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2015年度第6回関東例会(1月23日)議事録

2016年1月23日に行われました2015年度第6回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者 : 下條尚志 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 研究員)
報告題目 : 脱植民地化過程のメコンデルタにおけるクメール人の言語・仏教・帰属
コメンテーター : 五島文雄(静岡県立大学国際関係学部国際言語文化学科・教授)

■コメント
①国民国家形成と公教育
本発表では、植民地国家から国民国家への移行過程、新興国家による国民統合と国家形成、国語教育という文脈のなかで、ベトナム―カンボジア国境線や、ベトナム、カンボジアの公教育の問題が論じられた。植民地末期からゴー・ディン・ジエム政権期初期に実施されていたクメール語の公教育は、教科書やカリキュラムの内容など、具体的にはどのようなものであったか。シハヌーク時代に実施された教育、特に歴史教育は、1970年代後半のポル・ポト政権に影響を与えたのではないか。

②国民統合のなかでの少数民族政策
本発表では、国民統合の過程で、新興国家によってどのような少数民族政策が実施されるのかという問題が、メコンデルタのクメール人を対象に議論された。この議論は、ベトナムや他の東南アジア諸国における華僑・華人政策、またカンボジアのベトナム人政策、さらには各国の少数民族政策と比較することが可能である。国家が、中華会館のような特定のエスニシティの集会所をどう扱ってきたのか、特定のエスニシティを対象とした学校ではいかなる言語・歴史教育が行われてきたのかなど、比較の観点から論じることが重要である。東南アジアの華僑・華人の国籍問題では、かれらが概して経済的に豊かであるため、その職業が問題視されたが、メコンデルタのクメール人はどうであったのか。

③南北分断状況下での少数民族政策
本発表では、クメール人が、ジエム政権下仏教界の動きに呼応する形で、南ベトナム解放民族戦線(以下、解放戦線)に参加していたことが指摘されている。解放戦線はクメール人に対していかなる政策を実施していたのか。なぜ、インフォーマント達が解放戦線に参加することになったのか。当時の北ベトナム(ベトナム民主共和国)は、中華人民共和国との関係性のなかで少数民族政策を策定しており、南ベトナムのゴー・ディン・ジエム政権の少数民族政策について、文化を尊重していないなどと批判していた。

④先行研究のなかでの本発表の位置づけ
先行研究との対比のなかで、自身の立場や主張をより明確にする必要がある。今後は研究をどのように発展させていくのか。

■コメントへの応答
①への返答:植民地期末期からジエム政権期初期、メコンデルタのクメール人を対象としていた公教育の教科書、カリキュラムについて、まだ十分に研究が進んでいない。今後の課題としたい。発表者は、当時実施されていた歴史教育が、後のポル・ポト政権に強く影響を与えたと考えている。
②への返答:クメール人や華僑・華人の国家への帰属が、仏領期において曖昧な状態にあったことが、国民国家成立初期の1950年代、1960年代に問題として表出したと考えている。
ベトナムにおけるクメール人の問題は、常にかれらとカンボジアという国民国家との関係性のなかで展開されてきた。そのため、クメール人問題を、ベトナムの少数民族問題として扱うことには疑問を感じる。クメール人問題は、いずれの国民国家に帰属するのかが問題にされてきた点で、華僑・華人問題との比較がより有効である。ただし、ジエム政権期の国籍変更問題において、精米業、米取引業など商業に従事していた華僑・華人と異なり、農業従事者が多かったクメール人の職業は、政治争点にならなかったと考える。
③への返答:解放戦線は、毎年行われるクメール人の祭祀の折に、兵士に休暇を与えるなど、クメール人の文化や宗教を尊重する姿勢をアピールし、支持を拡大しようとしていた。また上座仏教寺院に解放戦線兵士を僧侶として紛れ込ませ、活動させていた。
④への返答:先行研究では、1950年代、1960年代にベトナム南部で拡がっていった反乱の要因を、革命勢力側(解放戦線)の住民動員戦略という観点から説明する傾向があった。一方で本発表では、住民達の視点に着目し、国民国家成立初期のジエム政権による国境管理にともなう宗教、空間認識、移動傾向の変化に一部の住民が敏感に反応したことが、反乱が拡がっていた1つの要因であったと指摘した。

■質疑応答
Q本発表で取り上げられた村落の位置するソクチャン省の状況は、時代、地域によって大きく異なる。対象村落の状況を全体のなかに位置づける必要があるのではないか。本発表は仏領時代から南ベトナム時代までの時期が議論されているが、対象とする時間が長すぎるのではないか。
A調査対象とした村落の状況は特殊であり、メコンデルタの全体状況を示しているわけではない。発表者は、1つの地域社会で生じたローカルな歴史を詳細に明らかにした上で、今後の課題として、その地域社会の歴史的事象を全体のなかで俯瞰的に捉え直していきたいと考えている。

Q「空間認識」という言葉は曖昧なのではないか。
A「空間認識」は、人々の地理的感覚を意味している。対象村落の人々が想像できる地理的空間認識は、ベトナムではせいぜいサイゴンやニャチャンまでだが、カンボジアにおいては、タイ国境のプレア・ヴィヒア問題が意識されるなど、広範囲に及んでいる。

Qメコンデルタのクメール人と解放戦線の関係は必ずしも良好ではなかったのではないか。
A実際、調査地で解放戦線に参加したクメール人は少数である。にもかかわらず、本発表で解放戦線に参加したクメール人の個人史を敢えて取り上げたのは、エスニシティのみならず、宗教、国家への帰属意識、また地域、時期など様々な要素の組み合わせのなかで、当時の人々が、所属する政治組織を選択していたことを示したかったためである。

Qジエム政権の政策立案にソクチャン出身のクメール人がいかに関わっていたのか。
Aコーチシナ・カンボジア協会の有力者ソン・ターイ・グエン(ソン・ゴック・タンの実弟)が当初は政策立案に関わっていたが、ジエム政権崩壊直前には反ジエムを掲げた仏教運動に身を投じていた。

Qベトナムのクメール人は、かれらのアイデンティティをどのように維持しているのか。
A調査村ではクメール人と名乗る人々が多いが、実際にはベト人や華人との混血など、民族間の混淆が進んでいる。民族的境界は曖昧であり、揺らぎやすい。ただし、人々は、ラジオやテレビなどを通じて、カンボジアの情報を積極的に取り入れており、これがアイデンティティの維持につながっていると思われる。

Qフランス植民地期、カンボジアのモニボン王の写真がコーチシナのクメール人に配布されたという事実があるが、実際に現地でモニボン王の写真を所持している人がいたか。
A調査対象のなかには、写真を所持している人はいなかった。

Q仏領期末期からジエム政権期初期において、カンボジアに渡っていた人達は、パスポートを所持していたのか。
Aパスポートを所持せず、カンボジアへ渡った人がほとんどであると考えられる。聞き取りによれば、当時、ソクチャン市のコーチシナ・カンボジア協会において、カンボジアへの渡航許可証が交付されていたという。

Qレジュメに記載されている“「クメール系ベト人」という微妙なカテゴリー”とはどのような意味か。
⇒南ベトナム政府期、クメール人を、中部高原地域の山地民やチャム人と同様に少数民族政策の対象とすることは、クメール人がカンボジア人であることを認めることにつながり、ベトナムの政治がカンボジアの干渉を受けることになると考えられていた。そのため、当時の政府は「クメール系ベト人」というカテゴリーを設けて、かれらがベトナム国籍者であることを強調し、敢えてクメール人を少数民族とみなさなかった。
(文責:下條尚志)


