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2014年度第6回(1月)関東例会の報告

2015年1月24日に開催されました関東例会での報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:細淵倫子氏(首都大学東京人文科学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC2)
報告題目:「都市カンプンにみるブタウィの存在とその多様性―2014年ジャカルタ都市カンプン・フィールド調査「起源についての語り」の記録から」
コメンテーター:イルマヤンティ・メリオノ教授(インドネシア大学)

【コメント】イルマヤンティ・メリオノ氏(インドネシア大学教授)
 本調査方法を評価するとともに、チョンデッ、プジャテン・ティムルにおけるブタウィの多様性について新しい知見を得られることが期待できると本研究を価値付けた。その上で、ヌサ・ジャワ族や植民地時代のポルトガル人との関係の事例、1923年に創られたカウム・ブタウィ、彼らの文化芸術の存在、そして婚姻をめぐるブタウィのアイデンティティの問題が言及され、エスニックとしてのブタウィを社会や政治の「統合」として捉える必要性が提示された。また、都市化に伴う生活様式の変化や他の民族の文化といったものを受け入れながらも独自の文化を維持しているブタウィの文化的な順応性、文化の混淆と受容の過程が重要であると述べ、中国やポルトガル、オランダ等における影響の事例を提示した。

【質疑応答】 ※文字制限都合により、一部割愛した
質問1(東京外国語大学 金子さん):「ブタウィ・パサル・ミング」語とはなにか。ブタウィ語とは独立した言語なのか。
回答1:「ブタウィ・パサル・ミング」は、「ブタウィ語」のひとつの方言である。

質問2(東京外国語大学 宮田先生):「ブタウィ・ムルニ」と「ブタウィ・チャンプル」の2つに分類する意味は。誰が分けているのか。本人たちはどのように考えているのか。
回答2:今回の2分類は、本事例がこれまでのブタウィ分類では説明ができないために、当事者への「語り」にみられる「ムルニ」「チャンプル」をヒントに、報告者が仮説的に立てた分類カテゴリーである。

質問3(同上):同じ地域内で、ブタウィの人々が二極化、分化するということか。
回答3:同じ地域内で分化する場合もある。
青山先生:分類名称「ムルニ」は再考した方が良いのではないか。

質問4(慶應義塾大学 ナザリヤさん):ブタウィの歴史的説明をさらに要すると感じた。もともと「ブタウィ」の語源は。アリサンの具体例などは。
回答4:「ブタウィ」はバタフィアを起源にする語である。ブタウィ内のアリサンについては、「ブタウィ・ムルニ」のみ、親族間での小規模な実践がなされている。また、「起源」に関しては、イルマヤンティ先生の本日のコメントを踏まえ今後再度検討したい。
イルマヤンティ先生:ブタウィの語源は「mampat tai排泄物」であるという説もある。

質問5(金子さん):ブタウィの多様性を明らかにすることはカンプン研究にどのような貢献があるのか。
回答5:マルチ・エスニックなカンプン空間において、混交エスニックの分析軸の提示が可能であり、今後のカンプン研究において貢献できると考える。

質問6(青山先生):一般的な文化人類学の議論で、エスニシティが構築されたものであるという議論はすでになされているのでは。
回答6:ブタウィが「混交」エスニシティであるという議論については他の分野(社会学、歴史学、政治学など)でも議論がすでになされている。ただ、今回着目したいのは現代のジャカルタのカンプン調査において、「どのようにエスニシティ、宗教、階層、出身地域が混ざり合っているのか」という問いである。
青山先生:独立以前からブタウィという概念が使われていたことを考えれば、ジャカルタでではなく当時のバタフィアで、という議論の立て方をした方が良いのでは。

(文責:宇戸優美子、東京大学大学院総合文化研究科・博士課程)

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:岡本 義輝氏(宇都宮大学 国際学部附属 多文化公共圏センター研究員)
報告題目:「マレーシアの日系R&Dのローカル化が進まない原因と本社側の根本要因」
コメンテーター:森 哲也氏(日栄国際特許事務所 代表)

1 コメンテーター(森 哲也氏)のコメント
 途上国に進出する日本企業が、低賃金雇用などの目先のコスト意識のみで臨み、現地の人材をR&Dや経営に有効活用しない旧来体制を維持するのであれば、いずれグローバルな競争場裡において負け組とならざるを得ない。また、新しい経済的価値の創造、すなわちイノベーションを起こす人材を、広く開発途上国に求めて、経営及びR&Dを現地化した企業は、グローバルな競争場裡において勝ち組となれる。
 コメントへの回答:指摘の通りである。しかし日本人は欧米人に比べ、①ゴマすりが多い、②長いものに巻かれやすい、という国民性がある。日本人論、日本文化論、企業組織論、等からの議論が必要である。

2 質疑応答
1)質問1:(北川さん)エース級の人とは?
回答1:2003年10月からの10年間で約40回訪馬し、延べ1,500社を訪問した。約2,000人の日本人幹部と面談を行った。その内約1,000人が海外現地法人の社長、残り1,000人がR&D(Research & Development:設計)長や技術者である。エース級の社長の定義は、本社の評価する「売上、利益、品質、納期」を達成することに加え、本社の評価しない「①R&D技術者のローカル化をほぼ100%近くにする」や「②ローカル社員のモチベーションの向上」等を行う、いわゆる「改革をする」社長である。1,000人の社長と面談の結果、エース級は10%位と非常に少なかった。原因は、本社が海外現地法人を中央集権的に、意のままに管理するため、2線級の社長しか派遣しない。それに加えて日本側が優秀な人材を囲い込み、海外に派遣しないからである。

2)質問2:(北川さん)SEM(Sharp Electronics Malaysia)とはどのような会社?
回答2:2003年当時、SEMはR&D、購買、サービス部品の会社で、工場や販売部門は持っていない。従業員350人であった。また、ブラウン管テレビの設計はマレーシア、液晶テレビの設計は日本、の棲み分けになっていた。海外R&Dは、その国の市場を良く見て設計し、その国の工場で生産する。これが、ローカル化だと、一般的に考えられている。しかし、SEMは当時、南京、フィリピン、ジャカルタ、マレーシア、タイ、インド、バルセロナ、メキシコの8工場で生産するブラウン管式テレビ(計800万台/年)を設計していた。パナソニックもソニーもほぼ同じであった。

3)質問3:(金子 奈央さん)何故R&Dがマレーシアなの?
回答3:小生も理由がよく解らないが、推測も含めてお話しする。当時、上記800万台中、マレーシアが250万、メキシコが250万であった。①規模が大きな2工場のうちR&Dの素地があったのがマレーシアである。それに加え、②7工場で、英語での業務が容易なのがマレーシア、③マレーシアからの7か国へはVISAが取りやすい、等があった。

4)質問4:(お名前:メモ忘れ)日本企業のガラパゴスとは?
回答4:海外販売比率の低かった1990年頃までの海外子会社管理を、海外販売比率が高くなった2000年以降も、過去の成功体験をもとに全て同じやり方を行っている。その他、商品づくり、マーケティングもガラパゴス化いている。

5)質問5(お名前:メモ忘れ):マレーシアへ転勤する夫に同行する友人。マレーシアはどんな所と聞かれた。
回答5:シャープの例で言うと、SMM(バトパハ:ジョホール州)は単身赴任が多く、SEM(シャーラム)は帯同者が多い。この2社の本拠地である栃木県矢板市は人口3万人、KLは160万である。コースで食べられる日本食の店は矢板に比べKLが圧倒的に多い。SEM赴任者は生活を楽しんでいる。

(文責:岡本 義輝)

2014年度第5回(11月)関東例会の報告

2014年11月22日に開催されました関東例会での報告の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:エリザベス・エスター・フィブラ・シマルマタ氏
(東京外国語大学大学院 総合国際学研究科 博士後期課程 言語文化専攻)
報告題目:「現代ジャワ若者におけるジャワ語の敬語使用の状況―ジョグジャカルタ特別州の高校生による敬語運用の実態調査―」
コメンテーター:原真由子氏(大阪大学 言語文化研究科 言語社会専攻 准教授)

【コメントと質問(原真由子先生)】
 ジャワ語と同じく、敬語体系をもつ地方語であるバリ語を対象にしている研究者として重要な問題となるのは、バリ語とインドネシア語の二言語話者が、どのような言語使用を行っているのかという点であり、本報告ではその点について指摘している。特に敬語については、バリ語とインドネシア語のコード混在という視点から考察している。多言語社会インドネシアでは、地方語とインドネシア語の二言語使用は日常的に見られる現象で、二言語話者がほとんど大多数を占めている状態である。ただし、その現象は一様ではなく、民族、文化、言語において均質性が高く、比較的話者が多い一つの地方語が話されている地域もあれば、多数の民族と言語が混在している地域もある。ジャワやバリは前者に該当し、地方政府は一つの地方語に集中して政策を施すことができる。また、ジャワとバリの共通点として、敬語体系があることと、さらに独自の文字をもち、それに裏付けられた古典文学や芸術があることを指摘できる。そのような意味で、ジャワ敬語の現状に関する今回の報告は、インドネシア言語社会の一つの大きなタイプであり、民族と言語、地方政府がほぼ重なっている地域を理解するために役立つ。類似点の多いバリ語研究にとっても示唆が与えられる。高校生の敬語使用の実態を都市部と農村部800人分収集した点は、非常に評価できる。また、調査対象にジャワ語教員、高校教員も含めることで、規範意識、大人の実態、若者の実態を知ることができる。
 [質問]都市部居住者の高校生がンゴコ体を使用する傾向とクロモ体を使用する際に不正解率が高くなるという傾向をどう解釈するのか。単に敬語使用が間違っているのか、それとも規範自体が変化したのか。Brown and Gilmanによる、Power and Solidarityの理論が適用できるのではないか(Powerよりもsolidarityを重視している都市部の高校生が見られる(年齢<親密度))。言語以外の条件が変化しているのではないか。本来の規範的な敬語は、何を基準に決めるのか(年齢や職業か)。敬語は言語外の条件に基づくため、社会変化や親密さ等規範が変化していると見ることはできないか。

