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2015年度第3回(6月) 関東例会の報告

2015年6月27日に開催されました関東例会の議事録を掲載致します。

シンポジウム:インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」

プログラム
 13:30~13:50 趣旨説明:北村由美氏(京都大学附属図書館研究開発室・准教授)
 13:50~14:35 第一報告:津田浩司氏(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
  「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間:Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」
 14:35~14:45 質疑応答
 14:45~15:00 休憩
 15:00~15:45 第二報告:芹澤知広氏(奈良大学社会学部・教授)
  「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」
 15:45~15:55 質疑応答
 15:55~16:10 休憩
 16:10~16:30 コメント:原不二夫先生(南山大学元教授)
 16:30~17:45 総合討論

*****************************************************************************

1.第一報告・質疑応答
Q1:レジュメにある「PP20」は、「PP10(1959年大統領令10号)」とはどのように違う法律なのか。
A1:「PP20(1959年政令20号)」は、 二重国籍条約の批准を受けて制定された実施細則を指す。

Q2:Star Weekly誌と、今回補足的に紹介したLiberty誌はそれぞれどのような読者層に読まれていたのか。
A2:読者層の特定は難しいが、Star Weeklyの投稿欄のやりとりをみる限りでは、プラナカン華人が多いように見受けられる。Liberty誌はその傾向が一層顕著であるように思われる。なお、Liberty誌は東ジャワのみで販売されていたが、Star Weekly誌はジャワを中心に一応外島にも販売網はあった。

Q3:インドネシア華人には、中国国籍保持者とインドネシア国籍保持者がいた。また、ババ、プラナカン、トトックという言葉もあるが、それぞれのアイデンティティや、習慣はどのようなものだったのだろうか。どのようなエスニシティを形成していたと考えられるのか。
A3:この時代は華人と国籍に関して明確な選択を迫られた時代であった。二誌の場合は、国民としてのアイデンティティと国籍とが明確に一致することを求めるという論調に際立った特徴がある。ただし国籍に関していえば、1958年の国籍法前までインドネシアは生地主義を採っており、他方で中国人民共和国は血統主義を採用しており、この二重国籍状態を解消するための条約批准に時間を要したため、60年前後の時点では国籍をもって峻別することがそもそも困難であった。誌面上にはプラナカンやトトックを含め、いわゆる華人の伝統や慣習に関する特集記事がしばしば掲載されているが、実際にどのようなエスニシティを形成していたかはこの研究の射程外である。

2.第二報告・質疑応答
Q1:香港の梅県客家とあるが、どのようにして客家と特定しているのか。
A1:自分たちが梅県に祖籍を持っている客家だといっている。梅県は客家が多い。

Q2:『大公報』以外にその当時、どのような新聞があったのか、概況が知りたい。
A2:『「読み・書き」から見た香港の転換期』(明石書店、2009)に収録されている「アルコール飲料の新聞広告から見た香港社会の変化」に詳細を記載したが、1925年頃から『華僑日報』、『工商日報』、『星島日報』の三紙が代表的であった。『華僑日報』は同郷団体の情報に詳しい。『星島日報』は政府系。60年代は『香港商報』などの左派系で一般的なものが出てきた。『成報』なども人気。

Q3:「PP10」が香港経済にも影響したと『大公報』で報告されていたようだが、その後の動向などは『大公報』で紹介されていたか。
A3:その後の時代の『大公報』の分析は済んでいない。国貨公司に関する研究を行う過程で見た感じでは、インドネシアとの関係では籐家具の商売が多く、インドネシア製品は継続的に香港には入っていた。一時的な停滞はあったが、交流は連続していたと思われる。

3.コメント:原先生
マラヤ・シンガポールからは第二次世界大戦後、数万人が中国に帰還したが、その多くは強制送還だった。特に帰還者・送還者が多かったのは、1948年から1950年の3年間である。今回の発表では、自由意思による帰国か強制帰国かといった点について言及がなかったが、実際はどうだったのか。以下、それぞれの報告に対する質問を挙げる。
<第一報告>
Q1:二重国籍(解消)条約が遅れて施行されたことと、PP10による混乱は、どのように関係しているのか。報告では、「インドネシア国籍なら残れ、中国籍なら帰れ」といった論調の記事が紹介されているが、実際はどうだったのか。
A1:まず、自由意思か強制帰国かという問題だが、それほど簡単には区別できない。進学のために中国へ行ったのは自由意思に近いと思われるが、プロパガンダにのって中国に渡った人もいた。中国系であるといずれは追い出されるから、という理由で渡った人もいる。二重国籍条約批准の遅れによる混乱もある。そのため、今回対象となっている時期は、国籍を確定できずに帰国した人も相当数含まれていると思われる。

Q2:華僑が経済を支配していることを非難する議論が華僑側から起こった事例は非常に珍しいと思うが、なぜなのか。また、今日紹介があった二誌は、いずれも社会主義的立場をとっているということだったが、中国共産党を批判する記事もあった。政治的立場に、一貫性があるのか。
A2:華僑が握るというよりは外国人が握っていることが問題だという論調である。共産主義と社会主義に関しては、両誌とも当時のスカルノ大統領によって推進されていたインドネシア式社会主義を支持するという立場であり、共産主義とは一線を画している。

Q3:Liberty誌の記事内容に、「国有企業の従業員が、インドネシア国籍であることを証明する必要に迫られることになり、このための裁判所での手続きにはRp2560を要する」とあるが、2560ルピアとはどのぐらいの価値か。
A3:Star Weekly誌が4ルピア、石けん一箱が2ルピアだったことを考えると、相当高額である。

<第二報告>
Q1:マラヤ華僑が経営する国貨公司はなく、インドネシア華僑経営のものばかりだが、インドネシアからの帰国者は資産があったのではないか。これらの経営者は、一旦中国に帰国し、そこから香港に渡った後に国貨公司をはじめたのか、それとも最初から直接香港に渡り設立したのか。
A1:国貨公司の経営者は、中国へ帰国した人たちではなく、1950年代以降にインドネシアから直接香港に渡った人達である。彼らは、インドネシアから新中国へ観光旅行に行った際に、中国の製品を香港で売るという商売を思いついたようだ。

Q2:「新村」は、マラヤ華僑の話の中には出てこないので、興味深い。自らの資金で造成したとのことなので、着の身着のままで送還されたマラヤ華僑には無理だったのだろう。
A2:インドネシアの場合、資金を携えた者がかなりいたようだ。

Q3:インドネシア共産党員で帰国した人はいるのか。
A3:政治的な背景を持った人は多くないという印象を持っている。

4.総合討論・その他
Q1:PP10の実施のされ方について、地方によってかなり違ったということだが、外島の場合はどうだったのか。また、趣旨説明と第二報告では、西ジャワにおけるPP10被害について言及されているが、第一報告では、「西ジャワより、中ジャワ・東ジャワの方が緊張感が高い」といった内容の記事が紹介されている。実際はどうだったのか。
A1:外島のことは両誌ともほとんど言及がない。先行研究では、西ジャワの被害が大きくとりあげられている。中でも死者がでたチマヒ事件は、外交問題に発展したこともありよく言及されている。今回紹介したStar Weeklyの記事は、実際に記者が中・東ジャワに赴いて「緊張感が高い」と記したものではあるが、実態は分からない。

Q2:国貨公司は、中国製品を香港で売る店ということだが、どのように使われていたのか。
A2:1950年代後半~60年代前半が最盛期で、1960年代の反植民地暴動以降、いったん衰退した。中国への帰郷が可能になった80年代以降は、香港や東南アジアの華僑が国貨公司で手土産を買うと、その品物を深圳で受け取ることができるというサービスなどがあり、再び人気が出た。

Q3:国貨公司は、小売り部門以外に貿易ルートなどもかなり強固だったと理解していいのか。
A3:そうだろう。1980年代以降には、南洋フェアなどをやっていたこともある。

Q4:それぞれの扱っている雑誌や新聞が、他(国)のメディアを引用している場合は、どのような情報源からだったのか。
A4(1):Star Weekly誌は、華語新聞をほとんど参照していない。
A4(2):新華社などのニュースを参照していることが多い。

Q5:PP10が実施されたタイミングがもし二重国籍問題の解決後であれば、このような混乱がなかったかもしれないと仮定できるが、あのようなタイミングで出たことについて、何か意見があれば聞きたい。
A5:1950年代後半は、経済の「nasionalisasi(国有化)」が、進められた時期である。その時期に、外国人企業として登録されている90%以上が華人であったという統計もあるので、それを何とか解決したいという思惑もあったものと推察する。PP10に先立って商業大臣令が出されており、PP10が全くの思いつきで導入されたというわけではない。

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2015年度第3回(6月)関東例会のご案内

2015年度第3回関東例会(6月)のご案内をいたします。

今回は、北村由美会員の発案による「インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」」と題したシンポジウム形式で開催致します。
内容は、津田浩司会員による「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間: Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」、および、芹澤知広会員による「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2015年度6月例会>
日時:2015年6月27日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース(※ 前回は4階でしたが、今回は5階です。ご注意下さい)
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

シンポジウム:インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」

☆プログラム
 13:30~13:50 趣旨説明:北村由美(京都大学附属図書館研究開発室・准教授)
 13:50~14:35 第一報告:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
  「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間:
           Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」
 14:35~14:45 質疑応答
 14:45~15:00 休憩
 15:00~15:45 第二報告:芹澤知広(奈良大学社会学部・教授)
  「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」
 15:45~15:55 質疑応答
 15:55~16:10 休憩
 16:10~16:30 コメント:原不二夫先生(南山大学元教授)
 16:30~17:45 総合討論

☆趣旨説明(北村由美)
<全体趣旨>
 本報告は、戦後アジアにおける最大規模の国際移動の一つに数えられる、1960年代初頭のインドネシアから中国への華人の「帰国」をめぐって、送り出し側のインドネシアと受入れ側の中国(香港)におけるメディア分析の結果を中心に報告する。
 第二次世界大戦後、インドネシアが、植民地体制からの脱却、冷戦下における権威主義体制、そして民主化というように幾度も体制転換を経てきた。政治体制が転換する中で、複雑に絡み合った「包摂」と「排除」の対象となった華人の中には、オランダ、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、アメリカなど、他国への移動を試みた人が少なくない。中でも、「大統領令1959年10号」の発令によって、外国籍保持者が村落部における商業活動を禁止されたことで起こった混乱によって、1960年代初頭に中国に「帰国華僑」として移動したインドネシア華人は10万人にのぼるとされるが、その詳細はまだ十分に検討されていない。
 本報告では特に、当事者達が、どのような状況で、何を選択したか。また移動した当時、移動先においてどのように受け止められていたかといった点に、焦点をあてる。最初に趣旨説明を行い、共同調査から見えてきた当時の状況などを報告する。その後、第一報告によって、当時のインドネシアにおいて、華人社会のオピニオン形成に影響力を持っていたStar Weekly誌の記事分析を通し、インドネシア華人の言説空間の中に「帰国」問題を位置づける。引き続き第二報告では、香港の中国語新聞『大広報』の分析を通し、「帰国」後の中国人(華人)社会において、「帰国華僑」がどのように注目されていたかを明らかにする。これらの報告を通して、「帰国」の背景と帰国をめぐる言説、そして「帰国」後の華人の営みを複眼的に位置づけし、提示することが本報告の目的である。
 なお、本報告は、科学研究費基盤研究(B)「20世紀アジアの国際関係とインドネシア華人の移動」(代表:北村由美)[平成24年度-27年度]の成果の一部である。

☆第一報告(津田浩司)
報告題:インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間: Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に
<報告要旨>
 インドネシアでは、1959年に出された大統領令第10号(PP10)に伴い、生業を失った多数の華人が中国へと「帰国」することとなった。こうした事態を跡づけるにあたって、国際関係論的ないし政治学・政策論的に分析することと、移動するか否かの選択を迫られた人々が一体どのような情報に接していたのかを理解することとは、全く別のことである。本報告は後者、すなわち当時のインドネシア華人社会の言説空間に部分的に接近すべく、主に週刊誌Star Weeklyに掲載された記事(1958年4月~60年7月)を中心に取り上げ紹介する。
 Star Weekly誌は、当時華人系のインドネシア語日刊紙としては『新報(Sin Po)』と並び称される『競報(Keng Po)』社が発行していた総合雑誌であり、後に同国最大の日刊紙Kompasを創刊することになるP.K.Ojongが編集長を務めていた。インドネシア・ナショナリズムの観点からPP10を明確に支持する立場を取っていた同誌の論調は、上述のSin Po紙等とは一線を画すものであり、それゆえ本報告によってインドネシア華人社会の言説空間の全貌が再構築されるわけでは決してない。しかしながら、これら雑誌の記事を丹念に追いつつ人々が接していたであろう具体的情報を把握していく作業は、結果的に国外へと移動することになった人々、あるいは国内に留まった人々の動因を、当人の「華人アイデンティティ」の有無の問題へと安易に帰着させないためにも、重要なことである。

☆第二報告(芹澤知広)
報告題:香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人
<報告要旨>
 本報告は、香港の中国語新聞『大公報』の1959年から61年にかけてのインドネシア華人関係記事を検討し、先行研究が焦点をあててはこなかった興味深い内容を紹介することを目的としている。『大公報』は1902年に中国・天津で創刊され、1930年代から40年代にかけては中国各地で地方版が発行された。その香港版は、1948年に天津版を引き継ぐかたちで復刊したが、その時に上海から香港へ移った重要人物のなかに中国共産党の地下党員がいたことから、後には「左派」としての立場を明らかにした。そのため冷戦時代の香港において『大公報』は、『文匯報』と並び、代表的な中国共産党のプロパガンダ新聞であり、「西側」のチャイナウォッチャーの重要な情報源であった。当時の『大公報』は、読者である香港の住民にとっての身近な関心事である、華僑の生活や中国と東南アジアとの貿易などの記事を多く載せており、今なお参照に値する興味深い資料と考えられる。

終了後、簡単な懇談会を予定しております。
多くの方々のご来場をお待ちしております。

2015年度第2回(5月) 関東例会の報告

2015年5月16日に開催されました関東例会の議事録を掲載致します。

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第一報告(13:30~15:30)
報告者:坪井祐司氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員)
報告題目:「1930年代の英領マラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争:ジャウィ新聞『マジュリス』の分析から」
コメンテーター:左右田直規氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・准教授)