第二報告(15:45~17:45)
渋谷節子(星槎大学教授)
報告題目:ベトナム•メコンデルタの都市で働く若者と農村の家族
コメンテーター:古屋博子(放送大学非常勤講師)

■コメント
この10年間でベトナム南部、特にメコンデルタの社会は急激に変化した。その間の変化に関する研究は貴重であろう。以下の点を、今後の議論と研究を発展させる上で考えると良いのではないか。①中国と異なり、メコンデルタでは近代化が進んでも家族の絆が弱まらない要因はなんであろうか。②新しくできた同僚や友人との関係が、共同体意識を生み出しているような側面はあるか。③同僚や友人との関係が、家族との関係や価値観と対立するような聴講はあるか。④都市へのネットワークを持たない層の不満というのは共有されているのか。⑤都市へのネットワークを持っているそうの不満というのは共有されているのか。(コメンテーターのホーチミン市における調査では、「新中間層」と言えるような比較的裕福な人々が不満を持っていることがわかってる。)

■質疑応答
1)「近代化」という言葉をどう使っているのか。
回答:たしかに、「近代化」というのは長い歴史のなかで起きているものであり、現在に限定されているものではない。この報告ではベトナムの人々がよく使う言葉「モデン」を「近代」という言葉に置き換えている。
2)1990年代の後半からの変化ということでの報告であったが、1990年代がむしろ特殊な時代であり、現在は伝統的な家族に戻ったのだとも言えるのではないか。
回答:そういう側面はあると思う。1990年代後半は、自由市場経済化の元で農業の生産単位が家族に戻され、「家族」の重要性が国家を挙げて言われた時代である。しかし、メコンデルタでは社会主義の集団農場はあまり浸透しておらず、その意味では、社会主義の影響は少なかったと言える。
3)ベトナムのメコンデルタの農村で起こっていることは、東南アジアのどこででも起こっていることではないのか。特殊性は何なのか。
回答:それは、メコンデルタの共同体意識の低さと家族の重要性である。ベトナム南部の人々にとって、家族は小宇宙であり、社会とはっきりと区別して考えられる一つの世界である。
4)データの提示がない。
回答:文化人類学におけるデータは「民族誌的データ」であり、それは参与観察に基づいて得られるものである。世帯調査などのデータは使用するが、それらは背景理解のために使用している。
5)報告の中心的テーマは何か。
中心的テーマは都市で働く若者が家族にもたらす影響や変化である。本日の報告に含めた格差などの問題は、それに付随して起こっていることとして紹介した。
(文責:渋谷節子)

2015年度第5回関東例会(11月28日)議事録

2015年11月28日に行われました2015年度第5回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告
報告者:南波聖太郎氏
(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程/日本学術振興会特別研究員DC2)

報告題目:社会主義国家建設の準備過程におけるラオス人民党の政治的主体性:1960年代半ばの「解放区国家化政策」とベトナムとの「特別な関係」

コメンテーター:菊池陽子氏(東京外国語大学・准教授)

コメント
① 近年のラオスにおける資料状況について。
ラオスには文書館がなく資料状況は困難であったが、ラオス人民革命党は2000年代に入りって史跡の観光地化などと共に史資料の公開も少しずつ開始している。報告者はこのような資料状況の変化に対応し、ラオス史の実証的な再考を試みている。
② 「解放区国家化政策」の歴史的背景について。
報告者は、ラオス人民党の中央会議決議13号(65年)を画期として「解放区国家化政策」が遂行され、党の支配地域である解放区を国家へと改造する試みがなされたとする。だが、50年に樹立された抗戦政府は、パテート・ラオ(ラオス国)を自称し、王国とは異なる国の建設を目指していた。「解放区国家化政策」の理念上の背景をどう捉えるのか。
③ 「解放区国家化政策」の実態について。
報告者は、人民党は13号決議以前から解放区での独自政策を遂行していたが、そこには独自の行政機構を整備し、外交関係を構築するという発想、つまり国家を建設するという発想がなかったとして「解放区国家化政策」の意義を強調している。では、解放区の国家としての実体化はどの程度達成されたのか。
コメントへの応答
資料状況は確かに改善されてきたが、まだ十分ではない。本報告では資料上の制約もあり、党の戦略・方針を分析の中心とした。人民党の60年代の政策と抵抗政府の50年代からの戦略との連続性については、今後検討を深めたい。ここでは、それまでは王国政府に依存する面の大きかった解放区が、「解放区国家化政策」の提唱と共に、それから独立して運営することを志向されるようになった事を重視しておきたい。

質疑応答
Q:当時のラオス人民党の戦略に対するソ連の影響をどう捉えるのか。
A:ソ連のラオス戦略に関しては不明な点が多く、報告者が利用できる資料も限られているが、中ソ対立の影響なども含め、今後の課題としたい。
Q:今回の報告では両党の路線対立は指摘されていないが、そういった事実は別の時期には確認できるか。
A:両党の中央委員会決議等を比較すると、両党が常に同一の路線を採っていたのではないことが確認できる。
Q:ラオスにベトナム人居住者が多いことなど、社会レベルでの関係と政治面での「特別な関係」はどのような関係にあるのか。
A:社会レベルでの両国の密接な関係から、ベトナム人との血縁やベトナム語の素養のあるラオス人が増加したことは「特別な関係」の土台の1つとなっている。
(文責:南波聖太郎)


第二報告(15:45~17:45)
報告者:平田晶子氏(京都文教大学総合社会学部 日本学術振興会特別研究員PD)
報告題目:「ラムをめぐる芸能・宗教実践―タイ・ラオスのモン・クメール系住民の旋律世界」

コメント
(綾部 真雄氏:首都大学東京人文科学研究科 社会行動学専攻 社会人類学教室・教授)

本報告はラムあるいはモーラムがどのように生業サイクルに関わっているのか、あるいは芸能と宗教の間をどのように行き来しているのか、そして、それが現代のオンライン・バーチャル・コミュニティにおいてどのように消費されているのかについて、モーラムに関する幅広い領域で説明がなされた報告である。
本報告に対して、エスニシティ研究の専門家である綾部会員はモン・クメール系のカテゴリーに属するとされる人々が広義のラオ的なエスニシティに参入してきているのかという部分に関してコメントを行った。綾部会員曰く、本報告の着目すべき点は、以下2つである。第1に、 2つのカテゴリーのずれがうまく表れている点である。つまりは、通常モーラムは、ラオ的なエスニシティの代表的な記号性を持ったものととらえられているが、本報告ではいわゆるラオではなくソーやラオ・トゥンと言われた人々のなかに吸収・実践されているモーラムを扱ったことにより、これまで語られてきたモーラムと本報告でのモーラムにズレが見えてきており、エスニシティにおけるラオを「芸能―宗教」「芸能―生業サイクル」とモーラムの関係性などの多面的な側面から捉え、エスニシティを「共時的」に分析したことにある点である。第2に、モーラムがエスニシティの凝集性を持ったものであると仮定された場合、マジョリティに対する対抗性を表明するエスニシティとしての位置づけ以上に、内発的な存在として「存在論的安心」として湧き上がってきたものとして表層してきた点である。
 他方、本報告のさらなる展開のために、綾部会員は以下2点のコメントを寄せた。第1に、「モー(mo)」の定義についてである。タイ研究者であるコメンテーターの理解では、タイ語で「モー」とは単なる専門家ではなく、治療や医療にかかわる「匠」のことを指す概念である点から、本報告での「モー」の定義を改めて捉え直す必要があるのではないか。第2に、ラオに関する政策展開とモーラムの通時的な分析の必要性である。例えば、タイでは1990年代ローカルな文化芸能が下賤なものや下卑たものとして扱われていたが、1990年代以降、ローカルな文化への急激な回帰、文化振興や文化復興が起こり、それはエスニシティの凝集性を高める機能として採用されていった。 
以上を踏まえ、コメンテーターである綾部会員は本報告を評価するとともに、今後の通時的な分析、あるいはエスニシティの統制編成の行方に関するさらなる分析に対し、期待を寄せるコメントを行った。

