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2013年度第6回(1月)の関東例会の報告

2014年1月25日(土)に開催されました2013年度第6回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:小池誠先生(桃山学院大学国際教養学部教授)
コメンテーター:伊藤眞先生(首都大学東京都市教養学部教授)
報告題:「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」

<報告要旨>
 主な対象とするのは台湾在住のインドネシア人移住労働者と彼女/彼らが構築するネットワークである。彼女/彼らがどのようなネットワークを作り上げ、そして、そのネットワーク上で、出身地など背景の異なるインドネシア人がいかなる結節点(nodal points)でどのように出会うのか、その実態を俯瞰的に描き出すことが、報告の目的である。
 台湾で働くインドネシア人労働者は、2010年11月時点で約15万人であり、全体の80%以上を女性が占め、高齢者の介護という名目で雇用者宅に住み込みで働くケースが多い。台湾における移住労働者は、①地縁血縁から物理的に切り離された個人であり、②高齢者介護という3年程度の契約労働者であるため、永続的な定住を志向する移民と違い集団志向相対的に弱く、③働き先と居住地の選択や休日の取得や移動に関して労働者には厳しい制約が加えられているという特徴を有し、相対的に行動の自由を欠く、いわば「バラバラの個人」といえる。けれども、インドネシア人移住労働者は、雇用者に管理された生活環境下であっても、実際には多様なネットワークを構築し生活している。たとえばインドネシア人向け総合店舗(Toko Indo)は、休日に食事や買物・送金をおこなうだけに留まらず、カラオケを楽しみに多くの労働者が集まる場所(結節点)と位置付けられる。さらに、モスクなどの宗教施設、金曜礼拝やIdul Fitri(断食明けの祭)といったイスラームの祝日に合わせてインドネシア人ムスリム団体が主催する宗教イベントは、台湾各地に住む移住労働者が集まる機会を提供する結節点といえる。この他にも、インドネシア語の活字メディアやFacebook等のソーシャル・メディアは、離れた地域の労働者をつなぐ役割を果たしていると同時に、対面的なネットワークへと関係性が発展するツールともなっている。
 本報告では、インドネシア人店舗や宗教施設といったインドネシア人労働者が有するネットワークの結節点、およびそのような場所の担い手たる店舗経営者やインドネシア人ムスリム団体とそこに集うインドネシア人労働者に着目することで、彼女/彼らが構築するネットワークの次のような特徴を明らかにした。まずインドネシア人店舗に着目すると、経営者がおもにインドネシア華人であることから、いわば華人とプリブミ(非華人)との双方がネットワークの構築に重要な役割を果たしていることである。華人のエスネック・ビジネスに支えられると同時に、モスクという場所に依拠しつつインドネシア人留学生や労働者によるムスリム団体が中心となってネットワークの形成と結節点を生み出していることから、台湾におけるインドネシア人ネットワークはインドネシア社会の縮図のような側面があると指摘できる。

<コメントと質問>
 まず「地縁血縁から切り離されたバラバラな個人としての移民」という位置づけを仮説的に提示するならば、そういったバラバラな個人が新たな移住先・労働先でいかに結びつくのかという点が問題になる。それを報告では結節点(nodal points)と呼んでいたが、タイプ別に整理すれば、一つには台北駅前の広場や公園で出会うというケースにみられるように「場の共有性」ということが重要になる。二つにはIdul Fitriといった大規模な礼拝に参加すること、または独立記念日前後の色々な催しに参加することが繋がりの契機となることから「時間・機会を共有する」という点も重要と言える。三つには、メディアの存在に関して、香港で見た限りでもパソコンや携帯を利用して多くの者がSNSを利用している。それは、華人が営むインドネシアの商店の役割、また留学生を中心としたインドネシア人の組織やムスリム団体の役割にみられるように、いわばインドネシア人移民同士を媒介するものであると言える。
 台湾におけるインドネシア人移住労働者について、香港の事例を対照させつつコメントするならば、次のようなことが言える。まず一つ指摘できることは、香港のインドネシア人労働者も台湾の場合も、同じ労働システムが働いているという点である。インドネシア出身の移住家事/介護労働者は、斡旋会社(ブローカー)を介して香港や台湾の雇い主とマッチングが行われると同時に、家事/介護労働者は就労先が決定するまでの数か月間、斡旋業者によって移住先国の言語や社会・文化について学ばされる。他方で、台湾と香港の違いについて指摘するならば、香港のヴィクトリア・パークに数千人と言われるほどの移民労働者が休日になると集まってくる凝集性に対して、台湾では地理的な理由からそのような凝集性はないように思える。また政治的背景の違いも大きく、香港では集会や組織化・労働組合の自由が早い段階で成立しており、さらに労働組合同士の連携や国際NGOによる支援によって香港の労働法や悪徳な斡旋業者に対する反対運動が積極的に展開されている。加えて社会的要因としても、インドネシア人の人口が14万5千人程度であり、そのうち13万5千人程度が女性労働者であるとされる香港の場合には、いわゆる「女性の社会」というものが成立しているように思える。台湾で媒介者の役割を担ったインドネシア人留学生や男性労働者といった存在があまり見受けられない。
 このような台湾と香港との対比を踏まえて、以下に台湾の状況について質問したい。①出身地の地域性を契機とした再結合が移住先であるのか、②血縁や地縁、社縁といった繋がりについて、たとえばインドネシアでの斡旋業者による研修期間中のつながりが移住先でも継続しているのか、③海外への移住労働という経歴が彼女/彼らのキャリアをエンパワーメントするものであるのか、④ジルバッブといったイスラームの服装は移住先でも継続されるのか。

<報告者の返答>
①たとえば西ジャワ州インドラマユ県出身者による団体化が最初のケースとして挙げられる。また、西ジャワ州であればスンダ語で会話ができるといったように同じ出身地域であることが、当事者同士が親しくなることに繋がると考えられる。けれども、西ジャワ州出身という契機が組織的に展開されるということはあまりない。

②調査を通じてそのような語りが聞けなかったため、この点については分からない。

③台湾では労働者の自由がかなり制限されているなど相対的に権利が低いことから、移住労働の経験が女性のエンパワーメントに繋がるようなことは、香港に比べれば相対的に低いように思える。けれども、台湾に在住するインドネシア人の2割程度を占める男性労働者のなかには、ムスリム団体で活動した経験をもとに母国で孤児院建設を行ったという話もあることから、むしろ男性にとってエンパワーメントの機会となっている。

④台湾ではジルバッブの着用に関する雇用者の理解が得られないので、イスラームの集会や礼拝に参加する時のみ着用すると言うケースが多い。

<質疑応答>
質問1.移住労働を行うために斡旋業者に支払う金額は移住先の国によって異なるのか?

報告者:サウジアラビアなど中東諸国へ行くことは、経費や渡航用件などの点でも比較的容易だが賃金は低い。他方で香港や台湾への渡航就労は、学歴が一定以上必要とされるなど困難であるものの、就労できた場合の賃金はいとされる。そして、台湾の場合は一年程度働いた時点で、出国経費などの負債を業者へ返済することができる。
  
質問2.労働需要の継続性と賃金上昇の問題は国際労働市場において重要な点となるが、たとえば台湾のインドネシア人労働者に関しても賃金が継続的に上昇しているのか、さらにはそのような上昇によって他国の労働者にシフトするという変化がみられるのか?

報告者:台湾の外国人労働者は1990年代に始まり、2000年代に増加したという経緯がある。最初の段階ではタイ人とフィリピン人が多かったものの、フィリピン人が次第に自らの権利を訴えるようになったため、インドネシア人やベトナム人にシフトしたという経緯がある。給料水準は英語ができるといった要素からフィリピン人の方が高いという話は聞いたことがあるものの、賃金の安さを求めてバングラデシュ人へ移行していく動きはみられない。台湾では「インドネシア人女性は使いやすい」といったようなイメージが浸透していることから、現状としてはインドネシア人の雇用が続くように思える。


(文責者:首都大学東京大学院 荒木亮)


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第二報告(15:45~17:45)
報告者:鈴木隆史先生(桃山学院大学兼任講師)
コメンテーター:加納啓良(東京大学名誉教授)
報告題:「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」

<報告要旨>
 本報告ではインドネシア西ジャワ州インドラマユ県カラソン村の流し漁業の発展過程とその特徴をオーラルヒストリーと商人や船主たちの残した帳簿類をもとに明らかにする。
 カランソン村の漁業は、沿岸で操業する小型延縄とパヤン(伝統的手繰網)が中心だったが、1960年代の半ばにナイロン製漁網を用いた流し網漁業が始まった。木造帆船に4人が乗組み、米などの食料の他、漁獲物保存用に塩を積んで1ヶ月以上操業し、1トンを越える塩漬けのサメ、ハマギギ、フエダイ、ソウダガツオなどの他、乾燥フカヒレを持ち帰った(この流し網をンガワという)。やがて船主たちは魚商人から操業経費の仕込みを受けるようになり、操業成績が上がらず漁船を商人に売却する船主も現れた。こうして徐々に商人がンガワ船主となり、数十隻の漁船を所有する商人も誕生し、「浜将軍」と呼ばれた。また、商人たちは西ジャワ州各地に新たな塩蔵魚市場を開拓し、販路を拡大した。
 漁船や漁網規模に大差がない中で、各船の漁獲量は漁撈長の能力に大きく左右された。商人船主たちは優秀な漁撈長や乗組員を確保するため、彼らに気前よく前貸し金を与え、寄港地での漁獲物販売による小遣い稼ぎも見逃す寛容さを示した。こうした船主と乗組員との関係は、当時の漁村の社会経済状況を反映したパトロンークライアント的な関係ともいえるが、貸付金の焦げ付きや寄港地での過剰な販売による利益の減少が経営を圧迫することもあった。
 1980年代半ばになると漁業協同組合と水揚施設(TPI)が設立され、セリが導入された。また、漁船の動力化と氷が漁獲物の保存に用いられるようになり、漁船も大型化した。水揚げされた多様な鮮魚は、仲買人たちの手を経て村落内外の市場や塩蔵魚、クルプックなどの加工業者に販売されたほか、ジャカルタなどの大都市へとも搬送された。この流し網漁業(エスエサンという)を行なうには、漁船の改造や新造船の建造、エンジンの購入などの新規投資と燃油代、氷代などの操業経費を必要としたが、動力化で航海日数が短縮され、年間出漁回数も増加したため漁獲量・金額ともに増加し、常に操業利益が確保でき、乗組員たちへの分配金も増加した。安定した利益を確保できるため、商人から仕込みを受けていた船主たちも、親戚や知人、漁協などから資金を調達してエスエサンへと転換し、ンガワ漁船は減少した。
 こうして発展してきた流し網漁業(エスエサン)は、2000年代に入って新たな技術的革新を遂げる。積載量50トン以上の大型木造船が建造され、そこに漁獲物の保存用にフリーザ(冷凍装置)を導入、高馬力のトラック中古エンジンが据え付けられた。漁網の品質も向上し、使用漁網量(長さ)も増加。また、省力化のために網揚げ機も設置され、GPS、無線機も導入された。漁場探索や航海で漁撈長の勘や経験に頼る時代は終わり、操業の効率性と長時間労働に耐えることのできる若い乗組員が求められるようになった。こうした第二の「近代化」により漁獲量はさらに増加し、漁獲物の長期鮮度保持も可能となった。セリでは鮮魚よりも冷凍魚の方が高価格で取引され、漁獲高に反映された。冷凍魚の多くは鮮魚としてではなく、塩蔵魚の他、すり身、クルプックなどの加工品原料となり、セリの最中に仲買人たちが携帯電話や電卓を用いて市場価格などの情報を確認し、競り落す姿が見られるようになった。
 現在、新規の流し網漁業には1000万円を越える初期投資が必要だが、およそ2年で投資資金を回収できるとも言われ、これまで漁業とは無縁だった町の医者や公務員、日本への留学経験を持つ若者(船主の息子)など新たな船主層が誕生している。彼らは、自己資金だけでなく、漁協や民間銀行などから融資を受けており、新しい漁船はさらに融資を受けるための担保ともなっている。こうした漁民以外の船主の参入や漁船・漁網規模の拡大競争が進む中で、資本力のない船主たちはカニカゴ漁や小型延縄漁業などに転換し、中には大型流し網漁船の漁撈長や乗組員になった者もいる。
 このようにカランソン村で始まった流し網漁業の発展過程を漁民や商人のライフヒストリーや商人の帳簿類をもとにひも解くことで、これまで明らかにされてこなかった商人や漁撈長・乗組員が漁業の発展に果たした役割、漁業の「近代化」が漁業経営や水産物流通にもたらした影響が明らかになった。しかし、漁撈長の中には漁獲量の減少を訴える者もおり、近年の急激な漁船の大型化、高性能化競争による生産力増加が資源の乱獲をもたらし、漁獲量の減少による経営への影響が懸念される。

<コメントと質問>
 インドネシアの漁港は河口付近の川縁に沿った場所に設置される傾向がある。Google Earthで確認したところ、鈴木氏の調査地である漁村もはっきり確認することができ、漁船の多さなどから漁業に活気づいた町の様子が窺える。

質問
① 村を流れる川は人工的な放水路のようだが、いつ頃、どのようなイニシアチブで作られたのか。

② 村の後背地は農地のようだが、現在のような漁業中心の村落になる前の生業形態は?

③ 近年の水産統計をみると、養殖業の成長が目覚ましいが、調査地の漁業と養殖業の関連は?

④ 漁業における華人商人の役割や関わりは?

⑤ 近年の漁業投資額は莫大な金額であるように思えるが、それに銀行などが貸付けを行っている場合、どのような銀行がいつ頃から参入・展開している?

<報告者の返答>
①チマヌク川は農業用水確保のために1960年代に改修工事が行なわれたが、村の中を流れる川は、改修工事以前にチマヌク川氾濫による洪水防止のための排水路だ。

②カランソン村はもともと農村だ。河口部に小型延縄を営む漁民たちの集落ができ、地主がパヤン漁業の船主となって漁業が営まれた。

③養殖池ではバンデンとエビが養殖されているが、養殖業者は漁民ではない。ただ、魚商人の中には養殖池を所有する者がいる。

④町に住む華人商人たちは、建築業や食品加工業、商店経営など様々な事業を行なっており、流し網漁業の船主もいたが、操業・漁獲物の販売は漁撈長や魚商人に任せており、フカヒレだけは華人自らが扱った。

⑤1990年代頃までは銀行からの積極的な貸付は行われず、土地や建物などの担保、信用のある者の紹介状がなければ、融資を受けることができなかったが、2010年以降、各銀行は競うように船主に貸付を行なっている。

<質疑応答>
質問1.フリーザーの導入によって塩蔵から鮮魚へと市場が変わったのか?燃油価格などは、漁業に影響をあたえるのか?

報告者:①鮮魚市場は1980年代後半の氷の導入により拡大した。②燃料は補助金により市場価格より安く、燃料費が経営を圧迫するには至っていない。

質問2.政府や地方当局による船舶所有の規制や漁獲量の制限基準はあるか?また漁場を変えたりすることで、漁獲高を保つ工夫がなされてきたのか?

報告者:漁船の規模70トンを越えると経営形態や補助金や税金も変る。所有漁船数の制限はない。カリマンタン沿岸で操業する漁船には、州政府発行の操業許可が必要となった。対象魚種に応じて漁網の設置水深を変えている。なんらの漁獲規制がない中で競争が激化すれば、資源の乱獲が懸念。

質問3.ジャワ海をめぐる漁業について、インドラマユの漁民と他地域の漁民とのあいだで、漁場などをめぐる競合は生じていないのか?

報告者:ジャワ海で操業するまき網などとは漁場や対象魚種が異なるため、漁場紛争は起きていない。カリマンタン島沿岸でも現地漁民が少ないため、争いは起きていない。ただし、流し網は様々な魚種を対象とするため、サメやフエダイなどを目的とする延縄漁業との間で競合が生じていると考える。操業規制や資源管理が必要となるだろう。


(文責者:首都大学東京大学院 荒木亮)


2013年度第6回(1月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

関東例会 2014年1月例会(2014年1月25日開催)のご案内を致します。

今回は、小池誠会員による「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」、および、鈴木隆史会員による「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」の2報告です。

詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2014年度1月例会>
日時:2014年1月25日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html


☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:小池誠先生(桃山学院大学国際教養学部教授)
コメンテーター:伊藤眞先生(首都大学東京都市教養学部教授)
報告題:「台湾で働く多様なインドネシア人のネットワークとその結節点」

<報告要旨>

主な対象とするのは台湾在住のインドネシア人移住労働者と彼女/彼らが構築するネットワークである。彼女/彼らがどのようなネットワークを作り上げ、そして、そのネットワーク上で出身地など背景の異なるインドネシア人がいかなる結節点でどのように出会うのか、その実態を明らかにしたい。台湾で働くインドネシア人労働者は2012年6月に185,000人であり、全体の80%以上を女性が占めている。高齢者の介護という名目で雇用主宅に住みこみで働く女性が多い。結節点として第一に挙げられるのが、インドネシア人向け総合店舗(Toko Indo)である。休日には食事や買物・送金だけでなくカラオケを楽しみに多くの労働者が集まる。第二は、金曜日の礼拝やインドネシア人ムスリム団体が主催する宗教イベントである。この他、インドネシア語の活字メディアと、Facebook等のソーシャル・メディアも、離れた地域の労働者をつなぐ役割を果たしている。



☆第二報告(15:45~17:45)

報告者:鈴木隆史先生(桃山学院大学兼任講師)
コメンテーター:加納啓良(東京大学名誉教授)
報告題:「インドネシア西ジャワ州インドラマユ県、カランソン村における流し網漁業発展史−残された記録と漁民および商人のオーラルヒストリーを中心に−」

<報告要旨>

西ジャワ州インドラマユ県のカランソン村では1960年代の半ばに流し網が始まる。漁獲物の保存に塩を用いるようになったことで一ヶ月以上の長期間操業が可能となり、水揚量も飛躍的に増加した。しかし、一回の操業に多額の操業経費が必要なため、個人船主ではなく資本を有する魚商人たちが船主となった。一方、大量の塩蔵魚を販売するために商人たちが新たに市場を開拓した。1980年代の半ばになると、漁船の動力化が進み、漁獲物の保存に氷が用いられるようになり鮮魚生産が可能となる。セリ制度の導入で公正な魚価が形成され、水揚金額も増加。経費を短期で回収できるため、独立した個人船主が誕生し、それまでの商人経営の漁船は減少した。2010年になると、GPS、無線機、フリーザーを搭載した漁船が誕生し、冷凍魚が水揚げされるようになった。漁獲物の品質が安定し、水揚金額も増加した。漁船への初期投資に1000万円以上かかるものの、2年以内で投下資本は回収できるといわれ、流し網漁業は確実に儲かる事業と認識され、医者や公務員などの漁民以外の船主が誕生している。

 


終了後、懇親会を用意しております。




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今年度の例会の報告者募集は終了いたしました。
たくさんのご応募どうもありがとうございました。


来年度以降の関東例会の開催日程、報告者募集につきましては、
1月例会終了後にアナウンスいたします。


また下記のブログにて、過去の関東例会の議事録、
及び今後の例会の案内を掲載しておりますので、ぜひご参照ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/


青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程) 
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp




2013年度第5回(11月)の関東例会の報告

2013年11月16日(土)に開催されました2013年度第5回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載致します。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:山﨑美保氏(東京外国語大学大学院・総合国際学研究科・博士後期課程)
コメンテーター:青山亨先生(東京外国語大学大学院・総合国際学研究院・教授)
報告題:「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」


【報告要旨】
 本報告では、バリトゥン王時代に発布された19点の古ジャワ語刻文の分析を通して、バリトゥン王にとってのシーマ定立が、先行研究でも指摘されているように、ラケや寺院を統制するための1つの手段であったこと、そして救済、公共事業 や交易規定などの恩恵にみられるように民衆を王の統治に組み込むための手段として機能していたことを明らかにした。

【コメント】
 研究者が少ないなか、刻文を文字から読むことは有意義なことである。今回の報告では、商業的、農業的な面での経済活動を支える、舟渡しや灌漑などの公共事業のためのシーマ定立、またシーマ定立に伴う商業規定などを、単に社会の構造としてではなく、王の政策としてまとめたところが独創的なところである。
 
【質疑応答】
① 文字の転写に関して、ばらつきがあるので規定を作り、統一すべきだ。
→まだ文字をどのように転写するかは模索中であり、今回使用した転写は利用した文献の転写をそのまま採用している。今後は文字の転写規定をつくり、統一していきたい。

② マンティヤシI刻文とワヌア・トゥンガIII刻文は、誰が発布し、誰が歴代の諸王を列挙し記述しているのか。
→ともに、バリトゥン王が発布した刻文である。マンティヤシI刻文はシーマ定立の儀礼のなかで祈願される神々を列挙する際に、サンジャヤをはじめとし、7人の王のラケ称号のみが記述されている。また、ワヌア・トゥンガIII刻文では、僧院のシーマとなった水田に関して、歴代の諸王がどのような態度をとっていたのかを、その即位年とともに記している。

③ クブクブ刻文の説明の箇所で、灌漑の水路のためにシーマが定立されたとあるが、これは何を意味しているのか。
→刻文の最初の箇所で、シーマが定立される理由が書いてある。サン・アパティの水をこの水路に流すためであると記述されているが、詳細はよくわからない。しかし、「サン」という語は神聖なもの、例えば神などの語の前につけられる冠詞であり、おそらく、このサン・アパティも宗教的な、寺院に関係する人であったと推測できる。そのため、この水路は寺院のため、例えば寺院の水田のために使用されたと考えられる。このシーマはその水路を造るあるいは維持するために定立されたと考えられる。

④ バリトゥン王がカユワンギ王を重要視しているようだが、カユワンギ王とは中部ジャワ時代においてどのような存在であったのか。
→古ジャワ語で王を意味するラトゥではなく、初めてシュリー・マハーラージャというサンスクリット語の称号を用いた王であり、この王の時代に王の権力が強化され始めたと考えられている。

⑤ バリトゥン王の刻文は中部ジャワだけではなく、東部ジャワからも出てきており、バリトゥン王の権威が東部ジャワにまで及んでいるが、このことをどのように考えているか。
→東部ジャワまで権威が及ぶほどバリトゥン王の権威が強化されていたと推測できるが、現段階では考察中であり、明確な答えはもっていない。

⑥ バリトゥン王以前にも東部ジャワの刻文があるのか。
→少数だがある。しかし、中部ジャワの権威が東部ジャワに及んでいたことを示すものではない。9世紀初めには、古ジャワ語で書かれた最古の紀年をもつ、水路に関して書かれたハリンジンA刻文がある。

⑦ 中部ジャワ時代の都の位置は分っているのか。
→刻文の記述から、大まかな場所は推測できるが、特定はされていない。王によって、王宮の所在地は変わっているようである。バリトゥン王時代の刻文の記述から、バリトゥン王の王宮はクドゥ地域にあったと考えられる。

⑧ ラケによるシーマ定立を記す刻文のなかで、王の名前を記すものはバレット・ジョーンズの4つの方式のうち、どれに属するのか。
→その時の王の名前が記されるが、王の命令や恩恵によるものではなく、あくまでラケ自身によるシーマ定立であるので、バレット・ジョーンズは自立型に含んでいる。

(文責:山﨑美保)

第二報告(15:45~17:45)
報告者:梶村美紀氏(東京大学大学院・総合文化研究科・博士課程)
コメンテーター:根本敬先生(上智大学・外国語学部・教授)
報告題:「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」