【コメント(東京外国語大学左右田直規先生)】
1. 補足説明
読者層をイメージするときに、参考になると思うのは1931年のセンサスにある識字率である。連合マレー諸州のマレー系男性の識字率が約41%、女性が8%であった。1931年当時の世界全体の識字率から考えても、男性の識字率は必ずしも低いわけではない。女性の識字率に関しては、女子教育が、マラヤではまだ浸透していなかったという状況が影響しているのではないか。
『マジュリス』の当時の発行部数が初版(1931年)で2000部と報告にあったが、当時のスランゴール州のマレー系の人口が12万人、連合マレー諸州全体では59万人であったことから、少なく見えるかもしれない。ただし、同時期に発行されていたマレー語紙『ワルタ・マラヤ』でも1930年代で1000-3000部であり、また多くの先行研究でも指摘されているように、発行部数と、実際に新聞の論説に触れた人の数との間には大きな差があると考えられることからも、部数にあらわれない間接的な読者層を含めて『マジュリス』も部数以上の影響力があったと考えてよいと思っている。
2. 坪井氏の『マジュリス』研究の意義
本報告の研究の意義は、一番大きいのは、言語媒体、あるいは地域を越えた言論空間の成立という点にあると考える。同一の争点をめぐって、従来であれば、マレー語紙の分析はマレー語紙のみ、英語紙については英語紙のみと、複数の言語媒体を往還するようなものはなかったが、本研究では『マジュリス』と『マレーメール』間の交渉の分析から試みている。また、当時のマラヤの諸都市(クアラルンプール、ペナン、シンガポール)、宗主国の都市ロンドンとの間の、地域を越えた言論空間の成立という本研究の指摘も非常に興味深く、分析視角としてもインパクトのあるものであったと考えている。
 個別的な点では、マレー人における王権の重要性についての指摘についても興味深かった。コメンテーター自身が主に研究対象としてきた『マジュリス』第三代編集長のイブラヒム・ハジ・ヤーコブは社会主義思想に影響を受けた左派として知られているが、1930年代に彼が書いた記事を読むと、マレーの王制の存在を前提とした議論になっており、個別の点で批判することはあっても、王権打破ということは一切言っておらず、また、植民地支配を根底から批判するような言説もしていない。これはセンサーシップの問題であると捉えることも可能かもしれないが、おそらく彼自身の思想であったと思う。マレーの論争において、王権の存在が基本となっていることが、本報告でも指摘され非常に腑に落ちた。
論者の属性と主張内容をどこまで繋げて考えてよいか、ということは、議論になる点であるかと思うが、アブドゥル・ラヒム・カジャイは、親はスマトラのミナンカバウ系出自、イブラヒム・ハジ・ヤーコブはスラウェシのブギス系の出自であることを本人も自覚しており、いわゆる「外来マレー人」とカテゴライズされうる資質を持った彼らが、自分たちのマレー性を意識化せざるを得ない状況にあった。だからこそ、マレーナショナリズムへ傾倒してくところがあったのではないか。また、論争だけではなく、政策過程にも着目されており、マレー人の王族や植民地当局、イギリス本国当局への影響までを射程に入れている分析という点も、単なる言説分析にとどまっていないという点が非常に興味深かった。
3. 質問
Q1新聞の言論分析をする際のもう一つの考え方としては、同一紙面の中での意見の対立や論争を抽出していくアプローチもあるかと思うが、『マジュリス』内における意見の対立や論争は見られたか。
Q2 マレー語媒体と英語媒体の相互作用について:『マレーメール』の議論を『マジュリス』がよくフォローしていて、それを前提として議論を組み立てているが、『マレーメール』が『マジュリス』の議論を引用して、議論することもあるのか。相互作用は双方向性をもったものとして捉えてよいか。
Q3言論を超えた相互作用について:オランダ領東インドで使用されていた言語(現在のインドネシア語)の新聞を参照、引用し、そこから議論を組み立てたというような、(今日指摘された以上の)言論媒体を越えた相互作用というものもあるのか。
Q4「多民族の都市社会に生きるマレー人」を読者として注目されていたかと思うが、書き手(投稿者)が発行地である都市以外の地域に在住している可能性も大きい(イブラヒム・ヤーコブもパハンで教師をしている時に投稿していた)。都市以外の地域の読者層の広がり、需要をどのように捉えているか。
Q5 政策立案過程の一部としての、新聞における言論活動、という点について:世論の形成に重要な役割を果たしている可能性があるということを具体的事例から今日は説明されたかと思うのだが、この仮説を実証的に論じることを可能にする材料として、政策立案側の資料(議事録など)はあるか。

【コメントに対する返答】
A1『マジュリス』内の論争、意見の対立があるか
読者投稿も多く、社説に対する読者の投書に、社説が返答する、ということなどの例は実際に見られる。
A2 英語の媒体がマレー語媒体をどれほど参照しているか
『マジュリス』ほど入念に目を通したわけではないが、『マレーメール』にはクアラルンプール事情を扱うコラムがあり、マレー語紙の論調はチェックしている。『ストレーツ・タイムズ』にも『マジュリス』と思われる記事の引用例がある。
A3言論を超えた相互作用について(インドネシア語)
これまで目を通した『マジュリス』の記事の中で、スマトラ島のメダンで発行された新聞への言及があり、可能性としてはあると考えている。
A4『マジュリス』の読者層について
読者投稿を見てみると、スランゴールには限定されておらず、近隣諸州であるペラ州などからの投稿もあり、掲載広告もクアラルンプールだけでなく、シンガポールのものなどもある。
A5政策立案過程の一部としての、新聞における言論活動
政策立案過程に影響力があったのではないかと考えたのは、行政文書を見ているとファイルの中に新聞の切り抜きがあり、植民地政庁側、政策担当者は新聞に気を配っていたのは確かであると考えたため。

【質疑応答】
Q:ムラユ(血統)に触れる言論をするか、マラヤン(地域)に触れる言論をするかは、人それぞれで多様な議論がある、とのことだったが、『マジュリス』の場合、どういうケースの時にどちらに議論が触れる、といった傾向性はあるのか。
A:『マジュリス』マレーナショナリズム側なので、基本的な論調はムラユにある。逆にマラヤンを強調するのは、外来の人たちなので、華人やインド人の意見を代表するような英語紙がそのような主張をする。マレー人内部の論争では議論はわかれるが、基本的にはマレー、インドネシアという島嶼部世界によって区切るというのが『マジュリス』の立場である。
Q:「インドネシアと一緒にしてくれるな」「インドネシアは一緒なのだから、インドネシアという別カテゴリーを設けるのはよくない」という両方の議論が出てくるとあったが、どのような経緯か。
A:マレー、インドネシアを全体として「マレー人」と括ることについては、比較的多くの人が同意している。ただ、マレーとインドネシアを区別して考えるような意見も散発的に見られる。
Q:この時代に、マレー人から「祖国」という言葉が出てくるのは、どういう背景からか。
A:「祖国」にあたる言葉は、創刊号の巻頭言で出てくるのはアラビア語起源の「ワタン(Watan)」である。もうひとつ「祖国」にあたる言葉として、マレー語の「タナ・アイル(tanah air)」がある。
Q:「祖国」といった時の地理的範囲は。マレー半島とボルネオ島も含まれるのか。
A:ボルネオは意識されていなかっただろう。基本的には「マラヤ」の範囲で、現在のマレーシア半島部とシンガポールが「祖国」の範囲であったと考える。
Q:1931年という時代に『マジュリス』が発刊されることになった意味は何か。
A:ひとつの理由としては、世界恐慌で民族的な対立が先鋭化したことがある。ただ、政治的な綱引きというのは、第一次世界大戦後からの流れとしてある。
Q:イギリスから植民地省事務次官が来た時に、『マジュリス』はスルタンと一般のマレー人の間の乖離を指摘しているが、民族主義者の立場から、王族と臣民の立場を越えて団結せよという強い主張は『マジュリス』でされていたのか。
A:王族と一般の人々が分かれているというのは、(第二次世界大戦)戦後に至ってもよくみられる言説である。知識人や言論人にとっては、大きな問題としてあったのではないか。『マジュリス』の立場としては、王族を取り込んでいく意味は大きいと考えていたのではないか。
Q:『マジュリス』的なナショナリズムというのは、最初からスルタンが入っていたのか、あるいはスルタンは入っていなかったのか。マレー人をまとめる役割というものを王族自身は意識していたか。
A:民族主義者たちが王族を枠外に考えていたということはおそらくなく、マレー人は王族を中心とした民族であると考えていた。王族側は、参事会や民族の代表が集まる公的な場において、王族はマレー人を代表して意見するという点は意識していた。実際に、王族が民族主義活動に加わるケースも多くあり、お互いにそれなりの意識はあるだろう。
Q: スランゴール王権の継承問題の『マジュリス』の論調について、イギリスや英語新聞で行われた論争を転載していた背景はどのようなものか。イギリス国内や英語新聞の議論を借りて、これに賛同するという立場か、あるいは一歩引いた立場から論争を紹介し、あとは読者の反応に任せるということか。
A:他紙からの転載記事が多い理由は、転載した記事の議論に賛同しているという立場だったのではないか。『マジュリス』が転載した王位継承問題に関する他紙の議論のほとんどが批判的な論調のものだった。
Q:ペナン、シンガポールなど独自の王権がない海峡植民地は、王権に関する発言の自由度が比較的高い。それに対して『マジュリス』は、王国の中に位置しているクアラルンプールの新聞であるという点が、王権の議論における腰の引けている態度に影響している可能性はあるか。
A:それはあると思う。地元なのに腰が引けているというのは、イギリスを批判すると現在の皇太子を批判することにつながりかねないという事情もある。
Q:発刊が週2-3回というのは、当時としては一般的な頻度だったのか。途中から週3回に増えているが、これには何か背景があってのことなのか。
A:当時日刊紙はそれほどなく、週2-3回発刊の新聞が多かった。頻度が増えたのは記事の分量が増えたためである。発行頻度が低いとはいえ、引用については、引用元の記事が出てから数日後には掲載されていることが多く、言論の場としての機能は果たしている。
Q:「分権化」政策に対する『マジュリス』の立場は。
A:分権化政策に反対した勢力としてマラヤ在住のイギリス人がある。連邦の権限を削ると意思決定に支障をきたすのと懸念した。このため、シンガポールの英語メディアは批判的な論調であった。マレー人側は、連邦の権限の委譲により各州のマレー王権の権威を回復させる政策と捉えられたため、『マジュリス』を含めて、マレー語紙は賛成していた。
Q:『マジュリス』と、その他の英語紙の読者層は重複すると考えてよいのか。
A:基本的には、英語紙とマレー語紙の読者は違うと考えた方がよい。英語紙に関しては、民族を問わない言語なので、むしろマレー人以外の読者が多い。一方で、マレー語紙、英語紙の発行者同士の交流はあったと考えられる。
Q:1930年代のマラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争というのは、独立後あるいは現在につながるマレーシアでのマレー人概念にどのように継承されていったのか、あるは断絶してしまっているのか。
A:基本的に、この時期に形成されたマレー人の定義がその後に受け継がれている。この当時のマレー人をめぐる論争の構図(多様な人が内外から、それぞれ物事を言い合う)は、現在のマレーシアの民族をみるうえで重要であると考えている。
Q:南タイでは、マレー人というと華人やインド人を含めてマレーであるという主張があるのだが、現在のマレーシアではマレー人の定義ではどのようになっているのかわかれば教えてほしい。
A:現在のマレー概念からいうと、インド人や華人を含めてマレー人とすることはない。今日の議論でいうと、華人やインド人を含めて、土地で生まれた人は平等に扱うという「マラヤン」に近いかもしれない。マレー人概念が最初に明文化されたのは20世紀初頭で、土地法の中でマレー語、イスラムという要素が定義された。その中身が肉付けされていくのは今日とりあげたような論争を通じてである。

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:高橋 塁氏(東海大学政治経済学部経済学科・准教授)
報告題目:「近代精米技術の導入と仏領インドシナ―米市場の発展要因再考―」
コメンテーター:髙田洋子氏(敬愛大学国際学部・教授)

[コメント]髙田洋子先生
 本研究は植民地期以降の長期的スパンからベトナム農業の在り方や、既存研究が少ない精米技術の導入に統計資料を駆使し言及した点において価値があるものの、いくつかの点で問題が見られる。1)サイゴン米輸出の発展要因について、メコンデルタの米生産増加や華僑通商網の役割をもっと評価すべきである。2)サイゴン米の一大消費先であった香港、中国市場での精米業、精米技術はどうだったのか?3)小規模精米所は、域内消費市場向けのものであったのではないか?4)Tsaoによるコーチシナ精米工場分布のデータの信頼性に疑問がある。どのように調べたデータなのか?5)小規模精米工場の数は多いが、重要性という点では大規模精米工場の方に焦点をあてるべきではないか?6)サイゴン米の競争力について。サイゴン米は様々な品種が精米時に混ざり砕米も多く、品質的に問題があるとされるが、これは競争力において問題があるのでは?7)より社会的状況を細かに踏まえた分析を行うべきである。8)ベトナム人のアントレプレナーシップを過大に評価しているのでは?フランス資本が入っていることをもっと考慮すべき。

コメントへの回答:いずれもその通りであり、今後の課題である。2)3)4)については、今後更なる確認、調査を行う。6)については「競争力」の定義を如何に考えるかで理解が異なるので、今後更なる議論が必要であろう。8)については1920年代にフランス資本の大規模精米工場が閉鎖した一方で中小規模の華僑やアンナン人の精米工場が台頭しており、それが一つの根拠となりうるのではないであろうか。

[質疑応答]
質問1:近代精米技術の普及においてフランス側からの導入はなかったのか?またアンナン人と華人の混血である明郷の役割ももっと評価すべきではないか?
回答1:イギリスやドイツなどで産業革命に伴う技術革新(この点については、宮田先生からコメントをいただいた)、輸出用再精米の工場が存在したことが大きかったのではないか。明郷の役割については、今後の検討課題である。

質問2:ボルネオなどにもベトナム米が入ってきており、市場を席巻しているが、今回の報告ではベトナム米は品質的に劣るとされ、ベトナム米が市場を席巻する力があまり伝わってこない。実際はどうなのか?
回答2:今回の報告では稲作、流通に関する言及が少なかったので、そうした印象を与えたと思われる。稲作、流通、精米と併せて示すことで、ベトナム米穀産業の生産力を伝えることができるであろう。

