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2018年度第5回関東例会(2019年1月26日)議事録

2019年1月26日に開催されました、2018年度第5回関東例会の議事録を掲載いたします。

第一報告(13:30~15:30)
報告者:水野明日香氏(亜細亜大学経済学部)
コメンテータ:根本敬氏(上智大学)

報告題目:「日本占領下のビルマにおける産米増産計画」

コメンテーターによるコメント
報告の学術的貢献は、(1)ビルマ国立公文書館(NAD)所蔵資料を積極的に活用した点、(2)日本占領期にバモオ政権は日本軍に対し「抵抗と協力のはざま」に立った対応を行ったが、その中の土地・農業政策に関する具体的な考察が行われた点、(3)独立ビルマの土地・農業政策との連続性を指摘した点、(4)この時期におけるビルマ共産党の影響力の強さと、同党と社会党との確執が戦後のビルマ政治と経済に与えたマイナスの影響を改めて具体的に指摘している点である。その上で、報告者の先行研究のまとめ方について、次の2点をコメントする。(1)テイラーが日本の占領期から1962年の軍事クーデターまでを1つの「時代」とみなしたのは、この時期には、反英ナショナリズムを軸とした様々な「政治プレーヤー」の活動をコントロールできる存在がなくなったことによる。(2)「断絶」か「連続」かという見方ではなく、1937年4月ビルマ統治法体制→日本占領期→独立期→ビルマ式社会主義期までをつなげて考察し、その上で何が連続し、何が断絶したのかを見極める必要がある。そうしない限り、より深みのある日本占領期の位置づけは行えない。

コメンテーターからの質問
①小作人との紛争調停の問題については、時間の幅を英領後半まで前倒しして見ていく必要があるのではないか。イギリスには、小作料調停に関する資料が残されている。
②産米増産計画に関し、必要な籾の量を1人あたりの年間消費量14バスケット(291.2kg)、精米換算で約200kgになるので、「過剰であった」と述べているが、この数値は1999-2001年の統計におけるビルマ国民の一人当たりの消費量(3.7合前後)と同等であり、過剰であるとは言えないのではないか。
③産米増産計画は日本への戦争協力の一つとして実施されたとされるが、河邊日記では「ビルマ政府が産米増産計画を日本側に一言の相談もなく発表したことに対し、駐在陸軍武官少将の磯村武亮が憤慨した」旨記載されているが、このこととのつじつまが報告ではいまひとつ説明されていないので、より詳しく解釈を示してほしい。
④ 報告中に「ビルマ防衛法第81条2項」とあるが、これはどのような法律か。

報告者からの回答
 先行研究のまとめ方については再考する。質問①については、同意する。英領期の小作争議と戦後の争議は性質が異なると感じている。ご教示いただいた資料は参照してみる。②については、納得した。③について。計画自体は協力事項でも、アッサムへの侵攻について触れた部分もあり、ビルマ政府の発表がフライングだったのではないか。また計画の具体的な内容は、日本軍が合意できるものではなかった。④については、実は調べがつかなかった。再度、資料中の原語を確認して調べてみる。なお②については、フロアからもビルマ政府は、近年に至るまで一人当たり消費量は14バスケットとしている、それは米粉緬などの消費も含まれるためであるとの補足がなされた。

フロアからの質問、コメント
Q:「農業委員会」の設置は日本より早いのか。また「農地管理令」等の日本の法律や政策との比較をより丁寧にやるべき。これを試みた研究があるので、それを参照するように。
A: 調べてみる。

Q: 種籾が1エーカーあたり1.6バスケットの根拠は何か。もっと多い。
A: 分からない。調べてみる。

Q: 形だけでもこのような史料が残っているのは珍しい。「独立」していなければ存在しない。産米増産計画は、マラヤなど近隣への米の輸出は考えていなかったのか。
A: 近隣への米の輸出は書かれていない。

Q: 米作に関して、日本の技術指導はあったのか。
A: そのようなことを書いた資料は見たことがない。

Q: 土地改革について、ビルマ共産党はモデルを外に求めたりしたのか?将来的には、農業集団化につなげる、その前段階と捉えていたのか。
A: ビルマ共産党は、インド共産党の指導で作られた。農業集団化はおそらく考えていなかった。

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第二報告(15:45~17:45)
報告者:都築一子氏(NPOシニアボランティア経験を活かす会)
コメンテータ:原不二夫氏(アジア経済研究所:名誉研究員)

報告題目:「英領北ボルネオにおける1890年代の日本人移民―南繁蔵の組合伐採事業を中心として―」

原不二夫先生のコメント
一 先行研究者が知ることのできなかったこと,見落としたことを文献のみならず現地調査で発掘した。例えば,
1. 『殖民協会報告』第14号,明治27(1894)年6月23日,p.64「英領印度ニ於ル本邦人ノ事業」に,南繁蔵の「ボリテニオー」渡航が「英領印度」渡航として掲載されていたこと。
2. 1893年の「旅券下付表(渡航目的地北ボルネオ)」になかった移民が,実はオーストラリアを目指した者だったこと。多くが南の隣人だったらしいこと。
3. 大井憲太郎も北ボルネオ入植計画をしていたこと。
4. 南と「小倉幸」移民会社とのつながり。
5. 約10年間の「北ボルネオ渡航目的の旅券下付」が途絶えた原因を明らかにした。

二 さらに説明して欲しいこと
1. 条約改正と日本人移民はどう関わるのか
明治中期の条約改正交渉の末端に,1894年4月の在香港中川一等領事の北ボルネオ調査が繋がっている。ロシアの南下により,日本を障壁にしようとするイギリスの政策で条約改正は進捗しはじめていたが,困難点は国外よりも国民の反対にあった。陸奥宗光外相は,条約改正の成功以外には人心を鎮定することができないと強調して対英交渉を督励した。このような背景で在ドイツ青木公使が1893年11月7日付「イギリス北ボルネオ会社領有地」購入案件の公電を陸奥に打った。1892年クレー総督は帰任途中に同船した鮫島武之助元ローマ公使代理に日本人移民の導入に関して相談した。これが発端となり,1893年12月27日付の北ボルネオ政庁の公式な移民送出し照会へと続いた。外務省は,1894年2月23日付で中川領事に「購入案件」・「移民」調査の内訓をした。日英条約改正交渉に資するものなれば購入を提言するという大役を背負っていたからこそ,イギリス側の意向,及び日本の植民地としての可能性と移民に関する深刻な調査を行った。

