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2012年度第6回(1月)の関東例会の報告

2013年1月26日(土)に行われました2012年度第6回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録を以下に掲載します。

第1報告
「19世紀前半ビルマにおける米国バプティスト派宣教師のカレン人像形成―キリスト教徒カレンに関する伝記とその言説分析を中心に―」
報告者:藤村瞳氏(上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻 博士前期課程)
コメンテーター:池田一人氏(東京外語大学非常勤講師) 

【報告要旨】
 本報告では、19世紀前半ビルマにおける米国バプティスト派宣教師が抱いたカレン人像について、宣教師の著作や宣教日誌を通じた内容分析を行うことで<カレン像>が描き出される過程とその意味合いが明らかにされた。報告者は、現代ビルマの民族意識運動を率いているのがカレンの中でも少数派のキリスト教徒であることに関心をもち、後世に語り継がれている<カレン像>がいかなるもので、その<カレン像>の源泉がどこに求められるのかについて発表を行った。
 19世紀初頭において、カレンの人々は「怠惰で無気力なカレン」、「教化すべき未開で蒙昧なアジアの民」とみなされていたとされ、それは現代のカレン民族運動史や民族意識研究の中でも再解釈され、引用されている。しかし、報告者は「宣教師の視点の先に想定されたカレンの人々がどのような人達であったのかが具体的に検討されてきていない」と先行研究の不十分な点を指摘し、19世紀に宣教師によって書かれた書籍や日誌を基に、単一のカレン像を形成した構成要素、および過程を本発表で明らかにした。具体的には、フランシス・メイソンという宣教師と彼の著書『カレンの使徒:カレン初の受洗者コー・タービュの伝記』および『カレンの伝統』を取り上げ、タービュがなぜキリスト教徒カレンを代表するように描写されたのかを考察した。
 まず、米国バプティスト派によるカレン宣教の開始と拡大について、ビルマにおける宣教活動の歴史を概観した。1824年の第一次英緬戦争が勃発するまでは布教の対象者がカレンに絞られておらず、カレンが宣教対象として意識されたのは戦争後の1827年~1830年頃であった。カレン宣教が開始された契機は1827年に宣教師ボードマンが来緬し、テナセリム地方に拠点を移したことにある。その後、1828年5月28日に初の受洗者としてタービュが誕生した。1830年代~1850年代にカレン宣教は拡大した。年次報告書では、カレン宣教がビルマ宣教より勢いがあったことが窺える。同時期に、宣教学校の設立やカレン文字の考案、聖書法、聖書の翻訳が進んだ。
 次に、メイソンという人物像と宣教活動の特徴が説明された。彼は1831年1月にビルマへ派遣され、宣教活動以外にスゴーカレン語で書を出している点で他の宣教師とは異なる。聖書の翻訳にも積極的に取り組み、新約聖書、旧約聖書と次々に完成させた。また、聖書翻訳以外にも、カレンの風習や伝統などを記した民俗誌の類のものを著している。
 さらに、報告者はメイソンが抱いた<カレン観>を考察し、宣教雑誌における記述から、非キリスト教徒(=精霊信仰、仏教徒)とキリスト教徒受洗者への異なる視点があることを指摘した。前者には慣習や作法に対して厳しい非難をしている記述が多く見られるが、後者に対してはその働きぶりを高く評価しているという点に特徴がある。また、メイソンが1834年に発表した『カレンの伝統』では、①カレンの伝承とキリスト教との世界観と類似点 ②カレンの伝統や慣習とは聖書の教義の一致 ③ユダヤとカレンの共通点、という3点の特徴が示されていることを述べ、カレンの伝統・伝承にキリスト教教義との関連、歴史的繋がりを見出そうとする試みであったのではないか、とした。
 そのような流れの中で発表されたのが『カレンの使徒』であり、そこに登場するのがタービュである。同書の中で報告者が注目したのは、①祈りに対する姿 ②勤勉さ ③偶像崇拝を拒否する姿勢の3点であり、ここからメイソンがタービュを「神に祈ることを怠らない、誰よりも福音を愛した非常に敬虔なキリスト教徒」と位置付けていることを示した。タービュについては「精霊に対する信仰心に満ち溢れた、善良なる者」とも描写されており、これが示すのは仏教徒のイメージの対極にある存在としての「良きキリスト教徒」である。つまり、メイソンが創出したタービュの言説は「祈りという行為とキリスト教宣教を通じて開化した真面目で敬虔なカレン、キリスト教受洗者」であって、キリスト教を通じたという前提を抜きに語ることのできないカレンの使徒言説であったのではないか、と報告者はみている。
 また、カレンの使徒言説が創出されなければならなかった背景として外的要因と内的要因を示した。外的要因をバプティスト宣教局の財政状況に着目し、総資金額と余剰額、負債額に焦点を絞って、アメリカ社会との経済的な関係性で説明できるのではないかとした。また内的要因として、メイソンの宣教活動に対する危機感を挙げて、宣教活動を取り巻く環境の変化、資金不足、人員不足が焦燥感を駆り立てていたのではないかと内面的な部分を推察した。それら宣教側の課題を解決するために、具体的なイメージが必要とされ、タービュを模範例として示すことで、カレン宣教の成功や必要性を強調したのではないかと報告者は考察している。
 結論として、キリスト教徒を中心とした<カレン像>は1830年代~1840年代に宣教師によって創出されたものである。タービュを<カレンの使徒>言説として描きだすことは、あくまでも宣教師側の必要性から生じたことであり、それが宣教師の間で正当性をもったと解釈できる。