質問3:今回触れられた精米業および米輸出市場の発展については、仏領インドシナに限らずタイにも同様な現象が確認できており、それゆえ仏領インドシナをそのままタイに置き換えても議論が成立するように思えるがどうか?
回答3:タイの場合、米穀産業を担った華僑人口が多かったが、仏領インドシナの場合、そこまで華僑人口は多くない。タイで果たした華僑の役割を仏領インドシナではアンナン人が果たしたと捉えており、そこが大きな違いであると本研究では主張した。

質問4:米の品質については精米所において、米を「混ぜる」技術が重要であろう。またベトナムの場合、米品種基準はどうなっているのか?
回答4:ベトナムには非常に多くの米品種があるため国家が品種基準をまとめるのは無理であろう。米を「混ぜる」技術については今後の調査課題である。

質問5:ミャンマーについても小規模精米工場が内陸部にアップカントリーミルとして普及したが、それならば精米で流通するのが効率的ではないのか?
回答5:籾の状態で貯蔵し、価格の変動に応じて放出することを考えると、貯蔵に適した籾で流通することは理にかなっていると考えられる。白米は籾よりも貯蔵時に劣化が進むためである。

(文責:高橋 塁)

2015年度第1回(4月) 関東例会の報告

2015年4月25日に開催された関東例会の議事録を掲載いたします。

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第一報告(13:30~15:30)
報告者:上野俊行氏(東京大学総合文化研究科学術研究員)
報告題目:「ベトナム社会におけるバリアフリー」
コメンテーター:古田元夫氏(東京大学大学院総合文化研究科客員教授)

◎コメント:古田元夫先生(東京大学大学院総合文化研究科客員教授)
バリアフリー(以下、BF)の議論は日本でも始まったばかりで、議論の大半は先進国の話である。ベトナムを始めとするアジアの発展途上国をモデルとした議論は少ない。本報告はアジアの発展途上国におけるBFを本格的に論じた先駆的な業績である。本研究は、文献資料やインタビューだけでなく、本人が車いすで走り、都市のBFの動線を確認、障害者の参与観察という特徴がある。形式的BFの概念はまだないが、ベトナムでそれが顕著であることは、車いすで実際に動いてみないと分かりにくい側面だろう。本研究は、今後ベトナムを始めとする発展途上国における障害者論に繋がると期待される。そのことも踏まえて二点質問する。
第一に、社会主義の話が登場するが、福祉は資本主義の方が良いと一般的に理解されてきた。現在の中国やベトナムを議論する時に関係ないか。現在のベトナムの福祉に対する日本人研究者の評価は高くない。福祉を不可欠な社会の構成要素としていたが、市場原理を導入して、現在のようになったと議論することも可能。社会主義体制をどうイメージするか。
第二に、地域研究的視点からBF論を目指しており、議論全体はベトナムの現状に密着している。何がベトナム的なのかという角度から今日の話を聞くと、相互扶助の文化である。BFがなくても皆が助ければ良いというBFの阻害要因、ワンステップバスとの関係でベトナムの現実に則した心のBFという促進要因という、BFの両面性が存在しているようだ。相互扶助の文化がなぜベトナムにあるか考えると、農村共同体論と関係しているだろう。市民社会の発展にBFの展望を見出しているが、農村共同体の名残と市民社会の発展はどのような関係か。ベトナムの市民社会をどうとらえるか。

◎コメントへの回答(今後の課題)
第一:先日ホーチミンで発表した折にもベトナムを社会主義国家と捉えて良いのかという指摘を受けた。今後の課題としたい。
第二:心のBFは農村共同体や市民社会の研究につながる今後の研究テーマ。

◎質疑応答 ※文字制限の都合により、一部割愛した。
Q1:
①ASEANにも国連同様の取り組みがあるか。ASEANにもパラリンピックはあるか。
②枯葉剤による障害の出方は?車いす以外の人へのBFの取り組みはあるか。
③市民社会でBFの問題が表出する上で先導するNGOは。ベトナム戦争の退役軍人会の機能は。
A1
① ASEANは国連のアジア太平洋ブロックで活動しており、パラゲームも開催する。
② 枯葉剤後遺障害には個人差。
③ DPハノイはハノイ市と共同活動しており、ホーチミンのDDRは海外からの支援だけで活動している。退役軍人会は機密事項のため調査は不可。

Q2:
①ベトナムの「障害者」の定義。
②車いすの購入や支給。
③WHOによる障害の定義の変更を現地社会はいかに受け止めているか。
A2
① 現在は自己申告に近いが、障害者基本法の「判定」により今後明確化。
② 車いすは基本的に収入に応じて支給。
③ 一般的にはベトナムでは知られていない。

Q3:
歴史的背景から相互扶助社会のBFの展開が興味深い。地方のBF調査で歴史的背景と未来のBF社会がつながる印象。
A3
今後、研究していきたい。

Q4:
①農村調査での研究方法。
②ホーチミンのワンステップバスの成功要因とは。
A4
① 現地を踏査し、現地の障害者団体と交流。
②バンコクでは、BFバス導入に向けてサイトで市民の意見を集め、政府に陳情、国会を通過している。ホーチミンでは地方政府の方針で、ハノイには現在ない。

Q5:
BF社会は誰の仕事か。
A5
タイではBFが当然となり、「誰」は問題とならない。ベトナムでは法整備の段階。

Q6:
BFの普及に関してどう考えているか。
A6
形式的BFの解消が良い。

文責:新谷春乃(東京大学大学院総合文化研究科・博士課程)


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第二報告(15:45~17:45)
報告者:村嶋英治氏(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)
報告題目:「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)のタイ進出」
コメンテーター:宮田敏之氏(東京外国語大学教授)

◎報告概要
Ⅰ既存研究:1888―91年の日本人商業見落とされてきた。同時代資料でも断片的部分的な情報しかない。

Ⅱ 中・上層の日本人(教育レベル高く、在欧米経験者もいる。殆どが士族で、地方の起業家、紳商)が来暹(タイ)した。これにはプラヤー・パーサコーラウォンの役割大きい(cf.下層日本人、醜業婦、苦力・労働移民者などとの対比)。
来タイきっかけは、1887年9月26日の「修好通商に関する日本国暹羅国間の宣言」(青木周蔵外務大臣代理・テーワウォン外相)調印。
日本側に対タイ関心が生じる。翌1888年1月に日暹友好通商宣言批准のため来日したプラヤー・パーサコーラウォン(1849-1920、後チャオ・プラヤー、テーワウォン外相訪欧米日中の外務大臣代理、農務大臣、税関局長、後文部大臣)は、日タイ関係の具体的発展を意図して最も重要な役割を演ずる。同時来日したタイ官吏は日本に居残って日本の教育・軍事・産業なども視察し報告。
問題:タイ側資料特に、パーサコーラウォン資料の欠如、同時期のタイ文部省資料、在香港シャム領事報告等保存されておらず、詳細な伝記も作成されていない。

Ⅲ 最初に名古屋において対暹貿易商業の気運
①名古屋の実業家神野金之助(1949-1922)、森本善七(1855-1928)、野々垣直次郎によシャム貿易実施(村嶋英治「バンコクにおける日本人商業の起源」p.47)。
1888年末(?)から1889年7月、野々垣直次郎(1852―1904、愛知県士族)在タイ商業、パーサコーラウォン邸に滞在、1889年7月バンコクで無一文になった釈宗演を助ける、1891年6月名古屋産品買付に来た、タイ人官吏クンペエ(山本安太郎通訳同行)を支援。対王族・貴族相手の商売と考えられる。具体的な商品や販売形態については資料未見。野々垣は、愛知県会議員・名古屋市議を勤める。裕福な資産家であったと思われ、養子の野々垣勇は高額納税者。
②杉山弥三郎(1853-1920、愛知県士族、マッチ製造業)、松本九助(陶業)、河村治助(玩具)、本多与三郎(七宝)らは、神野・野々垣らの対暹貿易に刺激され、長坂多門(生没年不明、愛知県士族、マッチ製造業)に、諸商品を持たせてシャムに派遣(同上論文p.64)。
訪タイが決まった長坂は1888年10月頃新任の得能通昌大蔵省印刷局長から局紙の販路開拓を依頼される。1888年末頃、外務次官[青木周蔵]からテーワウォン外相宛紹介状(村嶋未見)を持って第一回渡暹、パーサコーラウォンから印刷紙の注文も取る。商品価額3000円程度、渡航旅費手当等500円、計3500円を費やすが、長坂の報告では売上げは1000円のみであったという、1889年末帰国。1890年2月頃、マッチ、玩具、織物を持って第二回渡暹(但し旅券下付の記録なし)、長坂は1890年末ごろ帰国したが、出資者は出資金も回収できず(同上p.64)。長坂は帰国後、1897年までマッチ生産に関係していることが判る。
③1891年半ば、大島宇吉(1852-1940、愛知県豪農、自由民権運動家、新愛知新聞社主)らは来名古屋したクンペエ(パーサコーラウォンの部下、山本安太郎通訳同行)と協力して対タイ直接貿易船計画。クンペエ帰路香港で自殺(在香港シャム領事の報告―バンコクの公文書館にない)のため頓挫。

Ⅳ 初期在バンコク日本人の殆ど(除く下層)はパーサコーラウォン邸に宿泊
1888年2月末、パーサコーラウォンは訪日の帰路、山本安太郎・山本鋠介の2少年(主目的は日タイ交通のための通訳の養成と思われる)、生田(織田)得能・善連法彦の2真宗僧侶を伴い帰国。
1889年7月10日―21日 釈宗演在バンコク。
1892年7月、岩本千綱(高知県士族、陸軍士官学校卒中尉)初来暹(旅券は1889年取得)
1892年8月、パーサコーラウォン文部大臣、文部省使用教科書印刷などのため日本人版画師3名(嶋崎千六郎(天民)、大山兼吉、伊藤金之助)雇用。
1893年12月―94年1月、熊谷直亮(津田静一実弟、熊本県士族、熊本国権党)農業移民調査に来暹(ランシットなど運河開鑿会社の新田への入植計画)。
1894年5―8月、日本吉佐移民会社の鈴木錠蔵(茨城県士族、後に衆議院議員)来暹、農業移民可能性調査の為。
1894年末、写真師磯長海洲(鹿児島県士族、駒場農学校中退)来暹。
1895年初、バンコクで岩本千綱、石橋禹三郎(平戸商家、在米経験あり)、大谷津直麿(神奈川県士族、東大植物学科卒、中学校長、訪欧経験あり)ら暹羅殖民会社を創立。事業目的は移民労働者(コーラート鉄道、ブカヌンなど仏人金鉱、バンコックドックの職人など)供給、日暹貿易など。暹羅殖民会社は海外渡航株式会社(広島県)と契約し移民集め。移民保護法が要求する代理人に雇われた宮崎滔天(熊本県荒尾、早稲田中退)が1895年10月に来暹。
1897年、山崎喜八郎(長崎県諫早の神主の子、在米経験あり)及び数名の福岡士族、森林伐採権の出願、サタヒープ、ラヨーン地域の広大な森林の伐採権申請。
1899年3月、山本貴三郎(当時福岡県衆議院議員)石炭の直輸出。

Ⅳ 今後の研究
日本人移民、来タイ日本人僧侶については調査済、日タイ関係外交史、醜業婦など。
タイ関係邦語文献(1868 -1945)目録、日タイ関係日本人・タイ人人名(1868 -1945)事典
参考資料
村嶋英治「戦前期タイ国の日本人会および日本人社会:いくつかの謎の解明」(泰国日本人会『タイと共に歩んでー泰国日本人会百年史』、2013年9月刊,pp.10-46,ウェブ上にも在り)
村嶋英治「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)のタイ進出」、『アジア太平洋討究』24号、2015年3月刊、pp.39-69.
村嶋英治「バンコクの日本人」、タイ国日本人会月刊誌『クルンテープ』に2010年8月号から現在まで連載中、2015年7月号までで合計370頁。

◎コメント:宮田敏之会員(東京外国語大学)
これまで、研究の盲点あった部分に光を当てた研究である。日本商品の東南アジアへの輸出の初期は、マッチ、紙、陶器などの雑貨であったことはよく知られているが、本報告は日本人商人が、シャムに対してこれらの商品を売り込みに行った最初のケースを明らかにした点に価値がある。

◎質疑・コメント
外務省等の報告書を批判的に読み込みながら、さらになかなか人が気づかないような当時の地元新聞や出国記録を渉猟した結果に入手した資料等を用いて、新しい議論であった、という主旨のコメントとバンコクで開店した日本商店の多くが短命に終わった原因についての質問があった。

(文責:村嶋英治)

2015年度第2回(5月)関東例会のご案内

2015年度第2回関東例会(5月)を下記の日程で行います。

今回の報告は、坪井祐司氏による「1930年代の英領マラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争:ジャウィ新聞『マジュリス』の分析から」、高橋塁氏による「近代精米技術の導入と仏領インドシナ―米市場の発展要因再考―」です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

〈2015年度第2回関東例会(5月)〉
日時:2015年5月16日(土)(13:30~17:45)
会場:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html(会場アクセス)

〈第一報告)(13:30~15:30)
報告者:坪井祐司氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員)

報告題目:「1930年代の英領マラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争:ジャウィ新聞『マジュリス』の分析から」

コメンテーター:左右田直規氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・准教授)

報告要旨:
1930年代の英領マラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争について、ジャウィ(アラビア語表記のマレー語)の新聞『マジュリス』の分析を通じて再検討する。
マラヤでは、1930年代にイギリスによるマレー人の行政的優遇政策の是非をめぐって官民あげての論争が展開された。この論争の焦点は、優遇を受けるマレー人の資格、すなわちマレー人とはだれかという「マレー人性」にあった。
マレー語紙『マジュリス』はマレー人の主張を代弁すると同時に、主に英語紙による他民族からのマレー人に対する批判を頻繁に引用・反論した。そこから、反対派の主張をもうかがうことができ、多民族社会のマラヤにおける言語、都市をまたいだ言論空間の存在が明らかになる。
この論争は現在の公的なマレー人の定義にも影響を与えており、人口流動性の高いマレー半島の社会において民族集団の枠組みが他者との関係性のなかで構築される過程として位置づけることができる。