2. 1909年に視察した染谷領事は,なぜ1890年代初頭の移民の存在を無視したのか
通商局長萩原守一から在バタビヤ染谷領事に「ボルネオ企業会新設願出ニ付同島事情取締ニ関スル件」1909年3月10日付送第10号が出された。その中には「明治26(1893)年頃本邦政府に買収を願出たることも有り。香港在勤中川領事が視察した後は今日に至るまで何等関係も不相生」とある。このことから記録に残さないための配慮だと考察する。

フロアからの質問1:45名のスキャンダル記事
中外商業新報(明治28年6月8日付)のスキャンダル記事は,香港領事館に提出した25名の救済願届と全く内容が異なっているので事実に反したものである。新聞は読者の関心を惹いて販売数を増やすために,故意に事実に反した記事を書くことがある。外務省の担当官は多種類の新聞を読み情報を常に収集していた。そのような情報収集で得られた当該スキャンダル記事を添付して通商局長は兵庫県知事に事実確認の照会を出した。

フロアからの質問2:1894年は移民史の中で転換期だったという報告があったが,どのように引用資料として使用できるのか
1894年4月に「移民保護規則」が公布された。岩本千綱のシャム入植計画・南の事業計画は,同規則の公布前から始まっている。公布前には違法でなかった移民募集が,公布後には違法になった。南の場合は,公布されたことを知らずに移民募集をして違反になったが,その後,「小倉幸」移民会社の移民取扱人代理人認可が出された。南の事例は、同規則に従って処理されていることを証明している。

(文責 都築一子)

2018年度第4回関東例会(11月17日)議事録

11月17日(土)に行われました,2018年度第4回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:茅根由佳( 京都大学東南アジア地域研究研究所 )
題目: 現代インドネシアにおけるシーア派排斥運動の起源と展開
コメンテーター: 横田貴之(明治大学・准教授)


■横田貴之先生のコメント
中東諸国では2011年のアラブの春以降、イスラーム主義は役割を終えたと捉えられる傾向にあり、それに伴ってイスラーム主義研究も退潮している。他方で、インドネシアでは近年になってイスラーム主義運動が盛り上がりを見せている点が特徴的である。報告では従来穏健とされてきたナフダトゥル・ウラマー(NU)のメンバーによるシーア派排斥運動に焦点を当て、同国のイスラーム主義の展開を検討した。
湾岸諸国、とくにサウディアラビアでは1979年のイラン革命以降、国策として反イラン、反シーア派の言説が拡散されてきた。同国の反シーア派言説の政治的利用は、イブン・タイミーヤやムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの思想を端緒とする。近年では、イラクのザルカウィ・グループやISISも類似の言説を利用している。それではインドネシアの反シーア派の言説は一体どこから来たのか?
報告では、近年のインドネシアにおけるシーア派排斥運動の担い手として、サウディアラビアのウラマー、ムハンマド・アラウィ・アル・マリキに系譜を持つNU内の勢力(マリキの弟子たちと「NU正統派」)について分析した。マリキはワッハーブ派が主流派のサウディアラビアにおいて、スーフィーとして異端視され迫害された極めて珍しい存在であった。マリキ自身は、異なる考え方を異端視して否定するワッハーブ主義に批判的立場を示してきた。興味深いのは一体なぜ、異端と見なされたマリキの元に多くのNUの人々が集まり、なぜ彼らの中からワッハーブ主義と類似の反シーア派言説を利用するものが現れるようになったのかという点にある。
質問は、(1)インドネシアにおけるシーア派の実態や政治的位置付けについて、(2)シーア派排斥運動を担うNU正統派の目的、(3)イスラーム主義におけるNU正統派の位置付けに関するものであった。

報告者の回答
(1) インドネシアのシーア派はハドラマウト出身で預言者の子孫を名乗るアラブ系インドネシア人(サイイド、ハバイブ)が担ってきたが、1979年のイラン革命以降には非アラブ系の人々も数多くシーア派に転向した。国内の政治的立場としては、一部がシーア派を擁護する穏健派組織ないし世俗ナショナリスト系政党との同盟関係を強めてきた。例えば与党闘争民主党からはシーア派知識人であるジャラルディン・ラフマットが2014年に出馬、当選を果たしている。
(2) NU正統派はマリキの弟子たちの第二世代にあたる宗教指導者たちであり、民主化後、NU内の権力闘争で指導部参入を狙って台頭した。近年では、国政レベルでのシャリーアに基づく(イスラーム共同体のための)統治を目指し、影響力行使を図っている。
(3) インドネシアにおけるイスラーム主義は、1960年代以降サウディアラビアと緊密なネットワークを築いてきたナッシール(元首相・マシュミ党党首)やエジプトのムスリム同胞団に影響を受けた学生運動によって担われてきた。NUに関してはイスラーム主義を批判してきた穏健派指導者の役割が強調される一方で、NU正統派など組織内のイスラーム主義の存在は等閑視されてきた。NU正統派は伝統的法学派の権威や預言者ムハンマドの誕生祭などの慣習を重視する一方で、「異端」や「逸脱」に関しては極めて厳格な解釈をとる点でサラフィー主義への近親性を自認する。