【コメント】
 全体の感想として、ビルマで「民政移管」が始まって2年ほど経ったいま、在外のビルマ人が将来どうするのか岐路にたたされている時期でありタイムリーな研究課題だといえる。先行研究は軍政期の先の見えない時期に書かれているため詳細な考察が不可能であったが、報告者は軍政後の現実を見据えることができ、ビルマから難民が流出した歴史的な経緯をふまえた上で、24年間というスパンで定住ビルマ人組織の経緯を考察しており、その点は新鮮である。さらに、この経緯を漠然とみていくのではなく、第1期から第5期に分け、時期ごとに議論展開した点が興味深く説得力がある。組織一覧表に活動停止時の情報があればもっとよかったが、配布資料も適切に準備されている。
 次にコメントおよび質問であるが、今後の課題として、まずは比較の研究が挙げられる。政府の難民や外国人の受け入れ政策の不備に対抗すべく、日本では少数民族とバマーの接近がみられたが、諸外国のビルマ難民の状況はどうなのか。例えば、多文化共生政策を国策としているオーストラリアでは報告と全く逆の現象が見られ、民族別にコミュニティを作り、個人レベルの民族間交流はあるが、コミュニティ間の有機的なネットワークは形成されていない。このような違いが生み出される要因を研究していく必要がある。
 第2点は、日本社会がビルマ難民への認識を深めたと指摘しているが、それをどうやって実証できるのか。日本政府によるビルマ難民の受け入れの増加、カレン難民の第三国定住受け入れの開始、ビルマ難民に関連するイベントやエスニックレストランの増加から、日本社会の認識が深まったといえるのかどうか、再考が必要である。日本社会の難民に対する見方を別途調査する必要がある。
 第3点は、日本を含む海外十数カ国で組織形成がなされている在外ロヒンギャが配付資料の一覧表に含まれていないのはなぜか。定住ビルマ人のネットワークを議論していくなら、ビルマでは国民と認められていないロヒンギャを視野に入れる必要がある。質問としては、定住ビルマ人の将来を見据えた日本側の課題、日本の難民受け入れの課題は何かを聞きたい。特にビルマに関しては第三国定住受け入れ政策がうまくいっていないが、この点を含めて課題解決には何が必要なのか見解を聞かせてほしい。

【コメントに対する報告者の回答】
 1点目の比較の研究、以前、韓国の定住ビルマ人を調査研究したが、その際に受け入れ国の外国人政策や社会の受け入れのあり方によって、当事者の活動や意識が全く異なるという点を学んだのでその点をふまえ今後の課題として取り組みたい。オーストラリアやアメリカのように国土が広大な場合は民族毎に集住し、日本、韓国、イギリスなど国土が狭ければ民族に関係なく首都圏など一カ所に集住する傾向が強い。この点を比較したり、それ以外の要因についても研究していきたい。
 2点目の日本社会受け入れの根拠については、新聞記事の分析などを含めればよかった。例えば、日本人に関連した事件をきっかけに日本社会がビルマ国内の動向に注目するようになり、それに関連して日本にもビルマ難民がいるとの認識が共有され、同時にビルマ出身者の難民認定者数が急増したという点を実証すべきだった。
 3点目のロヒンギャ組織については、今回の報告では東京を拠点に活動している組織の一部を対象としているために含んでいない。そのため、群馬が活動拠点のロヒンギャの組織、名古屋が活動拠点の民主化組織やその他の地域の学生組織などは含んでいない。実態としては現在のところネットワークは形成されていないが、現状を問題視している人は少なくない。長期的にみていく必要がある。今後の日本の難民受け入れの展望については、まず失敗要因として、当初の受け入れのあり方、日本に暮らしている同胞と連絡も取れないなど日本政府側が囲い込みすぎていた点が指摘できる。日本の現状では外国人政策の中に難民政策が組み込まれているため、難民政策だけを改善していくのではなく、外国人政策全般の中で考えていく必要があるのではないか。そうしなければ、難民の受け入れという点だけは状況改善されるかもしれないが、その後の定住過程において結局外国人政策に影響を受け、難民が定住先として望まなくなると考えられる。

【質疑応答】
質問1:報告要旨で意識の変容と表現してあったので少数民族個人に焦点を当てた話と思っていたが、実際の報告では少数民族組織の話で、内容も個人の話と組織の話が混同していた。少数民族はビルマ/ミャンマーという国籍を持っているが、ビルマ人という意識を持っていなかったと言えるのか。
報告者:少数民族個人の話ではなく、組織の活動の変容を通して意識がどう変わったかを報告したが、表現が不適切であったかもしれない。本報告では詳細を触れる事ができなかったが、来日前の少数民族の居住パターンを、民族州出身、ヤンゴン出身、そして民族州からヤンゴンへ引っ越しという3つのパターンに分類し考察したところ、少数民族にはビルマ人という意識は希薄である。この点をまずは説明するべきであった。

質問2:ミャンマーではなくビルマという言葉を使用しているが、ビルマをどのような意識で使用しているのか。報告者と少数民族の間でビルマという言葉の捉え方について共通認識はあったのか。
報告者:聞き取り調査では日本に来る前と来てからの経験について述べてもらったため、ビルマ/ミャンマーをどのような意識で使用しているのかについては説明していない。ビルマ国内ではどうなのかという形で使用した。在外活動家の多くは現在の国名であるミャンマーではなくビルマを使用しているため報告者も同様にビルマを使用している。少数民族の中にはミャンマーを国名として使用する人もいる。その場合にはミャンマーを使用した。

質問3:配布レジュメには「ビルマ人」と括弧付きになっているが、括弧付きにはどういう解釈をもたせているのか。
報告者:来日前の少数民族の経歴を考察すると、それぞれ○○民族という意識はあるが、「ビルマ人」という意識があるとはいえない。ビルマ語を話したり、パスポートを持っているが、それが「ビルマ人」という意識を生み出しているとは言えない。その点を表現するため括弧付きにした。
コメンテーター:括弧付きの「ビルマ人」ではなく、ビルマ国民またはミャンマー連邦国民と表現すればこの問題は解決される。連邦国民としてのアイデンティティと民族としてのアイデンティティとどちらが優先されるかという聞き方をしていれば、はっきりと示す事ができた。ミャンマーとビルマについて、なぜこの問題が生じたのかという説明とともに、ビルマを使う理由を示すべきである。

質問4:「ビルマ少数民族」「在日ビルマ人」も同様にそれぞれの少数民族が、ビルマ国籍をもつ少数民族であり、日本に在住するビルマ国籍をもつ人という認識をもつようになったという意味で使っているのか。
報告者:その意味で使用している。

質問5:来日時に少数民族はミャンマー連邦共和国のパスポートを持っているはずであるが、それでも少数民族にはビルマ国民としての認識がなかったといいきれるのか。
質問6:組織としてどう看板をたてるかという点を議論していたのではないか。
報告者:組織のあり方を議論したかったが、そこにいたるまでの説明がきちんとできていなかったために変容したという点が証明できなかった。短時間で出国準備をする場合にはブローカーにパスポート手配を依頼するが、仮名のパスポートの場合もあり、パスポートとアイデンティティは一致しない場合もある。ミャンマー国籍のパスポートを持っていればミャンマー/ビルマ国民という認識をもっているとは言いきれない。
コメンテーター:少数民族の居住パターンに分類して得た結果として、来日後に周りから「ビルマ人」と扱われ最終的にビルマという国家の枠組みの中の少数民族だと意識するようになったという点を説明するべきだ。

質問7:少数民族が作ったAUNにはロヒンギャは入っていない。また一民族につき一組織が参加している。このように参加していない組織をどう扱かうのか。
報告者:AUN設立当初は一民族一組織という方針だったが、現在では同じ民族の複数の組織が参加している。参加していない組織については今後調査していきたい。

(文責:梶村美紀)

2013年度第5回(11月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

11月の関東例会(11月16日開催)のご案内を致します。

11月例会は、通常開催しております第4土曜日が祝日ですので、通常とは異なる第3土曜日に開催致します。通常とは開催日が異なりますので、皆様、ご注意下さい。
また、会場も通常とは異なり、「4階」となっておりますので、こちらもご注意下さい。

11月例会は、山﨑美保会員による「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」及び、梶村美紀会員による「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2013年度11月例会>
日時:2013年11月16日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト4階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:山﨑美保氏(東京外国語大学大学院・総合国際学研究科・博士後期課程)
コメンテーター:青山亨先生(東京外国語大学大学院・総合国際学研究院・教授)
報告題:「古ジャワ語刻文にみるバリトゥン王(在位898-910年)の統治と王権強化」

<報告要旨>

 ジャワの前近代史研究における一次史料は刻文である。その刻文の記述に基づいた先行研究では、王朝や社会構 造を論じたもの、国家形態を論じたもの、交易や経済との関係から中部ジャワ社会を描くもの、当時の寺院組織や信仰に関して論じたものなど 王朝史や社会構造の観点から国を論じるものが多い。しかし、王がどのように国を統治し、民衆や寺院に対してどのように働きかけていたのかなど、王の統治政策に焦点をあてて論じたものはほとんど見られない。
 本報告では、従来の研究ではほとんど焦点が当てられなかった王の統治政策を刻文の記述から分析し、特にシー マ〔不輸不入地〕の定立が王の統治にどのように組み込まれていたのかを考えてみたい。王の統治政策を分析するためにバリトゥン王を考察の対象に採りあげ、彼の統治期間に発布された古ジャワ語刻文の記述内容から、バリトゥン王が行った統治政策について明らかにする。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:梶村美紀氏(東京大学大学院・総合文化研究科・博士課程)
コメンテーター:根本敬先生(上智大学・外国語学部・教授)
報告題:「定住ビルマ人のネットワーク形成過程:少数民族とバマーの連帯を事例に」

<報告要旨>

 2000年代以降、定住ビルマ人は日本における難民庇護者の大半を占めるようになり、目立つ存在になっている。しかも、定住ビルマ人は活発な組織活動を展開している。本報告では、少数民族とバマー(多数派ビルマ民族)の連帯に着目し、定住ビルマ人のネットワーク形成過程を考察する。まず、少数民族とバマーの連帯という観点から、1988~2012年にかけて東京を拠点に活動した組織の変遷をたどる。特に、これまであまり知られていない少数民族の組織活動を明らかにする。そのうえで、来日前にはビルマ人という自己認識の薄い少数民族が、来日後に組織活動への参加を通して意識を変化させる過程と、それに並行して日本社会の定住ビルマ人を捉える視点がいかに変化したのかを分析する。

終了後、懇親会を用意しております。

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今年度の例会の報告者募集は終了いたしました。
たくさんのご応募どうもありがとうございました。

来年度以降の関東例会の開催日程、報告者募集につきましては、
1月例会終了後にアナウンスいたします。

青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程) 
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2013年度第4回(10月)の関東例会の報告

2013年10月26日(土)に開催されました2013年度第4回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載致します。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:神田真紀子氏(なし、2013年3月末日迄東京大学大学院博士課程 人文社会研究科)
コメンテーター:今井昭夫先生(東京外国語大学教授)
報告題:「保護領時代カンボジアにおける都市アンナン人の社会的紐帯」

【コメント】
 今井先生:アンダーソンの想像の共同体のことが思い出されますが、仏領インドシナにおいて、オランダ領東インドのような行政と教育の「巡礼」が一体化してインドネシアという紐帯となったようには、カンボジア・ラオス・ベトナムは非対称な関係にあって、仏領インドシナはちょっと様子が違う。そのためにかならずしもインドシナという紐帯、インドシナ人という意識がうまく醸成にはならなかったということを思い起こされる。植民地期にベトナムからラオス・カンボジアにベトナム人が行っていて、行政で働く者や、プランテーション雇用に従事したことについての研究はこれまであったものの、実際のところどういう生活をしていたかはこれまであまり明らかになってこなかったといえる。この報告では、カンボジアのプノンペンにおけるベトナム人(アンナン人)の様子が明らかになった。アソシエーションについての史料、植民地当局の史料だけでなく、アソシエーションの規約や新聞に目配りをしたところが評価できる点ではないかといえる。また、ベトナム・カンボジア関係史のなかで植民地期のカンボジア・ラオスに行っていたベトナム人の歴史を考えるとき、いままでこのような視点はあまり考えてこなかったのではないか。ある意味で一国史の弊害というか、ベトナム史の問題では扱えなかったことをうまく超えている問題設定ではないかといえる。

【質疑応答】
 今井先生:植民地社会当局との関係において、各アソシエーションは作られてきたため、官吏が多いのはそことかなり関係があるのではないか。
 神田:対象とした各アソシエーションが政府の合法組織であるため、官吏の参加の重要性は当然の前提として否めない。新聞に見られる言論を具体的に検討することで、実際にアソシエーションの成員たちが官吏たちに敬意をどう示していたかがわかり、その問題を補完できたのではないか。

 今井先生:カンボジア、プノンペンを中心としたこのアソシエーションの性格は、本来のベトナム社会の持っているベトナム人のアソシエーションの作り方が影響を持っているのか、カンボジアという環境の中で、カンボジアのアソシエーションの作り方が強く影響してできたものであるのか、あるいは華僑の団体の作り方が影響したのか。
 神田:同郷者会の例では、サイゴンの出身地域による相互扶助会をモデルに、カンボジアでも同郷相互扶助会が作られた。ベトナムの団体を大いに模した可能性は高いと考える。一方で38年の「越僑相互扶助会」は、カンボジア在住の出身地わけ隔てないベトナム人の団体である点では、カンボジア(在住のベトナム人)独自のものであったと考えた。また、華人団体の影響については、本報告ではカンボジアの華僑華人との積極的比較は行わなかったため、初期のアンナン人会館の理解のためにも今後の課題としたい。

 今井先生:1930年代40年代の民族運動の高まりの中で、アソシエーションはどのように考えることができるか、とりわけカンボジアのアンナム人はどのようなアイデンティティを持っていたのか、インドシナ人だったのか、アンナム人なのか、それぞれの出身地へのアイデンティティが強かったのか。ベトナム人、アンナム人であった人たちが、カンボジアのベトナム人になっていく流れに思われたが、インドシナ人という意識は特に生まれていなかったのではないか。
 神田:インドシナ人だったのか、アンナム人だったのか、それぞれの出身地域へのアイデンティティを持っていたのかという問題は、限られた史料の、アソシエーションの中心成員から見た場合、「アンナム(ベトナム三地域)人」といった大きな共有は通じてあったようにみられる。一方で、特に「越僑」という言葉に着目すれば、20年代から散見されたこの言葉が、社会気運の高まりの中で 現地化したアンナム人の新しいアイデンティティとして「越僑」が使用されたのではないかと考える。本報告では、カンボジアの多様なアンナム人の総体を意識し、政治性についての問題を主とせず、アソシエショーンに集う人々の多様な政治思考、多様なベトナム人を解釈できる問題設定に軸をおいている。

 今井先生:移民の問題として、多文化社会の中で外から来た人たちが相互扶助のシステムをどう作っていくのか、ホスト社会とどう関係を作っていくか、という問題も墓地問題における現地との歩み寄りのように、現地在地社会とどのような関係を持っていくのか。
 神田:ホスト社会とカンボジア社会との関係はどうであったか、については、今回の報告の範囲では、大きな答えを出せないので、今後の課題としたい。

 今井先生:サークル・アミカルはベトナム人のアソシエーションのなかに入れて考えていいとは思うものの、カンボジア人メンバーもいたので、ベトナム人のアソシエーションと考えてもいいものかどうか。
 神田:越僑新聞での会への言及や、越僑向け1941年ガイドの中ではサークル・アミカルは越僑の会と紹介していること、また、規約はベトナム語が併記されていたことで、ベトナム人会員に配慮がなされていたとみなした。

【質疑応答】
質問1:サークル・アミカルについて、規約がフランス語とクオックグーであり、メンバーが比較的高位にあるベトナム人であるならばカンボジア人とともにフランス語を解したのではないか。フランス語を介さない、ベトナム語が必要だったのはどういう人々だったのか、イメージが沸きにくい。
神田:ベトナム語を使用したのはなぜかという問題を具体的に解明する史料には当たれなかった。ベトナム語を併記したことは、ベトナム人が多かった可能性の根拠になるのではないかと推測した。また、越僑向けのガイドで、越僑の会と紹介されたことからも(必要を)判断した。

質問2:クメール人会員はどういう人であったか、名簿とかわかるか?
神田:詳細な名簿は発見できていないが、総会議事録の記事を見る限り、クメール人会員がいると判断した。

質問3:サークル・アミカルの総会の使用言語はなにか。
神田:使用された言語はわからないが、議事録はフランス語で印刷されている。

質問4:教育について、自分たちの師弟の教育に関して、積極的にコミットしたように思えないが、それぞれのアソシエーションはそういう性格なのか、使用した史料からそういう傾向になったのかどうか。
神田:30年代に越僑の私立学校は確認されるものの、本日の報告は、移民の第一世代を対象としたため、比較的成人以上の教育機会について部分的に言及する結果となり、その子弟については積極的には扱っていない。

質問5:保護領期の都市部のベトナム人のカトリック信者についてや、比率などを教えてほしい。
神田:史料上の制限から、カトリック共同体については対象にいれておらず、残念ながら回答できる情報は持っていない。

質問6:アソシエーションとしてカトリック信徒たちは組織しなかったとしても、それに類するような集団を形成していた可能性はないか。
神田:あくまで推測だが、集落や村落としての共同体は形成していたのではないかとは思う。

質問6に対する指摘:カトリックの問題についてだが、プノンペン近郊では、南洋日本町のあったポニエ・ルーにあり、墓が残っている。フランス人の司祭がいて、カトリックのベトナム人がかなり集まっていた。プノンペンにもブイユボーといったフランス人宣教師がいて、キリスト教徒が集まっていた。コンポートもフランス人宣教師とともに信徒たちがあつまっていた。それから、バナムのあたりにもフランス人の宣教師がいて、カトリックがいた。またコンポン・チャームの上流にもあったであろう、そういったところはアン・ドゥオン期、前植民地期までさかのぼり、少なくとも19世紀の間は続いたのではないか。アソシエーションの問題で面白いのは、墓地の問題で、旧来のつながりを持つ人たちは埋葬に困らないので、ここで扱った仏教寺院にあつまった人々と、プノンペン近郊で見られるカトリック共同体とは分けて考えたほうがよいのではないか。
神田:ご指摘、ご助言ありがとうございます。本報告の主ではなかったものの、官吏にはカトリック信者もいたと推測され、その社会的重要性は否めない。

質問7:カンボジア社会におけるベトナム人問題は、30年代にすでに問題になっているのか、ベトナム人問題とアソシエーションの問題はどう重なってくるのか。
神田:カンボジアのナショナリズム高揚が30年代であり、彼らの言論活動の中でベトナム人の社会進出に対して批判が行われたことは、多方面の研究からすでに議論がされているところと考える。本報告の関心は、ナショナリズムの原因そのものを見るよりは、矛先となった異質な移民社会の実態を検討することから始めているため、各要因がクメール人側にどのように受け止められていったかの材料として団体の諸活動を見ている。

質問8:アンナム人の諸団体が一方にあると説明する一方、それを支える要因に、ひとつにフランス領インドシナの植民地秩序があり、一方で、在地においては社会統合という面を考えた場合、こうしたベトナム人の組織が、在地の社会で支えてくれる、在地側とのつなぎ目になるものに関心がいく。より以前からのベトナムとのつながりなど、植民地秩序以外のものは何があるのか。たとえば、当時のベトナム人はカンボジアに家族を伴ってくるのか、それとも現地の女性と婚姻や同棲をしたのか?
神田:全体として断言することは困難ではあるが、カンボジアのベトナム人は比較的ベトナム人同士で婚姻を結んだのではないかと考えている。履歴などにあたれる領外出身の官吏の場合は、郷土から配偶者を伴うもの、家族を残し単身赴任をするもの、現地社会での現地のベトナム人と婚姻するもののうちには、退職後も現地にとどまったなど、といったケースを散見することができた。

質問9:ベトナム人官吏がベトナムに来ているということについては、何年間の期限で来ているのか。
神田:質問は別稿で検討している問題点でもあるが、他地域からの行政府勤務赴任者の履歴を追うことは、官吏をはじめ職務によって、各種業務を横断すると、履歴が追えない困難の違いがある。理事官府勤務者のリクルートは、連続的に勤務を確認できるケースがあり、一人の履歴を追う事が比較的可能とみなしている。その契約形態は一様ではなく、年単位から定年まで勤め上げるなど個別のケースに従ってさまざまであると思われる。しかしながらクメール人が優遇される前の、20年代以前のベトナム人赴任者は、比較的連続して勤め上げる方がいたのではないかと考えている。

質問10:ベトナム人というと広すぎるので、この議論の対象にするベトナム人は新来のベトナム人など限定性がある議論ではないか、そこの定義を立てておいたほうがいい。多いといってもそう多くもないベトナム人たちの集まり、つまりカンボジアのベトナム人エリートたちが離郷の寂しさからサークルを作ったのではないか、そのカンボジアの範囲が、フランス行政の中のカンボジア王国領の範囲ではないのも面白い。そのことはアソシエーションの地方会員に、ハーティエンなどカンボジアでない地域が含まれていることなどが挙げられる。チャウドックの人が募金に参加しているなど、カンボジアの範囲が、水路とか、あるいはそれ以前からの交通ネットワークを通じたような、心理的にもうあそこからカンボジアだといったものが興味深い点と思う。必ずしも政治的な境界というカンボジアでなくて、わたしはRoyaume de Cambodge という伝統的なものがあって、その上に仏領インドシナという管理のあり方がかぶさっていると考えているが、それがカンボジア語の通じる世界と、フランス語の通じる世界で、この人たちはフランス語の世界の方にしか入っていけない人々であろう。仏領インドシナのネットワークが、結局はサイゴンープノンペンの水路とメコン川のその上にのっかった交通路の上の世界ではないかと考える。そのなかで、この辺からカンボジアという領域で彼らが活動をしたのではないかと見られる。議論の対象となるベトナム人を細かく区切ることで、ナショナリズムの矛先としての問題としてのベトナム人にたいしても、理性的になれる、貢献できる研究になれるのではないか。
神田:遠来の華人とも異なり、コーチシナ出身者ならなおのこと、いざとなれば帰郷もできた距離なのに帰らなかった点が、彼らがベトナム人であったその心理こそに注意を注ぐ必要があると思っている。村落共同体のベトナム人の結びつきが、村を離れるという時点で、いかに距離があろうとなかろうと、絶対的な離郷であったのではないかと考えている。村を出てしまったことで、プノンペンであろうが他の都市であろうが、村落共同体に変わる新しい結びつきを(都市に)見出していく点で、このアソシエーションの重要性を見出すことができるのではないか。また、帰ろうと思えば帰郷できるそのベトナム人が、わざわざそこにとどまったことが、村にかわる新しい「越僑」という使い方でなかったか、という仮説を念頭におき考察してきた。しかしながら、広範な議論の中で、どのようなベトナム人であるかという区分は、今後厳しく見ていくように課題としたい。

コメント:カンボジアの都市にやってきた人たちの中でも、とりわけ官吏に限定した話とすると、官吏はベトナム本土からも故郷からも根を離れている。官吏になることで、故郷の村の誰であるとはならないので、もともと故郷との糸の切れた、フランス領インドシナの官吏という資格としてプノンペンに来て、彼らには故郷に戻るという選択肢はもともとない。むしろプノンペンで「越僑」フランス領によって構築されたベトナム出身の官吏としての紐帯を作らざるをえなかったであろうと、インドネシア側の知識で感じた。

(文責: 神田真紀子)


第二報告(15:45~17:45)
報告者:細淵倫子氏(首都大学東京人文科学研究科社会行動学専攻)
コメンテーター:内藤耕先生(東海大学文学部アジア文明学科教授)
報告題:「パサール隣接型カンポンの住民構造:南ジャカルタ市パサル・ミング調査(2007-09年)を事例に 」


