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2011年度第6回(1月)の関東例会の報告

1月28日(土)に行われた2011年度第6回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

東南アジア学会関東例会
日時場所:2012年1月28日(土)13:30~15:30 東京外国語大学本郷サテライト5階
報告者: 関本紀子氏(日本学術振興会特別研究員PD)
報告題:「植民地期におけるベトナム度量衡統一政策の進展と地域性」
コメンテーター:桜井由躬雄先生

桜井先生のコメント:
 度量衡というのは社会経済史や人間の生活史を研究する上で基礎の基礎となるものである。しかしながら、その研究方法はいまだ確立されておらず、これまで着手しようとする研究者も少なかった。よって、関本さんの研究は大変重要なファーストステップである。
 度量衡には「文明としてのはかり」と「文化としてのはかり」の二つの問題がある。文明としてのはかりとは、フランスが導入を推し進めたメートル法のことである。それは「人工物は最終的には自然の哲理と一致する」という文明論に基づいており、1メートルは地球の子午線の1千万分の1と定められている。メートル法が国際的に普及した要因として、貿易単位として用いられたこと、また、物理学の単位として用いられたことが挙げられる。しかし、その導入時期には地域的な偏差がある。世界的にみると、1903年から1927年までのインドシナにおいてフランスの理事長官がメートル法を定着させようとしていたことは、むしろ先進的な試みであったと言えるかもしれない。

メートル法に関する年表
 1795年:フランス、メートル法の施行
 1816年:イタリア、メートル法導入
 1821年:オランダ、メートル法導入
 1840年:フランス、メートル法の強制使用
 1872年:メートル原器の制定
 1875年:パリにおいてメートル条約締結
  (イギリスは加盟せず。アメリカとロシアは加盟したが実際には導入せず)
 1885年:日本、メートル条約加盟
 1912年:タイ、メートル条約加盟
 1959年:韓国、メートル条約加盟
 1960年:インドネシア、メートル条約加盟
 1977年:中国、メートル条約加盟

 一方、「文化としてのはかり」とは身体尺のことである。古く中国では1尺とは親指から中指までの長さのことを表していた。身体と結び付いた「文化としてのはかり」を変更することは、ベトナムだけではなく、日本においても困難を伴った。明治政府は1885年と比較的早くにメートル法を導入し、既存の尺貫法をメートル法で置き換えて国際標準化を図った。例えば、曲尺の1尺が30センチ、1里と4キロメートル、4斗と60キログラムと1ピクルがほぼ等しいことに目を付け、メートルに換算しやすい公定尺度を設定した。しかし、実生活においては長い間尺貫法を通じてメートル法を理解する二重構造となっていた。例えば、1952年まで牛肉は100匁(375グラム)、酒や牛乳は1合(約180cc)を単位として売り買いしていたし、52年以降、しばらくの間、375グラム(100匁)という表記が普通だった。我々はいまだに4畳半や6畳、一坪といった表現を用い、実際の建築モデュールも旧来の3尺、1間を基準としている。よって日本は旧来の尺貫法、つまり文化への愛着が強いと言える。一方ベトナムでは、部屋の広さに言及する時には三間屋、五間屋といった表現から、革命後は平米基準に切り替わっている。その点でもベトナムは文明的であると言えるだろう。
 1900年代初頭から、フランスの理事長官は南部においてメートル法を強制した。なぜならば、南部の米は国際商品であり、パリ市場に出荷するためには国際規格に統一する必要があったからである。結果的にベトナム南部にはコン(1000平米)やマオ(1ヘクタール)というメートル法に準拠した面積単位が一般化した。一方北部において米は地域商品であったので、単位も文化的なもので十分だった。さらにベトナム北部は、南部と比較して経済的価値があまり高くなかったので、フランス政府は北部におけるあらゆる政策の実施に積極的ではなかった。このように、その当時の政府や地主、精米業者にとっての米、そして面積の意味はベトナム南北でそれぞれ異なっていた。それにより、文明単位と文化単位の捉え方も違ったはずである。
 最後に、重さ・長さ・面積はそれぞれはかる目的が異なる。それによって政府の干渉や農民の反対の程度にも違いが出る。よって、今後は地域・目的・年代別に分類したデータベースを作成し、度量衡を通じたフランスの植民政策の解明を目指してほしい。

発表者の回答:
 日本をはじめ、世界のその他の地域と比較してインドシナの度量衡がどうであったかという視点、また、度・量・衡をそれぞれはかる目的によって分類するという視点が欠けていたと思う。認識を新たにし、今後もデータベースの作成を進めたい。

細淵さん(東京外国語大学)の質問:
 ベトナムの伝統的単位の具体例を教えてほしい。

発表者の回答:
 布の幅をはかる弓型のものさしトゥォック・バーイ、屋根の角度を測る三角形の建築用定規、容積をはかるお椀、少数民族が蒔く種の量で面積を計っていた例などがある。

高橋さん(大正大学)の質問:
 ベトナムにおいてメートル法への改革が困難であったことは、当時の学校教育制度やその地域差と関連があるのか。

発表者の回答:
 各省はまずはフランス・アンナン学校でメートル法を普及させ、それからベトナム式の学校にも拡大しようと考えていたようだ。

菊池先生(東京外国語大学)のコメント:
 フランスは経済的利益の見込めない植民地にはあまり積極的な政策をとらなかった。ベトナムでそうならば、ラオスはなおさらそうであろう。

北川さん(東京大学)のコメント:
① フランス・カンボジア学校では1908年の時点で教育の成果をはかるのに、フランス語の習熟度とメートル法・十進法の習熟度を用いていた。ベトナムでもメートル法・十進法は教育のプログラムに組み込まれていたのか。
② 1910年代のカンボジアの土地訴訟の公的資料においては、地図上の距離はメートル法のみで記されている。カンボジアでは教育を通じてメートル法が急速に普及したようだが、ベトナムとの違いは何であろうか。

発表者の回答:
 ベトナムではメートル法・十進法について教えてられる教師が不足していたため、インストラクターを学校や市場に派遣しようとしていた。また、既存の単位と対応させたテキストも未整備であったと考えられる。

桜井先生のコメント:
 中国をはじめとする東アジア諸国では、土地の測量技術が発達していた。この影響を受けて、ベトナムの丈量技術も高かった。しかし、ラオスやカンボジアはこの文化圏ではなく、固有の尺度があまり発達していなかったために、メートル法が浸透しやすかったのではないか。

小川さんのコメント:
 ベトナム北部と南部を比較すると、南部の方がカンボジアに近い状況で、メートル法が浸透していた可能性があると思う。

(文責:東京大学大学院 安達 真弓)

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日時:1月28日(土)15:45~17:45
報告者:久保真紀子氏 (日本学術振興会特別研究員)
報告題:「プレア・カーン(アンコール)における出入口装飾の主題とその配置構成について」
コメンテーター:浅井和春先生(青山学院大学文学部史学科)

【報告要旨】
プレア・カーンはアンコール・トムの北側に位置し、ジャヤヴァルマン7世の統治期間(1181年‐13世紀初)の主要寺院建築の一つである。創建以降も数回の増築が行われ、段階的に伽藍が形成されたことが知られるが、本報告では建造過程における最初期に焦点を当てる。この寺院からは創建時に奉納された石柱碑文(K.908)が発見されており、伽藍内の各施設に祀られた彫像の神格や数に関する記述が見られる。この碑文は、今日失われた丸彫り像が特定の場所に意図的に配置されていたことを示す興味深いものである。本報告では碑文から知られる創建当時に祀られていた彫像の神格を同定すべく、建物の出入口装飾に表わされた主題に着目する。そしてそれらの伽藍内における配置構成について考察し、石柱碑文の記述内容との整合性を検証する。
まず中央祠堂の周りから第二周壁内側のエリアの出入口装飾には、観世音菩薩や禅定印を結ぶ仏陀坐像、ジャータカなどの仏教を主題とする浮彫が主に見られる。これらは中央祠堂にJayavarmeśvaraという名の観世音菩薩像が安置されていたと記す石柱碑文の記述と一致する。だが浮彫装飾の中にはヒンドゥー教主題のものも確認され、碑文にも観世音菩薩を中心に283の神々が祀られていたと記されていることから、仏教関係だけでなくヒンドゥー教も含めた様々な神々が祀られていた可能性がある。
次に第二周壁のうち、創建時に建造された東楼門主室に目を転ずると、仏陀坐像やジャータカの場面の浮彫が見られる。石柱碑文によるとこの場所にはTribhuvanavarmeśvaraが祀られたとされており、ジャヤヴァルマン7世の前任者の王トリブヴァナーディティヤヴァルマンを表わすと考えられる。
続いて南、西、北側にある副次的伽藍を見てゆくが、これらは回廊に囲まれた中央祠堂を有する。まず南側副次的伽藍は保存状態が悪く装飾があまり現存していないが、わずかに仏陀坐像を表わす浮彫が確認される。石柱碑文にはここにYaśovarmeśvaraをはじめとする32の神々が祀られたと記されている。また、出入口枠に刻まれた古クメール語の碑文にはDharaṇīndradevaやYaśovarmeśvaraなど、ジャヤヴァルマン7世以前の王の名前をもとにした神々の名が書かれている。
 西側副次的伽藍ではヴィシュヌ神話に関する浮彫が多く見られる。施設出入口に刻まれた碑文にはGaruḍavāhanaやNārāyaṇaといったヴィシュヌ神の別名が記されている。また石柱碑文にはヴィシュヌ神を示すとされるCāmpeśvaraの名が見え、この神をはじめとする30の神々が祀られていたという。
北側副次的伽藍に関しては、石柱碑文にシヴァ神の象徴とされるŚivapādaをはじめとする40の神々が祀られていたと記されている。一方出入口装飾に見える浮彫は、シヴァ神に関するもの以外にヴィシュヌ神を主題とするものや、『ラーマーヤナ』の場面を表わすものが見られる。
 以上、石柱碑文の神格配置と出入口装飾の配置を比較すると、中央は仏教、西はヴィシュヌ、北はシヴァという主題がおおまかに共通するが、南と東に関しては石柱碑文に記された神格とは直接結びつかないものを浮彫の主題としていることが分かった。これらは創建当時の伽藍に祀られた神々を具体的に示すものであり、当時の伽藍に表現された世界観をより詳しく考察するための材料として位置づけられる。
今後は石柱碑文が記される前と後の2つの時期に区分し、プレア・カーンの伽藍が形成される過程で浮彫の様式や主題がどのように変遷したかを明らかにしていく。

【コメンテーターの発言】
①方法論
 今回報告者が行った目録やデータベース作成作業は今後の研究にとっても重要なことであり、順序を追った詳細な研究である点が評価される。比較によってまた別の問題点が浮上する可能性があるので、プレア・カーンに限らず他の遺跡についても同様の密度でアプローチを行うことが望まれる。

②セデスによる碑文研究の検証
 セデスによる碑文解釈は全面的に認められるものでなく、妥当性について検討することが第一前提である。プレア・カーン碑文から知られる本尊についても、観音という仏教的側面に捕らわれず「ローケーシャ=宇宙の支配者」というサンスクリットの語義に立ち返って、ヒンドゥー神との関連をも考察するべきだろう。ジャヤヴァルマン7世の時代は特に変則的な信仰形態が際立った時代だと考えられるからだ。

③伽藍形成過程の研究
 伽藍形成過程を追うに当たってはステルン、内田悦生、オリヴィエ・クニンの三者の研究を挙げていたが、内田氏の研究は岩石という部材の科学分析であるため、参照するに留めた方がよい。また、今回はプレア・カーンの創建期に焦点を当てた報告であったが、ジャヤヴァルマン7世時代の都城建設全体を踏まえ、その中における本寺院の初期伽藍の位置づけを考察する必要がある。

④ヒンドゥーと仏教の共存
 中央祠堂に施された図様やそこから出土した丸彫り像は仏教的モチーフを主体としているので、プレア・カーンが仏教を中心とする伽藍であることは認められるが、ヒンドゥー神格との合祀は最初から意図されたものである。即ちプレア・カーンは仏教とヒンドゥーの両者が互いに補い合いながら成立した伽藍であると言い得るだろう。シヴァ、ヴィシュヌと仏陀、観音はパラレルに捉えるべきで、ヒンドゥー社会における「仏教派」とも言うべき共存関係があったのではなかろうか。従って本尊である仏教尊とヒンドゥー神との繋がりは考慮されるべきである。

⑤中央祠堂主尊
 中央祠堂に祀られた主尊の尊格だが、厳密には不明である。祠堂に施された図様に仏陀や観音が見られることは確認される。石柱碑文に記されるJayavarmeśvaraを観音と解釈しているが、観音以外の仏教尊格を想定してみる必要もあるだろう。

【報告者の返答】
 ジャヤヴァルマン7世時代の都城建設全体の中に、どのようにプレア・カーンの初期伽藍が位置づけられるのか、報告者も考察する必要性があると考えている。本寺院の研究をまとめた後、タ・プローム、バンテアイ・クデイといった同時代遺跡についても同様の方法論を用いながらさらに発展させ、比較研究していきたい。
 またヒンドゥー教や仏教といった宗教の枠組みに捕らわれないこと、中央祠堂の尊格についても柔軟に考察することなど、重大な問題であるので今後考えていきたい。
 
【質疑応答】
Q.1(桜井先生)
 ヒンドゥーと仏教の関係について、浅井先生とは異なる見解を持っている。確かに両者を区別すべきでないというのは日本仏教学などで通例の考え方である。しかしバンテアイ・クデイに見られる廃仏行為を見れば両者の対立は明らかであり、ジャヤヴァルマン7世没後に強力な宗教反動があったことが窺われる。従って、プレア・カーンの本尊がシヴァでも仏陀でもよいという見解は成り立たず、浮彫の図像から判断してもローケーシャは観音を指すと考えるべきだろう。
 プレア・カーンが建造された12世紀末から13世紀初頭は、ジャワにおけるシンガサリ朝に相当する頃である。この時代は大乗仏教に積極的にヒンドゥー思想が取り入れられ、東南アジア全体でマハーヤーナ・ヒンドゥーコンプレックスが形成された。重要なことはヒンドゥーが従属するものとして受容されたことであり、サンスクリット語のデーヴァは仏教語で天と訳される。つまりシヴァは仏教における大自在天であり、プレア・カーンに立ち返ると中心の観音を護持する諸天としてヒンドゥー神が位置づけられている。
このように、ジャヤヴァルマン7世の時代には、強力に仏陀がヒンドゥーの上に立つという思想が起きたことが分かる。仏が主でヒンドゥーは全て従であるという思想の表明こそがプレア・カーンであり、それによって反動が起きたのである。

A(浅井先生)
 廃仏が行われた時期について補足するが、ジャヤヴァルマン8世の時代は明らかにヒンドゥーが強く、廃仏行為は確かにあっただろう。しかし10世紀からジャヤヴァルマン7世の時期に関して言えば、廃仏は行われなかったはずである。

Q.2(北川先生)
 出入口枠に刻まれた碑文にmahāparamanirvvāṇpadaやbhūpendrapaṇḍitaといった王の諡号が見られるが、これらはどういった人物なのか。
 また、プレア・カーンの神格配置を見ると中央にジャヤヴァルマン7世の父が位置し、ジャヤヴァルマン7世を巡る関係性が表わされているのを見て取れるので興味深い。この点をどう解釈するのか。またそれに付随してヤショーヴァルマン、ダラニーンドラヴァルマンという二人の王名が見られるのはどのように理解されるべきか。どういった王権観や宇宙観を表現するものであるか聞きたい。
 最後に、石柱碑文はサンスクリット語だが、出入口碑文は古クメール語で記されている点について報告者はどのような見解を持っているのか。

A(報告者)
 出入口枠に刻まれた碑文の個人名は、当時の地方王や高位高官を表わすと考えられ、彼らが自身の父母や先生のために彫像を奉納したことを示している。
 ヤショーヴァルマンについては、ヤショーヴァルマン2世を指しており、ジャヤヴァルマン7世即位以前の近い年代の王である。ダラニーンドラヴァルマンというのはジャヤヴァルマン7世の父王である。これらが寺院南側に配されることによって表わされる世界観については、今後検証していきたい。

コメント:(桜井先生)
 シンガサリ朝宗教の基本は、王が自分の先祖や直接の父を仏陀と同化させ、ひいては自分自身も仏陀となることにある。この構造はプレア・カーンの場合と全く同じであり、東南アジア全体に共通する信仰形態があったことが窺われる。 

Q.3(上智大学・松浦さん)
 同時代性ということに関して言うと、ミャンマーではアノーヤター王の時代に「ナット」という俗信の神を自身の信仰概念の中に取り入れ、バイヨンのような万神殿を形成した。このように色々な神格を一つの寺院に集める傾向は、ジャヤヴァルマン7世と同時代の東南アジアに共通して見られる特色である。このような同時代的潮流の中で、プレア・カーンはどのような意味を持つのだろうか。
 
A(報告者)
 今後はジャヤヴァルマン7世のプレア・カーンのみならず、他の事例との比較も行っていきたい。

Q.4(大正大学・高橋さん)
 寺院南側と東側の出入口に見える浮彫主題が、石柱碑文に記された神格と一致しない点についてはどのように解釈するのか。

A(報告者)
 石柱碑文に記されているのは中心に祀られたごく一部の神格名だけであると考える。代表的な神格のみを挙げ、その施設がなんのための建物であるかを示すものだったのではないか。中央の神格を様々な神々が取り囲むという配置の思想的根拠については、今後明らかにしていきたい。

(文責:青山学院大学大学院 栗原 麻那美)

2011年度第6回(1月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

関東例会1月例会(1月28日開催)の案内をお送りいたします。
今回は関本紀子会員による「植民地期におけるベトナム度量衡統一政策の進展と地域性」、及び
久保真紀子会員による「プレア・カーン(アンコール)における出入口装飾の主題とその配置構成について」の2報告です。
詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2011年度1月例会>
日時: 2012年1月28日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)
報告者: 関本紀子氏(日本学術振興会特別研究員PD)
コメンテーター:桜井由躬雄先生
報告題:「植民地期におけるベトナム度量衡統一政策の進展と地域性」