【池田一人氏のコメント】
池田一人氏によって3点が指摘された。
1.19世紀のカレンの民族意識の創生過程を広い文脈から位置づけ
本発表について池田氏は「19世紀のキリスト教徒カレンの民族意識の形成」というテーマであれば、19世紀におけるキリスト教カレンのイメージの全体像、ならびに宣教師メイソンがどのような位置づけにあるのかを明らかにする必要性があると指摘した。その際に、19世紀におけるキリスト教徒カレンの民族意識形成に重要な影響力をもったメイソンの存在、カレン語の考案に携わったジョナサン・ウェイドを挙げ、言語学史的にカレンの集団性を外郭という点で規定した人物を紹介した。さらに、宣教師が主導しているような19世紀カレンの民族意識形成の段階で、そこに参加したコミュニティのカレンが重要な役割を果たしているのではないかという話が以前よりあるが、その部分の解明が進んでいない現況を説明した。その側面から、19世紀の宣教の際にスゴーカレン語で書かれた史料を基に、当のカレン人たちがどのように考えていたのか、どのように受け取っていたのか、明らかにする必要性を述べた。それに加えて、19世紀のバプティスト派キリスト教徒カレンは、ビルマ内において非常に狭い範囲だとし、20世紀初頭に明らかにされた1921年のカレンの人口割合の統計を引用して、8割の仏教徒がどのような状況下にあったのかを考える必要があるとした。また、これによって19世紀におけるカレンの民族意識形成の全体の位置づけというものがなせるのではないかという指摘が挙がった。

2.<カレン民族意識>を明らかにすることによって何が分かるのか
現代的な文脈で「カレン」が扱われると、大抵の場合はKNUとなる。未だ中央のビルマ政府に反旗を翻したまま武装闘争を続けている存在だが、彼らのリーダシップはスゴーのキリスト教徒カレンにある。その人達がコアな<カレン民族意識>として持つその源流は19世紀にあるのではないかと考えられる。そのことから、カレン民族意識を明らかにする意義というのは、現代ビルマの民族共存問題につながってくるのではないだろうか。どのような意味合いで、また自身の問題として、メイソンがもっていたカレン観を問題として析出していくかが今後は必要になるだろう。

3.宣教の政治学
池田氏はアメリカ本国のバプティスト宣教本部の総資金・基金総額・余剰負債額推移をカレンの民族意識形成と結びつけている点を評価した。これは、今まで論じられてこなかった視点である。アメリカ本国の宣教本部と派遣されている宣教師の関係は不明な点が多い。確かに、メイソンが『カレンの使徒』という書物を著したのには意図が認められる。その背景に、本国の財政がひっ迫していたのではないかという報告者の仮説はすごく面白い。しかし、メイソン自身が具体的に、バプティストボードの財政事情に対して危機感をもって反論をしている証拠がない。したがって、今後は具体的な証拠を出しながらこの仮説を用いれば、説得力が増して面白い話になってくるのではないだろうか、と指摘した。その点で、宣教の政治学という新たな視点を投げかけた。19世紀のカレン研究の視点では今までなかった視点なので、ぜひとも今後ひろげていってもらいたいとコメントした。