【コメントと質問に対する回答】
 結果をみると、ジャワ語教員(4人)の規範的な表現が一致したため、本来の規範的な敬語使用は変わらないといえるだろう。高校生は70歳近くの大先生に対してジャワ語で話す際には、最も敬意を表わす丁寧なジャワ敬語を使用するのが規範的だと考えている。しかし、相手の年齢と社会的地位が自分より遥かに上であるにもかかわらず、都市部の高校生は敬意を表す表現を用いず丁寧ではないンゴコ体をよく使う。その理由は、ジャワ敬語の使い方が理解できないというのがほとんどである。都市部の高校生の大多数は家や近所で会話をする際に、ンゴコ体とインドネシア語しか使わず、小学校でジャワ敬語を学んだとしても、日常生活では使わないため、ジャワ敬語の使用方法が分からない(一部は、大先生とより近い距離を求め、ンゴコ体を使用するというケースも見られた)。規範的な敬語が変化したというよりも、クロモ体が使えなくなってきている中でンゴコ体のみの使用に変化していると指摘できる。この点に関しては、Brown and GilmanによるPower and Solidarityにも関係があるといえるだろう。かつては、ンゴコ体は敬意を表さない、丁寧ではないと指摘されてきたがむしろ、ンゴコ体を使うことによってジャワ人としてのsolidarityを示そうとしているのではないかと指摘できるこれは、もちろん、社会変化に繋がりがあるといえるだろう。一方、農村部の高校生の間では、尊敬用語は規範的な敬語がある程度保たれているが、謙譲用語の表現は、クロモ体からマディオ体に変化している。つまり、彼らは丁寧さを大事にしているものの敬意の表わし方はクロモ体を使用するほどではないと認識する傾向があって、丁寧な表現の枠内で敬意度レベルの変化が見られる。

【質疑応答と指摘など】
指摘(加藤先生):かつては、ジャワ社会の中心クラトン(王宮)が都市にあって、ジャワ敬語の使用を含め都市こそがジャワ的文化の中心であり、農村部に住んでいる農民は敬語が話せず、ンゴコ体を使っていたと聞いたことある。今はそれが逆転してしまい、都市は国民文化の発信地として王宮の文化、踊り等ジャワ的文化があったとしても、言語面では中心性を失いつつあるという点に関心をもった。
質問1:資料の中で、高校生がよく使う表現の、1位から3位までの回答率を足したら100%を超えるのはなぜか。
回答1:複数回答可能なため。
質問2:尊敬用語に関しては、農村部(約8割)と都市部(約5割)の高校生が1位に選んだ表現は規範的な敬語だった。一方、謙譲用語では、両方とも規範的な敬語が理解できず、農村部の高校生が選んだ規範的な敬語の回答率が3割以下、都市部では間違っている表現が1位に選ばれている。現代ジャワ若者の敬語表現の使用が非常に良くないと考えても良いか。
回答2:現代のジャワの若者が敬語表現を使用できないというよりも、敬語使用の現状において、規範的な敬語使用に対する認識が変化してきていることを指摘したい。調査結果からは、敬語使用に対する認識が低く、前述のようにジャワ語を使用する際には、Powerよりも、ジャワジャワ人としてのsolidarityのほうが認識されている。良いかどうかの価値判断はともかく、現代の実態として指摘したい。
質問3:報告者が認識した変化というのはいつから始まったか。
回答3:報告資料でも触れたが、1930年に既にジャワ敬語の複雑さが認識され、1980年代のスハルト政権時代になると、Pudjosoedarmoが述べたように若者の間でジャワの敬語使用のこだわりがなくなり、さらに公用語と教育語のインドネシア語への使用が増え、ジャワ敬語使用の変化が見えるようになってきている。報告者自身スンダ地域に住んでいたが、1990年代の大学生の頃には、民族語よりもインドネシア語や通常語のスンダ語と、そのコード混在の言語などが常に使われていたことから、民族語使用が徐々に変化してきたことを認識してきた)。
質問4:量的調査も良いが、質的調査は行っても良いのではないか。
回答4:その通りである。今回の量的調査は、前回2回行った質的調査の結果に基づいて行った調査である。現地調査を行う際、アンケートのほかに、インタビューやロールプレーからもデータを収集して分析した。その結果は既に修士論文内で言及した。今回の調査は、前回の量的、質的調査を分析した結果をさらに分析するために800人の協力者に依頼して行った。
質問5:日本語では二人称の使用が難しく、「あなた」や「君(きみ)」などは日常的にはあまり言わない。それに対し、インドネシア語ではBapak(年上の男性の呼名・お父さん)、Ibu(年上の女性の呼名・お母さん)のような二人称があって非常に便利である。最近マレーシアの大学に行ったら、若者の間では「あなた」の二人称は英語の「You」で、自分を指す際に「I」を使用する傾向が見られたが、インドネシアではそのような傾向があるか。
回答5:英語の「You」と「I」を使用する傾向はないが、若者の間では若者の特有のことばがある。但し、マレーシアと同様で、このようなことばは丁寧ではなく、年上に向かって使用すると失礼になるため、使用には注意が必要である。ジャカルタのような大都市では最近、呼名は英語のように、相手の名前を呼ぶケースが時折見られるが、大多数は年上の人に対しては未だにBapakやIbuを使用する。

(文責:東京外国語大学大学院 エリザベス・エスター)

第二報告(15:45~17:45)
報告者:長津一史氏 (東洋大学社会学部 准教授)
報告題目:「研究工具としての空間情報―インドネシアとフィリピンの民族動態を題材に」
コメンテーター:加藤剛氏 (京都大学名誉教授・東洋大学アジア文化研究所客員研究員)

【コメント】
■ 加藤剛会員(京都大学名誉教授)
①GISを用いた研究
はじめに東南アジアのGISの成果として、参照できるものとして次のふたつを紹介する。後者については、加藤が書評で紹介した(2013『東南アジア研究』 51(1): 190-194)。
1)京都大学地域研究統合情報センターの林行夫が中心となって編集した『大陸部東南アジア上座仏教徒における実践の時空間マッピング』(京都大学地域研究統合情報センター編、チュラロンコーン大学社会調査研究所発行、2014年)
2)Cribb, R. B. 2000. Historical atlas of Indonesia. Honolulu: University of Hawai'i Press.
 これらの作品をみてわかることは、GISを用いた研究で成果を出すためには、多くの調査者を動員する必要があり、また長い時間をかける必要があるということである。報告者を含め、GISとセンサスを組み合わせた研究で成果を出そうとする研究者は、この点を覚悟しておく必要がある。グループワークの場合、オーガナイザーは参加者のモチベーションをいかに高めるかを常に考えなければならない。
内容について述べる。上記の作品を含めて、GISを用いた研究が魅力的であるためには、既存のデータのみならず、地べたの情報、つまりフィールドワークの情報をマッピングしていく必要があろう。今日の報告も、センサスの情報に加えて、報告者自身の東南アジア島嶼部の広域におよぶフィールドデータを組み込んでいるがゆえに、とても興味深いものになっている。GISはオールマイティではない。地道なフィールドワークと組み合わせることによって、より有意義に活用することができるツールである。

②東南アジア海域世界
 報告はセンサスとGISを手がかりに海民の生成過程を跡づけ、東南アジア海域世界の特徴・成り立ちを探ろうとするものであった。近年、古代ギリシャや地中海の歴史に関心を持ち、そこでの文明の生態・生業の条件などを考えている。ギリシャのポリスはかならずしも農耕適地とはいえない河口、沿岸に建設されることが多かった。海上交易とそのネットワークが優先されていたのである。こうした点は東南アジア海域世界と共通する。本研究をもとに、世界的な規模での海域世界の比較を考えるのも面白いのではないか。参考文献をひとつあげておく。
カール・シュミット2006『陸と海と―世界史的一考察』(生松敬三・前野光弘訳)東京: 慈学社出版(Schmitt, Carl, 1942. Land und Meer: Eine Weltgeschichtliche Betrachtung, P. Reclam)

③センサス
博士論文を執筆していたときには、センサスをよく調べた。しかし、その後、じっくりとみる機会は少なくなった。研究者は、この資料をあまりしっかりと検討しない。しかし、実は情報の宝庫である。今年の6月、マラヤ大学の図書館でマラヤ/マレーシアのセンサスを調べた。半島部の農村における人口減少が、この30年間でいかに急速に進んだのかを探るためである。マレーシアについては、1991年のセンサスから、郡(mukim)レベルの非マレーシア人(外国人)人口の推移を知ることができる。なぜ1991年からそうしたデータをとるようになったのかも興味深い。1980年代からすでに、都市だけでなく、地方においても、正規・非正規にかかわらず、外国人労働者の数を把握しておく必要性が生じていいたのだろう。こうしたデータをきちんと使った研究は、あまりないのではないか。

④GISとセンサスを用いた研究への展望
GISとセンサスを用いた研究をどう展開していくのかについて、レジュメ1頁右側下に「コメントに期待」と書いてある。解答は持ち合わせていない。しかし、困難な問いを考えるとき、私は常に「歴史と比較」に立ち戻るようにしている。
報告者は、バジャウという特に移動性の高い民族を研究している。かれらは、自分たちだけで生活世界を維持することはできない民族、周りに交易を基盤とする都市が存在することではじめて成立する民族である。だから居住地は広い範囲に分散している。そうした拡散居住ゆえに、センサスと空間情報を用いたアプローチが有効であるともいえる。しかし、バジャウのように拡散居住をしていない人びとについての研究の場合はどうであろうか。
インドネシアで民族情報を含む詳細なセンサスが出されたのは2000年。2010年のセンサス、さらに20年後、30年後のセンサスの末端レベルまでの情報が利用可能になれば、歴史的な考察が可能になる。それは時間的な比較でもある。
 たとえば労働移動、人口移動というトピックが考えられる。インドネシアではこれまで、エスニシティとホームランドのあいだにある程度、明確な重なりが見られた。センサスで村落レベルまでの情報が得られれば、この重なりが溶解していく過程と、さらにそれがどういうスピードで進んでいるのかがわかるようになるだろう。
最後に、もうひとつのコメント、というか激励を加える。最初に触れたように空間情報を扱う研究は、たいへんな労力とエネルギーを必要とする。また、多くの人の協力が不可欠である。そのようにたいへんな研究ではあるが、情報が蓄積されればされるほど、利便性は高まっていく。本報告で示されたような可視的な情報が今後、長期的に蓄積されることによって、時空間情報が持つ研究上の意味はその意味はよりよく理解されるようになる。ビッグデータを処理し、蓄積する技術も高くなっている。長津さんがリーダー、あるいは犠牲者となって、そうした研究を引っ張って行ってほしい。

