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2018年度第1回関東例会(4月21日)のご案内

東南アジア学会の皆様

2018年度最初の関東例会を4月21日(土)に開催いたします。
今回は、津田浩司会員による「日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究」と、
佐藤章太会員による「ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

日時:2018年4月21日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト4階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
題目:日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学経済学部・名誉教授)
<報告要旨>
『共栄報(Kung Yung
Pao)』は、日本軍政下のジャワにおいて華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑社会の言語状況を反映し、華語(中国語)版とマレー語版とが別々に出されていた。本報告は、これまでその存在は言及されることはあっても、本格的に研究されてこなかったこの『共栄報』について、インドネシア国立図書館所蔵の原資料、および関係者の回想録を含む各種資料に基づきつつ、解題を加えるものである。
報告ではまず、『共栄報』が読者対象としたジャワの華僑社会とはいかなるものであったのかを大掴みで理解すべく、日本軍政が始まる以前の新聞等メディアを通した彼らの言論活動の状況について確認する。次いで、軍政下の情報統制の概要、および『共栄報』発行の経緯や編集体制等について明らかにする。最後に、『共栄報』の紙面の特徴について、原資料の撮影データを示しつつ指摘する。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:佐藤章太(東京大学大学院・博士課程)
題目:ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~
コメンテーター:岩月純一(東京大学大学院総合文化研究科・教授)
<報告要旨>
ベトナムは歴史的に漢字文化圏に属したため、ベトナム語は現代に至るまでに非常に多くの漢語由来語彙を受容しており、その中でも体系的な漢字音で読まれる「漢越語」は、高級語彙や専門用語に多い。しかし、現代ベトナム語は漢字を使わず、アルファベットを用いており、かつては漢字で書かれた漢越語は意味面や文法面など様々な面で、土着化(ベトナム語的特徴を持つ変化)を起こしている。
本発表では、ベトナム中等教育の教科書に掲載されている数学用語を体系的に分析することにより、専門用語の漢越語においても、土着化現象が起きていることを指摘する。特に意味面では、ニュアンスの付与・意味明白度の違い・意味内容の変化について、文法面では語順の逆転について述べる。また、ベトナム人によって新たに創出された「越製」漢語についても指摘する。

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて簡単な懇親会を予定しております。

ご不明な点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください([at]を@にして下さい)。
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2018年度関東例会発表報告者募集

東南アジア学会会員のみなさま

2018年度も東南アジア学会関東例会をよろしくお願いします。

さて、関東例会では下記のとおり、2018年度の報告者を募集いたします。多くの方々のご応募をお待ちしています。特に締め切りは設定していませんが、早目の申し込みをお願いいたします。

■2018年度東南アジア学会関東例会報告者募集
・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長い持ち時間が与えられます。討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイトに掲載されます。ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用ください。
・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。
コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身で依頼していただくようお願いします。(どうしても探せない場合は担当理事までご相談ください)
・これまでの報告事例については関東例会ウェブサイトをご覧ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■2018年度の関東例会 開催日程・場所
2018年4月21日(土)4F セミナールーム
2018年5月19日(土)4F セミナールーム
2018年10月27日(土)5F セミナールーム
2018年11月17日(土)4F セミナールーム
2019年1月26日(土)5F セミナールーム

毎回13時30分開会、17時45分閉会。1回につき2報告

■会場
・東京外国語大学・本郷サテライトです。
・住所:〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
・TEL&FAX:03-5805-3254
・アクセス:地下鉄(丸ノ内線・大江戸線)本郷三丁目駅下車徒歩5分
・会場へのアクセスは以下をご参照ください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■報告・コメント・討論の時間
・報告者は1回につき2名、途中に休憩をはさんで、それぞれ報告60分、コメンテーターによるコメント10分、フロアからの質問と討論50分を予定しています。

■応募方法
・関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレスの東南アジア学会関東地区担当・宮田敏之まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込みください。

関東例会連絡用アドレス:kanto-reikai☆tufs.ac.jp (☆マークは@に変えてください)

<記載情報>

・氏名と所属
・発表を希望する日を第2希望まで
・報告題目(仮題目可)および報告要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(Windowsノートパソコン、プロジェクター、レーザーポインターのご用意が可能です。その他の機材についてはご相談ください。)

■応募の取り扱い
・報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、報告の日程についてご希望に添えない場合があります。また、要旨については書き直しをお願いする場合もあります。ご了承ください。
・グループによる申請(ミニ・シンポなど)も受け付けていますのでご相談ください。

■報告記録
・関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等について、1200字から1500字程度でまとめたものです。
・報告記録は、報告者ご自身でまとめていただくか、あるいは報告者ご自身で報告記録者を選びご依頼いただくようお願いいたします。

■懇親会
・例会終了後、簡単な懇親会を開催いたします。

■関東例会ウェブサイト
・関東例会のお知らせ、予定、報告記録を随時掲載しています。ご活用ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■問い合わせ
・宮田敏之(関東例会担当、東京外国語大学) tmiyata☆tufs.ac.jp
・関東例会委員 kanto-reikai☆tufs.ac.jp(☆マークは@に変えてください)

2017年度第4回関東例会(2018年1月27日)議事録

1月27日に開催されました、2017年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

今回は「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」と題したシンポジウム形式で行いました。
プログラムは以下の通りです。

13:30~13:50 趣旨説明:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)
13:50~14:35 第一報告:西本太(長崎大学熱帯医学グローバルヘルス研究科・客員研究員)
「ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者」
14:35~14:45 質疑応答
14:45~15:00 休憩
15:00~15:45 第二報告:小島敬裕(津田塾大学学芸学部・准教授)
「ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して」
15:45~15:55 質疑応答
15:55~16:10 休憩
16:10~16:30 コメント:下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科・助教)
16:30~17:45 総合討論

(1)シンポジウム企画趣旨説明
報告者:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)

発言1
・プロジェクト全体として「被戦争社会」という概念をつかう意義はなにか。「社会史」でいいのではないか。各地域の共通項を見出せるのか。
(回答)この研究会で議論してきた結果,ミャンマーの戦争とインドシナの冷戦型の戦争とは大きく異なると認識している。「社会史」の中でも,国家建設や市場化などではなく,「戦争」に焦点を当てることに意義がある。
(コメント)「社会史」というより一般的な概念を用いることで,他地域と比較もできるようになるのではないか。

発言2
・研究会として,戦争の規模や実態が異なる中で多地域を比較した結果,見えてきたイメージがあれば知りたい。
(回答)各地域で戦争と地域住民の対応としてどのように整理できるか,については,研究会で議論を行っている最中であり,今後の大きな研究課題である。

(2)第1報告
西本太(長崎大学・熱帯医学グローバルヘルス研究科)
題目:ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者

発言1
・ベトナム語で同じ人にインタビューみたら,ベトナム人としての面が見えてくるかもしれない。彼はどんなアイデンティティをもっているのか?

(回答)奥さんがラオ人,子供もいるし,他のラオ人と同じようにしか見えなかった。詳しくは聞いてみないとわからない。

(3)第2報告
小島敬裕(津田塾大学・学芸学部)
題目:ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して

発言1
・ホールーが,中国に移住することは容易か?
(回答)国境100km以内は移動が自由。村からの許可があれば移住も可能。
・TNLAが求める自治権とはなにか。本来の目的は何か。
(回答)現在のように表面的な「自治権」ではなく、自民族による統治が目的であると主張されている。こうした主張の他に具体的な目的,利益があるかもしれないが多説あり,何が本当かは,わからない。連邦制に向けて今後どうなるか,注目される。

発言2
・ミャンマーにとどまって逃げない人の理由は何か。
(回答)村人は,茶畑を持っている。労働力として,あるいは財産を守るために誰かが残る必要がある。兄弟が交代で村外へ出て行くこともある。
・貧しい人がより徴兵されるのか。
(回答)徴兵はくじ引きで行われるが,裕福な人はお金を出して徴兵を代わってもらう。結果として貧しい人は徴兵を逃れる手段を持たず,徴兵される傾向にあると言える。

発言3
・軍部の下部組織の行動について,ミャンマー政府はどう思っているのか。また,タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げている理由は何か。他地域も同じように麻薬が資金源になっているが,他地域と異なる点は何か
(回答)2016年に新政権が誕生したばかりで, 現状では,政府は国軍に口出しできず,コントロールしきれていない。タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げる理由は,仏教の信仰と民族を守るため,というのが彼らの主張である。海外からの支援が目的かもしれないが,真相は不明である。

(4)コメンテーターによるコメント(抜粋)
下條尚志(静岡県立大学国際関係学研究科・助教)

(瀬戸報告および全体へのコメント)
・本研究は,20世紀後半の大陸部をどう捉えるのかを考察するうえで興味深い。ベトナム南部の村落で研究してきた視点からコメントすると,これまでベトナム戦争は,海外ジャーナリスト,現地エリート,海外在住のベトナム人,カンボジア人,ラオス人,ミャンマー人等によって語られてきたが,文字を残してこなかった人々の視点(村民,少数民族など)が欠けていた。地域住民の語りから戦争を理解することに重要性がある。一方で,大きな歴史と各事例をどのように結びつけるのか,という課題が残る。
・南ベトナムでは,ベトナム戦争以前に,クメール人対ベトナム人の民族対立が先にあった。冷戦的な構図にあてはめることで,元の問題が見えなくなる可能性がないか。
・タイは,ベトナム,ラオス,カンボジアから避難民の集まるところで,ゾミア的な意味合いがあったのではないか。

回答(抜粋)
・ラオスの事例でも,もともとの村の対立構造が戦争時に表面化した場合がある。
・タイは,自国の防衛のために政策的に難民を受け入れたと考えている。

(西本報告へのコメント)
・レーヴィアットムアン氏は,なぜ政治,戦争に参加したのか。
・宣撫工作期・協力を得る時期・徴兵,食糧調達期,それぞれで状況が異なっていたのではないか。
・ラオス王国政府側が,敵方による民族工作と似た政策を打ち出すということはあったか?
・カトゥ族にとってベトナムに協力することによるメリットはあったのか。

回答(抜粋)
・当時の若者は,カオダイにいかず,ベトミンを選択したという主張に,何か特別な意味があったのかもしれない。
・時期の変化とともに,ベトナムによるラオス側への働きかけにも地域差もある。今後整理していきたい。
・ラオス王国政府側も,少数民族に働きかけようとしていたと思う。
・カトゥにとっての協力のメリットについては,今後の研究課題である。

