謡と宗教実践の民族誌を試みるものである。ラムとは、タイ東北地方とラオスで歌い継がれる現地の伝統的な歌謡を意味しており、その歌い手をモーラムと呼ぶ。ラムは、冠婚葬祭、法事、新築祝いなどにモーラムが招かれ、芸能として歌われるだけではなく、同じタイプの旋律を用いた歌が民間治療や精霊祭祀でも歌われることから、芸能・宗教実践として捉えることができる。しかし、近年では、タイとラオスの両国における法整備の影響を受け て、新たな展開を見せている。例えば、著作権法によってCDやDVDとなって商品化された「ラム」の創作活動に対して規制がかかるようになったことや、さらには医療法により、民間医療活動に対して、制限が加わるようになっている。それだけではなく、2000年代以降、村落社会において活躍するモーラムが、ネット上 に広がるヴァーチャル・コミュニティにおいても活動の領域を広げ、新たな音楽芸能活動に従事する現象が見られる。
 以上のようなラムをめぐる現状を鑑み、先行研究がこの芸能をラオのエスニック・アイデンティの核として扱う傾向が多かったことに対し、本研究は捨象されてきたモン・クメール系のラムの生活世界に焦点を当てながら、グローバル状況下のラムをめぐる芸能・宗教実践のダイナミズムを考察する。報告ではまずラムが上座仏教社会と、祖先崇拝や精霊信仰から成るアニミズム信仰社会で歌われていることを示す。さらに、ラムは村落社会や国民国家の内部に留まるだけでなく、国外へ逃亡した難民ディアスポラ等がネット上で形成するヴァーチャル・コミュニティでも流通・消費されている状況に着目する。本報告では、こうした上座仏教社会、アニミズム信仰社会、ヴァーチャル・コミュニティという3つの社会空間には音楽活動の存続を衰退させるどころか強化し合うようなラムの旋律を通じて相互関係があることを明らかにする。

例会終了後に懇親会を予定しております。

ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai*tufs.ac.jp)までご連絡ください。(*は、@)
多くの方のご参加をお待ちしております。

関東例会委員

2015年度第4回関東例会(10月)

2015年度第4回関東例会(10月24日)のご案内を致します。

今回は、ウィンダ・スチ・プラティウィ会員による「インドネシアにおけるコスプレ・コミュニティの形成と発展」と、舛谷鋭会員による「シンガポールの戦争の記憶とダークツーリズム:ナショナルアイデンティティをめぐって」の2報告です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

【日時・会場】
日時:2015年10月24日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

【内容】
〇第1報告(13:30~15:30)
報告者:ウィンダ・スチ・プラティウィ(Winda Suci Pratiwi)(桃山学院大学大学院文学研究科修士課程)

報告題目:「インドネシアにおけるコスプレ・コミュニティの形成と発展」

コメンテーター:青山亨(東京外国語大学・教授)

報告要旨:
現在、インドネシアで人気となっている日本の大衆文化の一つであるコスプレのファンが増え、各地方に数多くのコスプレ・コミュニティ(komunitas cosplay)が結成されている。インターネットやマスコミを通してコスプレに関する情報が地方に広まり、コスプレ・コミュニティはインドネシアの若者の間で新しいタイプのグループとなっている。今日開催される日本関連のイベントではコスプレは不可欠だと考えられていて、コスプレをまったく知らないというインドネシアの若者は皆無と言っても過言ではない。基本的にコスプレ・コミュニティの活動はイベントとコスプレ・ファッションの製作に関連する。学校(大学と高校)やモールなどで頻繁に開催されるイベントによって、コスプレ・コミュニティの活動範囲は広がっている。コスプレ・コミュニティが現在に至るまでどのように形成され、発展したのか明らかにすることは、現代インドネシアの若者文化を理解する上で大きな意義がある。この発表では、コスプレ・コミュニティに焦点を当て、インドネシアにおけるコスプレ文化の受容の実態を明らかにしたいと考えている。


