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2017年度第4回関東例会(2018年1月27日)議事録

1月27日に開催されました、2017年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

今回は「東南アジア大陸部における被戦争社会と地域住民」と題したシンポジウム形式で行いました。
プログラムは以下の通りです。

13:30~13:50 趣旨説明:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)
13:50~14:35 第一報告:西本太(長崎大学熱帯医学グローバルヘルス研究科・客員研究員)
「ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者」
14:35~14:45 質疑応答
14:45~15:00 休憩
15:00~15:45 第二報告:小島敬裕(津田塾大学学芸学部・准教授)
「ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して」
15:45~15:55 質疑応答
15:55~16:10 休憩
16:10~16:30 コメント:下條尚志(静岡県立大学大学院国際関係学研究科・助教)
16:30~17:45 総合討論

(1)シンポジウム企画趣旨説明
報告者:瀬戸裕之(新潟国際情報大学国際学部・准教授)

発言1
・プロジェクト全体として「被戦争社会」という概念をつかう意義はなにか。「社会史」でいいのではないか。各地域の共通項を見出せるのか。
(回答)この研究会で議論してきた結果,ミャンマーの戦争とインドシナの冷戦型の戦争とは大きく異なると認識している。「社会史」の中でも,国家建設や市場化などではなく,「戦争」に焦点を当てることに意義がある。
(コメント)「社会史」というより一般的な概念を用いることで,他地域と比較もできるようになるのではないか。

発言2
・研究会として,戦争の規模や実態が異なる中で多地域を比較した結果,見えてきたイメージがあれば知りたい。
(回答)各地域で戦争と地域住民の対応としてどのように整理できるか,については,研究会で議論を行っている最中であり,今後の大きな研究課題である。

(2)第1報告
西本太(長崎大学・熱帯医学グローバルヘルス研究科)
題目:ホーチミントレイルとラオス南部山地社会の協力者

発言1
・ベトナム語で同じ人にインタビューみたら,ベトナム人としての面が見えてくるかもしれない。彼はどんなアイデンティティをもっているのか?

(回答)奥さんがラオ人,子供もいるし,他のラオ人と同じようにしか見えなかった。詳しくは聞いてみないとわからない。

(3)第2報告
小島敬裕(津田塾大学・学芸学部)
題目:ミャンマーにおける戦争と中国国境周辺地域の変容-少数民族パラウンの生存の技法に注目して

発言1
・ホールーが,中国に移住することは容易か?
(回答)国境100km以内は移動が自由。村からの許可があれば移住も可能。
・TNLAが求める自治権とはなにか。本来の目的は何か。
(回答)現在のように表面的な「自治権」ではなく、自民族による統治が目的であると主張されている。こうした主張の他に具体的な目的,利益があるかもしれないが多説あり,何が本当かは,わからない。連邦制に向けて今後どうなるか,注目される。

発言2
・ミャンマーにとどまって逃げない人の理由は何か。
(回答)村人は,茶畑を持っている。労働力として,あるいは財産を守るために誰かが残る必要がある。兄弟が交代で村外へ出て行くこともある。
・貧しい人がより徴兵されるのか。
(回答)徴兵はくじ引きで行われるが,裕福な人はお金を出して徴兵を代わってもらう。結果として貧しい人は徴兵を逃れる手段を持たず,徴兵される傾向にあると言える。

発言3
・軍部の下部組織の行動について,ミャンマー政府はどう思っているのか。また,タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げている理由は何か。他地域も同じように麻薬が資金源になっているが,他地域と異なる点は何か
(回答)2016年に新政権が誕生したばかりで, 現状では,政府は国軍に口出しできず,コントロールしきれていない。タアーン民族軍が麻薬撲滅を掲げる理由は,仏教の信仰と民族を守るため,というのが彼らの主張である。海外からの支援が目的かもしれないが,真相は不明である。

(4)コメンテーターによるコメント(抜粋)
下條尚志(静岡県立大学国際関係学研究科・助教)