回答
C1: 「モー」の定義
A1: 近代医療や制度が発達したタイの事情とは異なり、ラオスにおける「モー」という言葉は、専門家を差し、モーラムでいえば歌の名手を指す概念である。治療の場面では、「モー・スーン・ピー(霊を呼ぶ専門家)」などもいるため、「モー」はある分野に精通している者、特殊な技術を持つ者を意味している点で普遍的である。
C2: ラオに関する政策展開とモーラムの関係について通時的な分析
A2: ラオスでは、従来「モーラム」の唄が独立闘争のためのプロパガンダとして使われ、政治の駒として使用されてきた。他方で民衆の歌垣として生活の中に息衝く遊びや求愛行為として機能してきた。しかし、その後、1990年代以降、ユネスコの無形文化遺産の登録作業が徐々に制度化されていくなかで「国民文化」として位置付けられるようになっていった。
C3: エスニシティと文化的記号の関係
A3: 端的に言ってしまえば、モン・クメールとマジョリティとしてのラオの間に文化的対抗としてのエスニシティの側面はこれまでの分析ではまだ見られない。この点に関しては今後の課題としたい。

質疑応答
Q1:CD、ネット空間で音楽が伝播する以前、モン・クメール住民のラムはカセットテープやラジオなどのメディアを通じてどのようなものとして機能していたか。
A1: 1960年代以降、ラオスではまず国営ラジオがサム・ヌアに建てられ、ラオ語、モン語、カム語の3言語でラジオ放送がなされていた。その際は、モン・クメール系民族の言語でラムが放送されていたかどうかは資料収集できていないため分からないが、当時の国家政策や方針などは各言葉で発信されており、統一に向けた機運の盛り上がりを反映するものであっただろう。

Q2: 旋律が国境を越えて移動していくというところが興味深い。
A2: 旋律におけるエスニシティの表象の異なりや旋律のポータビリティやトランスモビリティに関してはさらなる分析を今後も行っていく。

Q3:「ノスタルジア」について時間を超えた分析を他者の「まなざし」という視点から考える必要があるのではないだろうか。「まなざした側」「まなざされた側」、あるいはそれらが電子空間により他者に介在されながら「語られる」点が大変興味深い。
A3:「ノスタルジア」の問題などは別稿で論じたこともあるが、冷戦期から革命期以降に書かれた手元の一次資料を検証しつつ、今後の課題として研究を深めていきたい。
以上

文責:細淵倫子(首都大学東京)




2015年度第4回関東例会(10月24日)議事録

2015年10月24日に行われました2015年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30-15:30)
報告者:ウィンダ・スチ・プラティウィ(桃山学院大学大学院文学研究科修士課程)
報告題目:インドネシアにおけるコスプレ・コミュニティの形成と発展
コメンテイター:青山亨(東京外国語大学・教授)

1 コメント
1960年代、国営テレビ放送局TVRIによる放送内容はまるでスハルト政権下における政府広報活動であった。1982年、五輪真弓の『心の友』がラジオ放送されヒットした。メディアの中のラジオの重要性を指摘できる。音楽はカセットテープを通じて広まった。また、大きな影響の一つとして、1986年からTVRIによって放送が開始された「おしん」をあげることができるだろう。このように、1980年代後半から国策レベルで日本文化がインドネシアへ紹介されるという前段階があった。1989年インドネシア初の民放テレビ放送局RCTIの開始および1990年SCTVの開始が影響している。民放テレビ放送局の開始によって日本の番組やアニメ放送の開始などテレビ番組の枠組みが大きく変わった。1990年代に入ると大衆文化の導入は民間レベルに広まった。民放メディアの役割は大きかった。
日本でコスプレという言葉ができたのは1984年である。もともとはアメリカの言葉でありSFの大会で仮装する習慣をコスプレと呼んだ。コスプレという言葉はアメリカから日本へ、日本からインドネシアを含む世界へと拡散した。ここにインドネシアのメディアの発展、とりわけ、民放の普及のタイミングが重なっていた。また、FB(インターネット)の影響は大きい。大規模な資本と設備がないと発信できない情報発信(マスメディア)からSNSのようなスマホさえあれば誰もが出来る情報発信へと変わってきた。
遡れば、日本文化に対する関心の前段階として以下をあげることが出来る。1974年国際交流基金がジャカルタに事務所を開設した。同年には田中首相に対する反日暴動があった。単なる経済的プレゼンスばかりではなく文化交流の大切さが政府レベルにあり国際交流基金の事務所開設につながったと考えられる。その後1977年福田首相の、いわゆる、「福田ドクトリン」によって、東南アジア諸国と日本が対等である方向性が示された。
スマトラにコスプレ・コミュニティが出現した2000年代はユドヨノ政権で安定した時代だった。この時代こそ日本発のオタク文化がインドネシアの地方まで広がったことの重要性を考えなければならない。

2 質疑応答
1)音楽に登場するキャラクターとは何か。
回答:もともと音楽から始まったJロック、Jポップ・バンドのキャラクターである。

2)インドネシアのコスプレは世界の他の地域と違いがあるか。
回答:インドネシアのコスプレの特徴は、
ⅰ)3つ(主流派、イスラム教、オリジナル・コミュイティ)のコミュニティがある
ⅱ)インドネシアのオリジナル・キャラクターがある
ⅲ)インドネシアの物語独自のヒーローがあり、これは他の国にはない

3)コスプレは若者のホビーである。若者が若者でなくなるとコスプレを卒業するのか。
回答:両親世代はコスプレに参加しないが、見ることでかかわっている。

4)メディアとのかかわりについて。
回答:コスプレに興味を抱く人々は幼少期にテレビでアニメを見て、翻訳された漫画を読み、現在FBで情報を仕入れる。スマートフォンのSNSが一番重要である。

5)できるコスプレとできないコスプレは分かれているのか。イスラムの服装の規範に対する受け止め方によっても違うのではないか。男性が女性のコスプレをする、トランスジェンダーについてどのように考えるか。
回答:絶対できないキャラクターというのはない。イスラム教のルールで肌が出ない衣装に変更する。創造性として乗り越えている。2000年以降のイスラムの考え方として、信仰の内面化、個人化、一人一人の判断に任せる傾向が見られる。

6)コミュニティはいくつあるか。全インドネシアを統一する団体はあるか。
回答:スマトラだけで15のコミュニティがある。ジャワならもっと多いが全体の数は把握していない。日本語コースがある地方都市の国立大学の文化祭がきっかけとなり、それが場となってコミュニティが形成された。

7)メンバーになるのはどういう人達か。教育水準、家庭環境、経済状況、日本語を勉強して来た人達など、日本語コースのないイスラム系の大学でもいるのか。
回答:興味があれば誰でも参加できる。経済状況は関係ない。イスラム系の大学にもいる。