<報告要旨>
 仏領インドシナ連邦では、フランス植民地政権によりメートル系度量衡制度が導入され、法令によって規定されていたにもかかわらず、各地において現地固有の制度が植民地期後半に至っても維持されていた。
 本報告の目的は、植民統治によって変容するベトナム社会に、根強く地域の個性が存続していた事象を、その背景と共に明らかにすることである。この問題を、仏領インドシナ政権の度量衡統一政策と北部ベトナム各省における実態を通じて検討する。
ベトナムの度量衡研究は、各時期各地域で用いられた制度があまりに多様なため、研究が困難であったが、客観的に相互比較の可能な均質的史料に基づいた研究により、この問題に取り組みたい。
その均質的史料として、トンキン理事長官および北部各省が作成した度量衡関係の行政文書を使用する。この文書分析作業によって北部各省における度量衡政策の進展と運用の実態、統一が実現できなかった背景を、時系列変化を通じて総合的に検討する。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:久保真紀子氏 (日本学術振興会特別研究員)
コメンテーター:浅井和春先生(青山学院大学文学部史学科)
報告題:「プレア・カーン(アンコール)における出入口装飾の主題とその配置構成について」

<報告要旨>
 アンコール期のクメール石造寺院建築では、動植物をモチーフにした文様や神話の場面等の浮彫装飾が、伽藍を形成する各建造物を豊かに飾っている。なかでも出入口に施された装飾には、ヒンドゥー教の神話や叙事詩、仏伝やジャータカ、あるいは世俗的な場面を主題とした説話的なモチーフが表現される。これらの説話的モチーフは、伽藍内の各建造物に開口された出入口の場所と密接に関係しており、何らかの意図のもと計画的に配置された可能性がある。
ジャヤヴァルマン7世(1181年‐13世紀初)統治期の建造とされるプレア・カーン遺跡では、寺院の創建時に奉納された石柱碑文が発見されている。この碑文には、寺院創建時、どの建造物にどういった神々が何体祀られたかを記述した個所がある。
本報告では、プレア・カーン遺跡の出入口装飾に表わされた説話的モチーフに着目し、その主題を同定する。そして、それらの寺院伽藍内における配置構成について考察し、石柱碑文の記述内容との整合性を検証する。


来年度の例会の日程が下記の通り決定いたしました。会場は本年度と同じく、東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。
近日中に報告者の募集および報告内容についてご案内申し上げますので、多くの方々からのご応募をお待ちしております。

■ 2012年度の例会 開催日時(1回につき2報告)
   ・第1回 2012年4月28日(土)  13時30分~17時45分
   ・第2回      5月26日(土)  13時30分~17時45分
   ・第3回      6月23日(土)  13時30分~17時45分
   ・第4回      10月27日(土)  13時30分~17時45分
   ・第5回      11月24日(土)  13時30分~17時45分
   ・第6回 2013年1月26日(土)  13時30分~17時45分


また、下記の関東例会のブログにて、過去の例会の議事録及び今後の例会の案内を掲載しておりますので、ぜひご参照ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2011年度第5回(11月)の関東例会の報告

11月26日(土)に行われた2011年度第5回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

東南アジア学会関東例会
日時場所:平成23年11月26日(土)13:30~15:30 東京外国語大学本郷サテライト5階
報告者:新谷春乃(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程1年)
報告題:カンボジア人民革命党/人民党政権による「民主カンプチア」言説の変遷―国定歴史教科書の検討を通して―
コメンテーター:山田裕史(日本学術振興会特別研究員)

報告要旨
 報告者の問題意識は、公教育の場に表れるカンボジア人民革命党/人民党政権が掲げるイデオロギーの実態がどのようなものであったのかという点である。そこで報告者は、まず「民主カンプチア」時代の評価が、同政権が崩壊した1979年以降の政権にとっての正当性として利用されていることに着目した。そして、この「民主カンプチア」時代の評価が記述として表れる国定歴史教科書を、イデオロギーの実態の一側面であると捉えたうえで、教科書における記述の変遷を分析する。具体的には、1979年より現在にいたる人民革命党/自民党政権の統治下において、「民主カンプチア」時代評価の変容の考察を通し、「民主カンプチア」を巡る人民革命党/人民党の政治意識と「民主カンプチア」言説の有効性を、分析視点とする。
 これらの分析にあたって、検討史料と時代区分を確認する。まず、史料については、カンボジアの教育省が発行する①学習指導要領と、②国定歴史教科書である。学習指導要領は、学年別のカリキュラムを規定し、歴史教育の目的を記載している。国定歴史教科書においては、本研究の目的から「民主カンプチア」時代の記述のみを抽出し、各時期の表現を比較検討する。次に、時代区分は主に歴史教科書の発行責任元である時々の政府の区分を基準とする。それらはすなわち、カンプチア人民共和国(1979~1989年)、カンボジア国(1989~1993年)、カンボジア王国(1993~2008年)の3区分である。
 それでは、各時代区分において「民主カンプチア」の評価はいかなるものであり、どのように変遷したのか。報告者は、教科書の記述を、(1)体制評価、(2)責任の所在(3)被害者意識、(4)1979年の解放、(5)対外関係という5つの視点でまとめた。(1)は、カンプチア人民共和国時代、カンボジア国時代は体制成立描写から一貫して「民主カンプチア」を政府として認めず、その統治能力自体も否定していた。しかし、カンボジア王国時代になると、体制成立を説明する際に「民主カンプチア」を内戦の勝利者と記述したことから、正当な政府としては認めたと考えられる。(2) の責任の所在は、カンプチア人民共和国時代、カンボジア国時代では幹部3名(ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サンパン)であったものが、カンボジア王国時代にはポル・ポト個人へと帰着した。全ての時代に共通して、クメール・ルージュという組織全体に対して問うのではなく、個人に体制の責任を帰着させる。(3)の被害者意識は、3つの時代とも共通して国民全体を被害者として捉えた記述が見られる。また主体性の強調は、1980年代半ばから出始める。(4)は3つの時代ごとに記述が変化した。カンプチア人民共和国時代は、ベトナムとの共同闘争、カンボジア国時代は、カンボジア人を主体とした解放闘争、そしてカンボジア王国時代は、カンボジア人が唯一の解放主体と、時代につれてカンボジア人の主体性が強調されるようになった。(5)も時代ごとに記述が変化しており、カンプチア人民共和国時代の初期はベトナムを援助者、中国を敵と捉えていたのが、次第にベトナムを積極的な援助者としては見なさなくなった。また、カンボジア国時代には中国との関係に言及せず、ベトナムの関与は1979年の解放の時のみに記述があった。そしてカンボジア王国時代には、ベトナム人を少数民族として扱う記述に変わり、中国との関係の言及はなくなった。
 上記で区分した3つの時代ごとに、記述描写から読み取れる政治意識と有効性の検討を行う。カンプチア人民共和国時代、ポル・ポト派幹部らは現実的な「敵」であった。「民主カンプチア」時代の恐怖を喚起させ、人民革命党を、中国の陰謀を打ち砕いた救済者と位置づける。ベトナム占領下にありながら、1980年代半ばより人民革命党の自立性が表れてくる。カンボジア国時代も、ポル・ポト派幹部は現実的な政権の「敵」であり、人民革命党を救済者としてみなす傾向は変わらない。しかし国際社会からの支持獲得の必要性から、ベトナムから自立しており、中国と良い関係を築けるカンボジア像を打ち出した。カンボジア王国時代、本報告では1999年以降に出版された教科書をもいいており、つまりクメール・ルージュが現実的な「敵」から「歴史上の人物」となりつつあった時期であった。その中であっても、「民主カンプチア」時代の恐怖を喚起させ、救済者として人民革命党を位置づけている。この時点においても、公教育における「民主カンプチア」言説は人民党の正当性論理の中で有効性を維持している。しかしこの点は、今回の報告に含まれていない近年の傾向からは、その有効性は喪失しつつあるように見える。今後は、この有効性の喪失も視野に入れ、研究対象の拡充を図っていくことを課題としたい。

コメント
① カンボジア研究/カンボジア政治研究の学術的状況
新谷さんの研究の位置づけを明確にするために、まず、カンボジア研究/カンボジア政治研究の学術状況について述べたい。
(1)カンボジアが、内戦、ポル・ポト政権、そして国際的孤立という状況下にあった1970年代から1990年代初頭までの約20年間、日本を含む西側諸国の研究者がカンボジア国内で調査を行なうことはほぼ不可能であった。そのため、他の東南アジア諸国に関する研究に比べて、カンボジア研究は大きく後れをとり、研究者の数自体も少ない。
(2)とりわけ1980年代のカンボジア国内の状況に関する研究は非常に少ない。その理由として、1980年代のカンボジアが国際的に孤立していたことに加え、ポル・ポト政権期と国連暫定統治期というカンボジアが国際的に注目を集めた2つの時代の間に位置し、あまり着目されてこなかったが指摘できる。

② 今回の発表のカンボジア研究への貢献
(1)これまでの先行研究に見られなかった数多くの一次資料を用いている点。特に、1980年代に発行された資料は、整理や保管の状況が非常に悪く、散逸しているものも多いため、収集が極めて困難である。新谷さんの調査によって初めて使用される資料も多い。
(2)ポル・ポト政権に関する先行研究の多くは、同政権の成立過程や同政権下でなされたこと、同政権による圧政がカンボジアの社会や文化に与えた影響、さらに最近では同派の元指導者を裁く裁判に関するものが中心であった。つまり、これまでカンボジアの人々がポル・ポト政権について、学校で何を教わり、何を教わってこなかったのかという点を、歴史教科書という一次資料に依拠して、その変遷を明らかにした研究は不在であった。この点において、新谷さんの研究は独自性が高いといえる。

③ 今回の発表の補足・改善すべき点
(1)時代区分3のカンボジア王国時代(1993~2008年)の分析について。ポル・ポト政権に関する教科書記述がほとんどない時期が長く続いた後、近年になって詳細な記述、しかも、1980年代とは異なり客観的な記述が登場したことを、1993年体制下のポル・ポト派をめぐる政治的・社会的要因とともに、もう少し詳しく、丁寧に説明した方がよい。今回分析したのは、1999、2000、2001、2008年の教科書であるため、1990年代の分析はできていないのでは。また、カンボジア国内では1990年代はポル・ポト時代について、ほとんど教えてこなかったといわれている。2001年に発行された12年生の教科書は、出版後にすぐに回収された。2008年以降の教科書の分析が、2000年代後半になってからということをもっと詳しく説明した方がよい。
(2)研究目的が「人民革命党/人民党政権のイデオロギー、政治意識の一側面を明らかにする」ということであれば、党の正史も参照するとよい。実際に、党の正史と教科書の記述は似ている部分もある。党の正史を執筆しているのは、党中央委員会党史調査委員会委員長のチェイ・サポン(クメール・ハノイで現在は上院議員)。また、人民革命党政権期の出版物は、党中央委員会宣伝・教育委員会の事前検閲を受けることになっていた。現在はそのような制度はないが、管見の限りでは、人民革命党政権期の歴史記述は党史と似ていることから、現在も党史調査委員会の意向が反映されていると思われる。

④ 今回の発表への質問
(1)歴史教科書の記述の変遷を5つの点から検討したが、ポル・ポト政権と共産主義、あるいは、マルクス・レーニン主義に関する記述はどうであったのか?毛沢東主義に関する記述が1980年代にあったようだが、それ以降変化はあるのか?なぜなら、ポル・ポト政権を否定することは、マルクス・レーニン主義を否定することになり、人民革命党は自分たちの公式イデオロギーをも否定する可能性もあったのに、それを党はどのように表現したのか?
(2)結論部分で、「「民主カンプチア」が人民党の正当性論理の中で有効性を喪失」とあるが、本当にそう言えるだろうか?もしそうであれば、なぜ近年になって詳細な歴史教育を始めたのか?次世代に何を伝え、歴史から何を削除しようとしているのか?

コメントに対する回答(新谷)
① 1990年代の説明について
学習指導要領は、1995、1996年のものを分析した。それまでは1993年以降でも、学習指導要領の改訂は行なわれておらず、カンボジア国時代の教科書が使われていた。しかし、まだ収集しきれていない資料があり、今後の課題としたい。また、2001年の教科書がずっと使われたかのような記述をしたことは訂正する。ポル・ポト時代の記述は、2008年版の教科書で改めて出てくるようになった。

② 党史との比較
今後、党史が現れる場としての新聞、教育、大人を対象として人民党がどのような歴史観を出したのかという点も検討するため、分析対象を広げていきたい。

③ 質問への回答
(1)マルクス・レーニン主義の記述について。1980年代の記述では、ポル・ポトの趣向したマルクス・レーニン主義は科学的なものではなくて、間違ったものであり、それは中国の影響を受けた毛沢東主義であったという説明であった。つまり、人民革命党は、自分たちのマルクス・レーニン主義とは違うということを明確化していた。

(2)結論部分について。今回は分析範囲に含めなかったが、2011年版の12年生、9年生の歴史教科書のなかでは、「民主カンプチア」について詳しく記述されている。注目すべき点は、この記述の出典が、DC-Cam(Documentation Center of Cambodia, カンボジア文書センター)というNGOのものであること。このNGOは、イェール大学のジェノサイド研究の一部で、民主カンプチアの研究および市民教育を進める目的で設立された。DC-Camが発行した民主カンプチアの概説書の内容を、ほぼ全て教科書に使っている。所々で、ポル・ポトを嫌悪するという党の意向も入っていると思うが、党が打ち出したというよりは、国際社会、NGOが打ち出してきた歴史観を使っているのが現状である。

新谷さんの回答に対するコメント(山田)
 結論部分について
今までと何が違うか、つまり、1980年代は政治的プロパガンダであった内容に、記述の変化が客観的になってきたなど変化は見られるのか。ただ、DC-camとしては、悪いことをした人物を裁きたいという意向もあるため、客観性の判断基準が難しいのも事実である。2008年の国勢調査によれば、国民の65%がポル・ポト政権の後に生まれているので、人民党がポル・ポト政権を倒したということを教えていかなければいけないことが、大きいのではないか。人民党は、ポル・ポト政権から国民を救ったのが人民党であることを、ポル・ポト時代を知らない若い世代にも伝えていく必要があると考えており、クメール・ルージュ特別法廷の流れをうまく利用したのではないか。その限りでは、有効性は喪失していないと考えられる。

質疑応答
Q1(静岡県立大学、五島先生)
 3点ある。まず、今回のタイトルを卒業論文のものと大きく変えているが、卒業論文のタイトルの方がいいのではないかと思う。国定教科書を使っているにも関わらず、なぜカンボジア人民党/人民党政権によるというように書いているのか。政権自体は、人民党だけではなかったと思うが、あえて人民党と使う意図があるのであれば教えていただきたい。
 次に、学習指導要領は10年に一度の改訂、それを反映した教科書は何年ごとに発行されるのか。この点は、政府が何年間を一つの政治過程として見ているのかが分かると思う。
 最後に、カンボジアの学習指導要領は、社会科の授業で、どの項目を何時間教え、クラスでは何をポイントにして話題にするかなどが書かれているのか。どの点をポイントに教えるかということが重要なので、指導要領の資料自体は使っているようだが、そこから読み取れるものを教えていただきたい。

A1(新谷)
 タイトルについて。卒業論文では、事実確認に終始していた。今回の報告では卒業論文をもとに一歩進めて、公教育の場にみられる言説分析を通して、教育する側が何を伝えたかったのか、つまり、公教育を支配する政権がどのような政治意識を持っていたのかという点に着目して分析した。ただし、1990年代の政権は連立体制など、人民党だけではなかったことが事実であるため、今後、資料が集まればタイトルを変更することも検討したい。今回は、2000年代の教科書が中心であったので、人民党というタイトルにした。
 学習指導要領は、1995年以降、約10年に一度変更するようだ。1995年に初等教育、1996年に中等教育、2006年に初等教育、中等前期(中学生)、中等後期(高校生)に変更があった。カンボジア王国になってからまだ2回しか変更していない。
 何を中心に教えるかという点について。カンプチア人民共和国の時代は、祖国への貢献とは書かれているが、歴史教育の中で各時代ごとに教えるべきポイントの支持はない。民主カンプチア時代についてはPIK民族虐殺というタイトルだけしか書かれていない。1995年、1996年の指導要領には、民主カンプチア時代を教える規定が一切書かれていない。2009年になって初めて高校生用の指導要領のなかで、なぜ民主カンプチア体制が成立し、政治体制、や体制下の生活、体制が崩壊したのか、この時代を勉強するポイントなど書かれるものが出てきた。それ以前のものは具体性がない。

Q2(立教大学、弘末先生)
 民主カンプチアへの言及で、奴隷と言う言葉が多く使われているが、この時の奴隷というクメール語は何か。近現代史のなかで、人民と対比して使った言葉なのか。
 前近代の部では記述に変遷はないのか。つまり、常に輝ける過去として描かれているのか。また、政権の到達目標として、どのようなところが本来あるのか。過去をモデルにしているのか。前近代の位置づけはどのようなものなのか。

A2(新谷)
 奴隷という言葉は、1980年代から2000年代まで継続して使われているが、奴隷の捉え方は変わったと思う。1980年代は、アンコール時代は封建制度の下、住民が奴隷のように扱われ、シャムの介入に対して人民は闘争したと記述してある。この封建制度の奴隷を想起して、ポル・ポト時代の人々は「第2の奴隷のような」と表現していることから、第1の奴隷の時代があったと分かる。カンボジア王国時代の記述は、アンコールは輝ける時代と位置づけているので、奴隷は一般的に悪しきものとして描かれている。
 アンコール、ウドン時代が中心、よい意味、悪い意味でも扱われている。アンコールは、輝かしい過去として、ウドンは翻弄され侵食された時代として捉えられている。被害者意識をウドン時代、アンコール時代は英雄意識と捉えていると思う。どの時代をモデルかという点では、独立直後の功績を強調しているのが、現代史の教育特徴だと思う。

Q3(東京大学、北川先生)
 シハヌークの50年代の功績は一貫して描かれているのか。また、アンコール時代の奴隷(クニョム)は反自由民、隷属民のような捉え方で、奴隷(テッサコー)という言葉については碑文には出てこない。

A3(新谷)
 1980年代でも、シハヌークには「シハヌーク王」という敬称がついている。アメリカの帝国主義によってロン・ノルが利用され、その後、中国の手先であるポル・ポトという流れで描かれており、1950年代は否定的な書き方はされていない。80年代の3派連合時期のシハヌークは呼び捨てだが、1950年代は平和、中立の時代と捉えられている。カンボジア王国時代でも否定というよりは、1950年代は教育のレベルが上がり、中立国として独立を果たしたなどと記述されているが、敬称・呼び方だけでは分からないので今後の課題としたい。
 
Q4(東京外大、左右田先生)
 以前、マレーシアの歴史教科書における日本占領期の言説分析をした。歴史教科書には、著者が明記されており、教科書の記述において誰が責任を負うのかも明記されていた。また、著者へのインタビューもできた。カンボジアの教科書に関しては、著者などは明記されているのか。大学の歴史学者などが書くのか。また、参考文献は、教科書のなかに書いてあるのか。

A4(新谷)
 カンボジア国時代には、著者は明記されている。1993年以降、教科書作成委員会が発足し、著者は数人になった。これらのメンバーは教科書の最初の頁に書かれている。また、メンバーは、教育省の役人、大学の先生、学校の先生から構成されており、歴史の専門家を必ず入れるという決まりになっている。参考文献は、教科書のなかには明記されていない。

Q5(トヨタ財団、姫本さん)
 レジュメの2頁目に、1979年にユニセフの技術指導や、外国ドナーによる技術指導と書かれており、教科書内面の関与はないとのことだが、この「外国ドナー」とは具体的にどの機関か。
A5(新谷)
 カンボジア王国時代はADBが中心で、資金運用などの支援をしていた。

Q6(東京外大、土佐先生)
 歴史教科書の記述の変遷と党の正史との連動について。教科書記述は学術的に研究されている歴史と近いのか?一線を画すものなのか?