(小島報告へのコメント)
・普通の山地民にとっての国家とは何か。少数民族軍は,少数民族の人々にとって「国家」のような存在なのか。
・山地民は,国民国家成立以前に政治組織を作らなかったのか。
・なぜ山地民が武装化したのか。国民国家に編入される過程で,少数民族の組織化が進んだと理解してよいか?
・1950年代以降に,山地がゾミアでなくなったのか。

回答(抜粋)
・一般の山地民にとって,国家はやはり「ミャンマー」である。彼らは,同じ国家の中で,戦争する意味がわからない,という認識を持っている。
・国民国家成立以前に,山地民タアーン(パラウン)に藩王を頂点とする政治組織があったのは先行研究でも明らかである。ただ,そうした政治組織があったのは、シャン州ナムサンを中心とする地域のみである。
・少数民族地域で藩王が退位させられ,権力を失い国家に取って代わられる。そうした過程で,自治権を求める少数民族の武装組織ができあがった。
・1950年代以降も,山地で国家の統治が及んでいない地域もあるが,実態は不明である。

(文責:瀬戸裕之)

2017年度第4回関東例会(1月27日)のご案内


2017年度第4回関東例会を下記の通り、開催いたします。

今回は「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」と題した
シンポジウム形式で行います。詳細は以下をご参照ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

日時:2018年1月27日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

シンポジウム
「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」

プログラム
13:30~13:50 趣旨説明:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)
13:50~14:35 第一報告:西本太(長崎大学熱帯医学グローバルヘルス研究科・客員研究員)
「ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者」
14:35~14:45 質疑応答
14:45~15:00 休憩
15:00~15:45 第二報告:小島敬裕(津田塾大学学芸学部・准教授)
「ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して」
15:45~15:55 質疑応答
15:55~16:10 休憩
16:10~16:30 コメント:下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科・助教)
16:30~17:45 総合討論

要旨を以下に掲載させていただきます。
-------------------------
「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」

企画の趣旨:
現在,東南アジア大陸部は,1980年代以降の和平の進展と市場経済化の導入,1990年代以降のASEAN地域統合の展開を受けて,人々の生活や社会が大きく変化を遂げつつあります。しかし,ミャンマーなどでは独立後間もなくの時期から少数民族地域において紛争が継続し,インドシナ地域では1960年代,1970年代から1990年代前半まで,ベトナム戦争・カンボジア紛争をはじめとする国際紛争に巻き込まれるなど,長期に渡って戦争の被害や影響を受けた地域であるといえます。さらに,地域住民にとっては,戦火からの避難,生活の破壊や社会の分断,住民構成の変化などが生じ,その後の人々の生業や地域の社会形成にも大きな影響を与えたのではないかと推測されます。
「東南アジア大陸部の被戦争社会の変容とレジリエンス」研究会は,東南アジア大陸部を,戦争によって社会形成が大きな影響を被った地域(=被戦争社会)として位置付け,戦争下での地域住民の生存,戦後の生活再建などを考察することにより,戦争と地域住民との間のかかわりと,戦争が住民の生活・生業など社会変化に与えた影響を明らかにすることを目的とした研究を行っています。本研究の視点の特徴は,第1に,国レベルより下の地域・村レベルでみたときに,戦争が地域の人々にどのような影響を与えたのかを考察し,第2に,戦争中・戦争直後の人々の被害だけでなく,その後の生活・生業変化を考察することにより,戦争の影響を受けた人々の生存戦略が社会形成に与えた影響について再考することを課題としている点です。
本日の報告では,冷戦の影響を受けて激しい戦争が行われたラオス南部の事例と,低強度であるが長期にわたって紛争が続けられてきたミャンマー少数民族居住地の事例を報告し,戦争と人々の生存戦略が地域に与えた影響について議論したいと考えています。

(1)西本太(長崎大学・熱帯医学グローバルヘルス研究科)
発表題目:ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者

要旨:
ラオス南部とベトナム中部にまたがる国境周辺の山地では,第二次世界大戦の終結直後から,インドシナの共産主義勢力による拠点化が始まった。その拠点化が後のホーチミントレイルの基盤となった。当時の山地が国家権力の空白地帯だったわけではなく,統治システムが曲りなりにも根を下ろしていたため,共産主義側兵士の浸透は一筋縄では行かなかった。また,平地からきた共産主義側兵士にすべての住民が協力したわけではなく,むしろ米軍によるホーチミントレイル爆撃に一方的に巻き込まれ被害を被っただけの住民も多数あった。それでも,山地社会の協力者を獲得したことは,国民国家建設の大義にとって重要だった。この発表では,共産主義勢力と山地住民の相互関係に着目し,共産主義勢力が山地社会にどのように浸透をはかり,また一部の住民がどのように協力していったかを,当事者の回想から明らかにする。

(2)小島敬裕(津田塾大学・学芸学部)
報告題目:ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容—少数民族パラウンの生存の技法に注目して

要旨:
ミャンマーでは独立以降,国軍と少数民族軍の間で戦闘が断続的に発生してきた。本発表では,現在まで戦争が継続する中国国境周辺の少数民族パラウンとシャンに注目し,村人たちの戦争からの生存の技法と,それが地域社会に与える影響を明らかにする。調査は,2015年から2017年にかけて,シャン州,カチン州を中心に行った。
調査の結果,明らかになったのは,農村部の村人にとって自民族軍からの徴税・徴兵の被害が深刻だということである。中でも民族州内のマイノリティーは,国軍や州内の多数派民族軍からも含む多重の抑圧を受けている。これに対して村人たちは,出家,若年結婚,戸数詐称など様々な技法を用いて生存を図る。また他地域や都市への移住も頻繁に起こるが,その際には親族や知人のネットワークをたどる他,民族内での相互扶助も行われる。移住先は,開発が進む中国雲南省にも拡散しており,これらの活動が国境周辺地域に変容をもたらす要因ともなっていることを示す。

コメンテーター:
下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科)

2017年度第3回関東例会(2017年11月25日)議事録

11月25日に開催されました、2017年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告
報告者:小田なら氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員)
題目:「北ベトナム(1954~1975)の医療制度整備における「ベトナム伝統医学」の創出」
コメンテータ:板垣明美氏(横浜市立大学・准教授)

板垣明美先生のコメント(抜粋)
・植物資源・技術、政治・制度、実践が相互作用し、「伝統医学」が創出されたことが資料をもとに丁寧に検討されていた。
・社に診療所が建設され、薬草園が作られる様子が数値で見えたが、その信憑性は別の問題。当時の実践は、現在どのように活用されているのか。
・西洋医療、北薬、南薬、鍼灸、マッサージなどが集積した制度的東医はベトナムに特徴的。
・病院での治療例の数値も重要な資料だが、評価の項目に、悪化・変化なしという項目がない点をどう理解すべきか。病気の種類別の表があれば、治療面での特徴が引き出せるだろう。
・中国系ベトナム人と西洋医のベトナム人の調和は難しかったと推測できる。診断法の違いから、中国系東医にとって西洋医が南薬北薬を使用するのは複雑な気持ちだっただろう。
・ベトナムの伝統医療が科学化(科学的な装いの試み)しつつ東医に集積した例は、日本などと比較研究の可能性がある。
・少数民族の貢献は今後の課題。
回答(抜粋)
・現在、社の診療所・薬草園での南薬栽培は盛んとは言えない。制度化された「伝統医学」は、病院の伝統医学科・伝統医学専門病院で主に実践されている。
・病院での実践についての数値はそのまま事実と判断できないが、少なくとも、総合病院の伝統医学科での治療を試みていたことがいえる。今後、疾病別に表を作成し、傾向を読み取りたい。

発言1
1)少数民族の医療は制度化されたのか。
2)コメント:阮朝期1820年頃以降の資料には、交易品について南貨・北貨・西貨という区分が見られる。この頃から南・北・西の三分法の世界認識が形成されたのでは。
回答1
1)北ベトナム時代には、保健省が北部少数民族に伝わる薬草の治療法を収集していた。南北統一後に、「ベトナム民族」の「民族医学」として医療制度内に包摂されるようになった。

発言2
中国では中華人民共和国期から気功が中国医学の柱となっているが、ベトナムではどうか。
回答2
気功や太極拳の呼吸法を応用した治療が存在し、伝統医療の一つとされる。しかし、大部分が薬の治療である。

発言3
1)北ベトナム時代に薬が不足した時期、ソ連・中国からの援助はなかったのか。
2)伝統医学の「科学化」とは、どのような方向を指すのか。通常考えられる西洋化ではないなら、中国化という要素も考えられるのか。
回答3
1)伝統医学に関しては中国からの援助があったはずだ。しかし、中国国内でも中国医学を制度化する時期だったため、国外へ薬を送るほどの大規模な生産体制はなかったと考えられる。
2)西洋と中国双方の影響下からの脱出を図りながら、当時の科学技術によって効能が証明できる治療を蓄積していく過程と考えている。

発言4
1)伝統医学をめぐる制度整備により、結局何が起きたのか。
2)発表タイトルの「創出」は、何を指すのか。
回答4
1)「迷信・異端」とされるものが排除され、保健省をはじめとする国家が規定する伝統が規定されたといえる。
2)伝統が創出された過程の動態(誰が何を伝統とし、いかなる社会背景によって変化するのか)ということを示したかった。

発言5
制度内の「伝統医学」から、ローカルな実践は排除されたのか。また、それは制度化された医療と無関係に残ってきたのか。
回答5
「迷信・異端」は排除されたが、薬草治療に関しては、ローカルな実践から「科学的な」知見を取り入れようとしていた。一方、家庭内などでの薬草治療は、国家が実践を管理することも、積極的に後押しすることもなかった。

発言6
(コメント)「科学化」は、科学によって証明され得るか否かという基準ではなく、イメージとしての科学と考えるのが妥当ではないか。


第2報告
報告者:吉川和希氏(大阪大学文学研究科博士後期課程)
題目:「十八世紀のベトナム黎鄭政権と北部山地―諒山地域の在地首長の動向に関する分析を中心に―」
コメンテーター:武内房司氏(学習院大学・教授)

●武内房司先生のコメント
・発表者の使用史料は禄平州の韋氏が黎鄭政権との関係を構築するために作成した行政文書であり、他首長の動向も考察する必要がある。そこで発表者が取り上げた首長と異なる動きを知る手掛かりとして、『清実録』中の藩臣纉基(韋福琯)の反乱に関する記事を紹介する。今後中国側の史料とベトナム側の史料を突き合わせていく必要がある。
・西北地域では流入する華人に対して在地首長が積極的に対応していたが、黎鄭政権に与した在地首長のその後の動向や在地社会の変容の分析は可能か。
・一方では黎鄭政権に与する首長がおり、他方では黎鄭政権に対抗できる勢力との関係を維持することで地域のヘゲモニーを目指す首長がいる。複数のポリティカルセンターが存在する時に状況を見ながら対応する柔軟な戦略は、西北地域のタイ族首長と同様ではないか。