8)コスプレ・サミット、アニメ・フェスティバル・アジア(AFA)には何か国が参加しているか。
回答:AFAに参加している国は、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピン。一方、名古屋・世界コスプレ・サミットへは、アメリカ、インドネシア、マレーシア、中国、韓国など、2015年「ワールド・コスプレ・サミット」には28か国が参加。

(文責:東京外国語大学・合地幸子)


第二報告の議事録は後日掲載いたします。

2015年度第3回(6月) 関東例会の報告

2015年6月27日に開催されました関東例会の議事録を掲載致します。

シンポジウム:インドネシアと香港のメディアにみられるインドネシア華人の「帰国」

プログラム
 13:30~13:50 趣旨説明:北村由美氏(京都大学附属図書館研究開発室・准教授)
 13:50~14:35 第一報告:津田浩司氏(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
  「インドネシア華人の「帰国」をめぐる言説空間:Star Weekly誌(1958年~60年)の分析を中心に」
 14:35~14:45 質疑応答
 14:45~15:00 休憩
 15:00~15:45 第二報告:芹澤知広氏(奈良大学社会学部・教授)
  「香港の新聞『大公報』再読:1959年から61年にかけての記事から見たインドネシア華人」
 15:45~15:55 質疑応答
 15:55~16:10 休憩
 16:10~16:30 コメント:原不二夫先生(南山大学元教授)
 16:30~17:45 総合討論

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1.第一報告・質疑応答
Q1:レジュメにある「PP20」は、「PP10(1959年大統領令10号)」とはどのように違う法律なのか。
A1:「PP20(1959年政令20号)」は、 二重国籍条約の批准を受けて制定された実施細則を指す。

Q2:Star Weekly誌と、今回補足的に紹介したLiberty誌はそれぞれどのような読者層に読まれていたのか。
A2:読者層の特定は難しいが、Star Weeklyの投稿欄のやりとりをみる限りでは、プラナカン華人が多いように見受けられる。Liberty誌はその傾向が一層顕著であるように思われる。なお、Liberty誌は東ジャワのみで販売されていたが、Star Weekly誌はジャワを中心に一応外島にも販売網はあった。

Q3:インドネシア華人には、中国国籍保持者とインドネシア国籍保持者がいた。また、ババ、プラナカン、トトックという言葉もあるが、それぞれのアイデンティティや、習慣はどのようなものだったのだろうか。どのようなエスニシティを形成していたと考えられるのか。
A3:この時代は華人と国籍に関して明確な選択を迫られた時代であった。二誌の場合は、国民としてのアイデンティティと国籍とが明確に一致することを求めるという論調に際立った特徴がある。ただし国籍に関していえば、1958年の国籍法前までインドネシアは生地主義を採っており、他方で中国人民共和国は血統主義を採用しており、この二重国籍状態を解消するための条約批准に時間を要したため、60年前後の時点では国籍をもって峻別することがそもそも困難であった。誌面上にはプラナカンやトトックを含め、いわゆる華人の伝統や慣習に関する特集記事がしばしば掲載されているが、実際にどのようなエスニシティを形成していたかはこの研究の射程外である。

2.第二報告・質疑応答
Q1:香港の梅県客家とあるが、どのようにして客家と特定しているのか。
A1:自分たちが梅県に祖籍を持っている客家だといっている。梅県は客家が多い。

Q2:『大公報』以外にその当時、どのような新聞があったのか、概況が知りたい。
A2:『「読み・書き」から見た香港の転換期』(明石書店、2009)に収録されている「アルコール飲料の新聞広告から見た香港社会の変化」に詳細を記載したが、1925年頃から『華僑日報』、『工商日報』、『星島日報』の三紙が代表的であった。『華僑日報』は同郷団体の情報に詳しい。『星島日報』は政府系。60年代は『香港商報』などの左派系で一般的なものが出てきた。『成報』なども人気。

Q3:「PP10」が香港経済にも影響したと『大公報』で報告されていたようだが、その後の動向などは『大公報』で紹介されていたか。
A3:その後の時代の『大公報』の分析は済んでいない。国貨公司に関する研究を行う過程で見た感じでは、インドネシアとの関係では籐家具の商売が多く、インドネシア製品は継続的に香港には入っていた。一時的な停滞はあったが、交流は連続していたと思われる。

3.コメント:原先生
マラヤ・シンガポールからは第二次世界大戦後、数万人が中国に帰還したが、その多くは強制送還だった。特に帰還者・送還者が多かったのは、1948年から1950年の3年間である。今回の発表では、自由意思による帰国か強制帰国かといった点について言及がなかったが、実際はどうだったのか。以下、それぞれの報告に対する質問を挙げる。
<第一報告>
Q1:二重国籍(解消)条約が遅れて施行されたことと、PP10による混乱は、どのように関係しているのか。報告では、「インドネシア国籍なら残れ、中国籍なら帰れ」といった論調の記事が紹介されているが、実際はどうだったのか。
A1:まず、自由意思か強制帰国かという問題だが、それほど簡単には区別できない。進学のために中国へ行ったのは自由意思に近いと思われるが、プロパガンダにのって中国に渡った人もいた。中国系であるといずれは追い出されるから、という理由で渡った人もいる。二重国籍条約批准の遅れによる混乱もある。そのため、今回対象となっている時期は、国籍を確定できずに帰国した人も相当数含まれていると思われる。

Q2:華僑が経済を支配していることを非難する議論が華僑側から起こった事例は非常に珍しいと思うが、なぜなのか。また、今日紹介があった二誌は、いずれも社会主義的立場をとっているということだったが、中国共産党を批判する記事もあった。政治的立場に、一貫性があるのか。
A2:華僑が握るというよりは外国人が握っていることが問題だという論調である。共産主義と社会主義に関しては、両誌とも当時のスカルノ大統領によって推進されていたインドネシア式社会主義を支持するという立場であり、共産主義とは一線を画している。

Q3:Liberty誌の記事内容に、「国有企業の従業員が、インドネシア国籍であることを証明する必要に迫られることになり、このための裁判所での手続きにはRp2560を要する」とあるが、2560ルピアとはどのぐらいの価値か。
A3:Star Weekly誌が4ルピア、石けん一箱が2ルピアだったことを考えると、相当高額である。

<第二報告>
Q1:マラヤ華僑が経営する国貨公司はなく、インドネシア華僑経営のものばかりだが、インドネシアからの帰国者は資産があったのではないか。これらの経営者は、一旦中国に帰国し、そこから香港に渡った後に国貨公司をはじめたのか、それとも最初から直接香港に渡り設立したのか。
A1:国貨公司の経営者は、中国へ帰国した人たちではなく、1950年代以降にインドネシアから直接香港に渡った人達である。彼らは、インドネシアから新中国へ観光旅行に行った際に、中国の製品を香港で売るという商売を思いついたようだ。

Q2:「新村」は、マラヤ華僑の話の中には出てこないので、興味深い。自らの資金で造成したとのことなので、着の身着のままで送還されたマラヤ華僑には無理だったのだろう。
A2:インドネシアの場合、資金を携えた者がかなりいたようだ。