◆ 長津応答
①に関する追加情報
GISデータの構築に関わる情報を加える。今日の午前中、インドネシア・センサスの利用に焦点をおいた勉強会を若手研究者とともに立ち上げた。勉強会といっても、センサス・データを中心に、共有化しうるデータベースを作ることが主な目的である。当面はこの作業を続けていく。

②東南アジア海域世界についてのコメントへの応答
海域世界の地域間比較の可能性についてアドバイスをいただいたと理解した。時間がなかったので報告では触れなかったが、本研究の展開として、海域世界の地域性と普遍的性格を念頭においた比較を考えている。たとえば、東南アジア海域世界と日本の周辺海域との比較、あるいは東南アジアの海民と、倭寇やバイキング等の生成過程についての比較である。

③センサス・データの公開状況
すでに述べたとおり、今日は2000年センサスを主に利用した。個人単位に至るまでの詳細情報が公開されているからである。しかし、2010年のセンサスでは、たとえば民族属性に関するデータは県単位までしか公開されていない。これがせめて村単位、郡単位まで公開されれば、2000年との比較が可能になり、有用性は増す。京大東南アジア研究所あたりがインドネシア中央統計局に要求してみると面白い。ただ2010年センサスでも、民族属性、宗教属性以外は、村落単位までのデータを入手することができる。そのデータは十分に利用価値がある。

【フロアからのコメント・質疑と応答】
■ 大野美紀子(京都大学東南アジア研究所助教・図書館室長)
 京都大学東南アジア研究所図書室におけるセンサスや他の統計類の所蔵・利用状況について短く説明したい。東南アジア研究所の図書館におけるインドネシアの統計資料の所蔵量は、紙媒体、電子媒体いずれも、日本では最大である。ただし電子媒体のものについては、公開の仕方がいまだ整備されていない。現在、調査と検討をしているところである。報告者が利用しているインドネシアの2000年センサスについては、東南アジア研究所の図書館では公開していない。インドネシア中央統計局との契約に、「図書室での閲覧に限る」という条件がある。しかし現状ではコピーを防ぐ手段がない。この問題をどう解決するのか検討中である。利用希望者には個別に対応するしかないのが現状である。
インドネシアの2010年センサスは、これからできるだけ包括的に収集していきたい。ただ販売元であるBPSの態度、判断にはブレがある。利用権の許諾を得るのが難しくなっている。
図書館にとって、特定の地域・時代のデータの重要性を示していただけることは、資料の収集方針を決定するうえで有意義である。当然、予算は限られている。購入の優先順位を決めることは重要である。報告者は、フィリピンのセンサスが東南アジア研究所図書館に所蔵されていないとの苦言を呈された。それは、フィリピン研究者からの希望が少ないことの反映であることを理解していただきたい。他方、インドネシア研究者からのセンサスを含めた基礎資料購入の希望は強い。こうした資料要請の強弱が、所蔵状況の差になって表れている。

■ 氏名不明(フィリピン研究者)
フィリピンについてもアメリカ期と独立後のセンサスがある。アメリカ期の資料については、マイクロフィルムないしマイクロフィッシュに収められている。これらの資料を利用可能なデータにするには、たいへんな労力がかかる。マイクロフィルムないしマイクロフィッシュのデータを処理する方法はあるのか。報告者はどのようにフィリピンに関する電子データを得たのか。

◆ 長津
インドネシアとフィリピンの2000年センサスをGISデータに組み込もうと考えたのは、すでに利用可能なデータがあったからである。報告で述べたとおり、フィリピンの2000年センサスのデータは、東洋大学アジア文化研究所で購入した(穂高書店経由で購入可能)。1930年のセンサスの場合、「外島」については自分で原典から入力した。それ以上、つまりジャワ、スマトラ等のデータ入力はひとりでは無理。仲間を募ってやらざるをえない。マイクロ資料についても、PDF化してOCRをかけるという作業は同じで、地道にやらざるをえない。それでも現在、OCRの精度がよくなっているので、作業じたいは楽になった。

■ 小池誠(桃山学院大学)
GISで人の移動を分析することはできるのか。2000年センサスでは、移動している人はどのように扱われていたか。たとえば、「一時的な滞在者」はどう扱われたのか。

◆ 長津
私も人の移動を数字化、地図化することに興味がある。地図上に線で表することはできるだろう。ただ、センサスに基づいて移動の内容を地図データ化することはなかなか難しい。センサスでは、作成したその瞬間の情報しかない。その時点で、「5年前にどこにいたか」という情報しかない。しかもそのときの情報の単位は県レベルになってしまう。県と県のあいだの大きな移動をとらえることはできる。しかしより細かな動きを把握することはできない。センサスでは一時的な滞在者も含むあらゆる人が対象になる。外国人であっても居住している人はその対象になる。

■ 小泉佑介(東京大学大学院)
地図は歴史的な一時点、瞬間しか描くことができない。だから、異なる時代を扱うことが重要になる。今回扱われたインドネシア・センサスのGISデータについていえば、2000年センサスと2010年センサスの「あいだ」または変化をどうそのなかに組み込むかが大事になるのではないか。
 移動については、筑波大の空間情報の研究者は、personal tripの情報を集めている。かなりミクロな視点をとっている。そうしたやり方で、バジャウの人たちの動きを把握することも可能かもしれない。細かな話になるが、発表で提示されたGISはどういった地図をベースにしているのか?

◆ 長津
 はじめのご意見は参考にさせていただく。2000年と2010年の変化を捉えることは間違いなく重要である。だたし民族にかかわる情報の精度に問題があることは、すでに述べたとおりである。personal trip調査は興味深い。悉皆調査は難しいが、サンプル調査なら可能だろう。私がやっているのは、漁師さんにGPSを持っていってもらって、その行程を把握するやり方。海上での動き、漁場から漁場への動きが包括的に把握できる。何年に出版されたどの地図をベースにしているのかは調べていない。最新の紙媒体のトポグラフィックがもとになっていると思う。

■ 大野美紀子
センサス・データを多数で加工し、共有したいとのことだが、どの範囲でそのデータを共有する予定なのか。センサス・データをオープンに発信するのは、許諾がないと難しいのでは。

◆ 長津
いま電子化、共有化を考えているのは、1930年のセンサス(Folkstelling)だけである。原典は私的に所有している冊子であり、著作権は切れているはずである。ただ、共有化は一定のメンバー、作業に参加した人に限定する予定である。自分たちが加工して作成したものについては、こちら側に著作権が発生するのではないだろうか。それは公開しても良いと考えている。データは可能なかぎりで公開していきたいと考えている。

■ 大野
著作権以外に、営業権も考慮する必要があるだろう。

■ 青山亨(東京外国語大学)
1930年のセンサス(Folkstelling)のデータや、他のデータを保持する場をどうつくるかも考えるべきだろう。東南アジア学会のウェブサイトなどで組織的な取り組みができたら良いと思う。

(文責:長津一史、森田良成)

2014年度第4回(10月)の関東例会の報告

2014年10月25日(土)に開催されました2014年度第4回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:遠藤 正之(立教大学アジア地域研究所・研究員)
コメンテーター:北川香子先生(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:「17世紀オランダ東インド会社・カンボジア間関係再考:『第二次友好平和条約』締結とその意義の検討から」

【コメント(北川香子氏)】
 従来の研究では、1658年反乱以降のカンボジアは、ベトナムとシャムの干渉が強まるなかで王権が弱体化する衰退期とみなされていた。しかし、上記の説は19世紀に編纂された『カンボジア王朝年代記』を史料としており、本報告が用いている17世紀オランダ語史料のほうが史料の信頼性は高い。その意味において、本報告の内容は、従来のカンボジア史研究を大きく書き換える可能性がある。
 その一方で、次のような疑問点も存在する。報告者は1658年反乱の目的を王権に近づいたマレー人の排除としている。しかし、同反乱で王位に就いた新国王が後に暗殺される事件に関して、年代記はマレー人が、フランス語史料は華人がそれぞれ関与していたと記述しており、複数の商業勢力が王権に大きく関わっていたことが明らかになっておる。この事実から考えると、1658年反乱についても、商業集団に王権が近づくという構図で捉えたほうが妥当ではないか。また、同反乱において反乱軍が広南阮氏の援助を仲介したとされるベトナム人王妃の存在をどう考えるのか。さらに、当時の交易におけるメコン川ルートの重要性については、カンボジアだけでなくラオスも含めて考えるべきなのではないか。これらについても、明確にする必要がある。

【回答】
 本報告では、王権とマレー人との関係について単純化してしまった面があるのは否めない。コメンテーターが指摘する商人集団に王権が近づくという構図は、まさしくその通りである。
 年代記やフランス語史料で存在が指摘されているベトナム人王妃については、オランダ語史料ではこのような書き方ではなく、反乱を起こした人物であるナック・ムントンの母と記述されている。このため、この人物について検討する際には、こうした各史料における記述の違いを考慮する必要がある。
 メコン川ルートの重要性については、コメンテーターが指摘する通りである。当時ラオスからの交易は、森林生産物をはじめとして非常に重要なものとなってあり、ラオス・カンボジア交易圏で考えるのが妥当である。但し、両地域の間にはコーンの滝が存在しており、当時の交易圏が同地で分かれていたのか否かも合わせて検討する必要がある。