〈第二報告〉(15:45~17:45)
報告者:高橋 塁氏(東海大学政治経済学部経済学科・准教授)

報告題目:「近代精米技術の導入と仏領インドシナ―米市場の発展要因再考―」

コメンテーター:髙田洋子氏(敬愛大学国際学部・教授)

報告要旨:
第2次世界大戦前に仏領インドシナから輸出されたサイゴン米は、ビルマ米、シャム米と比べ、品質的には劣ると評されていた。しかし、サイゴン米の輸出量はシャム米に比肩しうるものであり、ある程度の市場競争力を持っていたことが示唆される。ではなぜ、サイゴン米が劣等財とならず市場競争力を持ちえたのか?本報告では、サイゴン米の市場競争力の源泉として、既存研究ではあまり触れられていないアジアへの近代精米技術導入、特に適正技術の開発と導入に焦点を当てて議論が展開される。その際、アジアへの近代精米技術導入に大きな役割を果たしたイギリスの精米機メーカーであるDouglas
&
Grant社の史料が主として用いられるであろう。また域内米市場が狭小とされるヨーロッパにおいて近代精米技術が開発された背景に関する議論、ビルマやシャムとの比較等を通し、新たな知見を得ることも試みる。

2015年度第1回(4月)関東例会のご案内

2015年度第1回関東例会(4月)を下記の日程で行います。

今回の報告は、上野俊行会員による「ベトナム社会におけるバリアフリー」、村嶋英治会員による「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)のタイ進出」です。

多くの方のご参加をお待ちしております。

〈2015年度第1回関東例会(4月)〉
日時:2015年4月25日(土)(13:30~17:45)
会場:東京外国語大学・府中キャンパス 
    研究講義棟4階 総合文化研究所会議室
    http://www.tufs.ac.jp/access/tama.html

※4月の例会は、会場準備の都合により、東京外国語大学・府中キャンパスでの開催となります。ご注意ください。

〇第一報告(13:30~15:30)

報告者:上野俊行氏(東京大学総合文化研究科学術研究員)

報告題目:「ベトナム社会におけるバリアフリー」

コメンテーター:古田元夫氏(東京大学大学院総合文化研究科客員教授)

報告要旨:

報告者は、障害者の社会参加を目的に、日常生活における移動困難を補完するものとしてバリアフリー(以下、BF)研究を行っている。特に、ベトナムにおける障害者の割合は、他国と比較しても高いためBF環境がより必要とされる。そして、1998年に「障害者に関する法令」が規定され、2011年に「障害者基本法」が発行され、現在は「国連障害者権利条約」への批准も目指し、社会保障に積極的である。この一方で、ドイモイによる経済開発が優先されていると言える。このような社会環境が、実用的とは呼べないBF(形式的BF)を作り出しているとも考えられる。ベトナムにおいてこのような形式的BFになった原因を、福祉先進国である欧米のバリアフリー化の事例を考察しながら、政府、事業者、障害当事者の関係から論じる。同時に、ベトナムの今後のBFに関し、その特徴から北京、バンコク、台北の事例を取り上げ、ベトナムのBFの可能性を考察する。


〇第二報告(15:45~17:45)

報告者:村嶋英治氏(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)

報告題目:「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、
長坂多門)のタイ進出」

コメンテーター:宮田敏之氏(東京外国語大学教授)

報告要旨:

シャムの首都バンコクにおける近代日本人の商店創業の初期時代についての研究は、筆者が知り得る限り皆無である。
日本人のバンコクへの商業的進出開始と同時代あるいはそれに近い時代において、日本人商業のシャム(タイ)における起源に触れたものとしては、3~4の記述資料が存在する。しかし、その内容は、相互に矛盾しており、これらの資料は執筆者が知っている部分的断片的事実を記載したに過ぎないのではないかと思われる。
このうち、最もよく知られている資料は、図南商会(石川安次郎)編纂『暹羅王国』(経済雑誌社、東京、1897年9月9日発行)の次の記述である。
 「暹羅に於ける日本商店の歴史を略叙せば、左の如し。第一 野々垣商店(既閉)、千八百九十一年の頃名古屋の人野々垣某、雑貨店を開く。山本鋠介之が通弁たり。六ヶ月にして閉店。是れ実に盤谷府に於ける日本商店の嚆矢たり」(同書、152頁)。
 図南商会は、1894年6月に初訪タイし翌年9月頃まで在タイした後一旦帰国し、1895年10月25日付けで再訪タイの旅券下付を東京で受けた阿川太良(1865-1900、山口県士族)が、石川安次郎などの支援によってバンコクに開いたものであり、上記引用部分の記述は、阿川太良の情報によるものと思われる。
 一方、1891年5~6月に日本商品買付のため来日した、タイ人官吏クンペエに通訳として同行して一時帰国した山本安太郎(1872年6月生、福島県士族、1888年2月渡タイ)は、扶桑新聞(名古屋の地方新聞)のインタビューに「暹羅には斯く日本品を需用すれども商店とては曾て名古屋の人長阪某の雑貨店ありしも今は引払ひて一軒もなし」(扶桑新聞1891年5月28日号)と答えている。
このように、バンコクにおける日本人商店の嚆矢を「野々垣某」と「長阪某」としたものの二種類があるが、同一の資料のなかで両方の名に言及したものはない。
彼等のフルネームやプロファイル、更にはどうしてタイに商店を開くことになったのかという経緯やタイでの営業の実態、そもそも1891(明治24)年創業は間違いないのか、などについては全く調査がない。本報告では、これらの点をできるだけ明らかにしたい。
なお、報告者の同名論文は、『アジア太平洋討究』24号(本年3月刊)に掲載されており、間もなく早稲田レポジトリによりウェブ上に公開されるはずである。


例会終了後に懇親会を予定しております。
ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai☆tufs.ac.jp)までご連絡ください。(☆には@が入ります。)

関東例会委員

2015年度関東例会発表報告者募集

東南アジア学会会員の皆様

今年度から、東京外国語大学の宮田が、東南アジア学会関東担当理事として来年度の関東例会の開催を担当することになりました。
例会委員として活動する院生ともどもよろしくお願い致します。

さっそくですが、関東例会では下記のとおり、2015年度の報告者を募集致します。
多くの方々のご応募をお待ちいたします。特に締め切りは設定しませんが、早目の申し込みをお願い申し上げます。

■ 2015年度東南アジア学会関東例会報告者募集
関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます。
討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。
ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用下さい。報告者は東南アジア学会会員に限定致します。
コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身から依頼していただくようお願い致しております(どうしても探せない場合は担当理事までご相談下さい)。

■ 2015年度の例会 開催日時(1回につき2報告)
   ・第1回 2015年4月25日(土) 13時30分~17時45分 (報告者決定)
   ・第2回      5月16日(土) 13時30分~17時45分
   ・第3回     6月27日(土) 13時30分~17時45分 (報告者決定)
   ・第4回     10月24日(土) 13時30分~17時45分
   ・第5回     11月28日(土) 13時30分~17時45分
   ・第6回  2016年1月23日(土) 13時30分~17時45分

■ 会場
東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースを使用致します。
*第5回11月例会のみ4階セミナースペースを使用

住所 〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
TEL&FAX 03-5805-3254

会場へのアクセスは以下をご参照下さい。
   http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■ 報告・コメント・討論の時間
報告者は1回につき2名、それぞれ報告60分・コメンテーターによるコメント10分・ フロアからの質問と討論50分です。

■ 応募方法
関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレス、又は東南アジア学会理事(関東地区担当)宮田 敏之まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込み下さい。

[記載情報]
・氏名 所属
・発表をを希望する日(例:第1回、4月25日)
 *第2希望までお書き下さい。
・報告題目(仮題目可) 報告の要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(例:パワーポイント)

関東例会連絡用アドレス kanto-reikai@tufs.ac.jp


■ 応募の取り扱いなど
例会の運営上、報告の可否、報告の日程についてご希望に添えない場合には、ご相談させていただくことがあります。ご了承下さい。グループによる申請も受け付けていますのでご相談下さい。

■ 報告記録
関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。
報告記録は、報告者ご自身でまとめて頂くか、あるいは報告者ご自身で報告記録者を選びご依頼頂くようお願い致しております。


■ その他のお問い合わせも電子メールでお願い致します。
宮田敏之(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程) tmiyata@tufs.ac.jp
関東例会委員(東京外国語大学院生) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2014年度第6回(1月)関東例会の報告

2015年1月24日に開催されました関東例会での報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:細淵倫子氏(首都大学東京人文科学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC2)
報告題目:「都市カンプンにみるブタウィの存在とその多様性―2014年ジャカルタ都市カンプン・フィールド調査「起源についての語り」の記録から」
コメンテーター:イルマヤンティ・メリオノ教授(インドネシア大学)

【コメント】イルマヤンティ・メリオノ氏(インドネシア大学教授)
 本調査方法を評価するとともに、チョンデッ、プジャテン・ティムルにおけるブタウィの多様性について新しい知見を得られることが期待できると本研究を価値付けた。その上で、ヌサ・ジャワ族や植民地時代のポルトガル人との関係の事例、1923年に創られたカウム・ブタウィ、彼らの文化芸術の存在、そして婚姻をめぐるブタウィのアイデンティティの問題が言及され、エスニックとしてのブタウィを社会や政治の「統合」として捉える必要性が提示された。また、都市化に伴う生活様式の変化や他の民族の文化といったものを受け入れながらも独自の文化を維持しているブタウィの文化的な順応性、文化の混淆と受容の過程が重要であると述べ、中国やポルトガル、オランダ等における影響の事例を提示した。

【質疑応答】 ※文字制限都合により、一部割愛した
質問1(東京外国語大学 金子さん):「ブタウィ・パサル・ミング」語とはなにか。ブタウィ語とは独立した言語なのか。
回答1:「ブタウィ・パサル・ミング」は、「ブタウィ語」のひとつの方言である。

質問2(東京外国語大学 宮田先生):「ブタウィ・ムルニ」と「ブタウィ・チャンプル」の2つに分類する意味は。誰が分けているのか。本人たちはどのように考えているのか。
回答2:今回の2分類は、本事例がこれまでのブタウィ分類では説明ができないために、当事者への「語り」にみられる「ムルニ」「チャンプル」をヒントに、報告者が仮説的に立てた分類カテゴリーである。

質問3(同上):同じ地域内で、ブタウィの人々が二極化、分化するということか。
回答3:同じ地域内で分化する場合もある。
青山先生:分類名称「ムルニ」は再考した方が良いのではないか。

質問4(慶應義塾大学 ナザリヤさん):ブタウィの歴史的説明をさらに要すると感じた。もともと「ブタウィ」の語源は。アリサンの具体例などは。
回答4:「ブタウィ」はバタフィアを起源にする語である。ブタウィ内のアリサンについては、「ブタウィ・ムルニ」のみ、親族間での小規模な実践がなされている。また、「起源」に関しては、イルマヤンティ先生の本日のコメントを踏まえ今後再度検討したい。
イルマヤンティ先生:ブタウィの語源は「mampat tai排泄物」であるという説もある。

質問5(金子さん):ブタウィの多様性を明らかにすることはカンプン研究にどのような貢献があるのか。
回答5:マルチ・エスニックなカンプン空間において、混交エスニックの分析軸の提示が可能であり、今後のカンプン研究において貢献できると考える。

質問6(青山先生):一般的な文化人類学の議論で、エスニシティが構築されたものであるという議論はすでになされているのでは。
回答6:ブタウィが「混交」エスニシティであるという議論については他の分野(社会学、歴史学、政治学など)でも議論がすでになされている。ただ、今回着目したいのは現代のジャカルタのカンプン調査において、「どのようにエスニシティ、宗教、階層、出身地域が混ざり合っているのか」という問いである。
青山先生:独立以前からブタウィという概念が使われていたことを考えれば、ジャカルタでではなく当時のバタフィアで、という議論の立て方をした方が良いのでは。

(文責:宇戸優美子、東京大学大学院総合文化研究科・博士課程)

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:岡本 義輝氏(宇都宮大学 国際学部附属 多文化公共圏センター研究員)
報告題目:「マレーシアの日系R&Dのローカル化が進まない原因と本社側の根本要因」
コメンテーター:森 哲也氏(日栄国際特許事務所 代表)

1 コメンテーター(森 哲也氏)のコメント
 途上国に進出する日本企業が、低賃金雇用などの目先のコスト意識のみで臨み、現地の人材をR&Dや経営に有効活用しない旧来体制を維持するのであれば、いずれグローバルな競争場裡において負け組とならざるを得ない。また、新しい経済的価値の創造、すなわちイノベーションを起こす人材を、広く開発途上国に求めて、経営及びR&Dを現地化した企業は、グローバルな競争場裡において勝ち組となれる。
 コメントへの回答:指摘の通りである。しかし日本人は欧米人に比べ、①ゴマすりが多い、②長いものに巻かれやすい、という国民性がある。日本人論、日本文化論、企業組織論、等からの議論が必要である。

2 質疑応答
1)質問1:(北川さん)エース級の人とは?
回答1:2003年10月からの10年間で約40回訪馬し、延べ1,500社を訪問した。約2,000人の日本人幹部と面談を行った。その内約1,000人が海外現地法人の社長、残り1,000人がR&D(Research & Development:設計)長や技術者である。エース級の社長の定義は、本社の評価する「売上、利益、品質、納期」を達成することに加え、本社の評価しない「①R&D技術者のローカル化をほぼ100%近くにする」や「②ローカル社員のモチベーションの向上」等を行う、いわゆる「改革をする」社長である。1,000人の社長と面談の結果、エース級は10%位と非常に少なかった。原因は、本社が海外現地法人を中央集権的に、意のままに管理するため、2線級の社長しか派遣しない。それに加えて日本側が優秀な人材を囲い込み、海外に派遣しないからである。

2)質問2:(北川さん)SEM(Sharp Electronics Malaysia)とはどのような会社?
回答2:2003年当時、SEMはR&D、購買、サービス部品の会社で、工場や販売部門は持っていない。従業員350人であった。また、ブラウン管テレビの設計はマレーシア、液晶テレビの設計は日本、の棲み分けになっていた。海外R&Dは、その国の市場を良く見て設計し、その国の工場で生産する。これが、ローカル化だと、一般的に考えられている。しかし、SEMは当時、南京、フィリピン、ジャカルタ、マレーシア、タイ、インド、バルセロナ、メキシコの8工場で生産するブラウン管式テレビ(計800万台/年)を設計していた。パナソニックもソニーもほぼ同じであった。