Q3:インドネシア共産党員で帰国した人はいるのか。
A3:政治的な背景を持った人は多くないという印象を持っている。

4.総合討論・その他
Q1:PP10の実施のされ方について、地方によってかなり違ったということだが、外島の場合はどうだったのか。また、趣旨説明と第二報告では、西ジャワにおけるPP10被害について言及されているが、第一報告では、「西ジャワより、中ジャワ・東ジャワの方が緊張感が高い」といった内容の記事が紹介されている。実際はどうだったのか。
A1:外島のことは両誌ともほとんど言及がない。先行研究では、西ジャワの被害が大きくとりあげられている。中でも死者がでたチマヒ事件は、外交問題に発展したこともありよく言及されている。今回紹介したStar Weeklyの記事は、実際に記者が中・東ジャワに赴いて「緊張感が高い」と記したものではあるが、実態は分からない。

Q2:国貨公司は、中国製品を香港で売る店ということだが、どのように使われていたのか。
A2:1950年代後半~60年代前半が最盛期で、1960年代の反植民地暴動以降、いったん衰退した。中国への帰郷が可能になった80年代以降は、香港や東南アジアの華僑が国貨公司で手土産を買うと、その品物を深圳で受け取ることができるというサービスなどがあり、再び人気が出た。

Q3:国貨公司は、小売り部門以外に貿易ルートなどもかなり強固だったと理解していいのか。
A3:そうだろう。1980年代以降には、南洋フェアなどをやっていたこともある。

Q4:それぞれの扱っている雑誌や新聞が、他(国)のメディアを引用している場合は、どのような情報源からだったのか。
A4(1):Star Weekly誌は、華語新聞をほとんど参照していない。
A4(2):新華社などのニュースを参照していることが多い。

Q5:PP10が実施されたタイミングがもし二重国籍問題の解決後であれば、このような混乱がなかったかもしれないと仮定できるが、あのようなタイミングで出たことについて、何か意見があれば聞きたい。
A5:1950年代後半は、経済の「nasionalisasi(国有化)」が、進められた時期である。その時期に、外国人企業として登録されている90%以上が華人であったという統計もあるので、それを何とか解決したいという思惑もあったものと推察する。PP10に先立って商業大臣令が出されており、PP10が全くの思いつきで導入されたというわけではない。

2015年度第2回(5月) 関東例会の報告

2015年5月16日に開催されました関東例会の議事録を掲載致します。

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第一報告(13:30~15:30)
報告者:坪井祐司氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員)
報告題目:「1930年代の英領マラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争:ジャウィ新聞『マジュリス』の分析から」
コメンテーター:左右田直規氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・准教授)

【コメント(東京外国語大学左右田直規先生)】
1. 補足説明
読者層をイメージするときに、参考になると思うのは1931年のセンサスにある識字率である。連合マレー諸州のマレー系男性の識字率が約41%、女性が8%であった。1931年当時の世界全体の識字率から考えても、男性の識字率は必ずしも低いわけではない。女性の識字率に関しては、女子教育が、マラヤではまだ浸透していなかったという状況が影響しているのではないか。
『マジュリス』の当時の発行部数が初版(1931年)で2000部と報告にあったが、当時のスランゴール州のマレー系の人口が12万人、連合マレー諸州全体では59万人であったことから、少なく見えるかもしれない。ただし、同時期に発行されていたマレー語紙『ワルタ・マラヤ』でも1930年代で1000-3000部であり、また多くの先行研究でも指摘されているように、発行部数と、実際に新聞の論説に触れた人の数との間には大きな差があると考えられることからも、部数にあらわれない間接的な読者層を含めて『マジュリス』も部数以上の影響力があったと考えてよいと思っている。
2. 坪井氏の『マジュリス』研究の意義
本報告の研究の意義は、一番大きいのは、言語媒体、あるいは地域を越えた言論空間の成立という点にあると考える。同一の争点をめぐって、従来であれば、マレー語紙の分析はマレー語紙のみ、英語紙については英語紙のみと、複数の言語媒体を往還するようなものはなかったが、本研究では『マジュリス』と『マレーメール』間の交渉の分析から試みている。また、当時のマラヤの諸都市(クアラルンプール、ペナン、シンガポール)、宗主国の都市ロンドンとの間の、地域を越えた言論空間の成立という本研究の指摘も非常に興味深く、分析視角としてもインパクトのあるものであったと考えている。
 個別的な点では、マレー人における王権の重要性についての指摘についても興味深かった。コメンテーター自身が主に研究対象としてきた『マジュリス』第三代編集長のイブラヒム・ハジ・ヤーコブは社会主義思想に影響を受けた左派として知られているが、1930年代に彼が書いた記事を読むと、マレーの王制の存在を前提とした議論になっており、個別の点で批判することはあっても、王権打破ということは一切言っておらず、また、植民地支配を根底から批判するような言説もしていない。これはセンサーシップの問題であると捉えることも可能かもしれないが、おそらく彼自身の思想であったと思う。マレーの論争において、王権の存在が基本となっていることが、本報告でも指摘され非常に腑に落ちた。
論者の属性と主張内容をどこまで繋げて考えてよいか、ということは、議論になる点であるかと思うが、アブドゥル・ラヒム・カジャイは、親はスマトラのミナンカバウ系出自、イブラヒム・ハジ・ヤーコブはスラウェシのブギス系の出自であることを本人も自覚しており、いわゆる「外来マレー人」とカテゴライズされうる資質を持った彼らが、自分たちのマレー性を意識化せざるを得ない状況にあった。だからこそ、マレーナショナリズムへ傾倒してくところがあったのではないか。また、論争だけではなく、政策過程にも着目されており、マレー人の王族や植民地当局、イギリス本国当局への影響までを射程に入れている分析という点も、単なる言説分析にとどまっていないという点が非常に興味深かった。
3. 質問
Q1新聞の言論分析をする際のもう一つの考え方としては、同一紙面の中での意見の対立や論争を抽出していくアプローチもあるかと思うが、『マジュリス』内における意見の対立や論争は見られたか。
Q2 マレー語媒体と英語媒体の相互作用について:『マレーメール』の議論を『マジュリス』がよくフォローしていて、それを前提として議論を組み立てているが、『マレーメール』が『マジュリス』の議論を引用して、議論することもあるのか。相互作用は双方向性をもったものとして捉えてよいか。
Q3言論を超えた相互作用について:オランダ領東インドで使用されていた言語(現在のインドネシア語)の新聞を参照、引用し、そこから議論を組み立てたというような、(今日指摘された以上の)言論媒体を越えた相互作用というものもあるのか。
Q4「多民族の都市社会に生きるマレー人」を読者として注目されていたかと思うが、書き手(投稿者)が発行地である都市以外の地域に在住している可能性も大きい(イブラヒム・ヤーコブもパハンで教師をしている時に投稿していた)。都市以外の地域の読者層の広がり、需要をどのように捉えているか。
Q5 政策立案過程の一部としての、新聞における言論活動、という点について:世論の形成に重要な役割を果たしている可能性があるということを具体的事例から今日は説明されたかと思うのだが、この仮説を実証的に論じることを可能にする材料として、政策立案側の資料(議事録など)はあるか。

【コメントに対する返答】
A1『マジュリス』内の論争、意見の対立があるか
読者投稿も多く、社説に対する読者の投書に、社説が返答する、ということなどの例は実際に見られる。
A2 英語の媒体がマレー語媒体をどれほど参照しているか
『マジュリス』ほど入念に目を通したわけではないが、『マレーメール』にはクアラルンプール事情を扱うコラムがあり、マレー語紙の論調はチェックしている。『ストレーツ・タイムズ』にも『マジュリス』と思われる記事の引用例がある。
A3言論を超えた相互作用について(インドネシア語)
これまで目を通した『マジュリス』の記事の中で、スマトラ島のメダンで発行された新聞への言及があり、可能性としてはあると考えている。
A4『マジュリス』の読者層について
読者投稿を見てみると、スランゴールには限定されておらず、近隣諸州であるペラ州などからの投稿もあり、掲載広告もクアラルンプールだけでなく、シンガポールのものなどもある。
A5政策立案過程の一部としての、新聞における言論活動
政策立案過程に影響力があったのではないかと考えたのは、行政文書を見ているとファイルの中に新聞の切り抜きがあり、植民地政庁側、政策担当者は新聞に気を配っていたのは確かであると考えたため。