【質疑応答】
 Q:1658年の広南阮氏による介入や、広南阮氏軍によるカンボジアのオランダ商館の略奪および破壊について言及している先行研究はあるか。
 A:ブッフによる研究がある。
 Q:広南阮氏がカンボジアに介入した意図はどのようなものであったか。広南阮氏はこれとほぼ同じ時期に、タイのナコンパトムに対しても強い関心を持っていた。このこととカンボジア介入との関係はあるか。
 A:後者について、両者の関係があったとすれば、その背景にはポルトガル人の存在があったのではないか。1658年の反乱に関する記述では、ナック・ムントン側は国王側にはない火器を保有しているとの記述があり、前者がポルトガル人と関係を持っていた可能性がある。
 Q:「第二次条約」締結のきっかけとなった1664年にマレー人のインチェ・アッサンが独断で出したオランダ東インド会社との関係再構築を求める内容の書簡を会社が受け入れたのはなぜか。1657年に当時のマレー人有力者インチェ・アッサムによるラオス交易独占で被った不利益の影響を、会社は考えなかったのか。
 A:1663年から1664年にかけてオランダ東インド会社とアユタヤとの関係が悪化していたため、会社はアユタヤとの交易がうまくいかなかったときのいわば保険としてカンボジアとの関係再構築を考えたのではないか。1657年のケースはたまたま起こったもので、会社にとっては後まで影響を残すものではなかったと考えられる。
 Q:17世紀のカンボジア王権におけるマレー人の位置づけどういうものだったのか。王の臣民だったのか、それとも外国人だったのか。
 A:オランダ史料の記述を見る限りでは、王の臣民だったと考えて良い。
 Q:当時のカンボジアにおけるマレー人は、一つの集団だった考えて良いのか。
 A:オランダ史料の記述では、マレー人の他にパタニ人という記述が見られる。ただしそのパタニ人にはパタニ出身のマレー人という意味づけがなされているので、当時のマレー人は一つのカテゴリとして考えられていたのではないか。
 Q:反乱後の新国王は、なぜマレー人を排除しようと考えたのか。前国王が改宗したイスラームが原因だったのか。
 A:現時点では、当時王朝内で強力となっていた勢力を淘汰するものとして、新国王によるマレー人排除を考えている。オランダ史料では、イスラームへの拒絶には言及していない。実際に前国王は、華人ムスリムやマレー人を取り込む狙いを持ってイスラームに改宗した一方で、他のムスリムではない人々も王権の中に取り込んでいた。ただ、この問題は非常に重要であるため、これらの点を踏まえながら今後更に検討していきたい。
 Q:17世紀中葉の長崎における唐船入港記録を見ると、カンボジアからの来航船の数は1650年代に増加している。この事実から考えると、前国王はマレー人を重視していても、華人を排除することはなかったのではないか。
 A:その通りである。当時は、主に海域や西方世界との交易に従事していたマレー人と主に日本との交易に従事していた華人とで、交易面において棲み分けができ共存していたため、前国王は華人を排除することはなかった。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 久礼克季)

■第二報告(15:45~17:45)
報告者:小泉佑介(東京大学大学院総合文化研究科 博士後期)
コメンテーター:加納啓良先生(東京大学名誉教授)
報告題:「スハルト政権期の農業・農村開発政策における商品作物栽培の位置づけ」

【コメント(加納啓良先生)】
[補足説明] 第一に、「商品作物」という言葉の定義についてである。インドネシア語のPerkebunan(日本語では「農園」という意)には小農も含まれているので、訳の当て方は注記しておくべきである。第二に、農家グループ(Kelompok Tani)は、協同組合の下部組織ではなく、農業指導員(Penyeruh Pertanian Lapangan; PPL)が定期的に指導を実施するためのグルーピングであるため,本報告での認識は間違っている。一方、村落ユニット協同組合(KUD)は、協同組合省の管轄であり、食料農業政策との関連で、米の集荷機能を持たせることを意図として形成されたものである。
[質問] 第一に、先行研究から引用していたアブラヤシ農園労働者が約300万人という数字であるが、これには小農が含まれているのか。第二に、インドネシアにおいて1990年代からアブラヤシ栽培が拡大したとあるが、蘭印百科事典におけるアブラヤシ栽培の歴史を遡ると、実際は1990年代よりも早く拡大し始めたのではないか。第三に、商品作物栽培の拡大は世銀の支援が終わってからであるという報告だったが、具体的に「支援」とはどのようなことが実施されていたのか。第四に、Koperasi Primerの概念は村落ユニット協同組合とは別物であるから、食料政策時代の村落ユニット協同組合と現代の商品作物用に融資のチャンネルとして使われた共同組合は別物であると考えた方が良いのではないか。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因として、人口増加、交通インフラ整備、通信インフラなどの拡充といった要素も考慮する必要があるのではないだろうか。第六に、中核農園プロジェクトの際,中核農園が統一的に管理するのと,小農と一緒に生産をおこなうのでは,生産効率が良いのはどちらか。
 
【コメントに対する回答】
[補足説明に対する回答] 第一に、本報告で「商品作物」という用語を使用した意図は、インドネシアの農業分野に精通していなければPerkebunanという語彙そのものが民間/国営農園を連想させ、誤認を招くと考えたからである。第二に、本報告における組合の位置づけだが、後半の15年間に低金利融資を主体としたプロジェクトが行われた窓口となったのが組合であった、というように認識していた。
[質問に対する回答] 第一に、先行研究におけるアブラヤシ農園労働者が約300万人存在しているという質問に関しては、小農の所有する農地で働いている労働者数を加算したものであったと記憶している。第二に、アブラヤシ栽培の拡大に関しては、1980年代からの伸びであったと記載する方が適切であったと考える。第三に、世銀のプロジェクトは、集約化と外延的拡大という二つの方向性をもって進められておいたのだが、本報告内では詳細な紹介ができなかった。一つの例として1980年のSmallholder Rubber Projectを挙げると、その当時すでにゴムを栽培していた小農の栽培方法を改善、あるいは肥料投入量を調整して、生産量を向上させるプロジェクトが実施されていた。第四に、Koperasi Primerに関して、「商品作物栽培に特化して」と記載したのは間違いであった。補足情報として、Koperasi Primerは畜産業や漁業を対象に支援も実際に行われていたため、商品作物のみが対象ではなかった。第五に、スハルト政権後半以降の商品作物が外島で拡大した要因に関して、通信・インフラ整備も確かにあると考えられるが、とりわけアブラヤシに関しては90年代から国際価格が伸び始めたのも起因しているのではないだろうか。また、教育制度や農村社会における生活水準の向上など要因は一つに限ることはできないと考える。第六に、生産性に関して言えば、農園が管理した方が生産効率が高いように思われる。

●質疑応答
質問1:世銀のプロジェクトが国営農園を支援していたという話だが、どこまでが国営でどこから民間支援であったのか。
回答1:国営農園を対象にしたプロジェクトは1980年頃まで。最初は国営農園の再活性化を行い、活性化した農園に小農を組み込む支援が行われたが、1980年代以降からは民間農園の参入を推進した。

質問2:政策がトリガーとして効果を発揮する部分もあるが、同時に影響がない部分もある。具体的には、国営農園は政策の影響が出てくるが、民間大農園は、政策の息がかかっているところとそうではないところを兼ね備えている。現代においては、民間小農園は近年、民間大農園と区別し難くなってきた。こういった状況を鑑みて、国営農園、民間大農園、民間小農園という三つのプレイヤーがいることを踏まえ、いま一度包括的に概観した上で、小農の位置づけをすれば全体像がより明確になるのではないか。
回答2:本報告は、題目に政策と謳っているものの、政策決定プロセスに重点をおいたわけではなく、あくまで政策の変遷を追ったものとなっている。そのため、指摘いただいた部分に関しては今後の課題としたい。一方で、パーム油の価格や世界的な需要といった外的要因だけでなく、国内の政策的な要因を見つめ直すことが、今回の目的であった。

質問3:商品作物生産量として挙げられている図におけるコプラの生産統計は信用できるのか。小農生産も多く行われていた中で、どのように統計がとられていたのか。
回答3:コプラ生産には小農のココヤシ栽培が関わっており、それらをどのようにして集計したのかは不明である。一方で、統計データを信用できるかどうかは別にして、コプラの生産を向上させるためのプロジェクトが存在していたため、コプラの生産量を拡充させようという政策的な意識はあった。
関連コメント:1970年代に過程で使っている揚げ油のほとんどはコプラであった。パームオイルを使用するようになった転換点は気になるところである。

質問4:世銀のプロジェクトも始めはゴムであったことから、ゴムも注目に値するのではないか。小農の商品作物栽培を理解する上で、アブラヤシの比較軸とするのはどうか。
回答4:確かにスハルト政権期における農業政策の中で、ゴムは注目すべき作物である。ただ、ゴムと比べてアブラヤシには地方政府レベルにおいてもかなり大きな利権が付きまとっており、小農が得ている多額の収入を見ても、単純にゴムと比較しうるとも言い難い。

質問5:スハルト時代の「箍」が外れたからこそ、拡大したと考えられるのではないか。本報告で注目している政策的な観点からの仮説を決めつけずに、柔軟に考察する必要があるのではないか。
回答5:スハルト期の素地に関して、その後の分析が不十分であり、その点は今後の課題としたい。ただ、商品作物栽培は植民地末期から行われていたが、現在につながるスタート地点は、スハルト政権期における食品作物栽培の支援にあったのではないかと考えている点が本報告の趣旨である。

質問6:ゴムやココヤシと違い、アブラヤシは劣化が激しく、近くに搾油工場が必要である。しかし、現在は既存の小農がアブラヤシを植えるケースが増加している。その一要因として搾油工場は考えられないだろうか。
回答6:2000年以降に、小農が農園の周辺に拡大していくにつれて、農園を持たない搾油工場ができてきた。工場ができれば、そのまわりに小農が拡大し、また工場ができるというパターンが展開している。90年代以降はその要因が続いているのではないか。
関連コメント:現在は、RSPOというパームオイルの認証制度があり、サプライチェーンをコントロールする試みがある。つまり、登録した小農からしか購入をしなくなるということだが、国際的にブラックだった企業がクリーン企業化する様子が見られる。こうした背景を考えると、小農に焦点を当てることによって、様々な動きが見えてくる。

(文責:上智大学大学院 北川あゆ)

2014年度第3回(6月)の関東例会の報告

2014年6月28日(土)に開催されました2014年度第3回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:久礼 克季(立教大学アジア地域研究所特任研究員)
コメンテーター:鈴木 恒之(東京女子大学名誉教授)
報告題:「17世紀ジャワ北岸地域の華人とマタラム王国」