【質疑応答】
質問1:この問題の背景がどういったところにあるのか。
回答1:ジャドソンが来緬して以降、最初はビルマ人に限定するわけでなく、周辺の人々に対して教会を設けずに宣教をしていた。タービュを身請けして受洗させたのは、カレンの宣教のきっかけとして宣教側にカレンの人が欲しいということで引き入れた経緯がある。

質問2:カレン全体の中でキリスト教徒が20%を切っているのならば、見いだされてキリスト教徒になったカレンの集団というのは、どういった人達であったのか。
回答2:仏教徒のカレンの人達よりも精霊信仰をしていたカレンへの宣教の方が上手くいっていたのは分かってきているが、受洗した人達がもともと何を信仰していたのかは細かい記述が残されてないので分からない。

質問3:カレンの中でも仏教徒と精霊信仰といっているが、生業や分布の違いと信仰の違いは対応関係にあるのか。
回答3:平地に住むカレンは、仏教社会に溶け込んでおり仏教徒であると捉えていたようである。それに対して、山地のカレンは、精霊信仰を信仰する人々が多い。その人達の方が平地に住むカレンより反応が良いようだと宣教師の記述に残されている。住む地域によって宣教の拡大の度合いが違うとは言える。

質問4:創られたカレン像がタービュであったというのは、過去に犯罪者であったということが重要なのではないか。犯罪者の改心と規範的なキリスト教徒はカトリックの使徒やプロテスタントのキリスト使者とよく似た物語的な構造ではないか。
回答4:受洗前の犯罪者としての姿がより重要であったのではないかという指摘はそこまで考察を深められていなかったので、今後、検討していきたい。

質問5:洗礼の成功者としてのタービュ、洗礼前のタービュが分離してカレン像として定着したと考えて良いのか。
回答5:模範的なキリスト教徒としてのカレン、怠惰で無気力なカレンというのが同時に存在していたのか、もともと怠惰で無気力だったけれどもキリスト教で統一されていったのか、そこの位置づけも検討する余地がある。私は後者を考えていたが、変化をしていったというだけではなく、同時に存在していたという新たな視座からもう一度検討してみると新たなことが言えるのではないか。

質問6:メイソン自身は「一つのカレン」という認識がなかったのではないか。
回答6:記述の中でメイソンは一貫してカレンを使用している。しかし、同じ言葉を使っているからといって、想定されている意味が同じとは限らない。『カレンの使徒』を発表した際に単一のカレンという認識はなかったのかもしれない。しかし、ここで作り上げられた言説が、その後参照枠組みの民族としてカレンとして再解釈され、広まっていったのではないか。

補足説明(根本会員):メイソンに「一つのカレン」という認識がなかったのではないかという指摘だが、『カレンの使徒』の原題では、his nationになっている。これがhis peopleであれば、認識がなかったのではないかという議論は成り立つが、わざわざhis nationであるから、民族という枠組みでメイソンはカレンを捉えている。キリスト教を受容する準備のできている民族だという認識があるのではないか。「the Karen apostle」も「a」ではなく「the」であるから、模範的な受洗者、象徴されるカレン像はコー・タービュだけである。

質問7:ビルマにおいて特異なのは、「イスラエルの失われた民」というのがいつまでも残って語られ続けている点ではないか。
回答7:カレンの神学校の修士論文・博士論文ではカレンの歴史についてメイソンが提唱した「カレンのヘブライ起源」が引用されているのも、その特異性を示していると思う。

質問8:経済をやっている者からすると、アメリカで起こった不況がそのままカレン宣教に影響するというのは短絡的な感じがする。送金方法はどのようにやっていたのか。宣教師のファンドレイジングシステムがあると思うが、それを分析せずに語るのはどうか。
回答8:送金方法に関してはアメリカから直接送っていたと思うが、インドの英国バプティスト教会との関連も深いので、ここで寄港して換金するなりしてきたのではないかと推測している。バプティスト宣教局との関連で送金方法を確認し、今後、確証あるものにしていきたいと思う。