【質疑応答】
Q:ムラユ(血統)に触れる言論をするか、マラヤン(地域)に触れる言論をするかは、人それぞれで多様な議論がある、とのことだったが、『マジュリス』の場合、どういうケースの時にどちらに議論が触れる、といった傾向性はあるのか。
A:『マジュリス』マレーナショナリズム側なので、基本的な論調はムラユにある。逆にマラヤンを強調するのは、外来の人たちなので、華人やインド人の意見を代表するような英語紙がそのような主張をする。マレー人内部の論争では議論はわかれるが、基本的にはマレー、インドネシアという島嶼部世界によって区切るというのが『マジュリス』の立場である。
Q:「インドネシアと一緒にしてくれるな」「インドネシアは一緒なのだから、インドネシアという別カテゴリーを設けるのはよくない」という両方の議論が出てくるとあったが、どのような経緯か。
A:マレー、インドネシアを全体として「マレー人」と括ることについては、比較的多くの人が同意している。ただ、マレーとインドネシアを区別して考えるような意見も散発的に見られる。
Q:この時代に、マレー人から「祖国」という言葉が出てくるのは、どういう背景からか。
A:「祖国」にあたる言葉は、創刊号の巻頭言で出てくるのはアラビア語起源の「ワタン(Watan)」である。もうひとつ「祖国」にあたる言葉として、マレー語の「タナ・アイル(tanah air)」がある。
Q:「祖国」といった時の地理的範囲は。マレー半島とボルネオ島も含まれるのか。
A:ボルネオは意識されていなかっただろう。基本的には「マラヤ」の範囲で、現在のマレーシア半島部とシンガポールが「祖国」の範囲であったと考える。
Q:1931年という時代に『マジュリス』が発刊されることになった意味は何か。
A:ひとつの理由としては、世界恐慌で民族的な対立が先鋭化したことがある。ただ、政治的な綱引きというのは、第一次世界大戦後からの流れとしてある。
Q:イギリスから植民地省事務次官が来た時に、『マジュリス』はスルタンと一般のマレー人の間の乖離を指摘しているが、民族主義者の立場から、王族と臣民の立場を越えて団結せよという強い主張は『マジュリス』でされていたのか。
A:王族と一般の人々が分かれているというのは、(第二次世界大戦)戦後に至ってもよくみられる言説である。知識人や言論人にとっては、大きな問題としてあったのではないか。『マジュリス』の立場としては、王族を取り込んでいく意味は大きいと考えていたのではないか。
Q:『マジュリス』的なナショナリズムというのは、最初からスルタンが入っていたのか、あるいはスルタンは入っていなかったのか。マレー人をまとめる役割というものを王族自身は意識していたか。
A:民族主義者たちが王族を枠外に考えていたということはおそらくなく、マレー人は王族を中心とした民族であると考えていた。王族側は、参事会や民族の代表が集まる公的な場において、王族はマレー人を代表して意見するという点は意識していた。実際に、王族が民族主義活動に加わるケースも多くあり、お互いにそれなりの意識はあるだろう。
Q: スランゴール王権の継承問題の『マジュリス』の論調について、イギリスや英語新聞で行われた論争を転載していた背景はどのようなものか。イギリス国内や英語新聞の議論を借りて、これに賛同するという立場か、あるいは一歩引いた立場から論争を紹介し、あとは読者の反応に任せるということか。
A:他紙からの転載記事が多い理由は、転載した記事の議論に賛同しているという立場だったのではないか。『マジュリス』が転載した王位継承問題に関する他紙の議論のほとんどが批判的な論調のものだった。
Q:ペナン、シンガポールなど独自の王権がない海峡植民地は、王権に関する発言の自由度が比較的高い。それに対して『マジュリス』は、王国の中に位置しているクアラルンプールの新聞であるという点が、王権の議論における腰の引けている態度に影響している可能性はあるか。
A:それはあると思う。地元なのに腰が引けているというのは、イギリスを批判すると現在の皇太子を批判することにつながりかねないという事情もある。
Q:発刊が週2-3回というのは、当時としては一般的な頻度だったのか。途中から週3回に増えているが、これには何か背景があってのことなのか。
A:当時日刊紙はそれほどなく、週2-3回発刊の新聞が多かった。頻度が増えたのは記事の分量が増えたためである。発行頻度が低いとはいえ、引用については、引用元の記事が出てから数日後には掲載されていることが多く、言論の場としての機能は果たしている。
Q:「分権化」政策に対する『マジュリス』の立場は。
A:分権化政策に反対した勢力としてマラヤ在住のイギリス人がある。連邦の権限を削ると意思決定に支障をきたすのと懸念した。このため、シンガポールの英語メディアは批判的な論調であった。マレー人側は、連邦の権限の委譲により各州のマレー王権の権威を回復させる政策と捉えられたため、『マジュリス』を含めて、マレー語紙は賛成していた。
Q:『マジュリス』と、その他の英語紙の読者層は重複すると考えてよいのか。
A:基本的には、英語紙とマレー語紙の読者は違うと考えた方がよい。英語紙に関しては、民族を問わない言語なので、むしろマレー人以外の読者が多い。一方で、マレー語紙、英語紙の発行者同士の交流はあったと考えられる。
Q:1930年代のマラヤにおけるマレー人の地位をめぐる論争というのは、独立後あるいは現在につながるマレーシアでのマレー人概念にどのように継承されていったのか、あるは断絶してしまっているのか。
A:基本的に、この時期に形成されたマレー人の定義がその後に受け継がれている。この当時のマレー人をめぐる論争の構図(多様な人が内外から、それぞれ物事を言い合う)は、現在のマレーシアの民族をみるうえで重要であると考えている。
Q:南タイでは、マレー人というと華人やインド人を含めてマレーであるという主張があるのだが、現在のマレーシアではマレー人の定義ではどのようになっているのかわかれば教えてほしい。
A:現在のマレー概念からいうと、インド人や華人を含めてマレー人とすることはない。今日の議論でいうと、華人やインド人を含めて、土地で生まれた人は平等に扱うという「マラヤン」に近いかもしれない。マレー人概念が最初に明文化されたのは20世紀初頭で、土地法の中でマレー語、イスラムという要素が定義された。その中身が肉付けされていくのは今日とりあげたような論争を通じてである。

文責:金子奈央(アジア経済研究所 リサーチアソシエイト)

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:高橋 塁氏(東海大学政治経済学部経済学科・准教授)
報告題目:「近代精米技術の導入と仏領インドシナ―米市場の発展要因再考―」
コメンテーター:髙田洋子氏(敬愛大学国際学部・教授)