●フロアからの質問(抜粋)
・NU正統派はどのような階層から支持を受けているのか?
(回答)支持者は貧困層から富裕層までおり極めて幅広い。特定の階層ではなく、既得権層批判を消費するソーシャルメディアユーザーを主なターゲットとしている。
・なぜ2010年代以降にシーア派排斥運動が増加したか?
(回答)シーア派排斥運動は1998年の民主化以降増加傾向にあるものの、2010年代に増加した背景には、中東情勢における宗派対立の加熱という国際要因に加えて、インドネシアにおいてイスラーム主義勢力が直接選挙や司法制度の有用性を学習したためであると考えられる。
・スハルト体制期に国家はシーア派をどのように捉えていたのか?また、同時期における異端と正統をめぐる議論はどう位置付けられるのか?
(回答)スハルト体制期に宗教省の管轄下にあったインドネシアウラマー評議会は、イランとの外交関係に配慮してシーア派を異端と認定せず、宗教活動も禁止しなかった。現在のインドネシア政府も同様の立場をとる。スハルト期のシーア派に関する異端と正統をめぐる議論は主に、出版や討論を利用した知的活動によって展開されてきた。民主化後、「多数派」が政治的影響力の源泉になると認識されるようになり、少数の「異端」排斥をアジェンダとする大衆動員や扇動を伴う運動に発展した。

☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:山本博之(京都大学東南アジア地域研究研究所)
題目:二重写しの国民的英雄――マレーシアの映画が描くハントゥアの正義・公正観
コメンテーター:弘末雅士(立教大学・名誉教授)


■弘末雅士先生のコメント
 演劇、映画、テレビドラマ等を社会史研究の資料にすることには二つの重要性がある。1950年のインドネシアの識字率は約10%で、人々は新聞よりも物語や演劇を通じて情報を共有していた。我々歴史学者は文字資料でナショナリズムや国民統合を研究しているが、文字資料の多くは宗教やエスニシティごとに刊行されるため、宗教やエスニシティが違う人々と日常で付き合う人々が実際に社会統合をどう考えていたかは文字資料ではでてこない。そういう中、演劇や映画には様々なエスニシティや宗教の人の交わりを題材にしたものがでてきており、活用すべき資料だと思う。
 演劇と言えば、インドネシアでは19世紀終わりにコメディ・スタンブルが流行った。インドネシアの演劇ではニャイの物語が人気で国民的英雄は出てこなかった。マレーシアで国民的英雄のハントゥアが演劇に出てきたのは興味深い。報告で紹介された映画の原典にあたるヒカヤット・ハントゥアは、スーフィズムの考え方がよく出ていて、スジャラ・ムラユと並ぶマレー語文学の二大傑作である。原典について大事なのは、スルタンすなわち支配者の物語ではなく、被支配者から見て支配者がどうあるべきかがテーマになっていること。そういう語りの伝統を引き継いできたマレー人の間で独立後もハントゥアとハンジュバをテーマにした物語が様々なメディアに常に出てくることが面白いし、1950年代の社会主義が盛んな頃にハンジュバを社会主義的反逆と読み替えた作品が出てくるのは現代のスーフィズムを思わせて興味深い。演劇や映画は人々の具体的な思いや営みといった文字資料から見えないものが見える媒体で、解釈にリテラシーが求められるという問題はあるが、社会史研究の非常に重要な資料だと改めて考えた。

■報告者の応答
 演劇の重要性は、観客が見て理解しやすいことに加え、自分で演じて内面化していくこともある。ハントゥアの物語はマレーシア各地の学校の演劇クラブで演じられており、資料があれば調べてみたい。ニャイの話と関連して、バンサワン演劇でハントゥアの物語が演じられる際に恋愛の物語になったことは一度もなかった。女性が出てくることがあっても、ハントゥアが女性をスルタンに差し出すことで男同士の絆を強める物語として登場した。1956年の映画でハントゥア物語に男女の恋愛要素が入るようになった。ナショナリズムと映画の関係については、きちんと調べてはいないが、東南アジア各国で地元の映画制作会社ができた時期と、全国的なナショナリズム運動の組織ができた時期とが大体重なるという印象があり、ナショナリズム運動の展開と映画の商業的な展開の重なりについても今後考えてみたい。

■質疑応答(抜粋)
質問:マレー人がクリスを掲げたときに華人は自分たちが攻撃されていると感じたのはなぜか。ハントゥアが国民的英雄であるならマレーシア華人にとっても自分たちの英雄であり、ハントゥアの象徴であるクリスが掲げられたら自分たちも守られると考えるのではないか。
回答:クリスを掲げたのがマレー人政党UMNOの大会だったため。クリスを掲げた政治家は日頃から危なかしい言動をする人ではあったが、マレー人の利益のために挑発的なことをあえて言うのがUMNO青年部長の役割だと考えた面もあったと思う。いずれにしろ、クリスが掲げられたのがマレー人の利益を守る政党の大会で、華人はその政党の庇護の対象外なので、華人は自分たちが攻撃の対象だと感じた。
質問:ハントゥアを引き合いに出すとハンジュバのイメージが出てしまうという二重写しの混乱に関連して、1956年の映画でハンジュバとメルーが犠牲になるのは作劇上ハントゥアの魅力を際立たせる仕掛けだと思うが、観客がハンジュバに親近感を持ってしまうことをどう考えるか。ハントゥアが情のない人に見えてしまう要因は、原典と現代的な展開のどちらにあるか。
回答:現代的なアレンジが大きいのではないかと思う。1956年の映画を監督したインド人がインドの物語を注入した影響があるかもしれない。映画の制作当時、監督がインド的な要素を入れすぎたためにマレー的な物語でなくなったという批判があった。ただしどの部分がインド的かについて資料的な裏付けがなく憶測の域を出ない。なお、死ぬという意味で犠牲になったのはハンジュバとメルーだが、犠牲の意味を広くとると、ハントゥアに騙された形でスルタンに嫁いだトゥンテジャもハントゥアを好きになって犠牲になった人物で、マレーシアではトゥンテジャへの仕打ちを一番ひどいと言う人が多い。
質問:UMNOでなく野党がハントゥアの物語を使うことはあるか。
回答:UMNOほど体系的ではないが、ハントゥアとハンジュバの物語を使っていた。例えば、旧野党のアヌアル・イブラヒムは、1962年の『ハンジュバ』という映画と自分を重ねて、ハンジュバが訴えた正義・公正(keadilan)とアヌアルが結成した国民公正党(Parti Keadilan Nasional)が繋がっているという見せ方をした。
(文責:光成歩)