【コメント(鈴木恒之氏)】
 第一に、先行研究としてルーロフスとナフテハールを挙げていたが、ド・フラーフの研究が挙げられていないのは不十分である。フラーフの研究は確かに華人の研究そのものを論じたものではないが、17世紀におけるマタラム王国の官僚制・地方の問題を論じつつ、華人に関する情報も相当量含まれている。やはり何らかの言及が必要ではなかったか。第二に、マタラムとの関係改善にオランダ東インド会社(VOC)が華人を利用したと論じていたが、この華人についてバタヴィア在住の華人か現地在住の華人かが明確にされていない。VOCの史料に現れる華人は「VOCの臣民」としてのバタヴィア在住華人であり、この点は明確にすべきである。また、交渉の主体は華人ではなくあくまでVOCであり、この点の相違も明確にする必要があろう。第三に、「現地の首長」という表現を用いていたが、これもマタラム王国の手によって送り込まれた者か、同王国が征服した地域を拠点とする文字通りの「現地の首長」であるのかを明確にする必要がある。基本的には史料に現れる「現地の首長」はマタラムが送り込んだ側の系列に属する事例が多い。第四に、「監督官」の訳をもう少し検討すべきである。この役職はマタラムが派遣する最高位の官吏を指す表現であり、「監督官」ではややそのあたりのニュアンスを表現するには不十分ではないか。第五に、1650年代のマタラム王国の貿易政策が、ジャワの商人、華人商人双方にとってどのような意味を持ったか、どちらにそれが有利に働くことになったのかを明確に論じる必要がある。

【回答】
 ド・フラーフの研究については、華人の活動を直接論じたものではないため、今回は積極的に利用することがなかった。今後の課題としたい。
 華人の問題については、バタヴィアから出航する華人は明らかにバタヴィア在住の華人である。ただ、彼らのなかには、地方に赴きその地に定着して「現地在住の華人」となった者がいる。こうして移住した華人やそれ以前から現地に在住していた華人が、マタラムに登用されて現地首長やシャーバンダルに昇進していったと考えられる。
 「現地の首長」については、1660~70年代にかけては、明らかにマタラム王国が派遣した者を指している。これを用語としてどのように考えるかが問題である。17世紀前半に現地の首長を指していた称号として「パンゲラン」があるが、これは同世紀後半にはマタラムの関係者にのみ付されるようになった。この称号がひとつの手がかりになる可能性がある。
 マタラム王国の貿易政策については、同王国の集権化政策が華人によるマタラムの経済の掌握につながり、1660~70年代にかけて華人の重要性を高めることにつながった。これはマタラム王権に対する反乱であるトルノジョヨ反乱(1675~79)後も変わることはなく、その後も「華人系の首長」が登場し、商業・商品作物栽培などの面でいっそう重要性を高めていくことになる。

【質疑応答】
 Q:VOCとマタラム王国との貿易関係、及び華人研究については先行研究で指摘されているのか。
 A:前者については、指摘されてはいるが具体的事例に踏み込んだ研究は管見の限りない。後者についてはルーロフス、ブリュッセイ、鄭維中らの研究がある。
 Q:マタラムは貿易に関心を持たなかったのか
 A:マタラムにとって米の輸出は国家の存立に不可欠であったから、関心を持たなかったとは考えられない。そうした交易を北岸地域の首長に任せず、自らと良好な関係にある華人に行わせたことからも、交易への関心を一定程度持っていたことは間違いない。
 Q:1646年のマタラム王国とVOCとの関係改善に華人が関わっていたというが、具体的にはどのような関与をしたのか。
 A:史料上に明確な記述があるわけではない。状況証拠になるが、1630~40年代の史料にある記述からそのようなイメージを持っているということである。
 Q:華人が情報をもたらした、ということだが、この「情報」は手紙及び報告書のことか。
 A:手紙が中心となる。具体的な事例としてVOC職員がマタラムに捕えられた際の連絡に華人がかかわっていた事実がある。
 Q:北岸地域以外での華人の活動はどのようなものがあったか
 A:内陸部に華人が入り込んで活動していた可能性は高い。また、華人シャーバンダルがマタラム宮廷に参内していた事例がある。ただ、具体的な活動については現在のところ史料上に明確な記述を見出せていない。
 Q:シャーバンダルに関し、マタラム王国による任命、称号や地位はどのようなものか。固定されたタイトルなどがあり、マタラム側の史料に相当する名称などがあるのか。
 A:固定された特有のタイトルは確認できない。マタラム側の史料も現状見出せておらず、今後の課題としたい。
 Q:マジャパヒト王国最後の王の側室が華人の王女であったと唱える史料があるが、この史料はどのように解釈すべきか
 A:ジャワの宮廷と華人が良好な関係を有しており、王朝の存立、経済活動における華人の重要性を反映しているのではないか。
 Q:華人商人を指すプラナカンと呼ばれる人々は明らかに華人的特性を強く示している。17世紀以降、イスラーム化する華人も増えたが、華人の現地化に関し発表者は何らかの見方を有しているか。
 A:17世紀についてはまだ明確な見解はない。ただ、18世紀になると、それ以前より多くの華人が流入することで「華人性」が強く意識されるようになっていったのではないかと考えている。

(文責:立教大学アジア地域研究所特任研究員 遠藤正之)


■第二報告(15:45~17:45)
報告者:NHIM SOTHEAVIN(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
コメンテーター:北川香子(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
報告題:Factors that led to the change of the Khmer Capital from Angkor to the South from the 15th century onwards

[コメント]
 ポスト・アンコール時代の史料は少なく、①新史料が発見されるか、または②オランダ商館関係の史料を精査・分析するしか、現段階ではこの時代の歴史研究を進めることは難しい。残念ながら報告者の研究は、以上のどちらかを基盤としているわけではない。
 報告者の研究は、王都の移動に関する野心的な研究であると言える。しかし、まず既存の研究の信頼性をもう一度問い直すと同時に、史料批判を十分に行う必要がある。

・15世紀に政治的・経済的中心が南に移った理由として、1980年代以降[ヴィッカリー(M.Vickery)以後]は、一般的に同時代史料の多さから国際交易の観点から説明される。

・聞き取り調査が可能であるのは、せいぜい19世紀前半まで。内容は、話者につながる歴史に留まる。

・農業を遷都の要因として立証するのは、現存する史料からは難しい。また、デルベールやエイモニエの論を折衷的に引用しており問題と思われる。報告者が述べた観点から指摘するのであれば、やはり他の地域と比較して、スレイ・サントーやロンヴェークの農業生産性が優っていることを立証すべきである。また、農学的な用途・背景にも十分精査する必要がある。

・報告者が基礎史料として挙げている王朝年代記は、19世紀以降、現在の王家につながるロンヴェーク―ウドン王家によって編纂されたものである。王都は、スレイ・サントーからロンヴェーク,ウドンへと移ったのではなく、両者は同時並行的なライバルとして存在しており、王朝年代記はロンヴェーク―ウドン側がスレイ・サントー側を王位簒奪者として記録したのではないかと考える。
 ヴィッカリーは、ポスト・アンコール時代を研究する史料は、後代に編纂された王朝年代記ではなく、同時代の碑文史料であるとしている。これは正しい指摘であると考える。

[質疑応答(コメント)]
・15世紀以降の貿易陶磁器は、確かにスレイ・サントーでも出土しているが、ほとんどがロンヴェーク以南から採取・出土している。したがってスレイ・サントーに政治的中心が置かれたことは確かであると思われるが、現段階では、貿易陶磁からこの地域で国際貿易が行われていたことを立証することはできない。しかし、地勢をみて、この地に何らかの経済的中心が置かれていたことは推測でき、川港があったとしても不思議ではない。トンレー・トムの湾曲部分を踏査する必要性があると思われる。同一の器形の破片が山のように出るのが、川港の特徴である。破片が下流に流されてしまっている場合もあるが、存在の目安にはなる。

―シストルという場所に何らかの施設があったことは文献資料から判明しているが、場所の明確な比定にまでは至っていない。しかし、それはメコン東岸付近であろうと推測されている。また、この地は河川の浸食と堆積作用が激しく、16世紀頃に川港があったとしても、現在よりも内陸に位置していたか、また川の中に崩落してしまっている可能性がある。

・オランダ語史料から、スレイ・サントーの王宮跡に関する記述は断片的ではあるが確認できる。フランス語で訳注が出ているので参考にして頂きたい。

・スレイ・サントーとロンヴェーク―ウドンといった2つの勢力が無関係に存続していたわけではない。両者の内、最終的な政治・経済の中心としての位置を確立したのが、ロンヴェーク―ウドンであるということ。17世紀、外部史料(日本/フランス)には、カンボジアには2つの王都があったことを記している。

Q―なぜプノンペンに王都が移ったのか。
A(C)―プノンペン王都の時代は、19世紀始めの一時期と、フランス植民地時代から今日までである。プノンペンには4河川が流れ込んでおり、商業的には最も有利な場所である。しかし、ここに拠点を置くには防衛力を保持する必要があった。したがってプノンペンに王都を置くことができた19世紀始めの一時期とフランス植民地時代は、つまり川を防衛する力をもつ勢力の保護下に入っていたことを意味する。

文責:佐藤恵子(上智大学アジア文化研究所・特別研究員)

2014年度第2回(5月)の関東例会の報告

2014年5月24日(土)に開催されました2014年度第2回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:松浦史明氏(上智大学/日本学術振興会特別研究員PD)
コメンテーター:肥塚隆先生(大阪大学名誉教授)
報告題:「アンコールの彫像にみる個人崇拝とその展開――刻文史料の検討から」