A6(新谷)
 2011年版12年生の教科書では、死者数の議論等、学術史の動向に沿っている。これまで300万人説を採用していたが、2011年版では戦闘で何万人死んだ、どこで何十万人死んだ等細かく死者数の描写をしている。合計しても100万人前後であろう。
Q7(東京外大、左右田先生)
 学校の教科書は子どもたちが歴史を知るメディアとして重要であるが、学校の先生たちはどれだけその教科書を使って授業をしないといけないのか。試験、学校の試験のなかでも必修なのか、選択なのか、テストに出題されるのか。

A7(新谷)
 教科書が唯一の活字資料かというと、人民革命政権期は唯一に近いのではないかと思うが、海外に亡命したカンボジア人が小説・自伝として自身の記録を出版することはあった。2000年代になるとポル・ポト時代の映画が市場でも手に入るようになった。
 教師がどの程度教科書を使うかという点。1980年代に関しては、1987年頃に首都近郊で教育を受けた人にインタビューをした。当時、教科書はなく、プリントを使用していたという。そのプリントが教科書の内容を映したものだったのではないかと思う。1990年代以降は、教員用の教科書ができた。教師用の回答なども書かれた部分があるが、今回は報告で使用する教科書に対応した教師用のものが入手できなかった。去年高校の卒業試験を受けた学生によると、民主カンプチア時代についてテストで出題の割合が増えたと言っていた。さらに今年から、高校2年生から理系・文系に分かれるようになり、文系は現代史学習の中で民主カンプチアについて勉強する。しかし、それ以前の試験内容についてはインタビューできていないので今後の課題としたい。

Q8(東京大学、北川先生)
 歴史を知る唯一のメディアという点についてコメント。人民共和国時代の最初の教科書は、1980年に発行された。政権が崩壊した翌年の1980年に高校生であった人々にとって、それは歴史ではないのではないか。つまりそれは、自分たちの経験そのものであり、冷静に書かれるものではなく生々しいものであり、わざわざ教えてもらうものだったのか。メディアを通して、歴史として検討、分析、暗記などの対象であったのか。歴史として扱われているのか。
 いつから歴史のなかに組み込まれ、歴史教育の中でポル・ポト時代の記述が削除されていたことは言及するべき。また、2009年以降は、状況が大きく変わっている。今では民主カンプチアは国際的な研究の対象となってきており、客観的対象になってきたといえる。民主カンプチア後に生まれた人たちが親になっている今、世代・時代区分を見出して、その意味を考えたら、意義があるのではないか。人民革命党だけではなく、今現在は王国であるため、シハヌークをどう扱っているのか、現在の体制のなかで、過去と別ものとして扱っているのか、独立カンボジアのリバイバルとして扱っているのかという点を分析に含めたらどうか。

Q9(東京外大、土佐先生)
 公教育、教科書、言説、その差異について。報告のなかで公教育と書いているが、教育そのものについては触れていない。言論が明確に国家から加えられる場としての教科書、教育が持っているスタンスはあるが、研究史動向に沿うようになっていくとともにこのツールが有効じゃなくなっているではないか。歴史としての視点、客観的事実としての視点なども踏まえ、テキスト分析だけでなく、視点を増やせると、さらにダイナミックな研究になると思う。DC-Camについては、民主主義イデオロギー、つまり、国際社会からお金を取っていかないといけないという中で作り上げられた言説ともいえるのではないか。

Q10(東京外大、田中さん)
 研究の位置づけについて。新谷さんご自身、発表の目的は明らかだか、研究史の中にどのように位置づけ、どこに意義を見出すのか。2001年の教科書が回収されたということから見えるのか、何がまずかったのか、どことの軋轢があったのかということまで見ると、そこから見えてくると思う。事実確認として、教科書は毎年改定されるのか。

A10(新谷)
 研究史への位置づけとして、カンボジアの教育研究と政治思想研究に貢献すると考えている。教科書はほぼ毎年発行される。学習指導要領に連動して大きな変動はあるが、どのような調整が毎年行なわれているのかが指導要領には書かれない。何年にどの教科書が発行されたのかという点は、2002年以降のデータは教育省にあるが、それ以前はまだ教育省の内部で整理中だという。
 教科書の回収問題について。2001年の回収理由について、新聞報道では死者数をめぐって間違ったことを出してしまったから回収したとある。しかし、2008年の教科書出との内容はあまり変わっていない。そのため、推察ではあるが、カンボジア王国時代の記述をめぐって何か問題があったのではないかと思う。

補足コメント(山田)
 2001年の教科書は、ポル・ポト時代から1998年あたりのことまで書いてあった。問題となったのは、1993年の選挙で人民党が負けてフンシンペック党が勝ったことに言及しない一方で、1998年の選挙で人民党が勝利したことは記述したという点。2001年当時は、まだフンシンペック党もそれなりの勢力を維持していたが、2008年の選挙後、大臣などは全て人民党がおさえた。おそらく、当時の政治状況から現代史の記述は全て削除することになったのだと思う。

A10補足(新谷)
研究の位置づけについて補足だが、カンボジアの教育研究は、開発や援助の対象としてカンボジアを捉える研究が多い。その観点から本研究は、そもそも教育をカンボジア政府がどう捉えて、どう利用していくのかという点で差別化できる。また、政治研究のなかでは、教科書を通して打ち出された政治意識が、党のなかでの議論がどう反映されたのか、党の政治意識・党の政治史と教育という点での位置付けができると考えている。

(文責:上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程 上村未来)

2011年度第5回(11月)の関東例会のご案内

関東例会11月例会(11月26日開催)についてご案内申し上げます。
今回は新谷春乃氏による「カンボジア人民革命党/人民党政権による「民主カンプチア」言説の変遷―国定歴史教科書の検討を通して―」、及び
Joss Wibisono氏による「Fascination with Fascism: Japan and Germany in the
Indies of 1930s」の2報告です。
詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2011年度11月例会>
日時: 2011年11月26日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)
報告者: 新谷春乃氏(東京大学大学院)
コメンテーター: 山田裕史氏(日本学術振興会特別研究員(PD))
報告題:「「カンボジア人民革命党/人民党政権による「民主カンプチア」言説の変遷―国定歴史教科書の検討を通して―」
<報告要旨>
本研究は、教育を国家の支配イデオロギー伝達の装置と捉え、教育の場に見られるカンボジア人民革命党/人民党政権の言説を分析することで、当時の政権の採用したイデオロギーの一側面を明らかにすることを目的としている。政権のカンボジア現代史評価において、「民主カンプチア」時代の捉え方は、カンプチア人民共和国の成立と、その後の政権の統治の正当性論理と密接に関連してきた。しかしながら、1979年以降のカンボジアの政治は一様ではないため、政権が採用する「民主カンプチア」時代を巡るイデオロギーの内容も、その都度変容してきたと考えられる。
本報告では、1979年から現在に至るまで、人民革命党/人民党政権による統治をひとつの政治的連続性をもったものとして捉え、その直前の体制であった「民主カンプチア」時代を、政権がカンボジア史の中にどのように位置づけ、記述してきたか、その変遷を明らかにするものである。政権による歴史認識が表出する場は様々にあるが、その中でも今回は国定歴史教科書の記述に焦点を当てる。ここで見られる変遷を通して、政権が採用するイデオロギーの中での「民主カンプチア」言説の有効性と限界を考察する。


☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:Joss Wibisono氏 (京都大学東南アジア研究所)
コメンテーター:コメンテーターはありません。
報告題:「Fascination with Fascism: Japan and Germany in the Indies of 1930s」
<報告要旨>
Japan’s victory over Russia in 1905 was, as widely known, an eye
opener for other Asian nations, especially those who were still
colonized. At last fellow Asians defeated the white race, so it was
perceived. Japan became a model and the interest in the country of the
rising sun extended well until the 1930s, a different period in Japan
as it embraced fascism. Information and knowledge about Japan filtered
through to the Indies mainly through publications in Dutch, which, in
turn, originated from Germany. This should not be a surprise, since a
close relationship has long been established between Japan and
Germany. In the Indies admiration for Japan grew into fascination for
Germany too.

Ki Hadjar Dewantara, leader of the educational institute Taman Siswa
and father of the Indonesian national education, admired Japan for its
tradition of Kokka or “to govern a nation as a family”, as published
in Wasita, one of Taman Siswa's periodicals. As an educationalist
Dewantara emphasized the importance of family, which he considered as
sacred and therefore adopted as a basis for Taman Siswa. At least in
the 1930s Dewantara educated his pupils as if they were brought up in
a family, the so-called Among System.

In 1930 Dewantara was also elected dictator of Taman Siswa. This was
actually his strategy to face Dutch colonial authority, which was
determined to shut down Taman Siswa. Taman Siswa was considered one of
the so-called “wild schools”, because they rejected government subsidy
and subsequent control. It turned out that as a dictator Dewantara
succeeded in putting the colonial authority’s attempt to shut down
Taman Siswa on hold. He also succeeded, for the first time ever, in
uniting nationalist organisations in the Indies. This means there was
no urgency to replace him as dictator. At best there was a change of
title, from dictator into general leader.

There are some striking continuations between Dewantara and Soeharto.
First and foremost Dewantara wanted to have a strong leader, and
Soeharto was indeed Indonesia’s strong man during 32 years of
Neuordnung. Dewantara was also one of the authors of Constitution UUD
45, which Soeharto used to rule with iron fist. Soeharto also governed
Indonesia as if he presided over a family. Not only did he confuse
being head of a family with being head of state, he also did not give
opposition a chance. Dewantara rejected division between employers and
employees. By applying the Pancasila labour relations, Soeharto, in
effect, prohibited labour unions.

In Dewantara’s fascination with pre-war Japan and Germany, we discover
the origins of Soeharto’s dictatorship and also, perhaps, a history of
the Indonesian Right.

J. Wibisono is senior producer at the Indonesian service of Radio
Netherlands Worldwide, Hilversum Holland.


今後の例会日程は以下の通りです。会場は東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。
2012年1月28日 土曜日(13時30分~17時45分)

すでにお伝えしている通り、本年度の関東例会は報告者が全て決定いたしました。
ご応募ありがとうございました。

また、下記の関東例会のブログにて、過去の例会の議事録及び今後の例会の案内を掲載しておりますので、ぜひご参照ください。
http://kantoreikai.blog.fc2.com/

来年度の関東例会については、日程が決まり次第、本メーリングリストと上記関東例会ブログを通して
報告者の募集および報告内容についてご案内申し上げますので、ご確認頂ければ幸いです。

青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2011年度第4回(10月)の関東例会の報告

10月22日(土)に行われた2011年度第4回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

東南アジア学会関東例会
日時場所:平成23年10月22日(土)13:30~15:30 東京外国語大学本郷サテライト5階
報告題目:「ジャカルタのベチャこぎ達 2010-11年、 狩った側、狩られた側そして援助した側の視点から」
報告者:東 佳史(茨木大学人文学部)
コメンテーター:大木昌先生(明治学院大学)

<コメンテーターよりコメント>
 ベチャ引きについては何の知識もないので、それについてはコメントできないのが申し訳ない。私はこの一年半ほど東南アジア研究から離れてNarrative Approachというものを研究してきた。Narrative Approachは、医療の現場からでてきた考え方。(今までは医療の現場で治療する側のストーリーばかり語られてきたが、治療される側、患者側のストーリーも聞かなければならないということ。) 今は社会学でも盛んである。Narrative Approachが東南アジア研究にどう適用できるのかを考えた。そのことについて今日はコメントしたい。
 まず、Narrative Approachがどのようなものか軽く説明したい。Narrative Approachは①Story と②Story Tellingという2つの領域がある。加えて、③Narrative Wordというものがある。
 ①について、例えば「今日は、御茶ノ水駅で降りて、外大のサテライトまで来た」というようにある事柄と事柄がただ繋がっていれば、因果関係で説明できてしまえば、それはStoryにならない。「御茶ノ水駅で降りたが、外大のサテライトまで来た」というように、“が”が入ってはじめて、そこに物語が生まれる。言葉にはなっていない何かがそこに隠されているということ。そこでNarrativeが成立する。
 ②について、ある事柄をその人がどう語ったかということ。どのような言葉を使って、どんなふうに話したかということ。生の言葉。この生の言葉に①で話した物語、つまりNarrativeの構造がでてきていると興味深い。
 ③Narrative Approachを考えるとき、Narrative Wordという概念がある。例えば「ヒロシマ」のように、その言葉によっていろいろなものが想起させられるような言葉のこと。1つの言葉でNarrativeの構造を持っているもの。今は「フクシマ」だけでひとつのワードになる。

・今日の発表の中にもNarrativeの構造を持ったところがたくさんあり、興味深かった。
・Narrative Approachが東南アジア研究にどう適用できるのかについて話したい。

 今まで私たちは、因果関係で説明するのが社会科学的な説明だと教わってきた。いかに法則的な説明ができるかに熱中してきた。しかし、そのことによって、私は大切な点を失ってきたように思う。私たちは、一般法則を念頭に置いて、ある程度の説明を省略してきたところがある。(リンゴを落とすと何秒で地面まで到達するかは、法則で決まっている、というようなこと)物理はそれでいいかもしれないが、人間社会はそうではない。より複雑な状況がある。それを広くすくい上げていけなければ、人文科学であろうと社会科学であろうと豊かな記述にはならない。
そう考えたとき、Narrative Approachには、大きな可能性がある。つまり、私が院生の頃、すべてを因果関係で説明し、普遍化する時に見落としていたもの。因果関係、構造的問題と考えていたころにこぼれおちていた、人々が何をどう語ったか、ということをNarrative Approachでは掬いだすことが可能かもしれない。ポスト・モダンでは、脱構築ということを目的としているが、それをどう行うかはまだないように思う。わたしはNarrative Approachが今のところ唯一それをできるものではないか、と考えている。人々の話の中からNarrativeの構造をすくいだしていかないと、豊かな、意味のある記述、研究にならないのではないか。もちろん、因果関係の説明は大前提としてある。そこからこぼれ落ちる豊かな社会、事象をどう描いていくかが課題だと思う。東さんのご研究について、私はそのような、Narrative Approachの部分に期待していた。そして、かなりの程度満足している。これ以上何をコメントすればいいかわからない。

 3月11日の東日本大震災の後、学生を連れて被災地の仮設住宅に行って、お話を聞きに行っている。仮設住宅にいる人たちに話を聞いても、単発的な言葉しかでてこなかったが、それはまさにNarrativeの世界だった。
 Narrative Approachは歴史研究でも有効かもしれない。歴史研究については、例えば、‘噂’がそれにあたる。例えば、オランダ植民地政府が子供たちを集めて天然痘の指導をするということがあった。そのとき、地域住民の反応は、「あれは、子供たちを集めて病気の予防の指導をするのではない。こどもたちは行政官の飼っているワニへのえさになってしまう。」という噂が流れた。そして、人々は子供を連れて森へと逃げていった。この話を、馬鹿馬鹿しいと、今までは気に留めなかった。一般化すると、「人々はオランダ植民地官僚に対して恐怖心を持っていた」となってしまうかもしれない。しかし、一般化して抽象化して構造化して、我々に何が残るだろうか。我々の持つ歴史が非常に貧しいものになってしまうのではないか。彼らの恐怖心を彼らはどのように表現して、第三者はどう解釈すればよいのか、を考える必要がある。
 東さんの決定的に有利な点は、今生きている人々に直接質問できるということ。(歴史ではそれができないから。) そういうところで、今までNarrative Approachのようなアプローチがなかったこと自体不思議だ。Narrative Approachをどうしても東南アジア研究に応用すべき、ということではないが、少し、言葉に敏感になるということが必要ではないか。そうするといろいろなことがわかると思う。関心のアンテナによって、得られる結果が変わってくるものだ。耳を澄ますことが大切だ。今回の発表ではベチャ曳きの組織者(Machtar)という良いインフォーマントが見つかった、ということは、逆に言えば、見つかってしまった、とも言える。インフォーマントが様々な情報を提供してくれる、ということは、それ自体ものすごいバイアスがかかっている。特定のインフォーマントに依存するよりも、いろいろなひと、例えば、あまり話がうまくない人、言語化するのが上手でない人、にも気を配るといい。
 例えば、福島の住宅の人の話。私たちが話を聞きに行ったとき、おばあちゃんが家の中から這うように玄関まで来た。そして、私たちが「ここでの生活はどうですか」と聞くと、「いい家です。ここはもう本当にきれいで」というような言葉しかでてこない。しかしこれは全くの嘘なのだ。避難所にいたころは確かに苛酷だった。しかし、そこにはコミュニティがあった。しかし仮設住宅では、コミュニティがなく、仲が良かった人ともバラバラになってしまっている。これから本当の孤独と辛さが始まる。しかしそのようなことは絶対に口にしない。しかし、直接的ではない間接的ないろいろな表現で、辛さのようなものを語ってくれる。そんなことも語ってくれない人もいる。しかし、彼らがわざわざ這ってまで玄関まで来てくれるという事実。そこまでして誰かと話したいという気持ちが表れている。