●発表者の回答
・藩臣纉基については今後さらに検討していく必要。
・移民の流入による在地社会への影響について、19世紀初頭に作成された地簿にはほとんど藩臣が出現しないため、大量の移民が流入すると藩臣の経済基盤が動揺したのではないかと推測している。

●発言者1
(質問)
・藩臣というと自立的なイメージがあったが、地方官は藩臣に対し強い力を持っていたと見るべきか。
・黎朝末期に諒山地域の藩臣はどのように対応したのか。
(回答)
・諒山地域の藩臣が王朝権力からの圧力を受けており、従来の在地首長イメージとは異なることには同意。ただどこまで一般化できるかは難しい。東北地域の藩臣には当てはまるかもしれない。
・おそらく諒山地域の首長は黎朝を支持したと思われる。

●発言者2
(質問)
・在地首長が中国と関係を持つことはなかったのか。
・清朝はこの地域の情報を把握していたのか。
(回答)
・黎朝に帰属している集団が清朝に帰順しようとする事例があったかどうか不明だが、可能性としては考えられる。
・清朝から黎朝に大量の華人が流入していた時期であり、かつ黎朝における動乱の情報も清朝の地方官に伝わっていたため、その影響が及ばないように通交を管理しようとしていた。

●発言者3
(質問)
・藩臣の財政基盤は何か。地理的には交易があると思うが、農業もあるのか。
(回答)
・農耕と交易の双方がある。

●発言者4
(質問)
・諒山地域に鉱山はあったのか。
(回答)
・鉱山はあったが西北地域と比べると小規模だと思われる。

●発言者5
(質問)
・ベトナム国内の研究状況はどうか。
(回答)
・独立後まもない時期から、山岳地帯の少数民族のベトナム国家への取り込みという視点から調査がおこなわれてきた。現在も在地民の主体性や生存戦略を明らかにするという視座は弱い。

●発言者6
(質問)
・頻発する反乱の背景に王朝権力の締め付け以外の要素はあるか。
・兵と民の管轄が頻繁に承認されていた背景は何か。
・率礼社韋氏の管轄の削減の話があったが、その背景と結末はどうか。
(回答)
・大量の移民が流入する一方諒山地域には大規模な鉱山がなく、限られた資源をめぐる利害対立が反乱につながった可能性はある。
・動乱の発生により藩臣の立場も不安定となっており、黎鄭政権も税収確保のため藩臣の管轄を頻繁に確認していたと思われる。
・従来率礼社韋氏が管轄していた社を「内鎮」に組み込むということだが、「内鎮」が「諒山鎮官が直接管轄する地域」という解釈で間違っていなければ、諒山鎮官がより確実にそれらの各社からの税収を確保しようとしたのかもしれない。事件の結末は史料には残っていないが、おそらく管轄が減少したままだったのではないか。

●発言者7
(質問)
・『清実録』に韋福琯が殺された後に族人がまだ禄平州を管理しているという記述はあるが、このようなことはあり得たのか。
(回答)
・直接的な答えではないが、韋福某は屈舎社韋氏かもしれず、もしそうだとすれば屈舎社韋氏の内部で利害関係の対立があったかもしれない。


2017年度第2回関東例会(2017年10月28日)議事録

2017年10月28日(土)に開催されました、2017年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:石橋弘之(早稲田大学人間総合研究センター・招聘研究員)
コメンテーター:丸井雅子(上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科・教授)
報告題目「カンボジアにおける交易品の産地形成-カルダモン産地の開拓史再考」


コメンテーターのコメント
 本報告は博士論文の一部である。歴史学の方法で近現代の資料を検討し、フィールドワークで現在の人の記憶、慣習を広く検討した。堅実な調査と分析による実証的研究である。カルダモン産地は流動的な地域であり、様々な状況で、広くなったり、狭くなったりする。地域の総合的理解を目指して様々なトピックを展開した。時系列に沿った論述から全体史を構成し、個別の事象の深層を掘り下げた。
 北川香子氏は、カルダモン山脈西側、パイリンの興隆史の研究で、その独自の自治体制や、単純に中央と周縁の対立に還元できない視点を提示した。この視点と本報告の視点は通じる。
 カルダモンは、西側に向かってはパイリンを経由しタイと繋がり域外の需要に応える商品であり、一方で南に向かってはカンボジア王権への貢納品にもされた。カルダモン産地は、地域を跨ぐ多方向のネットワークをもっていた。本報告は、流通や消費を望んだ王権の視点とは異なり、生産地に立脚した成果を提示した。
 今後は多角的な情報から中心と周縁の関係を再考する研究が求められる。

報告者の回答
 博士論文の補足説明。カンボジア研究は、中央部を対象とする研究と、山岳森林地域を対象とする研究は別々に進められてきた傾向があり、双方の地域の関係は、中心と周縁の二項対立や政治的対立に還元されてきた。博士論文では、山岳森林地域を対象としつつも、中央部の研究も参照して、人々が地域間を移動し交流してきた歴史を描いた。

質疑応答
Q1-1.植民地統治下の村長や区長の行政職者は、中央から派遣された人か、地元の人か?
Q1-2. カルダモン産地の人と、植民地行政との間で、どのように通訳を行ったのか?
A1-1. 植民地期は、地元の人が主に担当した。独立後は中央から派遣された人も担当した。
A1-2.フランス人民族学者の調査時は、地元の言葉からクメール語へ翻訳した。その上で、クメール語からフランス語へ翻訳した。地元の人はタイ語も話した。

Q2-1. 現地の人が語った「私たちの領土」は、何を意味するのか?
Q2-2. 今後は18世紀以降を対象としたリードの研究に位置づける展開を考えているのか?
A2-1.「領土」が何を意味するかは未確認。自分たちが住む身近な地域のことと思われる。
A2-2. 本研究を、東南アジアの歴史研究の議論にどう位置づけるかは、今後の課題。

Q 3-1. カルダモンの中国語表記は?
Q 3-2. 伝承の為政者は、王権そのものを指すのか?
A3-1. 『真臘風土記』によると「荳蔲」。『考証 真臘風土記』によると「白豆蔲」。
A 3-2. 王権そのものなのか、代理人なのかは、さらに検討が必要。

Q4.開拓の伝承は、植民地支配の言説から影響を受けていると論じたいのか?
A.4 事実レベルと解釈レベルを区別する必要がある。事実レベルでは、さらに検証が必要。解釈レベルでは、植民地史観に基づく解釈を再考して、地域の歴史を理解しようとした。

Q5-1. 3つの地域を調査地とした理由は?
Q5-2. 行政の関与の地域差と、カルダモン生産量の規模は関連するか?
A5-1. 開拓者は古代アンコール地域から来たと解釈された伝承の出所となったTT区は、その解釈の妥当性を確かめる対象とした。その解釈を他地域にも一般化しうるのかを確かめる際に、カルダモンの名産地OS区、カルダモンの情報が少ないRC区も対象とした。
A5-2. 行政と旧体制の自治が併存したOS区は、相対的に、生産量は多い。

Q6 1830年代、カルダモンは、産地からどこへ流通したのか?
A6.タイのチャンタブリーへ流通するルートがあった。
Q7.メコン川を経由したカルダモンの流通は?
A7. 二次資料からは確認している。

Q8. カルダモンは塗り薬の原料か?現地の人の消費の仕方は?どんな漢方薬に使った?
A8.タイガーバームの類似品の原料になると聞く。食べ方は、果実を、煎じて飲む。葉や茎を酒のつまみや、スープの材料にする。中国では、広東省などで蒸留、瓶詰にされた。

Q9. 栽培技術の向上はあったのか?狩猟採集に適した栽培方法はあったのか?
Q9. 栽培技術の向上の有無は未確認。生育過程を見張るなど、最小限の手入れをした。

Q10. 「カルダモン山脈」の地名は、どのように名づけられたのか?もともとカルダモンが生育した地域に、何らかの価値を求める立場が、地名を与えたのか?
A10. 19世紀前半から20世紀中頃までの「カルダモン山脈」の地名が指す地理範囲の変遷を文書資料から整理すると、その地理範囲は、徐々に広がっていた。これは植民地期にカルダモンに商品価値が見出され、産地が広がった過程とも対応する。

Q11 解禁日は、カルダモンの植物の性質と、指導者の地位、どちらを重視して決めたのか?
A11両方。雨季に果実が成熟する時期に解禁日を定めた。複数のカルダモンの森が隣接する場合は、より早く果実が熟す森の持主は、その他の持主よりも社会的地位は高かった。

(文責:石橋弘之)


第2報告(15:45~17:45)
報告者:工藤裕子(立教大学アジア地域研究所 研究員)
題目:「オランダ領東インドへの日本製品輸出と華人流通網-20世紀初頭のジャワ市場におけるマッチを中心にー」
コメンテーター:陳来幸(兵庫県立大学経済学部 教授)


コメンテーターのコメント
 アジア各地では20世紀初頭に商会(中華総商会)の発足が広まったが、オランダ領東インドの華人は国籍問題や中華ナショナリズムなどを背景にいち早く反応し、域内華人の連携を推し進めた。一方、日本の中華総商会の有力華商のうち梅県からバタヴィアに移り、神戸に人材を派遣した複数の一族の存在が近年明らかにされてきた。本報告で挙げられたバタヴィアのマッチ貿易者はまさにこれらの一族であり、神戸とバタヴィアの結びつきを商業活動の側面から考察した点が評価できる。
質問
・報告者がこれまで研究していたスマランの福建系と、広東・客家系華人が活躍したバタヴィアでは背景がどのように異なり、またスラバヤはどう位置づけられるのか。日本マッチの中心的な市場であったスマランでは、どのようなルートでマッチが流通したのか。
・ジャワの市場はなぜ、スウェーデン製と日本製の分水嶺となったのか。マレー半島や海峡植民地との違いは植民地宗主国の政策によるものか。