【コメント(肥塚隆氏)】
 肖像(portrait)の問題について、ジャヤヴァルマン7世像とされる彫刻も、同王の身体的特徴をそのまま写したものではなく、むしろ個人の内面的な素養や資質といったものが表現されているのではないかという定義をしたことは評価したい。私は、portraitという言葉を使ってもよいと思うが、肖像には2種類あり、フィジカルなものとスピリチュアルなものがあると考えており、ジャヤヴァルマン7世像は同王の精神を表現したものだと考えている。
 古クメール語の刻文中で彫像を指す「ルーパ」という用語について、「神格名+ルーパ+個人名」という用法を、「個人の姿を表した神」であると解釈されているが、果たしてこの読み方でいいのかというところは判断が難しい。
 ジャヤヴァルマン7世時代の寺院の部屋の入り口にあたる部分に1-3行の刻文があり、そこに神格名が刻まれているという。その中には、先ほども出てきた「神格名+ルーパ+個人名」という形式がみられると同時に、神格名と個人名との間に明らかな関連がみられるということであった。神格名と個人名の関連について、プレ・アンコール期からの伝統としてプシュカラ王によるプシュカレーシャというリンガ建立の例を挙げているが、このプシュカレーシャをどのように解釈するか。これは、そのまま神の名前なのか、プシュカラという王の「主(イーシャ)」、あるいはプシュカラの原義をとって「蓮華の主」などと読むべきなのか。
 また、彫像を安置した人物のなかに、「ラージャシルピ(「王の芸術家」を意味するサンスクリット由来の言葉)」の名が出てくるのは興味深い。
 最終的に、個人の姿をとった像の例は、刻文からみればジャヤヴァルマン7世時代に爆発的に増加するとのことだが、ここで報告者は非常に慎重な姿勢を示しており、これを「人物像の伝統の発達」などと簡単に結びつけることはできない、「自身の彫像を安置することによって王権の強化を図った」などと言うことはできないとしている。今までは単純にジャヤヴァルマン7世時代に個人崇拝が急激な高まりをみせたのだと推測されてきたが、これに対する強い反証を示されたものと高く評価したい。
 疑問としては、まず「個人崇拝の高まり」とは言えないのだとしたら、では何だったのかという点はきちんと示すべきであろうと感じた。また、刻文にこれだけの数の神格名が出てくるわけだが、実際の彫刻では、個人の像とされる例は非常に少なく、今明確に言われているのはジャヤヴァルマン7世自身とその王妃の像のみである。実際の作例としてどの程度の像があるのか検証する必要がある。

【回答】
 「神格名+ルーパ+個人名」の解釈についてだが、古クメール語は語順によって意味が決まってくる。これを例えば「個人が〔造立した〕神の彫像」などと読む場合には、神格名の前に「ルーパ」が来なければならない。この例では「ルーパ」は個人名の方にかかるべきだと考えている。次に「ルーパ」の語そのものの解釈が問題となるが、これについては従来の古クメール語学の成果に従った。ただし、「ルーパ」が彫像のみを指すとは断言できず、例えば絵画などであった場合も想定できるし、より漠然とした形をもたないものであったかもしれない。しかし、少なくともその一部に彫像が含まれると考えてよいのではないか。
 人名にちなんだ神格名については、セデスなどはこれを個人の神格化と直接結びつけているが、これは言い過ぎであると思う。プシュカレーシャを「プシュカラが確立した神」と読むこともできる。しかし、今回の「ルーパ」の例でもみられるように、個人と神を何らかの形で合致させようとする志向そのものは否定しがたい。人名にちなんだ神格名だけをもって個人の神格化を証明することはできないが、この言葉のみにこだわるのではなく、より多角的にこの問題を考える必要を感じている。その一つの角度として今回の報告があると位置付けている。
 ジャヤヴァルマン7世時代の用例の増加を「個人崇拝の高まり」とみなすことができないとするならば、では何なのかという問題については、まだ結論が出ているわけではないが、王の神格化はアンコール期の初めから行われていたのかもしれないが、11世期に入ると王以外の人物も同じようなことをやり始める。その中で、王が同じことをやっていても権力のアピールにつながらなかったのではないか。王はその他の台頭する勢力に対する優越性を誇示するために、様々な新しい方策を模索していたのではないか。その一つの表れとして、ジャヤヴァルマン7世時代の多数の「ルーパ」を一つの寺院に安置することが行われたのではないだろうか。
 個人像の実際の作例の検証については、彫刻史を専門とする研究者の応答を期待したい。

【質疑応答】
Q:「神格名+ルーパ+個人名」の解釈についてだが、サンスクリットの「ブラフマルーパ」のように、神格名に後置される形としては読めないのか。
A:刻文には句読点があり、神格名と「ルーパ」の間に句読点が入っている例がある。やはり分けて読むべきだと考える。
Q:神格が書かれた小刻文を見ると、出入り口の枠にもともと文様がある。それを後から削って刻文を書く下地を作っているのか。
A:全ての実例を見たわけではないが、後から削ったと思われる例はある。
Q:だとすれば、刻文が書かれた年代は少なくとも文様が刻まれた後だと分かるわけだが、年代の確定は字体によっているのか。その推定の年代幅は広いのか。
A:字体で判断される。この刻文の文字はジャヤヴァルマン7世時代に特徴的なもの。しかし、字体だけでは推定年代にかなりの幅が出てしまうので、細かい年代は確定できない。
Q:サンスクリットと古クメール語の刻文では、それぞれ違う対象について書かれるのか。同じことについて書かれることはないのか。
A:例えばスドック・カック・トム碑文など、両語で同じ内容を書く例もあるが、異例である。サンスクリット文で彫像と明記されるものの、古クメール語では彫像と明記せず、人物名を「奉献する」といった書き方になる場合もある。このあたりの例ももう少し時間をかけて解釈し、用例に組み込んでいきたい。
Q:大きな枠組みでいうと、本報告は国家統合・社会統合に関わる問題であり、個人像だけでは王権強化にはならないとのことだったが、王権の力が最も示されているのは、巨大寺院の建造だと思われる。その巨大建築物のなかに彫像を置いていくという行為をどのように解釈するべきか。
A:王権が巨大だったから巨大建築物ができたのか、巨大建築物を作ることで王権が巨大になったのかを慎重に考える必要がある。巨大建築物はアンコール期に多く造られたが、その要因や建造を可能にしたシステムは時代ごとに異なっていたのではないか。バイヨンにみられるような「万神殿」的表現は、そのような表現をしなければ寺院建立が難しかったとも考えられる。地方の台頭など、多様化する社会のなかで、王の名のもとに建てられた寺院の中に多様な神格を配置することが必要とされたのではないか。

(文責:上智大学 松浦史明)

■第二報告(15:45-17:45)
報告者 久志本裕子氏(上智大学/日本学術振興会特別研究員RPD)
コメンテーター 長津一史先生(東洋大学社会学部准教授)
報告題:「現代マレーシアと周辺諸国におけるイスラーム学習とスーフィズム:イスラーム学習の変容と新たな超域ネットワークの形成」

【報告の要約】
 本発表の目的は、近年急速に活発化している、マレー世界のアラブ系学者を中心とするスーフィズム関連活動を主な事例として、現代のマレーシアでイスラーム知識がどのような形で求められ、伝えられているのかを、制度的宗教教育とは異なる視点から明らかにすることである。
 マレーシアの伝統的イスラーム学習は、中東と東南アジアをつなぐ師弟関係のネットワークを通じて形成されてきた。この師弟関係と学習のネットワークにおいて、スーフィズムは重要な位置づけを与えられていた。しかし、近代的学校教育の普及とイスラーム学習のあり方の変容に伴い、師弟関係のネットワークは弱体化し、スーフィズムもまた周縁化していった。
 ところが近年のマレーシアでは、特に都市部においてスーフィズムへの関心の高まりや、新たな師弟関係のネットワークの構築が見られる。その事例としてここで考察するのが、「マウリド」と呼ばれる預言者ムハンマドの生誕を祝う儀礼を行う集会と、この集会に関連する学習会など一連のイベントである。「マウリド」自体はマレー世界で古くから行われている儀礼である。しかし近年の「ブーム」ともいえるマウリド集会は、古くからのマウリド儀礼とは異なる特徴を持つ。中でも目立つのが、サイイド、すなわち主にイエメンのハドラマウト地方にルーツを持つ預言者ムハンマドの子孫の一族が、これらの集会で指導的な役割を果たしていること、そして彼らが特にサイイドの中で伝えられてきたスーフィー教団であるタリーカ・アラウィーヤの教えを基盤としていることである。このような特定の指導的グループとの関連、特にスーフィー教団との関連は、従来のマウリド儀礼では見られない。
 マウリド集会は、2005年ごろからインドネシア、シンガポールを経由してマレーシアに伝わり、現在では預言者生誕月にとどまらず、年間を通じて集会が行われている。規模が大きいものでは数万人が動員されることもあり、マレーシアのイスラーム関連集会では異例といえる。集まる人々は都市の高学歴層が主であるが、政党や教育の程度、特に宗教教育の程度を問わず様々な人々が集まる点で、従来の宗教集会と異なる。
 マウリド集会はインドネシアのバンジャルマシン、ソロ、ジャカルタ、スラバヤ、そしてシンガポールといった広い地域をつなぐサイイドとタリーカ・アラウィーヤのネットワークを通じてマレーシアにもたらされた。マウリド集会との接触を通じて、マレーシアから多くの人々がこれらの地域を訪れ、各地の宗教指導者のもとで集会に参加したり、逆にこれらの地域からマレーシアのマウリド集会に多数の人々が訪れるといった人の流れが形成されている。
 人々がこれらの集会に求めるものは、血筋と知識の双方の系譜を持つ指導者との接触によって預言者とのつながりを持つこと、そして歌などを通じて預言者への愛を感じることである。これらの要素は、近代的学校教育制度にのっとったイスラーム教育の中には見出せない、あるいは伝統的イスラーム学習にはあったが失われたものと見ることができ、イスラーム諸学の中でもスーフィズムの分野とつながりが深いものである。この事例からは、スーフィズムに着目することによって、従来の研究で多く論じられてきたような制度化されやすい側面とは異なる、イスラーム知識伝達とネットワークのあり方が見えてくるという示唆を得ることができる。

【コメント(長津一史氏)】
 フィールドワークに基づくイスラーム実践の研究として社会現象としてのイスラームにアプローチしている点、知の伝達の文字化されない部分や身体的側面に着目している点などで重要な意義を持つ研究であり、トランスナショナルなイスラームの知の伝達や権威のあり方のメカニズムの解明に貢献するものと思われる。

【質疑応答抜粋】
Q:従来のマウリドとは全く違うものに見えるので、「マウリド集会」という語の使用は誤解を招くのではないか。現地ではどのような呼称が使われているのか。
A:確かに、集会にはマウリドという呼称だけでなく、サラワート(預言者をたたえる事)といった名称も使われていて、特にインドネシアでは後者のほうが一般的である。今後「サラワート集会」という語を使用することを考え直したい。
Q:マレーシアのイスラーム学習などにおいてインドネシア人が影響力を持つことは多く見られるのか。
A:全国的に影響力を持ちテレビなどにもしばしば出るインドネシア人宗教教師や説教師は何人もいる。こうしたインドネシア人教師の影響力については別途研究を進めたいと考えている。