3)質問3:(金子 奈央さん)何故R&Dがマレーシアなの?
回答3:小生も理由がよく解らないが、推測も含めてお話しする。当時、上記800万台中、マレーシアが250万、メキシコが250万であった。①規模が大きな2工場のうちR&Dの素地があったのがマレーシアである。それに加え、②7工場で、英語での業務が容易なのがマレーシア、③マレーシアからの7か国へはVISAが取りやすい、等があった。

4)質問4:(お名前:メモ忘れ)日本企業のガラパゴスとは?
回答4:海外販売比率の低かった1990年頃までの海外子会社管理を、海外販売比率が高くなった2000年以降も、過去の成功体験をもとに全て同じやり方を行っている。その他、商品づくり、マーケティングもガラパゴス化いている。

5)質問5(お名前:メモ忘れ):マレーシアへ転勤する夫に同行する友人。マレーシアはどんな所と聞かれた。
回答5:シャープの例で言うと、SMM(バトパハ:ジョホール州)は単身赴任が多く、SEM(シャーラム)は帯同者が多い。この2社の本拠地である栃木県矢板市は人口3万人、KLは160万である。コースで食べられる日本食の店は矢板に比べKLが圧倒的に多い。SEM赴任者は生活を楽しんでいる。

(文責:岡本 義輝)

2014年度第6回(1月)関東例会のご案内

2014年度第6回関東例会(1月)を下記の日程で行います。

〈2014年度第6回関東例会(1月)〉
日時:2015年1月24日(土)(13:30~17:45)
会場:会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

〇第一報告(13:30~15:30)
報告者:細淵倫子氏(首都大学東京人文科学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC2)

報告題目:
「都市カンプンにみるブタウィの存在とその多様性―2014年ジャカルタ都市カンプン・フィールド調査「起源についての語り」の記録から」

コメンテーター:イルマヤンティ・メリオノ教授(インドネシア大学)

報告要旨:

ブタウィとは、バタフィア(現在のジャカルタ)の都市開発とともに形成されたエスニシティである。ブタウィの発生に関する研究によると、このブタウィは、17~19世紀に形成されたといわれており、バタフィア成立以降のジャカルタにおいて、都市カンプンという空間に居住し、伝統を保持した生活をしているとされている。そのため、ブタウィの属性は植民地期に想像された多様な民族の集合体が「1つになったもの」であり、現ジャカルタ住民の「原住民」として植民地以降から変わらない画一的な存在として認識されている。しかし、実際調査を進めてみると、現ジャカルタの都市ではブタウィが存在しないカンプンも多く見られる一方で、各地域のブタウィの「起源についての語り」やその後のアイデンティティの属性に相違点がみられた。
そこで、本報告は、ジャカルタのカンプン住民を対象とした聞き取り調査の結果のなかで、とりわけブタウィの「起源についての語り」について着目し、現在のジャカルタ社会のエスニシティの多様性のありようとブタウィとの関連について報告を行う。この試みは、21世紀変わりゆく都市カンプンの現状や特性を理解するだけでなく、ブタウィ、あるいは、都市ジャカルタ、インドネシアにおける、「共存」の在り方に関する現在性に新たな一知見を提示するであろう。


〇第二報告(15:45~17:45)

報告者:岡本 義輝氏(宇都宮大学 国際学部附属 多文化公共圏センター研究員)

報告題目:
「マレーシアの日系R&Dのローカル化が進まない原因と本社側の根本要因」

コメンテーター:森 哲也氏(日栄国際特許事務所 代表)

報告要旨:

(1)マレーシアの日系R&Dのローカル化が何故進まないのか?
 2003年からの10年間で約40回訪馬し、延べ1500社を訪問した。約2000人と面談した結果、次のことが分かった。モトローラ社等の外資系R&Dは、本国人がほゞゼロでローカル化されている。一方日系R&Dは約10%の日本人が基本設計とマネジメントを行っている。日系の採用政策や処遇が外資系に比べて著しく劣っている。その原因は、本社の①中央集権的な海外R&D統治、②海外現地法人の評価は「売上/利益/品質/納期」のみで「R&Dの改革」等を評価せず、③平等主義、にある。
(2)根本要因は本社にあり(家電3社を中心に分析)
 2013年度(2014年3月期)の家電3社の海外売上比率はソニー72%、シャープ61%、パナソニック50%である。しかし3社は1980年代の日本国内での販売比率が高かった時代の企業統治を続けており、海外に重点を置いた統治に変更すべきである。それは④売上が5割を超えた海外事業に注力する、⑤エース級の人材を海外に派遣する、⑥海外R&Dは本社から自律した活動を出来るようにする、等である。

2014年度第5回(11月)関東例会の報告

2014年11月22日に開催されました関東例会での報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:エリザベス・エスター・フィブラ・シマルマタ氏
(東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程 言語文化専攻)
報告題目:「現代ジャワ若者におけるジャワ語の敬語使用の状況―ジョグジャカルタ特別州の高校生による敬語運用の実態調査―」
コメンテーター:原真由子氏(大阪大学 言語文化研究科 言語社会専攻 准教授)

【コメントと質問(原真由子先生)】
 ジャワ語と同じく、敬語体系をもつ地方語であるバリ語を対象にしている研究者として重要な問題となるのは、バリ語とインドネシア語の二言語話者が、どのような言語使用を行っているのかという点であり、本報告ではその点について指摘している。特に敬語については、バリ語とインドネシア語のコード混在という視点から考察している。多言語社会インドネシアでは、地方語とインドネシア語の二言語使用は日常的に見られる現象で、二言語話者がほとんど大多数を占めている状態である。ただし、その現象は一様ではなく、民族、文化、言語において均質性が高く、比較的話者が多い一つの地方語が話されている地域もあれば、多数の民族と言語が混在している地域もある。ジャワやバリは前者に該当し、地方政府は一つの地方語に集中して政策を施すことができる。また、ジャワとバリの共通点として、敬語体系があることと、さらに独自の文字をもち、それに裏付けられた古典文学や芸術があることを指摘できる。そのような意味で、ジャワ敬語の現状に関する今回の報告は、インドネシア言語社会の一つの大きなタイプであり、民族と言語、地方政府がほぼ重なっている地域を理解するために役立つ。類似点の多いバリ語研究にとっても示唆が与えられる。高校生の敬語使用の実態を都市部と農村部800人分収集した点は、非常に評価できる。また、調査対象にジャワ語教員、高校教員も含めることで、規範意識、大人の実態、若者の実態を知ることができる。
 [質問]都市部居住者の高校生がンゴコ体を使用する傾向とクロモ体を使用する際に不正解率が高くなるという傾向をどう解釈するのか。単に敬語使用が間違っているのか、それとも規範自体が変化したのか。Brown and Gilmanによる、Power and Solidarityの理論が適用できるのではないか(Powerよりもsolidarityを重視している都市部の高校生が見られる(年齢<親密度))。言語以外の条件が変化しているのではないか。本来の規範的な敬語は、何を基準に決めるのか(年齢や職業か)。敬語は言語外の条件に基づくため、社会変化や親密さ等規範が変化していると見ることはできないか。

【コメントと質問に対する回答】
 結果をみると、ジャワ語教員(4人)の規範的な表現が一致したため、本来の規範的な敬語使用は変わらないといえるだろう。高校生は70歳近くの大先生に対してジャワ語で話す際には、最も敬意を表わす丁寧なジャワ敬語を使用するのが規範的だと考えている。しかし、相手の年齢と社会的地位が自分より遥かに上であるにもかかわらず、都市部の高校生は敬意を表す表現を用いず丁寧ではないンゴコ体をよく使う。その理由は、ジャワ敬語の使い方が理解できないというのがほとんどである。都市部の高校生の大多数は家や近所で会話をする際に、ンゴコ体とインドネシア語しか使わず、小学校でジャワ敬語を学んだとしても、日常生活では使わないため、ジャワ敬語の使用方法が分からない(一部は、大先生とより近い距離を求め、ンゴコ体を使用するというケースも見られた)。規範的な敬語が変化したというよりも、クロモ体が使えなくなってきている中でンゴコ体のみの使用に変化していると指摘できる。この点に関しては、Brown and GilmanによるPower and Solidarityにも関係があるといえるだろう。かつては、ンゴコ体は敬意を表さない、丁寧ではないと指摘されてきたがむしろ、ンゴコ体を使うことによってジャワ人としてのsolidarityを示そうとしているのではないかと指摘できるこれは、もちろん、社会変化に繋がりがあるといえるだろう。一方、農村部の高校生の間では、尊敬用語は規範的な敬語がある程度保たれているが、謙譲用語の表現は、クロモ体からマディオ体に変化している。つまり、彼らは丁寧さを大事にしているものの敬意の表わし方はクロモ体を使用するほどではないと認識する傾向があって、丁寧な表現の枠内で敬意度レベルの変化が見られる。

【質疑応答と指摘など】
指摘(加藤先生):かつては、ジャワ社会の中心クラトン(王宮)が都市にあって、ジャワ敬語の使用を含め都市こそがジャワ的文化の中心であり、農村部に住んでいる農民は敬語が話せず、ンゴコ体を使っていたと聞いたことある。今はそれが逆転してしまい、都市は国民文化の発信地として王宮の文化、踊り等ジャワ的文化があったとしても、言語面では中心性を失いつつあるという点に関心をもった。
質問1:資料の中で、高校生がよく使う表現の、1位から3位までの回答率を足したら100%を超えるのはなぜか。
回答1:複数回答可能なため。
質問2:尊敬用語に関しては、農村部(約8割)と都市部(約5割)の高校生が1位に選んだ表現は規範的な敬語だった。一方、謙譲用語では、両方とも規範的な敬語が理解できず、農村部の高校生が選んだ規範的な敬語の回答率が3割以下、都市部では間違っている表現が1位に選ばれている。現代ジャワ若者の敬語表現の使用が非常に良くないと考えても良いか。
回答2:現代のジャワの若者が敬語表現を使用できないというよりも、敬語使用の現状において、規範的な敬語使用に対する認識が変化してきていることを指摘したい。調査結果からは、敬語使用に対する認識が低く、前述のようにジャワ語を使用する際には、Powerよりも、ジャワジャワ人としてのsolidarityのほうが認識されている。良いかどうかの価値判断はともかく、現代の実態として指摘したい。
質問3:報告者が認識した変化というのはいつから始まったか。
回答3:報告資料でも触れたが、1930年に既にジャワ敬語の複雑さが認識され、1980年代のスハルト政権時代になると、Pudjosoedarmoが述べたように若者の間でジャワの敬語使用のこだわりがなくなり、さらに公用語と教育語のインドネシア語への使用が増え、ジャワ敬語使用の変化が見えるようになってきている。報告者自身スンダ地域に住んでいたが、1990年代の大学生の頃には、民族語よりもインドネシア語や通常語のスンダ語と、そのコード混在の言語などが常に使われていたことから、民族語使用が徐々に変化してきたことを認識してきた)。
質問4:量的調査も良いが、質的調査は行っても良いのではないか。
回答4:その通りである。今回の量的調査は、前回2回行った質的調査の結果に基づいて行った調査である。現地調査を行う際、アンケートのほかに、インタビューやロールプレーからもデータを収集して分析した。その結果は既に修士論文内で言及した。今回の調査は、前回の量的、質的調査を分析した結果をさらに分析するために800人の協力者に依頼して行った。
質問5:日本語では二人称の使用が難しく、「あなた」や「君(きみ)」などは日常的にはあまり言わない。それに対し、インドネシア語ではBapak(年上の男性の呼名・お父さん)、Ibu(年上の女性の呼名・お母さん)のような二人称があって非常に便利である。最近マレーシアの大学に行ったら、若者の間では「あなた」の二人称は英語の「You」で、自分を指す際に「I」を使用する傾向が見られたが、インドネシアではそのような傾向があるか。
回答5:英語の「You」と「I」を使用する傾向はないが、若者の間では若者の特有のことばがある。但し、マレーシアと同様で、このようなことばは丁寧ではなく、年上に向かって使用すると失礼になるため、使用には注意が必要である。ジャカルタのような大都市では最近、呼名は英語のように、相手の名前を呼ぶケースが時折見られるが、大多数は年上の人に対しては未だにBapakやIbuを使用する。

(文責:東京外国語大学大学院 エリザベス・エスター)

第二報告(15:45~17:45)
報告者:長津一史氏 (東洋大学社会学部 准教授)
報告題目:「研究工具としての空間情報―インドネシアとフィリピンの民族動態を題材に」
コメンテーター:加藤剛氏 (京都大学名誉教授・東洋大学アジア文化研究所客員研究員)

【コメント】
■ 加藤剛会員(京都大学名誉教授)
①GISを用いた研究
はじめに東南アジアのGISの成果として、参照できるものとして次のふたつを紹介する。後者については、加藤が書評で紹介した(2013『東南アジア研究』 51(1): 190-194)。
1)京都大学地域研究統合情報センターの林行夫が中心となって編集した『大陸部東南アジア上座仏教徒における実践の時空間マッピング』(京都大学地域研究統合情報センター編、チュラロンコーン大学社会調査研究所発行、2014年)
2)Cribb, R. B. 2000. Historical atlas of Indonesia. Honolulu: University of Hawai'i Press.
 これらの作品をみてわかることは、GISを用いた研究で成果を出すためには、多くの調査者を動員する必要があり、また長い時間をかける必要があるということである。報告者を含め、GISとセンサスを組み合わせた研究で成果を出そうとする研究者は、この点を覚悟しておく必要がある。グループワークの場合、オーガナイザーは参加者のモチベーションをいかに高めるかを常に考えなければならない。
内容について述べる。上記の作品を含めて、GISを用いた研究が魅力的であるためには、既存のデータのみならず、地べたの情報、つまりフィールドワークの情報をマッピングしていく必要があろう。今日の報告も、センサスの情報に加えて、報告者自身の東南アジア島嶼部の広域におよぶフィールドデータを組み込んでいるがゆえに、とても興味深いものになっている。GISはオールマイティではない。地道なフィールドワークと組み合わせることによって、より有意義に活用することができるツールである。