〇第2報告(15:45~17:45)
報告者:舛谷鋭(立教大学観光学部交流文化学科・教授)

報告題目:「シンガポールの戦争の記憶とダークツーリズム:ナショナルアイデンティティをめぐって」

コメンテーター:千住一(立教大学観光学部交流文化学科・准教授)

報告要旨:
シンガポール首相、リー・シェンロンは建国50周年に当たり、今後の短期10年・中期25年・長期50年のチャレンジとして、それぞれ経済発展、高齢化対策、ナショナルアイデンティティを挙げている。マレー大国にはさまれた「紅」点に過ぎないシンガポールは、この半世紀で経済機構としては日本を凌ぐアジアトップの一人当たりGDP等、「第三世界から一流国入り」を果たしたが、500余万の人口のうち、4割近くを新移民または一時滞在者が占めるなど、アイデンティティ共有面で不安を抱える。本発表は、日本軍政期を中心とした戦跡やオーラルヒストリー、文学作品の中の戦争の記憶を対象に、シンガポールのアイデンティティ問題を「ダークツーリズム」の視点から、建国50年前後を含む1年間の南洋理工大学での在外研究で得た知見を元に分析する。

***

・例会終了後には懇親会をご用意しております。こちらもぜひご参加ください。
・お問い合わせは関東例会委員会のメールアドレス(kanto-reikai*tufs.ac.jp)までお願いいたします。(*を@に変えてお送りください。)

2015年度第3回(6月) 関東例会の報告

2015年6月27日に開催されました関東例会の議事録を掲載致します。

シンポジウム:インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」

プログラム
 13:30~13:50 趣旨説明:北村由美氏(京都大学附属図書館研究開発室・准教授)
 13:50~14:35 第一報告:津田浩司氏(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
  「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間:Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」
 14:35~14:45 質疑応答
 14:45~15:00 休憩
 15:00~15:45 第二報告:芹澤知広氏(奈良大学社会学部・教授)
  「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」
 15:45~15:55 質疑応答
 15:55~16:10 休憩
 16:10~16:30 コメント:原不二夫先生(南山大学元教授)
 16:30~17:45 総合討論

*****************************************************************************

1.第一報告・質疑応答
Q1:レジュメにある「PP20」は、「PP10(1959年大統領令10号)」とはどのように違う法律なのか。
A1:「PP20(1959年政令20号)」は、 二重国籍条約の批准を受けて制定された実施細則を指す。

Q2:Star Weekly誌と、今回補足的に紹介したLiberty誌はそれぞれどのような読者層に読まれていたのか。
A2:読者層の特定は難しいが、Star Weeklyの投稿欄のやりとりをみる限りでは、プラナカン華人が多いように見受けられる。Liberty誌はその傾向が一層顕著であるように思われる。なお、Liberty誌は東ジャワのみで販売されていたが、Star Weekly誌はジャワを中心に一応外島にも販売網はあった。

Q3:インドネシア華人には、中国国籍保持者とインドネシア国籍保持者がいた。また、ババ、プラナカン、トトックという言葉もあるが、それぞれのアイデンティティや、習慣はどのようなものだったのだろうか。どのようなエスニシティを形成していたと考えられるのか。
A3:この時代は華人と国籍に関して明確な選択を迫られた時代であった。二誌の場合は、国民としてのアイデンティティと国籍とが明確に一致することを求めるという論調に際立った特徴がある。ただし国籍に関していえば、1958年の国籍法前までインドネシアは生地主義を採っており、他方で中国人民共和国は血統主義を採用しており、この二重国籍状態を解消するための条約批准に時間を要したため、60年前後の時点では国籍をもって峻別することがそもそも困難であった。誌面上にはプラナカンやトトックを含め、いわゆる華人の伝統や慣習に関する特集記事がしばしば掲載されているが、実際にどのようなエスニシティを形成していたかはこの研究の射程外である。