報告者からの回答
 スマランでは福建系のアヘン専売請負商が貿易商へと転換して勢力を温存し、砂糖などの産物取引と併せてマッチも扱った。一方、バタヴィアでは旧来の福建系は私領地取得を通じて地主化し、客家系華人が貿易や流通に参入する余地が大きかったといえる。バタヴィアやスラバヤはヨーロッパ系商社の力も強く、スマランに比べて華商による貿易量は少ない。日本の商社は中部ジャワの流通を握るこれら福建系との提携を模索し、台湾籍民との関係もこの流れで捉えられる。このように経済面からみると、バタヴィアとスラバヤの客家系華人は活動の連動性があるのに対して、スマランは独自の商圏が存在していたと考えている。
 ジャワの市場が分水嶺になった理由は、輸送コストを含めたスウェーデン製と日本製の価格が僅差だったためであり、日本製はジャワとインド以西では価格競争力がなかった。植民地統治上の制度上の違いについては、ジャワ以外の地域について今後さらに調べる必要がある。

その他のコメンテーターからの質問
Q:第一次世界大戦期の前半に日本製マッチが減っているが、なぜなのか?
A:日本製が急増したのは、ヨーロッパとの航路が絶たれた1917年以降であり、それ以前の減少は原料調達面などの国内の要因と考えられる。

Q:ニーロップ社による商標登録について、日本で登録後にオランダ領東インドでも登録しなければなかったのか?
A:日本では登録された商標のみ輸出が認められたが、輸出先には効力は及ばず、改めて現地で商標登録をする必要があった。同社は、華商との対抗上、同一の商標を先願することで華商による輸入の排除を試み、華商側もそれまでは商標の権利に関する意識は低かった。

Q:スウェーデンの商標が1910年頃からローカルを意識し始めたのは、日本製との競合によるものなのか。
A:日本も同じ時期にローカルを意識した商標を投入し始めている。どちらが先か分からない。1910年頃は両者の競合が激しくなった時期であり、互いの人気商標を剽窃する行為もみられた。

その他の発言者
Q:スウェーデン製マッチの流通は誰が担っていたのか。
A:スウェーデン製はほぼ1社が製造を独占しており、英蘭系の商社数社に限定して販売代理権を与えていた。しかし、輸入後は華商の卸売業者、小売業者に依存していた。

Q:ライターはそう簡単にはマッチに代わらないのではないか。どれほど普及していたのか。また、ジャワ以外でも日本製マッチは衰退したのか。
A:ライターは日本製マッチ衰退のひとつの要因である。当初はドイツからの輸入品だったが、1910年代半ばから現地生産に移行し、地場産業として発展した。かなり安価に普及できたのではないかと推定している。ジャワ以外でも日本製マッチは衰退しており、1920年代半ば以降に日本製造業者がスウェーデン資本の傘下に入り、競合地への輸出が阻止されたことが大きい。

Q:インド向け日本製タイルの輸出でも、デザインの模倣などがみられる。実際にマッチ商標のデザインを企画していたのは誰なのか。
A:日本での初期の段階では、中国での市場を視野に華商が製造業者に対してデザインを指定していた。ジャワの独自商標の場合は、製造業者側から提案したものを販売者が選択した、または市場をよく知る販売者がデザインを指定した可能性がある。ワヤンの図柄などは、茶や綿布などの多様な商品にも利用されている。

Q:商標の印刷はどこで行われたのか。マッチ自体の製造や箱詰めなども日本で行われてから輸出されたのか。
A:印刷は日本で行われていた。各種報告でラベルの箱貼りの状態の悪さや本数のばらつきなども指摘されており、すべて完成した状態でジャワに輸入されていた。

Q:日本製とスウェーデン製の価格差はどのくらいだったのか。
A:価格差はわずかであったが、1箱当たりの本数が異なり、スウェーデン製は軸木が太く本数が少なかった。日本製は細軸のために本数が多いが、折れやすいなどの問題もあり、消費者も随時使い分けていた。スウェーデン製マッチが価格を下げると即座に影響が出たといわれる。

Q:日本製造業者の進出に対して華商からの反応はあったのか。
A:日本製マッチの最盛期となった第一次世界大戦後期以降、商標から「Made in Japan」の表記が減少する。これはスウェーデン製との類似性を打ち出すことや、日貨排斥を意識したものと考えられ、流通を担う華商が売り易い商品を投入する意向が日本側にもあったとみられる。

Q:神戸や香港に拠点を持っていた広東・客家系華人は、ジャワからは対価として何を輸出していたのか。
A:元々は中国貿易を行っており、生薬や香木などを輸出していた。送金網を張り巡らすことによって、ジャワと中国、香港、日本の間で決済網が構築されていたと考えられる。具体的な商品の循環については、今後さらに調査を進めたい。

(文責:工藤裕子)


2017年度第3回関東例会(11月25日)のご案内

11月25日(土)に、関東例会(11月)を開催いたします。
皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2017年11月25日(土)13:30~17:45
場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
*地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

第1報告(13:30~15:30)
報告者:小田なら氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員)
題目:「北ベトナム(1954~1975)の医療制度整備における「ベトナム伝統医学」の創出」
コメンテータ:板垣明美氏(横浜市立大学・准教授)

報告要旨:
 本報告は、南北分断期のベトナム民主共和国(北ベトナム)で保健省が中心となって医療制度を整備していく過程で、伝統医学がどのように公的に定義され、制度内に位置づけられるようになったかを跡づけ、その利用を推進した理由を明らかにする。
 具体的には第一に、治療者の資格と組織が整備され、「科学的」な伝統医学を定義していった背景を明らかにする。第二に、医療現場ではベトナムの薬「南薬」のみならず、中国由来の「北薬」も伝統薬として利用されていた点、同時に鍼灸治療も積極的に用いられていた点とその理由を示す。伝統医学の内実は一貫したものではなく、その時々の実践によって変化していたのであった。これより、ホー・チ・ミンをはじめとした「上からの」改革によってベトナムの伝統医学が公的医療制度内に導入された、というイデオロギー先行の従来の語りに対し、公文書と病院での診療記録などの一次資料を用いて批判・検討を加えたい。


第2報告(15:45~17:45)
報告者:吉川和希氏(大阪大学文学研究科・博士後期課程)
題目:「十八世紀のベトナム黎鄭政権と北部山地―諒山地域の在地首長の動向に関する分析を中心に―」
コメンテータ:武内房司氏(学習院大学・教授)

報告要旨:
 18世紀は東南アジアの「華人の世紀」に当たり、北部ベトナムにも中国内陸地域から大量の華人が陸路で流入し、北部の山地社会に多大な影響を及ぼしたことが先学により指摘されている。一方で18世紀半ばには、流民の大量発生を背景に北部ベトナム各地で動乱が発生したが、それは山岳地帯も同様であった。ただしかかる時代における各地域の実情を多面的に描き出す作業は近年ようやく緒についたばかりであり、北部山地の在地首長たちの対応についても、史料の制約もありこれまで殆ど考察されてこなかった。そこで本発表では、北部山地の中でも諒山地域(現ランソン省)に焦点を当て、現地での史料調査を通して収集した首長一族の家譜や行政文書などを分析することで彼らの動向を考察する。そして、動乱に巻き込まれる中で不安定な立場に置かれた彼らが既得権益の保証のためにベトナム王朝との結びつきを強めていったことを明らかにする。

2017年度第2回関東例会(2017年10月28日)のご案内

10月28日(土)に開催いたします、関東例会のご案内をさせていただきます。
みなさまのご参加をお待ちしております。





*日時:2017年10月28日(土)13:30~17:45
*場所:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
     (地下鉄本郷三丁目駅より徒歩5分 http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)


*第1報告(13:30~15:30)

報告者:石橋弘之(早稲田大学人間総合研究センター 招聘研究員)
題目:「カンボジアにおける交易品の産地形成-カルダモン産地の開拓史再考-」
コメンテーター:丸井雅子(上智大学総合グローバル学部 教授) 

報告要旨:
 本報告では、カンボジアの西方にあり、タイと国境を接するカルダモン山脈を対象に、交易品カルダモンの産地が形成された過程を明らかにする。
 カルダモン山脈は、19世紀の植民地期前後より、カルダモンを特産の交易品とする地域とされてきた。そこに暮らしたモン・クメール系ペアル語派の少数民族の人々は、カルダモンを、カンボジアやシャムの王に貢納してきた。
 一方で、カルダモン産地の形成を論じた民族植物学者マルタンは、植民地史観と本質主義に基づく立場から、産地の開拓は、13世紀の古代に始まり、開拓者は産地へ移住する前にアンコール地域にいたと強調してきた。
 本報告では、19世紀から20世紀中頃に、カンボジア中央部の政治体制が、交易を王権の基盤とする体制から植民地体制へと移行した後に、国民国家として独立した近代の歴史的文脈と、カルダモン産地の開拓者たちが移住先とした現場の文脈をふまえて、その産地の形成過程を再考する。具体的には、カルダモン産地の形成を、開拓の伝承と、栽培による産地の拡大から検討し、その生産に関わる制度の形成を、国家制度と、現場の指導者から検討する。


*第2報告(15:45~17:45)

報告者:工藤裕子(立教大学アジア地域研究所 研究員)
題目:「オランダ領東インドへの日本製品輸出と華人流通網-20世紀初頭のジャワ市場におけるマッチを中心にー」
コメンテーター:陳来幸(兵庫県立大学経済学部 教授)

報告要旨:
 本報告の目的は、19世紀末から1920年代にかけてオランダ領東インドに流入した日本製マッチを通じて、アジア域内貿易における華人の活動を実証的に検討することである。日本はアジアで最も早くマッチの国産化に成功し、明治大正期には域内最大の輸出国となったが、消費地のひとつであるジャワの市場では西から進出したスウェーデン製マッチと激しい競争を繰り広げた。当初この日本製マッチの輸出を担っていたのは、生産地の神戸や香港、シンガポール、ジャワの各地に拠点を持つ華人であった。本報告では、東西の国際商品の競合市場における日本製品の位置づけと華人の貿易活動の関連を明らかにし、輸入・販売事業者の類型化やジャワの市場特性にも言及する。一次史料として、貿易統計や日本外務省記録のほか、流通時期や販売地域、消費者の嗜好を解明するための試みとして現地で流通していたマッチの商標と商標登録の記録を用いる。



ご不明点は、関東例会(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までお問い合わせください。

2017年度第1回関東例会(2017年4月8日)議事録

2017年4月8日に開催されました、2017年度第1回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30) 
報告者:大久保翔平(東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻アジア史専門分野博士課程)
題目:「東南アジア島嶼部におけるアヘン消費の広まり―17世紀後半から18世紀半ばを中心に―」
コメンテーター:弘末雅士(立教大学文学部教授)