(瀬戸報告および全体へのコメント)
・本研究は,20世紀後半の大陸部をどう捉えるのかを考察するうえで興味深い。ベトナム南部の村落で研究してきた視点からコメントすると,これまでベトナム戦争は,海外ジャーナリスト,現地エリート,海外在住のベトナム人,カンボジア人,ラオス人,ミャンマー人等によって語られてきたが,文字を残してこなかった人々の視点(村民,少数民族など)が欠けていた。地域住民の語りから戦争を理解することに重要性がある。一方で,大きな歴史と各事例をどのように結びつけるのか,という課題が残る。
・南ベトナムでは,ベトナム戦争以前に,クメール人対ベトナム人の民族対立が先にあった。冷戦的な構図にあてはめることで,元の問題が見えなくなる可能性がないか。
・タイは,ベトナム,ラオス,カンボジアから避難民の集まるところで,ゾミア的な意味合いがあったのではないか。

回答(抜粋)
・ラオスの事例でも,もともとの村の対立構造が戦争時に表面化した場合がある。
・タイは,自国の防衛のために政策的に難民を受け入れたと考えている。

(西本報告へのコメント)
・レーヴィアットムアン氏は,なぜ政治,戦争に参加したのか。
・宣撫工作期・協力を得る時期・徴兵,食糧調達期,それぞれで状況が異なっていたのではないか。
・ラオス王国政府側が,敵方による民族工作と似た政策を打ち出すということはあったか?
・カトゥ族にとってベトナムに協力することによるメリットはあったのか。

回答(抜粋)
・当時の若者は,カオダイにいかず,ベトミンを選択したという主張に,何か特別な意味があったのかもしれない。
・時期の変化とともに,ベトナムによるラオス側への働きかけにも地域差もある。今後整理していきたい。
・ラオス王国政府側も,少数民族に働きかけようとしていたと思う。
・カトゥにとっての協力のメリットについては,今後の研究課題である。

(小島報告へのコメント)
・普通の山地民にとっての国家とは何か。少数民族軍は,少数民族の人々にとって「国家」のような存在なのか。
・山地民は,国民国家成立以前に政治組織を作らなかったのか。
・なぜ山地民が武装化したのか。国民国家に編入される過程で,少数民族の組織化が進んだと理解してよいか?
・1950年代以降に,山地がゾミアでなくなったのか。

回答(抜粋)
・一般の山地民にとって,国家はやはり「ミャンマー」である。彼らは,同じ国家の中で,戦争する意味がわからない,という認識を持っている。
・国民国家成立以前に,山地民タアーン(パラウン)に藩王を頂点とする政治組織があったのは先行研究でも明らかである。ただ,そうした政治組織があったのは、シャン州ナムサンを中心とする地域のみである。
・少数民族地域で藩王が退位させられ,権力を失い国家に取って代わられる。そうした過程で,自治権を求める少数民族の武装組織ができあがった。
・1950年代以降も,山地で国家の統治が及んでいない地域もあるが,実態は不明である。

(文責:瀬戸裕之)

2017年度第3回関東例会(2017年11月25日)議事録

11月25日に開催されました、2017年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告
報告者:小田なら氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員)
題目:「北ベトナム(1954~1975)の医療制度整備における「ベトナム伝統医学」の創出」
コメンテータ:板垣明美氏(横浜市立大学・准教授)

板垣明美先生のコメント(抜粋)
・植物資源・技術、政治・制度、実践が相互作用し、「伝統医学」が創出されたことが資料をもとに丁寧に検討されていた。
・社に診療所が建設され、薬草園が作られる様子が数値で見えたが、その信憑性は別の問題。当時の実践は、現在どのように活用されているのか。
・西洋医療、北薬、南薬、鍼灸、マッサージなどが集積した制度的東医はベトナムに特徴的。
・病院での治療例の数値も重要な資料だが、評価の項目に、悪化・変化なしという項目がない点をどう理解すべきか。病気の種類別の表があれば、治療面での特徴が引き出せるだろう。
・中国系ベトナム人と西洋医のベトナム人の調和は難しかったと推測できる。診断法の違いから、中国系東医にとって西洋医が南薬北薬を使用するのは複雑な気持ちだっただろう。
・ベトナムの伝統医療が科学化(科学的な装いの試み)しつつ東医に集積した例は、日本などと比較研究の可能性がある。
・少数民族の貢献は今後の課題。
回答(抜粋)
・現在、社の診療所・薬草園での南薬栽培は盛んとは言えない。制度化された「伝統医学」は、病院の伝統医学科・伝統医学専門病院で主に実践されている。
・病院での実践についての数値はそのまま事実と判断できないが、少なくとも、総合病院の伝統医学科での治療を試みていたことがいえる。今後、疾病別に表を作成し、傾向を読み取りたい。