2.第二報告・質疑応答
Q1:香港の梅県客家とあるが、どのようにして客家と特定しているのか。
A1:自分たちが梅県に祖籍を持っている客家だといっている。梅県は客家が多い。

Q2:『大公報』以外にその当時、どのような新聞があったのか、概況が知りたい。
A2:『「読み・書き」から見た香港の転換期』(明石書店、2009)に収録されている「アルコール飲料の新聞広告から見た香港社会の変化」に詳細を記載したが、1925年頃から『華僑日報』、『工商日報』、『星島日報』の三紙が代表的であった。『華僑日報』は同郷団体の情報に詳しい。『星島日報』は政府系。60年代は『香港商報』などの左派系で一般的なものが出てきた。『成報』なども人気。

Q3:「PP10」が香港経済にも影響したと『大公報』で報告されていたようだが、その後の動向などは『大公報』で紹介されていたか。
A3:その後の時代の『大公報』の分析は済んでいない。国貨公司に関する研究を行う過程で見た感じでは、インドネシアとの関係では籐家具の商売が多く、インドネシア製品は継続的に香港には入っていた。一時的な停滞はあったが、交流は連続していたと思われる。

3.コメント:原先生
マラヤ・シンガポールからは第二次世界大戦後、数万人が中国に帰還したが、その多くは強制送還だった。特に帰還者・送還者が多かったのは、1948年から1950年の3年間である。今回の発表では、自由意思による帰国か強制帰国かといった点について言及がなかったが、実際はどうだったのか。以下、それぞれの報告に対する質問を挙げる。
<第一報告>
Q1:二重国籍(解消)条約が遅れて施行されたことと、PP10による混乱は、どのように関係しているのか。報告では、「インドネシア国籍なら残れ、中国籍なら帰れ」といった論調の記事が紹介されているが、実際はどうだったのか。
A1:まず、自由意思か強制帰国かという問題だが、それほど簡単には区別できない。進学のために中国へ行ったのは自由意思に近いと思われるが、プロパガンダにのって中国に渡った人もいた。中国系であるといずれは追い出されるから、という理由で渡った人もいる。二重国籍条約批准の遅れによる混乱もある。そのため、今回対象となっている時期は、国籍を確定できずに帰国した人も相当数含まれていると思われる。

Q2:華僑が経済を支配していることを非難する議論が華僑側から起こった事例は非常に珍しいと思うが、なぜなのか。また、今日紹介があった二誌は、いずれも社会主義的立場をとっているということだったが、中国共産党を批判する記事もあった。政治的立場に、一貫性があるのか。
A2:華僑が握るというよりは外国人が握っていることが問題だという論調である。共産主義と社会主義に関しては、両誌とも当時のスカルノ大統領によって推進されていたインドネシア式社会主義を支持するという立場であり、共産主義とは一線を画している。

Q3:Liberty誌の記事内容に、「国有企業の従業員が、インドネシア国籍であることを証明する必要に迫られることになり、このための裁判所での手続きにはRp2560を要する」とあるが、2560ルピアとはどのぐらいの価値か。
A3:Star Weekly誌が4ルピア、石けん一箱が2ルピアだったことを考えると、相当高額である。

<第二報告>
Q1:マラヤ華僑が経営する国貨公司はなく、インドネシア華僑経営のものばかりだが、インドネシアからの帰国者は資産があったのではないか。これらの経営者は、一旦中国に帰国し、そこから香港に渡った後に国貨公司をはじめたのか、それとも最初から直接香港に渡り設立したのか。
A1:国貨公司の経営者は、中国へ帰国した人たちではなく、1950年代以降にインドネシアから直接香港に渡った人達である。彼らは、インドネシアから新中国へ観光旅行に行った際に、中国の製品を香港で売るという商売を思いついたようだ。

Q2:「新村」は、マラヤ華僑の話の中には出てこないので、興味深い。自らの資金で造成したとのことなので、着の身着のままで送還されたマラヤ華僑には無理だったのだろう。
A2:インドネシアの場合、資金を携えた者がかなりいたようだ。