②東南アジア海域世界
 報告はセンサスとGISを手がかりに海民の生成過程を跡づけ、東南アジア海域世界の特徴・成り立ちを探ろうとするものであった。近年、古代ギリシャや地中海の歴史に関心を持ち、そこでの文明の生態・生業の条件などを考えている。ギリシャのポリスはかならずしも農耕適地とはいえない河口、沿岸に建設されることが多かった。海上交易とそのネットワークが優先されていたのである。こうした点は東南アジア海域世界と共通する。本研究をもとに、世界的な規模での海域世界の比較を考えるのも面白いのではないか。参考文献をひとつあげておく。
カール・シュミット2006『陸と海と―世界史的一考察』(生松敬三・前野光弘訳)東京: 慈学社出版(Schmitt, Carl, 1942. Land und Meer: Eine Weltgeschichtliche Betrachtung, P. Reclam)

③センサス
博士論文を執筆していたときには、センサスをよく調べた。しかし、その後、じっくりとみる機会は少なくなった。研究者は、この資料をあまりしっかりと検討しない。しかし、実は情報の宝庫である。今年の6月、マラヤ大学の図書館でマラヤ/マレーシアのセンサスを調べた。半島部の農村における人口減少が、この30年間でいかに急速に進んだのかを探るためである。マレーシアについては、1991年のセンサスから、郡(mukim)レベルの非マレーシア人(外国人)人口の推移を知ることができる。なぜ1991年からそうしたデータをとるようになったのかも興味深い。1980年代からすでに、都市だけでなく、地方においても、正規・非正規にかかわらず、外国人労働者の数を把握しておく必要性が生じていいたのだろう。こうしたデータをきちんと使った研究は、あまりないのではないか。

④GISとセンサスを用いた研究への展望
GISとセンサスを用いた研究をどう展開していくのかについて、レジュメ1頁右側下に「コメントに期待」と書いてある。解答は持ち合わせていない。しかし、困難な問いを考えるとき、私は常に「歴史と比較」に立ち戻るようにしている。
報告者は、バジャウという特に移動性の高い民族を研究している。かれらは、自分たちだけで生活世界を維持することはできない民族、周りに交易を基盤とする都市が存在することではじめて成立する民族である。だから居住地は広い範囲に分散している。そうした拡散居住ゆえに、センサスと空間情報を用いたアプローチが有効であるともいえる。しかし、バジャウのように拡散居住をしていない人びとについての研究の場合はどうであろうか。
インドネシアで民族情報を含む詳細なセンサスが出されたのは2000年。2010年のセンサス、さらに20年後、30年後のセンサスの末端レベルまでの情報が利用可能になれば、歴史的な考察が可能になる。それは時間的な比較でもある。
 たとえば労働移動、人口移動というトピックが考えられる。インドネシアではこれまで、エスニシティとホームランドのあいだにある程度、明確な重なりが見られた。センサスで村落レベルまでの情報が得られれば、この重なりが溶解していく過程と、さらにそれがどういうスピードで進んでいるのかがわかるようになるだろう。
最後に、もうひとつのコメント、というか激励を加える。最初に触れたように空間情報を扱う研究は、たいへんな労力とエネルギーを必要とする。また、多くの人の協力が不可欠である。そのようにたいへんな研究ではあるが、情報が蓄積されればされるほど、利便性は高まっていく。本報告で示されたような可視的な情報が今後、長期的に蓄積されることによって、時空間情報が持つ研究上の意味はその意味はよりよく理解されるようになる。ビッグデータを処理し、蓄積する技術も高くなっている。長津さんがリーダー、あるいは犠牲者となって、そうした研究を引っ張って行ってほしい。

◆ 長津応答
①に関する追加情報
GISデータの構築に関わる情報を加える。今日の午前中、インドネシア・センサスの利用に焦点をおいた勉強会を若手研究者とともに立ち上げた。勉強会といっても、センサス・データを中心に、共有化しうるデータベースを作ることが主な目的である。当面はこの作業を続けていく。

②東南アジア海域世界についてのコメントへの応答
海域世界の地域間比較の可能性についてアドバイスをいただいたと理解した。時間がなかったので報告では触れなかったが、本研究の展開として、海域世界の地域性と普遍的性格を念頭においた比較を考えている。たとえば、東南アジア海域世界と日本の周辺海域との比較、あるいは東南アジアの海民と、倭寇やバイキング等の生成過程についての比較である。

③センサス・データの公開状況
すでに述べたとおり、今日は2000年センサスを主に利用した。個人単位に至るまでの詳細情報が公開されているからである。しかし、2010年のセンサスでは、たとえば民族属性に関するデータは県単位までしか公開されていない。これがせめて村単位、郡単位まで公開されれば、2000年との比較が可能になり、有用性は増す。京大東南アジア研究所あたりがインドネシア中央統計局に要求してみると面白い。ただ2010年センサスでも、民族属性、宗教属性以外は、村落単位までのデータを入手することができる。そのデータは十分に利用価値がある。

【フロアからのコメント・質疑と応答】
■ 大野美紀子(京都大学東南アジア研究所助教・図書館室長)
 京都大学東南アジア研究所図書室におけるセンサスや他の統計類の所蔵・利用状況について短く説明したい。東南アジア研究所の図書館におけるインドネシアの統計資料の所蔵量は、紙媒体、電子媒体いずれも、日本では最大である。ただし電子媒体のものについては、公開の仕方がいまだ整備されていない。現在、調査と検討をしているところである。報告者が利用しているインドネシアの2000年センサスについては、東南アジア研究所の図書館では公開していない。インドネシア中央統計局との契約に、「図書室での閲覧に限る」という条件がある。しかし現状ではコピーを防ぐ手段がない。この問題をどう解決するのか検討中である。利用希望者には個別に対応するしかないのが現状である。
インドネシアの2010年センサスは、これからできるだけ包括的に収集していきたい。ただ販売元であるBPSの態度、判断にはブレがある。利用権の許諾を得るのが難しくなっている。
図書館にとって、特定の地域・時代のデータの重要性を示していただけることは、資料の収集方針を決定するうえで有意義である。当然、予算は限られている。購入の優先順位を決めることは重要である。報告者は、フィリピンのセンサスが東南アジア研究所図書館に所蔵されていないとの苦言を呈された。それは、フィリピン研究者からの希望が少ないことの反映であることを理解していただきたい。他方、インドネシア研究者からのセンサスを含めた基礎資料購入の希望は強い。こうした資料要請の強弱が、所蔵状況の差になって表れている。

■ 氏名不明(フィリピン研究者)
フィリピンについてもアメリカ期と独立後のセンサスがある。アメリカ期の資料については、マイクロフィルムないしマイクロフィッシュに収められている。これらの資料を利用可能なデータにするには、たいへんな労力がかかる。マイクロフィルムないしマイクロフィッシュのデータを処理する方法はあるのか。報告者はどのようにフィリピンに関する電子データを得たのか。

◆ 長津
インドネシアとフィリピンの2000年センサスをGISデータに組み込もうと考えたのは、すでに利用可能なデータがあったからである。報告で述べたとおり、フィリピンの2000年センサスのデータは、東洋大学アジア文化研究所で購入した(穂高書店経由で購入可能)。1930年のセンサスの場合、「外島」については自分で原典から入力した。それ以上、つまりジャワ、スマトラ等のデータ入力はひとりでは無理。仲間を募ってやらざるをえない。マイクロ資料についても、PDF化してOCRをかけるという作業は同じで、地道にやらざるをえない。それでも現在、OCRの精度がよくなっているので、作業じたいは楽になった。

■ 小池誠(桃山学院大学)
GISで人の移動を分析することはできるのか。2000年センサスでは、移動している人はどのように扱われていたか。たとえば、「一時的な滞在者」はどう扱われたのか。

◆ 長津
私も人の移動を数字化、地図化することに興味がある。地図上に線で表することはできるだろう。ただ、センサスに基づいて移動の内容を地図データ化することはなかなか難しい。センサスでは、作成したその瞬間の情報しかない。その時点で、「5年前にどこにいたか」という情報しかない。しかもそのときの情報の単位は県レベルになってしまう。県と県のあいだの大きな移動をとらえることはできる。しかしより細かな動きを把握することはできない。センサスでは一時的な滞在者も含むあらゆる人が対象になる。外国人であっても居住している人はその対象になる。

■ 小泉佑介(東京大学大学院)
地図は歴史的な一時点、瞬間しか描くことができない。だから、異なる時代を扱うことが重要になる。今回扱われたインドネシア・センサスのGISデータについていえば、2000年センサスと2010年センサスの「あいだ」または変化をどうそのなかに組み込むかが大事になるのではないか。
 移動については、筑波大の空間情報の研究者は、personal tripの情報を集めている。かなりミクロな視点をとっている。そうしたやり方で、バジャウの人たちの動きを把握することも可能かもしれない。細かな話になるが、発表で提示されたGISはどういった地図をベースにしているのか?

◆ 長津
 はじめのご意見は参考にさせていただく。2000年と2010年の変化を捉えることは間違いなく重要である。だたし民族にかかわる情報の精度に問題があることは、すでに述べたとおりである。personal trip調査は興味深い。悉皆調査は難しいが、サンプル調査なら可能だろう。私がやっているのは、漁師さんにGPSを持っていってもらって、その行程を把握するやり方。海上での動き、漁場から漁場への動きが包括的に把握できる。何年に出版されたどの地図をベースにしているのかは調べていない。最新の紙媒体のトポグラフィックがもとになっていると思う。

■ 大野美紀子
センサス・データを多数で加工し、共有したいとのことだが、どの範囲でそのデータを共有する予定なのか。センサス・データをオープンに発信するのは、許諾がないと難しいのでは。

◆ 長津
いま電子化、共有化を考えているのは、1930年のセンサス(Folkstelling)だけである。原典は私的に所有している冊子であり、著作権は切れているはずである。ただ、共有化は一定のメンバー、作業に参加した人に限定する予定である。自分たちが加工して作成したものについては、こちら側に著作権が発生するのではないだろうか。それは公開しても良いと考えている。データは可能なかぎりで公開していきたいと考えている。

■ 大野
著作権以外に、営業権も考慮する必要があるだろう。

■ 青山亨(東京外国語大学)
1930年のセンサス(Folkstelling)のデータや、他のデータを保持する場をどうつくるかも考えるべきだろう。東南アジア学会のウェブサイトなどで組織的な取り組みができたら良いと思う。

(文責:長津一史、森田良成)

2014年度第4回(10月)の関東例会の報告

2014年10月25日(土)に開催されました2014年度第4回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:遠藤 正之(立教大学アジア地域研究所・研究員)
コメンテーター:北川香子先生(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

【コメント(北川香子氏)】
 従来の研究では、1658年反乱以降のカンボジアは、ベトナムとシャムの干渉が強まるなかで王権が弱体化する衰退期とみなされていた。しかし、上記の説は19世紀に編纂された『カンボジア王朝年代記』を史料としており、本報告が用いている17世紀オランダ語史料のほうが史料の信頼性は高い。その意味において、本報告の内容は、従来のカンボジア史研究を大きく書き換える可能性がある。
 その一方で、次のような疑問点も存在する。報告者は1658年反乱の目的を王権に近づいたマレー人の排除としている。しかし、同反乱で王位に就いた新国王が後に暗殺される事件に関して、年代記はマレー人が、フランス語史料は華人がそれぞれ関与していたと記述しており、複数の商業勢力が王権に大きく関わっていたことが明らかになっておる。この事実から考えると、1658年反乱についても、商業集団に王権が近づくという構図で捉えたほうが妥当ではないか。また、同反乱において反乱軍が広南阮氏の援助を仲介したとされるベトナム人王妃の存在をどう考えるのか。さらに、当時の交易におけるメコン川ルートの重要性については、カンボジアだけでなくラオスも含めて考えるべきなのではないか。これらについても、明確にする必要がある。

【回答】
 本報告では、王権とマレー人との関係について単純化してしまった面があるのは否めない。コメンテーターが指摘する商人集団に王権が近づくという構図は、まさしくその通りである。
 年代記やフランス語史料で存在が指摘されているベトナム人王妃については、オランダ語史料ではこのような書き方ではなく、反乱を起こした人物であるナック・ムントンの母と記述されている。このため、この人物について検討する際には、こうした各史料における記述の違いを考慮する必要がある。
 メコン川ルートの重要性については、コメンテーターが指摘する通りである。当時ラオスからの交易は、森林生産物をはじめとして非常に重要なものとなってあり、ラオス・カンボジア交易圏で考えるのが妥当である。但し、両地域の間にはコーンの滝が存在しており、当時の交易圏が同地で分かれていたのか否かも合わせて検討する必要がある。

【質疑応答】
 Q:1658年の広南阮氏による介入や、広南阮氏軍によるカンボジアのオランダ商館の略奪および破壊について言及している先行研究はあるか。
 A:ブッフによる研究がある。
 Q:広南阮氏がカンボジアに介入した意図はどのようなものであったか。広南阮氏はこれとほぼ同じ時期に、タイのナコンパトムに対しても強い関心を持っていた。このこととカンボジア介入との関係はあるか。
 A:後者について、両者の関係があったとすれば、その背景にはポルトガル人の存在があったのではないか。1658年の反乱に関する記述では、ナック・ムントン側は国王側にはない火器を保有しているとの記述があり、前者がポルトガル人と関係を持っていた可能性がある。
 Q:「第二次条約」締結のきっかけとなった1664年にマレー人のインチェ・アッサンが独断で出したオランダ東インド会社との関係再構築を求める内容の書簡を会社が受け入れたのはなぜか。1657年に当時のマレー人有力者インチェ・アッサムによるラオス交易独占で被った不利益の影響を、会社は考えなかったのか。
 A:1663年から1664年にかけてオランダ東インド会社とアユタヤとの関係が悪化していたため、会社はアユタヤとの交易がうまくいかなかったときのいわば保険としてカンボジアとの関係再構築を考えたのではないか。1657年のケースはたまたま起こったもので、会社にとっては後まで影響を残すものではなかったと考えられる。
 Q:17世紀のカンボジア王権におけるマレー人の位置づけどういうものだったのか。王の臣民だったのか、それとも外国人だったのか。
 A:オランダ史料の記述を見る限りでは、王の臣民だったと考えて良い。
 Q:当時のカンボジアにおけるマレー人は、一つの集団だった考えて良いのか。
 A:オランダ史料の記述では、マレー人の他にパタニ人という記述が見られる。ただしそのパタニ人にはパタニ出身のマレー人という意味づけがなされているので、当時のマレー人は一つのカテゴリとして考えられていたのではないか。
 Q:反乱後の新国王は、なぜマレー人を排除しようと考えたのか。前国王が改宗したイスラームが原因だったのか。
 A:現時点では、当時王朝内で強力となっていた勢力を淘汰するものとして、新国王によるマレー人排除を考えている。オランダ史料では、イスラームへの拒絶には言及していない。実際に前国王は、華人ムスリムやマレー人を取り込む狙いを持ってイスラームに改宗した一方で、他のムスリムではない人々も王権の中に取り込んでいた。ただ、この問題は非常に重要であるため、これらの点を踏まえながら今後更に検討していきたい。
 Q:17世紀中葉の長崎における唐船入港記録を見ると、カンボジアからの来航船の数は1650年代に増加している。この事実から考えると、前国王はマレー人を重視していても、華人を排除することはなかったのではないか。
 A:その通りである。当時は、主に海域や西方世界との交易に従事していたマレー人と主に日本との交易に従事していた華人とで、交易面において棲み分けができ共存していたため、前国王は華人を排除することはなかった。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 久礼克季)