(文責:上智大学 久志本裕子)

2014年度第1回(4月)の関東例会の報告

2014年4月26日(土)に開催されました2014年度第1回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)でのご報告の議事録を掲載いたします。

■第一報告(13:30~15:30)
報告者:北川香子氏(学習院大学・青山学院大学非常勤講師)
岡本真氏(東京大学史料編纂所助教)
コメンテーター:松方冬子先生(東京大学史料編纂所准教授)
報告題:「17~18世紀柬埔寨国書の分析」

【東京大学史料編纂所 松方冬子先生コメント】
 本報告の内容は、日本史研究の立場からしても非常に興味深い。江戸時代の対外関係を捉える観点として、「鎖国」「四つの口」「通信国、通商国」という語が19世紀の日本人によって自分たちの対外関係を表現する言葉として作り出された。研究上でも同時代の対外関係を捉える枠組みとして使用されることが多い。しかし、東南アジア諸国は19世紀に関係がなかったため、この枠組み論から抜け落ちてしまいがちであり、本報告の内容は日本史研究者としても刺激をうけるものであった。日本史研究との更なる共同研究が期待される。

 全体として、漢文で書かれた書翰の「形式」「文法」に注目して読んでみたらどうなるだろうか?例えば、日本側は日本年号を使っているが、カンボジア側は干支を使っている(中国文化圏内にはいるが中国年号も日本年号も使いたくない、ことを示している)ことにも注意を払うべきであろう。以下、具体的な例をいくつか掲げる。
 書簡3Aの漢文書簡における「来貢」という表現について、家康のころ同時進行で関係構築が進められていた日朝間などでは受け取りを拒否されるほどの無礼な表現である。この漢文書翰は家康のもとに届けられなかったのではないか。長崎あるいは京都において、漢文の偽文書を作成し家康のもとに送付する、またはクメール語書簡あるいは内容摘記のみを家康に送り口頭伝達で相手の顔色を伺いながら適当な内容を伝えるということもあり得たのではないか。あるいは、カンボジア人は作法を知らないと馬鹿にして、笑って受け取った可能性もないではない。
 文書の形式上の問題から外交関係が悪化することを避けるためには、書簡の直接的なやりとりはあくまで家臣-家臣の間で行なうという形式をとる(奉書と披露状を用いる)というのが一つの方法である。書翰3A、4Aが問題を引き起こしたので、書翰6A以降国王の直書が送られなくなったという可能性も指摘できるだろう。
 書簡5Aは明らかに日本商人に宛てたものであり、5Bは商人宛の手紙を読んだという返書である。よって、国書(『集英社国語辞典』によれば「国家元首がその国の名前で出す外交文書」)というより内政文書の形式であったといえる。
 書簡7Bについて。中国文化圏では外交文書のやりとりの順序として先に手紙を送ったら自分が目下だと認めたことになることを考えると、この手紙は家康が送ったものか疑わしい。文面から見ても、長崎の誰かが作成した文書ではないだろうか。
 カンボジア側における漢文世界の作法や理解がどの程度のものであったのか、それを日本側がどう認識していたのか、という点は興味深い。クメール語書翰は、カンボジア王(ないしは側近)が漢文を理解できなかったので、王に対して漢文書翰の内容を担保する意味で、作成されたのではないか。一方、日本では家康や側近が漢文を理解できたので、日本語書翰を作成する必要がなかったのではないか、という仮説を提示したい。
 朱印状については、異国渡海朱印状(パスポート)と渡航許可朱印状(ビザ)という二種類が存在した。東南アジア向けのものは異国渡海朱印状のみが注目されている。朱印状および朱印船貿易は、朱印船以外の船の往来を制限し排除するための側面があったと考えられているが、その制限の要求が日本側だけでなく、カンボジアという相手側からも発せられていたという点が興味深い。
 カンボジア側が異国渡海朱印状発給を要請する場合も、漢文書翰とクメール語書翰で微妙なニュアンスの違いがあるように感じられる。カンボジア語書簡では、往来する船の隻数を減らして欲しいという要求が強いようだが、漢文書簡においては交易を促進するために朱印状の発行を求めているとも解釈できる。
 また、カンボジアにも朱印状と類似の制度が存在したようである点も注目される。

【コメントに対する報告者の回答】
[岡本]
 書簡5Aが日本国王宛ではないのではないかという点について、確かに文書の形式としては使節宛である。しかし、文書内には日本側に対する要求も記されており、実際のところ、この書簡はカンボジア側と使節の間のみで簡潔する性格のものではない。こうした性格を併せ持つ書簡は、前近代のアジアでは一般的では類例がある。
 書簡7Bについては、長崎の商人が適当に作成したものではないと考える。典拠に挙げた『異国日記』は家康のブレーンであった以心崇伝が収集・起草した外交文書集を基に編さんしたものである。よって家康の意向を呈した手紙であるといえる。

松方先生からの追加質問:形式自体が重要な意味を持つ漢文文書についてカンボジア側がどのように理解し、日本側の理解はどの程度であって、そのやりとりの中でどういったことが発生したのかという点を問題とすべきなのではないか。

 この点については整理が十分ではないが、カンボジア側の漢文書簡ではカンボジア国主がへりくだり家康を格の高い位に位置づけている。日本側の漢文書簡では家康を一段格上に位置づけている。このことから、返書の形態を取らずに最初に差し出す側が下手に出ることよりも、漢文書簡の書式のなかで相手の王と家康をどのように位置づけ権力関係を表しているかという点がより重要であったといえるのではないか。
 「来貢」という語の解釈について、日本側から朝貢使節がやって来たという意味合いで書かれた漢文書簡がカンボジアから送られてきた場合は確かに問題となったであろう。その場合、ご指摘のあったとおり商人や仲介した者が口頭で上手く言い換えた可能性はある。

[北川]
 カンボジア側は15世紀以降中国側へ朝貢を行なっていなかった。また、日本国王という初期の表現から日本国主へと表記の仕方が変化したこと、国王からの書簡から後に臣下からの書簡というように形式が変化した点については、この時期にカンボジア王朝が漢文の書式や作法をどのように理解していたのか考える必要がある。この点に関しては既に研究蓄積が厚いタイ側との比較研究を行なうことで考える筋道がみえてくるのではないか。漢文からのアプローチは今後の課題であり共同研究をすすめていきたい。
 クメール語書簡の内容からはこれの書簡は日本への友好書簡と位置づけていたようである。カンボジア王自身の尊厳にも関わることなので日本側の行為について「トヴァーイ(貢物)」「バンナーカー(献上する)」という表現をしないということは考えにくく、この点からもカンボジア王は家康を同等にみなしているようである。

【フロアからの質問・コメントと報告者による回答】
米谷氏のコメント:
 無礼な内容の書簡の事例と類似したものがアンナン書簡にみられる。通常は自らの忌み名を記し相手を持ち上げるものであるが、「瑞国公」と書き出し文言で記す、自分の敬称を自身で書くなど日朝間、日中間における漢文書簡の書式からはかけ離れた形式で書かれていた。
 家康の時代に限定すると、書簡の送付やそのやりとりについてぞんざいであり、7Bと同年にチャンパ王国へ家康側から書簡が送られたことがあった。返書ではなく往書を送ることは外交関係にも影響する場合もあるが、家康の場合は書簡を自ら送るということがあった。

質問①:『相国寺書翰屏風』について、公文書館の『外蕃書翰』のなかに明治19年の写しがあるが、関連はあるのか。
質問②:1605年の自分名義の朱印状を持っていなかったという点について、一般的に渡航者の名前は朱印状の本文に書かない。中国とは異なり日本の朱印状は渡航者の氏名を書くことはなかったので、この当事者は朱印状そのものを持っておらず船に飛び乗ったという可能性があるのではないか。

回答①:公文書館所蔵のものは消失して現存しない彰考館旧蔵本を写したものだが、同本目録には近藤重蔵写しと記されている。よって『外国関係書簡』と同系統と考えている。
回答②:クメール語の書簡のなかでは「自分の名前がない」という表現で記されていたのでそのまま紹介した。ご指摘のとおりおそらく飛び乗りでやってきたのであろう。ただ、渡航者とカンボジア側を仲介したのは中国商人らしいので、朱印状を持っていないのに持っている振りをしたというようなその場でのごまかしはきかなかったであろう。

東京大学文学部 島田先生
質問③:クメール語訳の箇所で国王か国主かクエスチョンマークがある意味は、カンボジア側が表記を迷ったわけではなく、ただ判読ができないということでいいのか。国王のスダチというのはカンボジア側の王自身にも用いる言葉なのか。
回答③:クメール文字が判読不可能であるため不確かであることを意味しており、カンボジア側が表記を迷ったということではない。「スダチ」という語は、カンボジアの王の呼称にも使う一般的な語で「王」を意味する語である。

質問④:カンボジア通詞は長崎にはいなかったのか。
回答④:置いていなかった。シャム通詞はいたのでシャム語知識をクメール語書簡の解読にある程度応用できた可能性はある。しかし、書簡内容を全て理解できたとは考え難い。

質問⑤:ハーティエンとはどういう繋がりか。ハーティエンから来たという意味か。
回答⑤:マックティエントゥという人物は、漢文・ベトナム語史料では鄚天賜と紹介され、クメール語文ではプレア・ソトアトと表される同一人物である。クメール語書簡の送り主の名前がプレア・ソトアトであり、漢文では「鄚」と表されることから、鄚天賜からの書簡であることは間違いない。

質問⑥:直行とはどういう意味か。
回答⑥:書簡15Aをみると、日本へ使節を送った年号がわかることから鄚天賜が当時の対日交易の状況をある程度把握していたと考える。これを長崎の出入港記録『唐船進港回棹録』と照合すると、1831,32年に入港した船が、鄚天賜が書簡15Aにおいて言及する日本に到達しなかったと考えた船と同定できるのではないかと考えている。