10月27日(土)に行われました、2018年度第3回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告(13:30~15:30)
報告者:高田知仁会員(サイアム大学日本語コミュニケーション学科学科長、タイ日文化研究センター長)
題目: タイの寺院螺鈿扉に見るモチーフ・文様・表現技法の変遷とその歴史的意味
コメンテーター:小池富雄(鶴見大学文学部文化財学科・教授)

小池先生のコメント
 現在まで、タイの螺鈿工芸についてほとんど何もわかっていない。したがって今回の研究では、螺鈿扉に描かれた文様のブッダの象徴・梵天・帝釈天の意味上の解釈と言ったモチーフ解釈を含め極めて先駆的な研究であると言える。タイの螺鈿作品が、威信財として王権を表するものだったことは日本での螺鈿工芸の立場とも重なる点で興味深い。
 日本でも貝の使用は古い歴史とともに交易についても指摘することができる。特に17世紀頃からの琉球・中国との交易のほか、タイとの交易も注目できる。実際京都の民家からタイ産と見られる漆も発掘され、安土桃山時代の建築ラッシュを支えていたと見られる。こういった交易上に立つ貝文化と言った点からも、今後焦点が当てられて然るべき分野である。
 タイの螺鈿の起源がわかっていない点については、今後考古学発掘調査によって、わずかな断片でも発見されれば、分析科学によって解き明かされる可能性がある。実際30年前は琉球の螺鈿文化は認められていなかったが、その後の地道な発掘調査によって、今では琉球の螺鈿文化が認められている。タイでも分析科学の力を借りつつ文献研究や技法の研究が進むことを期待する。
 また、日本・タイ・カンボジア・ミャンマーといった地域の漆器との比較研究によって、交易の実態も含め、技法の関係性も解き明かされることが期待される。技法的には、いかに貝を切るか、いい色を出すかと言った技術を解明していかなければならない。

質疑応答
質問1: 螺鈿扉の数と分布域はどの様になっているのか。
回答: アユタヤ周辺とバンコクの寺院にあったが、現在多くがバンコクにある。一番北に位置するものでは、ピサヌローク県に現存例がある。チェンマイにも仏足があるが、これはアユタヤの職人によって制作されたと推測される。数量的には、第1期が最も多く、アユタヤ時代のものだけでも7対を数える他、経厨子などへの転用例も散見される。ラーマ1世時代のものはさらに多い。

質問2: 螺鈿に関する古い史料はどんなものがあるか。
回答: ターシャルの著した『シャム渡航記』には、王室船の船首に螺鈿の装飾があったことが書かれている。『カムハイガーン・クンルワンワットプラドゥーソンタム』や、『三印法典』にも螺鈿職人や螺鈿扉の建立について書かれている。

質問3: ラオスでは漆と土を混ぜる例があるが、タイの場合はどうか。
回答: 現在はココナッツの炭粉を混ぜるが、文献では、バナナの葉やチガヤを焼いた炭や煤が出てくる。伝世作品においてどのような素材が混入されたのかは、今後の課題としたい。

質問4: トライプームやデーヴァラージャといった思想のほかにパンヤースジャータカや、ミャンマーの経典、特に後者は1750年頃の成立だが、関連性はどうか。
回答: 未見であり、是非参照したい。

質問6: 螺鈿工芸の起源としてタイに渡った日本人町の居住者は考えられないか。
回答: 江戸幕府の海外渡航禁止令で新たな日本人の移入が絶え、混血が進んだ。タイに渡った人の中に螺鈿職人がいなかったとは言い切れないが、世代的に降り、また異なった技法であるため、日本の技法が伝えられたというには無理がある。

質問9: 第2期には華僑の3世4世が職人となっていたというが、どういうことか。
回答: タークシン王時代の移民を想定できる。作品は中国的な要素も強いが、タイ伝統的な技法の上に新たな技法が導入され、その受容にも差が見られることから、タイ生まれの華僑が関わっていたと想定できる。

質問10: 第1期の作品が国王の権威を示していることは想定できないか。
回答: ビシュヌ像を国王の象徴としてあげている説があるが、むしろ人間界を象徴するととりたい。


☆第2報告(15:45~17:45)
報告者:片岡樹会員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
題目:日本宗教史モデルは東南アジア宗教の説明にどこまで使えるか―顕密論から見たタイ宗教論の試み―
コメンテーター:中西裕二(日本女子大学人間社会学部文化学科・教授)

■中西裕二先生のコメント
 本発表は、単純に顕密仏教をタイに当てはめたものではなく、タイにおける神仏の関係を、「顕密」という考え方で捉え直そうとする試みである。黒田が唱えた顕密体制論は、仏教と神祇祭祀は対立していたのではなく、仏教という共通前提の上に競合関係を構築していたと指摘するものである。このような関係性は明治期の神仏分離で崩壊したとされているが、日本国内で調査を行なって来た立場としては、依然として日本社会では根強く存在していると感じている。
 発表のポイントは、日本とタイにおける「異なる近代」のあり方である。日本は明治期、神仏を切り離すことで関係をリニューアルしたが、タイにおいては依然として習合したままとなっていることは興味深い。ただ、神と仏の関係性は描くことが難しく、自分も含め今後とも模索していく必要がある。

■質疑応答(抜粋)
発言1
・一口に顕密論というが、範囲が広く、具体的に何に焦点を当てているのか曖昧。顕密体制の終了時期をいつととらえるか。神仏習合の存続という点からは明治維新まで継続しているが、政教関係という意味では信長の叡山焼き討ちで終了している。どちらの顕密を意識しているのか、認識にブレがないかどうか。
(回答)「顕密」という枠組を用いる際、自分の説明にズレがあるのは事実。今後整理していきたい。

発言2
・大乗仏教と同様に、上座仏教にも雑多性・混沌性があるのではないか。タイの神仏習合は理論武装を欠いているというが、梵天や帝釈天を仏教的世界観の枠組内で整序するような理論化はあるのではないか。
(回答)大乗仏教に限らず、その周囲全体もハイブリッド化していると考えている。上座仏教においても外部価値観の取り込みは行われており、理論武装も一部ながら確認できる。