【報告要旨】                                     
 これまでのカンポン研究では、カンポンは「不衛生な場所」「遅れた場所」として認識され、都市における「ムラ」を表す概念であった、そして、そこでは同質性・均質性を持つ、インフォーマル・セクターの労働者が集う居住空間としての研究が蓄積されてきた。しかしながら、このような居住空間としてのカンポンは、カンポン改善計画や都市整備の過程の中で変容し、同質性・均質性を持つ居住空間としてだけでは認識できなくなってきている。そこで、本報告は、ジャカルタの都市政策の歴史とともにカンポンがどのように変化し、どのような空間へと変化していったのかという視点に立ち、その一部である、2007-2009年のある一地域での現状の報告を試みる。なお、本報告ではオランダ植民地時代から、パサールとしての歴史があるパサル・ミング地区を対象として、その空間に位置する一カンポンであるカンプン・ジャワの住民がどのような棲み分けで経済活動をし、暮らしているのかについて、調査結果を報告する。
 パサル・ミングにおけるパサールには、ジャカルタ地方公社の認可する「公設パサール」と「非公式パサール」が存在する。公設パサールには、野菜、果物売り、日常雑貨を販売する店舗が計300程度存在しており、公設パサール周辺に存在する非公式パサールには、CD売り、バイク型タクシー等の「移動型」露天商が店を構えている。
 2007-2009年当時、既に都市化が進んだジャカルタ南部(郊外地区付近)においては政府の意図していないインフォーマル・セクターへの人口流入の傾向があり、本パサル・ミング地区にも多くの住民が流入してきた。インドネシア統計局のデータによると、1990-2000年のパサル・ミング地区の人口増加が24,131人であるのに対し、2000-2010年の10年での増加が60,081人である点から見ても、新しい住民の流入をうかがい知ることができる。
 結果、当時の空間別住民傾向は、スハルト期に建設された農業省住宅地、振興住宅地には高官や中間層が住み、カンポンにはパサールでの労働者が暮らしているというものであった。民族構成は主にジャワ人であり、ブタウィ人、パダン人、マドゥラ人、スンダ人、華人と続く。 
 そのような中、パサル・ミングにおける経済活動の分類を行い、パサル・ミングの事例から、パサール隣接型カンポンが形成されるプロセスには、「新住民」「旧住民」のカテゴリーが重要であることが分かった。スハルト政権崩壊後においてカンポンを見る時期は、2000-2010年(特に2004、2008年)の人口増大期、2013年以降のカンポン変動期の二期であると仮説できた。
 これまで新住民と旧住民は一色単に考えられてきた。しかし本調査を通じ、新住民は、はじめ、旧住民と同じエリアに住むが、一定期間住むと、そこを抜け出し、新住民居住区に移り住む事が多く、旧住民と新住民の居住区がはっきりと別れる傾向にあることが明らかになってきた。その居住地域は、旧住民はパサールに隣接するエリア(カンプン・ジャワ北部)、そして新住民はその南(カンプン・ジャワ南部)に広がっているという知見に至った。
 このようなカンポン内の流動的な動きは、ジョコ・ウィドド現州知事のカンポン改善運動、ブタウィ民族復興運動などにより変貌を遂げる、現代ジャカルタの諸相を把握するための一考察となることが期待される。

【コメント、質問】
 内藤耕先生:本報告は、農村が本来カンポンであることと区別して都市カンポンと呼んでおり、その一つのケース・スタディーである。パサル・ミングは非常に規模が大きく、複数の市場から構成される広域市場と見なせる。本報告で評価したい点は以下3点である。
 第1に、現在に至るまで、都市における地域やコミュニティに関する研究は少なかった。特にジャカルタの研究はスハルト時代において少なく、民主化が進展する中で、研究が増えることを予想したが、実際は増えていない。また調査が容易になった一方で、都市化に伴い個人主義が進んでいるため、これらの都市研究は難しいであろう。なぜなら、農村調査と比べ、都市調査においては、調査者とインフォーマントとのラポール形成が重要であり、これを作らないと話してくれないという問題がある。結果的に、これまでの農村調査と異なり、都市調査の難しさがそこにあるが、そのような状況下において調査ができた点は評価できるであろう。
 第2に、本報告の目新しさである。本報告はこれまで自分自身が持っていたパサールに関するイメージとは異なる印象を与えた。それは、インフォーマル・セクターの流入が続き、非公式パサールが拡大傾向にあるという点である。新聞報道等でもジャカルタ全体で露天商が減っているという記事を見てきた。地域的な濃淡と捉えることができるのだろう。ジャカルタにおける露天商の一掃はスティヨソ市長の時代から始まった印象を持っている。例えば、華人追放事件以降に作られたインドネシア最古の中華街コタのパンチャランの強制排除が2003年にあり、都市の正常化もそのころ行われ、都心部のインフォーマル・セクターの弾圧は急速に進行してきた。スティヨソ市長はトランス・ジャカルタ導入など、交通渋滞の緩和という意図から、道路まではみ出していた露天商に何らかの対応を求めたという。そのため、インフォーマル・セクターは縮小傾向にあると認識していた。しかし、本報告では都市郊外のカンポンにおいてインフォーマル・セクターが拡大していると示唆され、非常に興味深い。

(疑問点)
 次に、コメントないしは疑問点を述べる。

①同郷ネットワークとその他のネットワークの比較において、同郷ネットワークに頼ったケースでは、社会移動 や雇用の点で安定性を持っていないが、その他のネットワークでは安定性を持っていたという言及は、面白い知見であろう。
その他のネットワーク、例えばパサールで知り合った人に仕事を譲ってもらう等ということが通常で、逆に同郷ネットワークによる安定性よりもそれによる制約の方が大きいのではないか。

②報告で言及されていたジャボデタベック・チランカルタ首都圏の面積は大きすぎるので、再確認した方が良い。

③パサル・ミングの人口推移について
本報告では新住民が流入し、人口が増加したという印象を抱くかもしれないが、新規住民の流入は、パサル・ミングは鉄道による交通の便が良く、都心へのアプローチが良いために、戦略的なものであると理解した方がよい。
 
④旧住民の民族構成について、自分の調査イメージと異なる。野菜売りはブダウイ人が多く、衣類はスマトラ人が多いなどの、販売商品に応じてエスニック構成が異なるという印象を強く持っている。旧住民の雇用者と新住民の被雇用者というような区分が単純化しすぎている印象を得た。

⑤4ページ又は全体を通した知見の点で、同郷ネットワークを持たないという点と27枚目のスライドで主張した段階的なネットワークの利用という点と矛盾している印象を得た。

⑥旧住民と新住民とで居住域が異なるという事象は、都市化の過程では当然でないか。最初旧住民の居住域に住んでいたという点は、そこに下宿があり、彼はそこで暮らした後にお金を貯めて外へ移動する。どこにでもあるプロセスではないか。

(質問)
①パサール隣接型カンポンを扱う意味とは何か?パサール周辺に多くのカンポンが出来上がっていく状況はよく理解できるが、パサールとカンポンの概念的接続が不明瞭である。このことは、問題意識や調査方法に関わってくる。次の調査ではカンポンにアプローチすると述べていたが、現時点でカンポンとパサールの関係が整理されていない。パサール周辺だから多様化が進むという理解なのか。

②調査手法に関して、概要でも報告してほしかった。インフォーマントの数、パサールの商人へのアプローチ方法、特定の商人に偏っていないか等。フィールド選択の理由も知名度だけではなく、固有性に従って意味づけする必要があるのではないか。

コメントに対する報告者の回答
①パサール隣接型カンポンを扱う意味・意義について
本報告は、カンポン形成期でなく、現代の時代の流れの中での変容期を扱った。カンポンが作られ、そこでの住民性を見ていくだけでは類型化できない。従来のカンポンは政策面から捉えることはできるが、政策文書等で表出しないパサールとカンポンの接続は経済活動があるからこそ、カンポンで旧住民と新住民に分離されていったということが新しい知見である。居住空間である一方で、自らの生死と関わる経済活動の場と捉えたからこそ、新しい知見が得られた。経済活動が主に行われているカンポンでは、カンポンの歴史的文脈の中でも別の意味を持つと考える。

②調査概要について
 2007年から2009年にかけて調査を実施した。
2007年に、PKK (婦人会)へ対して、カンポンの住民に対するアプローチ方法と政策実施に関して、農業省近隣のRTにあるPKKで調査を実施した。2008年5-9月、パサル・ミングの店舗で住み込み調査を行った。その際、旧住民と新住民との間に異なる構造があるのではないかと疑問を持ち、そこで旧住民を対象に計35人にライフ・ヒストリーをうかがうと同時に、パサールでの生活状況をインタビューした。
 2008年9-12月、新住民であるジャワ人若年労働者を対象とし、パサールに流入する際の経緯、生活のなかでの言語使用を調査した。2008年12月-2009年はパサル・ミングで働く新旧住民に30人にインタビューを実施した。
 その後、カンポン内の2000年代前後に作られた新住民と旧住民の混住地域において、男女30人ずつインタビューを行った。これらのインフォーマントに対して、今後継続的に住民調査を実施する予定である。

【質疑応答(敬称略)】                                        
質問:内藤耕
パサール隣接型カンポンにアプローチする研究意義は理解できた。インフォーマントの数は30人×3グループということでいいか。
回答:細淵
はい。調査当時は新住民と旧住民の区分をしなかったため、2000年代前後に来た労働者を対象として調査を実施した。


質問:青山亨(東京外国語大学)
ブダウイ人は野菜売り、スマトラから来た人は衣類という、そういう構造が一般化している中で、今回の発表はそうではないという理解でいいか。

回答:細淵
今回の調査では、従来の職業的コミュニティ分類は見られなかった。衣類を扱っているからパダン人というわけでなく、華人、パダン人、スンダ人等が衣類を販売しており、特定のエスニックに限られている印象はない。例えば、華人はパサル・スネンでのネットワークを元にパサル・ミングへ流入し、商売をしている場合がある。そのため、パサル・ミングのみにデータに限定はされるが、販売関連の仕事においてエスニックに関係ないと言える。当時の被雇用者はジャワ人が多かったが、現時点ではスンダ人とマドゥラ人が非公式のパサールに参入している。
インフォーマル・セクターが縮小傾向にあることは認める。スティヨソ市長時代のコタ一掃の際には、パサル・ミングのインフォーマル・セクターでの商人は一掃されず、2013年になって初めて(本格的な)一掃された経緯がある。上部権力により一掃しても、翌日からまた商売をしているという実態がある。異例の通達が出たのは2013年某月であり、「パサル・ミングの一掃は完了した。ただし特定の時間は商売しても良い」とあり、非公式に経済活動が許可されている。2013年の傾向を見てみると、タナ・アバンでのデモが起こり、経済活動を要求するという動きがみられた。このように、現在のジャカルタ(特にはインフォ―ある・セクター)は変容の時代であり、ジョコ・ウドド現市長が言明するように、多様なカンポンと多様な政策が必要とされる時期になっていると推測される。

質問:井口正俊(無所属)
当時あるいは現在、インドネシア大学または他の大学の方と緊密に共同研究をしているのか、それとも個人で調査を行っているのか。
回答:細淵
2009年にはインドネシア大学の授業の一環で調査を実施した。また、2013年現在はインドネシア大学と共同調査を実施している。

質問:樋本淳也(東京大学)
地方分権化、土地問題、農村の観点から質問したい。
地方分権化に関しては、再集権化について言及していたが、99年の法律で地方分権化が進展していった場合と、再集権化されていった場合とで違いがあるのか。例えば、ジャカルタはジャワ人の人口が多いため、地方分権化後にジャワ人の意見が反映されやすくなったということがあるのか等。
土地問題に関して。公設パサールではそれぞれの商人が土地権を持っているのか。
農村との関係について。新住民は非公式パサールで働く人が多く、農村の貧困層が流入し成功していると述べていたが、農村の貧困削減という観点から非公式パサールを擁護するという動きはあるのか。
回答:細淵
地方分権化と再集権化について。ジャカルタ市の政策を見たときに、2004年に再集権化されたことで、外部から資金援助が入り、地域開発のための資金が得られるようになった。ジャワ人の意見が反映されるかという点では、いまだなお、インドネシアのジャカルタ市中央にはジャワ人が多いが、スマトラ人も開発分野に入ってきており、ジャワを押し出す政策は出てきていない。ジャワ人の意見が一方的に反映されること少ないといえる。
土地の問題について。公設パサールの土地は基本的にパサール地方公社から借りている。不法占拠している販売者は組合やその土地のプレマン(いわゆるやくざ)に地税を納める形で使用許可を得ている。これらの地税の多くは毎日払う形態をとり、地税証書は発行されない。販売者たちは、自身の言葉の使用方法でアイデンティティの置き方を定め、地域での安定的な関係を維持している。
農村との関係について。これらの方向の事例が農村の貧困層減少と関連する傾向をいまだ立証できていないので、今後の課題にしたい。

質問:青山亨
非公式パサールは不法占拠であるが、いることが認められているということは、インフォーマルな関係性であって、法的には認められていないということか。
回答:細淵
はい。また、当局に対して、デモ等自己の権利を主張する動きは2013年9月の一掃の際に見られるようになっている。

質問:弘末雅士(立教大学)
新住民という形での分類の点、パサールでの活動と絡めて、面白く話を伺った。気になった点として、旧住民、新住民という二元論がどこまで有効かどうか。重複部分もあるように思えるし、両者は流動的で乗り入れ可能で、お互いを必要としているのではないか。新住民の人たち、つまりインフォーマルな仕事をしている人たちが言語使用を使い分けているということを個人主義と言っていたが、それを束ねていくときに、個人主義という言葉で表現可能だろうか。然るべき原理があるのではないか。
回答:細淵
修士論文では貧困の研究をしており、貧困層の階層分類で最下層、中間層を分類した際に、何が境目にあるのかということが問題になっていた。そのため、本報告では、これらの分類を旧住民、新住民という枠組みで語る試みをした。新住民は流動的で、旧住民は守られているために安定的に暮らしている。また、新住民の言語使用の個人主義には決まりがあり、パサールでは華人が使用する貨幣単位を用い、普段はインドネシア語を使っていても、旧住民と話すときはジャワ語を話すといったパサル・ミングにおける前提がある。また、旧住民に追いやられたという話をすると、新住民のグループに参入できる。例えば、他地域ではバイク型タクシーの組合に入るときに入会金を必要とするが、パサル・ミングにはそのような仕組みはない。
資本とは異なる論理で参入しやすい傾向を持ち、パサル・ミングの住民であり且つ旧住民に搾取されたという経験が重要である。農村の中で都市化が進み、移動してくる人の階層が異なっているのではないかと仮説することができるであろう。ただし、新住民、旧住民という枠組みは、今後も検討していきたい。

質問:内藤耕
新住民が旧住民に搾取されているというのは、言説に過ぎず、他者を措定していくときに、その語りを選んでしまうだけではないか。本報告では新住民・旧住民と一般化した言葉で説明したが、依存しているネットワークはカンポンやパサールによって異なるだろう。プレマン(やくざ)と誰がつながっていくのか。旧住民と呼ばれる人たちは、プレマン・ネットワークが核になっているわけではない。スンダ人がつながれば、すべてスンダ人になっていく。ネットワークの特性があるのではないか。
回答:細淵
新住民が旧住民に搾取されたという語りは、同郷ネットワークを用いたにも拘わらず、労働条件に格差があるという現実の中で継承されていく。新住民として流入する際に、仲間を探すために語りが有効に使われていくのではないか。パサールのこの立地条件のカンポンを見ると、新住民と旧住民で分裂が存在しているが、今後はそれほど分裂していないカンポン・ジャワの地域を研究対象として取り上げ、新旧住民が入り乱れる場所で。いかなる地域運営がされているか見ていく予定である。

質問:内藤耕
冒頭でこれまでのカンポン研究は均質的に捉えているといわれていたが、1990年代以前から多様化が進んでいると研究史上言われている。倉沢研究を見ても、持ち家がある住民にしかアクセスできず、賃貸で入っている人が6か月といった短期間で入れ替わるために、定住型にしかアプローチできていなかった。それくらいカンポンは安定的でなく、流動的ある。周辺の産業環境のところで会社員について言及していたが、彼らは下宿しており、多くは単身者であろう。そのような階層は定着度が非常に低い。カンポンは均質ではなく、階層化している。

回答:細淵
そのため、パサル・ミングを扱う意義がある。2000年代の研究では、カンポンそのものではなく、地域の空間を論じたものが多い。そこでは中間層が増えてきて、施策が入ってくることは明らかになっても、土着的なものや、それがどのように形成されるのか見えてこなかった。またスカルノ、スハルト時代にどのようにカンポンが形成されてきたのかに関する疑問も残っている。
カンポンは個々に特徴が異なるため、本報告では伝統的要素を持つカンポンを調査対象として選んだ。スハルト政権の後期に作られたカンポンや、コタのようにさらに古いカンポン、新しく開発されているカンポン等、それぞれを見ていかないと全体性を語るができない。そのため、現在いくつかの地域を抽出し、調査を進めている。

質問:内藤耕
パサル・ミングの前史への言及が大ざっぱ過ぎる。パサル・ミングは果物取引で発展してきており、ブタウィ人が果樹を持ち寄って日曜日ごとに販売していた。ブタウィ人とジャワ人、新住民が歴史的に構築していったと考えていいか。
回答:細淵
今回は時間の関係上お話しできない点が多かった。歴史的背景に関しては、修士論文「生きるための選択」にて記載しており、ご参照されたい。簡潔に。民族流入の形態を歴史的に見ると、ブタウィ人が最初に居住しており、その周辺に華人が居住していた。鉄道が導入されるとジャワ人が流入し、その後マドゥラ人等様々な民族が流入していた。現在その歴史的な傾向を考察している途中である。

質問:青山亨
パサールがあるからこそ形成されてきたカンポンであるという理解でいいか。
回答:細淵
Lはパサル・ミングのさらに郊外に立地しており、ジャカルタに入るか入らないかという場所に位置した。また、もともとはブタウィ人と呼ばれる、「原住民」が住んでいたこともあり、行政政策が覆う投下された傾向にある。しかしながら、パサル・ミングはその立地から、1990年以降初めて行政の整備が入り始め、近年大きくなりすぎた市場に関して、着目されてきた場所である。そのため、露天商排斥の動きが遅れて入ってきており、現在さらなる周辺地域に向かって拡大発展している地区である。

質問:岡田泰平(成蹊大学)
公設パサールと非公式パサールの両方が存在し、非公式パサールで働くことで成功している中で、公設パサールで働いている人はなぜ非公式パサールに参入しないのか。また、非公式パサールで失敗した人はパサールから出て行っているので、成功事例しか集まらないのではないか。貧困地域に暮らし、パサールで成功した場合、その後もそこに居続けるのか又は移動するのか。
回答:細淵
公設パサールは契約が切れると外に出ていく傾向にある。非公式パサールにも失敗事例がある。非公式パサールでは、低価格低コストのビジネスへ参入できるが、そこに入らず村に帰る人もいる。女性の場合は、携帯などの21世紀インドネシア社会に浸透した新しいツールを使い、別の都市住民と知り合って結婚して出ていくのが成功事例と言える。新しい傾向として開かれた市場もある。
カンポン=スラムではない。インドネシアのスラムはカンポン改善運動の時期に、スラムの形態をとったカンポンが出てきた。それ以前、カンポンはただの居住空間に過ぎない概念であった。ジャカルタは植民地都市であり、最初の居住空間がカンポンであった。インフォーマル・セクターが多く住むカンポンもある。
補足:内藤耕
非公式パサールから公設パサールへ参入することもあるが、難しい傾向にある。空きが出た場合に外部から参入することもある。公設パサールは最初の準備段階で、買い付けを自ら行う必要がある。

質問:青山亨
カンポンは素晴らしく住環境がいいというわけではないが、成功した人はカンポンに留まることを選ぶのか?
回答:細淵
2008年~2009年の調査では他へ移動する人が多かったが、2013年の調査では貯金したとしても、同所に住み続ける人が増えている。新住民としてのアイデンティティを持ち、中間層として生活していけるだけの素地が形成されており、さらに整備されているために暮らしやすいと感じる人が多い。また地価が上昇傾向にあるため、時間を置いてから移動することを考えている人もいる。

質問:青山亨
旧住民は居座っており、新住民は流動性が高いと定義しているが、今の話を聞いていると新住民も定住している状況があるのでは。
回答:細淵
その場合、旧住民の定義が問題になる。今後カテゴリー分類を課題としたい。

質問:内藤耕
スライド32枚目で、「2013年以降の第二期」というのは大胆な予想だろう。ジョコ・ウィドド現州知事の政策には目新しさがなく、これまでの都市コントロールの集大成ではないかという印象を持っている。そのため、庶民派として人気がある一方で反対運動も起こっている。ジョコ・ウィドドの政策を2013年のメルクマールとしているが、同政策をどのように捉えているか。
回答:細淵
ジョコ・ウィドド現州知事の政策はカンポン改善運動を行っているので、住民のなかにはスハルト政権のアリ・サディキンの再来と考えている人も多い。ただし、アリ・サディキン時と異なる点としては、カンポンの多様性を認め、分類をした結果、最低限行わなければならないカンポンを分類し、ジャカルタ内、ないしは首都圏と協働し、ときにはRT
長との話し合いを通して、地域の人とともに段階的に進めている。地域を生かしながら政策を実施している。また、ジョコ・ウィドド現州知事はメディアを多用しており、これまでカンポンを認知していなかった上・中間層の人々がカンポンを捉えなおし、新たにカンポンがある土着の場所へ戻る傾向がある。2012年と2013年時点で、人々の会話が全く異なっており、地域活性化運動のきっかけとなっていると言える。

(文責: 新谷春乃)

2013年度第4回(10月)の関東例会のご案内

関東例会 10月例会(10月26日開催)のご案内をお送り致します。

今回は、神田真紀子会員による「保護領時代カンボジアにおける都市アンナン人の社会的紐帯」、及び、細淵倫子会員による「パサール隣接型カンポンの住民構造:南ジャカルタ市パサル・ミング調査(2007-09年)を事例に」の2報告です。

詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2013年度10月例会>
日時:2013年10月26日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:神田真紀子氏(なし、2013年3月末日迄東京大学大学院博士課程 人文社会研究科)
コメンテーター:今井昭夫先生(東京外国語大学教授)
報告題:「保護領時代カンボジアにおける都市アンナン人の社会的紐帯」

<報告要旨>

本報告は、カンボジア保護領期、カンボジア都市部のアンナン人(ベトナム人)が参加した同郷者会、同業者会、相互扶助会の諸活動について検討し、移民の社会的紐帯を手がかりとして、アンナン人の移住と定住の実相に迫る試みである。アンナン語(ベトナム語)新聞やガイドなどに言及され、関心の払われていた各組織を中心に、その社会活動と相互扶助について分析する。なかでも、アンナン人会館や各地の同郷者会などでの出身地による紐帯の変遷をたどるほか、女性参加や社会的弱者救済の関心が見られた「高棉仏教会」、官民の連帯もみられる通称「サークル・アミカル」といった広い階層を対象にした同業者会にも着目する。社会参加としての慈善事業、定住度をおしはかることのできる墓地建設問題にも、各会の活動との関連で格別の注意を注ぎたい。以上のアンナン人社会の分析を通じて、カンボジアにおける植民地都市の実態とその変容解明の一助としたい。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:細淵倫子氏(首都大学東京人文科学研究科社会行動学専攻)
コメンテーター:内藤耕先生(東海大学文学部アジア文明学科教授)
報告題:「パサール隣接型カンポンの住民構造:南ジャカルタ市パサル・ミング調査(2007-09年)を事例に 」