■コメント
 評価点。①明確な先行研究の総括と問題点の提示。②史料から具体的な描写を抜き出した、網羅的な議論の組み立て。③A・リードの設定する「商業の時代」後も華人を含む現地商人による東南アジア域内の交易が盛んであったことを示唆する議論。報告はアヘンの流通と消費における現地の動向を示した。
 質問。①現地王権によるアヘン制限の動機について。王権がアヘンを禁止したというのは建前で、実際には販売を独占し、利益を守ろうとする動きとは考えられないか。②ヨーロッパ系住民の動向に関して。19世紀には欧亜混血者がアヘンの売り子として否定的に言及されることがある。ヨーロッパ系住民によるアヘンへの眼差しはどんなものであったのか。

◇報告者の応答
①その可能性には検討の余地がある。一方、統計的にはそれまでアヘンが制限されていた地域で18世紀半ばまでにアヘン貿易が拡大している。特に、バンテン王国のスルタンはアヘンを重要な税収源とするようになった。
②現時点では、ヨーロッパ系住民が利益をもたらす商品と見ていたことを指摘できる。また、1720年代、バタヴィアのアヘン密輸でもヨーロッパ系女性が関与したという事例がある。

■フロアからの質疑と応答
質問1 C・トロツキの華人移民労働者がアヘンを消費したという議論とはどう関係するのか。
回答1 報告者が重視するのは、トロツキの述べた事象が、それ以前から華人や現地人の鉱山夫や胡椒・サトウキビ農園労働者の事例で観察できるという点である。これはトロツキやリードが重視する要素が、それ以前からあったことを示す。

質問2 コメント。少なくとも18世紀後半、バンテン王権に利益を独占する意図があったとは考えにくい。アヘンに限らず独占を強行すれば、反乱を免れないほど王権は弱体化していた。アヘン流通を徴税請負で認め、財政基盤強化に用いざるを得なかったのではないか。
 また、アヘン購入には現金が用いられるため、東南アジア現地商人の購買力を示す重要な指標と見なせる。会社史料では捉えられない、現地の現金収入に結びついた経済活動をどれだけ示せるかが今後の研究の鍵となる。

質問3 19世紀にはジャワ島中東部がアヘン消費の中心となった。報告ではバタヴィア周辺とジャワ島北東岸の2地点が大きな消費地として指摘されていたが、両者の流通、消費にはどのような関連が考えられるか。
回答3 両地点を結ぶアヘン流通に関連があったと考えている。また、J・ラッシュによれば、華人とジャワ人の間ではアヘン消費の仕方に大きな違いがあった。前者は一人当たりの消費量が多い。後者は少ないが、アヘンを日常的に摂取していた。アヘン消費地の変遷が、プランテーション開発の変遷と関連している可能性は指摘しておきたい。

質問4 なぜフィリピン諸島を分析対象としないのか。
回答4 管見の限り、今回、フィリピン諸島でのアヘンの情報は出てこなかった。

質問5 短い質問の連続。①徴税請負という用語は適切か。②1680年を起点とする妥当性について。③報告者が東南アジア島嶼部における支払い手段として重視する綿布とアヘンであるが、その違いをどう捉えているのか。 
回答5 ①専売請負や販売請負といった訳語を当てる方が適切かもしれない。②必ずしも1680年代を起点とは捉えていない。記述史料が示すアヘン依存といった事象が17世紀後半になって散見されるようになるということを重視している。③今後の課題とする。

質問6 バタヴィアやスマラン、スラバヤから中国への再輸出も考えられるのではないか。
回答6 諸研究によれば、マカオや広東をはじめ中国へのアヘン流入が拡大したのは、早くとも1760年代であり、それ以前にジャワ島からの再輸出が盛んであったと考えていない。


第2報告(15:45~17:45)
報告者:川島緑(上智大学総合グローバル学部教授)
題目:「19世紀初頭東南アジアのイスラーム・ネットワークのなかのミンダナオ ―写本と口承からみるサイイドナー・ムハンマド・サイドの旅―」
コメンテーター:太田淳(慶應義塾大学経済学部准教授)


コメント(太田淳氏)
 本研究の最大の意義は、現地の個人所蔵一次資料を発掘し、そのテキストに基づいて、近代以前の東南アジアと中東のつながりについて、ヨーロッパ人が語らない部分を明らかにし、ヨーロッパ人の見方とは異なる見方を示した点にある。この分野の基本書、アジュマルディ・アズラ著『東南アジアにおけるイスラーム改革主義の起源』もフィリピンのウラマーには触れておらず、この点を補うという点でも重要である。
 この学者の旅の経路が、ミンダナオ出身商業軍事集団イラヌンのネットワークと重なるという指摘が興味深い。これは、商業のネットワークとイスラームの知のネットワークが別個に存在したのではなく、このネットワークが多目的であり、学者もこのネットワークを使って移動したことを示している
 この学者に関する口承にリンガのスルタンやジョホールなどが登場し、マレー世界の中心としての権威が重要視されている点も興味深い。報告者はこの学者の子孫が、一族の権威づけのためにマレー世界の中心部との関係を利用したと論じた。この点に関しては、国王の側にも、高名なウラマーを手元にひきつける利点があったことを指摘しておきたい。ウラマーやイスラーム聖者との関係を取り結び、それを通じて王の権威を高めようとしたのである。18世紀バンテン王国にもそのような事例がある。
 この報告のもとになった論文において、報告者は、この学者が旅を通じてbroader identityを形成したと論じている。18世紀末西カリマンタンでも、この地にやってきた様々な人々がMelayuと呼ばれ、新たなアイデンティティが形成された。このようなアイデンティティの変化の要因は何であると考えるか。

(質疑応答)
1.太田氏の質問への回答:旅を通じて、母語のマギンダナオ語とは異なる言葉を話す人々と出会い、彼らとの対比により、ミンダナオ出身者というアイデンティティを形成したと考える。
2.他の質問と回答(抜粋):
質問:マラナオ社会では「高貴な血筋」の観念が重要ということだが、この観念はマレー世界における系譜観念や、メッカを中心とするイスラーム世界の秩序原理とどのような関係にあるのか。
回答:マラナオ支配者層は、ミンダナオへの初期伝道者カブンスワンとの系譜関係を社会的権威の源泉としている。カブンスワンは母方にジョホール王族、父方にアラブ人伝道者との系譜関係を持ち、父方系譜を通じて預言者ムハンマドに連なるとされる。従って、マラナオ社会の支配原理はマレー世界の系譜観念と整合性があり、イスラーム世界の中心とのつながりも正当化している。
質問:この学者のメッカでの師の名前はわかっているか。当時のミンダナオには、この学者のような人物がどの程度いたのか。
回答:師の名前は不明である。他には、18世紀末アチェでイスラーム写本を著わしたミンダナオ出身イスラーム学者がいたが、それ以外は知られていない。
質問:この学者の学問傾向をどのようにとらえるか。
回答:著作から、存在一性論などなどの神秘主義思想を中心とするととらえている。
質問:この学者を通じてラナオ地方と中東をつなぐイスラーム・ネットワークが形成されたにもかかわらず、その後は20世紀初頭まで、この地域と中東との交流が停滞したのはなぜか。
回答:19世紀半ばから末にかけて、ヨーロッパ人はミンダナオ出身ムスリムの商業軍事活動の拠点を攻撃し破壊した。スペインはミンダナオのムスリム地域に支配拠点を築き、統制を強めた。そのため、中東との交流が停滞したと考える。
(文責 川島緑)

2017年度第1回関東例会(4月8日)のご案内

2017年度第1回関東例会を4月8日(土)に開催致します。

今回のご報告は、大久保翔平会員による「東南アジア島嶼部におけるアヘン消費の広まり―17世紀後半から18世紀半ばを中心に―」および川島緑会員による「19世紀初頭東南アジアのイスラーム・ネットワークのなかのミンダナオ ―写本と口承からみるサイイドナー・ムハンマド・サイドの旅―」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

日時:2017年4月8日(土) 13:30~17:45

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30) 
報告者:大久保翔平(東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻アジア史専門分野博士課程)
題目:「東南アジア島嶼部におけるアヘン消費の広まり―17世紀後半から18世紀半ばを中心に―」
コメンテーター:弘末雅士(立教大学文学部教授)

<報告要旨>
 本報告は、17世紀後半から18世紀半ばにかけての東南アジア島嶼部におけるアヘン消費の広まりを検討するものである。シンガポールのアヘン徴税請負についての研究で知られるカール・A・トロツキも認めるように、17世紀後半以降のアヘン貿易拡大に果たしたオランダ東インド会社の影響は大きかった。それにも関わらず、アヘン貿易や消費に関する研究は18世紀末以降に集中しているのである。
 このような問題意識に基づき、本報告では18世紀半ばまでのアヘン消費のあり方を分析し、アヘン貿易の拡大が果たしたアヘン消費への影響を考察する。ヨーロッパ人の残した各記録からは、アヘン消費に娯楽や医療、戦争といった多様な側面があったことを観察できる。一方、当該期の時点で、商品作物や鉱産物の生産現場での消費、依存の問題、徴税請負の芽生え等、従来18世紀後半以降のものとして強調される事象について、その萌芽を見出すことができるのである。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:川島緑(上智大学総合グローバル学部教授)
題目:「19世紀初頭東南アジアのイスラーム・ネットワークのなかのミンダナオ ―写本と口承からみるサイイドナー・ムハンマド・サイドの旅―」
コメンテーター:太田淳(慶應義塾大学経済学部准教授)

<報告要旨>
 18-19世紀南部フィリピンのムスリムに関する歴史研究は、武装商人の軍事・経済活動や、政治支配者に関するものが多く、個々のイスラーム学者に関する実証的な事例研究はほぼ皆無である。本研究は、このような研究の偏りを是正し、南部フィリピン出身ウラマーの知的活動の実態、および、東南アジアと中東のウラマーをつなぐネットワークにおいて彼らが占めた位置を明らかにすることを目的とする。具体的には、ミンダナオ島内陸部ラナオ湖岸出身で、19世紀初頭、マッカ巡礼の旅を果たし、帰郷後、現地の社会制度を改革したと伝えられるイスラーム学者・イスラーム聖者、サイイドナー・ムハンマド・サイドという人物に焦点を当てる。報告者が現地調査で確認・複写した写本を主な史資料と用い、口承と比較検討しつつ、サイイドナーの旅の経路と出来事を跡付け、彼が故郷の社会に何をもたらしたかを検討する。それを通じ、19世紀におけるマレー世界他地域や中東との交流が、ミンダナオ島ラナオ地域の宗教や社会に与えた影響を考察する。

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて懇親会を予定しております。

ご不明な点などございましたら、関東例会委員(kanto-reikai[at]tufs.ac.jp)までご連絡ください。([at]を@にして下さい)