[コメント]髙田洋子先生
 本研究は植民地期以降の長期的スパンからベトナム農業の在り方や、既存研究が少ない精米技術の導入に統計資料を駆使し言及した点において価値があるものの、いくつかの点で問題が見られる。1)サイゴン米輸出の発展要因について、メコンデルタの米生産増加や華僑通商網の役割をもっと評価すべきである。2)サイゴン米の一大消費先であった香港、中国市場での精米業、精米技術はどうだったのか?3)小規模精米所は、域内消費市場向けのものであったのではないか?4)Tsaoによるコーチシナ精米工場分布のデータの信頼性に疑問がある。どのように調べたデータなのか?5)小規模精米工場の数は多いが、重要性という点では大規模精米工場の方に焦点をあてるべきではないか?6)サイゴン米の競争力について。サイゴン米は様々な品種が精米時に混ざり砕米も多く、品質的に問題があるとされるが、これは競争力において問題があるのでは?7)より社会的状況を細かに踏まえた分析を行うべきである。8)ベトナム人のアントレプレナーシップを過大に評価しているのでは?フランス資本が入っていることをもっと考慮すべき。

コメントへの回答:いずれもその通りであり、今後の課題である。2)3)4)については、今後更なる確認、調査を行う。6)については「競争力」の定義を如何に考えるかで理解が異なるので、今後更なる議論が必要であろう。8)については1920年代にフランス資本の大規模精米工場が閉鎖した一方で中小規模の華僑やアンナン人の精米工場が台頭しており、それが一つの根拠となりうるのではないであろうか。

[質疑応答]
質問1:近代精米技術の普及においてフランス側からの導入はなかったのか?またアンナン人と華人の混血である明郷の役割ももっと評価すべきではないか?
回答1:イギリスやドイツなどで産業革命に伴う技術革新(この点については、宮田先生からコメントをいただいた)、輸出用再精米の工場が存在したことが大きかったのではないか。明郷の役割については、今後の検討課題である。

質問2:ボルネオなどにもベトナム米が入ってきており、市場を席巻しているが、今回の報告ではベトナム米は品質的に劣るとされ、ベトナム米が市場を席巻する力があまり伝わってこない。実際はどうなのか?
回答2:今回の報告では稲作、流通に関する言及が少なかったので、そうした印象を与えたと思われる。稲作、流通、精米と併せて示すことで、ベトナム米穀産業の生産力を伝えることができるであろう。

質問3:今回触れられた精米業および米輸出市場の発展については、仏領インドシナに限らずタイにも同様な現象が確認できており、それゆえ仏領インドシナをそのままタイに置き換えても議論が成立するように思えるがどうか?
回答3:タイの場合、米穀産業を担った華僑人口が多かったが、仏領インドシナの場合、そこまで華僑人口は多くない。タイで果たした華僑の役割を仏領インドシナではアンナン人が果たしたと捉えており、そこが大きな違いであると本研究では主張した。

質問4:米の品質については精米所において、米を「混ぜる」技術が重要であろう。またベトナムの場合、米品種基準はどうなっているのか?
回答4:ベトナムには非常に多くの米品種があるため国家が品種基準をまとめるのは無理であろう。米を「混ぜる」技術については今後の調査課題である。

質問5:ミャンマーについても小規模精米工場が内陸部にアップカントリーミルとして普及したが、それならば精米で流通するのが効率的ではないのか?
回答5:籾の状態で貯蔵し、価格の変動に応じて放出することを考えると、貯蔵に適した籾で流通することは理にかなっていると考えられる。白米は籾よりも貯蔵時に劣化が進むためである。

(文責:高橋 塁)

2015年度第1回(4月) 関東例会の報告

2015年4月25日に開催された関東例会の議事録を掲載いたします。

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第一報告(13:30~15:30)
報告者:上野俊行氏(東京大学総合文化研究科学術研究員)
報告題目:「ベトナム社会におけるバリアフリー」
コメンテーター:古田元夫氏(東京大学大学院総合文化研究科客員教授)

◎コメント:古田元夫先生(東京大学大学院総合文化研究科客員教授)
バリアフリー(以下、BF)の議論は日本でも始まったばかりで、議論の大半は先進国の話である。ベトナムを始めとするアジアの発展途上国をモデルとした議論は少ない。本報告はアジアの発展途上国におけるBFを本格的に論じた先駆的な業績である。本研究は、文献資料やインタビューだけでなく、本人が車いすで走り、都市のBFの動線を確認、障害者の参与観察という特徴がある。形式的BFの概念はまだないが、ベトナムでそれが顕著であることは、車いすで実際に動いてみないと分かりにくい側面だろう。本研究は、今後ベトナムを始めとする発展途上国における障害者論に繋がると期待される。そのことも踏まえて二点質問する。
第一に、社会主義の話が登場するが、福祉は資本主義の方が良いと一般的に理解されてきた。現在の中国やベトナムを議論する時に関係ないか。現在のベトナムの福祉に対する日本人研究者の評価は高くない。福祉を不可欠な社会の構成要素としていたが、市場原理を導入して、現在のようになったと議論することも可能。社会主義体制をどうイメージするか。
第二に、地域研究的視点からBF論を目指しており、議論全体はベトナムの現状に密着している。何がベトナム的なのかという角度から今日の話を聞くと、相互扶助の文化である。BFがなくても皆が助ければ良いというBFの阻害要因、ワンステップバスとの関係でベトナムの現実に則した心のBFという促進要因という、BFの両面性が存在しているようだ。相互扶助の文化がなぜベトナムにあるか考えると、農村共同体論と関係しているだろう。市民社会の発展にBFの展望を見出しているが、農村共同体の名残と市民社会の発展はどのような関係か。ベトナムの市民社会をどうとらえるか。

◎コメントへの回答(今後の課題)
第一:先日ホーチミンで発表した折にもベトナムを社会主義国家と捉えて良いのかという指摘を受けた。今後の課題としたい。
第二:心のBFは農村共同体や市民社会の研究につながる今後の研究テーマ。

◎質疑応答 ※文字制限の都合により、一部割愛した。
Q1:
①ASEANにも国連同様の取り組みがあるか。ASEANにもパラリンピックはあるか。
②枯葉剤による障害の出方は?車いす以外の人へのBFの取り組みはあるか。
③市民社会でBFの問題が表出する上で先導するNGOは。ベトナム戦争の退役軍人会の機能は。
A1
① ASEANは国連のアジア太平洋ブロックで活動しており、パラゲームも開催する。
② 枯葉剤後遺障害には個人差。
③ DPハノイはハノイ市と共同活動しており、ホーチミンのDDRは海外からの支援だけで活動している。退役軍人会は機密事項のため調査は不可。

Q2:
①ベトナムの「障害者」の定義。
②車いすの購入や支給。
③WHOによる障害の定義の変更を現地社会はいかに受け止めているか。
A2
① 現在は自己申告に近いが、障害者基本法の「判定」により今後明確化。
② 車いすは基本的に収入に応じて支給。
③ 一般的にはベトナムでは知られていない。

Q3:
歴史的背景から相互扶助社会のBFの展開が興味深い。地方のBF調査で歴史的背景と未来のBF社会がつながる印象。
A3
今後、研究していきたい。

Q4:
①農村調査での研究方法。
②ホーチミンのワンステップバスの成功要因とは。
A4
① 現地を踏査し、現地の障害者団体と交流。
②バンコクでは、BFバス導入に向けてサイトで市民の意見を集め、政府に陳情、国会を通過している。ホーチミンでは地方政府の方針で、ハノイには現在ない。

Q5:
BF社会は誰の仕事か。
A5
タイではBFが当然となり、「誰」は問題とならない。ベトナムでは法整備の段階。

Q6:
BFの普及に関してどう考えているか。
A6
形式的BFの解消が良い。

文責:新谷春乃(東京大学大学院総合文化研究科・博士課程)