<報告要旨>

これまでカンポンは、都市における「ムラ」を表す概念であり、同質性・均質性を持つ、インフォーマル・セクターの居住空間であると認識されてきた。本報告は、パサル・ミング地区におけるカンプン・ジャワの住民を研究対象とし、21世紀のインドネシア・ジャカルタのカンポンにおける社会構造の動態および、これまで不明瞭であったカンポン住民の経済活動の実態を明らかにすることを目的としている。なお、本報告は、本研究者が、2007-2009年同地区において実施した調査結果に基づいている。また、本報告は、現在、ジョコ・ウィドド州知事のカンポン改革政策により変貌を遂げるジャカルタの諸相を把握するための一考察となることが期待される。

2013年度第3回(6月)の関東例会の報告

2013年6月22日(土)に開催されました2013年度第3回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載致します。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:山口元樹氏(慶應義塾大学大学院文学研究科 博士課程)
コメンテーター:服部美奈先生(名古屋大学大学院教育発達科学研究科 准教授)
報告題:「オランダ領東インドにおけるアラブ人コミュニティの教育活動―1920年代以降の停滞と対応―」


【報告要旨】
 オランダ領東インドのアラブ人コミュニティは、イスラーム教育の近代化において先駆的な活躍をしたことで知られているが、植民地の公教育制度からは排除されていたと理解されてきた。それに対し本報告は、1920年代以降のアラブ人コミュニティの教育活動を、東インドのイスラーム教育と公教育の関係に着目して検討することにより、アラブ人のコミュニティのアイデンティティの問題、特にインドネシア社会との結びつきを明らかにした。
 インドネシアにはごく少数のアラブ人が居住しているが、大多数はハドラマウト地方出身のハドラミーである。彼らは東インドのムスリム社会の中で、特殊な立場に置かれていた。すなわち、「外来東洋人」に分類されながらも、マジョリティであるプリブミとイスラームを共有していたということである。
 19世紀後半から20世紀前半にかけて、世界中の様々な地域でイスラーム改革運動が生じたが、東南アジアのアラブ人の間でも「覚醒」(ナフダ)の動きが生じた。アラブ人はプリブミに先駆けて覚醒し、イスラーム教育の改革において活躍した。
 20世紀初めの「倫理政策」の開始以降、公教育が普及し始め、1920年代までに概ね完成し、量的にも拡大した。この時期までに、東インドのムスリム社会においても、公教育の重要性に対する認識が高まった。プリブミのムスリムは公教育に高い関心を示し、それに対応したマドラサが作られたのに対し、アラブ人は対応に遅れをとった。アラブ人コミュニティが公教育に否定的であったほか、公教育制度が「人種」による住民区分に基づいていたことが障害となったのである。
 1920年代末以降、アラブ人コミュニティの間では、帰属意識の分裂や教育活動の停滞により、危機感が高まった。社会的な上昇の機会が提供できない教育制度が問題視されたほか、1930年代の不況によって、就労のための教育の必要性が認識されるようになった。そこで、二つの方向の対策が取られたのだった。一つはエジプトへの留学であり、もう一つは東インドの公教育制度の利用である。1930年には、スラカルタに、最初の国立オランダ語アラブ人学校が開設された。アラブ人コミュニティによる公教育制度の活用は、不況の影響に阻害されつつも、国立学校化以外の手段によってある程度改善されていった。
 以上のように、1920年代以降のアラブ人コミュニティは、イスラーム教育の改革で先駆的な活躍をしたが、教育活動の停滞が問題となり、それに対して二方向の対応をとった。それらの対応は、アラブ人コミュニティの教育活動は中東イスラーム世界との結びつきを維持しながらも、公教育制度から分離していたわけではなく、東インドのイスラーム教育の展開と一致していったことを示している。すなわち、教育がアイデンティティを生むという観点に立てば、アラブ人コミュニティの間では、東インドのムスリムとしてのアイデンティティの形成が進んだと考えられる。


【コメント】
コメンテーター:服部美奈先生(名古屋大学大学院教育発達科学研究科 准教授)

20世紀初頭のイスラーム改革運動を追究した本報告は、教育学分野でも新しい観点を有している。アラブ人の運動をプリブミの運動と比較した場合、方向性は同一でありながらも独自性を有しているという点で、意義ある研究である。

<コメンテーターからの質問>
質問①:アラブ人と華人の間にマイノリティとしての共通点を見出すことができ、両者の間に比較対照性があることが興味深い。プリブミのムスリムはイスタンブルには留学せず、メッカとカイロに留学していたが、なぜアラブ人はイスタンブルに留学したのか。

質問②:ジャムイーヤト・ハイル以前のアラブ人教育はどうだったのか。

質問③:本報告の結論「全体としては東インドのムスリムとしてのアイデンティティの形成が進んだ」ということは、プリブミによる活動の結果と共通性を有している。しかし、実際の教育内容においては、アラブ人の特色があるのではないか。

質問④:アラブ人にとってアラビア語はどのような言語だったのか。

質問⑤:アラブ人コミュニティはアラブ人の教師を招聘していたというが、「教師」とは何を意味しているのか。中東のマドラサにおける近代的イスラーム教育の教師か、それともウラマーなのか。招聘された人々の現地でのステータスはどうだったのか。

質問⑥:西スマトラのミナンカバウ地方のスコラ・アダビーアのように、オランダ語原住民学校に改編された時点で、マドラサではないのではないか。

質問⑦:ムハマディヤの学校が単に「オランダ語原住民学校」と呼ばれた場合、ムハマディヤの独自性がどの点に見られるか。また、ムハマディヤの中では、学校建設に反対する動きがあったが、そのような葛藤がアラブ人コミュニティにもあったのか。

質問⑧:国立のオランダ語原住民学校と、私立のオランダ語原住民学校の違いは何か。補助金やカリキュラムの違いか。

質問⑨:どのような特徴の人々が公教育に対応し、どのような人々が対応しなかったのか。アラブ人コミュニティ内部で、多様性が見られるのではないか。

【山口氏の回答】
回答①:19世紀末にオスマン帝国はバタヴィアに領事館をつくり、東インドのムスリム社会全体に影響力があると考えられていたアラブ人に接触を図ったことや、アラブ人コミュニティと中東との精神的距離の近さが要因として挙げられる。

回答②:プリブミの教育とあまり異なる点はないのではないか。東インド生まれのアラブ人はアラビア語をあまり使用できず、普段はジャワ語、マレー語を使っていた。そして、東インドで学んだだけでは、アラビア語が使用できない状態は変わらなかった。ただし、裕福なハドラミーは子息をハドラマウトに送って勉強させていた点では異なる。

回答③:授業をすべてアラビア語で行うなど、アラビア語教育に力を入れている点では異なる。

回答④:東インドのアラブ人の学校は、徐々に公教育制度の学校に対応していったが、アラビア語に対するこだわりは強かった。独立後、イルシャードやジャムイーヤト・ハイルはアラビア語を教授用語とすることを止めるが、それまではアラビア語にこだわった。

回答⑤:教師にはウラマーが多かった。ただし、チュニジア人のムハンマド・ハーシミーはウラマーではないと思われる。彼は近代的人間あり、ジャムイーヤト・ハイルに体育とボーイスカウトを導入したと言われている。

回答⑥:この時期、マドラサ(宗教学校系統)とスコラ(一般学校系統)について独立後のような厳密な区別が合ったわけではない。公教育に対応するものであっても、宗教が教えられている限りでマドラサと捉えた。

回答⑦:例えば、ムハマディヤの連鎖学校には、アラビア語と宗教がカリキュラムに入っている点が特徴的である。
アラブ人コミュニティの中でも、マドラサを公教育制度に対応させることへの反対は大いにあった。

回答⑧:私立でも補助金を受けている。フォルクスラートの議事録を見ると、私立のまま教員の補充を要求したり、国立化希望したりするなど、様々な要望が見られる。

回答⑨:改革主義的な人々のほうが学校の国立化に対して肯定的で、アラウィー連盟は否定的な傾向がある。ただし、イルシャードなど、一つの組織の中にも多様性が見られる。またトトックとプラナカンの違いが、公教育への対応に表れるわけでもない。したがって、区別は困難である。

【質疑応答】

質問1:アラブ人コミュニティ自身が、「覚醒」という言葉を使っているのか。東南アジアのアラブ人の覚醒とは、「イスラームの純化」と「イスラームと西欧近代文明との調和」を意味するのか。
回答1:「覚醒」(ナフダ)は中東アラブ地域で使われる言葉である。先行研究によると、必ずしもイスラーム改革主義運動と関わるものではなく、民族的なニュアンスを含む言葉として使われている。

質問2:カリキュラムの内容とアイデンティティの形成について知りたい。
回答2:東インドのアラブ人のアイデンティティに関しては、中東研究者の使う、アイデンティティ複合(ムスリムでありアラブ人でありハドラミーであるという状態)という見解が近いと考えている。教育の内容としては、アラビア語を重視し、中東アラブ世界との結びつきが強いが、全体的に見れば、教育制度としては東インド社会の教育の枠内に留まっている。

質問3:中東のイスラーム改革主義思想に基づく、ムスリムとしての「ナフダ」以外にも、様々な方向性を持つ「ナフダ」が、複合的に関わっていたのでは。
回答3:時期によって異なるのではないかと考えている。たとえば、インドネシア・アラブ人協会が「ナフダ」と語る場合、インドネシアナショナリズムへの「覚醒」を指す。「ナフダ」を民族やマイノリティに過度に結びつけることには疑問がある。1920年代にプリブミに向けて用いた場合にはムスリムとしての「ナフダ」であり、使い分けが見られる。

質問4:イスラーム教育の停滞に対し、方向性の異なる二つの対応があるが、それはアラブ人の間で完結していたのか、あるいはプリブミとの関係があったのか。
回答4:アラブ人の中で中東留学について否定的なのは、ナショナリズムを志向するグループであるインドネシア人アラブ人協会である。この協会は当時のムハマディヤの中でも、ハムカなどと関係が良好であった。イルシャードの中では見解が分かれており、否定派はアグス・サリムと関係を築いていった。アラウィー連盟は、公教育制度の活用には取り組んでいない。

質問5:アラブ人コミュニティにおいて、初等教育を修了したアラブ人の生徒たちが、次の段階の教育に進むことを想定した私立学校を開設する動きはあったのか。
回答5:イルシャードを例にとると、1919年には師範学校あるいは中学校を作ろうという動きがあった。師範学校は1930年代半ばに実現するが、まもなく閉鎖されている。その後、アラブ人コミュニティの中には、プリブミの団体と協力しつつ、公教育制度に対応した中学校を開設する意見が見られる。

質問6:イスタンブルへの留学が活発だった頃、アラブ人はどのようなステータスで東インド外に出ていったのか。オスマントルコ帝国の臣民という可能性はあるのか。
回答6:ハドラマウトがオスマン帝国の支配下にあったとして、オスマン帝国の臣民という身分を手に入れ、ヨーロッパ人の地位を得ようとする動きがあった。オスマン帝国もこれに対し、協力をしていた。しかし、オランダ政庁はヨーロッパ人の身分を与えることを拒否することが多かったようである。

質問7:東インドのアラブ人は、特にオスマン帝国の解体後の中東世界の状況をどのようにみていたのか。
アラブ人が複合的なアイデンティティのうち、どの部分を前面に押し出すのかは、状況によって戦略的に変えていったのではないか。
回答7:オスマン帝国の解体後は、その臣民としてヨーロッパ人身分を得ることは不可能になり、外来東洋人の身分を変えようとする動きはなくなる。
アラブ人は定住する傾向にあり、(アイデンティティを)東インド社会の状況に合わせていくことが現実的な選択であったのではと考えている。

質問8:アラブ人内部の分化は、プリブミのそれと対応しているのか。
回答8:全体的に見て、アラブ人は宗教を強調する傾向があり、共産党との関係は良好とはいえない。インドネシア社会のなかのムスリム、いわゆる宗教を前面に出すグループに近づいている。

質問9:アラブ人の学校では、どのような教材を使っていたのか。輸入した教材か、それとも現地で印刷していたのか。アラブ人の出版・印刷業は教材作成に関わっていたのか。
回答9:アラビア語については、東インドの改革主義団体が一般的に使用するエジプトの教材を、オランダ語については、当時の公教育で定められていた教科書を用いていた。アラブ人の出版・印刷業は、教科書の出版に役立っていなかったようであり、独自の教科書の作成が遅れていることが問題視されていた。

第一報告、以上。




第二報告(15:45~17:45)
報告者:合地幸子氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究科 博士後期課程)
コメンテーター:澤井志保先生(天理大学国際学部 助教)
報告題:「インドネシアにおける介護労働の専門分化に関する考察―プラムルクティ研修課程の事例から」



【報告要旨】
 本研究は、インドネシア共和国ジョグジャカルタ特別州における介護研修モデルを通して、国内における介護労働者の位置付を明かにすることを目的とする。その上で、とりわけ雇用者の自宅で働く介護労働者に注目し、介護労働の専門分化について検討する。今日我々は、世界的な高齢化という歴史的にみて人口構造が変容する場面を迎えている。世界的に課題となっている高齢者問題は、東南アジアにおいても深刻な問題となり始めている。
 人口大国であるインドネシアでは、1990年代より高齢化 が始まり(高齢化率1990年6.6%から2012年約10%[BPS1998,2000])、高齢化率も急速に進展している。また、平均余命は1967年からの45年間で約20歳近く伸展した(1967年50歳代前半から2012年73,2歳)。高齢化率が加速した要因には、1970年代から開始された人口抑制政策および医療水準の向上による新生児死亡率の減少があげられる。
 平均余命の伸展は、老化現象とともに生きる高齢期を長くした。また、近代社会成立の過程において、疾病構造は感染症から非伝染性疾病へと変化している。医療水準の向上は、初期治療による救命を可能とさせた一方で、予後に重度化する後遺症を抱えた高齢者を増加させる要因となり、中長期的には障害を抱える高齢者に対する介護が懸念される。
 インドネシアにおける伝統的社会では、子供や高齢者は、家族や親族、地域共同体のなかで見守られてきた。現在でもこのような、「ケア」における規範は、とりわけ農村部においては失われていない。ところが、近年の高齢者介護の重度化と長期化は、介護における役割を期待されている家族に負担をもたらしている。そのために本報告では、介護における家族の負担を軽減する可能性を持つ、専門的な介護労働者に注目する。
 インドネシアにおける研修制度は、1977年に教育研修あるいは技能訓練制度が整えられたことを契機に、とりわけ農村部における貧困者の知的水準の向上と失業率を減少させる目的で始まった。介護研修は、独立して働くことや専門職としての人格の開発を目的としている。ジョグジャカルタ特別州においては1980年から、都市部を中心とした民間の医療関係者による介護研修として実施されており、資格を受けた人びとが国内で介護労働を専門的におこなっている。
 この専門的な介護労働者に対する呼称は、インドネシアの中で統一されたものとなっていない。そのために、現地の人びとには認知度が低い。調査では、実際に高齢者介護の負担を抱える人びとですら介護労働者の実態を知りえないことがわかった。伝統的社会において、社会が高齢者をどのように処遇して、何が理想的な介護であるかを問う前に、実際に障害を抱える高齢者とその家族が増加している現実に目を向けなければならないだろう。
 専門的な介護労働者を雇用する世帯は、わずかな数に留まっている。介護労働者の数が少ないこともあるが、一部の経済的に余裕がある家庭では、住み込みの家事労働者を雇用することで、家事労働の一部の行為として介護を任せているのも現状である。他方で、介護労働者が雇用された事例では、専門的な介護労働者に対する認識を持たない一部の雇用者との間で、労働内容に関する問題を発生させている。
 これまで研究対象として、介護にかかわる家事労働者や介護労働者は、移住労働を目的としたグローバルなヒトの移動として注目されてきた。そのために、国内における介護労働者へは目が向けられてこなかった。伝統的社会における家族介護を補完する専門的な介護労働者の登場は、潜在的に有望な役割を持つと考えられるにもかかわらず、その実態は明らかにされてこなかった。
 以上の問題意識から、本報告では、介護研修の課程を描写すると共に、認知度が低いと思われる介護労働職集団に注目し、国内における位置づけと自律性を検討する。また、介護労働における専門分化について考えることは、伝統的社会における「ケア」の規範を再考するためのひとつの手掛かりとなるだろう。
 本調査が対象とする介護研修は教育講座として教育・文化省のカリキュラムに従って民間病院の地域保健サービス部門でおこなわれている。研修を修了すると行政により公式な資格が与えられる。介護研修を受ける人びとは、多くが都市部や都市近郊、農村部の農家出身者であった。また、最終学歴は高等学校や職業高校卒業者が6割を超える。この状況は、農村部における知的水準の向上と失業率を改善するという、研修の目的に合致するだろう。
 しかしながら、近年では農村部における教育を受ける機会が向上している。中学校や高等学校、職業高校レベルの教育、さらには研修を受けることで、より待遇の良い職業とより報酬の良い職業を選択できる機会が増加した。そして、介護労働は職業選択のひとつとなった。
 それではなぜ、介護労働を職業として選択するのだろうか。その目的の一つは、研修による専門性の獲得である。こうしたことから、本調査では、インドネシアにおける介護労働者の専門性 を実証的に把握することに努めた。
 ジョグジャカルタ特別州ではプラムルクティ(Pramurukti)と呼ばれている介護労働者になるための研修が実施されている。プラムルクティ研修は、看護学に基礎を置き、医師や看護師、栄養士などの医療専門職による理論教育と病院や高齢者福祉施設における実習から構成されている。本稿ではこのプラムルクティを介護労働者と呼ぶが、本来はインドネシアには日本の介護に完全に合致する語彙はない。調査地において、プラムルクティという呼称は、「看護師を助ける人(Pembantu perawat)」や「高齢者や病人のための看護師(Perawat orang jompo/sakit)」といった解釈がなされている。以上のことから、報告者は、プラムルクティを広義の医療専門職の中で検討することを試みる。
 エリオット・フリードソン[1992]は、アメリカにおける医療専門職としての医師に注目し、構造的アプローチにより、専門職の自律性を社会的分業体制の中で考察した。専門職を定義づける際に重要な要素は、組織、組織化および分業に関連する要素であるという。そして、これらの制度的要素を明らかにするために自律性に着目している。フリードソンによれば、専門職の特性は、専門家による管理された教育を原則とし、資格制度を整備することで他集団から保護され、組織化された自律を守り、自律性という特殊な地位を社会に認めさせる[フリードソン1992:124-125]ものである。
 しかしながら本研究は、プラムルクティという職業が専門職として確立しているかどうかという「専門職性」を問うものではない。社会変化の帰結として、専門分化あるいは分業しているかどうかを検討するものである。
例えば訪問看護や在宅(訪問)介護など、医療専門職による分業が見られるインドネシアでは、構造的アプローチだけで理解することが困難な状況がある。なぜならば、多くのプラムルクティが雇用者の自宅に勤務しているためである。治療を終え介護の必要となった高齢者が行き着く先は家庭である。そこで筆者は、この自律性に注目し、施設における就業と雇用者の自宅における就業の二つに就業環境を区別して、プラムルクティの位置づけを分析する。
 自律性に注目する理由は、雇用者の自宅において専門家として単独で業務すること、および、生を対象とした責任を負っていることの二つがあげられる。この二つは、介護労働という職業に大きく反映される側面である。そして、移動や隔離を伴う就業環境において、自律性は最も重要なものとなり得るだろう。プラムルクティは、業務遂行に際し、個人として判断を下さなければならない。すなわち自主性と自律性が要求される。
 このような個人の自主性と自律性は、専門職意識に見出すことができる。そこで、プラムルクティの専門職意識(professionalism)を検討した。プラムルクティの考える専門職意識は、二つの意識に区別される。それは、天職(vocation)と職業(occupation)である。彼/彼女らは確かに専門職意識を持っていた。
 上述の異なる就業環境において、施設で働くプラムルクティは医療専門職の階層性の下位に位置付けられ、医療分業体制の中で働いていた。一方、雇用者の自宅で働くプラムルクティは、研修所および雇用者にとって、介護サービスの担い手として位置付けられている。介護労働者を雇用する現地の人びとにとっては、介護労働という職業が国家によって法的に承認された資格を持つ専門職 かどうかということが重要な意味を持つものではではない。プラムルクティ自身が専門職として介護行為をおこなっているかどうかに専門性を求めている。都市部を中心として、専門的な介護労働者は潜在的に有望であるといえるだろう。


【コメント】
コメンテーター:澤井志保先生(天理大学国際学部助教)

 近年インドネシアからの国際移住労働が増加するにつれ、多くのインドネシア人が海外で看護師、介護士、家事労働者などの広義のケア労働をおこなっている。現在は、シンガポール、台湾、香港、日本などのアジア諸国で多くのインドネシアケア労働者が働いている。研究の多くは、受け入れ国側でケア労働をめぐりどのような問題が起こっているかに焦点をあてたものである。これに対して、本研究は、インドネシア国内での問題を扱っており、国際化する社会的関心におけるグローバルな不均衡を是正する上で、ひとつのパイロット的な研究になる可能性を秘めている。
 具体的には雇用者の自宅で働く介護労働者プラムルクティに着目し、インドネシアの急速な近代化の帰結としての人口高齢化を介護労働の専門化という切り口で分析するのは非常によい視点である。
 本研究の広義の介護労働者であるプラムルクティ養成は、インドネシア政府による正規学校教育外(ノン・フォーマル教育)として、高等学校レベルの専門職養成という枠組みを使い、専門職という位置づけと資格を与えている。本報告では、プラムルクティ研修所の運営システムについて、契約形態、給与体系、研修生の社会的背景など細かいデータを踏まえたうえで議論しており説得力がある。
 しかしながら、データを分析し、論者なりの独自の視点をいれるためには、プラムルクティの専門分化の見取り図を提示するには、使用されている複数のキーワードの定義やキーワード間の相互関連性に疑問が感じられるところがあった。たとえば「自律性」という言葉についてだが、プラムルクティが雇用者の自宅にて、介護知識を持ついわゆる専門家として仕事をするという点、患者の命を預かっているという点で、他者の指図を受けないと考える点は理解できる。
 その一方で、介護労働は大部分が感情労働と不可分である。つまり、患者の精神的・感情的ニーズを理解して、プラムルクティ自身が自分の感情をコントロールしつつ、患者とその家族を満足させて初めて労働が達成されることを考えると、プラムルクティの仕事は、患者とその家族からの自律性の他に、彼らの感情への従属性なしには成立しえない。換言すると、プラムルクティとして良い仕事をするためには、自律性と従属性と言う相反する能力の両立が要求される。現時点での発表者の議論は、こうした二面性を考慮せずに、自律性のみに焦点にあて議論しているかのように見える。感情労働を潜在的なハンディキャップとしてしか見ていないのは少し残念なことである。
 一見プラムルクティの職業的専門性とは無関係に見える感情労働の部分こそが、職業的専門性と表裏一体をなしつつ、プラムルクティの職業的境界線(看護師や家事労働者との境界線)を作っているのではないだろうか。ましてやこの論点は、日本、インドネシアにおいて検討されていないからこそ、この点を発展させることによって、発表者なりの、また、発表者独自の視点が表現できるはずである。
 また、感情労働とは、職業的自律性と分離した概念とは限らない。感情労働と職業的自律性の共存は、プラムルクティを含むすべてのケア労働に共通して見られる関係性であるという、視点の転換が有効である。
 プラムルクティ以外のすべてのケア労働者(インドネシアの場合で言えば医者・看護師・家事労働者)も、程度の差はあれ、プラムルクティと同様に職業専門性と感情労働を組み合わせて労働していると考えられる。ケア労働カテゴリーにおける感情労働と職業的専門性の割合には、複数のケア労働の間でグラデーションがあり、そのグラデーションが職業のカテゴリーを作っているのかもしれない。一例をあげれば、<感情労働:専門知識>の割合が、医者であれば2:8、看護師4;6、介護者6:4、家事労働8:2といったように感情労働と専門性の割合にグラデーションが起こっている、というようなことは考えられないだろうか。グラデーションのバランスの違いが、ケア労働カテゴリー内の分業を組織化し、労働の経済的価値と社会的地位の高さの違いを構造化するのではないか。
 プラムルクティの感情労働の割合は、社会的価値、労働の価値に繋がってしまっているのではないか。こうした分化の中で、感情労働は、専門的知識に基づく労働に比べて経済的価値が低いとみられているとことが専門分化とかかわっているのではないだろうか。
 だからこそ、多くのプラムルクティ自身が考える自らの自律性と、感情労働の付加に対する見合った報酬と社会的地位が与えられていないと考え、長く続かず辞めていくのではないか。患者とその家族が期待する自律性、感情労働の価値がプラムルクティ自身にとって受け入れられないものが多いのではないか。だからトラブルになるのではないか。患者のセクハラ、パワハラを受けやすいという問題には、こうした感情労働の低い経済的価値しか認められていないという家事労働者と共通した問題がみられる。