<コメンテーター対する、発表者の返答>
 Narrative Approachについては、90年代後半から流行っているようで、医学調査関係の本を英語で1冊読んだ。私もなるべく研究者のサイドから合理的なストーリーを作らないで、ということは考えていた。大変貴重なご意見を頂いた。
 噂についてだが、私が昔、90年代にベチャ曳きの出身村で調査を始めたとき、みんな自分がジャカルタでベチャを曳いていたという事実ををしてくれなかった。ベチャ狩りが行われていたときであったし、私が、ジャカルタのベチャの所有者に頼まれて村へ行って、没収されたベチャの損害賠償請求すると村民に思われ、噂が広がってしまったからだ。
 しかし村社会でその人の本当ことを知るには、隣近所に聞けばいい。隣の人はなんでも知っている。都会での職業は元より、夫婦げんかの回数まで知っている。
大木氏のコメントで、噂の重要性に気がついた。これからもう一度Narrative の意味を勉強して咀嚼してみたいと思っている。

(コメンテーターからの再コメントで、Narrative の本を読むなら、医学関係ではなく社会学の方の本を読んだほうがいい、とのコメント。その方がStoryとStory Tellingの構造がよくわかる。)

<その他のコメント、質疑応答>
・質問(インフォーマントの語りの部分について)
 ベチャ引きたちは、日本からやってきている、学者である発表者に語る、ということを意識しているのか。つまり彼らはある種の戦略性を持って発表者に語っているのか。その辺をどう感じたか。
答え
 新たな資金援助が欲しいという気持ちで話していた人もいるし、しかし全然話さない人もいた。ごはんをおごってもらえるから、私が自分のボスからの紹介だから断れないというジャワ人的な仁義で話してくれた人もいた。私は援助業界にいたから、援助資金という金の不透明な流れにすごく興味があった。概して外国人に近づいてくる人は、新たな援助資金を求めて、という人が多いと思う。

質問
 Rasudullah(以下、R)はどういう立場で関わっていたのか。 
答え
 ベチャ組合のトップはMochtar(以下、M)。しかし、援助する側(UPC=ワルダ氏)はえらくRを気に入ってしまい、結局2頭体制になってしまった。援助資金の流れとして、Mを通さず、直接Rに分割して渡してしまった。今でも、MはRの方が援助する側に気に入られていると考えているが、実際は違う。Rはかなり平気で嘘をついたりするようである。Rが何か現実を見失う前に、RはUPCのお金でバンコクへ研修旅行に行き飛行機にも乗った。知事選にも出てマスコミにも頻繁に登場した。それ以降、自分は偉い人だと思ってしまったのではないか。時代の中で脚光を浴びて、自分を見失ってしまったのかもしれない。

質問
 そもそもベチャという労働の在り方はどのような位置づけをされていたのか。
答え
 ベチャは、確かに1940年代はモダンな部門(日本軍政期の「貯金しましょう」、キャンペーンの例としてベチャの仕事がでていた)で世間体の悪いものでもなかった。それがガラッと変わったのは50-60年代。スカルノの有名な演説で「クーリーになってもベチャひきになるな。それは卑しいものだからだ」というのがあった。そして、最近でもワヒド元大統領ですらベチャ引きについて「あれは馬の仕事だ。馬の代わりにするものだ」と話し毛嫌いした。植民地化された国、インドネシア独特の、屈辱感的なものを思い出させるようなもの(人間が人間を運ぶ、ということ)である。ベチャこぎがベチャ業のことを語るときに、自分の体で汗を流して稼いだ金で汚職するよりましだ、ベチャ業はHalalだと彼らが話すことはよく聞いた。

質問
 語りをどうズームアウトするか。どう一般化するか。
答え
 Generalizeしろ、ということは、大学院生時代、いやというほど言われた。例えば7-80年代のジャカルタのスラム街の口承史を表したLea Jellinekの博士論文は一般化されていないEmpty Boxのようだと複数の指導教官に言われ、提出するまでに10年以上かかった。最終的にマーリー・リックレフというインドネシア史の大家が指導して提出できたが、7-80年代のジャカルタを16世紀のロンドンと比較するとういう形で一般化・普遍化している。
 今回の調査では普遍化は定量分析の時に行っているので、 質的調査では無理に普遍化する事はないと思っている。散文的でもいい。Empty Boxでもいいと思っている。ただNarrative を並べていく方法も面白いと思っている。

質問
 ベチャと対応できるもの、比較できるもの(Ojekとか)、との比較対照は考えているのか。
答え
 JakartaのOjekは研究成果が多いが、ベチャと同じような構造的背景や発見しかなり。もし比較する対象ならば、東南アジア大陸部、例えばカンボジアのシクロだと思う。ベチャは強制的に排除し消滅したが、カンボジア、プノンペンのシクロは強制排除もせずに自然消滅の形をとっている。その対比は興味深い。

質問
 ベチャ引きの仕事は社会の上では規制がかかっているのにもかかわらず、彼らはなぜ「ベチャひきはハラールだ」と言うのか。
答え
 彼らにとっては、「きちんと汗を流して働いている」という事である。イスラーム教でいうところのハラール(まっとうな)の意味で使っている。(現実の法律ではなくて)しかし、ジャカルタ上流階級のベチャ引きへの蔑視は根深い。私の豪州留学時の友人が今、大統領補佐官をやっているが、彼でもベチャに対する蔑視は感じられる。
質問
 UPCについて。その活動の目的は、ベチャ引きの所得を増やすことだけでなく、エンパワーメントという側面も持っているのだと思う。外部からのそのような働きかけで、ベチャ引きたちの意識も変わったのか。
答え
 ラジカルな立場の人は、「都市貧困民の闘争運動」ととらえる。しかし、ベチャ曳き達は自分のその日の収入にとらわれてしまうのが実態。そしてそれを私たちは批判することはできない。みんなその日、食べていくことに必死なのだから。

(文責:東京外国語大学大学院 井桁美智子)


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日時:10月22日(土)15:45~17:45
報告題:「競合する語り―香港で働くインドネシア人移住家事労働者女性のイスラーム文学創作グループの事例から」
報告者:澤井 志保(東京外国語大学大学院)
コメンテーター:Dr Elizabeth Chandra(慶応大学)

【コメンテーターからのコメント】
 このような研究トピックは、政治経済、労働や倫理、文学、女性のエージェンシーなどの多くのテーマを内包している。また、高等教育を受けない移住家事労働者の文学創作は、インドネシア語文学の世界ではアマチュア的なものだとして周縁化されていることからも、このような文学作品をあえて取り上げて論じることには意義があると考えられる。
 しかし、国際移住家事労働者というカテゴリーが、インドネシア語文学の著者としては異端的であり、またインドネシア人の読者は、このような作品における語りに簡単に自己同一化できるとは限らないという意味では、国際移住家事労働者による文学作品が、インドネシア語文学の歴史とジャンルの中にどのように位置づけられるか、また、この発表で取り上げられたペン・サークル以外に、どのようなグループが存在しているかについての議論があると、考察に十分な奥行きがでるのではないかと思う。
 この研究が、国際移住家事労働者の語りを、社会運動における語りにあらわれる弁証法という分析概念を使用して詳細に検討するスタイルは、この研究のオリジナリティの根幹をなしている。特に、語りに見られる象徴的な二項対立の転覆を、メトニミーという概念でもって丹念に追うことが行われているが、このような手法は、分析概念として有効である一方、語りを理論の中に閉じ込めてしまうような危うさももっており、ともすれば、語りを単に理論にうまくあてはめているような印象をも与えかねない。その意味で、理論のプレゼンテーションの仕方には工夫が必要だろう。また、理論を前面に押し出すあまり、著者の語りを、『国際移住家事労働者性』の枠組みの中に押し込め、最周縁化するような事態を避けるためにも、細心の注意が必要だろう。
 加えて、この『イスラーム文学創作運動』を語る上で、ここでいわれているイスラームの意味を明確に定義づける必要があるだろう。宗教としてのイスラーム、文化としてのイスラーム、そして、文学的ジャンルとしてのイスラームなど、インドネシア社会においてのイスラームの意味は非常に豊かであり複雑でもある。従って、メンバーたちが自明のものとして使用しているイスラームの意味を再定義することは不可欠だと考えられる。
 最後に、このような語りが誰に向けられているのかを考えることは、作者にとっての書くことの意味を考える上で重要だろう。語りの多くが香港ではなく、むしろインドネシアを舞台としている事実は興味深い。これは、インドネシア国内のメディアなどによる言説が、国際移住家事労働者を社会的逸脱者としてセンセーショナルに取り上げていることにも関連しているのではないか。このような面からも、語りが、自分のこうありたい姿を通して権力関係を転覆するプロセスが、語り手の「アイデンティティの操縦」と不可分であるというひとつの証明になるかもしれない。

【応答】
 香港におけるインドネシア人移住家事労働者の文学創作グループには、在香港インドネシア領事館のサポートにより結成、運営されていたサンガル・ブダヤ、スカル・ブミ、テアトル・アンギンなどがあげられる。しかし、イスラーム色を打ち出しているのはペン・サークルのみである。
 研究中での理論の扱いについては、現在も模索中である。私がこの研究を通して訴えたいことは理論的革新というよりは、移住する女性の語りにどのような意味があるかということなので、今後も、このような語りのユニークさを伝えるために一番効果的な理論の使い方を吟味したい。
 この運動の「イスラーム性」をどう定義するかも、今後の課題である。ペン・サークルが問題としている「イスラーム」とは、政治的・宗教的なイスラームとはまた違う、いわば日常生活における文化的なレベルでの宗教実践である点についてどのように記述するかを考える必要がある。
 メンバーが誰に向けて書いているかというと、インドネシア語話者であるというのは、言語面から明らかである。確かに、インドネシア国内で、女性移住家事労働者を露悪的にとらえる言説は、新聞などのメディアにもよく見られるので、インドネシア国内での社会的風潮に対して抵抗するために書いているということは十分に考えられる。しかしながら、メンバーたちは、自分たちが出版した本が売れるかどうかについてはあまり気にしていないという点も象徴的である。実際、印刷した本を販売のために流通させず、かなりの部分を家族や友人に配る著者もいることを考えると、文学出版活動が、商業的利益を得る目的というよりは、自分の経験をかたちにして残し、親しい人と共有するというような意義をもっていると考えられる。その意味では、メンバーにとっての文学出版活動は、自己洞察的、ないし、自己と親しい人たちとの社会関係の中で、意義づけられているとも考えられる。

【質疑応答】
・イスラーム系文学創作グループを取り上げることの意味は?

 まず第一に、私がこの調査を始めたころは、ペン・サークル以外にはほとんど、インドネシア人家事労働者の文学創作グループが存在しなかったというのが、この質問に対するテクニカルな答えである。
 ペン・サークルが随時分裂して、グループを離れて新しいグループを形成していったという例もあることを考えると、ペン・サークルがイスラーム系だから取り上げたというよりは、一連の移住家事労働者による文学創作活動の萌芽的な団体であることが、このグループに注目する一番の理由である。
 香港に在住するインドネシア人のほとんどが、ジャワ出身の移住家事労働者である状況で、香港でインドネシア人というと、「女性」「家事労働者」「ムスリム」というような、ジェンダー・階層・宗教に分岐したステレオタイプが普及している。その中でも、ムスリムとしてのアイデンティティが、香港人・フィリピン人(香港の外国人移住家事労働者の中での、インドネシア人に次ぐ多数派グループ)から自己差別化を行う上でのひとつの重要なキーワードとなっており、香港の文脈で、インドネシア人であることを端的に表現するうえ上での疑似的国家アイデンティティとしても機能している状況がある。その意味では、インドネシアで行う「ペンによるダアワ運動」と、香港で移住家事労働者が行う「ペンによるダアワ運動」は、また違った意味を持つのではないかと思われる。そのような理由から、あえて「イスラーム」系文学創作グループを取り上げた。

・メンバーたちは、何のためにグループに参加しているのか?

 インタビューでとったデータからは、この問いに一貫した答えを導くのは難しい。ひとそれぞれ、いろいろな理由で、このグループに参加しているからである。ただ、わりと共通してみられるのが、「ポジティブな活動に従事して、休日の自由時間を埋める」という回答であった。
 香港では、週一度、24時間の休日が外国人家事労働者に保証されている。しかし、彼女らは、休日に雇用者の家でゆっくりすることはなかなか難しい。そのような理由もあり、何らかの社会活動に参加するというのは便利な選択肢である。また、インドネシアで、移住家事労働に対するネガティブなイメージが浸透していることにメンバーは気づいており、だからこそ、自国で待つ家族たちにも胸を張って報告できるという意味で、「ペンによるダアワ運動」に参加を決めるのではないか。

(文責:東京外国語大学大学院 澤井 志保)
 

2011年度第4回(10月)以降の関東例会のご案内

10月以降の関東例会の案内(報告者、タイトル(仮題))です。
(2011年9月19日現在)

未定の箇所や、報告要旨、コメンテーター等の詳細、最新のお知らせは、各月例会の1か月ほど前に、東南アジア学会のメーリングリストおよび、本ブログを通じご案内致します。


<10月例会>10月22日(土) ※報告順が変わりました。ご注意ください。
第一報告(13時30分~15時30分)  → 第二報告(15時45分~17時45分)
 報告者: 澤井志保氏 (東京外国語大学大学院)
 報告題:「競合する語り―香港で働くインドネシア人移住家事労働者女性のイスラーム文学創作グループの事例から」

第二報告(15時45分~17時45分) → 第一報告(13時30分~15時30分)
 報告者: 東佳史氏(茨城大学人文学部)
 報告題:「ジャカルタのベチャこぎ達 2010-11年、 「狩った」側、「狩られた」側そして「援助」した側の視点から」


<11月例会>11月26日(土)
・第一報告(13時30分~15時30分)
 報告者: 新谷春乃氏 (東京大学大学院)
 報告題:「国定歴史教科書にみる「民主カンプチア」言説(仮)」

・第二報告(15時45分~17時45分)
 報告者: Joss Wibisono氏(京都大学東南アジア研究所)
 報告題:「未定」


<1月例会>1月28日(土) (13時30分~17時45分)
・第一報告(13時30分~15時30分)
 報告者: 関本紀子氏(東京外国語大学大学院 日本学術振興会特別研究員PD)
 報告題:「植民地期におけるベトナム度量衡統一政策の進展と地域性(仮題)」

・第二報告(15時45分~17時45分)
 報告者: 久保真紀子氏 (日本学術振興会特別研究員)
 報告題:「プレア・カーンにおける出入口装飾の主題とその配置構成について」

会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

2011年度第4回(10月)の関東例会のご案内

関東例会10月例会(10月22日開催)のご案内を致します。
今回は東佳史会員による「ジャカルタのベチャこぎ達 2010-11年、「狩った」側、「狩られた」側そして「援助」した側の視点から」、及び澤井志保会員による「競合する語り―香港で働くインドネシア人移住家事労働者女性のイスラーム文学創作グループの事例から」の2報告です。
詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2011年度10月例会>
日時: 2011年10月22日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)
報告者: 東佳史氏(茨城大学人文学部)
コメンテーター: 大木昌先生(明治学院大学)
報告題:「ジャカルタのベチャこぎ達 2010-11年、 「狩った」側、「狩られた」側そして「援助」した側の視点から」

<報告要旨>
ジャカルタの輪タク(ベチャ)は1970年代からジャカルタ州当局から営業の規制を受けて遂には1992年に全廃された。そこには州治安維持隊(KAMTIB、TRAMTB、SATPOL-PP)がベチャやカキリマ、路上生活者、売春婦等を暴力で取り締まってきた背景がある。一方、規制を受ける側は規制を逃れようとし、時には暴力で抵抗する。スハルト期には規制は成功していたが、民主化の時代は一方的な暴力は許容されなくなった。民主化の時代の副産物はNGOsの勃興である。UPC(Urban Poor Consortium)はベチャこぎの労働権を重視しアドボカシーを行った。同時に、組合を作りベチャを持ち、その賃料で更にベチャを買い足して生活向上につなげるというソーシャル・ビジネスを始めた。本発表はNarrative Approachを用いて、スハルト開発独裁から民主化の時代でのベチャを狩る側(州の責任者)とベチャ曳き達(ベチャ組合員)の確執とベチャ曳きと援助しようとした(UPC)側から検証する。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:澤井志保氏 (東京外国語大学大学院)
コメンテーター:Dr Elizabeth Chandra (慶応大学)
報告題:「競合する語り―香港で働くインドネシア人移住家事労働者女性のイスラーム文学創作グループの事例から」

<報告要旨>
近年のアジア域内での移住再生産労働の国際化は、女性による新たな社会運動を出現させている。本報告は、香港で働くインドネシア人家事労働者女性のイスラーム文学創作グループの活動を取り上げて、メンバーによって創作された短編小説テクスト中に存在する複数の『競合する語り』が、このグループのスローガン『ペンによるダーワ運動』をどう分節化するかについて検討する。
 これは、国際移住家事労働者女性が、文学創作と宗教を道具として、国際移住労働に伴う①相反的階層移動と、②ジェンダー序列の再編成に応答しつつ、「望ましい自己表象」を行う行為と不可分である。従って、ここでは、①②の構造的要因が、メンバーの自己表象にどのように影響しているのかを考察するために、「理想の女性像」「国際移住家事労働の意味」「理想の労働関係」というテーマについて、語りに現れる価値観の競合を分析する。その上で、複数の語りが、イスラームという枠組みを有効利用しつつも、それを大きく超えて、さらに「ジャワ農村文化」「労働倫理」「再生産労働の国際分業の論理」と交差しながら、「理想のインドネシア人移住家事労働者女性」を表象する状況を浮き彫りにする。
 加えて、一見わかりやすく、規範的にもなりがちな、語りにおける価値観の競合が、実は、そのような二項対立性をを内側から突き崩すような、オルタナティブな解釈に向けて開かれている点を指摘して、この運動が、『ペンによるダーワ』を超える意義を持ちうる可能性を示唆したい。