質問⑦:船の往来と外交関係を同一的に捉えているようだが、それは問題なのではないか。18世紀になると中国経由の日本‐カンボジア間の交易航路が出現し、従来の航海経路に変化が生じていたと考えられる。総体として中国経由の航路の出現に対抗するかたちで直行ルートが出てきたと考えてよいのか。
回答⑦:カンボジア(ハーティエン)から送られた書簡は届いていたことから、確かに国書が送られていたといえる。しかし、その内容の多くが日本国との交易に関するものであり、家康時代の書簡は商人を通じたものであった点を踏まえると、往来する船の流れと外交関係を同一視することに問題はないと考えている。中国経由の航路に対抗するためであったかはわからない。

(文責:上智大学大学院 藤村瞳)

■第二報告(15:45~17:45)
報告者:髙橋昭雄氏(東京大学東洋文化研究所教授)
コメンテーター:斎藤照子先生(東京外国語大学名誉教授)
報告題:「ミャンマー村落社会論構築の試み」

【斎藤先生によるコメント】
 結論部分に共感を覚えるが、出来るだけ異を唱えるようにコメントする。
 東南アジアの村落を論じるときに、比較の尺度として日本の村落は、性格・信仰・消費生活・規範において最左翼にあるということを意識する必要がある。中国とか他の東南アジア諸国という軸を置いたらどうなるか。例えば、17世紀の中国社会を扱った岸本さんの『明清交替と江南社会』を見ると、家族や宗族が個人を縛るのは強く思えるが、村落が人々を縛るというのは日本と比べると薄く思える。
 東南アジアはベトナムを除いて村落が緊密な繋がりをもっていないというイメージで描かれたり語られたりすることが多い。東南アジアの中で比較してみて、果たしてそうであるか。ビルマという国家を構成する、シャン、パラウン、チン、上ビルマ、下ビルマも歴史が異なるし、自然の利用方法や宗教も異なる。村という視点で見たとき、本当に共通して同じような現象が立ち上がってくるのか。
 現在のビルマの村についてはよく分かるが、これは歴史的な変遷を経てきていないのかが気になる。現代のビルマの村落が形成された要因として、生産に関わる集団が出来なかったのは、政治権力との関わりによるところが大であるという仮説に関する説明をもう少し聞きたい。
 王朝時代に土地の売買や土地の質入れが始まったころ、1760年代から1810年代以降、二者関係により処理されていく問題が、ユワールーヂーあるいはユワーダヂー、つまり村長や村の重立ちが出てきて土地を査定したり、価格を決めたりするようになるが、これは何なのだろうか。
 僧院とパゴダは違うように思う。パゴダを作るのは個人だが、村に僧院があるという観念はかなり強い。コンバウン時代に「サータテッ、チャウンタテッ、ユワータテッ」という諺があり、経典と寺院と村は常に一体という意味である。例えば19世紀半ばに、村と僧侶の紛争が仏教委員会の調停によって裁かれたという例がある。村の住職が生前に寺院の財産を一人の弟子筋の僧侶に委託して亡くなった。その弟子が自分の住むよその村にその財産を移動させたところ、村のルーヂーが怒った。結果として、後継者と目された僧侶が負けて、財産はもとの僧院に戻された。村の中に寺院が二つあるということは確かにあるが、観念の上では村と寺院は切り離せないものとして意識していたのではないか。
 村には垣根があり、不寝番をおくという慣行は今でもみられる。イギリス時代になって村の垣根は強化されたという議論もあるが、全く違う。植民地の役人たちが、ビルマの慣習法の中に、治安を回復する効果があると思われる村落の統治のあり方を見出し、それらを具申した。その中に、村の垣根の設置と村の周囲の密林を切り払い視界をよくすることなどがあった。また、慣習法の中には、水牛が盗まれたとき、牛の足跡を追跡し、足跡が消えたところの村が賠償しなければならいということもあった。
 歴史的な観点からみると、王朝時代の統治の中に、確かに村や地方の首長に任されているように見えても、人的な統治だけでなく、一つの共通した慣習法の存在が精神を与えている。以上をまとめると以下のようになる。
1. ミャンマー村落論の際に、比較の軸を日本以外にも立ててはいかがか。
2. 東南アジアの中で、自然条件や歴史条件が異なるので、村落のあり方に何らかの影響を及ぼしているのではないか。
3. ミャンマーという領域内に居住する違う人々に対して、同じ現象が見られるのはなぜか。
4. 政治権力との関係は何を意味するのか。生産的な集団ができないとはどういうことか。

【コメントへの回答】
 弱点である歴史的な視点からのご指摘に感謝する。中国とも類似点はあると考えている。また、国境のなかで同じというだけでなく、国を超えても同じだと考えている。北ベトナムとジャワ以外はほとんど似ているのではないか。民族毎に違いはあるだろうし、例外もたくさんあるだろう。
 一村に一つの寺院があったとしても、実際にそこに通うかどうかは決まっておらず、別の村に行くこともある。それは日本の村でも同じである。パゴダと寺院は明らかに異なっており、本報告においてもパゴダの場合は仏塔管理委員会、僧院については斎飯供与組が組織されると述べた。現在は宗派の違う僧院が村の中で増えており、共存している。また一つ以上作ってはいけないというきまりもない。また斎飯の供与先に関しても、一つの僧院にだけ持っていくという人は稀であり、複数の僧院に供与するという人が多い。
 自然条件との関係で言うと多種多様であるが、今回の報告では下ビルマも上ビルマもシャンもチンも同じようなところだけを切り取った結果をお話しした。また村には集団や組織があるが、村の柵は個人の責任であり、皆でやっているわけではない。ビルマの村落統治法でみても、村落の義務というよりは村長に対する規定しかない。村人に対する規定はあまりなく、村長の権力に全部任せてある。また、村長は限られた権限しか持っていない。
 生活の共通の場はそこにあるから、ある程度の集団は出来るだろうし、その集団の仕組みは何だというのが私の命題である。しかし村が全体として主体となるかは疑問である。政治権力との関係では供出制度の形において村請制をとらない。また、土地の管理を村がしない。村が主体となるのは、水田の管理においてであり、村が灌漑にコミットする。ミャンマーも日本もたまたま供出制度があったが、それぞれ全く違う供出の仕方をする。

【質問1】
1. 消費の為にそこに住む人々がまとまる必要があるのか。結合原理として消費が重要なのか。
2. 私有地と共有地の話で、共有地の期間が短くなって私有地となっていくのはなぜか。

【回答】
1. 生産活動以外は消費というように、消費を大きく捉えている。泥棒や火事からの防御も生産活動ではない。財に加えてサービスも消費と考える。さらに、サービスの提供も消費に入ってくる。また、結合原理としては触媒が重要である。その触媒の元になるのが、頻会による認知である。触媒の在り方によっては生産的なものが生まれる可能性もあったが、結果的にできたのは消費あるいはサービスの提供であった。
2. 土地を最初に開いた者が所有する。焼畑に関して、移動が出来なくなると、チンの場合は長子相続制をとり、分割できなくなると一子相続になる。これがうまくいかなくなると村が管理するようになる。商品化の度合いと人口圧の関係で共有化が進んでくじ引きを行ったりもするが、さらに人口圧が高まると有力者が私有地化するようになる。期間が長い短いというのは論理の問題かもしれない。共有期間が私有の間に挟まれていると考えることも出来る。

【質問2】 日本史の立場から考えると、村の存在が希薄というのは納得できない。その違いは自然環境の違いから生じるものなのか。治安の面から考えると、自警団や青年団や消防団など、その時に応じて集まるというが、それは恒常的にこのような組織を作る必要がないからなのか。

【回答】 泥棒に関しては、村落統治法などにたくさん出てきており、柵を作ったり、見廻り組を作ったりしているが、全員が必ずしもそれに参加しなくてよい。消防団に関しても、やりたい人がやればよく、やりたくない人は無理に誘わないというのが、ミャンマーの考え方である。政府やNGOによる働きかけで利益になる場合はそのような組織を作るが、利益にならなくなると解散してしまう。

【質問3(コメント)】 税に関して補足すると、ミャンマーに村請制がなかったわけではない。日本との相違は、課税額が決まった際に、連帯責任として村人に押し付けるのではなく、納税の責任は村長にあって、村長は借金をしてでも払っていた点にある。

【回答】 村長はまるで徴税請負人のようである。村長は前金で税金を払い、悪い村長の場合は余分に儲け、良い村長の場合は損をするという形で税を集めている。これを果たして村請制と呼んでよいかは疑問である。

【質問4】 頻会について、居住の近接性が基礎にあるという議論だったが、労働の場における人々の出会いは重要ではないのか。他村から来た耕作者はヤッスェー・ヤッミョーに含まれないのか。

【回答】 人的なネットワークの中では村は閉じた世界ではないので、含まれる可能性もある。ただし、労働の場での出会いは少数であり、頻会にはならない。また、ミャンマーの水田は散らばっており、いつも田んぼで会うわけではない。また、耕地が入り組んでいるので、ヤッスェー・ヤッミョーの範囲が必ずしも村だけとは限らず、その範囲はおぼろげである。

【質問5】 私有・共有・私有という話は、ミャンマーの村を観察していると、典型的には初期の私有の段階、ある種の共有の段階、そして私有の段階が観察できるということなのか。現在の状況を見ていると、第三段階の私有の段階が今のミャンマーの村において観察されるので、過去にはこうあったのではないかと、データに基づいて推論し再構築しているように聞こえるがそのような理解で良いか。

【回答】 注意しておきたいのは、これはチンというミャンマーの一部の話だということである。また横倒しの歴史であり、現段階でこの3つの段階が併存している。自然条件というより、人口圧と商品化の度合いによって、そのようなものが語られる。歴史に出てくる長子相続から類推すると、この3つがこういう順序で推移したのではないか。チンの歴史文献はあまりないので、現状でみる類推にすぎない。

【質問5に関連して】 人口圧と商品化が大きな要因であるという主張だが、特に商品化から考えると、今あるミャンマーの状況は歴史的に形成されたもので、しかも現在の貨幣経済が一般化していくなかで、現れている状況であるという理解でよいか。

【回答】 商品化すると、自分が食べるよりも多くの耕地を持たなければならない。一人あたりの必要な耕地が拡大し、そうすると自分の私有地を拡張していき、商品化に対応していくものである。その一方で、多くの土地があり商品作物をあまり植えていない地域では、くじ引きなどの共有がみられる。歴史的な過程において見られるのではなく、あくまで地域的な商品化の度合いによって変化するのである。

(文責:東京外国語大学大学院 寺井淳一)
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