発言1
1)少数民族の医療は制度化されたのか。
2)コメント:阮朝期1820年頃以降の資料には、交易品について南貨・北貨・西貨という区分が見られる。この頃から南・北・西の三分法の世界認識が形成されたのでは。
回答1
1)北ベトナム時代には、保健省が北部少数民族に伝わる薬草の治療法を収集していた。南北統一後に、「ベトナム民族」の「民族医学」として医療制度内に包摂されるようになった。

発言2
中国では中華人民共和国期から気功が中国医学の柱となっているが、ベトナムではどうか。
回答2
気功や太極拳の呼吸法を応用した治療が存在し、伝統医療の一つとされる。しかし、大部分が薬の治療である。

発言3
1)北ベトナム時代に薬が不足した時期、ソ連・中国からの援助はなかったのか。
2)伝統医学の「科学化」とは、どのような方向を指すのか。通常考えられる西洋化ではないなら、中国化という要素も考えられるのか。
回答3
1)伝統医学に関しては中国からの援助があったはずだ。しかし、中国国内でも中国医学を制度化する時期だったため、国外へ薬を送るほどの大規模な生産体制はなかったと考えられる。
2)西洋と中国双方の影響下からの脱出を図りながら、当時の科学技術によって効能が証明できる治療を蓄積していく過程と考えている。

発言4
1)伝統医学をめぐる制度整備により、結局何が起きたのか。
2)発表タイトルの「創出」は、何を指すのか。
回答4
1)「迷信・異端」とされるものが排除され、保健省をはじめとする国家が規定する伝統が規定されたといえる。
2)伝統が創出された過程の動態(誰が何を伝統とし、いかなる社会背景によって変化するのか)ということを示したかった。

発言5
制度内の「伝統医学」から、ローカルな実践は排除されたのか。また、それは制度化された医療と無関係に残ってきたのか。
回答5
「迷信・異端」は排除されたが、薬草治療に関しては、ローカルな実践から「科学的な」知見を取り入れようとしていた。一方、家庭内などでの薬草治療は、国家が実践を管理することも、積極的に後押しすることもなかった。

発言6
(コメント)「科学化」は、科学によって証明され得るか否かという基準ではなく、イメージとしての科学と考えるのが妥当ではないか。


第2報告
報告者:吉川和希氏(大阪大学文学研究科博士後期課程)
題目:「十八世紀のベトナム黎鄭政権と北部山地―諒山地域の在地首長の動向に関する分析を中心に―」
コメンテーター:武内房司氏(学習院大学・教授)

●武内房司先生のコメント
・発表者の使用史料は禄平州の韋氏が黎鄭政権との関係を構築するために作成した行政文書であり、他首長の動向も考察する必要がある。そこで発表者が取り上げた首長と異なる動きを知る手掛かりとして、『清実録』中の藩臣纉基(韋福琯)の反乱に関する記事を紹介する。今後中国側の史料とベトナム側の史料を突き合わせていく必要がある。
・西北地域では流入する華人に対して在地首長が積極的に対応していたが、黎鄭政権に与した在地首長のその後の動向や在地社会の変容の分析は可能か。
・一方では黎鄭政権に与する首長がおり、他方では黎鄭政権に対抗できる勢力との関係を維持することで地域のヘゲモニーを目指す首長がいる。複数のポリティカルセンターが存在する時に状況を見ながら対応する柔軟な戦略は、西北地域のタイ族首長と同様ではないか。

●発表者の回答
・藩臣纉基については今後さらに検討していく必要。
・移民の流入による在地社会への影響について、19世紀初頭に作成された地簿にはほとんど藩臣が出現しないため、大量の移民が流入すると藩臣の経済基盤が動揺したのではないかと推測している。

●発言者1
(質問)
・藩臣というと自立的なイメージがあったが、地方官は藩臣に対し強い力を持っていたと見るべきか。
・黎朝末期に諒山地域の藩臣はどのように対応したのか。
(回答)
・諒山地域の藩臣が王朝権力からの圧力を受けており、従来の在地首長イメージとは異なることには同意。ただどこまで一般化できるかは難しい。東北地域の藩臣には当てはまるかもしれない。
・おそらく諒山地域の首長は黎朝を支持したと思われる。