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第二報告(15:45~17:45)
報告者:村嶋英治氏(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)
報告題目:「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)のタイ進出」
コメンテーター:宮田敏之氏(東京外国語大学教授)

◎報告概要
Ⅰ既存研究:1888―91年の日本人商業見落とされてきた。同時代資料でも断片的部分的な情報しかない。

Ⅱ 中・上層の日本人(教育レベル高く、在欧米経験者もいる。殆どが士族で、地方の起業家、紳商)が来暹(タイ)した。これにはプラヤー・パーサコーラウォンの役割大きい(cf.下層日本人、醜業婦、苦力・労働移民者などとの対比)。
来タイきっかけは、1887年9月26日の「修好通商に関する日本国暹羅国間の宣言」(青木周蔵外務大臣代理・テーワウォン外相)調印。
日本側に対タイ関心が生じる。翌1888年1月に日暹友好通商宣言批准のため来日したプラヤー・パーサコーラウォン(1849-1920、後チャオ・プラヤー、テーワウォン外相訪欧米日中の外務大臣代理、農務大臣、税関局長、後文部大臣)は、日タイ関係の具体的発展を意図して最も重要な役割を演ずる。同時来日したタイ官吏は日本に居残って日本の教育・軍事・産業なども視察し報告。
問題:タイ側資料特に、パーサコーラウォン資料の欠如、同時期のタイ文部省資料、在香港シャム領事報告等保存されておらず、詳細な伝記も作成されていない。

Ⅲ 最初に名古屋において対暹貿易商業の気運
①名古屋の実業家神野金之助(1949-1922)、森本善七(1855-1928)、野々垣直次郎によシャム貿易実施(村嶋英治「バンコクにおける日本人商業の起源」p.47)。
1888年末(?)から1889年7月、野々垣直次郎(1852―1904、愛知県士族)在タイ商業、パーサコーラウォン邸に滞在、1889年7月バンコクで無一文になった釈宗演を助ける、1891年6月名古屋産品買付に来た、タイ人官吏クンペエ(山本安太郎通訳同行)を支援。対王族・貴族相手の商売と考えられる。具体的な商品や販売形態については資料未見。野々垣は、愛知県会議員・名古屋市議を勤める。裕福な資産家であったと思われ、養子の野々垣勇は高額納税者。
②杉山弥三郎(1853-1920、愛知県士族、マッチ製造業)、松本九助(陶業)、河村治助(玩具)、本多与三郎(七宝)らは、神野・野々垣らの対暹貿易に刺激され、長坂多門(生没年不明、愛知県士族、マッチ製造業)に、諸商品を持たせてシャムに派遣(同上論文p.64)。
訪タイが決まった長坂は1888年10月頃新任の得能通昌大蔵省印刷局長から局紙の販路開拓を依頼される。1888年末頃、外務次官[青木周蔵]からテーワウォン外相宛紹介状(村嶋未見)を持って第一回渡暹、パーサコーラウォンから印刷紙の注文も取る。商品価額3000円程度、渡航旅費手当等500円、計3500円を費やすが、長坂の報告では売上げは1000円のみであったという、1889年末帰国。1890年2月頃、マッチ、玩具、織物を持って第二回渡暹(但し旅券下付の記録なし)、長坂は1890年末ごろ帰国したが、出資者は出資金も回収できず(同上p.64)。長坂は帰国後、1897年までマッチ生産に関係していることが判る。
③1891年半ば、大島宇吉(1852-1940、愛知県豪農、自由民権運動家、新愛知新聞社主)らは来名古屋したクンペエ(パーサコーラウォンの部下、山本安太郎通訳同行)と協力して対タイ直接貿易船計画。クンペエ帰路香港で自殺(在香港シャム領事の報告―バンコクの公文書館にない)のため頓挫。

Ⅳ 初期在バンコク日本人の殆ど(除く下層)はパーサコーラウォン邸に宿泊
1888年2月末、パーサコーラウォンは訪日の帰路、山本安太郎・山本鋠介の2少年(主目的は日タイ交通のための通訳の養成と思われる)、生田(織田)得能・善連法彦の2真宗僧侶を伴い帰国。
1889年7月10日―21日 釈宗演在バンコク。
1892年7月、岩本千綱(高知県士族、陸軍士官学校卒中尉)初来暹(旅券は1889年取得)
1892年8月、パーサコーラウォン文部大臣、文部省使用教科書印刷などのため日本人版画師3名(嶋崎千六郎(天民)、大山兼吉、伊藤金之助)雇用。
1893年12月―94年1月、熊谷直亮(津田静一実弟、熊本県士族、熊本国権党)農業移民調査に来暹(ランシットなど運河開鑿会社の新田への入植計画)。
1894年5―8月、日本吉佐移民会社の鈴木錠蔵(茨城県士族、後に衆議院議員)来暹、農業移民可能性調査の為。
1894年末、写真師磯長海洲(鹿児島県士族、駒場農学校中退)来暹。
1895年初、バンコクで岩本千綱、石橋禹三郎(平戸商家、在米経験あり)、大谷津直麿(神奈川県士族、東大植物学科卒、中学校長、訪欧経験あり)ら暹羅殖民会社を創立。事業目的は移民労働者(コーラート鉄道、ブカヌンなど仏人金鉱、バンコックドックの職人など)供給、日暹貿易など。暹羅殖民会社は海外渡航株式会社(広島県)と契約し移民集め。移民保護法が要求する代理人に雇われた宮崎滔天(熊本県荒尾、早稲田中退)が1895年10月に来暹。
1897年、山崎喜八郎(長崎県諫早の神主の子、在米経験あり)及び数名の福岡士族、森林伐採権の出願、サタヒープ、ラヨーン地域の広大な森林の伐採権申請。
1899年3月、山本貴三郎(当時福岡県衆議院議員)石炭の直輸出。

Ⅳ 今後の研究
日本人移民、来タイ日本人僧侶については調査済、日タイ関係外交史、醜業婦など。
タイ関係邦語文献(1868 -1945)目録、日タイ関係日本人・タイ人人名(1868 -1945)事典
参考資料
村嶋英治「戦前期タイ国の日本人会および日本人社会:いくつかの謎の解明」(泰国日本人会『タイと共に歩んでー泰国日本人会百年史』、2013年9月刊,pp.10-46,ウェブ上にも在り)
村嶋英治「バンコクにおける日本人商業の起源:名古屋紳商(野々垣直次郎、長坂多門)のタイ進出」、『アジア太平洋討究』24号、2015年3月刊、pp.39-69.
村嶋英治「バンコクの日本人」、タイ国日本人会月刊誌『クルンテープ』に2010年8月号から現在まで連載中、2015年7月号までで合計370頁。

◎コメント:宮田敏之会員(東京外国語大学)
これまで、研究の盲点あった部分に光を当てた研究である。日本商品の東南アジアへの輸出の初期は、マッチ、紙、陶器などの雑貨であったことはよく知られているが、本報告は日本人商人が、シャムに対してこれらの商品を売り込みに行った最初のケースを明らかにした点に価値がある。

◎質疑・コメント
外務省等の報告書を批判的に読み込みながら、さらになかなか人が気づかないような当時の地元新聞や出国記録を渉猟した結果に入手した資料等を用いて、新しい議論であった、という主旨のコメントとバンコクで開店した日本商店の多くが短命に終わった原因についての質問があった。

(文責:村嶋英治)
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