<コメンテーターからの質問>
① プラムルクティと職業的自律性と感情労働の兼ね合いとは?
・感情労働をどう教えるのか?
・プラムルクティと患者側の考える感情労働にはどのような齟齬があるのか。

② プラムルクティの専門分化のプロセスをみるのなら、同種の介護労働を引き受ける家事労働者とオーバーラップする感情労働や違いを整理するのが有効である。比較することで、家事労働者とプラムルクティが相対的に専門分化していくプロセスがわかるのではないか。
・プラムルクティ自身が家事労働者らとどのように差別化した意識を持っているのか。
(教育水準は家事労働者よりほんの少し高い。しかし、給料は上である、ということを考慮したうえで)
・家族とトラブルになったときの状況をみると、ほとんど家事労働者と変わらないように見える
⇒似通った部分もあるが、お互いがお互いを区別しているような点もある。こうしたことについては、実際の調査においてどのような側面が見られたか。

<合地氏の回答>
① プラムルクティが職業的自律性をどのように見ているか、患者がそれをどのように見ているか
 研修所では、看護学のテキストを使っている、職業倫理や道徳についても看護学のものを共有する。教育者も医者や看護師といった、同じ医療専門職から教えられ、医療専門職従事者としての自律性を教えられる。医療の中で教わる倫理と共にすべて身につける。このため、プラムルクティ自身は、医療職についているという専門意識をかなり強く持っており、自分たちの労働と、家事労働者との区別を意識的に付けている。また報酬面でもこうした職業意識が作用している。しかし、家事労働者とプラムルクティとは、社会においてその区別があまりつけられていない。職業的自律性をもっているが、患者がそれを理解していない、ということが言える。

② プラムルクティがどのように家事労働者をみているか
雇用者や被介護者はプラムルクティが公的に認められた資格をもった人でなければならない、というようには思っておらず、専門的な知識を持っていなければいけない、とだけ思っている。患者がどのように思っているかは今後の検討課題である。


【質疑応答】

<五島先生>
カリキュラムについて、単位数112を4カ月で取るとのこと。この期間からみて専門性というのが、日本の感覚から言うとずれているように思われる。

<合地氏の回答>
研修所間による教育の内容は統一されていないため、各研修所単位数などは全く違っている。これまでの専門職研究においては、大学等の高い教育機関において、専門家による教育を受けたものを専門家であるとしている。プラムルクティはこうした観点では、准専門職といえるかもしれない。4か月で専門性があるかといえば、専門家とはいいがたいかもしれないが、専門性はあるといえる。研修費用と労力が(後のキャリア形成に)見合うか、という質問については、調査では「いい職業である」と考えている人が多いことが分かった。

<五島先生>
しかし、失業対策にしては研修料が高いのではないだろうか。

<合地氏の回答>
発表でも言及した通り、一度職に就いたものなどが、始めることが多く、低階層の人々が家事労働者になるのに比べ、中学校以上の教育を受けている人々、配偶者が土地を持っている自作農民、など収入の安定した人々がプラムルクティを目指す事例が多い。

<南波氏>
プラムルクティの依頼数と紹介状況に関して、依頼者数が増加しているのに対して実施数はあまり変わらず、むしろ減っているという状態が起こっている。その一方で、日本では、やはりインドネシア人の移住が増えている、と感じる。インドネシアの政府はこうしたことをどのように考えているのか。その背景には、一定程度のエリート、出世志向のある人々がこのようになっているのだろうか。そうであれば、むしろ収入が少ない人々をプラムルクティにしよう、という考えは、政府にはないのだろうか?

<合地氏の回答>
インドネシア政府は外貨獲得のために、海外労働を奨励している。エリートや出世志向のある人のみが海外移住労働を目指しているわけではない。次に、国内のプラムルクティ数が増加しない理由の一つとして、研修生が集まらない事が挙げられる。プラムルクティ研修よりも語学研修やコンピューター研修に人気がある。国内でプラムルクティを増やそうという動きはない。

<青山先生>
上記の質問についてだが「実施率が下がっている」「割合が低い」ことに関してはどうか。

<合地氏の回答>
 実施率が低下しているのは、依頼数に対してプラムルクティの数が少ないことによるが、プラムルクティが他の派遣所から派遣されている可能性もあるので単に実施膣が下がっているとは言いがたい。

<青山先生>
南波さんの2番目の質問に関わるが、所得の低い人たちに関してはどのような対応があるのか。

<合地氏の回答>
研修を受ける条件は中学校卒業以上である。小学校卒業者非とっては看護学のテキストは難しく、小学校卒業者が対象になることは少ないと考えられる。

<野中先生>
A.プラムルクティはどれぐらいの人々に資格が出ているのか。
B.1980年からこの制度が始まっているということだが、どのような数の変動を見せているのか。そういったことはわかるかどうか。

<合地氏の回答>
ジョグジャカルタ特別州では、これまでに約1000人がプラムルクティの認定を受けている。養成数は、1980年以降徐々に減少している。

<五島先生>
インドネシアの高齢化率は少しイメージしづらいので、日本ではいつごろのどういうイメージなのか教えてほしい。日本の場合は、介護を社会化しなければいけないという過程、職業構造があってこうした話になるが、今日の話では、介護はインドネシアにおいてそういったように思われていないように思えた。日本では老人ホームなどもあるが、インドネシアではそういったものはないのか。

<合地氏の回答>
日本でいうと1970~80年代の高齢化率に近い。日本は短期間で高齢化した。インドネシアも日本と同じ速度で高齢化している。インドネシア人口の母体数が多いので7パーセント(高齢化)だとしても、相当数が高齢化しているとみられ、早急な対応が必要である。
インドネシアにおける介護の社会化が見られるかといえば、政府が女性組織に加入している無償の女性を動員して、地域保健活動を展開している意味で、社会化していると言えるだろうが、介護というよりは予防を目的としたものも多い。

<服部先生>
A.プラムルクティはいつごろからでてきた言葉で、どのくらい浸透しているのか。
B.カテーテルをつけたまま、家に帰る人が増えている、とのことだが、原因として、政府が医療行為のできない患者は家に帰る、という政策があるから帰るのか、それとも、家の経済において、プラムルクティを雇ったことほうが早いからなのか。

<合地氏の回答>
研修が開始された時から使用されている言葉ではないかと思われる。ジャワの人々も、プラムルクティという言葉を知らない人が多いと思われた。政府が完治の望めない患者に退院を進めるというよりは、高齢者側の経済的な問題が大きい。費用が安くて済むので、医師がホーム・ケアを進める場合がある。

<青山先生>
医者、看護師、自宅開業看護師、プラムルクティ、メイドという賃金の順位は分かるが、カテーテルの交換には専門性がいるのでは?

<合地氏の回答>
カテーテルの交換は専門的な知識を必要とする。メイドにはできない。近代医療システムの帰結として、カテーテルをいれれば延命できるという考えがあるように思われる。

<高良氏>
プラムルクティという言葉は限定性がある、とのことだが、インドネシア全体で見たときに、介護の形態としてプラムルクティは特別なのか。

<合地氏の回答>
プラムルクティはジャワでしか通用しない。ジャカルタでは全く違う呼び方をされている。すべてに共通しているのは、看護士を助ける人である。看護師の下に位置づけられている。

<青山先生>
資格はどの組織が出しているのか?

<合地氏の回答>
市や県が認定する。

<山口氏>
他県にいったときに同じ資格は通用するのか?

<合地氏の回答>
雇用者が納得すればその資格で通用するだろう。というのも、インターネットのHPを読んだ他県の人から依頼があることもある。

<澤井先生>
ジョグジャカルタ特別州は最低賃金の低い州である。メイドやプラムルクティは雇えない、ということだろうか。そうであれば、ジョグジャカルタ特別を調査地として扱う意味はどこにあるのか。

<合地氏の回答>
本当に忙しい時だけプラムルクティを頼む人もいる。また、プラムルクティを雇用する雇用者側の経済状況が必ずしも富裕層ではないという状況をみてきた。ひと月5000円以下の収入しかない世帯で、兄弟間で仕送りなどをして何とか月に9000円の報酬を支払って、プラムルクティを雇用するケースもあった。実の子供が親の面倒をみなければならないのに、実の子供が移住をしている。だからこそ仕送りしていると考えている。被介護者は、流動食のためチューブを装着しており、専門性のあるプラムルクティが必要だった。流動食をとらずに口から食事をとれるようになってからは、介護者をメイドにかえたという事例がある。

<澤井先生>
ジョグジャカルタ特別州では、高齢化が進んでいることという背景があり、富裕層に限ってプラムルクティを雇用しているわけではないということは、つまり、専門知識を持ったプラムルクティに対する雇用ニーズがかなり可視化している地域であるといってよい。親戚一同からお金をかき集めても何とかプラムルクティを雇用しているという状況があると言える。

<青山先生>
ジョグジャカルタ特別州は、地方都市であって、ジャカルタのように近代的産業のあまりないところで、収入も低い、そして高齢化率が高い、高齢者問題が顕著に表れている。病院(医療設備)が普及しているなかで、障害を残したまま自宅介護になった人々が増えている背景がある。

第二報告、以上。

2013年度第3回(6月)の関東例会のご案内

関東例会 6月例会(6月22日開催)のご案内致します。

今回は、山口元樹会員による「オランダ領東インドにおけるアラブ人コミュニティの教育活動―1920年代以降の停滞と対応―」及び、合地幸子会員による「インドネシアにおける介護労働の専門分化に関する考察―プラムルクティ研修課程の事例から」の2報告です。

詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。


<2013年度6月例会>
日時:2013年6月22日(土)13:30~17:45
会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html


☆第一報告(13:30~15:30)
報告者:山口元樹氏(慶應義塾大学大学院文学研究科 博士課程)
コメンテーター:服部美奈先生(名古屋大学大学院教育発達科学研究科 准教授)
報告題:「オランダ領東インドにおけるアラブ人コミュニティの教育活動―1920年代以降の停滞と対応―」


<報告要旨>
オランダ領東インドのアラブ人コミュニティは、イスラーム教育の近代化において先駆的な活躍したことで知られるが、植民地の公教育制度からは排除されていたと理解されてきた。本報告は、これまで十分に検討されていない1920年代以降のアラブ人コミュニティと東インド社会との関係を、教育活動の検討から明らかにする。
1920年代に公教育の拡充が進むと、アラブ人コミュニティの中では教育活動の停滞が意識されるようになり、ニ方向の対応がとられた。一つは、エジプトへの留学生の派遣であり、もう一つは、公教育制度の利用である。本報告の分析からは、同一人物が両方の対応を推進していたことや、アラブ地域に帰属意識を持つと考えられてきたグループも公教育に関心を示していたことが読み取れる。このことから、1920年代末以降のアラブ人コミュニティは、複合的なアイデンティティを保持しつつ、東インド社会との結び付きを強めていったと言える。


☆第二報告(15:45~17:45)
報告者:合地幸子氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究科 博士後期課程)
コメンテーター:澤井志保先生(天理大学国際学部 助教)
報告題:「インドネシアにおける介護労働の専門分化に関する考察―プラムルクティ研修課程の事例から」


<報告要旨>
インドネシアにおける高齢者の介護は、伝統的に家庭内における家族による介護を基本としており、経済的に余裕がある家庭では住み込みの家事労働者が家事労働の一部の行為として介護を担ってきた。介護労働という職業は、斡旋企業などが海外向けの職業訓練として実施してきたものとして知られている。一方、1980年代から都市部を中心として民間の医療関係者による国内向けの教育研修が始まり、資格を受けた人びとが国内で介護労働を専門的におこなっている。
研究対象としての家事労働や介護労働は、グローバルなヒトの移動として注目されてきたが、国内における介護労働の実態へは目が向けられてこなかった。そこで、本報告では、ジョグジャカルタ特別州における介護研修モデルを通して、国内における介護労働者プラムルクティの位置付けを明らかにする。その上で、とりわけ雇用者の自宅で働くプラムルクティに注目し、専門的な介護労働者としての自律性という観点から、介護労働の専門分化について検討する。

2013年度第2回(5月)の関東例会の報告 

2013年5月25日(土)に開催されました2013年度第2回関東例会でのご報告の議事録を掲載致します。

第1報告
報告者:光成歩氏(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 博士課程)
コメンテーター:坪井祐司氏(東洋文庫)
報告題:「二人のアフマド:1960年代シンガポールのイスラム法制をめぐる論争」
記録者:宇戸優美子氏(東京大学大学院 修士課程) 

【報告要旨】
 本報告では、シンガポールで1950~60年代に進められたイスラム法制に関する議論について、法案草稿者でありシンガポール初の司法長官であったアフマド・イブラヒムとジャウィ月刊誌『カラム』を創刊したアフマド・ルトフィに注目して分析を行った。報告では法制のなかでも離婚と多妻婚の登録を定めた規定について、両者がどのような立場から議論していたのかを論じた。
まず、法制化の背景として、1950年代初頭ムスリムの高い離婚率やカーディーの裁定が問題化し、ムスリム婚姻法改正の機運が高まっていたことが確認された。こうした背景を受けて1957年にムスリム法令が制定、1958年にシャリーア裁判所が発足した。これは婚姻における権利主体としての女性の地位を制度的に確立しようとするものであったが、この時点では婚姻・離婚に関わるイスラム法について具体的に明記したものではなかった。1960年にムスリム法令が改正され、1966年の『ムスリム法施行法』では妻による離婚請求の要件が具体的に明記された。
 次に、法制に対する議論として、アフマド・ルトフィが1950年に創刊したジャウィ月刊誌『カラム』記事が検討された。報告者は『カラム』が、離婚登録での手続きによる権利制限を批判し、離婚の抑制や夫の「権利」の変更ではなく扶養などの義務・責任の履行を立法化することに力点を置いたと分析した。対してアフマド・イブラヒムは、離婚の権限抑制こそがシンガポールのムスリム・コミュニティの利益に叶うと主張した。また「アラブ諸国」の法制を引用し、シンガポール法制の正統性の根拠として提示した。『カラム』はまた、多妻婚を制限する内容の規定が、非ムスリムに対して一夫一妻制を定めた『女性憲章』のひそかな侵入だと苦言を呈した。しかしアフマド・イブラヒムは多妻婚の廃止は近代社会の規範だと考え、『女性憲章』を特定の宗教・民族の規範とみなしその適用を拒否する『カラム』と対立した。
 またアフマド・イブラヒムは、「マスラハ(公共の福祉)」に従ってイスラム法を再解釈するなら、他の民族が享受している「福祉」はイスラムの観点からも受け入れ可能だと主張した。報告者は、ムスリムの婚姻・離婚法制の草稿・推進は、シンガポール全体で社会の安定や福祉の充実を追及するという背景のもとでなされたために、非ムスリムと均質な福祉の実現を目指していたと指摘した。またアフマド・イブラヒムが構想したイスラム法の運用制度は、近代的な司法体系をモデルとし、司法の一端としての役割を担いうる「裁判所」であったとした。上述のイスラム法制は、シンガポールにおける統治機構を再編する過程で、少数派であるムスリムとその諸制度が新生国家の中での位置づけを確定していく過程でもあった。報告者は、福祉・法的権利の均質化と、より「イスラム」らしい規範への志向という二つのベクトルを包摂する一つの制度が確立したと結んだ。

【坪井祐司氏のコメント】
坪井氏から以下3点の指摘と4点の質問がされた。
1.現在のマレーシア研究への系譜
発表者が専門とする現在のマレーシアにおけるイスラム(特に改宗や婚姻)の起源、根っこが今回の発表にある。1970~80年代以降マレーシアでイスラム化の動きが大きくあり、その内的な流れを考えるときにその前の時代に注目する。このことに関しては研究があまり深められていない現状もあり、その点に非常に意義がある。

2.先行研究に対する位置づけ
シンガポールのイスラムについての先行研究は、William Roffが20世紀初頭のマレームスリムについてメトロポリタンという言葉を使い、移民を含めた都市的なムスリム、彼らがマレー語でものを書いたことなどに焦点を当てている。Roffの研究は第二次大戦後も多少はあるが、その後1950~60年代にどうなるかということ。20世紀前半部分と1980年代の運動とがどういう系譜を持つのかという点を深めていく上で、本研究の意義は非常に大きい。

3.資料について
『カラム』という資料は量的にも非常に大きく、1950~60年代のシンガポールで一貫して発信を続けていたもの。ジャウィを使っている点や対象がシンガポールにおけるムスリムといった点など、様々な点でマイノリティという部分がある。あまり取り上げられてこなかった『カラム』を積極的に意義づけ、位置づけていくことにも意味が認められる。

(質問)
①題名に「二人のアフマド」とあるが、二人は何を代表してどういう形で、結局論争として何をもたらしたのか。宗教によらない均質な権利の保障とイスラムの規範の志向の「二つのベクトル」という言及がされたが、それはこの二人によって代表されるものなのか。必ずしも両者がそれぞれの立場ではないという印象も受けた。
②論争によって結果として共通の何か論点が出来て、それが法制化、制度化というところにつながっていくのか。必ずしもイコールにはならないのではないかと感じた。
③全体の位置づけ、前後の時代との系譜性をどのように考えているか。現在のマレーシアにおけるイスラムというところに、どのようにフィードバックされるのか。
④シンガポールの社会というあり方はどうか、マレーシアと比較した場合など。社会の特徴として説明する部分と、イスラムとして説明される部分があると思う。

【コメントに対しての発表者の回答】
①・②今後の研究計画の中では、アフマド・イブラヒムに焦点を当て、この人物を軸に1950~60年のシンガポールとマレーシアをつなぐ研究をしたいと考えている。二人の論争が何をもたらしたか、制度化の方向を左右したかという観点から言えば、アフマド・ルトフィの議論や批判は実際のイスラム法制の制定には大きな影響はなかっただろうという感触を今のところ持っている。
 『カラム』あるいはアフマド・ルトフィに着目してこの議論を進めるメリットは、対比の中でアフマド・イブラヒムの主張、思想の特徴を読み取れること。また『カラム』などのムスリム社会の批判に対する反論という形で、イブラヒムの書いたもの全体の中でも稀に見るほど彼の立場が明確に表れているように思う。二人の論争を見ることで、結果としてアフマド・イブラヒムの考えていることは何だったのかを読み取る形の発表にした。
 二人が思想潮流のどの部分を代表しているのかについては、アフマド・イブラヒムという人はシンガポールのムスリム・コミュニティのある種の政治的なリーダーであっただろうと思う。彼はムスリム諮問委員や司法長官という高い地位を得た人であり、ムスリムが少数派のシンガポールで、イスラム法を守る中で独自の法制度をつくることと、他のコミュニティと同等の権利、福祉、法の下の平等を確保することのバランスをとる努力をしていた人物。それに対して『カラム』は、イスラム法とは本来こうあるべきという立場から、イスラム法で定められていることを国家の法で変更、抑制することに対して議論をしていった。

③現在のマレーシアとの系譜について、実際に50~60年代のシンガポールと80年代のマレーシアでイスラム法制に関わったアフマド・イブラヒムという人物をみることで、思想の系譜という形で二つのイスラム法制のつながりをみることができると考える。Horowitzが述べたように、イブラヒムは80年代にコモン・ロー(イギリスの手続法)をイスラム法制に取り入れイスラムの近代司法化といえる状況を作った。このこととシンガポールの法制化でイブラヒムがなしたことは非常に似通っている。近代司法という枠組みの中でイスラム法を適用していく形でのイスラム法制構想が、シンガポールの時点でかなり完成されていると言える。シンガポールをみることで現代にどうフィードバックできるかは今後も考えていきたい。

④シンガポール社会の秩序としてどう議論するかは、シンガポールの中でムスリムが非常に少数派であること、その中でイスラム法制というのがある程度ムスリムの独自の枠組みを確保する形でなされたということが、歴史的に非常に大きなことだと思う。

【質疑応答】
質問1:二人のアフマドの違いは。政治上の立場ではなく、古典法学と近代法学どちらの立場から考えているのか。今のシンガポールでは1968年の法のままなのか、その後改正議論は起きていないのか。
回答1:イブラヒムは基本的に英語を読んでいるので、近代法学の立場からイスラム法を考えている。ルトフィは新聞社や出版社などでのジャーナリストとして位置づけられており、ウラマーと呼ばれる人ではなかったと思う。ただ議論の中ではイスラム法制に関してウラマーの言うこと、アドバイスを事前に仰ぐべきとは言っている。シンガポールは基本的にまだ1968年に施行されたもの。70年代以降のイスラム法制をめぐる議論は今後の課題としたい。

質問2:『カラム』はムスリム同胞団の機関紙になっていったと言うが、シンガポールでのムスリム同胞団の位置づけ、プレゼンスはどういうものか。シンガポールのムスリムの意見をどの程度代表していたか。
回答2:『カラム』は読まれていた地域が非常に広く、マラヤ、インドネシア、ボルネオ北部、タイ南部まで確認されていて、東南アジアや中東の政治情勢など扱っている事象も広い。また『カラム』の外の媒体との間の論争、ラジオでの発言や新聞での記述について『カラム』で反論するなど、媒体を横断する形での論争があった。ある程度ラジオを聞き新聞を読む層に『カラム』も読まれていたと考えることができると思う。

質問3:アフマド・ルトフィはカリマンタンのどこの出身か。
回答3:現南カリマンタン州のバンジャルマシンの出身。

質問4:『カラム』の論争相手は体制側だけか、在野同士のところもあるのか。
回答4:論争相手としてはムスリム諮問員会、シャリーア裁判所判事、アフマド・イブラヒムの発言についてなど、ある程度体制側の人とのやり取りが多いと思う。それ以外の団体では、1966年に施行される前に法案を廃案にしようという運動をムスリム団体がやったという内容を掲載している。トピックが若干違うと、強制婚に対する批判を『カラム』はある時期活発にするが、インドネシアの雑誌の記事を転載したり、それに似たそこまで過激でない意見を掲載したりといった形の議論もされた。
補足(坪井氏):『カラム』の言説はある種近代主義、モダニストとしての側面もあると思う。在野にも別の形のイスラムもおそらくありうるだろう。

質問5:『カラム』以外の雑誌、イスラム系のメディアについては。
回答5:今のところは『カラム』を中心に見ている。媒体を横断した論争もあるので、今後媒体を広げてみていきたいと思う。

補足(南山大学 小林氏):法制の実際の行使は難しいところもある。ムスリムが少数派のシンガポールで他の宗教の人々とどう折り合うか、突出しないために、イブラヒムのような人には調整役的な意義があったと思う。本発表も法制化についての議論になればより分かりやすいと思う。

質問6:『カラム』の記事は一貫していてルトフィ自身がずっと同じ思想で論を展開しているように読めるが、法制化や廃案の中でルトフィの法制化に対しての意識・発言の変化は読み取れるか。
回答6:シャリーア裁判所設立計画に賛成していたところから、実際の法制がムスリムのあるべき婚姻や与えられるはずの権利が抑制していると見て批判したのが、イスラム法制に対する立場の転換点。その後は66年の法案通過まで大きな変化はなく、基本的な姿勢を貫いていると思う。