なお、第一報告においては、コメンテーターの大木先生のご都合により、東氏の報告が45分間、大木先生のコメントが15分間となり、それから質疑応答となります。ご了承ください。

2011年度第3回(6月)の関東例会の報告

6月25日(土)に行われました2011年度第3回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)
の議事録データをアップします。


東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

東南アジア学会関東例会
日時場所:平成23年6月25日(土)13:30~15:30 東京外国語大学本郷サテライト5階
報告題目「11-13世紀のパガンにおける周辺諸地域との文化交流 -インドとスリランカとの関係を中心に」
報告者:寺井淳一(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)
コメンテーター:奥平龍二先生

1.コメンテーターからのコメント
【本報告の評価】
・ビルマ文化の起源であるパガンに関し、南インドとの関係を同時代の資料を用いて研究している本研究は、1970~80年代以降進展のなかった碑文研究を問い直す意味でも、注目すべきものであり、今後が期待される研究である。
・ビルマを含め東南アジアの研究は、インド、スリランカを含めた環ベンガル湾文化交流という、広域圏に位置付けて研究する必要性を感じていた。パガンを、南インド、スリランカ等との関連から捉えようとしている本研究は、そのなかに位置付けられる。

【コメント】
歴史の視点から感じたことは以下の3点である。
① スリランカから東南アジア大陸部に伝播した南方上座仏教と王権との関係について
スリランカでは王権の庇護の下で、王権と教団組織の強いつながりのモデルが出来上がり、それが東南アジアに伝播した。上座仏教は、王が受容することで人々へ遍く広がったとはいえ、仏典と膨大な注釈書を携えて伝わった経典仏教であり、また、僧侶の存在が重要視される出家者中心の仏教である。パガンの宗教建造物に、東北インドの密教系の様式が多く、スリランカ様式が少ないと寺井氏の報告にあったが、僧侶の交流が非常に頻繁であるというスリランカ仏教の特徴が如実に捉えられているのでないかと感じる。

② 留学僧と森林住僧とのつながりについて
森林僧が、当時正統な仏教で、中心的存在であったという寺井氏の捉え方は説得的である。ナラパティ王時代に、スリランカに派遣されたモン人の僧侶チャパタが、10年間修業して1190年頃帰国した後、スリランカ教団「シンハラ比丘サンガ」を設立した。マハーカッサパ系の森林住僧はその後に創設されおり、留学僧に反発してなのか、あるいはスリランカで権威をもつマハーカッサパの権威を利用してなのか、いずれにせよ、留学僧と森林住僧の関わりが濃かったのではないかと考える。それがその後13~15世紀に、森林住僧がビルマ仏教界のなかで主流となっていく過程とのつながりとしてみえるのではないか。

③ アリー僧について
アリー僧とは何なのかという議論は盛んに行われてきた。1950年代に歴史学者のタントゥンは、『タータナーリンガーヤサーダン(ビルマ上座仏教史)』の記述を批判し、アリー僧が権勢を奮っていたのはパガン時代の初期からではなく13世紀になってからだと論じたが、メンデルソンはそれを批判した。こうした議論に対し、寺井氏の、パガン初期のアリー僧と13世紀のアリー僧を別物だとする新しい捉え方に賛同したい。
密教系仏教や大乗仏教、固有の信仰が混交したなかに上座仏教が入ってきた。パガンのアノーヤター王が上座仏教を受容するために、アリー僧を密教的として排除したと語られる。しかし、アリーと同一視される森林住僧の存在は、実際には決して密教的ではなく、三法の信仰に篤く、パーリ聖典にもとづいた正統な信仰であったことは、碑文からもわかる。

【質問】
・結論部分について
寺井氏は本研究の結論として、上座仏教が基層にあり、それが大乗仏教、密教系仏教、ヒンドゥー教を許容するものであったと新説を打ち出している。しかし定説では、大乗仏教、密教系仏教、ヒンドゥー教などの混交した信仰を基層とし、そこに上座仏教が到来して、既存の信仰を包含しながら徐々に浸透していったと捉える。上座仏教が基層にあると捉えるのは逆なのではないか?
―寺井氏の回答
大乗や密教の混交のなか、アノーヤター王によって上座仏教がとりいれられたのは事実だが、大乗、密教的といわれるものがそれ以前に顕著にみられず、パーリ仏典で解釈できるものばかりがでてくるので、基層はスリランカの上座仏教なのではないかと結論付けた。
―コメンテーター
古い時代の宗教史を理解する上で、碑文の詳細な研究は新しい発見を生むのではと期待している。

2.質疑応答-主な議論点
①結論部分の、寺井氏の新説と従来の説との対立について
・ヒンドゥー寺院の痕跡があまりないのは、結論の趣旨と異なるのでは?
―パガンに来ていたインド人たちは自身の信仰対象をあまり作らず、彼らの痕跡はパガンの一部の仏教寺院壁画に装飾的要素として残るという認識。

・クラーはほとんど奴隷として書かれているが、インドの力が衰えたことにより、パガンにおけるインド観は変化し、その結果スリランカと接近したのでは?
―クラーは手に職をもった者として描かれており、技術的にはインドを尊重していたと読みとれる。スリランカに関しては、仏典と仏舎利があるため、インドより尊重していた。

・スリランカに十字型寺院がないのだとすれは、フレームワークは北インドであり、寺井氏の指摘とは逆なのでは?
―美術史的側面での基層は東北インドのもの。しかし寺院で重要なのは礼拝対象であり、ジャータカ、過去28仏などがつくられている。思想的な面での基層を考えるとスリランカからきたパーリ仏教である。

・長者がパゴダを建て、そのパゴダが僧院とのコンプレックスを形成することなく独立して存在することは、パーリ仏教にないにも関わらずパガンにみられる。パガンの仏教の基層に、スリランカの上座仏教があるという結論と矛盾するのでは?

・ピューとパガンの関係は?
―否定ではなく継承関係。ピューは、図像からは北インドと南インドの影響がみられるがスリランカはない。

・大乗仏教の特定の経典に基づいた図像が見られないというが、大乗仏教は経典なき仏教ともいわれるので、痕跡が無いのは当たり前ではないのか?
―指摘の通りかもしれないが、特定の大乗経典に基づいた図像が見られないということは、大乗仏教の影響はあっても、体系だった大乗仏教はパガンに入ってこなかったと考える。

②森林住について
・森林住とは?どこにいるのか?
―明確には不明。人里離れた場所といわれる。洞穴状態の僧院がいくつか残っている。

・森林僧院とその他の寺院との関係は?分裂しているのか?関わりがあるのか?
―森林僧院に関する碑文は寺院の碑文からでてくるので、付属していたのではと考える。

・森林住僧を指すアリーの語源がアランニャだと断定する理由は?
・正確な語源というのは分かるものなのか?
―アリーの綴りをパーリ語風にローマ字転写するArañとなるが、ビルマ語のñはパーリ語のññに相当するのでAraññaとなる。アランニャとは人里離れた場所のことを指し、その場所での修行のことをアラーニカと言うが、アリーの語源としては、場所を指すアランニャであろう。ただ、後世の史料に現れるアリーとパガン時代の碑文に見られるアリーあるいはアランニャとは違うものだと考えている。


(文責:東京外国語大学大学院 生駒美樹)


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日時:6月25日(土)15:45~17:45
報告題「インドネシア映画「オペラ・ジャワ」に見る『インド』のインドネシア化:ラーマヤナ物語をイスラーム社会で語ること」
報告者:青山亨(東京外国語大学・大学院総合国際学研究院教授)
コメンテーター:坂田貞二先生

1.コメンテーターによる北インド版「ラーマヤナ」との比較講義
北インドのバールミーキ版ラーマヤナは、前2世紀から後2世紀にかけて成立された大叙事詩である。成立期から今日に至る迄、インドではタミル語版(9世紀頃)、ベンガル語版(15世紀頃)、ヒンディー語版(16世紀)など様々な言語で物語や演技が創作されてきた。
ラーマヤナとは、「ラーマの行い」、「清らかな水がある所」、シータとは「畔や土の窪みから出てきた子」として理解されている。原版バールミーキ版ラーマヤナ物語に出てくるシータは、ラーマに救出された後、火の神に包まれ無傷で出てくるため、無垢と考えられているが、然るに国に帰ると国民からは本当に大丈夫かと疑われ、仕舞には追放され森に追われてしまう。森でシータはラーマの子を身籠るが、最後は土に呑まれて姿を消す。ラーバラが浚いに来ると察知した時、ラーマは火の神にシータを預け委ねて、「お前(シータ)は火の神に守られている」と一言残す。小屋に残ったシータは幻の姿に変貌し、ラーバラに浚われる。しかし、ここではラーバラは生身のシータを浚ったのではなく、幻の姿のシータを浚っていったと理解されているため、シータは永久に完全なるピュアな存在として描かれている。ここで注目すべきは、上述したバールミーキ版ラーマヤナでシータは、完全なる無垢、清浄であると絶対的に語られることである。インドにまつわるヒンディー語で受け継がれる従来の「ラーマヤナ物語」にみるラーマとシータの関係は、本報告で取り上げられたインドネシア現代映画の悲劇的エンディングとは異なっている。
また、タミル語版ラーマヤナ物語では1930年代にアンチテーゼとしてのラーマヤナ物語が再生産され、登場人物の位置づけが再編されていった。例えば、ラーマは麗しいのではなく好色の男として描かれ、一方シータは亭主関白であろうとするラーマに口答えをするひどい女として描かれた。また南インド地方ではシータとラーバラの関係が繋がっていたりもする。
その後、北インドのラーマヤナは、インドのトゥルシダス僧侶(吟遊詩人)によって語り継がれてきた歴史をもつ。16、17世紀頃から野外劇として演じられ始め、18、19世紀以降になると北インド一帯で野外劇がセミプロ化し、盛んに公演されてきた。北インドのバナール地方では王族一族がスポンサーとなって各町内会で役者を集い、ヒンドゥー教の神々を崇拝するラーマリーダー(遊戯)を演じ、場所を変えて公演される。こうした遊劇の宣伝広告のビラが床屋や路地型の街角で散見される。一定の裕福な家庭は男児の誕生日になるとラーマリーダーの一座を招聘する。秋季ラーマ生誕の時期になると僧侶が主導となってラーマ振興会の会員たちが野外劇を主催する。
1869年に出版された石版刷りのラーマヤナ物語の書籍には、ラーマ生誕記の場面が描かれている。その書籍のなかにあるシータがラーバナに浚われる一場面を参照すると、ラーバナは悪魔ではなく苦行僧の格好をして喜捨するようにとシータに言い寄り、牛車にシータを無理やり乗せようとする姿が描かれている。また、ラーバナがシータの手を直接引っ張り台車の上に無理やり乗せて連れ去ろうとしている場面や、シータを土ごと掬って奪おうとする場面も描かれている。この書籍から分かることは、時代が遡るにつれて、シータを清らかな存在として描き、清浄化を図ろうとする傾向があることである。
またインド国営放送テレビ番組『ラーマヤナ物語』(1987年1月~88年7月迄1回40分・78回連続ドラマ)は、制作者側の制作目的・意向によってバールミーキ版やヒンドゥー語版ラーマヤナ物語から意図的に厳選され、テレビ番組版として脚色された。従来の『ラーマヤナ物語』との相違点は以下3点である。
第1に、カースト、階級制度へのアンチテーゼ的役割を果たした点である。番組内容の大筋は、従来の物語に沿って進行するが、ラーマの生涯を通して物語は「それぞれ自分の道を則に従って歩みなさい」と教示する。ラーマや弟達が学業を修める為に城での生活を離れ、師の元に弟子入りする。ラーマの父である王様は「師に仕えるには師が寝た後に自分が寝る。師が起きる前に自分が起きる。また例え自分が王族の身分の者であっても、師の家で様々な境遇で育った者がいるため、カースト制、階級、身分を忘れて、子どもとして師に仕えよ」等と教え諭す。第2は、ヒンドゥー社会における夫婦の絆やその模範を示している点である。シータとラーマの結婚後の二人が話し合う場面で、シータは「私はあなたの下女ですが、何でも仰せの通りに致します」とラーマに伝え、それに対して「お前は私の半身であり伴侶である。私がもし間違ったことをしたら私にそれを正すように忠告してくれ」と伝える。ヒンドゥー社会では実際、男性が優位に立ち、一方女性が家内で鍵を握る構造になっている。番組は、これを理想化し、夫婦の繋がり、有り方を画面の向こう側から視聴者に訴える。第3は、人倫への理解である。ラーバナが武器を落としてしまった場面では、「敵に対して武器を落とした者を私は討つことはできない」として主張する。
 こうしたテレビ番組放送の背景には、1992年ラーマ生誕の地として縁のある寺院内のムスリム礼拝堂がヒンドゥー教主義者のグループによって破壊される事件が起こったことや、新しい政権が政治権力を掌握して本番組を支持していたことも考慮できよう。

2.コメンテーターに対する報告者の回答
インドネシアでもテレビ版ラーマヤナ物語は放映されてきた。国民からも絶大な人気を得て親しまれ、放映当初はヒンディー語で放映され後に吹き替え版が放映された。今日でも、バリ地方では当番組が再放送されており、今尚バリでは鑑賞され続けている。

3.その他の質疑応答 
質問:ジャワ・オペラ演劇を鑑賞する人々の存在に着目し、ラーマヤナ物語に「ジャワ的なもの」、「ヒンドゥー的なもの」を組み合わせて創作されている点についてもう少し詳しく言及して欲しい。ベトナムにはベトナム版ラーマヤナ物語として理解できる『カンボジアの皇女』という人気番組があり、皇女が自殺するという意外な展開でクライマックスを迎える。従来のベトナムのドラマ番組に比べると稀なプロットをもつこの番組は人気が高い。この場合、視聴者はインド化を一切考えていないので、インド化の議論はおかしいのではないか?
回答:ご指摘の通り、ジャワに息づくラーマヤナ物語を考える上で重要な視点であるが、簡単に言えば本報告の題材は芸能であり、宗教とは関係ないと捉えている。にもかかわらず、内在化したインド化と主張し、究極的に行き着くところは非宗教的な文化的要素が内在したジャワの文化として残っている。また、本映画を単なる芸能で済ましていいのかというと本研究では違うと答えたい。たとえば、ジャワでは、『マハーバーラタ』の方が鑑賞され、そこに哲学が込められているとして理解されている。自覚的なジャワ人であれば、それがインドに由来するものであることの意識は少なくともあると言えるであろう。一方、ラーマヤナ物語は、ジャワとバリの間の地域的空間を芸能として往来している。芸能としてのラーマヤナの観点から言えば、1961年ジャワで「スンドラタリ」が創始され、ジャワとバリの舞踊家たちの間でノウハウ、演出技法、知識等が伝授され、翌年62年にはバリにも「スンドラタリ」が伝わる。つまり、ジャワで行われた芸能が、ヒンドゥー教であるバリ人にも受容され継承されていく点から、完全に宗教と切れたものとしていうことはできない。また、ジャワ人には「クリシュナ祭」や「ラーマ生誕式典」などはなく、あくまで芸能というジャンルのなかで、ラーマヤナ物語が受け継がれている。

質問:この映画ではシータ自身は何を欲していたのか。また、シータの行動から何がシンボライズされていたのか。
回答:脚本家、ルディオ監督へのインタビュー等の記録を確認しても、シータの表象は言及されておらず不明確のままである。ただし、シータは大地を表すシンボル的存在から、人間と自然との関係性、自然に対する人間の道徳を表していると理解できる。しかし、シータのキャラクターとして映画に出てくるシティは何を求め、何をシンボライズしているのか。これについては、謎である。シティは、何度も心象イメージの中で、繰り返しルディロの影が現れ、最終的にはルディロからの誘惑に対して心を揺れ動いてしまった。またルディロの家に向かって敷かれた長く赤い絨毯の上を自転車で駆け抜けていくシティの姿はルディロに魅せられ、彼に対して性的な欲望があったかというと究極的にはそのような訳ではなかった。そこで、仮説的に考えるならば、シティはスティヨとの生活に拘束され、がんじがらめになっていたところ、自分自身の生命力を発散したい欲求の表れだったのではないか。一度踊ることを捨てたが、再び踊ることによって自らの主体的な生命力、抑制された自らのエネルギーを内部から発散したいと希求していた。

質問:女性の観客は、この女性に対してどのように捉えるのか?
回答:今回の論文執筆においてジェンダーの部分のデータを集めることはできなかった。今後の課題である。

質問、コメント:映画の一場面で、スティヨが陶磁器の上にシティを載せて、土で固めるシーンがあった。このシーンが意図するのは、どのような女性を描くか、生き方を選ぶかといったジェンダー解釈にまで至らなくとも、これまでの男性社会で閉じこめられてきた女性がどのように自分の生き方を求めていくか描き出すことであったのではないだろうか。この背景には、徐々に映画産業が復興してきた中で女性監督の増加、更には都市部の富裕層やシネコンなどに集客する都市部の富裕層の若者たちの台頭をインドネシアの場合は指摘できないだろうか。
また、ヒューマニズム映画のヒットした視点から考えてみると、宗教的要素の強い映像を放送するのではなく、自然災害を通じて若者達が地方色を入れながら、宗教色を廃絶する動きもあって、若者の視点で好まれる作品を若者がつくりだしている、ということはないだろうか。
回答:1990年代、インドネシアの映画産業はテレビの普及によって一時低迷する。しかしスハルト政権崩壊直前、インドネシアでは経済発展の後押しを受けて、映画産業が復活しだす。同時期に女性監督・プロデューサーが登場し、女性性の描き方は一昔前と変化している。また、ヒューマニズムについてはインドネシアでは今日でも熱く語られる。スハルト政権下、権力による暴力的な抑圧は今日もまだ国民の記憶に新しい。こうした抑圧に対する心の中の解決は今尚も国民の間では模索されている。こうした点を踏まえると簡単にこの映画を議論できてしまうが、本報告では敢えて女性であるシティの視点から描かれた作品を読み込みたかった。