発言3
・発表タイトルには「東南アジア」が含まれているが、内容は仏教が中心。顕密体制的な政教関係が存在するとして、キリスト教徒やムスリムは顕密体制の傘下に組み込まれることになるのか。また東南アジアの他の国の事情はどう説明するか。
(回答)タイ国内では仏教教団に対する王法仏法相依論にもとづく相互依存関係のモデルがそのまま他宗教にも適用され、国王が仏教教団を保護するのと同じ論理で他宗教の保護も行っている。ただしここで提示するタイ国のモデルが、他地域に適用可能かについては議論の余地がある。たとえばミャンマーでは聖俗ないし僧俗の線引きの論理がタイ国と大きく異なるので、単純な比較は難しい。

発言4
・タイには様々な民族がいるが、これはタイの宗教事情にどのような影響を与えているのか。
(回答)大乗仏教に関しては、ベトナム系寺院・華人系寺院が存在しているが、それは開祖の出身地と経典の使用言語を示すもので、今日のエスニシティーには何ら関係がない。たとえばベトナム系寺院の僧侶がベトナム人である必然性は皆無である。一方、上座仏教に関してはサンガ統一以前、それぞれの民族性を反映させたサンガが存在していた。

発言5
・顕密体制が成り立つための条件を考えている。やはり稲作農耕による定住度の高い社会の成立が、荘園制度に基づく寺社勢力の全国的系列化を可能にしたのではないか。
(回答)稲作農耕という視点は、日本とタイの類似点よりは差異を説明する。土地が希少資源だった日本では土地の支配権の安堵によって権力のヒエラルキーが成立していた。しかし人間が希少資源だった東南アジアでは、支配地の拡大ではなく王都周辺に人口を集中させることで国家形成が進められた。

(文責:片岡樹)


2018年度第2回関東例会(5月19日)議事録

5月19日(土)に行われました,2018年度第2回関東例会の議事録を掲載いたします。

☆第1報告
報告者:池田昌弘(神戸大学大学院経済学研究科・博士後期課程) 
題目:20世紀初頭ベトナム南部における食糧問題と政府の対応:1911~12年の価格高騰と地域内米流通
コメンテーター:髙田洋子(敬愛大学国際学部・教授)


●髙田洋子先生のコメント(抜粋)
・「市場と国家」という点から植民政策と現地への影響を検証した報告として,1911〜12年に起こった食糧問題を期間分けした上で論証した点,そして1900年代の地域内消費動向を踏まえて説明した点で分かりやすい構成であった。また,該当年はこれまで主要とされてきた資料,著書からは接近されていない年であり,新たな資料を使用した点でも興味深い内容である。
・今回の報告では植民地政府側の資料をもとに議論が展開されていたが,実際の地域内における動きに接近する必要がある。生産不振といえども,開拓途上にあるこの年代では気象条件だけでなく,土地開発・運河建設による水系変化といった人為的な被害も当時は多く見られた現象であった。こうした開発途上にある中での地域内の動きを踏まえた議論展開を行い,さらには2年間という期間からさらに拡張した議論へ発展させるべきである。また,流通主体となる商人については,地主でありかつ商業にも進出した,土着化した華人の存在を見過ごしてはいけない。彼らがどのような動きを実際していたのかについては,政府や現地生産者の動きに注目した今回の報告に加えて非常に重要な位置を占めているはずである。近年では,2008年にベトナム政府が米輸出に制限をかけたことが挙げられるが,その背景には華僑・華人の買い占めという重大な動きが見られている。彼らの動きについても,より主体的に議論するべきである。
・質問:(1)植民地政府が域内に介入を見せたのは,この年が初めてであったのか,(2)報告では地主と小作人に注目していたが,当時は自作農も非常に多かった。彼らの存在は報告でどのような位置づけとなっているのか,(3)政府のこうした介入がその後の展開に与えた影響はどうか。

●報告者の回答
(1)省レベルでの介入は以前にも見られた事例がある。一方でコーチシナという地域レベル介入が行われたのは,当時の省行政官の報告では植民地史上初めてであると記述されている。
(2)確かに当時の生産主体として自作農は大きな割合を占めている。ただし,自作農でありながら一部の土地を借りて小作人として生産活動を行うものも存在しており,自作農と小作人を完全に分離して考察することは困難であると考える。そのために報告では自作農への言及が埋没してしまっている。こうした点を念頭に置き,再構成したうえでまとまった議論に今後発展させていきたい。
(3)現状では1900年〜第一次大戦期途中までしか政府関連の資料を手にしていない。今後資料収集を踏まえ,後の時代への影響については考察すべき課題だと考えている。

●フロアからの質問・コメント(抜粋)
(質問者1)報告では2度の輸出禁止がみられ,それぞれ異なった要因が存在しているように見受けられる。2度目については,地域内の生産要因が効いていると思われるが,当時の生産状況は実際どうだったのか。
(回答1)不作であったことまでは資料から接近できているが,収穫中に起こった措置でもあるので,コーチシナでの収穫時期のズレや品種等も議論に取り入れながらさらに細かい状況を今後資料より検出していきたい。

(質問者2)報告では地域内での食糧消費について,1900年代の状況と1911〜12年と,2段構成をとっていた。これらの年代でどのような違いがあり,それらがどう変化していったのか。
(回答2)後者の年代に起こった出来事を強調するため,このような報告構成をとったがこれら2つの年代は連続したものであると捉えている。つまり,地域内で形成される地域内消費の構造の特徴が1900年代には機能していたものの,1911〜12年にはこの時期に起こった諸現象のもと機能しなくなった,と考えている。

(文責)池田昌弘


☆第2報告
報告者:小泉佑介(上智大学アジア文化研究所・共同研究所員)
題目「インドネシアにおける人口センサス個票データの利用可能性」
コメンテーター:長津一史(東洋大学・准教授)