質問7:「基本的な姿勢を貫いている」とは。要するに総論賛成各論反対なのか、総論から反対なのか。
回答7:ルトフィはシャリーア裁判所だけでなくイスラム行政法の枠組みにも賛成という立場で、ムスリム独自の法を施行することを制度的に確立したいという姿勢がある。ただしその内容については、婚姻法や行政による管理など反対のトピックが多い。公的な制度としての設立や政府の財政援助は歓迎するが、内容には異論があるという立場。

質問8:『カラム』はシンガポールでの同胞団の思想を代表、発信するものだったと考えて良いか。
回答8:機関紙であることは先行研究の中で触れられているが、どの程度『カラム』の中でイスラム同胞団の思想を発信しているかは今後の研究課題としたい。ただルトフィ自身もエジプトに留学歴があり『アズハルの呼び声』という雑誌の発行にも携わったため、当時のそういった思想の影響はあると思う。

質問9:ムスリムの法制度をつくる中で、法案をめぐる国会や委員会での議論といったプロセスがあると思うが、ムスリムの意見を吸い取るプロセスはあるのか。
回答9:今回扱った法案については、基本的には草稿後ムスリム諮問委員会での審議にかけられて国会に提出されるため、諮問委員会が審議することで形式上のプロセスを経ていることになる。60年法案を取り下げた時にムスリム・コミュニティからの反発が大きく、在野のムスリム団体代表者の意見を聴取する委員会を1962年につくっている。ただし65年に再提出された法案では大きな変化がないままだったと批判も受けている。実際に全く変化がなかったのかは、今後確認する必要を感じている。

質問10:「離婚率の高さという言説」などの記述には、離婚率の高さという言説が事実と乖離しているという認識が発表者にあるのか。イブラヒムとルトフィは離婚率の高さを法制化のあり方に起因する歴史的問題だと認識したのか、マレー文化に起因する長期的問題と認識したのか。
回答10:法制の背景としての離婚率の高さという問題認識に距離を置くのは、離婚率の高さという問題意識自体が言説的な部分があると思うから。カーディーの裁量権を問題視している人たちは、離婚率の高さという言説を利用している。例えば1950年代のイギリス当局にとって離婚率が高いことは非常に説得力があるため、カーディーの裁量権の問題とセットにしてイスラム法制化を求める態度があったと思う。

質問11:「近代的な司法体系をモデルとし」での近代的という言葉の含意は。
回答11:ここで強調したかった近代司法とは、明確な規定、法規範があり、決められたルールに則った法運用がなされる機構というもの。そのモデルとしてイブラヒムが見ていたのはおそらくイギリスの司法体系だったと思う。

質問12:マスラハという概念が公共の福祉と訳され、welfareという英語と同規模で交換可能のような議論がされたが、イスラム法の解釈の手順のあり方が気になる。
回答12:イブラヒム自身はマスラハの概念に従ってイスラム法を再解釈する立場ではないため、批判するムスリムに対して、マスラハを使って再解釈した場合も同じ結論が受け入れられるのではないかと言いたかった。

以上、第1報告。


第2報告
報告者:野中葉氏(慶應義塾大学SFC研究所研究員)
コメンテーター:後藤絵美氏(東京大学東洋文化研究所助教)
報告題目:「インドネシアにおけるムスリマのヴェールの拡がりと意味の変遷」


【報告要旨】
 報告では、イスラーム教徒の女性が身に着けるヴェールを指す単語の変遷を手掛かりに、インドネシアにおけるヴェール着用者の拡大の歴史を検証し、ヴェール着用が意味するものの変遷を考察した。
 インドネシアでは、歴史的に、女性たちが頭に羽織る布はクルドゥンと呼ばれてきた。しかしながら、1980年代以降、世界的なイスラーム復興からの刺激、国内の教育水準や生活水準の向上、スハルト体制のイスラーム政策の影響が相まって、都市部の若い高学歴層の中に、イスラームを学び生活に取り入れる人々が出現した。自発的にヴェールを着け始めたこの層の若い女性たちは、イスラームの教えに適った自らのヴェールを、クルアーンの章句の単語に倣いジルバブと呼び始めた。その後、社会のイスラーム化の進展と共に、社会のより幅広い層の女性たちに、イスラームの教えを意識したヴェール着用が広まるようになり、現在では、ヒジャーブというアラビア語起源の単語が一般化しつつある。
 報告は、インドネシアが歴史的にイスラームを「外来の宗教」として受容してきたこと、それに伴い、長い間「シンクレティズム的なイスラーム」、「身分証明書上のムスリム」が主流だったが、近年では、社会におけるイスラームの顕在化が見られること、そのような中でヴェールを身に着ける女性が目に見えて増えていることが述べられた。他地域におけるヴェールの議論、またインドネシアの先行研究が紹介され、現在では、イスラームの商品化や消費文化の一部として、ヴェールやイスラーム的ファッションが論じられる傾向にあること、また個人の信仰よりも社会的プレッシャーから着用を決意する女性たちが増えている、とする研究があることが紹介された。その後、ヴェールに関するクルアーンの章句3つが引かれ、それぞれのインドネシア語訳と考察が行われた。
 その後は2つのパートに分け、まずは、クルドゥンからジルバブへと用語が変化した1980年代、またその後、ジルバブからヒジャーブへと用語が変わりつつある2000年代から現在にかけての検証が行われた。
 1980年代には、女性たちの教育水準の向上、大学や高校におけるイスラーム活動の影響で、イスラームを学ぶ層が出現し、若いエリート層の間でヴェールの着用者が見られるようになった。スハルト政権によって、公立中学高校でのヴェール着用が禁じられたが、イスラームの教えを意識した自覚的なヴェール着用は全国に広まっていった。彼女たちは、自らのヴェールをクルアーン起源の“ジルバブ”と呼んだ。それ以前に使用されていた“クルドゥン”という単語は、必ずしもイスラーム的意味を持ち合わせず、それとの差別化を図るための“ジルバブ”の用語が使われ始めたのだった。この時期のヴェール着用は、限定された層の女性たちの活動であったが、彼女たちの動きを通じて“ジルバブ”の用語が社会に定着した。その後、スハルト体制の崩壊と体制移行を経験する中で、イスラーム勢力が政治的に伸長し、若い女性たちの“ジルバブ”着用が、政治的イスラームと結びつくイメージも形成されていった。
 ポスト・スハルト期には、民主化と共に、社会のイスラーム化が顕在化し、ヴェールの着用者が急速に増加した。そこには、ファッション業界従事者やムスリマデザイナーたちのイスラーム教徒としての信仰に基づく活動や、経済的利益を見込んだ政府の支援があった。しかしながら実際にヴェールやイスラームファッションの拡がりを支えたのは、“ヒジャーバーズ・コミュニティ”に代表される各地の若い女性たちである。彼女たちは、イスラームの教えに従ったヴェール着用も、“現代的”、“オシャレ”と両立することを提示した。彼女たちの活動を通じ、既存の“ジルバブ”の負のイメージが払拭され、“ヒジャーブ”の用語を用いた新しい潮流が作りだされていった。“ヒジャーブ”の用語使用によって、ファッション性とオープンなイスラームのイメージが付加されたのである。特徴的だったのは、これまでのダアワ活動家とは異なる女性たちが潮流を作り、より幅広い層が共感したことである。彼女たちは、非政治的な姿勢を貫き、文化的運動の側面を強調することも特徴的であった。
  “クルドゥン”から“ジルバブ”、“ジルバブ”から“ヒジャーブ”という使用単語の変遷において、一貫しているのは、「ムスリマの義務としてのヴェールの着用」の実践であった。自分たちの行動を確認し、正統化し、既存の、あるいはそれ以前の状態との差別化を図り、他の人への呼びかけの際の効果的な方策として、新しいタームが創設され、使用されてきた。各時代の状況・制約下で、女性たちがムスリマ性やイスラーム性を獲得していく自発的な動きの表象としての“ジルバブ”、“ヒジャーブ”の使用であり、拡がりであったと言える。


【後藤絵美氏からのコメント】
 エジプトやイランを対象に研究をしている。特に、女性たちのヴェールの研究。中東のヴェール現象を見てきた者としてのコメント。イスラーム運動やヴェールをめぐる地域間の比較には興味がある。
 今日の報告は、インドネシアにおいて女性たちの間でヴェールが、なぜどのように広まっていったのかを、使用されるタームを用いて、その変化を読み解いていくという作業。興味深く聞いた。また、エジプトとインドネシアでは類似点が多いと感じた。その類似点とは、大きく3つ。
 ①宗教体験に関する言説。女性たちがヴェールを着けるに至る過程で宗教的な体験が大きなきっかけになっていること。エジプトでもインドネシアでも、同じような話が聞ける。②ヴェールのファッション化の傾向。エジプトでは、2000年代初頭から始まっているので、インドネシアよりは少し早いかも。③政府がヴェール着用を禁じたことがあるということ。エジプトでも、1980年代初頭、大学での着用禁止令、また1990年代半ばには、中学高校での着用禁止令が出されている。
 質問は4つ。
 1)用語について。なぜクルアーンの用語でジルバブだけがインドネシア語になったのか。ヒジャーブという訳も、今のクルアーンインドネシア語訳には、あるのでは?
 2)スライド31の各用語の使用回数の比較。ヒジャーブだけでなく、他の用語も併用されているという状況はどういうこと?
 3)「ムスリマの義務としてのヴェール」の着用という議論はどこから出てきたものか?今日は、ファッション雑誌など中心の議論だったけれど、宗教知識人といった人たちは、言論の世界でどういう発言をしているのか?エジプトの例で言えば、言論の世界では、ヴェールの着用と結びついて“フィトナ”と“ハヤー”の議論が出てくる。アムル・ハーリドなどカリスマ説教師の存在が大きい。インドネシアでは、こういう存在はいないか?影響力は?
 4)ウェブ上でアラビア語の文献を検索すると、多くの書籍がインドネシア語に訳されているのが分かる。実際に、中東世界とインドネシアの知的交流、知識伝達はどのようなものか?

報告者返答:
 1)1980年代に、なぜジルバブという語が採用されたのかは、まだ調査中。大変重要な点とは認識しているが、当時の高校生や大学生、宗教知識人に聞いても、はっきりした答えがまだ得られていない。今後も継続して調査していきたい。また、現在書店に並んでいるクルアーンでは、ヒジャーブという語が使われているかもしれないので、今後、追加調査で確認したい。
 2)ヒジャーブとジルバブについては、人によって前者を使う人もいれば、後者を使う人もいる。したがって、インタビュー記事などでは、ジルバブを使って答えているケースが多く、その分がカウントされている。またクルドゥンの用語については、昨今、一時に比べ、使用度が高まっているように思う。ヒジャーブ、ジルバブ、そしてムスリムファッション、など様々な用語、様々なファッションが出てくると、そもそも頭を覆う布それ自体を何と呼ぶかがあいまいになってきている。混乱を避けるため、ファッション業界、あるいは小売の店舗などでも、頭を覆う布それ自体をクルドゥンと呼ぶことが、次第に増えてきていると思う。雑誌の中でも、頭を覆う布自体をクルドゥンと呼んでいるページがいくつもあり、それがカウントされている。結果的に、ヒジャーブ、ジルバブ、クルドゥンの用語がそれぞれに併用されている状態になっている。
 3)インドネシアでも、カリスマ説教師、テレビ説教師と呼べる宗教知識人は存在する。けれども、女性たちのヴェール着用に関しては、彼らの影響がどこまで大きかったか、エジプトのアムル・ハーリドほどではなかったように思う。また“フィトナ”や“ハヤー”の議論自体も、それほど活発ではない。若いエリート層にはムスリム同胞団の思想書の翻訳本などが影響力を持ったと言われている。私自身は、若い女性たちのヴェール化、さらには広い意味でのイスラーム覚醒をもたらしたものとして、1990年代以降、大きな人気を集めたイスラーム短編小説に注目している。インドネシア独自の、また女性たち独自のイスラーム化のプロセス、イスラームに向かわせる言葉が、そこで創生されていたように思う。
 4)中東からインドネシアへの知識の流れは、実際には、とても大きなものがあると思う。研究の方が追い付いていないように感じる。アラブ世界での売れた書籍が、短い期間に翻訳されてインドネシアでも出版される。インドネシアでの出版のサイクル自体もとても速いので、売れなければすぐに店頭から消えていく一方、新しい書籍、翻訳本は次々と市場に出回る状況。書籍を始め、イスラーム関連の知識、商品については、これまで中東からインドネシアが受容するという立場だったけれど、このムスリムファッションについては、彼らは真剣に、自分たちが「世界のキブラ」になろうという意識を持っている。書籍などとは異なる関係が、今後、インドネシアと中東あるいは他の地域に築かれるかもしれない。

【フロアからのコメント及び質問】
フロア①フィールドワークの場所と対象者は?自分がスマトラ島プカンバルで見てきたものとは、だいぶ異なる様相なので。

報告者返答①:
 私のフィールドワークの調査地は、ほとんどが都市部。ジャカルタ、バンドゥンが主な拠点。それ以外に、ジョグジャ、スラバヤ、マラン、パレンバン、ランプンなどでの調査結果も、利用している。対象者は、教育水準の高い人たち。主に若者、大学生や高校生だが、博士課程の研究では、大学ダアワ運動の歴史を扱ったので、かつて大学生だった年パンの人たちにもだいぶ話を聞いた。

フロア②〈コメント〉用語について。kudungはジャワ語。kerudungはインドネシア語。いずれも、必ずしもイスラーム教徒に限ったものではない。私自身はキリスト教徒のインドネシア人だけれど、結婚式の時や、教会に行く際に、身に着けるキリスト教徒もいる。私の母も1980年代頃までは、教会に行く時にクルドゥンを着けていた。けれども、1980年代頃から、イスラーム的な意味合いが強くなったため、着けるのを止めた。ジルバブという用語は、たしかに1980年代半ば以降に使われるようになったと思う。マスメディアの役割が大きかったのでは。
(質問)“ジルバブ”から“ヒジャーブ”へと用語が変わってきているということだが、“ヒジャーブ”という用語は、一般にどの程度普及しているのか?“ヒジャーブ”は、ファッション的な“ジルバブ”と言っていいか?端的に言えば、2種類の異なるヴェールがあったとき、こちらが“ジルバブ”でこちらが“ヒジャーブ”と区別して言うことができるか?

報告者返答②:
 今日の報告では使わなかったのだが、インドネシア大学とバンドゥン工科大学のあるクラスで、ヴェールを着けた女子学生たちに対してアンケートを行った。その中の一つの質問が、「あなたが着けているヴェールは、“ジルバブ”ですか?“ヒジャーブ”ですか?“クルドゥン”ですか?」という問い。インドネシア大学でも、バンドゥン工科大学でも、ほとんどの女性が“ジルバブ”と回答した。つまり、“ヒジャーブ”という用語は、ファッション業界や雑誌の中では多用されるようになっているが、一般の大学生のレベルでは、まだまだ“ジルバブ”も多く使われているということ。ただし、“ヒジャーブ”という語が知られていて、一般的になりつつあるのも事実。ジルバブ、ヒジャーブについては、それぞれの定義が確立しているわけではなく、こちらが”ジルバブ”でこちらが”ヒジャーブ”ということは、現時点ではできない。

フロア③スライド(31)では、ファッション雑誌で使われている用語の比較をしているが、TempoやKompasでの比較はできるか?2004年と2012年では、TempoやKompasでも、“ジルバブ”と“ヒジャーブ”の用語の使用に違いがみられるか?

報告者返答③:
 TempoでもKompasでも、現在は、ジルバブとヒジャーブの用語が併用されていると思う。テーマによって、あるいは文脈によって、“ジルバブ”が使われたり、“ヒジャーブ”が使われたり、あるいは“クルドゥン”が使われるケースもあると思う。

フロア④現在の”ヒジャーブ”への移行は、“クルドゥン”に戻ったという理解することが出来るのか?また男性のファッションには、同じような変遷が見られるか?ヴェール着用の女性たちも、家で外したり、土日には着けないということがあるのか?

報告者返答④:
 1980年代以降、ジルバブ着用運動が生じ、その後、クルドゥンからジルバブへと用語が変化した時代には、クルドゥンという用語に対しては、非常にネガティブなイメージ、つまり“イスラーム的ではないヴェール”というイメージがあった。けれども、今はそういうイメージが薄れていると感じる。クルドゥンという語に対する以前のようなネガティブなイメージはない。“クルドゥン”という用語が復活している印象すらある。けれども、かつての“非イスラーム的”というイメージを持った“クルドゥン”ではなく、新しい“中立的な意味を持つヴェール”としての“クルドゥン”の用語の使用だと思う。その意味では、クルドゥンに“戻った”というのは正しくないかもしれない。
 男性のムスリムファッションも、女性ファッションの盛り上がりに呼応して、販売され、宣伝されるようになっている。けれども、女性たちがヴェールについて、strugglingしてきたような歴史はなく、その盛り上がりも、女性のものに比べずっと緩やかなもの。
 一般的には、ヴェールをいったん着用したら、外さないというのが原則。けれども、もちろんクルアーンにも書かれているように、近親の夫や父親、子供や兄弟の前では、身に着ける必要はなく、ゆえに、自宅では外している女性がほとんど。ヴェールは近親以外の男性の前に出るときに身に着けるもの。また、いったん着用したら外さないのが原則だけれど、多くの女性たちは、プロセスを踏んで、完全な着用に至る。たとえば、まずは、学校に行く時だけ着けてみる、平日だけ着けてみる、そうしてだんだんに時間を長くしていって、完全な着用に至っているようである。

フロア⑤インドネシアにおいて、経済発展の中でイスラームも顕在化しているというのは、どうしてなのか?様々な職場で、就業規則でヴェール着用が義務付けられるという動きはあるか?あるいは、小売りの業界で、ヴェールを着けている女性従業員が多いと、お客さんの受けがいいとか、そういうことはあるのか?

報告者返答⑤:
 一つ目の質問は、非常に大きな問い。現代のインドネシア研究が、答えなければならない大きな問いの一つだと思う。私自身、いまだに確証はない。けれど、スハルト体制の経済発展の中で、イスラームに傾倒していった若い人たちも、今の経済発展の中で、イスラームを受容する人たちも、みな、ある側面では幼い頃からムスリムをやっていたのだと思う。礼拝や断食や、そういう宗教実践を、意味を理解してかどうかは別問題として、実践はしてきていた。スハルト体制の抑圧的な社会の中で、あるいは民主化と言われる自由な時代において、少なくとも一部の人々は、自らが幼い時から実践してきたイスラームの中身を問う試みをしたのではないか。つまりクルアーンを読んだり、イスラームの教えを学んだりということ。社会を作る上で、あるいは社会を変えていく上で、必ずしも西欧の完全なる模倣をしなくても、別の選択肢があるということに気が付いた。それを試してみた。その選択肢の一つがイスラームだったのではないか。これまで自分たちが実践してきたことの中身まで、学び理解し、自分たちの生活に受容し、適用させようとした。その試みが、現在のイスラーム化の一端にあるように思う。
 企業の制服については、かつてはもちろん、ヴェール着用を禁じている企業が多かった。今ではそういう企業はほとんどないと思う。公務員の制服などもそうだが、現在は、制服を決めている多くの企業で、普通の制服以外に、それに準じたイスラーム服対応の制服も準備している。ヴェールを着用している女性社員向けの制服。長袖で、くるぶしまで隠れるスカートや長いズボン。ヴェールも規定のヴェール着用を義務付けている企業も多い。

以上、第2報告。

2013年5月 プレ・シンポジウム《東南アジアの「インド化」を再考する》

東南アジア学会のみなさま

東京外国語大学の青山亨です。東京外国語大学本郷サテライトで定期的に東南ア
ジア歴史研究会に参加しているメンバーを中心に、来る5月28日の第58回国際東
方学者会議(ICES)においてシンポジウム《東南アジアの「インド化」再考》を
企画しています。

このたびは、本番のシンポジウムに先立ち、プレ・シンポジウム《東南アジアの
「インド化」を再考する》を以下の要領で開催します。

一般公開していますので、どなたでもご参加いただけます。関心のある方は是非ご参加
ください。忌憚ないご意見を期待しています。

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プレ・シンポジウム《東南アジアの「インド化」を再考する》

東南アジア学会関東例会・東南アジア考古学会・東南アジア歴史研究会・
上智大学アジア文化研究所共催
日時:2013年5月11日(土)13:00-18:30
場所:上智大学2号館2-510教室(四谷キャンパス)
アクセス:http://www.sophia.ac.jp/jpn/info/access/accessguide/access_yotsuya

13:00-13:15
 青山亨:趣旨説明(詳細は末尾に記載しています)
13:15-13:55
1) 青山亨:東南アジアの「インド化」論の整理と課題:
 外来と自律、物質と精神の対立を乗り越えるために
14:00-14:40
2) 深見純生:漢籍史料から見る東南アジアの「インド化」の再検討:
 混填・蘇物・法顕・婆羅門
14:45-15:25
3) 田畑幸嗣:考古学史料から見る東南アジアの「インド化」の再検討:
 アンコールボレイ、オケオ遺跡等を中心に
15:25-15:40
 休憩
15:40-16:20
4) 松浦史明:刻文史料から見る東南アジアの「インド化」の再検討:
 初期クメール刻文史料の再検討
16:20-17:00
5) 小野邦彦:建築遺構から見る東南アジアの「インド化」の再検討:
 山岳信仰から探るジャワ島のヒンドゥー教文化
17:15-18:30
 総合討論:シンポジウムに向けて

内容についてのお問合せ:taoyama@tufs.ac.jp 青山 亨(東京外国語大学)
URL:http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/g/aoyama/2013/05/post_216.html

このプレ・シンポジウムでの総合討論の結果を受けて、2013年5月28日(金)に
同じメンバーによるシンポジウム《東南アジアの「インド化」再考》を第58回国
際東方学者会議(ICES)において開催します。関心のある方は是非こちらの方に
もご参加ください。詳細:
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/g/aoyama/2013/05/58ices.html

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《東南アジアの「インド化」を再考する》趣旨説明

東南アジアの「インド化」の歴史叙述を振り返ると、植民地期の「外因史観」と
脱植民地期の「自律史観」という段階を経て現在に至っています。前者は、イン
ド文化の導入が東南アジアの初期国家形成と文化の「インド化」をもたらしたと
し、後者は、初期国家の形成は自律的で、「インド化」は表層的に過ぎないとし
ます。

しかし、一見対立的な両者は、「変わらない東南アジア」という停滞史観に陥っ
ている点で同根です。今求められるのは、自律史観の言う「現地化」のあり方を
再検証して、「インド化」における東南アジアの主体的関与(Agency)を明らか
にすることで、新しい「インド化」論を構築することであると考えます。

そのためには、とりわけ以下の3点が重要と思われます。

 1)東南アジアにおける初期国家の形成と「インド化」は一括りにして論じら
れてきたが、この2つは分けて議論することができる。近年の考古学の成果は
「インド化」に先立つ時代における首長制社会の出現を明らかにしている。これ
は、クルケのインド的国家形成論とも整合的である。
 2)「インド化」の最初期の「過程」と「インド化」した社会のその後の「状
態」とを区別することが「インド化」の議論を再活性化する上で有効である。特
に初期の「過程」の地域ごとの差違とその意味を検証することが求められる。
 3)「インド化」を東南アジアの独自の歴史現象と見るのではなく、ポロック
の「サンスクリット・コスモポリス」を踏まえて汎ベンガル湾的な運動と見ること
が有効である。