コメント:上記のコメントは異なる立場からの意見ではあるが、本報告の映画は都会離れの映画である。この映画も同様、東南アジア諸国では田舎の知識人が都会に入ってきたという図式で描かれている。スラガルタの王宮から始まり、最後は海(キドル)信仰で終わる。最後のシーンでは、シティが死ぬと、彼女は山と田を支配する稲(スリネラン)になる。大地(シティ)が稲と化し、海との同一が図られる。これは、ジャワ神話の世界であり、ジャワへの回帰と捉えた。(もし、この仮説で考えれば、スリの女神も必要になるが。)
回答:スリの観点では、収穫期、稲穂に宿る女神であるスリを祭る収穫儀礼が行われる。儀礼は最初の初刈りではスリを驚かさないように穂刈りし、稲穂の女神スリの人形をつくり、供物を捧げる。この人形を次作まで大事に保管し、次の収穫期に再びスリが稲穂に宿るようにと願いを込める信仰である。スリというヒンドゥー的な神の思想を拝借しつつも、ジャワの豊作に対する土着信仰として描かれていた点を映画の最後の場面に選んだことは重要な意味をもっていたと考えられる。また登場人物の死後、未来への希望、再生への希望として考えられる。
 ジャワ人の発想のなかに、もはやヒンドゥー教という宗教として名づけることはできないが、明らかにインドに由来するであろう、もしくはインドの神話性の枠組みの中で捉えられるジャワ人の世界観が今日も根強く残っていると指摘できるだろう。これを報告者は内在化したインド化と呼ぶ。

コメント:ラーマヤナは紀元前から東インドから南インドに渡り、マレー半島、シャム、クメールとの交流を通じて伝播してきた。ビルマには1767年のアユタヤとの戦争で楽団として伝わった。こうした時期を考えると、最初ジャワに伝わったのはイスラームとは違った、14、15C以前のことか。文献には9世紀からとなっているが、その時代からイスラームとなって変化していったのか。
回答:変化している。レジュメp2, 7のように、本研究では(イスラームが入る以前を)古典的なラーマヤナ、(イスラームの影響があったかどうかは別として、イスラームが入った以降を)近世的ラーマヤナとに分けて考えている。9世紀に入ってきたラーマヤナは、サンスクリット語で書かれたバールミーキのそれとは基本的には変わらない。しかし、現在ワヤン・クリ等で演じられているラーマヤナは、バールミーキのラーマヤナとは大分異なる。例えば、シータはラーバラの娘、シータとラーマは実は兄弟として描かれる。ジャワ人がワヤン・クリで鑑賞するラーマヤナは、バールミーキのとは違う。しかしオペラ・ジャワやスンドラタリでは表面的には見えてこない。

質問:「オペラ・ジャワ」という用語について質問したいが、映画監督はどういう意味でオペラ・ジャワと使用しているのか。バリのスンドラタリには、オペラ・ジャワ自体はないのか。国立イスタンブール等の歌劇がインドネシア社会に登場してきた段階で、伝統過激派からもオペラ・バタックなどが創作され、伝統的物語をオペラの中に取り込む動きはあったが、ジャワの場合はなかったのか。
回答:オペラ・ジャワは、この映画以前はジャワではなかった。オペラ・バタックについては初めて知った。本報告での「オペラ・ジャワ」という用語の使い方は、モーツァルト200周年記念でオペラを用いたとして考えていただけであった。ある一つの物語を舞踊の形式で演じて歌が入るのはヤワンと類似し、既にこうした形式には人々は慣れ親しんでいると考えていた。

質問、コメント:本報告の副題に「イスラーム社会で語ること」とあるが、イスラーム社会において他者であることを捉えることなのか、それとも既に他者と思っていない状態として、インドネシアとして存在しているのか?一つは、既に内在化されたラーマヤナとして考えられる。また全体的な議論の方向性として、ラーマヤナ物語がイスラーム的に改変されていくのか、ラーマヤナ物語の精神が、イスラーム社会と葛藤していくのか?また軋轢があるのか?と考えていたが、本報告では全く違った視点で捉えていた。副題を考慮すると、むしろ何が正しいのか、何がヒンドゥーなのかと議論し、イスラーム社会のなかで現代のインドネシア社会を描いていくと面白みが出てくるのではないだろうか。
回答:結論としては内在化したインド化として本報告をまとめることになる。


(文責:東京外国語大学大学院 平田晶子)

2011年度第3回(6月)の関東例会のご案内

関東例会6月例会(6月25日開催)の案内をお送りいたします。
今回は青山亨会員による「インドネシア映画『オペラ・ジャワ』に見る「インド」のインドネシア化:ラーマーヤナ物語をイスラーム社会で語ること」、および寺井淳一会員の「11-13世紀のパガンにおける周辺諸地域との文化交流 -インドとスリランカとの関係を中心に」の2報告です。
詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしています。

<2010年度6月例会>
日時: 2010年6月25日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)

報告者: 寺井淳一氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程)
コメンテーター: 奥平龍二先生
報告題:「11-13世紀のパガンにおける周辺諸地域との文化交流 -インドとスリランカとの関係を中心に」

<報告要旨>
本報告では、多種多様な仏塔・寺院が林立するパガン遺跡がインドとスリランカの影響の中でどのように形成されてきたのかを明らかにする。パガン遺跡を訪れると、8世紀から12世紀にかけて東北インドで流行したモチーフが数多く見られる一方で、パガンの仏教に大きな影響を与えたと考えられているスリランカ由来の要素がほとんど見られない。こうした状況の背景には、パガン朝と上記の両地域との交流の在り方に違いがあったと考える。パガン時代の碑文を見ると、インドからは絵師や彫刻師を始めとする職人が多数来緬していた一方で、スリランカからはそのような職人の来緬はなく、仏教僧がパガンにやって来ていたことが分かる。またスリランカとの仏教僧を通じた交流の結果として、12世紀末から碑文においてその存在が顕著となる「森の僧院」の隆盛があったという仮説を提示する。


☆第二報告(15時45分~17時45分)

報告者: 青山亨氏(東京外国語大学・大学院総合国際学研究院)
コメンテーター: 坂田貞二先生
報告題:「インドネシア映画『オペラ・ジャワ』に見る「インド」のインドネシア化:ラーマーヤナ物語をイスラーム社会で語ること」

<報告要旨>
ガリン・ヌグロホ監督のインドネシア映画『オペラ・ジャワ』(2006年)は、ヒンドゥー叙事詩ラーマーヤナを題材に現代のジャワの農村を舞台にした作品である。インド文化はジャワ文化に深い影響を与えてきたが、本作品はラーマーヤナの単なる語り直しにとどまらず、伝統的であると同時に現代的なスタイルによる、斬新な解釈を示している。作品の中で、ラーマーヤナの語りは三つの層において進行する。第1層は観客によって共有された伝統的なラーマーヤナ、第2層は登場人物の演じてきたラーマーヤナ、第3層は登場人物の相互の関わりが作り上げる、スクリーンの前で展開する新しいラーマーヤナである。本報告では、この作品において、イスラーム社会の文脈の中で他者であるインド世界がどのようにインドネシア化されているかを検討するとともに、この作品が提示するジェンダー解釈が、ラーマーヤナの伝統なかできわめて独創的なものであることを明らかにする。


*10月以降の例会日程は下記のとおりです。すべて土曜日(13時30分~17時45分)、会場は東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。

10月22日
11月26日
1月28日(2012年)
随時報告者を募集しています。希望される方は青山までご連絡ください。


青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2011年度第2回(5月)の関東例会の報告

5月28日(土)に行われました2011年度第1回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。


東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

東南アジア学会関東例会
日時場所:平成23年5月日(土)13:30~15:00 東京外国語大学本郷サテライト5階
報告題:「ジャック・ネオ監督の作品から読み解くシンガポール社会の一断面」
発表者:盛田茂(立教大学アジア地域研究所研究員)
コメンテーター:田村慶子(九州市立大学大学院社会システム研究科教授)

1.コメンテーターによる本報告の映画に関する説明とコメント質問
 1980年代当時、シンガポールの国産映画は娯楽産業として確立していなかった。報告にもあったように、1950年~1969年にかけてマレー語映画の黄金時代と呼ばれる時期があった。1959年イギリスの自治領になったシンガポールはマラヤ連邦との統合による独立を図るため、国語をマレー語とする等の「マレー化政策」を発表した。しかし、1963年マラヤ連邦、サバ・サラワク両州とともに結成されたマレーシア連邦から追い出されるようにして1965年シンガポールは分離・独立し、1967年にはマレー語による国歌斉唱に変更はなかったものの「マレー語週間」等のキャンペーンは自然消滅していった。 こうした社会的・言語的な状況を背景にしながら、1990年代以降、シェアは少ないものの、シンガポール映画は文化振興政策の後押しによって制作されている。ハートランダー(庶民層)の喜怒哀楽を描くものや、最近ではPAPによって封印された1950~1960年代の学生運動等の歴史再評価をテーマとする映画が登場し始めている。こうした映画産業にみる新しい動きに一早く気づき、新たなシンガポール映画にみるシンガポール社会を考察したのが本報告であった。
 本報告は、高等教育を受けていない華人系の庶民階級であるハートランダーに焦点を当てていた。華人系ハートランダーは「正確な英語ではなくシングリッシュ(Singlish)」を主とし 、華語も少し話せるが日常生活ではほぼ方言を話して暮らしている。シンガポール社会におけるハートランダーの自己表現・意思表示の公的場は無いと言っても過言ではない。たとえば、新聞・雑誌への投書は正確な英語や華語が求められる。政府による公営高層住宅の建設ラッシュが進み、居住地域においても監視の目が行き届いている為、社会的発言は容易ではない。また就職状況では、シンガポール社会への外国人の単純労働者が流入している為、華人系ハートランダーの職探しは特に困難になっており、不満は募る一方でその声を届ける場もない。そこで政府は選挙前、ハートランダーに生活支援等の名目で現金を支給し票獲得に努めてきた。しかし、こうした政策が批判にさらされている事もあり、政府はハートランダーの代弁者的役割を担うジャック・ネオ監督を評価しているとも考えられる。こうした評価自体はハートランダーと政府の間を結ぶ媒介的役割として機能としている構図と捉えられるだろう。本報告に対する質問は以下3点である。
①本報告では、映画自体がハートランダーの声を代表する形になっていると考察されているが、レジュメ4ページ目の旧華語教育組(華語で高等教育を受けたエリート層)と方言組と分けているが、ハートランダーの位置づけがどこに入るのか、やや混乱している印象を受ける。旧華語教育組とハートランダーの不満は異なるものなのではないか?
②レジュメ5ページに「国民統合再強化に利用としようとする思惑が明らかにされた点」とあるが説明不足である。
③本報告は華語系のハートランダーに焦点を当てているが、非華人系(マレー系、インド系)の人々の参加・不参加程度についても言及すればよかった。

2.コメントに対する報告者の回答
①本報告で用いた「旧華語教育組」の不満は、コメントで述べられた南洋大学OBの不満に加え、英語が教科目の教授語となったことで言語の壁を理由に、華語校で優等生だった生徒が高等教育の恩恵を受けることが出来なくなったので彼らも旧華語教育組に含めている。今後はより定義を明確化していきたい。
②本報告で取り上げた映画『Homerun』は単なるノスタルジック映画ではなく、むしろ1960年代マレーシアから分離・独立した当時の子供同士の争いのなかで、現在のシンガポールが抱える飲料水問題、領土問題などを匂わせている点に注目した。つまり、政府がマレーシアとの緊張関係を基に国民再統合に利用したいとの思惑を感じ、同様の危惧を抱いているケネス・P・タンの文章を引用した。またここで「再」を用いた理由だが、リー・クワンユー政権は徴兵制を開始し、住宅取得推進等で所有権意識を高める事により移民魂をなくし、更に物質主義優先の生き残り政策に基づく国民意識高揚を推進した。後継者ゴー・チョクトンは持続的経済成長重視に加え、精神的部分の強化・補強を目指す政策へと転換したため、国民統合の「再強化」という用語を用いた。
③マレー系、インド系はジャック・ネオ監督の映画を鑑賞しない。例えば、『Money No Enough Ⅱ』のプレミア上映のため映画館に集まった観客のほぼ100%は華人系であった。舞台挨拶で、レインツリー社のCEOダニエル・ユンのみが英語、ジャック・ネオ監督を含め男優・女優は華語か福建語で話していた。
またジャック・ネオ監督の映画はマレー系、インド系をステレオタイプ化していると批判されているのも事実である。

3.その他のコメント、質疑応答
質問:ハートランダーとは本来地政学上の呼称であり、シンガポール社会において誰が言い出した用語なのか?
回答:ゴー・チョクトンの演説以来、「ハートランダー」なる言辞が使用されるようになった。アメリカの場合は、国民の核という意味を持つ主として中西部の保守的な人々を指すが、シンガポールの場合は何故ハートランダーなる言辞が使われるようになったかは不明であるので今後調査したい。

質問:監督や制作側ではなく、支持者(観客)層にとって映画を鑑賞するという消費活動についてはどのようなものか?映画のプロット、内容の話で終始するのではなく、社会的な動き、活動につながっていくのかどうか。
回答:シンガポールでの現地調査で、他の監督、メディア関係者等に聞き取りしていると「ジャック・ネオ監督の映画は、観客が登場人物と同一視でき、一種のセラピー効果をもっている。しかし映画の中で登場人物が政府を揶揄する場面で観客は拍手するが、映画鑑賞後に自己の生き方や社会における自己の立ち位置について真剣に問い直させるといった影響力を持つものではなく、その場限りのものである」と同監督の映画自体を冷静な視線で批判する人もいる。
一方で、間接的ではあるが封印された歴史に対する問題を提起し観客に再考を促す映画を制作しているタン・ピンピンのような監督もいる。両者の観客層は全く異なる。

質問:ハートランダーとコスモポリタンという分け方でない別の分け方があるのではないか?ジャック・ネオ監督が役者として知られている映画で、本人は主婦や老婆役としての脇役を演じる。一方、映画は経済発展で活躍してきた、サクセスストーリーのなかで語られる人物を外側から傍観している人々を描いている。観客の身近な存在で考えてみると家庭内の稼ぎ手である父親とそうでない、父以外の成員に重ね合せられている。シンガポールの経済発展で活躍した人々ではない人たちに焦点を当てる事こそがシンガポール映画なのではないだろうか?
回答:本報告で取り扱った映画は、サクセスストーリーの中でも成功していない人々が描かれているので、シンガポール社会の別の側面を再度見直す題材として適当であると考える。勿論コスモポリタンにも落ちこぼれはおり、シンガポールは世界でも自殺率が高く、激烈な競争社会のなかで精神的疾病に苦しむ人々が多い国として知られている。彼の映画の観客層は40年代以降の親世代と子ども、もしくは老人と孫という組み合わせが多い。こうした人々が映画を観に来て、多少なりとも精神的に慰撫されて帰っていく事に示されているとおり、セラピー効果を持つが故に人気が高いと言える。
また現実的に、ハートランダーの家庭内では、英語、華語、福建語などをコード・スイッチしながら話している。こうしたシンガポール社会の多言語状況をジャック・ネオ監督の映画は反映している。

コメント:シンガポールという国だからこそ、ジャック・ネオ監督の映画ができたのではないだろうか。エリート対庶民が文化的に離れていき、エリートが建設したはずの国家権力が文化的に民衆の文化を評価していき、国家的に統一を図ることは他の地域社会の事例でもよくあることである。この観点から日本の場合で考えると、ジャック・ネオ監督の映画は邦画の寅さんシリーズを考えられる。山田洋二の映画は、環境や家族観を強調したが、鑑賞後に実際に家族で真剣にそれについて話し合うことはなく、むしろ国民にセラピー映画として受入れられていた。寅さん映画の放映は1972年~1996年迄であり、日本の高度経済成長の時期と重なり、文部省、文化省からは人間のヒューマニズムに焦点を当てた映画として高い評価を受けたが、これをこのままシンガポールの地域性と比較できない。ジャック・ネオの映画が研究対象として意味があるとすれば、世界的に考えていた言語問題をシンガポール映画が鮮明にシンボリカルに表現できたことを出発点にしてみてはどうか。またこの映画のマレーシアへの海外進出という国際化現象は、シンガポールが抱える多言語状況としての特色として描かれるのではなくで、高度成長期における途上国の庶民全体が持つ課題として究明し訴えていくことはできないであろうか。
回答:本報告で強調したかったのは、寅さん映画は文科省の推薦を受け、多くの批評家も推薦・評価している。ところが山田監督と違い、ジャック・ネオ監督について英字紙が低い評価をつける一方で、華語紙は娯楽性と芸術性という2つの要素を基に評価を下すという差異の原因は何かを考察する事であった。
なおシンガポールは分離・独立以降、高度の持続的経済成長率を達成したが、若者世代の一部は「生き残りのイデオロギーの賞味期限が切れている今、我々は自らのアイデンティティとは何かを探求すべき時期に至っている」と明確に主張し始めている。この一環として、バイリンガル教育の申し子である若き監督達は第一世代のジャック・ネオ監督と違い、他国と共通する都市生活の疎外感を描いた作品、肩の力を抜いた都会的な喜劇ドラマ、更にはクールな男女関係も描くというようにテーマも多様化しつつある。

コメント、質問:本報告は専ら華人系中心に議論が進んできたが、国民統合という切り口で話すであれば、マレー系やインド系についても経済・社会的な格差を論じなければならない。政府による各民族の文化に対する規制も説明していくことが今後の課題ではないだろうか。言語別の縦割りの社会、文化政策、文化需要、今後のシンガポールの将来性の見通しなどはあるか。
回答;今後のシンガポール映画であるが、例えば華人系のエリック・クー(Eric Khoo)監督はタミル語を主言語とする映画『My Magic』を制作した。また、インド系のイーサン・シバリンガム(Esan Sivalingam)監督が、華人系を主演に据え英語を主言語とする映画『City Shark』を制作したように横断的な映画制作の萌芽が見られる。しかし未だマイナーな状況に留まっているのが現状である。