■ 長津一史先生からのコメント
今回の報告は、全体として、民族の定義に関する議論には踏み込まず、クロス集計による分析方法の可能性を提示していた。本報告のように、民族別の就業構造を示すことで、民族に関する「イメージ」や「ディスコース」を、より体系的に捉えなおすことが可能となる。一方で、マレーシアやフィリピンなどの他地域との比較があれば、東南アジアにおける人口センサス利用という観点で議論することができたように思う。
人口センサスのようなビッグデータ分析は、インテンシブなフィールド研究があってこそ、生かされるものである。今回は、2000年以降の人口センサスデータを対象としていたが、スハルト政権期あるいは植民地期くらいまで時間軸を広げることはできないか。

□ 報告者の回答
今回の報告では、時間の制約もあり、インドネシアの2000年・2010年人口センサスを対象としたが、今後は、スハルト体制期の人口センサスや、東南アジアの他地域における人口センサスにも関心を広げていきたい。

■ 質問者(1)
・なぜ、北スマトラ州からの移住者が増加しているのか。
・リアウ州だけでなく、他州の個票データ分析を含めた方が良いのではないか。

□ 報告者の回答
・北スマトラ州からリアウ州へ移住してくる人が多い理由は、北スマトラ州の農村人口が過剰になっていることが、プッシュ要因として作用しているからだと考える。
・他州の個票データが手に入れば、複数の州をまたいだ分析が可能となると考える。

■ 質問者(2)
・人口センサス個票データの値段はどのくらいであり、調査許可がなくても購入可能なのか。
・北スマトラ州からリアウ州へ移住してくる者は、主に農園経営者なのか。また、ミナンカバウは、なぜ教育・医療・行政で働いている人が多いのか。

□ 報告者の回答
・人口センサス個票データは、全国版だと、数百万円になるが、州や県といった単位でも個票データを購入することは可能である。個票データの購入に際して、特に調査許可等の提示は求められない。
・北スマトラ州からの移住者に関しては、農園経営者と農園労働者が半々くらい。ほかの民族集団については、今後、学歴といった項目にも目を向けたい。

■ 質問者(3)
・なぜ、インドネシアでは、個人情報を含む個票データを購入することが可能なのか。
・個票データにおいて、民族という項目が村単位で集計できないというのは、どういうことか。

□ 報告者の回答
・個票データの取り扱いには十分な注意を払う必要があり、研究者とインドネシア側との信頼関係を構築していくことが必要となる。
・町・村単位の地域コードがすべて含まれているファイルに、民族の項目が含まれていないといったかたちで、データ分析に制限がかけられている。

■ 質問者(4)
・リアウ州における選挙結果と、地域別の民族分布との関係はどうか。
・最近は、政治コンサルタントが中央統計庁のデータを利用しているという話を聞くが、その実態はどうなのか。

□ 報告者の回答
・報告者自身は、政治が専門ではないが、リアウ州においても、クリスチャンの多い地域では、クリスチャンの議員の得票数が多い傾向にあると感じている。
・中央統計庁は、コンサルタントに対して、人口センサス個票データに基づき、社会調査のサンプルを抽出するサービスをおこなっている。

■ 質問者(5)
・インドネシアにおける人口センサスは、精度が高いという評価でよいか。

□ 報告者の回答
・個票単位では、やや誤差が多いかもしれないが、県単位・郡単位といったマクロなレベルで集計すれば、それなりに地域別の傾向として信頼できるような結果が見えてくると考えている。

■ 質問者(6)
・人口センサス個票データの分析から、都市化みたいなことも見えてくるのか。
・各産業の発展と、人口移動の関係について、もう少し詳しく知りたい。

□ 報告者の回答
・都市化に関しては、ジャカルタ大都市圏における都心の人口流出と、郊外の人口流入という現象を、個票データ分析から捉えることができる。
・産業の興隆と人口移動との関連について、外島では、人口過剰な農村から、新たな農業(特にアブラヤシ栽培)の展開による開拓農村への労働力移動といった動きが見られる。

■ 質問者(7)
・人口センサス調査票において、日常言語、インドネシア語能力、識字の違いは何か。
・最も広い床の面積という質問項目は、どのような意図で組み込まれているのか。

□ 報告者の回答
・調査票において、日常言語などは、辺境地にいる住民の言語状況を調査したい意図と思われる。
・最も広い床の面積という質問項目については、国連が定める人口センサスの質問項目の標準によるものであり、こうした居住空間に関する質問は、途上国一般に通じるものである。

■ 質問者(8)
・人口センサスにおいて、短期的な移動は、都市の雑業層や定住地を持たない人々は、本当に補足できているのか。
・北スマトラ州においても、アブラヤシ栽培が進んでいると思われるのにも関わらず、なぜ北スマトラ州の人々は、リアウ州に移住してくるのか。

□ 報告者の回答
・人口センサスにおいて、都市に出稼ぎへ出ている人などを、すべて捉え切れているとは考えにくく、取りこぼしは多いと思う。
・北スマトラ州は、土地の新規開拓が限界を迎えている一方で、リアウ州は、依然として未開地が多く存在するといった違いがある。

(文責:小泉佑介)

2018年度第1回関東例会(2018年4月21日)議事録

2018年4月21日に開催されました、2018年度第1回関東例会の議事録を掲載いたします。

第1報告(13:30~15:30)
報告者:津田浩司(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)
題目:日本軍政期ジャワの華僑向け日刊紙『共栄報』の研究
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学経済学部・名誉教授)