2016年度第6回関東例会(2017年1月28日)議事録

2017年1月28日に開催されました、2016年度第6回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告:13:30~15:30
報告者:山口真央(東京外国語大学大学院 総合文化研究科 博士後期課程)
コメンテーター:根本敬先生(上智大学 総合グローバル学部 総合グローバル学科 教授)
報告題目:アジア・太平洋戦争期の東南アジアとインド独立運動―1941-42年のバンコクを中心に―

〇コメント(根本敬先生)
 アジア・太平洋戦争期の東南アジアとインドの接点としてインド国民軍(INA)を描く試みが先行研究の中でなされてきたとはいえ、本発表は「失敗した第一次INA期」に着目し、バンコクという磁場を定めて、日本とインド人独立運動家たちがどのような接点を持ち、相互の認識にいかなる齟齬があったのかを英国側史料や日本側史料を幅広く用いて詳細に見ている点で高く評価できる。
 今後、報告を改善していく上で、技術的側面としては、内容の骨子をレジュメでは簡潔にまとめることを心掛けると良い。また、内容的側面としては、報告者は第一次INA期を「東南アジア史とインド史の接点」ととらえ、バンコクを中心に分析を行っていたが、一般に注目される第二次INA期を含めた全体像を最初に提示した方が理解しやすい。さらに、磁場としてのバンコクを見るならば、英国側史料や日本側史料だけでなく、タイ語史料へのアクセスや第一次INAから第二次INAを通じた評価を今後の研究で試みて欲しい。
戦後のインドにおいてINAをめぐる評価が分かれていることはよく聞かれるが、INAを支持する人々の中でビルマの南機関の鈴木敬司大佐にあたるような、日本軍の中で別枠の「英雄」として評価されている人物はいるのか、さらには第一次INA期に勝ち取られ、第二次INAに影響を与えたものは何だと考えられるかを報告者に質問したい。

〇回答
 鈴木大佐のように、INAとの関わりで評価されている人物は藤原岩市である。彼はインド独立への願いを真摯に受け止めてくれたとインド人側からみなされている。藤原は、インド人側から全く評価されなかった岩畔豪雄と異なり、インド独立運動への自身の関与について、回顧録などを通じて自身の主張をアピールしたことも彼が「英雄」としてみなされる理由の一つになったと考えられる。
 第一次INAから第二次INAに引き継がれたもの、またその反省点から試みられたものもある。例えば、第一次INAに参加したインド人将校は第二次INAにおいても活動しており、人的な繋がりは保たれていた。また、第一次INA期には、インド系住民からの支持をどのように取り付けていくかが課題となっていたが、第二次INA期には住民からの支持を得るために、S. C. ボースは民間人からの募兵を盛んに行い、婦人部隊を創設することで独立運動に参加する機運を高め、第一次INAの限界を乗り越えようとしたと考えられる。

〇質疑応答
 質問:日本が「大東亜共栄圏」をどのように位置づけたのか、インドへの施策をどのように定めたのかを防衛研究所の所蔵史料から跡付けていく必要があるのではないか。
 回答:先行研究の中で防衛研究所の未公刊史料は十分に扱われてこなかった。この点については第25軍史料などの検討を通じて明らかにしていきたい。
 質問:報告の中でアメリカ側史料が用いられているが、イギリス側の史料との違いがあるのだろうか。
 回答:イギリス側は戦前期から在外インド人の独立運動を調べ上げているのに対し、アメリカ側の史料では、イギリス側に比べて戦前期の状況をそれほど詳細に調べている訳ではないという違いが見られる。
 質問:報告の中で二つのバンコクのインド人組織が登場したが、その組織とバンコクに定着していたインド系住民の間で対立は生じたのか。
 回答:タイのインド独立連盟はスィック教徒を主体とした組織であったと考えられ、メンバーと住民の間で何かしらの対立があったと示唆する記録もある。タイ・インド文化ロッジは、バンコクに定着していたインド人商人たちの中に積極的に支持を広げたので、対立はなかったと考えられる。

(文責:山口真央)



第二報告(15:45~17:45) 
報告者:渋谷由紀(東京大学大学院人文社会系研究科・博士課程、東京大学附属図書館・特任研究員)
題目:ベトナム南部都市における民族主義運動の限界性:20世紀前半サイゴン市議会選挙の分析を通じて
コメンテーター:髙田洋子(敬愛大学国際学部国際学科 教授)

■コメント(髙田洋子氏)
1930年代のベトナム南部ではトロツキストが力を持っていたが、1945年の八月革命までにトロツキストはインドシナ共産党によって押しつぶされていった。このプロセスについては明らかにされていない点が多い。1930年代の植民地都市サイゴン市の政治について前後の社会経済関係から解き明かすというアプローチには大きな可能性がある。
一方下記の点は課題である。第一に、メコンデルタの農民蜂起(1930年~1931年)はメコンデルタ全域の現象というよりは、メコンデルタの一部地域の現象であり、過大評価はできない。1920年代の好景気の時期と大恐慌後の1930年代の時期の間で地主の間で階層分化が進んだこと、すなわち中小地主が負債の焦げ付きにより没落し社会的なバックグラウンドが変わったことのほうが、より重要である。第二に、植民地制度下の諸議会の性格を明確化すべきである。フランス植民地政権が、議会制度のコーチシナ植民地への移植に相当の思い入れを持っていたことは事実であろう。特にサイゴン市議会とコーチシナ植民地評議会の性格の違いについては詳細な説明が求められる。

■質疑応答
1.インドシナ立憲党の公約は、1920年代末に具体化したものの、1933年選挙では漠然とした文言に後退したという。しかしながら1937年選挙の公約は再度具体化しているように見える。
回答:1933年・1935年選挙の議席減少によってインドシナ立憲党が方針を変更した。

2. 報告の結論部分においては、1930年代の公約の文言から、最下層の人々、特にインフォーマルセクターの人々の選挙参加率が低かったことが示された。一方、1919年選挙ではインフォーマルセクターの人々が票田となっている。
回答:時代が下るにつれ投票者数が下がるという現象とともに未解決課題である。諸議会が現地人の政治運動の場と化すにつれ、植民地政府が有権者登録制度を改変し、有権者がフォーマルセクターの人々中心となるようにコントロールする動きがあったこと、またインフォーマルセクターの人々の主な居住地が市域外であったことが関係しているのではないか。

3. 新聞を通じて分析可能なものは文字の読み書きが可能な人々の政治活動に限定される。識字・階層の問題をどう考えるか。また、新聞以外に選挙活動の手段として何が用いられていたのか。
回答:限界性については指摘の通りである。一方、本報告では、フランス語紙とベトナム語紙の双方を史料として利用しており、フランス語のほうがベトナム語よりも流暢な上層の知識人と、フランス語教育を受けたもののベトナム語紙を好む中層の人々との間の政治行動の差を明らかにできると考えている。ビラの存在は史料から確認できるが詳細は不明である。演説会については史料に断片的記述がある。

4. タイトルに「民族主義運動の限界性」とあるが、「民族主義」という言葉はどのような意味で使用されているのか。現地人が選挙を通じて行う運動が民族主義運動にフォーカスを当てたものであるとは限らないのではないか。
回答:「民族主義」という言葉の使い方については十分に意識していなかった。

5.有権者の投票行動は、必ずしも立候補者の公約によって規定されるわけではなく、組合や町内会といった組織を通じた、いわゆる「組織票」が存在したように考える。
回答:労働組合を票田としようという動きは1920年代から見られた。また私立学校の教員が選挙に立候補し、生徒の父兄が教員に票を投じるといった記事を確認している。

6. 1920年代・1930年代の政治運動については、同じ党派に所属する人々の中でも考え方に大きな幅があったように考える。よって党派の主張を分析単位とする研究手法は必ずしも有効ではなく、むしろ個人単位の思想分析のほうが有効ではないか。
回答:課題としたい。当時の南部で影響力が高く、特定の党派に属さず植民地期に没したグエン・アン・ニンについては、選挙に対して実質的に参加しておらず、選挙関係記事からは分析が難しい。

7. 社会構造の問題と、植民地統治による政治権力の分断という問題を区別すべきではないか。
回答:植民地統治による政治権力の分断という点に関しては、植民地化直後の時期を除き、植民地政権下の諸議会がアジア系外国人を排除していたことが重要であると考えている。

8. 「大衆運動への転換期」および「民主運動期」の定義付けは報告者によるものか否か。
回答:先行研究の定義である。

(文責:渋谷由紀)


2017年度関東例会発表報告者募集

東南アジア学会会員のみなさま

2017年度も東南アジア学会関東例会をよろしくお願いします。

さて、関東例会では下記のとおり、2017年度の報告者を募集いたします。多くの
方々のご応募をお待ちしています。特に締め切りは設定していませんが、早目の
申し込みをお願いいたします。

■2017年度東南アジア学会関東例会報告者募集

・関東例会では、コメントと質疑応答の時間を含め、各報告者に2時間という長
い持ち時間が与えられます。討論内容は記録され、後日、関東例会のウェブサイ
トに掲載されます。ご自身の研究のアピールの場として、また多様な関心を持つ
研究者からコメントやアドバイスを受ける場として、この貴重な機会をご活用く
ださい。

・報告者は東南アジア学会会員に限定いたします。
コメンテーターは学会員である必要はありませんが、報告者ご自身で依頼してい
ただくようお願いします。(どうしても探せない場合は担当理事までご相談くだ
さい)

・これまでの報告事例については関東例会ウェブサイトをご覧ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■2017年度の関東例会 開催日程

2017年(平成29年)
第1回2017年4月8日(土)
第2回2017年5月20日(土)
第3回2017年10月28日(土)
第4回2017年11月25日(土)
2018年(平成30年)
第5回2018年1月27日(土)

毎回13時30分開会、17時45分閉会。1回につき2報告

■会場

・東京外国語大学・本郷サテライトです。
・第2回2017年5月20日(土)は4階セミナー室です。他の回は5階セミナー室を使
用します。
・住所:〒113-0033東京都文京区本郷2-14-10
・TEL&FAX:03-5805-3254
・アクセス:地下鉄(丸ノ内線・大江戸線)本郷三丁目駅下車徒歩5分
・会場へのアクセスは以下をご参照ください。
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

■報告・コメント・討論の時間
・報告者は1回につき2名、途中に休憩をはさんで、それぞれ報告60分、コメンテ
ーターによるコメント10分、フロアからの質問と討論50分を予定しています。