●発言者2
(質問)
・在地首長が中国と関係を持つことはなかったのか。
・清朝はこの地域の情報を把握していたのか。
(回答)
・黎朝に帰属している集団が清朝に帰順しようとする事例があったかどうか不明だが、可能性としては考えられる。
・清朝から黎朝に大量の華人が流入していた時期であり、かつ黎朝における動乱の情報も清朝の地方官に伝わっていたため、その影響が及ばないように通交を管理しようとしていた。

●発言者3
(質問)
・藩臣の財政基盤は何か。地理的には交易があると思うが、農業もあるのか。
(回答)
・農耕と交易の双方がある。

●発言者4
(質問)
・諒山地域に鉱山はあったのか。
(回答)
・鉱山はあったが西北地域と比べると小規模だと思われる。

●発言者5
(質問)
・ベトナム国内の研究状況はどうか。
(回答)
・独立後まもない時期から、山岳地帯の少数民族のベトナム国家への取り込みという視点から調査がおこなわれてきた。現在も在地民の主体性や生存戦略を明らかにするという視座は弱い。

●発言者6
(質問)
・頻発する反乱の背景に王朝権力の締め付け以外の要素はあるか。
・兵と民の管轄が頻繁に承認されていた背景は何か。
・率礼社韋氏の管轄の削減の話があったが、その背景と結末はどうか。
(回答)
・大量の移民が流入する一方諒山地域には大規模な鉱山がなく、限られた資源をめぐる利害対立が反乱につながった可能性はある。
・動乱の発生により藩臣の立場も不安定となっており、黎鄭政権も税収確保のため藩臣の管轄を頻繁に確認していたと思われる。
・従来率礼社韋氏が管轄していた社を「内鎮」に組み込むということだが、「内鎮」が「諒山鎮官が直接管轄する地域」という解釈で間違っていなければ、諒山鎮官がより確実にそれらの各社からの税収を確保しようとしたのかもしれない。事件の結末は史料には残っていないが、おそらく管轄が減少したままだったのではないか。

●発言者7
(質問)
・『清実録』に韋福琯が殺された後に族人がまだ禄平州を管理しているという記述はあるが、このようなことはあり得たのか。
(回答)
・直接的な答えではないが、韋福某は屈舎社韋氏かもしれず、もしそうだとすれば屈舎社韋氏の内部で利害関係の対立があったかもしれない。


2017年度第2回関東例会(2017年10月28日)議事録

2017年10月28日(土)に開催されました、2017年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:石橋弘之(早稲田大学人間総合研究センター・招聘研究員)
コメンテーター:丸井雅子(上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科・教授)
報告題目「カンボジアにおける交易品の産地形成-カルダモン産地の開拓史再考」


コメンテーターのコメント
 本報告は博士論文の一部である。歴史学の方法で近現代の資料を検討し、フィールドワークで現在の人の記憶、慣習を広く検討した。堅実な調査と分析による実証的研究である。カルダモン産地は流動的な地域であり、様々な状況で、広くなったり、狭くなったりする。地域の総合的理解を目指して様々なトピックを展開した。時系列に沿った論述から全体史を構成し、個別の事象の深層を掘り下げた。
 北川香子氏は、カルダモン山脈西側、パイリンの興隆史の研究で、その独自の自治体制や、単純に中央と周縁の対立に還元できない視点を提示した。この視点と本報告の視点は通じる。
 カルダモンは、西側に向かってはパイリンを経由しタイと繋がり域外の需要に応える商品であり、一方で南に向かってはカンボジア王権への貢納品にもされた。カルダモン産地は、地域を跨ぐ多方向のネットワークをもっていた。本報告は、流通や消費を望んだ王権の視点とは異なり、生産地に立脚した成果を提示した。
 今後は多角的な情報から中心と周縁の関係を再考する研究が求められる。

報告者の回答
 博士論文の補足説明。カンボジア研究は、中央部を対象とする研究と、山岳森林地域を対象とする研究は別々に進められてきた傾向があり、双方の地域の関係は、中心と周縁の二項対立や政治的対立に還元されてきた。博士論文では、山岳森林地域を対象としつつも、中央部の研究も参照して、人々が地域間を移動し交流してきた歴史を描いた。

質疑応答
Q1-1.植民地統治下の村長や区長の行政職者は、中央から派遣された人か、地元の人か?
Q1-2. カルダモン産地の人と、植民地行政との間で、どのように通訳を行ったのか?
A1-1. 植民地期は、地元の人が主に担当した。独立後は中央から派遣された人も担当した。
A1-2.フランス人民族学者の調査時は、地元の言葉からクメール語へ翻訳した。その上で、クメール語からフランス語へ翻訳した。地元の人はタイ語も話した。