第2報告
「ベトナム・ハノイの都市民衆による互助と協力―ハンホム通り「ハビ亭」をめぐる公共圏の構築について―」
報告者:長坂康代氏(京都大学文学研究科GCOE研究員)
コメンテーター:三尾裕子氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

【報告要旨】
本報告は、政治都市ハノイにおいて、民衆がいかに自らの意思をもって生活をしているのかを、旧市街のハンホム通りにある、ハビ亭をめぐる行政との拮抗を中心に、いくつかの事例を述べたものである。
 ハンホム通りは、漆工芸を生業とするハビ村出身の移住者によって開拓された通りである。そこにあるハビ亭は、そのハビ村民によって築かれた集会所であり、宗教機能も合わせもつ宗教施設である。参拝日は旧暦1日と15日で、主にハビ村出身者および関係者、ハンホム通りの店主らが参拝したり茶話会を開いたりしている。また、同郷会は、同じ村出身の人たちが中心になってその関係者を組織した民衆の会である。
ハノイでは、行政によって宗教施設が再建され、行政による運営がより強化されてきている。ハビ亭も、公には行政の管理に委ねられるものの、実質的には同郷会が運営しているが、2009年には行政の視察が入り、ハビ亭の主要部分は保持のまま、敷地内が整備されることになった。
 報告者の調査によると、ハビ亭は、2006年ごろから、同郷会によって、民衆の利益と志向に適合的な神を祭祀の対象に加えることで、宗教性を増してきた。そして、ハンホム通りの新住民やハビ亭を篤く信仰する非会員を受け入れて、より広い都市性を獲得してきた。同時に、地元の起源となる漆信仰を再確認しながらも、より広い商業性や現世利益信仰を包摂することによって、都市的な民間信仰に見合った形にその信仰の拡大・再編成をはかってきた。このように宗教化をはかるのは、ハビ村出身者が築いたハビ亭を、ハビ村の長老の意見を尊重しながら、その子孫と関係者が保守する意図があるからである。
 同郷会の役員や店主らは、インフォーマルで親密な家族領域に閉じず、ハビ亭というこの宗教的寄り合いと茶サロンを基軸に、社会的交流を広げている。そして、都市の宗教施設管理や文化財保護、あるいは観光化による都市振興をめぐって、意見を交し合うハノイの文芸的公共圏を創り出している。
 ハビ亭の将来管理に関する行政の計画に対して、同郷会は、民衆の意思を主張しようとしてきた。ハビ亭の会員として長く同郷会に関わり、議論の場に居合わせた発表者が、この社会的共同性に注目して、知恵を出し合いながら民衆が共闘して政治的公共圏にまで成熟していこうとする動態の芽があることを発表した。

【三尾裕子氏からのコメント】
 本報告は、大変細かな資料を揃えていたというのが感想である。自身のベトナムでの研究対象地であるホイアンでも、行く度に通りの店舗が変化しているため、通りの店の様子を調査していけばよかったとも思っている。行政が入っていい部分とわずらわしい部分がある。入っていい部分は、住みやすくなることである。今、やっている地域も、国家行政の煩わしさがある。建物や家が、行政の手が入って新しくなると、行政側の言うことを聞かなければならなくなる。入場料がかかるようにしても、思いのほか収入が少ない。行政に立て直してもらうことは、小額のお金のために行政の言うことを聞かなければならなくなるということである。それなので、自分たちでお金を出してやったほうがいいと、地域の民衆は思っている。
 背景的なもので、在ハノイ・ハビ村同郷会とハビ亭という施設が、一体いつごろ成立したのか、会長が5代目ということは、ずいぶん前からだと思うが。
発表者は、1947年の抗仏戦争が契機だというが、社会主義化やドイモイによっても介入を受けているかどうか。また、それ以前の同郷会の様子はどうだったのか知りたい。人びとは、宗教化させたいという議論があって、ドイモイのときに再構築がされたのだと思うが、社会主義化やドイモイによって介入を受けているか。
昔の共同体、コミュニティに戻るのがよいのか、それとも個がつながりあえるような公共圏につなげたほうがよいのか。社会全体の状況の変化を説明したほうがよい。