■報告要旨
『共栄報(Kung Yung Pao)』は、日本軍政下のジャワにおいて華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑社会の言語状況を反映し、華語(中国語)版とマレー語版とが別々に出されていた。本報告は、これまでその存在は言及されることはあっても、本格的に研究されてこなかったこの『共栄報』について、インドネシア国立図書館所蔵の原資料、および関係者の回想録を含む各種資料に基づきつつ、解題を加えた。
報告ではまず、『共栄報』が読者対象としたジャワの華僑社会の概要を大掴みで理解すべく、日本軍政が始まる以前の新聞等メディアを通した彼らの言論活動の状況について確認した。
次いで、軍政下の情報統制の概要、および『共栄報』発行の経緯や編集体制等について明らかにした。すなわち、華語版は1942年3月10日、戦前に最も影響力のあった華語紙『新報』の社屋を接収し創刊された『新新報』を、同年3月26日に『共栄報』と改題したものである(45年8月30日まで発行が確認できる)。他方のマレー語版は、1939年に創刊された『洪報(Hong Po)』(親日の論陣を張り、日本軍上陸後も発行を許されていた)を『共栄報』のマレー語版(発行後5カ月弱の間は「インドネシア語版」と表記)として吸収したものであった(45年9月15日で終刊)。マレー語版の方は、『洪報』時代からの体制をそっくり引継ぎ、黄長水(Oey Tiang Tjoei)をトップに司馬自成(Soema Tjoe Sing)が実質的な編集を担った。他方の華語版は、遅くとも43年初頭からは陳伯盈(Tan Pek Eng)が代表を、林若水(Liem Liok Swie)が編集のトップを担い、45年初頭からは林が代表の座に就いた。両版ともに旧『新報』の同一社屋でそれぞれ別個に編集発行され、44年初頭からはジャワ新聞会(邦語紙『ジャワ新聞』を幹事とする軍政監監督下の法人組織)から「内面指導」のため日本人指導員1名が派遣された。
最後に、『共栄報』の紙面の特徴について、原資料の撮影データを示しつつ何点か指摘した。『共栄報』は軍政下ジャワの華僑を動員するプロパガンダ・ツールであったことは事実であるが、一方で華僑社会の関心に一定程度応え情報提供する役割を果たしていたこともまた事実である。当時のジャワの華僑社会の動向を窺い知ることができる記事が多数掲載されているのは、両版とも第2面(以降)である。一般に日本軍政期(とその後の独立戦争期)は、ジャワの華僑史にとっては資料が大きく欠落したミッシングリンクの時期と言われるが、『共栄報』はその穴の一部を埋めてくれるものとして資料的価値が極めて高いと言えよう。

■倉沢愛子先生のコメント
 日本軍政期の華僑社会の研究はミッシングリングであった。オランダ時代とインドネシア独立後の時代をつなげる重要な研究である。
 ジャワは現地化した華人(プラナカン)が多数を占めていた。彼らの間にも中華ナショナリズムの高揚はあったが、プラナカンの中華ナショナリズムの目覚めはシンガポールのそれとはかなり違った性格だったと思われる。マレー語・ジャワ語の世界に生きていたプラナカンにとり、学校で中国語を習ったとしても、それは第一の言語にはなり得なかった。
 『共栄報』社長の黄長水は、ジャカルタ特別市華僑総会の会長で、独立準備調査会にも参加したが、そのバックグラウンドはいかなるものであったか。また、彼が独立準備委員会から外されたのはなぜか。
 その他の小さな質問は以下の通り。『共栄報』マレー語版の記事と他のマレー語の新聞の記事の間に違いがあったか。なぜマレー語版と華語版が同じ紙題なのか。発行部数はどのくらいだったのか。他の占領地における新聞発行の状況はどうだったのか。新聞以外のメディアを使った中国語による宣伝工作があったのか。

■報告者の回答
・黄は1937年に天地会(洪門)の系譜を引く和合会バタビア支部を立ち上げ、また『洪報』を差配していた。彼が日本軍に抜擢されたのは、その経歴から動員力が期待された可能性がある。独立準備委員会から除外された理由については不明である。ちなみに、同委員会で唯一の華僑委員となった葉全明は、プリアンガン華僑総会会長として、チマヒ収容所(「敵性外国人」を収容)に恒常的に食糧を供給するなどして頭角を現し、軍政からも信任が厚かったと思われる。
・他のマレー語紙との差異については今後比較したい。メダン等でも華僑向け華語紙が発行されていたようだ。
・軍政は華僑向け新聞として『共栄報』への一本化を考えていたが、言語状況を考慮し2言語体制になったというのが実情に近いかもしれない。
・『共栄報』指導員の辻衛の回想によれば発行部数は4千部であり、別の回想では5千部ともある。
・『共栄報』には映画上映案内が連日掲載されており、映画は重要な情報媒体であった。

■質問者1
・戦前の華僑系新聞の中に発行部数が1万というものもあるが、多過ぎはしないか。
■報告者の回答
・報告で示した数字はオランダの新聞発行統計に拠っている。華僑系新聞には長く継続しているものが多く、そこには華僑の識字率の高さも背景にあったであろう。

■質問者2
・『共栄報』の記者数を見ると華語版の方がマレー語版より圧倒的に多いが、日本軍政は華語版を重視していたということか。また、華語を理解する読者が当時どれだけいたのか。
・『共栄報』の読者は専らジャワ島内が想定されていたのか。
・日本軍政期の華僑社会の動向は、華僑以外の現地民にどのような影響を与えたのか。
■報告者の回答
・華語版の記者数が多いのは、日本語から中国語に訳すスタッフも含まれていたから、との指摘がある。『共栄報』の流通の範囲は不明であるが、実質的には主にジャワ島内で読まれていた。
・戦前に乱立していた華僑系諸団体は軍政下で華僑総会に一元化される。新聞記事中には、アジア民族、大東亜共栄圏の一員として中華民族も日本軍と協力すべしとのメッセージが多々見られる。しかし例えば、いわゆる原住民を主体とする警防団とは別に、華僑特別警防隊が結成された(これが独立戦争期の自警団組織(保安隊)に直接繋がるかは要精査)点などに示されているように、日本による対華僑政策が華僑とそれ以外の分断を助長したことは否めない。