コメント:何故娯楽コンテンツとして映画を取り上げたのか。
回答:例えば公共放送では方言使用が一切認められていないが、映画は大画面で観る喜びと共に、方言が50%まで使用できるからである。一方、確かに諸規制は全体的に緩和されてきており、例えば演劇でも批判的な作品も登場し、過去に反道徳的と看做されていたロック音楽も公演できるようになってきている。


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日時:5月28日(土)15:30~17:30
報告者:伊藤未帆(日本学実振興会特別研究員)
報告題:『ベトナムにおける「民族青年学校」と地方のイニシアティブ―「ホアビン社会主義労働青年学校」の建設と運用をめぐる一考察―』
コメンテーター:岩月純一(東京大学大学院総合文化研究科)

1.コメンテーターのコメントおよび質問
 本報告の研究対象であるベトナム「民族青年学校」は正規の教育行政の管轄下に置かれていない為これまで余り注目されてこなかったなかで、伊藤氏は実証的に研究成果を出された点で価値ある研究をされた。質問は以下3点である。
① 本報告は50年代から70年代までのベトナム国内での社会主義建設期に限定した研究であると位置づけているが、地方分権化の過程で地方と地方の対立、連立など地方間(複数の域内アクター間)の相互関係について補足説明をしてほしい。ホアビン社会主義労働青年学校は、公的には教育行政の枠外にいた者たちによって設立された。その結果、地方の教育行政との間に摩擦が生じたが、1962年に、ホー・チ・ミンがホアビン社会主義労働青年学校を訪問したことで、中央政府から「お墨付き」を与えられた。その後、段階的に教育行政の枠組みへと組み込まれていったと指摘されるが、この時期に限定すれば、その構図はどの程度説明することができるであろうか?博士論文として執筆された研究の構想全体はドイモイ以降の話であるため分りやすいが、今回の報告で取り上げられたこの時期(1960年代)に限って考えてみた場合の特殊性、および、ドイモイ期との連続性について説明を加えて欲しい。
② 本発表は、中央対地方の構図を、キン族(主要民族)対少数民族という民族分布も視野に入れた上で論じており、中央政府(主要民族キン族が大部分を構成する)が、地方の少数民族に対して、どのようにアプローチしていこうとしているかという問題を十分に指摘できるだけの、資料はもっているであろう。しかし、ホアビン社会主義労働青年学校を実例として、詳細な研究を行うことで、どこまでキン主要民族対少数民族というモデルを一般化して捉えることが可能であろうか?ホアビン省は、少数民族政策が積極的に実施されるような対象地域ではなく、むしろ、主要民族に対してより脅威となると考えられているのは、モン族のような他の少数民族である。従って、(今回の事例で取り上げられた)ホアビン省というのは、キン族対少数民族の、先鋭な対立関係、また矛盾が生じているような地域と言えるのだろうか?
 本学校の設立当初、学校名には「民族」という名称が冠されておらず、むしろ、この学校の設立目的とは山間部地域に住む児童たちの学校へのアクセス困難を考慮し、働きながら技術・識字率の向上を図るものであった。とすれば、そこに民族的対立があったかのように考えることは難しい。キン族対少数民族という対立の構図は、草の根レベルで作られた本学校にとって、解決すべき問題として認識されていたのだろうか?民族的な差異に対する考慮はなされていたのか?どの民族でも入学することができたのか?ムオン族に対する民族政策としては、彼らが集住する地域の学校ではベトナム語の学習が中心であり、そこでムオン語を学ぶことはない。このようにムオン族に対する民族教育政策の視点から考えてみると、民族寄宿学校が制度化される以前の段階で、ホアビン省における民族的な相違は、どの程度解決すべき課題として認識されていたのか?
③ フランス植民地期には、植民地政府による公教育が行き届かない部分の教育を、地方のイニシアチヴが、独自に学校を設立することで補っていこうとする動きがみられた。しかし実際には、教育行政外の場面で、フランス語教育を実施することは平野部を含めて困難であった。それ以前にも、教育行政から予算を与えられない、私塾という発想自体は存在していた。
 ホアビン社会主義労働青年学校を設立した幹部たちの試みは、予算のない状況下で、生徒に労働を課すことによって、自給自足的な教育の場を創出した、という点は新しかったが、もともと彼らの着想はどこにあったのだろうか?

2.コメントに対する回答
(②に対する回答)中央と地方の対立軸のなかに、キン族と少数民族という対立軸を重ねることはできるのか、どれだけ典型的な事例として取り扱うことは出来るのかという質問については、ご指摘頂いた通りである。ホアビン省では、言語的問題にもキン族の対立関係はない。また、人口比でみると、ムオン族が半数以上占める地域であり、それ以外にもザオ族などの他の少数民族も居住しているものの人口は少ない。尖鋭化した形での「少数民族問題」を抱えている地域ではない。ホアビン省を、ムオン族が集住する少数民族地域の典型例として考えるならば、ホアビン社会主義労働青年学校の設立には、ムオン族や他の少数民族をこの学校に取り込みたいという目的があったと考えられるが、ただし本研究では、その際に、「少数民族」をシンボリックに用いたのではなく、地元の人たちを広く集める仕組みの中に、少数民族も多く含まれていた、という構図を思い描いている。少数民族に対する配慮がなされていた地域ではあったが、他方で、必ずしもキン族対少数民族、という対立軸は、この学校の設立経緯をめぐっては当てはまらない。
他方、少数民族を明確に意識していたのは、1950年代半ばに建設された、西北地方と越北地方の民族自治区であろう。とりわけ、西北地方に建設されたターイ・メオ自治区では、自治区内における学校建設を通して、少数民族に対する中央政府の目を届き易くするという目的が背後にあったと考えられる。
(①に対する回答)1950年代後半~1970年代後半にかけて、複数の域内アクターがどのように相互に関係し合っているのか、という点については今後の課題である。なぜこの時期に、ホアビン省の共産党青年団がここまで力を持って動けたのか、また中央の教育行政がなぜここまで弱かったのか、この問いは検討中である。Marrによると、70年代半ばごろまでの北部ベトナム地域では、戦争に人々を動員する仕組みが不可欠であったが、それぞれの地域には戦争動員のためのさまざまなチャンネルが存在していたと指摘している。その一つが、本稿で取り上げた共産党青年団であったと考えられる。まだ地方行政の仕組みが十分に確立してなかった当時の状況下では、戦時動員という課題を遂行するためには、さまざまなチャンネルを利用する必要があった。したがって本報告で扱ったホアビン共産党青年団の「大胆な行動」は、中央集権的な行政制度がきちんと確立する前の時代、多様なアクターが群雄割拠していた時期の、一アクターの事例であると位置づけられるだろう。
(③に対する回答)共産党青年団の幹部の回顧録には「(独自の学校を建設しようという)我々のアイディアは「大胆な行動」であったが、中央政府の目に留まり承認された」と記録されている。この発想の根源に、仏領期以前からの私塾モデルが影響を与えていたのかどうか、影響があったとすればどの程度であったのか、という問題については、今後の検討課題としたい。

3.フロアからのその他のコメント、質疑応答
質問・コメント:地方・中央関係として論じたいのか、主要民族キン族対少数民族という構図で論じたいのか、と考えた場合、本論である社会主義労働青年学校とつながるかたちで民族青年学校を論じるにはまだ不十分ではないか。むしろ、地方・中央関係として論じられるほうが意味のある研究であろう。ナムディン省と比較した場合、ホアビン省の特性は次の2点である。
 第一に、正規の教育制度以外の補充教育の伝統をつくった「平民学務」を考えてみたい。「平民学務」は、1945年以降、北部ベトナム各地で展開された運動であり、本格的には54年に始動した。運動の中心となったのは女性教育であり、女性を母体とした政府の下部組織をつくることを目的としていた。とりわけ、解放区であった山間部では非常に活発に展開されたと推測できる。ただし、「少数民族」=教育から離れた人々、という理解が正しいのかという疑問は残る。1946年12月~1954年8月まで、事実上、ベトミン軍は山地で活動しており、当時の共産党の地方幹部のなかには大勢の少数民族出身者がいた。また1956年~57年、紅河デルタにおける土地改革の実施者には少数民族が多く含まれ、とりわけ憎悪を向けられたのは、「Doi」と呼ばれた生産隊を組織した、タイ族出身の共産党員であった。このように少数民族対キン族、という対立構図を考える場合、実態にはかなり複雑な関係であるため、必ずしも少数民族が公教育と掛け離れていた存在であった、という視点から議論を進めるのは難しいだろう。
 第二に、ナムディン省では党学校がエリート教育として重要な役割を担っていくのに対して、ホアビン省の場合は労働を取り入れて全く異なっていた。バッコックでは、小学校(四年制)で教育を受けた人々のうち、優秀な生徒は、ホーチミン青年団の党学校で、共産主義教育を受ける。その後、青年団の指導者となるか、優秀な者は入隊して士官になる。退役後は、合作社もしくは党幹部に昇格する。これがベトナム戦争中の、基本的な地方エリートの育成課程であり、地位昇進構造であった。ホアビンの事例は、共産党の問題として取り上げられるモデルとは若干異なり、紅河デルタ地域で展開されていた青年団の教育活動を大衆化した事例である。この問題をより深く検討するためには、ホー・チ・ミンによるホアビン社会主義労働青年学校への訪問が1962年に行われたこと、1970年代半ば以降、教育行政に組み込まれていくまでの間、ベトナム戦争と時期が重なることを考慮していかなければならない。本報告では、ベトナム戦争との関係が指摘されていない。ベトナム戦争下の山間部における地域指導者の足跡を辿っったほうが、重要な研究となるであろう。
 第三に、「半学半労」、すなわち働きながら学ぶというモデルは、ベトナムにおいてはむしろ一般的。ただし、ホアビンの場合は学校自体が農場を所有する点が特徴的である。紅河デルタ地域では、党学校の建設と運営は共産党の問題として展開されたが、一方で、ホアビンでは、「vua lam vua hoc」という活動として行われた。
また「nong truong」という用語は中国の社会主義用語であり、もともとのベトナム語ではなく、中国から拝借した言語と考えるべきであろう。ベトナム語の「truong」は、「学校」という意味である。「nong truong」とすることで、農場と学校を用いた語呂合わせ的な語を作りだし、農民にとって分り易く、親しみやすい概念として定着していったのだろう。「vua hoc vua lam」の精神、伝統、青年団による地域主義的な運動の一環で行われた農場経営に対して、中央政府がお墨付きをつけたといえる。本報告では指摘されなかったが、青年団を論じる場合、党の性格が色濃く出ている点、すなわち若者のための合宿体制の労働の性質なども指摘していくと良い。
また、「平民学務」の給与問題に関してだが、一般的に、教員はボランティアであり、「anh giao」と呼ばれていた人たちが、教員資格をもっていたかどうかは確認したい。小学校3年生修了であればむしろ「高学歴」とみなされ、代用教員になれる。教育行政の管轄外にあった学校の場合、学校教員の給与は大切な問題であろう。
その他、エリート養成教育について言えば、地方の指導者を養成する技術大学への進学者と、他方、非識字者(mu chu)で合作社に就任した人の数も多かった。当時、文字の読めない非識字者に対する党の信用は、50年代末ごろに変化し、技術者育成(農薬の使い方、野菜の栽培の熟練者)等を中心としたカリキュラムが評価されていく。こうした1960年から続いた技術教育にうまく適応していったのが、ホアビンの事例なのではないだろうか。民族問題で議論するよりも、中央と地方との違いで議論した方が面白いのではないか。地域にみる教育制度の外でつくったものの伝統の延長上にあったのではないか。
 コメンテータの第3の私塾に関する質問に対してのコメント→私塾の全盛期は、1930年代にクォックグー学習をしたときに大成功、その後1946年仏軍の侵入によって正規の学校が廃校し、抗仏戦線期間中に私塾が至る所に復活して活躍していく。抗仏戦争との関係で考えていったほうがいいのではないだろうか。

4.上記のコメント・質問に対するレスポンス
 バッコックの場合では「平民学務」は女性を動員していたが、ホアビンの「民族青年学校」に関する資料は乏しいため、どのくらい女性がいたか、具体的な数は挙げられない。ただし、行政側で組織していた「平民学務」に対して、それがうまく機能していない状況に対する不満をもった地方の青年団が立ち上がり、新たに考え出したのが本報告で取り上げた民族青年学校であった。1970年代以降に設立された技術大学は、農業、林業、師範のうち、ホアビン社会主義労働青年学校では農業を選択した。これにより、ベトナム行政機構のなかでも教育行政が直接的に管轄しない形での初めての大学として、農業技術大学が建設されることとなった。

以上。


(文責:東京外国語大学大学院 平田晶子)

2011年度第2回(5月)の関東例会のご案内

関東例会5月例会(5月28日開催)の案内をお送りいたします。今回は盛田茂会員による「ジャック・ネオ監督の作品から読み解くシンガポール社会の一断面」、および伊藤未帆会員の「ベトナムにおける「民族青年学校」と地方のイニシアティブ:「ホアビン社会主義労働青年学校」の建設と運用をめぐる一考察」の2報告です。詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしています。



<2010年度5月例会>

日時: 2010年5月28日(土)13:30~17:45

会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース 

http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html



☆ 第一報告(13時30分~15時30分)



報告者: 盛田 茂氏(明治学院大学博士後期課程)

コメンテーター: 田村慶子先生(北九州市立大学)

報告題:「ジャック・ネオ監督の作品から読み解くシンガポール社会の一断面」


<報告要旨>

 ジャック・ネオは、国産映画興行収入第一位を今なお保持する処女作『マネー・ノー・イナフ(Money No Enough)』(98年)に留まらず、08年までの全12作の興行収入が平均36,900千Sドルに上る、当国を代表する監督の一人である。この高支持率の背景には、一部映画評論家が酷評する単なるスラップスティック映画のジャンルを超え、英語、実学重視の教育制度批判、前例踏襲主義的役所仕事等の多様な社会問題を俎上に乗せ、国民の多くから代弁者としての評価を受けている事があると考える。
 本発表は、同監督が一貫して批判対象とする人民行動党政権の推進する「言語政策」に起因する問題提起が作品中で如何に表象されているかを紹介すると共に、ゴー・チョクトン現上級相以降継続する「諮問型政治」下で、如何なる関係が両者間で構築されているかを検証する事を目的とする。特に、本発表では映画関係者へのインタビューも踏まえ、バイオ、ナノテクと並ぶ次世代産業育成政策の一環としての「映画振興政策」との関わりの中で、同監督と政府との現実主義的抵抗/相互依存関係のダイナミズムを明らかにする。


☆第二報告(15時45分~17時45分)



報告者: 伊藤未帆氏(東京大学社会科学研究所・日本学術振興会特別研究員)

コメンテーター:岩月純一先生(東京大学大学院総合文化研究科)
 

報告題:「ベトナムにおける「民族青年学校」と地方のイニシアティブ:「ホアビン社会主義労働青年学校」の建     設と運用をめぐる一考察」



<報告要旨>

 本報告は、1960年代初から1980年代半ばにかけてのベトナム北部地域における中央・地方関係について、「民族青年学校」という学校制度を視角として解き明かすことを目的とする。社会主義国家における中央・地方関係とは、「上意下達」を目的とした一方向的な結びつきであるとみなされることが多い。しかしながら、ドイモイ政策の導入に至る過程にも見られたように、ベトナムにおける地方は、ときに、中央政府の政策決定に影響を及ぼすようなイニシアティブを発揮する存在でもあった。本報告で取り上げる「民族青年学校」も、教育政策においてこうした地方のイニシアティブが発揮された事例であるが、これまでのところ、この「民族青年学校」をめぐる諸相については、ほとんど明らかにされていない。そこで本報告では、「民族青年学校」の出発点とも言える、「ホアビン社会主義労働青年学校」に焦点を当て、この学校制度が教育行政のネットワークの外側で発展したこと、それにより、地方の教育行政とのさまざまな軋轢に直面するも、中央政府によるお墨付きを得たことにより、一定の自由な裁量性が認められ、山間部地域社会における重要な教育機関としての機能を果たしていった様子を明らかにする。





*6月以降の例会日程は下記のとおりです。すべて土曜日(13時30分~17時45分)、会場は東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。

6月25日

10月22日

11月26日

1月28日(2012年)

 随時報告者を募集しています。希望される方は青山までご連絡ください。





青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)

(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2011年度第1回(4月)の関東例会の報告(その2)

4月23日(土)に行われました2011年度第1回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)
の議事録データをアップします。

東南アジア学会関東例会討論部分の議事録

日時:4月23日(土)13:30~15:00 
第一報告者:江藤双恵(獨協大学国際教養学部他非常勤講師・東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)
報告題:「コミュニティ福祉の実現に向けた地方自治体の実践―タイの『コミュニティ内家族開発センター』―」
コメンテーター:青山亨(東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)

1.コメンテーターのコメントおよび質問
①少子化・高齢化は20年前まで東南アジア圏で予測されていなかった問題であるが、今や、タイもその解決に取り組み出している。その過程で、コミュニティの開発が重要視されている。本報告では、基本的には役人へのインタビューなど、制度側から収集した資料を使用して議論されていたが、一方、制度の恩恵を受ける一般住民の様子はどうであったのか。
②本報告では、タイでは家庭内暴力(DV)が具体的な問題としてとらえられているとのことであったが、実態についての数値的データはあるのか。またDV問題に対してコミュニティレベルで具体的な対策等は打ち出されているか。この問題がこの政策によって、実際に改善されているのかがわかるような数値的なデータがあるとよい。
③「コミュニティ」という概念はあいまいなものである。たとえば、プログラムを実際に動かす現場の受け皿となるような住民組織はあるのだろうか、あるとすればどのようなものであろうか(インドネシアの場合は、町内会のような組織がその機能を果たすと考えられている)。