【コメントに対する報告者による返答】
 ハビ村の質問にたいして、大体100年前、会長は遷都1000年なので、1000年前と言っている。1947年、抗仏戦争のときに、ハンホム通りとハビ亭も空爆に遭い崩壊したので、そのときに再建をしている。ハンホム通りは、旧市街ができてからなので、100年ほどではないかと思う。ハビ亭は、ハンホム通りを築いたハビ村出身者のための集会所なので、そのころではないかと思う。
 会長については、現会長から2代前まで、さかのぼって確認しているが、それより先はわからない。1947年当時のフランス統治時代のハビ亭の資料で確認している。
 村では、ディンが1、亭が1、寺が1など、それぞれ存在するが、ハンホム通りに集会所は1つしかなかった。
しかし、同郷会は、ハンホム通りに接したハンクワット通りのトゥアンミー亭(=ディン)とトゥアンミーデンは、ハビ村のものだと言っている。1947年の空爆以降、現在は、同郷会の会員が家を建てて住んでいる。トゥアンミーデンは、ハビ村と関連のない貧しかった者を堂守として住まわせていた。しかし、その堂守は、歴史を改ざんして、ハビ村との関連をなくしてしまった。歴史文献をあたると、実はハビ村のものではないということもわかっている。行政でなくても、民衆間でも、社会主義化やドイモイといった混乱期に、こういった宗教施設は取ったり取られたりしている実態がある。


【質疑応答】
(質問)
①オントーとは、漆の神のことですね。デン・ディンの区分けは、行政の区分けの仕方であって、ディンも神を祀るので、デンでなくても大差ないのではないか。
②ハビディンの鍵は誰がもっていますか。

(報告者による回答)
①確かに、デンもディンも神を祀る空間である。ハビ亭に参拝に来る同郷会の会員も、ハビ亭で、「ここはデンかディンか」と議論をしたこともある。結局、そのときはデンでもディンでもいいのではないかとなったが、一般民衆からみたら、確かに(デンもディンも)同じだと思う。しかし、同郷会の会長は、行政にもかんでいて、他の宗教施設が行政によって取り込まれるところをみている。自分が行政と関わることを喜ばしく思っているが、自分の運営するハビ亭に行政が介入するとなると、それは困るとなる。また、行政に呼び出されて、同郷会の会長は、(行政のもとで)宗教の勉強もしている。行政の動きも把握しているので、やはり、より宗教化しないと、取られてしまうということもわかっている。だから、デンにしていこうという同郷会の動きはあるのだと思う。
②ハビ亭の鍵は、同郷会の会計監査がもっている。以前、ハンホム通りの塗料販売店の店主で行政寄りの男性が、ハビ亭の鍵を黙って持ちだしたことがある。それを、同郷会の役員は「なぜ鍵を持っていったのか、合鍵をつくるためではないか」と疑ったこともある。

(質問)
①行政が、監視ではなく、観光が目的だったという根拠は何か。
②同郷会の役員は、亭(=ディン)をどうしていきたいのか。デンを目指すのか。発表者の話からは、宗教空間と公共空間のどちらもあるように思うが、どうか。

(報告者による回答)
①2004年のハノイ市のホアンキエム区人民委員会の資料によると、金曜から日曜の夜に、旧市街のある通りを歩行者天国にして、夜店を出している。これは、観光目的である。また、今回この資料を提示していないが、宗教施設についても明記している。ホアンキエム湖に近い宗教施設では、それまでは民衆が運営していたが、行政が介入し、宗教施設がきれいになった分、毎日施設を開けざるを得なくなった。それは観光客を呼び込むためである。わたしは、これは、やはり観光目的であって、監視というふうにはとらえていない。
②公共的であり、宗教的な空間でもある。公共圏については、ハビ亭にも茶サロンがある。サロンとは、本来ならば文芸的公共圏を作り出しているところで、ハビ亭も信仰だけでなく、そういった空間にもなっているといえる。

2012年度第6回(1月)の関東例会のご案内

関東例会1月例会(1月26日開催)のご案内をお送り致します。

今回は、藤村瞳会員による「19世紀ビルマにおける米国バプティスト派宣教師のカレン人像形成-キリスト教徒カレンに関する伝記とその言説分析を中心に―」及び、長坂康代会員による「ベトナム・ハノイの都市民衆による互助と協力ーハンホム通り「ハビ亭」をめぐる公共圏の構―」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。