Q3:インドネシア共産党員で帰国した人はいるのか。
A3:政治的な背景を持った人は多くないという印象を持っている。

4.総合討論・その他
Q1:PP10の実施のされ方について、地方によってかなり違ったということだが、外島の場合はどうだったのか。また、趣旨説明と第二報告では、西ジャワにおけるPP10被害について言及されているが、第一報告では、「西ジャワより、中ジャワ・東ジャワの方が緊張感が高い」といった内容の記事が紹介されている。実際はどうだったのか。
A1:外島のことは両誌ともほとんど言及がない。先行研究では、西ジャワの被害が大きくとりあげられている。中でも死者がでたチマヒ事件は、外交問題に発展したこともありよく言及されている。今回紹介したStar Weeklyの記事は、実際に記者が中・東ジャワに赴いて「緊張感が高い」と記したものではあるが、実態は分からない。

Q2:国貨公司は、中国製品を香港で売る店ということだが、どのように使われていたのか。
A2:1950年代後半~60年代前半が最盛期で、1960年代の反植民地暴動以降、いったん衰退した。中国への帰郷が可能になった80年代以降は、香港や東南アジアの華僑が国貨公司で手土産を買うと、その品物を深圳で受け取ることができるというサービスなどがあり、再び人気が出た。

Q3:国貨公司は、小売り部門以外に貿易ルートなどもかなり強固だったと理解していいのか。
A3:そうだろう。1980年代以降には、南洋フェアなどをやっていたこともある。

Q4:それぞれの扱っている雑誌や新聞が、他(国)のメディアを引用している場合は、どのような情報源からだったのか。
A4(1):Star Weekly誌は、華語新聞をほとんど参照していない。
A4(2):新華社などのニュースを参照していることが多い。

Q5:PP10が実施されたタイミングがもし二重国籍問題の解決後であれば、このような混乱がなかったかもしれないと仮定できるが、あのようなタイミングで出たことについて、何か意見があれば聞きたい。
A5:1950年代後半は、経済の「nasionalisasi(国有化)」が、進められた時期である。その時期に、外国人企業として登録されている90%以上が華人であったという統計もあるので、それを何とか解決したいという思惑もあったものと推察する。PP10に先立って商業大臣令が出されており、PP10が全くの思いつきで導入されたというわけではない。

2015年度第3回(6月)関東例会のご案内

2015年度第3回関東例会(6月)のご案内をいたします。

今回は、北村由美会員の発案による「インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」」と題したシンポジウム形式で開催致します。
内容は、津田浩司会員による「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間: Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」、および、芹澤知広会員による「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2015年度6月例会>
日時:2015年6月27日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース(※ 前回は4階でしたが、今回は5階です。ご注意下さい)
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

シンポジウム:インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」

☆プログラム
 13:30~13:50 趣旨説明:北村由美(京都大学附属図書館研究開発室・准教授)
 13:50~14:35 第一報告:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
  「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間:
           Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」
 14:35~14:45 質疑応答
 14:45~15:00 休憩
 15:00~15:45 第二報告:芹澤知広(奈良大学社会学部・教授)
  「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」
 15:45~15:55 質疑応答
 15:55~16:10 休憩
 16:10~16:30 コメント:原不二夫先生(南山大学元教授)
 16:30~17:45 総合討論