■質問者3
・『共栄報』はジャカルタのローカル色が強い新聞として捉えるべきか、それともナショナルなものか。
・ジャワには現地生まれだが中国への帰属意識が強い人々も多かった。1940年代に華語紙が重視されたのはプラナカンの中の多様性に配慮した結果ではないか。
・『共栄報』の紙面を見ると広告が少ないが、収入はどこから得ていたか。軍政から援助があったのか。
・華語版の記者の構成を見るとマレー語紙よりも若年層が多く、ジャカルタ外の出身者が多いのはどういう意味があるか。
■報告者の回答
・ジャカルタ近辺の記事が圧倒的に充実している。ただし『共栄報』としては、主要地方都市に通信員を置くなど、各地の華僑社会の出来事を積極的に報じていると自負していた。
・当初から広告は少なく、戦局の悪化とともにますます減った。『共栄報』はジャワ新聞会の会員社として、島内で発行を許可された新聞社同士で資材を融通、損失を補填し合っていた。法人化後のジャワ新聞会には、軍政から20万グルデンの資金援助があった。
・記者リストに掲載されている記者個々人の詳細は今後精査が必要である。

(文責:松村智雄・津田浩司)

第2報告(15:45~17:45)
報告者:佐藤章太(東京大学大学院・博士課程)
題目:ベトナム語の漢越語専門用語に見られる土着化現象~中等教育数学用語の体系的分析を通して~
コメンテーター:岩月純一(東京大学大学院総合文化研究科・教授)

●コメンテーターより(抜粋)
・東アジアにおける漢語語彙は、形音義からなる漢字を知っていることが前提となっているが、ベトナムでは漢字廃止により漢字の字形知識が失われている。ベトナム語における漢語理解の変容については、主に高齢の知識人など漢字識字層が漢字非識字層の言語使用を誤用として批判する視点しか出ず、一般的に研究テーマとなりにくい。本発表は外部の視点からこの問題を客観的に捉えようとするものである。
・語彙分析対象の数学分野は、ベトナムでは漢文時代の枠組みとは異なり、フランスがもたらした西洋の学問知識を基盤とする分野であり、医学や植物学など他の自然科学と比べ、漢文的伝統が弱い。また、非常に高度な専門用語の場合、一般的な話者の意識からずれる可能性があるため、中等教育における用語を分析に選んだことは、漢越語に対する共時的意識の解明を目指す本研究の問題関心に適合している。
・(質問)本発表は現代という一時点に限定して共時的現象として論じているが、短期間であっても語彙の変化は存在する。通時的理解を拡げていくことも必要ではないか。
・(回答)ご指摘の通りであり、1940年代以降の短期間に作られた数学用語について、当初作られた用語、定着した用語と定着しなかった用語、時代とともに交替した用語など、時系列的視点による研究は今後の課題としたい。

●質疑応答(抜粋)
・(質問1)なぜ語彙収集に教科書を用いたのか。なぜ初等教育は扱わなかったのか。
・(回答1)教科書は全国統一的に使用されており、そこに登場する語彙が標準的語彙と見なせるため。また、漢越語は学校教育において、語文科7学年で理論的学習が、中等教育段階の語文科および他教科を通して具体的学習がなされるため、初等教育段階よりも中等教育段階の方が多くの漢越語を収集できると期待できるため。また、ベトナム語能力自体が発達途上にある生徒に対しても理解しやすいよう工夫されている可能性があり、本発表の問題関心に適合しているため。

・(質問2)「土着化」という概念の定義が曖昧ではないか。「語種」の分類も判然としていないのではないか。
・(回答2)本発表では「土着化」を「ベトナム語の影響による変化」としており、これは中国語からもたらされた語彙が体系的ベトナム漢字音によって読まれる漢越語(純粋なベトナム語の外側と意識されるもの)が、ベトナム語固有の言語学的特徴の影響を受け変化している現象を指す。語種については、学問的(語源学的)な語種と、共時的な語種意識との間にずれがある。漢語由来語彙の中でも、本発表で「古漢越語」「越化漢越語」「中国語方言音模倣語」と呼んだものは、学問的には漢語由来だが、話者の共時的語種感覚の中では純粋なベトナム語と考えられている。そのずれが判然と理解できるような説明や図示を以後心がけたい。

・(質問3)漢字文化圏の言語における数学用語は、近代に造語される場合が多い。本発表が扱っているのは、「土着化」(変化)というより「造語」の問題ではないか。
・(回答3)本論における「土着化」とは、ある概念を表す語彙がどう変化しているかという表面的変化だけではなく、漢越語が持つ意味面や文法面の変化、更には現代話者の漢越語に対する意識の変化にも着目している。そのため、変化ではなく造語する場合でも、かつての漢越語にはないベトナム語的特徴があれば、それを広く漢越語の「土着化」として捉えている。

・(質問4)ベトナム語数学用語は1940年代のフランスと日本の共同統治期に作られたが、そこに日本がもたらした影響は見られるか。
・(回答4)1940年代前半にHoàng Xuân Hãnが作成したベトナム語自然科学用語集(Danh từ Khoa học)には、用語作成に際して、フランス語や中国語だけでなく、日本語の自然科学系辞典も参照したと明記されている。しかし、ベトナム語学では、漢越語はあくまで中国語由来であり、近代日本で作られた和製漢語も中国語経由で流入したと考えられており、歴史的・共時的な中国語に存在しない漢越語は「越製」と見なされる。そのような「越製」の漢越語のリストの中には、xác suất【確率】のように日本語にも存在する数学用語も含まれていた。これは、歴史的・共時的な中国語に存在しないと認定されているため、1940年代前半の専門用語ベトナム語化の中で、日本語からベトナム語に直接取り込まれた可能性が示唆される。

・(質問5)ベトナム語が「語順によって意味が決まる孤立型言語」というのは正確ではなく、機能語によっても意味は決まるのではないか。
・(回答5)ご指摘の通りであり、「言語類型学的には孤立型言語的特徴を多く持つ」などと説明すべきである。

・(質問6)cứu cánh【究竟】が、単音節で使われる漢越語cứu『助ける』や純粋ベトナム語cánh『翼』の影響を受けて、『よくない状況から救い出してくれる拠り所』のように見なされている現象は誤用なのではないか。
・(回答6)言語学では、異なる言語や言語理解の間に優劣を付けず対等に扱うため、「誤用」ではなく「ベトナム語における再解釈」と捉え、そこに正誤の価値判断を持ち込まない立場を取りたい。

(文責:佐藤章太)

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