<2012年度1月例会>
日時: 2013年1月26日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:藤村瞳氏(上智大学グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程2年 )
コメンテーター:池田一人氏(東京外語大学非常勤講師)
〈発表題目〉
「19世紀ビルマにおける米国バプティスト派宣教師のカレン人像形成-キリスト教徒カレンに関する伝記とその言説分析を中心に―」

〈発表要旨〉
本報告では、米国バプティスト派宣教師メイソンによって1843年に執筆された、カレン初のキリスト教改宗者といわれるコー・タービュの伝記『カレンの使徒(The Karen Apostle)』を題材として取り上げ、彼にまつわる言説によって表されたカレン像について検討する。米国 バプティスト派の宣教師らは、19世紀初頭にビルマでの宣教活動を開始した。そして1820年代後半以後の活動は、同国のカレンと呼ばれる人々を主な対象とした。宣教の一環としての教育活動や改宗者との交流を通じて、宣教師のカレン像は西洋人・カレン両者の間で広がりを見せ、カレン民族意識形成において彼らの存在と活動が大きな影響力を持ったと言われている。では、具体的には、19世紀前半の宣教師が抱いたカレン像とは、いかなるものだったのか。これを明らかにするために、本報告では、まずキリスト教徒カレンに関する言説の創出の背景とその要因を究明を試みる。そして、キリスト教徒カレンに関する言説を通じて、宣教師側のカレン像がいかに形成されたのか、その過程を検討する。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:長坂康代氏(京都大学文学研究科 GCOE研究員)
コメンテーター:三尾裕子氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 教授)
〈発表題目〉「
「ベトナム・ハノイの都市民衆による互助と協力ーハンホム通り「ハビ亭」をめぐる公共圏の構築―」

〈発表要旨〉
ハノイ市ハンホム通りは、漆工芸を生業とするハビ村出身の移住者によって開拓された。そして、ハビ亭 は、そのハビ村民によって築かれた、社会的には通りの集会所であり、宗教機能も合わせもつ宗教施設である。旧暦1日と15日に開扉され、主にハビ村出身者および関係者、ハンホム 通りの店主らが参拝したり茶話会を開いたりする場所である。

同郷会は、同じ村出身の人たちが中心になってその関係者を組織した会である。この同郷会は、広くハノ イに一般的に存在する民衆組織であるが、その社会科学上の分析と考察は、本稿が初めてである。

この宗教施設「ハビ亭」を運営する同郷会は、公式には行政の管理に委ねられるものの、実質的には民衆 の主張が貫徹しており、民衆の利益と志向に適合的な神を祭祀の対象に加えることで宗教性を増している。ハンホム通りの新住民やハ ビ亭を篤く信仰する非会員を受け入れて、より広い都市性を獲得すると同時に、宗教空間内の神々の構成で地元の起源となる漆信仰を 再確認しながらも、より広い商業性や現世利益信仰を包摂することによって、民衆が主体的に、都市的な民間信仰に見合った形にその 信仰の拡大・再編成をはかっている。つまり、民衆知による社会活動が公共圏を創りだしていく動態を論じる。

同郷会の役員や店主らは、インフォーマルで親密な家族領域に閉じず、社会的交流を広げていく。そし て、ハビ亭という宗教的寄り合いと茶サロンを基軸に、都市の宗教施設管理や文化財保護あるいは観光化による都市振興をめぐって、 意見を交し合う文芸的公共圏を創り出す。また、行政と接点をもって政治折衝する接合の場所をつくっている。しかも、ハビ亭の将来 管理計画をめぐり、行政の計画に対してある部分自分たちの意見を通している。この社会的共同性に注目して、この民衆が共闘して政 治的公共圏にまで成熟していこうとする動態があることを明らかにする。

多くの方々のご来場をお待ちしております。

次回の関東例会の日程について

次回の例会(第6回)は、以下の日程で開催されます。

2013年1月26日(土)13時30分〜17時45分

多くの方々のご来場をお待ちしております。

報告の内容につきましては今後アップ致しますので、今しばらくお待ちください。

2012年度第5回(11月)の関東例会の報告

2012年11月24日(土)に行われました2012年度第5回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録を以下に掲載します。


☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:高田洋子氏(敬愛大学国際学部教授)
コメンテーター: 古田元夫先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)
報告題:「仏領期メコンデルタのトランスバサック地方と大土地所有制―コンセッションの展開を中心に」