☆趣旨説明(北村由美)
<全体趣旨>
 本報告は、戦後アジアにおける最大規模の国際移動の一つに数えられる、1960年代初頭のインドネシアから中国への華人の「帰国」をめぐって、送り出し側のインドネシアと受入れ側の中国(香港)におけるメディア分析の結果を中心に報告する。
 第二次世界大戦後、インドネシアが、植民地体制からの脱却、冷戦下における権威主義体制、そして民主化というように幾度も体制転換を経てきた。政治体制が転換する中で、複雑に絡み合った「包摂」と「排除」の対象となった華人の中には、オランダ、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、アメリカなど、他国への移動を試みた人が少なくない。中でも、「大統領令1959年10号」の発令によって、外国籍保持者が村落部における商業活動を禁止されたことで起こった混乱によって、1960年代初頭に中国に「帰国華僑」として移動したインドネシア華人は10万人にのぼるとされるが、その詳細はまだ十分に検討されていない。
 本報告では特に、当事者達が、どのような状況で、何を選択したか。また移動した当時、移動先においてどのように受け止められていたかといった点に、焦点をあてる。最初に趣旨説明を行い、共同調査から見えてきた当時の状況などを報告する。その後、第一報告によって、当時のインドネシアにおいて、華人社会のオピニオン形成に影響力を持っていたStar Weekly誌の記事分析を通し、インドネシア華人の言説空間の中に「帰国」問題を位置づける。引き続き第二報告では、香港の中国語新聞『大広報』の分析を通し、「帰国」後の中国人(華人)社会において、「帰国華僑」がどのように注目されていたかを明らかにする。これらの報告を通して、「帰国」の背景と帰国をめぐる言説、そして「帰国」後の華人の営みを複眼的に位置づけし、提示することが本報告の目的である。
 なお、本報告は、科学研究費基盤研究(B)「20世紀アジアの国際関係とインドネシア華人の移動」(代表:北村由美)[平成24年度-27年度]の成果の一部である。

☆第一報告(津田浩司)
報告題:インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間: Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に
<報告要旨>
 インドネシアでは、1959年に出された大統領令第10号(PP10)に伴い、生業を失った多数の華人が中国へと「帰国」することとなった。こうした事態を跡づけるにあたって、国際関係論的ないし政治学・政策論的に分析することと、移動するか否かの選択を迫られた人々が一体どのような情報に接していたのかを理解することとは、全く別のことである。本報告は後者、すなわち当時のインドネシア華人社会の言説空間に部分的に接近すべく、主に週刊誌Star Weeklyに掲載された記事(1958年4月~60年7月)を中心に取り上げ紹介する。
 Star Weekly誌は、当時華人系のインドネシア語日刊紙としては『新報(Sin Po)』と並び称される『競報(Keng Po)』社が発行していた総合雑誌であり、後に同国最大の日刊紙Kompasを創刊することになるP.K.Ojongが編集長を務めていた。インドネシア・ナショナリズムの観点からPP10を明確に支持する立場を取っていた同誌の論調は、上述のSin Po紙等とは一線を画すものであり、それゆえ本報告によってインドネシア華人社会の言説空間の全貌が再構築されるわけでは決してない。しかしながら、これら雑誌の記事を丹念に追いつつ人々が接していたであろう具体的情報を把握していく作業は、結果的に国外へと移動することになった人々、あるいは国内に留まった人々の動因を、当人の「華人アイデンティティ」の有無の問題へと安易に帰着させないためにも、重要なことである。

☆第二報告(芹澤知広)
報告題:香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人
<報告要旨>
 本報告は、香港の中国語新聞『大公報』の1959年から61年にかけてのインドネシア華人関係記事を検討し、先行研究が焦点をあててはこなかった興味深い内容を紹介することを目的としている。『大公報』は1902年に中国・天津で創刊され、1930年代から40年代にかけては中国各地で地方版が発行された。その香港版は、1948年に天津版を引き継ぐかたちで復刊したが、その時に上海から香港へ移った重要人物のなかに中国共産党の地下党員がいたことから、後には「左派」としての立場を明らかにした。そのため冷戦時代の香港において『大公報』は、『文匯報』と並び、代表的な中国共産党のプロパガンダ新聞であり、「西側」のチャイナウォッチャーの重要な情報源であった。当時の『大公報』は、読者である香港の住民にとっての身近な関心事である、華僑の生活や中国と東南アジアとの貿易などの記事を多く載せており、今なお参照に値する興味深い資料と考えられる。

終了後、簡単な懇談会を予定しております。
多くの方々のご来場をお待ちしております。
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