報告者の回答
① 今回の報告で扱った「コミュニティ内家族開発センター」に関して報告者がこれまで集めてきた資料は、地方自治体の担当職員への聞き取り、職員作成の資料、中央官庁での聞き取りのみである。参加者住民の声は聞いていない。保健省が管轄する同様のプログラムのパイロットサイトでは、看護士や保健士によって実施された研修の参加者(住民)の声を聞くことができた。たとえば、親子間のコミュニケーションが改善されたなどのとの声があった。今後、より時間をかけて住民の声を拾っていく必要がある。
② 「コミュニティ内家族開発センター」2010年評価報告書では、具体的な数値は示されていないもののDV問題が改善されたと指摘されている。他方、近年のジェンダー統計からは、DV被害届の提出数が増加したことがわかる。
③ 政府の計画文書では、農村部においてはムーバン、都市部においてはチュムチョンが「コミュニティ」として定義されている。地域差などもふまえて、これらの住民組織が政策文書中で定義される「コミュニティ」として機能するかどうか、今後の展開を見ていかなくてはならない。

2.質疑応答、コメント等
質問:
 日本人の我々がタイの事例を考察するに当たり、どちらの国の方が進んでいるか、また何が望ましいかという価値判断を入れて研究対象をみることに疑問を感じる。東南アジア社会学において、『家族」という概念については様々な議論がなされてきたが、本報告での家族の概念とは何か明示するべきである。                              
回答:
 プログラム自体が家族の制度化を掲げていることから考えると、今までになかったタイプの家族像を模索していく動きがあるのかもしれない。あるいは、近代家族としての家族のあり方を国民に啓蒙する役割をプログラムが担っているともいえる。そのイメージが、政策文書や官僚、研究者が示す「強い家族」、「温もりのある家族」である。タイの世帯統計では、核家族が半数以上を占めており、シングル・ぺアレントが相対的に高い数値を示す。核家族といっても、日本の核家族がそうであるのと同じように、出身世帯や親世帯との結びつきが強く、西洋的な意味での核家族とは異なる。

質問:
 地域研究的観点から、本研究で触れられたタイにおける介護の問題、「家族」のあり方について考える。タイ、とりわけタイの農村には、我々が考える家族とは全く異なる現実があり、本報告から何が言えるかを考えていく。「コミュニティ内家族開発センター」という政策は、本当に地方自治体、コミュニティ福祉の実現に向けたシステムとして捉えられるのか。制度(骨格)ばかりが語られ、村で行われる実践(中身)が皆無という印象を受けた。実際に地方の自治体で実施されている「コミュニティ内家族開発センター」プログラムの成果を問うためには、村長や自治体職員の意見、村人の意見、それらのズレなど3重クロスチェックをして確認するような作業が必要である。また、本発表の事例にみる福祉コミュニティの実践を担う人々の経歴、出身地域などについて、必ずクロスチェックして相対化しながら現場を見る必要がある。そして何故、このようなシステムが今、構築されているのか答えを見つけ、制度的な整理として報告に留めるという方法もあろう。もしくは、制度的な側面から現代タイ社会の家族とは何かを浮き彫りにするというようなやり方もあるだろう。また、本報告ではタイ東北地方のコンケン県と地域限定しているため、コンケン県が抱えている問題を指摘しなければならないのではないか。タイの「家族」像を再度捉えなおす作業が本報告の意義になるのではないか、と充実したコメントが提示された。また日本社会とタイ社会の比較においては、類似点、相違点を明らかにした上で議論を進めていくべきである。

コメント:
 中央で立案された政策の理念が末端まで行き渡っていないという否定的な議論を展開するのではなく、コミュニティが如何に地元に合うように換骨を奪胎していく部分を明示させると本発表は興味深いものになるであろう。地方自治体職員の恣意で進行されるプログラムについて、自治体レベルでのニーズに応じて地元がどのように取り組むかなど、地域独自のオリジナリティのようなものが出てくるのではないか。                       

コメント:
 調査結果(レジュメ8頁・1)で“センター”と言う言葉が提示されているが、実際はセンター=プログラムということが判明している。地方自治体で実施しようとした政策のモチーフが現実に地域に入り込んだときに、如何に受入れられ、実施されているかに焦点を当てれば報告全体がまとまるのではないか。                               
コメント:
 母親目線から本発表を傾聴していると、現代タイ社会において理想の家族を模索する制度を作っていこうとする政府の枠作り作業自体に疑問を感じてしまう。日本の場合、小学校のある自治体よりも地元のママ繋がり等の個人レベルの関係性が機能している。様々なつながりがある中で、それらの繋がりをさらに繋いでいくのが自治体であり、タイ社会の事例を考えたときに草の根レベルのつながりがどうなっているのか事例があると興味深い。           
コメント:
 家族制度の背景、政策立案過程と実施状況のギャップが、本報告の議論の核と成り得る着眼点ではないだろうか。具体的には、DV問題について米国、西洋諸国帰りのタイ人職員が持ち込む西洋的な視点と、現地の状況との間の文化的ギャップについて慎重になる必要がある。1994年の国際家族年を期契機として家族制度開発政策が開始したのだから、これはまさにトップダウン式のプロジェクトである。こうした背景をおさえた上で、地域レベルでうまく機能しない非現実的プロジェクトが誰によって立案されたのかを意識しつつ、政策立案過程並びに実施過程における問題点、および地域レベルでの換骨奪胎について議論すれば面白くなる。たとえば、地域密着型のプロジェクトなのか、それとも理想主義的制度寄りのプロジェクトなのかなど調査者の客観的視点を交えていくなど。

コメント:
 パイロットサイトで活躍する地方自治体の女性職員自身の個人的経験と、政府が掲げる理念にもズレが見られる。そこから以下3点ほど指摘する。まず、制度面では理想的な「家族」像を掲げているが、実際に事業に従事する職員の経歴、境遇など(離婚経験、託児所の重要性を主張)を考えると、必ずしもその理想像に適った人物がプログラムを担っているわけではない。そういう人は、時には住民から非難されることなどがあるのではないだろうか。
ある基準からしては「家族崩壊」と捉えられても、別の地域ではそれも家族としてのあり方のひとつという場合もある。事例をみると、タイ社会におけるケアの市場化すなわち私的領域から公的領域への移行や、親族ネットワーク重視型の子どものケアなどが伺える。こうしたいくつかの提案を、タイ社会における意識変化という視点から議論を展開することも今後可能であろう。



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日 時:2011年4月23日(土)15:00~17:30 
報告者:矢野順子(一橋大学大学院言語社会研究科博士研究員、東京外国語大学非常勤講師)
第二報告:「ラオスにおける言語ナショナリズムの展開―タイ語・フランス語からの言語的独立―」
コメンテーター:菊池陽子(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・国際社会部門准教授)

コメンテーターのコメント

① ラオス研究の中で王国時代の研究の蓄積は全体的に少なく、パテート・ラオ現政権が正統政権となっているため現在のラオス社会では否定されるべき対象として捉えられている中、ラオス人並びに外国人研究者が本研究に従事することは難しい状況である。しかし、こうした状況下で限られた資料を駆使して、王国時代の状況を明らかにしようとした点で本研究は価値ある研究と評価できる。
② ナショナリズムに関して言えば、一般的にアンダーソンは植民地時代に区切られた領域の中での巡礼圏や出版資本主義を事例に議論してきた。しかし、ラオスの状況を考えてみると、1893年にフランスがラオスという領域を作った訳だが、果たしてヴィエンチャンが中心的な場所だったかというと慎重に検討を重ねなければならない。植民地時代のラオスには巡礼圏やカリスマ的指導者は不在であったし、近代教育を受けた人物はごく少数である。また出版資本主義は、植民地時代にはなく、「想像の共同体」を創造する要素がほとんど無い状況であった。1945年の日本降伏以降、植民地支配で形成されたラオスという領域を出発点にラオスと言う国家を作ろうとした人たちはいるが、彼らが当時、どのように台頭してきたのかを説明するのに、アンダーソンのいう「想像の共同体」論をそのまま当てはめることはできない。そこで本報告では、言語という視点から、自分たちとは異なる対外の存在(タイ)を媒介として、EvansやStuart Fox等のラオス研究者が、“Laoness”と呼ぶような、ラオをつくっていく点に注目した。何故、ラオスという国が、近隣民族との関係のなかで生き残り、中心性の問題から見れば国家の上からの権力が脆弱と考えざるを得ない状況であるにも拘わらず、存続可能であったのかについて、これまでの研究では明らかにすることができなかった。このようなラオス研究が抱えていた問題に対し、本報告は一つの現象を提示できたのではないかと評価した。
③ Stuart Foxによれば、国民国家の形成に関する議論のなかで、仏領官僚は“フランスは、ラオスをつくったがそこに魂を全く入れなかった”という。これは、当時、ラオスという語彙はあったが、それ以降、ラオス人たちがどうするかは具体的な動きが見られてこなかったことである。この魂をどのように醸成していくかという点について、1940年代以降、今尚、検討中なのがラオスの現状である。75年以降、国民国家形成の為の様々な装置が設けられている。ただし、言語ナショナリズムを論じる際、国内ではエリートの言説、正書法や語彙に固執してしまうが、一方、現況のラオス国内では話し言葉の正書法は成立しておらず、寛容である。官僚、役人、知識人も話す方は余り関心を払わず、正書法のみを重視している。このような現状をどのように捉えていくかも今後の課題であろう。
 
報告者の回答
 ラオスのナショナリズムに関する研究書には、ラオスは政治的都合によって成立した領域と書かれていることがほとんどであり、共通理解としては王国時代にはナショナルなまとまりというものはなかったと論じられてきた。これに対し、本研究は、言語に着目し、ラオ語を介してナショナルなものを意識していく過程を描き出していく試みであった。王国時代を明らかにすることは、75年以降の動きを明らかにしていくことにもつながる。現地知識人によるフランス語排斥運動と、パテート・ラオによるラオス語をプロパガンダとしていく動きの合流は、75年以降の国民形成につながるであろう。今後も社会主義革命の間近の王国時代のナショナリズムについて研究していく。また、一方で、ラオス語の標準化は、書記言語の側面のみであり、音声については手付かずの状況であることは不思議である。その要因の一つとしては、1975年以前は内戦・紛争などの混乱期にあり、また現在なお、言語研究所も予算不足で音声統一のための言語学的調査が十分に実施できない状況にあるということが考えられる。


文責:平田晶子(東京外国語大学大学院)

2011年度第1回(4月)の関東例会の報告(その1)

4月23日(土)に行われました2011年度第1回関東例会(@東京外国語大学本郷サテライト)
の写真データをアップします。
当日は30名弱の方にお集まりいただき、2つの発表に関して討論が行われました。

次回は5月28日(土)に開催予定です。
次回の報告内容の要旨などは、順次アップしていきますので、しばらくお待ちください。

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2011年度第1回(4月)の関東例会のご案内(更新)

関東例会2011年度4月例会のご案内

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今回は江藤双恵会員による「コミュニティ福祉の実現にむけた地方自治体の実践-タイの「コ
ミュニティ内家族開発センター」プログラムを中心に-」、および矢野順子会員の「ラオスに
おける言語ナショナリズムの展開:タイ語、フランス語からの言語的独立」の2報告です。
詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしています。

<2010年度4月例会>
日時: 2010年4月23日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
    http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:江藤双恵氏(獨協大学国際教養学部他非常勤講師・東洋大学人間科学研究所客員研究員)
コメンテーター:西井凉子先生(東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所)
報告題:「コミュニティ福祉の実現にむけた地方自治体の実践-タイの「コミュニティ内家族開
発センター」プログラムを中心に-」

<報告要旨>
本報告では、「家族制度開発」政策の計画と実施されたプログラムを手掛かりに、タイにおける
「福祉の社会化」ないし「コミュニティ福祉」の実現に向けた課題について検討する。 政策文書
「家族制度開発計画 方針と計画」(1999年)によれば、「家族開発」とは、「強固な家族」と
「ぬくもりある家族」の創生を通じて「強固なコミュニティ」をつくり、高齢化の進展に備え、
社会の安定をはかろうとする試みである。タイ社会開発・人間の安全保障省のウェブサイトによ
れば、「家族制度開発」の具体的プログラムとして2004~2007年に全国で3000以上の「コミュニ
ティ内家族開発センター」が立ち上げられた。このプログラムは、1994年以降創設された地方自
治体の職員によって企画・運営されており、地方分権化の動きとも関連している。 本報告では、
2006~2011年の期間に報告者が調査したコンケン県の4つの地方自治体による同プログラムの事
例を紹介し、その内容と課題について分析する。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:矢野順子氏(一橋大学大学院言語社会研究科博士研究員・東京外国語大学非常勤講師)
コメンテーター:菊池陽子先生(東京外国語大学)
報告題:「ラオスにおける言語ナショナリズムの展開:タイ語、フランス語からの言語的独立」

<報告要旨>
本報告の目的は、ラオスの国民形成過程におけるラオ語の役割を明らかにすることにある。 国
民形成と言語の関係に関して、これまで多くの研究がなされてきた。なかでも、共通の出版語の
普及が、読者の間に「想像上のコミュニケーション」の場を提供し、国民の出現が可能となった
とする、ベネディクト・アンダーソンの説は、この分野の研究に大きな影響を与えた。実際、多
くの事例から、出版語の流通が国民形成にあたって重要な役割を果たしてきたことは、もはや否
定することはできないだろう。しかし一方で、アンダーソンのモデルでは、ラオスにおけるタイ
語出版物の流通は、ラオ語を上回るほどであったにもかかわらず、タイ語はラオス国民を想像す
る媒体とはなりえなかった、という事実をうまく説明することができない。 以上の問題意識の
もと、本報告ではフランス植民地時代と内戦期の王国政府を中心に、ラオスの言語ナショナリズ
ムの展開を正書法や語彙に関する議論、言語イデオロギーなどの側面から考察する。そして、タ
イ語とフランス語という新旧二つの「支配者の言語」が、人々がそれとの接触・区別をとおして
ラオ語の存在を認識し、国民意識を醸成していくという、「否定的同一化」の触媒として、逆説
的にラオス国民の形成に寄与していたことを明らかにした。

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*5月以降の例会日程は下記のとおりです。すべて土曜日(13時30分~17時45分)、会場は東京
外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。
5月28日
6月25日
10月22日
11月26日
1月28日(2012年)

報告者を募集しています。ふるってご応募ください。希望される方は青山までご連絡ください。
青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当東京外国語大学東南アジア課程)
(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

2011年度第1回(4月)の関東例会のご案内

 関東例会2011年度最初となる4月例会(4月23日開催)の案内をお送りいたします。今回は江藤双恵会員による「コミュニティ福祉の実現にむけた地方自治体の実践 -タイの「コミュニティ内家族開発センター」プログラムを中心に-」、および矢野順子会員の「ラオスの国民形成と言語ナショナリズム」の2報告です。詳細は下記をご覧ください。多くの方々のご来場をお待ちしています。



<2010年度4月例会>

日時: 2010年4月23日(土)13:30~17:45

会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース 

http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html



☆ 第一報告(13時30分~15時30分)



報告者: 江藤双恵氏(獨協大学国際教養学部他非常勤講師・東洋大学人間科学研究所客員研究員)

コメンテーター: 未定

報告題:「コミュニティ福祉の実現にむけた地方自治体の実践 -タイの「コミュニティ内家族開発センター」プログラムを中心に-」(仮題)



<報告要旨>

 本報告では、「家族制度開発」政策の計画と実施されたプログラムを手掛かりに、タイにおける「福祉の社会化」ないし「コミュニティ福祉」の実現に向けた課題について検討する。政策文書「家族制度開発計画 方針と計画」(1999年)によれば、「家族開発」とは、「強固な家族」と「ぬくもりある家族」の創生を通じて「強固なコミュニティ」をつくり、高齢化の進展に備え、社会の安定をはかろうとする試みである。タイ社会開発・人間の安全保障省のウェブサイトによれば、「家族制度開発」の具体的プログラムとして2004~2007年に全国で3000以上の「コミュニティ内家族開発センター」が立ち上げられた。このプログラムは、1994年以降創設された地方自治体の職員によって企画・運営されており、地方分権化の動きとも関連している。本報告では、2006~2011年の期間に報告者が調査したコンケン県の4つの地方自治体による同プログラムの事例を紹介し、その内容と課題について分析する。



☆第二報告(15時45分~17時45分)



報告者:矢野順子氏(一橋大学大学院言語社会研究科博士研究員・東京外国語大学非常勤講師)

コメンテーター:未定 

報告題:「ラオスの国民形成と言語ナショナリズム」(仮題)



<報告要旨>

 

 本報告の目的は、ラオスの国民形成過程におけるラオ語の役割を明らかにすることにある。国民形成と言語の関係に関して、これまで多くの研究がなされてきた。なかでも、共通の出版語の普及が、読者の間に「想像上のコミュニケーション」の場を提供し、国民の出現が可能となったとする、ベネディクト・アンダーソンの説は、この分野の研究に大きな影響を与えた。実際、多くの事例から、出版語の流通が国民形成にあたって重要な役割を果たしてきたことは、もはや否定することはできないだろう。しかし一方で、アンダーソンのモデルでは、ラオスにおけるタイ語出版物の流通は、ラオ語を上回るほどであったにもかかわらず、タイ語はラオス国民を想像する媒体とはなりえなかった、という事実をうまく説明することができない。以上の問題意識のもと、本報告ではフランス植民地時代と内戦期の王国政府を中心に、ラオスの言語ナショナリズムの展開を正書法や語彙に関する議論、言語イデオロギーなどの側面から考察する。そして、タイ語とフランス語という新旧二つの「支配者の言語」が、人々がそれとの接触・区別をとおしてラオ語の存在を認識し、国民意識を醸成していくという、「否定的同一化」の触媒として、逆説的にラオス国民の形成に寄与していたことを明らかにした。





*5月以降の例会日程は下記のとおりです。すべて土曜日(13時30分~17時45分)、会場は東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペースです。

5月28日

6月25日

10月22日

11月26日

1月28日(2012年)

 随時報告者を募集しています。希望される方は青山までご連絡ください。





青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)

(連絡先) kanto-reikai@tufs.ac.jp

ただいま作成中です。

2011年度東南アジア学会の関東例会のブログを立ち上げる予定です。
もうしばらく時間がかかりますので、しばらくお待ちください。
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