■応募方法
・関東例会で報告を希望される方は、関東例会連絡用アドレスの東南アジア学会
関東地区担当・宮田敏之まで、下記の情報を明記して電子メールでお申し込みく
ださい。

関東例会連絡用アドレス:kanto-reikai☆tufs.ac.jp (☆マークは@に変えてください)

<記載情報>

・氏名と所属
・発表を希望する日を第2希望まで
・報告題目(仮題目可)および報告要旨(300~400字)
・コメンテーター(氏名、所属、メールアドレス)
・報告記録者(氏名、所属、メールアドレス)
・希望する使用機器(Windowsノートパソコン、プロジェクター、レーザーポイ
ンターのご用意が可能です。その他の機材についてはご相談ください。)

■応募の取り扱い
・報告要旨を読んだうえで判断させていただきます。例会の運営上、報告の可否、
報告の日程についてご希望に添えない場合があります。また、要旨については書
き直しをお願いする場合もあります。ご了承ください。
・グループによる申請(ミニ・シンポなど)も受け付けていますのでご相談くだ
さい。

■報告記録
・関東例会では、例会の報告記録を、関東例会ウェブサイトに掲載しています。
これは、コメンテーターからのコメント、質疑応答のポイント、今後の課題等に
ついて、1200字から1500字程度でまとめたものです。
・報告記録は、報告者ご自身でまとめていただくか、あるいは報告者ご自身で報
告記録者を選びご依頼いただくようお願いいたします。

■懇親会
・例会終了後、簡単な懇親会を開催いたします。

■関東例会ウェブサイト
・関東例会のお知らせ、予定、報告記録を随時掲載しています。ご活用ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

■問い合わせ
・宮田敏之(関東例会担当、東京外国語大学) tmiyata☆tufs.ac.jp
・関東例会委員 kanto-reikai☆tufs.ac.jp(☆マークは@に変えてください)

2016年度第6回関東例会のご案内

2016年度第6回関東例会を1月28日(土)に開催いたします。
今回は、山口真央会員による「アジア・太平洋戦争期の東南アジアとインド独立運動
―1941-42年のバンコクを中心に―」と、渋谷由紀会員による「ベトナム南部都市における民族主義運動の限界性:20世紀前半サイゴン市議会選挙の分析を通じて」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

日時:2017年1月28日(土) 13:30~17:45

会場:東京外国語大学 本郷サテライト5階セミナー室
(http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html)

☆第1報告(13:30~15:30)
山口真央氏(東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程)
コメンテーター:根本敬氏(上智大学 総合グローバル学部 総合グローバル学科 教授)

報告題目:アジア・太平洋戦争期の東南アジアとインド独立運動―1941-42年のバンコクを中心に―

報告要旨:アジア・太平洋戦争期に南方と呼ばれていた東南アジアで、日本軍により多くの地域が支配され、その過酷な支配が現地の人々から激しい反発を招いたことはよく知られている。他方で日本の南方進出に呼応し、日本と協力してインドの独立を達成しようとしたインド系住民のインド独立運動は、戦時期の東南アジアを語る上で歴史の一つの側面となっており、南アジア史と東南アジア史が交差する出来事であったにも関わらず、文書史料に基づく実証的な研究は未だ少ない。
 特に、唯一独立を保っていたタイには、それほど多くのインド系住民たちが暮らしていたわけではなかったが、日本軍の進駐以降はバンコクを中心に、東南アジアのインド独立運動の中枢となっていった。
 本発表では、イギリス側一次史料(旧インド省史料など)と日本側一次史料の分析を通じ、アジア・太平洋戦争の勃発(1941年)からインド独立運動が一つの転換点を迎える、第一次インド国民軍の崩壊(1942年)までを対象として、バンコクを中心としたインド独立運動を通してアジア・太平洋戦争期の東南アジアを再考したい。


☆第2報告(15:45~17:45)
渋谷由紀氏(東京大学大学院人文社会系研究科・博士課程、東京大学附属図書館・特任研究員)
コメンテーター:髙田洋子氏(敬愛大学国際学部国際学科 教授)

報告題目:ベトナム南部都市における民族主義運動の限界性:20世紀前半サイゴン市議会選挙の分析を通じて

報告要旨:本報告は、20世紀前半にサイゴン市議会議員選挙の現地人議員枠をめぐって行われたベトナム人の政治運動の分析を通じて、サイゴン市(現ホーチミン市中心部)を舞台とする仏領期の都市民族主義運動の動員力の限界性を検討するものである。1933年以降同市議会の現地人議員枠では、仏越提携を主張するインドシナ立憲党からインドシナ共産党系とトロツキスト系の共産主義者で形成されるより急進的な「労働派」へと、中心勢力が移動した。しかしながら運動の急進化にも関わらず、1945年の八月革命ではサイゴン市のベトミン政権は極めて短命に終わった。その要因は従来、第一にフランスのコーチシナ植民地復帰という国際的要因、第二に都市の運動と農民の運動の連携の失敗に求められ、都市の運動の都市住民に対する動員力の限界性という点からは検討されてこなかった。本報告は都市の運動の限界性を新聞記事上の公約と票数変動を通じて明らかにする。

例会終了後、18時から19時頃まで、同会場にて懇親会を予定しております。

2016年度第5回関東例会(11月26日)議事録

2016年11月26日に開催されました、2016年度第5回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:悴田 智子(上智大学大学院・グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻・博士前期課程)
題目:ロヒンギャをめぐる「語り」から何が見えるか:ロヒンギャ問題の歴史的経緯と在日ロヒンギャ難民の現状
コメンテーター:斎藤紋子(上智大学アジア文化研究所客員所員)

■コメント(斎藤紋子氏)
1:ムスリムの分類について・・・ミャンマー国内では、発表で示されたような4分類を全員の人々が知っているわけではない。一般のミャンマー人は、ほぼ一括りに「ムスリム」もしくは「ロヒンギャとその他のムスリム」などと認識している。ミャンマー人たちが「インド人」と言った場合には、現在のインドを指すだけではなく、イギリス植民地の範囲という意味で、(現在の)パキスタン、インド、バングラデシュなどの部分を含めている。もしくは、中央アジアやトルコの方まで大きく含めている場合もある。
2:1982年ビルマ国籍法について・・・ロヒンギャ全員が国民証を所持していないわけではない。ロヒンギャ以外のミャンマー人でも地方在住者は国民証の発行を受けていない場合もある。過去には、選挙前にロヒンギャに対し臨時の国民証を配布し、選挙後没収する、と言う例もあった。
3:ロヒンギャ第二世代のアイデンティティ認識について・・・第二世代が自らを「ムスリム人」であると表現したことについて。これは一般のミャンマー人の場合も、ムスリムを見て「彼らはムスリム人」という答えが返ってくることがある。これはミャンマーにおいて民族と宗教を分ける(民族と宗教は異なる)という教育がなされていないためである。例えば中国系ムスリムに対して身分証を発行する際、役所の人間が「ムスリムであればインド人」というように決めつける事例がある。
4:ロヒンギャをめぐる現在の状況・・・11月以降ラカイン州で過激派がロヒンギャを名乗って活動を始めた。国内ではこのことをめぐり様々な報道がなされている。従来であれば在ミャンマーのバマー・ムスリムが政府発表に対し様々な反論を行うが、今回は沈黙しているように感じられる。他の少数民族の内戦も再開しており、ロヒンギャにとっては不利な状況になっていると言える。
■質疑応答
1:ロヒンギャはなぜ館林に集住しているのか。また、在日の他民族やムスリムとの交流はあるか。
回答:
田辺寿夫によると、館林やその近隣の市町村に工場が多くあり仕事が多い点、近隣にムスリムが住んでいる点、最初に来日したロヒンギャが館林に住んだため、そこから増えていったという点が指摘されている。聞き取り調査でロヒンギャ以外のビルマ出身ムスリムに会った際、その人に関しては、ロヒンギャやその他の外国人とも交流があると述べていた。
2:在日ロヒンギャ難民はどの程度の数か。また、在日ビルマ・ロヘンギャ人協会の加入者数はどの程度か。
回答:
新聞報道などによると、在日ロヒンギャ難民の数は220~230名程度とされている。協会の加入者数は約100名程度である。
3:英国植民地期の政府は、ロヒンギャに対しどのような政策をとっていたのか。
回答:
 ミャンマーにおいて「(土着)民族」という単語が登場したのは植民地期以降だと考えられる。ロヒンギャという単語については、1950年代にロヒンギャの名を冠した政党がアラカン州で結成されたことが確認できているが、それ以前についてはセンサスなどでもロヒンギャの名前は存在せず、おそらくベンガル人に分類されていたのではないか。ロヒンギャの言語は「ベンガル語の一方言」であり、出身地で言うとコックスバザールやその近隣の人々が、国境も近いためにビルマに流入したと考えられる。また、植民地期には「英領インドビルマ州という扱いだったので移動もかなり自由に行われていた。ロヒンギャはその頃流入した人々の中の1グループという分類であると思う。したがって、植民地当局がロヒンギャに対してどう接していたかというより、ビルマのムスリムに対してどう接していたか、という風に考えていただいた方がいい。

第2報告(15:45~17:45)
報告者:姫本由美子(トヨタ財団・立教大学アジア地域研究所特任研究員・早稲田大学アジア太平洋研究センター特別センター員)
題目:日本占領下インドネシアでの文化工作における刊行物の役割―日刊紙『アシア・ラヤ』とサヌシ・パネ著『インドネシア史』を手掛かりに―
コメンテーター:倉沢愛子(慶応義塾大学名誉教授)

■コメント(倉沢愛子氏)
日本占領期に流通した刊行物の中心的なものは新聞と教科書であったとのことで、報告で日刊紙『アシア・ラヤ』と歴史教科書を取り上げたことは理解できる。しかも、当時刊行された歴史教科書だけでも膨大な分量になるが、それのみならず大量の資料を扱ったことは評価に値する。日本が侵攻する以前の東南アジアにおいて実施された植民地政策は、宗主国によって異なる。オランダ領東インドの文化政策では、「原住民」の識字率の向上が図られなかった。「大東亜共栄圏」建設では、植民地の台湾等では日本語が国語と位置づけられたが、占領地では「東亜の共通語」とされ、現地語の併用が推進された。以上の点を考慮すると、日本占領期にインドネシア人によって初めてインドネシア語で書かれた『インドネシア史』が、インドネシア独立後の識字率の向上に伴い6版まで改編されて1965年ごろまでより多くのインドネシアの人々に読まれ、同国の歴史像が共有されたという主張は理解できる。日本占領期の刊行物が、日本語等の言語からインドネシア語に置き換えられた時に生じる意味のズレをうまく利用して、インドネシアの人たちは検閲を逃れたと考えられるが、扱った刊行物に対する検閲の実態はどのようなものであったのか。いつ、「独立」などという言葉の使用が許されるようになったのか。また、国史を書くことは短時間ではできないが、サヌシ・パネは『インドネシア史』をどのように執筆したのか。