■第二報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(東京大学大学院総合文化研究科 博士後期)
コメンテーター:加納啓良先生(東京大学名誉教授)
報告題:「スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ」

【コメント(加納啓良先生)】
[補足説明] 第一に、「商品作物」という言葉の定義についてである。インドネシア語のPerkebunan(日本語では「農園」という意)には小農も含まれているので、訳の当て方は注記しておくべきである。第二に、農家グループ(Kelompok Tani)は、協同組合の下部組織ではなく、農業指導員(Penyeruh Pertanian Lapangan; PPL)が定期的に指導を実施するためのグルーピングであるため,本報告での認識は間違っている。一方、村落ユニット協同組合(KUD)は、協同組合省の管轄であり、食料農業政策との関連で、米の集荷機能を持たせることを意図として形成されたものである。
[質問] 第一に、先行研究から引用していたアブラヤシ農園労働者が約300万人という数字であるが、これには小農が含まれているのか。第二に、インドネシアにおいて1990年代からアブラヤシ栽培が拡大したとあるが、蘭印百科事典におけるアブラヤシ栽培の歴史を遡ると、実際は1990年代よりも早く拡大し始めたのではないか。第三に、商品作物栽培の拡大は世銀の支援が終わってからであるという報告だったが、具体的に「支援」とはどのようなことが実施されていたのか。第四に、Koperasi Primerの概念は村落ユニット協同組合とは別物であるから、食料政策時代の村落ユニット協同組合と現代の商品作物用に融資のチャンネルとして使われた共同組合は別物であると考えた方が良いのではないか。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因として、人口増加、交通インフラ整備、通信インフラなどの拡充といった要素も考慮する必要があるのではないだろうか。第六に、中核農園プロジェクトの際,中核農園が統一的に管理するのと,小農と一緒に生産をおこなうのでは,生産効率が良いのはどちらか。
 
【コメントに対する回答】
[補足説明に対する回答] 第一に、本報告で「商品作物」という用語を使用した意図は、インドネシアの農業分野に精通していなければPerkebunanという語彙そのものが民間/国営農園を連想させ、誤認を招くと考えたからである。第二に、本報告における組合の位置づけだが、後半の15年間に低金利融資を主体としたプロジェクトが行われた窓口となったのが組合であった、というように認識していた。
[質問に対する回答] 第一に、先行研究におけるアブラヤシ農園労働者が約300万人存在しているという質問に関しては、小農の所有する農地で働いている労働者数を加算したものであったと記憶している。第二に、アブラヤシ栽培の拡大に関しては、1980年代からの伸びであったと記載する方が適切であったと考える。第三に、世銀のプロジェクトは、集約化と外延的拡大という二つの方向性をもって進められておいたのだが、本報告内では詳細な紹介ができなかった。一つの例として1980年のSmallholder Rubber Projectを挙げると、その当時すでにゴムを栽培していた小農の栽培方法を改善、あるいは肥料投入量を調整して、生産量を向上させるプロジェクトが実施されていた。第四に、Koperasi Primerに関して、「商品作物栽培に特化して」と記載したのは間違いであった。補足情報として、Koperasi Primerは畜産業や漁業を対象に支援も実際に行われていたため、商品作物のみが対象ではなかった。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因に関して、通信・インフラ整備も確かにあると考えられるが、とりわけアブラヤシに関しては90年代から国際価格が伸び始めたのも起因しているのではないだろうか。また、教育制度や農村社会における生活水準の向上など要因は一つに限ることはできないと考える。第六に、生産性に関して言えば、農園が管理した方が生産効率が高いように思われる。

●質疑応答
質問1:世銀のプロジェクトが国営農園を支援していたという話だが、どこまでが国営でどこから民間支援であったのか。
回答1:国営農園を対象にしたプロジェクトは1980年頃まで。最初は国営農園の再活性化を行い、活性化した農園に小農を組み込む支援が行われたが、1980年代以降からは民間農園の参入を推進した。

質問2:政策がトリガーとして効果を発揮する部分もあるが、同時に影響がない部分もある。具体的には、国営農園は政策の影響が出てくるが、民間大農園は、政策の息がかかっているところとそうではないところを兼ね備えている。現代においては、民間小農園は近年、民間大農園と区別し難くなってきた。こういった状況を鑑みて、国営農園、民間大農園、民間小農園という三つのプレイヤーがいることを踏まえ、いま一度包括的に概観した上で、小農の位置づけをすれば全体像がより明確になるのではないか。
回答2:本報告は、題目に政策と謳っているものの、政策決定プロセスに重点をおいたわけではなく、あくまで政策の変遷を追ったものとなっている。そのため、指摘いただいた部分に関しては今後の課題としたい。一方で、パーム油の価格や世界的な需要といった外的要因だけでなく、国内の政策的な要因を見つめ直すことが、今回の目的であった。

質問3:商品作物生産量として挙げられている図におけるコプラの生産統計は信用できるのか。小農生産も多く行われていた中で、どのように統計がとられていたのか。
回答3:コプラ生産には小農のココヤシ栽培が関わっており、それらをどのようにして集計したのかは不明である。一方で、統計データを信用できるかどうかは別にして、コプラの生産を向上させるためのプロジェクトが存在していたため、コプラの生産量を拡充させようという政策的な意識はあった。
関連コメント:1970年代に過程で使っている揚げ油のほとんどはコプラであった。パームオイルを使用するようになった転換点は気になるところである。

質問4:世銀のプロジェクトも始めはゴムであったことから、ゴムも注目に値するのではないか。小農の商品作物栽培を理解する上で、アブラヤシの比較軸とするのはどうか。
回答4:確かにスハルト政権期における農業政策の中で、ゴムは注目すべき作物である。ただ、ゴムと比べてアブラヤシには地方政府レベルにおいてもかなり大きな利権が付きまとっており、小農が得ている多額の収入を見ても、単純にゴムと比較しうるとも言い難い。

質問5:スハルト時代の「箍」が外れたからこそ、拡大したと考えられるのではないか。本報告で注目している政策的な観点からの仮説を決めつけずに、柔軟に考察する必要があるのではないか。
回答5:スハルト期の素地に関して、その後の分析が不十分であり、その点は今後の課題としたい。ただ、商品作物栽培は植民地末期から行われていたが、現在につながるスタート地点は、スハルト政権期における食品作物栽培の支援にあったのではないかと考えている点が本報告の趣旨である。

質問6:ゴムやココヤシと違い、アブラヤシは劣化が激しく、近くに搾油工場が必要である。しかし、現在は既存の小農がアブラヤシを植えるケースが増加している。その一要因として搾油工場は考えられないだろうか。
回答6:2000年以降に、小農が農園の周辺に拡大していくにつれて、農園を持たない搾油工場ができてきた。工場ができれば、そのまわりに小農が拡大し、また工場ができるというパターンが展開している。90年代以降はその要因が続いているのではないか。
関連コメント:現在は、RSPOというパームオイルの認証制度があり、サプライチェーンをコントロールする試みがある。つまり、登録した小農からしか購入をしなくなるということだが、国際的にブラックだった企業がクリーン企業化する様子が見られる。こうした背景を考えると、小農に焦点を当てることによって、様々な動きが見えてくる。

(文責:上智大学大学院 北川あゆ)

2014年度第5回(11月)関東例会のご案内

第5回関東例会(11月)を下記の日程で行います。

〈2014年度第5回関東例会(11月)〉
日時:2014年11月22日(土)(13:30~17:45)
会場:会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

〇第一報告(13:30~15:30)

報告者:エリザベス・エスター・フィブラ・シマルマタ氏 (東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程 言語文化専攻)

報告題目:
「現代ジャワ若者におけるジャワ語の敬語使用の状況―ジョグジャカルタ特別州の高校生による敬語運用の実態調査―」

コメンテーター:原真由子氏 (大阪大学 言語文化研究科 言語社会専攻 准教授)

報告要旨:
 多民族国家のインドネシアでは、500以上の言語が話されており、そのうち14の言語は話者人口が100万人を超える(Sneddon 2003)。公用語であるインドネシア語のほかに地方語(民族語)も使われており、二言語話者bilingualが多く見られる。特にジャワ語は、話者数が最も多い地方語であり(人口の約4割)、敬語を有する点で複雑な規範を持っている特徴的な言語とされる。ところが、近年、ジャワ語の敬語が使用できない若者や敬語の使用を避ける若者が増えているなど、現代ジャワの若者の敬語離れが指摘されている。しかし、若者自身の敬語認識や敬語の運用実態に関してはこれまで実証的な調査はなされてこなかった。そこで、本報告では、ジャワ人住居者が約9割以上であるジョグジャカルタ特別州において、農村部と都市部の高校生814人に対し2014年に実施した、敬語の運用実態に関する調査の結果を分析する。現代ジャワの若者が規範的な敬語が使用できなくなっているという現状を実証するために、敬語の運用実態を測るアンケートとインタビューを用いて、その正誤用法に関する実態調査を行い、若者の敬語使用の傾向を明らかにする。報告者はこれまでにジョグジャカルタのガジャマダ大学において、より知識を持つと考えられる大学生、さらに大学の教員への調査を実施した。高校生に対して実施した調査から明らかになった結果と比較することで、現代ジャワの若者におけるジャワ語の敬語使用の状況とその社会的意味を明らかにする。

〇第二報告(15:45~17:45)

報告者:長津一史氏 (東洋大学社会学部 准教授)

報告題目:
「研究工具としての空間情報―インドネシアとフィリピンの民族動態を題材に」

コメンテーター:加藤剛氏 (京都大学名誉教授・東洋大学アジア文化研究所客員研究員)

報告要旨:
 インドネシアとフィリピンが2000年に実施し、数年後に公表した人口センサスは、両国独立後はじめての有用な人口情報を提供するものであった。特に電子版のセンサスは、いずれの国のものもきわめて詳細であり、民族や宗教をはじめとする基本属性や移住歴等の情報を、個人単位(インドネシア)または村落単位(フィリピン)のレベルまで探ることを可能にした。また、2000年代のインドネシアでは、国家土地調査調整局(BAKOSURTANAL)を中心に、地理情報システム(GIS)データの整理も急速に進められた。GISデータは電子版センサスのデータに連繋させることが可能であり、結果、人口データを空間的に把握することが著しく容易になった。
 こうした資料状況の変化にもかかわらず、インドネシアとフィリピンの人文・社会科学の研究領域では、いまだ人口センサスやGISデータを研究工具として利用することは少ない。本報告では、インドネシアとフィリピンにかかわる人文・社会科学の研究工具としての空間情報――センサス、GIS、地図――とそれらを用いた視覚表現の方法について報告する。具体的には、「民族」に焦点をおきながら、2か国の電子版2000年センサスの内容・構成・使用法、GISや他の地図を用いたセンサス情報の地図化・概念図化の技法について説明する(ソフトとしては、マイクロソフト社のAccessとESRI社のArc GISを用いる)。ところで報告者は、センサスやGISのようなマクロ・データのみで東南アジアの社会・文化現象を理解できるとはもちろん考えていない。鳥瞰図を描くための研究工具は、微視的なフィールドワークや史料調査を土台として使ったときに、はじめてオリジナリティのある視点・接近法を導く。こうした認識をふまえて報告の最後では、「インドネシア海域における海民バジャウ人の生成過程」をテーマとする報告者の研究を紹介し、研究工具としての空間情報の利用可能性を考えてみたい。

2014年度第4回(10月)の関東例会のご案内

2014年度第4回関東例会(10月例会)についてのお知らせです。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

今回は、以下の二報告です。

第一報告:遠藤 正之(えんどうまさゆき)会員による「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

第二報告:小泉 佑介(こいずみ ゆうすけ)会員による 「スハルト政権期の農業:農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ」

詳細は下記をご覧下さい。

<2014年度10月関東例会>
日時:2014年10月25日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:遠藤 正之(立教大学アジア地域研究所・研究員)
コメンテーター:北川香子先生(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

<報告要旨>
オランダ東インド会社(VOC)は、1657年にカンボジアと友好平和条約(第一次条約と呼ぶ)を結び、同国との交易を再開した。しかし、1658年にカンボジアで王族の反乱が起き、それに伴う広南阮氏のカンボジア侵入によりオランダ商館は焼き討ちを受け、再びカンボジアとVOCの関係は断絶した。しかし、VOCにとって最大の利益を上げていた対日本交易に必要な諸産品を入手するために結んでいたアユタヤとの関係が悪化し、VOCはカンボジアと再び関係を結ぶ必要に迫られた。その結果、1664年11月から交渉が開始され、翌65年2月に再び友好平和条約(第二次条約とする)が締結された。しかしながら、第二次条約と第一次条約の条文を見ると、多くの相違点が存在する。両条約締結間に生じた諸情勢の変化や、第一次条約締結の際のVOC側の反省などが反映されたものと考えられる。本報告では1658年王族反乱から第二次条約締結に至るまでの過程を、VOC文書をはじめとするオランダ語史料を用いて分析し、同条約締結がカンボジア・VOC双方にとってどのような意義を持ったかについて考察する。

☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(東京大学大学院総合文化研究科 博士後期)
コメンテーター:加納啓良先生(東京大学名誉教授)
報告題:スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ

<報告要旨>
現在,インドネシア政府は輸出指向型工業化を進める一方で,豊富な自然資源を利用した商品作物栽培の拡大を促進している。特に,19世紀末から続く外島部(スマトラ島やカリマンタン島)でのゴムやアブラヤシ栽培は,スハルト政権下で大きな転換期を迎えた。しかしながら,スハルト政権期の農業・農村開発政策に関する先行研究は,米を中心とした食糧作物の増産政策に着目したものが多く,同時期の商品作物栽培に関する政策の変化を対象とした研究は少ない。そのため,現在,外島部で急速に拡大する商品作物プランテーションの動向を理解するためにも,スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけを明確にする必要がある。
そこで,本報告では,1968~1998年における農業・農村開発に関する年度ごとの報告書や統計データ,同時期の世界銀行が発行したプロジェクト・レポートを主たる分析対象とし,スハルト政権期の商品作物栽培に対する政策がどのように変化したのかを報告する。また,そうした変化が,現在の外島部におけるプランテーション拡大にどのような影響を与えているかを検討する。


終了後、懇親会を用意しております。

2014年度第3回(6月)の関東例会の報告

2014年6月28日(土)に開催されました2014年度第3回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:久礼 克季(立教大学アジア地域研究所特任研究員)
コメンテーター:鈴木 恒之(東京女子大学名誉教授)
報告題:「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」

【コメント(鈴木恒之氏)】
 第一に、先行研究としてルーロフスとナフテハールを挙げていたが、ド・フラーフの研究が挙げられていないのは不十分である。フラーフの研究は確かに華人の研究そのものを論じたものではないが、17世紀におけるマタラム王国の官僚制・地方の問題を論じつつ、華人に関する情報も相当量含まれている。やはり何らかの言及が必要ではなかったか。第二に、マタラムとの関係改善にオランダ東インド会社(VOC)が華人を利用したと論じていたが、この華人についてバタヴィア在住の華人か現地在住の華人かが明確にされていない。VOCの史料に現れる華人は「VOCの臣民」としてのバタヴィア在住華人であり、この点は明確にすべきである。また、交渉の主体は華人ではなくあくまでVOCであり、この点の相違も明確にする必要があろう。第三に、「現地の首長」という表現を用いていたが、これもマタラム王国の手によって送り込まれた者か、同王国が征服した地域を拠点とする文字通りの「現地の首長」であるのかを明確にする必要がある。基本的には史料に現れる「現地の首長」はマタラムが送り込んだ側の系列に属する事例が多い。第四に、「監督官」の訳をもう少し検討すべきである。この役職はマタラムが派遣する最高位の官吏を指す表現であり、「監督官」ではややそのあたりのニュアンスを表現するには不十分ではないか。第五に、1650年代のマタラム王国の貿易政策が、ジャワの商人、華人商人双方にとってどのような意味を持ったか、どちらにそれが有利に働くことになったのかを明確に論じる必要がある。

【回答】
 ド・フラーフの研究については、華人の活動を直接論じたものではないため、今回は積極的に利用することがなかった。今後の課題としたい。
 華人の問題については、バタヴィアから出航する華人は明らかにバタヴィア在住の華人である。ただ、彼らのなかには、地方に赴きその地に定着して「現地在住の華人」となった者がいる。こうして移住した華人やそれ以前から現地に在住していた華人が、マタラムに登用されて現地首長やシャーバンダルに昇進していったと考えられる。
 「現地の首長」については、1660~70年代にかけては、明らかにマタラム王国が派遣した者を指している。これを用語としてどのように考えるかが問題である。17世紀前半に現地の首長を指していた称号として「パンゲラン」があるが、これは同世紀後半にはマタラムの関係者にのみ付されるようになった。この称号がひとつの手がかりになる可能性がある。
 マタラム王国の貿易政策については、同王国の集権化政策が華人によるマタラムの経済の掌握につながり、1660~70年代にかけて華人の重要性を高めることにつながった。これはマタラム王権に対する反乱であるトルノジョヨ反乱(1675~79)後も変わることはなく、その後も「華人系の首長」が登場し、商業・商品作物栽培などの面でいっそう重要性を高めていくことになる。

【質疑応答】
 Q:VOCとマタラム王国との貿易関係、及び華人研究については先行研究で指摘されているのか。
 A:前者については、指摘されてはいるが具体的事例に踏み込んだ研究は管見の限りない。後者についてはルーロフス、ブリュッセイ、鄭維中らの研究がある。
 Q:マタラムは貿易に関心を持たなかったのか
 A:マタラムにとって米の輸出は国家の存立に不可欠であったから、関心を持たなかったとは考えられない。そうした交易を北岸地域の首長に任せず、自らと良好な関係にある華人に行わせたことからも、交易への関心を一定程度持っていたことは間違いない。
 Q:1646年のマタラム王国とVOCとの関係改善に華人が関わっていたというが、具体的にはどのような関与をしたのか。
 A:史料上に明確な記述があるわけではない。状況証拠になるが、1630~40年代の史料にある記述からそのようなイメージを持っているということである。
 Q:華人が情報をもたらした、ということだが、この「情報」は手紙及び報告書のことか。
 A:手紙が中心となる。具体的な事例としてVOC職員がマタラムに捕えられた際の連絡に華人がかかわっていた事実がある。
 Q:北岸地域以外での華人の活動はどのようなものがあったか
 A:内陸部に華人が入り込んで活動していた可能性は高い。また、華人シャーバンダルがマタラム宮廷に参内していた事例がある。ただ、具体的な活動については現在のところ史料上に明確な記述を見出せていない。
 Q:シャーバンダルに関し、マタラム王国による任命、称号や地位はどのようなものか。固定されたタイトルなどがあり、マタラム側の史料に相当する名称などがあるのか。
 A:固定された特有のタイトルは確認できない。マタラム側の史料も現状見出せておらず、今後の課題としたい。
 Q:マジャパヒト王国最後の王の側室が華人の王女であったと唱える史料があるが、この史料はどのように解釈すべきか
 A:ジャワの宮廷と華人が良好な関係を有しており、王朝の存立、経済活動における華人の重要性を反映しているのではないか。
 Q:華人商人を指すプラナカンと呼ばれる人々は明らかに華人的特性を強く示している。17世紀以降、イスラーム化する華人も増えたが、華人の現地化に関し発表者は何らかの見方を有しているか。
 A:17世紀についてはまだ明確な見解はない。ただ、18世紀になると、それ以前より多くの華人が流入することで「華人性」が強く意識されるようになっていったのではないかと考えている。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 遠藤正之)


■第二報告(15:45~17:45)
報告者:NHIM SOTHEAVIN(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
コメンテーター:北川香子(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards

[コメント]
 ポスト・アンコール時代の史料は少なく、①新史料が発見されるか、または②オランダ商館関係の史料を精査・分析するしか、現段階ではこの時代の歴史研究を進めることは難しい。残念ながら報告者の研究は、以上のどちらかを基盤としているわけではない。
 報告者の研究は、王都の移動に関する野心的な研究であると言える。しかし、まず既存の研究の信頼性をもう一度問い直すと同時に、史料批判を十分に行う必要がある。

・15世紀に政治的・経済的中心が南に移った理由として、1980年代以降[ヴィッカリー(M.Vickery)以後]は、一般的に同時代史料の多さから国際交易の観点から説明される。

・聞き取り調査が可能であるのは、せいぜい19世紀前半まで。内容は、話者につながる歴史に留まる。

・農業を遷都の要因として立証するのは、現存する史料からは難しい。また、デルベールやエイモニエの論を折衷的に引用しており問題と思われる。報告者が述べた観点から指摘するのであれば、やはり他の地域と比較して、スレイ・サントーやロンヴェークの農業生産性が優っていることを立証すべきである。また、農学的な用途・背景にも十分精査する必要がある。

・報告者が基礎史料として挙げている王朝年代記は、19世紀以降、現在の王家につながるロンヴェーク―ウドン王家によって編纂されたものである。王都は、スレイ・サントーからロンヴェーク,ウドンへと移ったのではなく、両者は同時並行的なライバルとして存在しており、王朝年代記はロンヴェーク―ウドン側がスレイ・サントー側を王位簒奪者として記録したのではないかと考える。
 ヴィッカリーは、ポスト・アンコール時代を研究する史料は、後代に編纂された王朝年代記ではなく、同時代の碑文史料であるとしている。これは正しい指摘であると考える。

[質疑応答(コメント)]
・15世紀以降の貿易陶磁器は、確かにスレイ・サントーでも出土しているが、ほとんどがロンヴェーク以南から採取・出土している。したがってスレイ・サントーに政治的中心が置かれたことは確かであると思われるが、現段階では、貿易陶磁からこの地域で国際貿易が行われていたことを立証することはできない。しかし、地勢をみて、この地に何らかの経済的中心が置かれていたことは推測でき、川港があったとしても不思議ではない。トンレー・トムの湾曲部分を踏査する必要性があると思われる。同一の器形の破片が山のように出るのが、川港の特徴である。破片が下流に流されてしまっている場合もあるが、存在の目安にはなる。

―シストルという場所に何らかの施設があったことは文献資料から判明しているが、場所の明確な比定にまでは至っていない。しかし、それはメコン東岸付近であろうと推測されている。また、この地は河川の浸食と堆積作用が激しく、16世紀頃に川港があったとしても、現在よりも内陸に位置していたか、また川の中に崩落してしまっている可能性がある。

・オランダ語史料から、スレイ・サントーの王宮跡に関する記述は断片的ではあるが確認できる。フランス語で訳注が出ているので参考にして頂きたい。

・スレイ・サントーとロンヴェーク―ウドンといった2つの勢力が無関係に存続していたわけではない。両者の内、最終的な政治・経済の中心としての位置を確立したのが、ロンヴェーク―ウドンであるということ。17世紀、外部史料(日本/フランス)には、カンボジアには2つの王都があったことを記している。

Q―なぜプノンペンに王都が移ったのか。
A(C)―プノンペン王都の時代は、19世紀始めの一時期と、フランス植民地時代から今日までである。プノンペンには4河川が流れ込んでおり、商業的には最も有利な場所である。しかし、ここに拠点を置くには防衛力を保持する必要があった。したがってプノンペンに王都を置くことができた19世紀始めの一時期とフランス植民地時代は、つまり川を防衛する力をもつ勢力の保護下に入っていたことを意味する。

文責:佐藤恵子(上智大学アジア文化研究所・特別研究員)

2014年度第3回(6月)の関東例会のご案内

2014年度第3回関東例会・6月例会のご案内を致します。

今回は、久礼 克季(くれ かつとし)会員による「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」およびNHIM SOTHEAVIN(ニム ソテイーヴン)会員による ”Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards”の2報告です

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。


<2014年度6月例会>
日時:2014年6月28日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:久礼 克季(立教大学アジア地域研究所特任研究員)
コメンテーター:鈴木 恒之(東京女子大学名誉教授)
報告題:「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」

<報告要旨>
 17世紀にジャワ北岸地域で活動した華人は、この時期のジャワ史の展開を方向づけるうえで重要な役割を果たした。当該の時期、多くの華人は、出身地との関係を維持しながらジャワ島での貿易活動に参入し、自らムスリムとなって現地人の女性と家族を形成しながら貿易を行い、富を蓄積した。また、同世紀にジャワの貿易に参入したオランダ東インド会社とも関係を構築した。
 こうした華人は、この時期に内陸部から北岸地域へと勢力を拡大したマタラム王国の経済活動に重要な意義を持つに至る。同王国は、特に東インド会社との貿易を行ううえで北岸地域の華人を活用し、米や塩、木材、さらにはこの時期に初めて栽培と生産が行われる砂糖の輸出を中心に貿易を展開させた。これらの貿易を通じて構築された両者の関係をもとに、同王国は、華人を経済活動において利用して、17世紀末まで集権的政策を進めた。
 本報告は、こうした17世紀におけるジャワ北岸地域の華人とマタラム王国との関係について、オランダ東インド会社文書をはじめとするオランダ人の記録を主に用いて検討する。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:NHIM SOTHEAVIN(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
コメンテーター:北川香子(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards
報告言語:英語

<報告要旨>
There have been a variety of factors that scholars working
on Cambodian history have proposed as a hypothetical cause of the change of
the Khmer capital from Angkor to southward locations (such as Srei Santhor,
Longvek, and Oudong) from the 15th century onwards. All these factors
contributed to a significant drop in the Cambodia’s political power,
leading to a gradual change in land use and a decline in agricultural
production. However, a determining factor seems to have been the rise of the
Sukhothai (Siam), which challenged Cambodia’s political and military
domination, and in particular its domination over the religious orthodoxy,
where Brahmins hitherto exerted their influences. It was during the “Middle
Period”, namely from the 14th to 18th centuries, that Cambodia adopted
Theravada Buddhism that came from Siam, giving rise to changes in
Cambodia’s philosophical and religious orientations.

It has been largely suggested that the purpose of the
southward change of the capital was on account of frequent Siamese
invasions. On the other hand, some argue that the purpose of moving the
capital to the south was to come closer to the sea so that its location
became more convenient for trade with foreign countries. The aim of this
presentation is not to disregard the above-mentioned hypotheses, but rather
to probe all possible factors for reconstructing the missing parts of
Cambodian history. In addition to earlier hypotheses, this study attempts
to consider other factors that can contribute to the reconstruction, among
which agriculture is a main factor.

Thus, I would like to propose a working hypothesis that three major factors
weighed heavily in the decision on the move of the Khmer capital.

1. A political factor, which can be internal (such as the usurpation of a
reign, or dispute over the succession to the throne), or external (such as
the collapse of power due to either a single or a long series of foreign
invasions). Presumably both were often combined.

2. An economic factor, mainly in the field of trade, such as a desire to
find a new fluvial anchorage or develop an existing one in relation to
other river or maritime ports, both national and international.

3. An economic factor, in particular of agricultural nature, in the form of
a desire to reclaim additional or long deserted land.

This study is principally based on information gained from the Cambodian
Royal Chronicles in Khmer, Rājabaṅsāvatār, with reference to a variety of
external sources. On-site field research was also carried out to discover
examples of archeological remains and geographical aspects.


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