<議事録>
高田洋子(敬愛大学国際学部)
「仏領期メコンデルタのトランスバサック地方と大土地所有制―コンセッションの展開を中心に」

 報告者が長年に渡り仏領期メコンデルタの社会経済史研究を精力的に進めてきたことは周知の通りであるが、本報告はその新たな展開を示すものであった。従来、報告者は、仏領期の国有地払い下げ政策を巡る諸研究とトランスバサックの個別生態空間の開拓史研究を推進してきたが、本報告は、それらを結合するような研究であった。国有地払い下げによる大土地所有制の展開を、メコンデルタ西部(とくにベトナムの最南端カマウ岬近辺のバクリュウ)の開拓史の中で具体的・詳細に検討するものであった。資料的には、ベトナム国家第2公文書センター所蔵の植民地行政文書を駆使した数量的な検討が行われた。報告者自身が収集したもののほか、タ・ティ・トゥイ氏(ベトナム史学院)から提供されたものが利用された。これまで使われてこなかった、これらの一次資料の精査により、国有地払い下げと大土地所有制の展開の村レベル・個人レベルの実態がより深く解明された。
 報告は、コーチシナの全体状況に関する再検討を踏まえて、バクリュウの具体的な考察を行うという順でなされたが、本論の前に、トランスバッサク地方(メコンデルタ西部)の歴史的位置づけが大局的に示された。仏領期のメコンデルタ西部地域の形成が18・19世紀以来の連続的発展の中に位置づけられること(南シナ海と大陸部東南アジアの接点、多民族の生存圏、ベトナム史の辺境)、19世紀末~20世紀初頭にフランスにより世界構造に包摂されたこと(商品米生産の全面的展開、荒蕪地の開墾)、20世紀前半の国有地払い下げによる大土地所有の成立が国民国家の形成や革命の重要な前提条件となった(が、ベトナム史研究の中でそのことが十分に評価されてこなかった)ことが述べられた。中でも、国土の最南端のバクリュウにベトナム最大規模の大土地所有者が存在していたことに報告者は注意を喚起した。
 仏領コーチシナの時期区分(第1期[1860s-70s]:軍政期、第2期[1880s-90s]:地方行政制度の整備、第3期[1900s-1910s]:急速な発展と全国の制度的統一、第4期[1920s-1930s]:発展のピーク→世界恐慌・社会不安)の中で、第2期・3期に土地調査(測量)・村落政策が進められ土地私有権・徴税制度が整備され村落組織・地方統治機構が編成され、第3期・4期にはトランスバサックの開発が推進されたことがまず概観された。このような植民地機構の整備とともに制定された国有地払い下げ(コンセッション)の制度の概要が示され(植民地評議会、省議会が調査・審査して認可。申請→仮譲渡→確定譲渡という手順。荒蕪地は国有地へ戻す。)、その申請には小規模集団申請と個人申請があったこと、ヨーロッパ人だけでなく現地人の申請も多かったこと、第一次大戦後、1920年代にはフランス資本の不動産部門への投下が進んだことなどが指摘された。その実態がメコンデルタ諸省における国有地払い下げ(1929年1月1日累計)に関する資料により具体的に示され、その結果トランスバサックで顕著な大土地所有が見られるようになったことがイブ・アンリの古典的な調査報告により確認された。さらに、1928‐39年(毎年)のメコンデルタ諸省におけるヨーロッパ人と現地人の払い下げに関する資料、及び1940年1月1日累計のメコンデルタ諸省の国有地払い下げに関する資料の検討により、世界恐慌による停滞・水田の総面積の縮小にも関わらず、コンセッション制度が30年代を通じて積極的に活用されていたことが示された。さらに、コンセッションを法的根拠としてフランス人がメコンデルタ全体の水田面積の1割の土地を取得するに至ったこと、30年代には中小地主の危機と大地主の優遇、新興地主を基盤とする立憲党の衰退、小作料の不払い運動、地主の都市部への移動などの社会不安が生じていたことも指摘された。
 コーチシナ全体の開発の中で最南端のバクリュウのコンセッションと大土地所有がどのように展開したかについて村レベル・人レベルの個別具体的な検討がなされた。20世紀の開発の時代を迎える前の19世紀末のバクリュウの状況に関する植民地行政文書(村落数・民族別人口、諸村落の民族別の納税状況、各郡の納税状況、バクリュウ省の水田・畑の等級別面積)が提示された。植民地文書の検討から、ベトナム人、クメール人、中国人の郡別・村別の居住パターン(混血は不明)や村それぞれの生業パターン(人頭税・地税・漁業税・船税・営業税・塩税の納入状況)が知られることが示された。また、10余りの村落の土地所有面積に関する資料の分析から、土地所有構造の3類型が抽出され、小土地所有から中土地所有への階層分化の趨勢がすでに窺われること、20世紀に入って状況が一変することが指摘された。
 運河の掘削による幹線水路の整備により1910年代後半以降にバクリュウの新田開発が進み1930年ごろにピークを迎えたこと、それとともに大土地所有制が発達したことを確認したのち、その動向とコンセッションの関係について、バクリュウ省の国有地払い下げの年代別・規模別のデータ(1897‐1941)、合計1000ヘクタール以上の譲渡が認可されたバクリュウ省内の18村落の年代別状況と村ごとの払い下げ状況(個人)に関する資料が提示された。その分析結果として、次の諸点が述べられた。巨大コンセッションの取得者のうち3割はフランス系で、残りは帰化人を含む現地人であった。現地人の出自を見ると、当初はキリスト教徒(Le Van Mau[合計面積4306ヘクタール]など)が目を引き、その後は、ベトナム生まれの華人(Tran Trinh Trach[合計面積2989ヘクタール]、Cao Minh Thanh[合計面積1646ヘクタール]など)、および明郷(=混血)が目立つようになる。省・郡長レベルの地方行政の中枢にいた人物など地元の有力者が含まれている。