回答:
 日本占領期初期のジャワでの検閲は、同地を占領・管轄した陸軍第十六軍の宣伝班が行い、検閲は厳しくなかった。1943年4月設置の軍検閲班へ担当が移行後、厳しくなった。日本側は、日本を中心とした大東亜の総合的歴史を教えるために、占領期末期に歴史教科書『大アジア史とジャワ史』を刊行した。サヌシ・パネの『インドネシア史』は、占領期初期に市来竜夫の主張によって再開されたバライ・プスタカによる既存の学校教科書のオランダ語からインドネシア語への翻訳や改編作業に乗じて、1943年初めに第1巻の刊行が実現したと考える。しかし、1945年初めに刊行された第4巻には、独立後の改訂版に含まれているインドネシア民族主義運動の章がない。
 サヌシ・パネは、オランダ領東インドの領土を引き継いでインドネシアが独立することを構想し、その時代も含めた同地域の歴史をインドネシアの人々が共有することがインドネシアのアイデンティティ形成につながると考えていた。日本占領期以前から、インドネシアの歴史執筆を手掛けていたのではないか。日刊紙『プマンダ(ン)ガン』に1941年末にマレー半島の略史を寄稿していることからもうかがえる。

■質疑応答
1.サヌシ・パネとはどのような人物か。
回答:
 詩人、そして1930年代後半の「文化論争」の論客の一人として有名。イスラームを信仰するバタック・マンダイリンで、1930年にインドに留学し、ヒンドゥー文化やタゴールの影響を強く受けた。日本占領期以前の彼の思想については、拙論文「日本侵攻前夜のインドネシア知識人のアジア認識―サヌシ・パネはその時いかに『インドネシア的なるもの』を構想したか―」を参照されたし。

2.日本占領期にジャーウィ文書やジャワ文字の文書等は刊行されたのか。
回答:
本報告で扱った日本占領期の刊行物目録にジャーウィ文書は含まれていないことは、当時のイスラーム系学校への不介入と関連しているかもしれない。また、占領期初期に26万部印刷された学校用教科書ジャワ語読本が、ジャワ文字によるものかローマ字に翻字したものか確認していないので、速やかに行いたい。

3.『インドネシア史』の内容は小学校の歴史教科書などに反映されているのか。
回答:
 独立後外務大臣を務めたことのあるスバルジョは、著書のなかで『インドネシア史』の記述を引用している。しかし、1965年の9・30事件以後、教育文化省から『インドネシア国史』が刊行されて以降、『インドネシア史』は忘れられた。

(文責:姫本由美子)

2016年度第4回関東例会(10月22日)議事録

2016年10月22日に行われました、2016年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30) 
報告者:持田洋平(慶應義塾大学・文学研究科・後期博士課程)
題目:シンガポール中華総商会の社会的機能の形成――その設立と初期活動を中心に
コメンテーター:村上衛(京都大学人文科学研究所・准教授)

■コメント(村上衛氏)
中国本土では、19世紀後半における地方財政の危機を背景として、会館・公所などの同業・同郷団体の再編が進み、これらの団体は、徴税の請負や治安維持などに協力して地域社会への関与を深めていった。このような状況下で、清朝商部は商会を設立し、各地に点在する商人を把握しようとした。商会は各地の同業・同郷団体を統合する形で設立され、その活動範囲は商務や会員の親睦・情報交換に加え、当局への対応や公共事業・政治活動など多岐に渡っていた。いわゆる「小さな政府」を志向し、様々な業務を民間に委託していたという意味で、清朝政府と植民地政庁には類似性が存在しているであろう。
報告者はシンガポールの中華総商会の活動と社会的機能についてその独自性を強調していたが、このような実態を考えるのであれば、その活動にはかなりの共通性が存在したのではないか。また中国本土の商会と比較した場合、シンガポール中華総商会の独自性としてどのような点があげられるのか。
さらに、商会の規約にあたる「商会簡明章程」について、これはあくまで商会の活動のガイドラインに過ぎず、実際の活動は地域ごとに多様であったため、この内容から商会の具体的な活動範囲を推定できると考えるべきではないだろう。

回答:
 まず「商会簡明章程」について、報告の中でシンガポール中華総商会の独自性という問題設定を補強させるために引用したが、村上氏のご指摘を受け、これは正しい使い方ではなかったと感じた。今後、より適切な引用の仕方を検討したい。
 続いて、中国本土の商会と比較してのシンガポール中華総商会の独自性という点について、特に幇派の存在があげられる。村上氏からご指摘いただいたように、中国本土の商会が各地に点在した、まとまりのない大小さまざまな同業・同郷団体を統合する形で設立されたのに対し、シンガポール華人社会では中華総商会設立以前より幇派という強固な社会・経済的共同体が既に存在しており、出身地毎の方言を基に一定のまとまりが形成されていた。中華総商会はそれらの集団の対立的な関係を緩和し、華人社会を一つにまとめあげるようなリーダーシップを担う役割を果たしたという点に特徴があるということができる。

■質疑応答
1.報告の中で篠崎香織氏の論文「シンガポール華人商業会議所の設立(1906年)とその背景――移民による出身国での安全確保と出身国との関係強化」(『アジア研究』50(4)、2004年、38-54頁)が引用されているが、この論文は二重国籍の選択的な利用などとも共通するトランスナショナルな華人のあり方を議論するための切り口として中華総商会という事例を扱っているのであり、報告者の議論の方向性とは異なるのではないか。
回答:
 ご指摘いただいた通り、報告者と篠崎氏の論文では議論の方向性に違いがあり、それは両者の華人社会史に対する関心のあり方の違いに起因するものであろう。ただし扱う事例は共通しており、また報告者の観点から見ても篠崎氏の論文は重要な論点を提供していると判断されたため、本報告の中では篠崎氏の論文を先行研究として位置付け、言及した。

2.報告の中で、「中華」総商会という言葉を使っているが、当時においてこのような語彙が新聞上などでそのまま使用されていたのか。またこのようなナショナルな概念の普及は、植民地制度との関係性があるのか。
回答:
 報告の中で説明したように、当時の新聞に掲載された記事や広告では「中華」という表記が頻出している。こういったナショナルな概念が華人社会に普及していく経緯については、報告者の論文(持田洋平「シンガポール華人社会の「近代」の始まりに関する一考察――林文慶と辮髪切除活動を中心に」『華僑華人研究』9、2012年、7‐27頁)にて、特に植民地制度の変遷と重ねながら検討した。

(文責:持田洋平)

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第2報告(15:45~17:45)
報告者:宮川慎司(東京大学・博士課程)
題目:電力制度に関するインフォーマリティー ―フィリピンにおける「盗電」を事例に―
コメンテーター:受田宏之(東京大学・准教授)

■コメント(受田宏之氏)
 本研究への問いや課題点としては、次の4点があげられる。
①「盗電」という現象に関するデータに関して。この研究では、先行研究にはないような、データ面の新しさや豊かさとしてはどのようなものがあるか。また、盗電の「現場」を離れたマクロな視点も含まれるが、それを示すデータはあるのか。
②アプローチ方法に関して。経済学的な視点と人類学的な視点が出てきているが、両者の違いとはどのようなものか。新制度学派経済学の位置づけはどのようなものになるのか。また、人類学的な立場としては、盗電を否定するのではなく、理解しようとするものなのか。
③現在の反インフォーマリティの風潮にどのように抗していくのか。かつては、de Sotoなど、下からの開発や貧困層の問題解決能力への期待といった研究もあったが、現在では、設計主義や生産力主義の研究が盛んである。そこで、そうした議論の流れに対して、盗電に議論はどのように対抗していくことができるのか。
④盗電をどのように「正当化」できるのか、という点について。盗電分のロスを正規契約者に負担させることは、正規契約者から盗電者への強制的な再分配である。これは、公道の露天商、休閑農園を占拠した土地なし農集団などの事例と比べても、よりゼロ・サムゲームの「強い」インフォーマリティである。その点で盗電を「正当化」するのは難しいのではないか。電力料金を上回る現金を移転する代わりに盗電に対して厳罰を科す、などの政策が導入されたらどうなるのか。

■コメントへの回答
①盗電はフィリピンだけではなく全世界の多くの貧困地域で行われているが、それに関する質的な先行研究は少ない。その点で、貧困層の生存戦略の実態解明に資することができる。
②理論の位置づけに関しては今後の課題である。自分の立場としては盗電を否定するのではなく、現実として盗電の排除を試みても根絶するのが難しい以上、うまくフォーマルセクターとの折り合いをつけるべきだという考えを持っている。
③現時点の仮説としては、インフォーマリティを厳格に弾圧してしまうと、貧困層は生活が極めて苦しくなり、生産力が落ちてしまうのではないか。そのため、彼らが徐々に非インフォーマリティの生活に適応できるように、段階的なフォーマル化の試みがのぞましい、と考えている。
④たしかに、盗電を正面から正当化するとは難しいことである。なので、盗電を厳格には罰しないことで、貧困層の生産力を下げないようにする、というような間接的な正当化しかできないだろう。また、電力料金を上回る所得移転などの政策は、現実問題として盗電の量を測定する難しさなどからあまり現実的ではないように思える。

■フロアからの質問
1.「社会規範」、「社会的な分断」といった時の「社会」とはどのような範囲を指しているのか。
回答:
 もちろん、実情は複雑であり、現地で詳細な調査を行わないとわからないが、現在のところ、盗電者/正規契約者、貧困層/中間層(富裕層)の2×2の4つの属性をを想定している。盗電者/正規契約者の間の分断と、貧困層/中間層の間の分断は先行研究でも言われてきたことだが、中間層だが盗電をする人、貧困層だが法律を守る人、という軸での研究はあまりないように思える。

2.今回の非合法活動に対する分断の話は、ドゥテルテ大統領の反イリーガルの政策にも関連しているのか。
回答:
 ドゥテルテ大統領の政策は、例えば麻薬取り締まりにおいて政府関係者などを名指しで摘発するように、貧困層/中間層の区別なく合法/非合法という軸での政策のように思える。その点で本研究とは異なる点もあるが、もちろん大いに参照すべき事例である。

(文責:宮川慎司)
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