Q2-1. 現地の人が語った「私たちの領土」は、何を意味するのか?
Q2-2. 今後は18世紀以降を対象としたリードの研究に位置づける展開を考えているのか?
A2-1.「領土」が何を意味するかは未確認。自分たちが住む身近な地域のことと思われる。
A2-2. 本研究を、東南アジアの歴史研究の議論にどう位置づけるかは、今後の課題。

Q 3-1. カルダモンの中国語表記は?
Q 3-2. 伝承の為政者は、王権そのものを指すのか?
A3-1. 『真臘風土記』によると「荳蔲」。『考証 真臘風土記』によると「白豆蔲」。
A 3-2. 王権そのものなのか、代理人なのかは、さらに検討が必要。

Q4.開拓の伝承は、植民地支配の言説から影響を受けていると論じたいのか?
A.4 事実レベルと解釈レベルを区別する必要がある。事実レベルでは、さらに検証が必要。解釈レベルでは、植民地史観に基づく解釈を再考して、地域の歴史を理解しようとした。

Q5-1. 3つの地域を調査地とした理由は?
Q5-2. 行政の関与の地域差と、カルダモン生産量の規模は関連するか?
A5-1. 開拓者は古代アンコール地域から来たと解釈された伝承の出所となったTT区は、その解釈の妥当性を確かめる対象とした。その解釈を他地域にも一般化しうるのかを確かめる際に、カルダモンの名産地OS区、カルダモンの情報が少ないRC区も対象とした。
A5-2. 行政と旧体制の自治が併存したOS区は、相対的に、生産量は多い。

Q6 1830年代、カルダモンは、産地からどこへ流通したのか?
A6.タイのチャンタブリーへ流通するルートがあった。
Q7.メコン川を経由したカルダモンの流通は?
A7. 二次資料からは確認している。

Q8. カルダモンは塗り薬の原料か?現地の人の消費の仕方は?どんな漢方薬に使った?
A8.タイガーバームの類似品の原料になると聞く。食べ方は、果実を、煎じて飲む。葉や茎を酒のつまみや、スープの材料にする。中国では、広東省などで蒸留、瓶詰にされた。

Q9. 栽培技術の向上はあったのか?狩猟採集に適した栽培方法はあったのか?
Q9. 栽培技術の向上の有無は未確認。生育過程を見張るなど、最小限の手入れをした。

Q10. 「カルダモン山脈」の地名は、どのように名づけられたのか?もともとカルダモンが生育した地域に、何らかの価値を求める立場が、地名を与えたのか?
A10. 19世紀前半から20世紀中頃までの「カルダモン山脈」の地名が指す地理範囲の変遷を文書資料から整理すると、その地理範囲は、徐々に広がっていた。これは植民地期にカルダモンに商品価値が見出され、産地が広がった過程とも対応する。

Q11 解禁日は、カルダモンの植物の性質と、指導者の地位、どちらを重視して決めたのか?
A11両方。雨季に果実が成熟する時期に解禁日を定めた。複数のカルダモンの森が隣接する場合は、より早く果実が熟す森の持主は、その他の持主よりも社会的地位は高かった。

(文責:石橋弘之)


第2報告(15:45~17:45)
報告者:工藤裕子(立教大学アジア地域研究所 研究員)
題目:「オランダ領東インドへの日本製品輸出と華人流通網-20世紀初頭のジャワ市場におけるマッチを中心にー」
コメンテーター:陳来幸(兵庫県立大学経済学部 教授)


コメンテーターのコメント
 アジア各地では20世紀初頭に商会(中華総商会)の発足が広まったが、オランダ領東インドの華人は国籍問題や中華ナショナリズムなどを背景にいち早く反応し、域内華人の連携を推し進めた。一方、日本の中華総商会の有力華商のうち梅県からバタヴィアに移り、神戸に人材を派遣した複数の一族の存在が近年明らかにされてきた。本報告で挙げられたバタヴィアのマッチ貿易者はまさにこれらの一族であり、神戸とバタヴィアの結びつきを商業活動の側面から考察した点が評価できる。
質問
・報告者がこれまで研究していたスマランの福建系と、広東・客家系華人が活躍したバタヴィアでは背景がどのように異なり、またスラバヤはどう位置づけられるのか。日本マッチの中心的な市場であったスマランでは、どのようなルートでマッチが流通したのか。
・ジャワの市場はなぜ、スウェーデン製と日本製の分水嶺となったのか。マレー半島や海峡植民地との違いは植民地宗主国の政策によるものか。