今回のシンポジウムでは、「インド化」を、インド系文字(及びサンスクリット
語彙)を媒介とした、東南アジアの土着勢力による能動的なインド文化の導入過
程と理解した上で、2)と3)の問題意識を持ちつつ、1)に焦点をあてて、考古学と
歴史学の成果の接合を目指します。具体的には、最初に漢籍(深見報告)による
フレームを提示し、考古学(田畑報告)との接合を図ったうえで、建築(小野報
告)と初期刻文(松浦報告)のデータを照合することでどのようなモデルが描け
るかを試みます。

2013年度第2回(5月)の関東例会のご案内

5月関東例会(5月25日開催)のご案内を致します。

今回のご報告は、光成歩会員による「二人のアフマド:1960年代シンガポールのイスラム法制をめぐる論争」及び、野中葉会員による「インドネシ アにおけるムスリマのヴェールの拡がりと意味の変遷」の2報告です。

詳細は下記をご覧ください。

<2013年度5月例会>
日時: 2013年5月25日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

第一報告(13:30~15:30)
報告者:光成歩(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 博士課程)
コメンテーター:坪井祐司会員(東洋文庫)
報告題目:「二人のアフマド:1960年代シンガポールのイスラム法制をめぐる論争」  
報告の要旨
 本報告は、シンガポールで1950-60年代に進められたイスラム法制に関する議論を分析する。婚姻におけるムスリム男女の権利均衡を目指すこの法制化を推進したのは、法案草稿者でありシンガポール初の司法長官であったアフマド・イブラヒムであった。彼は、非ムスリムの多妻婚を禁じた『女性憲章』(1961年制定)の草稿者でもあった。
 多妻婚の厳格化などを掲げた一連の法制化は、ジャウィ月刊誌『カラム』などで「『女性憲章』の侵入」と批判された。他方、独立前後期のシンガポールにおいて民族・宗教ごとの法体系が単一の司法体系に収斂していくなか、法制化は「ムスリムのための」法・行政の枠組みが、公的制度として保持されることを意味した。
 報告では、『カラム』創刊者アフマド・ルトフィと、アフマド・イブラヒムによる法制化をめぐる議論を分析し、新生国家における「少数派」となった当時のムスリムのせめぎ合う社会観を検討する。

第二報告(15:45~17:45)

報告者:野中葉(慶應義塾大学SFC研究所研究員)
コメンテーター:後藤絵美氏(東京大学東洋文化研究所助教)
報告題目:「インドネシアにおけるムスリマのヴェールの拡がりと意味の変遷」
報告の要旨
 本報告では、イスラーム教徒の女性(ムスリマ)が身に着けるヴェールを指す単語の変遷を 手掛かりに、インドネシアにおけるヴェール着用者の拡大の歴史を検証し、ヴェール着用が意味するものの変遷を考察する。
 インドネシアでは、歴史的に、女性たちが頭に羽織る布はクルドゥンと呼ばれてきた。しかしながら、1980年代以降、世界的なイスラーム復興からの刺激、国内の教育水準 や生活水準の向上、スハルト体制のイスラーム政策の影響が相まって、都市部の若い高学歴層の中に、イスラームを学び生活に取り入れる人々が出現した。自発的にヴェールを着け始めたこの層の若い女性たちは、イスラームの教えに適った自らのヴェールを、クルアーンの章句の単語 に倣いジルバブと呼び始めた。その後、社会のイスラーム化の進展と共に、社会のより幅広い層の女性たちに、イスラームの教えを意識した ヴェール着用が広まるようになり、現在では、ヒジャーブというアラビア語起源の単語が一般化しつつある。クルドゥンからジルバブ、ジルバブからヒジャーブという使用単語の変遷は、ヴェールとイ スラームに対するインドネシアのムスリマの意識の変遷が表出したものである。

2013年度第1回(4月)の関東例会の報告

2013年4月27日(土)に行われました2013年度第1回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録を以下に掲載します。

第1報告
「ベトナム・カントー市ハウザン川氾濫原の一農村における雇用機会と農村世帯の就業・家計構造との関係」
報告者:藤倉哲郎氏(東京大学大学院総合文化研究科学術研究員)
コメンテーター:岩井美佐紀氏(神田外語大学国際言語文化学科准教授)
記録者:高良大輔氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程)


[報告要旨]
 まず大きな注目点は三つある。第一に、メコンデルタの農業が農業の多角化に向かうなかで、工業区への就労という兼業の方向がでてきたことに着目したのが本報告。そして「サン・ディ・トイ・ベー(朝行って、夜帰ってくる)」が出てくる。つまり、通勤パターンが農村に出現。これは、ベトナムの工業化、現代化、経済開発の中に位置づければ、農村をどうするかの戦略にかかわる問題である。政府としては、離農はするが離村はしない生活パターンを推奨している。それが「サン・ディ・トイ・ベー」と合致している。出稼ぎを食い止め、大都市集中を阻止し、生活の安定を求めている。
 第二に、現金収入が多様化しているといえる。一つは米の販売。食べるための稲作をおこなっているベトナム北部の紅河デルタ北部の農業と、調査対象であるメコンデルタの農村では性格が異なることに留意しなければならない。農地が広ければ収入が広がることに加えて、就労収入が増えることでダブブルインカムがもたらされる。調査地の若者の学歴が高卒に近いかたちまで高まっていることには驚いた。それが雇用にもつながってきているのだと思う。学歴の高まりが、就労を後押しし、世帯内での労働力の配置が変化している。農村以外での労働市場が、輸出産業を通じて世界市場へアクセスしているのが、メコンデルタの特徴である。興味深いのは、土地の集積が生じておらず、むしろ土地の細分化が進んでいること。つまり相続に伴う、世代間の変化によって細分化していっている。6000平米をどう評価するかがポイントとなる。私(発話者)が調査地としているロンアン省はホーチミンへ働きに行ける範囲にあるが、そこは1990年代末で3000平米と、もっと細分化している。カントーはまだ広いといえる。農家が世帯保持し、兼業化するパターン。すなわち土地を持ちながら、子どもが学歴を高め、通勤していくというのは合理的である。このパターンが一番多い世帯が所有地面積の大きい世帯。土地が広く、収入が高い兼業という安定したパターンが浮かび上がる。なぜかというと、本報告では発言されていないが、稲作は手間がかからず、労働力がセーブでき――しかもメコンデルタ稲作の特徴である田植え作業をしない直播方はさらに労働力節約的である――、兼業化がスムーズとなる特徴もある。
 第三に、以前の若年層の就労は、農閑期に左官や道路掘り、女性だと内職という村内での雑業により非農外収入を得ていたが、それは不安定だった。しかし、本報告が示すように今は従来のような非農外収入獲得手段とは大きく異なり、学歴の差としても出ている。
 農業労働者の中高年たちは収入が低く、工業労働者の人たち、ホワイトカラーの若者へと収入が高くなっていることが報告からも分かる。農業労働者と工業労働者の月収差は5倍ぐらいあると理解したが、それが従来のカントー省のこの村の階層問題と相関関係があるのではないだろう。つまり、土地を持っている人が米を売って、現金収入を子どもの学費に当てることが可能であり、その子どもの学歴も上がる。そうすると就ける就業もホワイト、ブルーカラーとなっていく。しかし、もともと現金収入がなければ学費にあてることが難しく、学歴は低くなり、従来の学歴にあわせた働き方をそのまま踏んでいかざるを得ない。そう見ると、藤倉さんが言うとおり、土地を持っているかいないかで、就業職種は固定化するだろうことが見てとれる。
 今回は提示していないが、105世帯の世帯構成の特徴別に、学歴、職歴、土地の有無がある程度見渡せるものがあれば、理解が深まる気がする。
 紅河デルタは食べるための農業であり、農業が農村内に止まっている。桜井先生が作ったバックコックの「サン・ディ・トイ・ベー」モデルはメコンデルタの調査地のとはまた違うコンテクストで捉える必要がある。つまり、村内で食べるための農業のところに現金収入が入ってくるインパクトよりも、もともとの売るための農業にプラスして学歴に応じた労働就労の機会が与えるインパクトの方が結果が多様ではないだろうか。そこで「サン・ディ・トイ・ベー」のもう少し精緻なモデルを作ると良いかと思う。

[コメント]
コメンテーター:岩井美佐紀氏(神田外国語大学)
(質問)
階層を見るときに以前は指標が土地であったが、近代部門の労働が入ることで、その指標が適切かどうか教えて下さい。
(回答)
紅河デルタでは食べるための経済のところに現金収入が入ってきている。しかし、メコンデルタは外見上は同じように見えるが、もともと商業的農業のところに入ってきた。農業と近代的就労のコンビネーションは両地域で似ているが、農業の性格が根本的に違うというところで、二つのモデルに質的違いがあるのという問いには答えがまだでておらず、今後の課題としたい。

[質疑応答]
東条氏(立教大学)
(質問)
①農業労働力が足りなくなったら、クメールから雇うということだが、工業区が本格的に入ってきた後に、来たの か。マレー半島だと、若年層が労働に出たとき、インドネシアやミャンマーから労働者が来ていた。調査地では  、もともとのクメール人の賃金労働者が来ているのか、新たに来たのか。
②3期作に農作業費用に差が出てくるのはなぜか。需要の高まりによって差が出てくるのか、農業の質が変わるか ら出てくるのか。
(回答)
①クメール人の雇用は、単発の昨年度の調査だけでは最近のものなのか、昔からのものなのか判然としない。聞き取りの範囲では若者の出稼ぎによる労働力不足は近年になってからで、その埋め合わせに、クメール人たちが入ってきているという。カントーでは国内の南から入ってきているが、ロンオンやアンザンなどの、カンボジアに近いところだと国境を越えて国籍的にもカンボジア人が農業労働者として働きに来ているという。調査地も詳しく検討していけば、最近の現象かどうか分かってくるとは思う。もともと農業労働者であるのかどうかについていうと、これも雇用主である調査地の村人の話では、彼らクメール人はハウザン河のさらに下流のソクチャンから来るが、そちらにも彼らは農地を持っているという。ハウザン河ぞいでは、北部のアンザン省からカントー、そして南のソクチャンと順番に借り入れ時期がずれる。それを見越し、稲作労働のM字カーブのへこんだ時期を利用して自分たちの借り入れ前に賃刈しに来ている。
②単価に関しては、物理的な問題で、春から夏に向かって水位が上がり、稲の倒伏が起こる。だから刈り取りの手間賃がかかり単価が上がる。加えて、3期目の夏秋作は収量が少なく、米の売り渡し価格が上がるので、そうした市場の状況とも関係するかもしれない。しかし、第一は物理的理由によるものである。
(質問)
クメールの人たちは工業労働に行かないのはなぜか。
(回答)
これも調査地関係者の話だが、クメー人の教育水準がまだ上がっていないことと、カントーが2008年に直轄市になって工業化が進んでいるのに対して、ソクチャンの工業化・労働市場の拡大がまだ小さいことも関係していると思われる。

弘末氏(立教大学)
(質問)
数字に表れる収入に関して、収入と賃金労働の年平均等をあげているが、農業労働と賃金労働の年収だけでは賃金労働のほうが上になる。しかし、農家の食費や自給しているものを加味して比較する場合、どう考えると良いのか。また、階層分化には学歴が関わっており、上昇を図るには、現金収入が必要なのか。
(回答)
 所得に関しては、自家食米の量も分かっているが、それも売り渡し価格で評価している所得に加えている。実際には収穫から自家食米分を引いてから売っているので、現金収入はもっと少ない。
 現金収入が教育投資にも関わってきており、消費行動に対しても現金収入のほうが大事で本来触れるべきであった。今回は現金・現物の評価が難しかったのは、自家食米を、世帯員だけでなく親戚や世帯分けした子どもも含めて世帯を超えて融通しているなど、世帯によって様々であること。評価を単純化するために、すべての収穫米を、売り渡し価格で評価して所得を試算した。他方で、現金換算評価が複雑で困難であった、アヒルや豚など家畜は現物評価していない。
 また、農業労働者の賃金が低いが、稲作一期分の収入かけることの3期分にして、年収として評価している。それを工業労働者の月収と比較するために月割りしているので、かなり数値が低くなっている。自由業も随時収入なので、本来は固定した月収としてはかられないものなので、実際よりも低く見積もられている可能性がある。
 格差についてであるが、全体の家計収入よりも、賃金所得での差の方が重要で、そちらの開きの方が深刻に捉えられるべきかも知れないと考えている。今回の調査だけでは時系列に見られていないが、今後時系列でみたら、農業格差がもっと見られるのではないかと考えている。

工藤氏(東京大学)
(質問)
①中卒以上まで教育レベルを上げていけば就労機会が拡大するということだが、この村では70%以上が1ha以下の所有地しか持たない農民世帯であるが、この世帯の子どもたちが中卒以上の教育を受ける収入的な余裕があるのか。
②まとめのなかで、依然として土地が生存的基盤と主張しているが、特に零細農家については農業の収入が11%という状況のなかで、そのようにまとめた意味をもう一度説明してください。
(回答)
①学費だけでなく通学・学用品・昼食にも現金が必要なので、所有する土地が小さく、現金収入がなければ、そうしたものへの支出が難しい。ベトナムの教育政策では優秀な人材育成のために高等教育の水準を上げようとしているが、私の主張は、貧困対策として中等教育水準の底上げをするだけでも、十分に工業部門で働く機会が増え、所得向上の可能性があると考えている。政策的に中等教育への支援、補填があれば、貧困対策としての効果があるのではないかという文脈で話をした。
②本調査のスタイルは、1990年代始めの西ジャワの水野調査を参考にした。しかし、本調査地においては2ヘクタール未満の中に土地所有階層が集中しており、土地所有規模での格差は非常に小さいといえる。今回2ヘクタール未満の範囲で語ったのには無理があったかもしれない。むしろ、総所得水準で世帯数を均等に五分位(所得上位世帯20%~下位20%までの五つ)にして、階層別に所得細目や属性に対してどれだけ土地や賃金が影響しているのかという分析をする方が階層分析としてはより良いかもしれない。今後の改善点とした。

五島氏(静岡県立大学)
(質問)
①都市化しつつある地域の話であったが、その位置づけが難しい。それを踏まえ、今後の研究イメージを教えてほしい。サン・ディ・トイ・ベーや農業多角化といった研究史は語られているが、そこから何が語れるかが今日の話からは見えてこない。階層間格差と研究史との関係はどうなっているのか、そして今後どのような展望があるのか。
②早稲田のカイノ先生等がカントーの調査があるが、それも参考にしてほしい。そのとき(10年前)、まさに都市化が始まっていて、世代間格差も生まれている。そういう意味では、本発表の農村をカントー市全体の中の位置づけが必要である。
(回答)
①ベトナムの状況は、日本の都市化の経験とも違っている。ベトナムの都市では、宿舎や生活水準の問題を背景にストライキなどが起きるなどして、就労に摩擦が生じている。特に宿舎や生活水準の問題に関して、農村がカバーできるモデルの一つとしてサン・ディ・トイ・ベーが発見された。そして、離農するが郷里は離れないという形で、近代化、工業化の中でのもう一つの社会像、経済開発、社会開発のモデルとなる可能性がある。それは、土地の所有状況とも関連していて、ベトナムでは、南部も含めてどちらかというと東南アジアの中では土地改革がよく進んでいることが条件になっていると思われる。そういった社会変動論的な文脈の中で近代的な就労機会の発生であるとか、それに対して地域社会、ここでは主に農村社会がどのようにアクセスしていくのか、それが社会の安定にどう寄与しているのかという文脈の中で議論したいと考えている。
②基礎調査の段階でこの近辺の村をいくつかまわっている。当初チャオノック工業区で働いている労働者の出身村をいくつか調査した。工業区に隣接する村では、収入に対する農業が占める割合がさらに少なく、工員の宿舎や飲食業なでの需要に応じるサービス業が盛んである。一方で工業区にも近いがよりハウザン河に近い村では、養魚が盛んである。ハウザン河対岸のビンロン省では稲作の水準がもともと低かったが、その農民生活向上策として野菜栽培を行っており、もはや稲の三期作をやっているところは非常に少なく、野菜産地として成功している。その多様な中、ある程度工業区から離れていて、野菜作りや稲作生産性の改善に限界があるような村をあえて選んだ。農業に多角化や大規模化の展望がなく、しかし農地を放棄したり、サービス業に転換する可能性が低いとここで、どのような近代的な雇用との関係で村が維持されていくのか、安定的になっていくのかという点で、今回は土地を維持しながら、子供たちは働きに行くという形で、安定して収入を高めている村を対象とすることにした。したがって、カントー市の村全部がこのようなのではなく、むしろカントー市を代表させるならもっと商業的に養魚や果物栽培が盛んな村がイメージに適っていると思う。そういう意味では、カントー市の中でも特殊に農業資源の乏しい農村の事例で、カントーモデルということは考えていない。

岩井氏(神田外国語大学)
(質問)
①先のコメントの捕捉になるが、階層分化は経済的な指標だけでなく、若者が持ち帰ってくるような消費財等から伺える世帯の生活スタイルや考え方が変わっていく社会的な変化と土地の指標と所得とでみたとき、アッパー、ミドル、ロワーという階層分化をどのように位置づけられると面白いと思う。
②まとめでも言っていたが、格差が再生産されて広がっていくと思う。そうすると、所得格差が緩和されていくのが今後のことなのか、現在見えているところなのかがクリアになると面白い。
(回答)
①実は所得に加えて消費も調査している。ディスクリプションのレベルでは、耐久消費は収入が多い世帯のほうが買っている傾向は観察されたが、比較の信頼性に確信できる情報が取れなかったので、今回は数値として提示すことは避けた。しかし確かに、耐久消費財の購入という面では、やはり所得格差に応じたスタイルの違いが見られるのだと思う。
②格差の変化は、今回の調査では時系列的に2つの時点を比べられていない。今回は1つの時点で取られたデータをもとに、仮に土地だけでみたときにこれだけの格差があって、そこに格差の比較的少ない賃金所得を加えるとどうなるかという見方としている。工業区が建設される以前は、賃金労働がないと捨象した仮のモデルだと、農地の広さを反映して所得格差は、土地所有規模の下位と上位との間で60倍もある。賃金は、土地所有規模の上位と下位で差は3倍ぐらいであり、確かに、格差は再生産されているが、農業所得の格差よりずいぶん小さい。二つ含めて全体で、格差が4倍ぐらいに縮まる。その点で格差縮小といっている。絶対値で見れば、平均的家計に占める割合で11%しかない農業というのは僅かである。時系列でみる上で、もっと重視すべきは賃金労働の格差であり、それは絶対的にも相対的にも拡大していくということに注目していかないといけないと思う。しかし、今回の2012年12月の調査だけでは、その時系列の議論はできない。

第1報告、以上。



第2報告
「カンボジア現代史認識の変容―カンプチア人民共和国成立以後の国定教科書の分析を通して―」
報告者:新谷春乃(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程、日本学術振興会特別研究員DC)
コメンテータ:北川香子先生(東京大学大学院人文社会系研究科助教)
記録者:上村未来(上智大学大学院博士後期課程)

[報告要旨]
 本報告では、人民党政権下(1979年―2012年)に刊行された国定教科書の分析を通してカンボジア現代史がいかに叙述され、変容してきたかを論じた。検討資料は、1987年発行の『カンボジア史8年生』、2001年発行の『社会科―カンボジア史12年生』、2011年発行『歴史12年生』を主な分析対象とし、1979年から2011年に発表された人民党史を適宜用いた。
 人民党は、独立以降から繰り返された政権交代の流れを打ち切り、現在に至るまで政権を担っている。この間、共産主義志向の放棄、党史の書き替え等、党の性格を変えてきた。他方、現代史叙述の中で評価されるシハヌークやクメール・ルージュら1979年以前の体制指導者は、1980年代は人民党の対抗勢力として台頭した。1993年にカンボジア王国が復活すると、シハヌークは国王に復帰するも、クメール・ルージュは1999年の事実上の消滅まで反政府勢力として人民党と対立していった。近年では、カンボジア特別法廷の審議が進む中、現代史を巡る語りは国際社会から注目を受けるようになる。このような状況を踏まえ、国定教科書の現代史叙述は度々書き替えられてきた。これらの書き替えは、カンボジア/クメールといった「カンボジア史を語る枠組み」を変更しながら、クメール・ルージュ評価も含んだ共産主義評価とシハヌーク評価が軸であったことが明らかになった。これら現代史の書き替えは、書き手である人民党の党史を反映させつつ、執筆時の政治環境に敏感に反応する形で展開された。しかしながら、2011年教科書では人民党史に沿った評価から乖離傾向が見られるようになる。現代史叙述の場は、人民党による政治主張を表現する場から、研究史に沿った歴史叙述を展開する中で、教養としての歴史を伝える場へと変容してきている。