報告者からの回答
 スマランでは福建系のアヘン専売請負商が貿易商へと転換して勢力を温存し、砂糖などの産物取引と併せてマッチも扱った。一方、バタヴィアでは旧来の福建系は私領地取得を通じて地主化し、客家系華人が貿易や流通に参入する余地が大きかったといえる。バタヴィアやスラバヤはヨーロッパ系商社の力も強く、スマランに比べて華商による貿易量は少ない。日本の商社は中部ジャワの流通を握るこれら福建系との提携を模索し、台湾籍民との関係もこの流れで捉えられる。このように経済面からみると、バタヴィアとスラバヤの客家系華人は活動の連動性があるのに対して、スマランは独自の商圏が存在していたと考えている。
 ジャワの市場が分水嶺になった理由は、輸送コストを含めたスウェーデン製と日本製の価格が僅差だったためであり、日本製はジャワとインド以西では価格競争力がなかった。植民地統治上の制度上の違いについては、ジャワ以外の地域について今後さらに調べる必要がある。

その他のコメンテーターからの質問
Q:第一次世界大戦期の前半に日本製マッチが減っているが、なぜなのか?
A:日本製が急増したのは、ヨーロッパとの航路が絶たれた1917年以降であり、それ以前の減少は原料調達面などの国内の要因と考えられる。

Q:ニーロップ社による商標登録について、日本で登録後にオランダ領東インドでも登録しなければなかったのか?
A:日本では登録された商標のみ輸出が認められたが、輸出先には効力は及ばず、改めて現地で商標登録をする必要があった。同社は、華商との対抗上、同一の商標を先願することで華商による輸入の排除を試み、華商側もそれまでは商標の権利に関する意識は低かった。

Q:スウェーデンの商標が1910年頃からローカルを意識し始めたのは、日本製との競合によるものなのか。
A:日本も同じ時期にローカルを意識した商標を投入し始めている。どちらが先か分からない。1910年頃は両者の競合が激しくなった時期であり、互いの人気商標を剽窃する行為もみられた。

その他の発言者
Q:スウェーデン製マッチの流通は誰が担っていたのか。
A:スウェーデン製はほぼ1社が製造を独占しており、英蘭系の商社数社に限定して販売代理権を与えていた。しかし、輸入後は華商の卸売業者、小売業者に依存していた。

Q:ライターはそう簡単にはマッチに代わらないのではないか。どれほど普及していたのか。また、ジャワ以外でも日本製マッチは衰退したのか。
A:ライターは日本製マッチ衰退のひとつの要因である。当初はドイツからの輸入品だったが、1910年代半ばから現地生産に移行し、地場産業として発展した。かなり安価に普及できたのではないかと推定している。ジャワ以外でも日本製マッチは衰退しており、1920年代半ば以降に日本製造業者がスウェーデン資本の傘下に入り、競合地への輸出が阻止されたことが大きい。

Q:インド向け日本製タイルの輸出でも、デザインの模倣などがみられる。実際にマッチ商標のデザインを企画していたのは誰なのか。
A:日本での初期の段階では、中国での市場を視野に華商が製造業者に対してデザインを指定していた。ジャワの独自商標の場合は、製造業者側から提案したものを販売者が選択した、または市場をよく知る販売者がデザインを指定した可能性がある。ワヤンの図柄などは、茶や綿布などの多様な商品にも利用されている。

Q:商標の印刷はどこで行われたのか。マッチ自体の製造や箱詰めなども日本で行われてから輸出されたのか。
A:印刷は日本で行われていた。各種報告でラベルの箱貼りの状態の悪さや本数のばらつきなども指摘されており、すべて完成した状態でジャワに輸入されていた。

Q:日本製とスウェーデン製の価格差はどのくらいだったのか。
A:価格差はわずかであったが、1箱当たりの本数が異なり、スウェーデン製は軸木が太く本数が少なかった。日本製は細軸のために本数が多いが、折れやすいなどの問題もあり、消費者も随時使い分けていた。スウェーデン製マッチが価格を下げると即座に影響が出たといわれる。

Q:日本製造業者の進出に対して華商からの反応はあったのか。
A:日本製マッチの最盛期となった第一次世界大戦後期以降、商標から「Made in Japan」の表記が減少する。これはスウェーデン製との類似性を打ち出すことや、日貨排斥を意識したものと考えられ、流通を担う華商が売り易い商品を投入する意向が日本側にもあったとみられる。

Q:神戸や香港に拠点を持っていた広東・客家系華人は、ジャワからは対価として何を輸出していたのか。
A:元々は中国貿易を行っており、生薬や香木などを輸出していた。送金網を張り巡らすことによって、ジャワと中国、香港、日本の間で決済網が構築されていたと考えられる。具体的な商品の循環については、今後さらに調査を進めたい。

(文責:工藤裕子)


2017年度第1回関東例会(2017年4月8日)議事録

2017年4月8日に開催されました、2017年度第1回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30) 
報告者:大久保翔平(東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻アジア史専門分野博士課程)
題目:「東南アジア島嶼部におけるアヘン消費の広まり―17世紀後半から18世紀半ばを中心に―」
コメンテーター:弘末雅士(立教大学文学部教授)

■コメント
 評価点。①明確な先行研究の総括と問題点の提示。②史料から具体的な描写を抜き出した、網羅的な議論の組み立て。③A・リードの設定する「商業の時代」後も華人を含む現地商人による東南アジア域内の交易が盛んであったことを示唆する議論。報告はアヘンの流通と消費における現地の動向を示した。
 質問。①現地王権によるアヘン制限の動機について。王権がアヘンを禁止したというのは建前で、実際には販売を独占し、利益を守ろうとする動きとは考えられないか。②ヨーロッパ系住民の動向に関して。19世紀には欧亜混血者がアヘンの売り子として否定的に言及されることがある。ヨーロッパ系住民によるアヘンへの眼差しはどんなものであったのか。

◇報告者の応答
①その可能性には検討の余地がある。一方、統計的にはそれまでアヘンが制限されていた地域で18世紀半ばまでにアヘン貿易が拡大している。特に、バンテン王国のスルタンはアヘンを重要な税収源とするようになった。
②現時点では、ヨーロッパ系住民が利益をもたらす商品と見ていたことを指摘できる。また、1720年代、バタヴィアのアヘン密輸でもヨーロッパ系女性が関与したという事例がある。

■フロアからの質疑と応答
質問1 C・トロツキの華人移民労働者がアヘンを消費したという議論とはどう関係するのか。
回答1 報告者が重視するのは、トロツキの述べた事象が、それ以前から華人や現地人の鉱山夫や胡椒・サトウキビ農園労働者の事例で観察できるという点である。これはトロツキやリードが重視する要素が、それ以前からあったことを示す。

質問2 コメント。少なくとも18世紀後半、バンテン王権に利益を独占する意図があったとは考えにくい。アヘンに限らず独占を強行すれば、反乱を免れないほど王権は弱体化していた。アヘン流通を徴税請負で認め、財政基盤強化に用いざるを得なかったのではないか。
 また、アヘン購入には現金が用いられるため、東南アジア現地商人の購買力を示す重要な指標と見なせる。会社史料では捉えられない、現地の現金収入に結びついた経済活動をどれだけ示せるかが今後の研究の鍵となる。

質問3 19世紀にはジャワ島中東部がアヘン消費の中心となった。報告ではバタヴィア周辺とジャワ島北東岸の2地点が大きな消費地として指摘されていたが、両者の流通、消費にはどのような関連が考えられるか。
回答3 両地点を結ぶアヘン流通に関連があったと考えている。また、J・ラッシュによれば、華人とジャワ人の間ではアヘン消費の仕方に大きな違いがあった。前者は一人当たりの消費量が多い。後者は少ないが、アヘンを日常的に摂取していた。アヘン消費地の変遷が、プランテーション開発の変遷と関連している可能性は指摘しておきたい。

質問4 なぜフィリピン諸島を分析対象としないのか。
回答4 管見の限り、今回、フィリピン諸島でのアヘンの情報は出てこなかった。

質問5 短い質問の連続。①徴税請負という用語は適切か。②1680年を起点とする妥当性について。③報告者が東南アジア島嶼部における支払い手段として重視する綿布とアヘンであるが、その違いをどう捉えているのか。 
回答5 ①専売請負や販売請負といった訳語を当てる方が適切かもしれない。②必ずしも1680年代を起点とは捉えていない。記述史料が示すアヘン依存といった事象が17世紀後半になって散見されるようになるということを重視している。③今後の課題とする。