[コメント]
コメンテーター:北川香子氏(東京大学) 
 新谷さんの研究に関して、卒業論文をもとにした報告を関東例会で聞いた。当時の研究は、教科書のなかでのポル・ポト時代の扱い・書き方が年代別にどう変化したのか分析したものであった。カンボジア研究会で報告された際に、インドネシア研究の先生が、分析結果は「予想通りの展開である、予想を裏切るものではない」とコメントされた。しかし、今回の発表はポル・ポト時代だけではなく、カンボジア近現代史全体を視野に入れることによって、卒論の研究の意味が、よりはっきりと位置づけられることになった。卒論から、修論として成長をみることができ、素晴らしいものだと思う。
 カンボジアの研究のなかでも特に歴史叙述を分析する研究は、前近代の資料である王朝年代記と異なる歴史叙述、つまりそれ以後の近代的な歴史であるカンボジアの正史を分析という観点からこれまでも行われてきた。しかし、それらは新谷さんのような方法ではなく、カンボジア・ナショナリズムの分析の一つとして行われてきた。カンボジア・ナショナリズムは特異なものである。仏植民地期時代、仏からの独立がナショナリズムの軸と理解することは間違いである。カンボジア・ナショナリズムの軸は反仏ではなく、自らの自意識、つまりカンボジアとは何か、カンボジアの誇りとはどこにあるのかという点に表れる。その時に軸となるのが歴史である。つまり過去にアンコールという素晴らしいものを持っていた、それが我々の本当の姿なのである、というアンコールを中心としたナショナリズムである。そのような本当の我々の姿の実現を邪魔しているのがベトナムとタイである、という語られ方をしてきた。同時に、島嶼部とは異なり、カンボジアという国家の存在、カンボジア人=クメール人という存在は、揺るぎがない。歴史的にずっと存在するものであり、そこには疑いの余地がなく、何がクメールかを考える必要はない。以上がカンボジアのナショナリズムであった。いままでのカンボジア正史の分析は、アンコール史をどう考えるのか、アンコールをどう位置付けるのか、アンコール理解がどうやってできてきたのか、という点に集中してきた。
 もう一つのカンボジア・ナショナリズムの軸は仏教である。現在、カンボジア仏教と呼ばれるものが、どのように形成されてきたかを研究することも、一つの軸になっている。しかしながら、アンコールを理解すれば、一見カンボジアがわかったような気になるが、今現在・現時点のカンボジアが、自分たちの国をどう位置づけるのか、どう理解できるのかは全く説明できない。しかもカンボジアの現政権はとても奇妙な政権である。人民党が政治的な実権をもつカンボジア王国なのである。そのため、現在の状況を説明するとき、軸になるのは、ひとつは新谷さんが卒論で分析されたポル・ポト時代になる。現政権はポル・ポト政権との関わりを消すことができないため、それに関してどう説明するのかという点が問題視される。
 もう一つは、ハイブリッドな存在であるカンボジア王国について、独立の父としてのシハヌークをどう説明するのかという点である。これらは今現在の自分たちの国を説明するうえで大きな問題だが、これまでまとまった形では分析されてこなかった。それらを分析する材料として、人民党史と教科書を扱ったという点で、新谷さんの研究は新しく、非常に意義がある。
 次に時代区分について述べる。独立運動期、カンボジア王国期、クメール共和国期、民主カンプチア期、カンプチア人民革命党期、現在のカンボジア王国期という区分をしている。政権の担い手、つまり誰が政権を握っていたかという点から時代区分を行っている。これがある意味、研究者の間でも、カンボジア人の間でも広く実感されている、歴史区分であろう。政権交代を基軸とした時代区分である。独立後、体制転換が激しく続いてきた。この転換が一連の政治史の動きのなかで展開され、その延長として現在がある。独立後の歴史であるという認識は変わらず、疑いのあるものではない。
 内容については、詳しく新谷さんが分析されていたのでよいと思う。1987年発行、つまり和平プロセスへ入る以前の内戦期の時代の教科書と、2001年発行というUNTAC後の体制を背景とした学習指導要領下で作られた教科書と、そして2011年現在の教科書の比較となっている。それぞれにおいて、新谷さんが提示されたのは、その時々の状況に合わせて、特にポル・ポト派、シハヌーク、クメール/カンボジアが歴史の書き換えの大きな軸になってきたということだ。つまりその時々の情勢や、政権の見方に合わせて変わってきたということであった。非常に明確に提示されていたと思う。
 内容について、私がまとめ直すということはしない。分析対象のなかで1番古い1987年発行の8年生の教科書は1975年前後に生まれた人が対象になると思う。ポル・ポト時代に生まれていたか、あるいは幼児期を過ごした人、つまり物心ついた頃にはポル・ポト時代後の体制が周辺環境であった人たちに向けて教えるものであった。2001年の教科書は、1983年生まれなので、ポル・ポト時代を聞いたことがあり、非常に近い過去だが、自分自身の体験ではない人々を対象とした教科書である。そして2011年発行の教科書は、1993年以降、つまりUNTACの時に生まれた人々を対象にしている教科書である。そういったそれぞれの世代に、上の世代が何を学んでほしいのかということが反映されていると理解するべきものだろう。
 非常におもしろい点は、2011年の教科書になったときに、叙述が突き放したものになる。括弧つきではあるが「客観的」な、歴史と考えられるものに近づいてくる。新谷さんはそれを「研究史への接近」と表現された。おそらく、カンボジア現代史は10年よりも短いスパンで政権が頻繁に変わったので、カンプチア人民共和国成立以降という時代区分をしているが、政治だけでなく社会的な側面を見た時にUNTAC以降、カンボジア王国以降は一つの軸になると思う。現在の人民党が実権を持つカンボジア王国という体制は、20年以上続いている。実は、カンボジア現代史のなかでこれだけ安定的に長く続いた政権は存在しない。しかも、独立期を素晴らしい時代とみなしている一方で、現在のカンボジアは国際社会の進度の足並みに追いつき、それまでの取り残されていた、貧乏でダメだという国家意識から、国際社会の担い手の一つとして、十分に追いついていけるという感覚を持ち始めている。そういった段階へと政治的安定を背景に達することができている。これはある意味、独立後初めてとなる時代に入っているのではないだろうか。そうなると、歴史を現政権のための歴史とする必要はなくなってくる。むしろ、横やりを入れられる危険性を持つものに変わる可能性がある。この意味で、歴史は一つの使命を終え、教養科目となったという一つのターニングポイントになったようだ。
 新谷さんには、教科書の分析を続けてほしい。なぜかというと、もう一つ変化あるかもしれないからだ。この先の変化というのは、一つは、ポル・ポト時代が完全に過去のもとして忘却される時代が来る。カンボジアでは、2000年代の10年間で安定的な経済発展が起こりつつあり、シハヌーク時代と同じくらい、人々の生活文化も大きな変化が起こりつつある。この春にカンボジアを訪問して一番驚いたのは、10年前には日常着であったクロマーとサロンが風景のなかから姿から消していたということであった。若い世代の人々が、私がクロマーを巻いていると、それをまとめてポル・ポト時代の残滓として語っていたことも、ショックであった。全てあの時代が過去になったのだと表れだろう。
 そのなかで工業団地、高層団地、高級住宅街、観光地のホテルにクメール人が家族連れで泊まっている。その一方、沿道に電柱はあるが、そこから人の宅地に電線が引かれていない。明らかに、うまく流れに乗れた人とそうでない人の差が人々の生活の中に出てきている。これまでは皆等しく貧しく、辛い経験をしたカンボジア人という認識であったが、いまはそうではない。そのような状況になったとき、これまでは政治史で説明できていたが、次の視点は、福祉、生活、経済、というものが入り込んだ教科書が出てくるのかもしれない。
 最後に、教科書の経年変化については非常によくわかった。この先に新谷さんが、この分析によって、何が明らかにされると考えているのか。カンボジアの何がこれから分かってくるのか、ということを考えてほしい。何のためにこの研究をするのか。カンボジアのこの三つの教科書の分析結果に従うと、二つの変わらない大きな特色がある。
 一つは、カンボジアの教科書は、時流をくみ取ることに非常に敏感であるということ。特に当時のカンボジアの政権を取り巻く国際社会に関して、一番古い段階では東側の社会あるいはベトナムやソ連、という国際社会の考え方についてである。そしてUNTAC後は、私たちが国際社会と思っているもの、それらからどう見えるのかということに非常に敏感になっている。外向きの教科書であるように見える。
 二つ目は、人民党史の考え方がカンボジアの教科書と合致しているように分析されているが、私はむしろ教科書というカンボジア正史の書き手として、人民党が主体であったのかという点が疑問であった。随所に、人民党史の歴史観とは違う歴史観で教科書が書かれている。その点を考慮すると、この正史は学校で教えるものとして政府が出しているが、いったい誰に向けた正史なのか。これによってどう導いていきたいのかについて、もう一度考え直してみた方がよいのではないかという印象を持った。

コメントに対する報告者の回答
 研究の大きな位置づけを本報告のなかでまとめることはできなかった。その点を北川先生に補足してもらえた。
 最後に指摘いただいた、何のための教科書分析なのか、誰に向けて書かれた正史なのかという点について。私自身は書き手であるのが人民党だと思っているので、教科書の記述が変わっていっているということは、書かれた当時のカンボジア社会、その人民党の支配者としての政治的意思の表れとして教科書を分析してきた。しかし、2011年の展開をみていくと、人民党の意思というよりも、書き手の意思、つまり書き手がどのようなことを伝えたいのかということが表れつつある。それまでは政治環境や人民党からの制限が強かったものが、その制限なしに多少は書けるようになったのではないか。ようやく教科書のカンボジア正史が書き手の教養や研究史を踏まえて書けるように変わってきたという印象がある。そう考えると今後、人民党がカンボジア正史の書き手として、教科書を分析するには限界があるかもしれない。ただし、それ以前は人民党がカンボジア正史の書き手であることについて、80年代に関しては間違いなくそうだとは思うが、2001年の記述にはシハヌークを全面に出すことによって、人民党の意思を後退させている印象はある。ただし、シハヌークを全面に出すなかで、人民党の功績を出すことも忘れていない。その一方で、2001年教科書では、クメール・イサラクという独立時における共産主義者の役割について教科書では指摘されないが、これについてはかなり人民党自身がそこまで過去に遡って自分たちの功績を述べなくても、いいのではないかという政治的判断によって書かなかったのではないかという解釈も可能であろう。また、1980年代の和平に関しても、シハヌークを全面に出す反面、人民党も和平プロセスに関わっていて、1990年代に平和を達成したのは人民党であるといったことを率直に記述に込めている。今後精密な分析が必要ではあるが、こういったことから人民党が本当に書き手であったのか、あるいはそうではなかったのかということも含めて、答えを現時点では出せない。これまでカンボジア正史の書き手=人民党であったという認識が自分のなかで固まっていたため、改めてこの考えを相対化して、本当にそうだったのかを分析することは、今後の課題になると思う。

[質疑応答]
菊池氏(東京外国語大学)
(質問)
①8年生、11年生の教科書を分析しているが、カンボジアの歴史教育のカリキュラムのなかでは、いわゆるカンボジア通史というのを学ぶのがこの学年しかないのか。カリキュラムは、日本では世界史、日本史があるが、カンボジア全体のなかでカンボジア史がどのような扱われ方をしているのか。
②教科書の執筆者について。誰が執筆しているのか。インタビューしているようだが、執筆者は研究者や大学の先生なのか。彼らは歴史を勉強されてきた方なのか。それとも党員なのか。1987年発行の教科書が重要にみえるが、どういったバックグラウンドを持った人が執筆に関わり、教科書の内容を承認するのは誰なのか(人民党の幹部なのか)、具体的な事情を教えていただきたい。
③カンボジアでは、国際法廷が進んでいる。1987年発行の教科書には、ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サンパンの名前はあるが、その後投降した人の名前は出てこない。カンボジアのポル・ポト派の幹部のなかでもヌオン・チアの名前が出てきていないが、そのような人々への評価、個人への評価が教科書のなかでどうなっているのか。
④シハヌークをどう評価するか。時代によって評価が変わるが、カンボジアはなぜ1993年に王国になったのだろうかという点で、人民党が何を考えているのかがよく分からない。王国となって復活してシハヌークを国王としたカンボジアの民意、民衆が慕っていることを人民党がくみ取っている、人民党がそれに長けているということなのか。それとも主義や主張とは違うところにあるが、シハヌークの人気に乗ったということなのか。人民党自体の政策、つまり、カンボジアをどのような国として運営していこうと思っているのかという点で、人民党の国家運営の揺れと教科書の関連性があるか否かお聞きしたい。
(回答)
①カンボジアの歴史教育について。歴史は、初等・前期中等・後期中等、それぞれで学ばれる。内容は次のとおり。小学校で先史時代~ウドン時代まで、中学校で先史時代~近代史まで、高校で先史~現代史まで。1987年時点では、世界史・カンボジア史があり、世界史に対峙するものとしてカンボジア史・自国史があった。しかし、1993年以降の教育改革のなかで「地域史」が登場した。「地域史」では、ASEAN諸国、アメリカ、日本、中国など大国について学ぶ。つまり、その時点から現在まで、世界史、地域史、カンボジア史を学ぶカリキュラムになっている。
 「カンボジア史」と書かれているが、時代区分ごとに分けて、11年生ではウドンやアンコール時代、12年生は現代史、というように高校3年間かけて先史時代から現代史という歴史を学ぶ。歴史は、1987年~2001年までは必修であった。2009年の指導要領の改訂にともない、高校に関しては選択科目制が導入された。2011年から文系のみ必修という選択式になった。
②インタビューした方は、2001年、2011年の執筆者。彼自身は、現在40~50代くらいで、80年代はソ連に留学し、歴史学を学んだ。6年間ソ連で過ごし、モスクワで修士号を取得。カンボジア帰国後、教育省に入省し、93年から歴史科目の執筆を担当。2011年には省員のなかから書き手を選べる立場にになった。現在教科書執筆に関わっている方たちのバックグラウンドや政党との関係は、1980年代は確実に関係しているが、2001年以降のことは、センシティブな点であり聞くことができなかった。党員かどうかは確認できないが、執筆者は教育省の省員たちで、内容のチェックも省員が行い、最終的には教育大臣からの認定が下りる。2001年時点の教育大臣はフンシンペック党員であったが、なぜ当時の記述を承認したのか疑問が残る。執筆者は高等教育を受けた人、特に歴史の専門家である。教育省の省員は学校の先生も兼任している人もいる。2011年の執筆者の中には、自分でも出版物を出す方がいる。例えば、世界史担当の執筆者は、カンボジアの哲学史のような形でポル・ポト派に関する過激な政治哲学論文を本として出している。そういうこのような点で、執筆者の構成は2001年から2011年にかけて大きく変化してきていると思う。
③1980年代に、ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サンパンが指摘されていたヌオン・チアについては記述がないという点について。ヌオン・チアはベトナムで共産主義教育を受けた人物である。1980年代、ベトナムが政府を支援するなかで、ヌオン・チアを批判的に書くことは、彼のベトナムでの共産主義活動も批判するような印象を与えることになってしまうので、避けていたのではないか。2006年以降、裁判が始まったことによって誰がポル・ポト体制の指導者であったのかということが頻繁に報道されるようになり、人々の間にも知られるようになった。現時点で進められている裁判の被疑者に加え亡くなった方も含め、当時の最高指導部については、2011年の教科書のなかで明示されるようになった。これは、2009年から使用されている副読本の影響もあるだろう。
④1992年のシハヌークに対する評価や、党史の扱いについて、フリングスの人民党史で詳しく書かれている。当時人民党は、国民がシハヌークを支持していることは分かっていた。それを理解したうえで、その後の選挙も見据え、人民党こそが、シハヌークの後継者であるというシハヌーク人気を利用した。その意味で歴史観の転換であったのではないか。人民党は、周りの環境を自分たちの政治的な動きに取り込むのはうまいと思う。政策の揺れというより、人民党は戦略的に自分たちのスタンスを支持されやすい形に変えてきたのではないか。

東條氏(立教大学)
(質問)
①北川先生がコメントされた、誰のための教科書なのかという点が気になった。1987年の8年生というと、当時のカンボジアにどのくらいの生徒数がいたのか。また、2001年の12年生の教科書は、この時期の教育レベルと就学率、人口のなかの何%の人が読むことになるのか。1987年のカンボジアの状況から、生徒数はそれほど多くないと考えられるが、そうした状況のなか、何のための教科書であったのか。
②小中高が、それぞれ歴史を教えるなかで、小学校の教科書も変わるのか。つまり、より多くの次世代を担う子どもが通う小学校の教科書も、この歴史教育のながれで説明可能なのか。ウドンまでしか教えないのであれば、現代については現代政治や社会科などで教えるのか。現代の体制を小学校でどう教えるのか。
③マレーシアでは、植民地期にイギリス人がマレーシア史を書いてきた。また、イギリス留学組が歴史を書くことが多い。マレーシアの独立後、自分たちの歴史を書く、国民向けのラジオ教育のような形で、国民に対するマレーシア史を自分たちの声で伝える試みがあった。これが初めてマレーシアの国民が書いた歴史であった。教科書以外、人民党の中核を担う人々はカンボジア史を国民向けに書いているのか。現代史が表れる媒体は、教科書以外にないのか。
(回答)
①具体的な統計はないが、1987年時点の生徒数は少なく、中学3年生まで通えた人は稀だろう。2001年に関しても、高校入学就学率は30%前後であった。しかし、卒業したかどうかの統計はなく、なかには中退した生徒も多いと思われる。こう考えるとかなり少ないとは思う。誰向けに書いた教科書なのかという点は、生徒以外に現時点では考えられない。
②中学校に関しては現代史の記述量が大幅に減った。分析するにも、記述量が少ないため、同等の分析対象として扱うことを断念した。2011年の教科書は、環境が変わったこともあり、記述が増え、中学校でも現代史が学べるようになってきた。実際読むと内容も高校の教科書とリンクしている。小学校では、現代史まで教えられる時間数が確保されておらず、ウドン時代までを教えるのが限界のようだ。ではカンボジアの現代についてどう教えるのかというと、科目は社会科のなかで教えている。小学校の教科書の項目を網羅的には見ていないが、管見の限りでは、国王とは何か、国民文化、踊り、歌などを教えている。独立以降のカンボジアとは何かを教えることが中心で、国旗の変容も項目に含まれている。小学校のカリキュラムは、現代史の変容の流れと違う傾向があるのかもしれないが、まだ分析できていないのでお答えできない。
③国民が読むカンボジア史の媒体として人民党は出していないが、フン・センは1989年、1991年に個人の手記で現代史の評価を出版している。人民党以外の通史の担い手としては、欧米のカンボジア史研究者が英語で書いた通史が、カンボジア語に翻訳されている。他に通史としては、フランスで教育を受けたカンボジア人の歴史家が書いたものもある。現代に至るまで体系的に通史をまとめたのは、欧米研究者のデービッド・チャンドラーのものだけで、カンボジア人書いたものとしては、大学(歴史学科)の教科書はあるが一般販売用ではない。また、海外で教育を受けたカンボジア人が、通史ではなく、先史からポスト・アンコールまで、あるいは現代史など、一定の時代区分について書いたものはいくつか存在する。

青山氏(東京外国語大学)
(質問)
普通のカンボジアの国民は、どのようなチャンネルを通して歴史を学ぶ機会があるのか。学校教育以外では、あるのだろうか。
(回答)
2000年代後半~現在では、テレビだろう。国営テレビは、現代史を題材とした映画を放送している。民主カンプチア時代についても放送される。シハヌークの誕生日や独立記念日の前後には、シハヌーク時代についての番組が放送される。現代史についてはフィクションのような形でも放送されている。本が広く手に入るのは都市部のみで、歴史の本は多いが購入している人は学生が中心であるようだ。一般の人が購入するイメージはなく、人々が歴史に触れるタイミングは限定的だろう。
(質問)
例えば、博物館など公共の建造物に行くと、歴史を学べるということはないのか。
(回答)
カンボジア人が勉強しに行く対象として博物館をみているかは疑問。アンコール・ワットにも行く人は多いが、レジャーとして行く場所になっているのではないかと思う。つまり、歴史を学ぶチャンネルが少ないと言えるだろう。

北川氏(東京大学)
(質問)
2001年の教科書がすぐに回収されて、次の版が発行されるまでにしばらく時間がかかっているが、その間、現代史は何を使って教えられていたのか。
(回答)
教員の間で差はあるが、その間は教科書がなかったため現代史は教えていないようであった。ただし、若手の教員は、教科書がない中、自分で教材を作成して現代史を教えていた先生もいた。そのため、全く教えていなかったとは言い切れず、教える媒体がないので教えにくかったという方が正確だろう。教員の熱意次第であった。回収されて以降、次の教科書が出る2008年までのカリキュラムでは現代史教育は公式では教えられていなかったということになる。そういう人たちが今、教える立場になっているが、自分が教えられた経験がないなかで、教え方が問題化している状況であろう。

藤倉氏(東京大学)
(質問)
2001年に回収される前の現代史の教科書が1987年のものということだろうか。それとも、その間に現代史の教科書が発行されていたのか。
(回答)
カンボジアにおいて体系的に現代史がまとめられているものは、1987年の次が2001年のものである。それまでの間、教科書自体の発行はあったが、断片的な記述に留まっている。例えば、現代史を教えるといっても1979年以降であったり、1990年代については9年生の教科書に非常に短い文章で触れられる程度であった。同じ分析対象にしても、書かれている量のバランスが悪く、分析対象として同じように扱うことを断念した。ただ、例えば1979年以降についてみるといった場合には、それらの短い記述でもみていく必要があるとは思う。
(質問)
いつの時点で、1987年教科書の史観を捨てたのか?徐々になくなっていったのか、あるいは、2001年に突然消えたのか。
(回答)
教科書については教科書が発行されたタイミングとしか言えない。1987年の教科書は、発行後、現代史に相当するものがないので、そのまま使われていたようだ。1987年以降、1995年、96年まで使われていた。1996年以降も地域によっては使われていたところがあると聞いている。ただし、「使われていた」というだけで新しい教科書が作られたわけではない。徐々に記述が消えていったのかということは、教科書が作られていない時期のものを分析することができないので、お答えできない。
(質問)
先ほどの誰に向けた教科書だったのかという点に関連して、あまり歴史観を転換させて教え込むということを考えていなかった、ということになるのだろうか。
(回答)
そうではないとは思うが、はっきりお答えできない。

青山氏(東京外国語大学)
(質問)
カンボジア史8年生(1987年発行)は、8年生が読むカンボジア現代史というのは部数が残っている限りは、1988年、89年、90年にも使われていったということであるが、いまの話だと、2000年代までずっと使われたのだろうか。
(回答)
2001年時点で確実に変わったことは確かである。それ以前については、新しいカリキュラムが出た以降も同じ教科書を使っていたというインタビューの回答はある。1990年代までは、地方差はあるが使われていた可能性が高い。1990年代に教育を受けた人に改めて聞く必要がある。配布したという記録が公文書には残っていないので断定できないが、実際に使っていたという人からはある程度参考に聞くことはできる。いつまで、その教科書が使われていたのか、ということも今後考えたい。今回の発表では、教科書が作られた時点を中心に見ていたために、その後どの程度使われていたのかという点については分析が及んでいない。そのため、最後の方の質問に対してお答えするだけの資料や見解を持つことができない。
(質問)
2001年に社会科カンボジア史が発行はされているが、これは1996年の学習指導要領に基づいているということ。1996年というところが画期であり、その結果が2001年のカンボジア史12年生になっている、という枠組みでまずは説明された方がよいのでは。その上で、今回の発表で使用した資料について説明するという展開の方がよいと思う。
(回答)
ご指摘、どうもありがとうございました。

第2報告、以上。


2013年度第1回(4月)の関東例会のご案内

関東例会4月例会(4月27日開催)のご案内を致します。

今回は、藤倉哲郎会員による「ベトナム・カントー市ハウザン河氾濫原の一農村における雇用機会と農村世帯の就業・家計構造との関係」及び、新谷春乃会員による「カンボジア現代史認識の変容―カンプチア人民共和国成立以後の国定教科書の分析を通して―」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。

<2013年度4月例会>
日時: 2013年4月27日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:藤倉哲郎氏(東京大学大学院総合文化研究科学術研究員)
コメンテーター:岩井美佐紀氏(神田外語大学国際言語文化学科准教授)
報告題目:「ベトナム・カントー市ハウザン河氾濫原の一農村における雇用機会と農村世帯の就業・家計構造との関係」

<報告要旨>
本報告は、ベトナムの地方における近年の雇用機会の拡大が、農村世帯の就業構造・家計構造に対して、どのような影響を与えているのかを、メコンデルタの中心都市カントー市の中にあって、ハウザン河の氾濫原に位置する一農村を取り上げ考察する。調査村の世帯には、稲作の小零細経営を維持しながら、世帯内若年労働力を賃金労働に配分するという、労働力配分戦略がみられる。おもに村内若年層が就いている賃金労働の就労条件は、学歴と職種を通じて、土地所有規模に基づく既存の村内階層間格差を再生産している面もあるが、全体として階層間の所得格差を縮めている。こうした新たな雇用機会の出現は、土地条件に制約があり、土地の分割相続が限界点に達している調査村において、世帯の世代的再生産サイクルに、新たな契機を与えている。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:新谷春乃氏(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程、日本学術振興会特別研究員DC)
コメンテーター:北川香子氏(東京大学大学院人文社会系研究科助教)
報告題目:「カンボジア現代史認識の変容―カンプチア人民共和国成立以後の国定教科書の分析を通して―」

<報告要旨>
本報告では、人民党政権下(1979年―2012年)に刊行された国定教科書の分析を通してカンボジア現代史がいかに叙述され、変容してきたかを論じる。人民党は、独立以降から繰り返された政権交代の流れを打ち切り、現在に至るまで政権を担っている。この間、共産主義志向の放棄、党史の書き替え等、党の性格を変えてきた。他方、現代史叙述の中で評価されるシハヌークやポル・ポトら、1979年以前の体制指導者は、人民党政権下で台頭するも、1990年代末を境に衰退していく。近年では、カンボジア特別法廷の審議が進む中、現代史を巡る語りは国際社会から注目を受けるようになる。このような状況を踏まえ、国定教科書の現代史叙述は度々書き替えられてきた。これらの書き替えは、カンボジア/クメールといった「カンボジア史を語る枠組み」を変更しながら、共産主義とシハヌークへの評価を鍵としている。その評価は、近年人民党史に沿った評価からの乖離傾向が見られる。本報告では、これら一連の変容を1987年、2001年、2011年に発行された教科書の分析を通して論じる。


終了後、会場内にて簡単な懇親会を用意しております。奮ってご参加ください。

<報告者募集のお知らせ>
5・6月の例会に関しては、既に大変多くの方のご応募を頂き、報告者を決定致しました。
現在、10・11・1月の報告者を募集しております。
ご応募・お問い合わせはkanto-reikai@tufs.ac.jpまでお願い致します。
皆様のご応募、心よりお待ちしております。
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