質問6 バタヴィアやスマラン、スラバヤから中国への再輸出も考えられるのではないか。
回答6 諸研究によれば、マカオや広東をはじめ中国へのアヘン流入が拡大したのは、早くとも1760年代であり、それ以前にジャワ島からの再輸出が盛んであったと考えていない。


第2報告(15:45~17:45)
報告者:川島緑(上智大学総合グローバル学部教授)
題目:「19世紀初頭東南アジアのイスラーム・ネットワークのなかのミンダナオ ―写本と口承からみるサイイドナー・ムハンマド・サイドの旅―」
コメンテーター:太田淳(慶應義塾大学経済学部准教授)


コメント(太田淳氏)
 本研究の最大の意義は、現地の個人所蔵一次資料を発掘し、そのテキストに基づいて、近代以前の東南アジアと中東のつながりについて、ヨーロッパ人が語らない部分を明らかにし、ヨーロッパ人の見方とは異なる見方を示した点にある。この分野の基本書、アジュマルディ・アズラ著『東南アジアにおけるイスラーム改革主義の起源』もフィリピンのウラマーには触れておらず、この点を補うという点でも重要である。
 この学者の旅の経路が、ミンダナオ出身商業軍事集団イラヌンのネットワークと重なるという指摘が興味深い。これは、商業のネットワークとイスラームの知のネットワークが別個に存在したのではなく、このネットワークが多目的であり、学者もこのネットワークを使って移動したことを示している
 この学者に関する口承にリンガのスルタンやジョホールなどが登場し、マレー世界の中心としての権威が重要視されている点も興味深い。報告者はこの学者の子孫が、一族の権威づけのためにマレー世界の中心部との関係を利用したと論じた。この点に関しては、国王の側にも、高名なウラマーを手元にひきつける利点があったことを指摘しておきたい。ウラマーやイスラーム聖者との関係を取り結び、それを通じて王の権威を高めようとしたのである。18世紀バンテン王国にもそのような事例がある。
 この報告のもとになった論文において、報告者は、この学者が旅を通じてbroader identityを形成したと論じている。18世紀末西カリマンタンでも、この地にやってきた様々な人々がMelayuと呼ばれ、新たなアイデンティティが形成された。このようなアイデンティティの変化の要因は何であると考えるか。

(質疑応答)
1.太田氏の質問への回答:旅を通じて、母語のマギンダナオ語とは異なる言葉を話す人々と出会い、彼らとの対比により、ミンダナオ出身者というアイデンティティを形成したと考える。
2.他の質問と回答(抜粋):
質問:マラナオ社会では「高貴な血筋」の観念が重要ということだが、この観念はマレー世界における系譜観念や、メッカを中心とするイスラーム世界の秩序原理とどのような関係にあるのか。
回答:マラナオ支配者層は、ミンダナオへの初期伝道者カブンスワンとの系譜関係を社会的権威の源泉としている。カブンスワンは母方にジョホール王族、父方にアラブ人伝道者との系譜関係を持ち、父方系譜を通じて預言者ムハンマドに連なるとされる。従って、マラナオ社会の支配原理はマレー世界の系譜観念と整合性があり、イスラーム世界の中心とのつながりも正当化している。
質問:この学者のメッカでの師の名前はわかっているか。当時のミンダナオには、この学者のような人物がどの程度いたのか。
回答:師の名前は不明である。他には、18世紀末アチェでイスラーム写本を著わしたミンダナオ出身イスラーム学者がいたが、それ以外は知られていない。
質問:この学者の学問傾向をどのようにとらえるか。
回答:著作から、存在一性論などなどの神秘主義思想を中心とするととらえている。
質問:この学者を通じてラナオ地方と中東をつなぐイスラーム・ネットワークが形成されたにもかかわらず、その後は20世紀初頭まで、この地域と中東との交流が停滞したのはなぜか。
回答:19世紀半ばから末にかけて、ヨーロッパ人はミンダナオ出身ムスリムの商業軍事活動の拠点を攻撃し破壊した。スペインはミンダナオのムスリム地域に支配拠点を築き、統制を強めた。そのため、中東との交流が停滞したと考える。
(文責 川島緑)
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