 古田元夫氏からは、①大土地所有制の形成によってバクリュウ地方の社会構造が一変したというより、従来の有力者が大土地所有者に転化したとみてよいか、②大恐慌後の30年代の国有地払い下げは恐慌前の申請が30年代に確定したという可能性はないのか、申請から確定までの時間差はどうなっているのか、③恐慌までは従来のあり方の延長線上にあったが、恐慌後にはそれが維持できず、社会不安、革命運動の展開など状況が一変したとみてよいか、あるいは連続的な変化と見るべきかとの質問が出された。報告者は、18・19世紀以来のバクリュウ地方社会の連続性(華人の中心的役割など)をまず強調した。また、バックリュウの植民地期の大きな変化として1890年代の村落の再編(70村から24村へ)が挙げられるが、それでも地方支配は人的な連続性を持っていたと考えられるとした。世界恐慌については、育ちつつあった中小地主が振り落とされたという点でインパクトが大きかったが、たとえば現地化したフランス人地主の持続的な社会的影響力などそこで変わらなかった部分もあり簡単に言えないと回答した。コンセッションの確定までの期間については、10ヘクタール以下は即座に確定し、300ヘクタール以上(有償譲渡、1913年以前は500ヘクタール)でも5年で確定するので、確定譲渡の申請は最大5年前のことであると回答した。
 渋谷由紀氏からは、①サイゴンではインド人の土地所有が多く見られるが、バクリュウではインド人の土地所有は見られないか、②フランス人に払い下げられた土地は50年代60年代に法的にどうなったか、という質問が出された。
 インド人の土地所有について、報告者は、国有地の払い下げにインド人の名前は出て来ない、インド人(チェティ)は高利貸しとして開発資金の提供者であった、59年のゴ・ディン・ジエムの土地収用の際の資料にはインド人の名前はたくさん出てくると回答した。フランス人に払い下げられた土地に関しては、ジエム政権がフランスと協定を結び有償(フランスから資金提供)で接収が行われた、フランス人がメコンデルタから最終的にいなくなったのは67年ごろであったという回答がなされた。
 弘末雅士氏は、水田開発の労働力のリクルートがどのように行われたかと質問した。これに対して、報告者は、労働力の問題は資料にはあまり出て来ない(20世紀初頭に北部のタイビン省から労働者がメコンデルタ・カントーに連れて来られたという記録があるが、彼らは離散してしまっている)、外部の労働者が入っているという説をとなえる人もあるが根拠は挙げられていない、トランスバサックの開発では外部の労働力は入っていないと考えると回答した。また、報告者が行った聞き取りの情報として、小作人は遠隔地から来ていないということ、地主が信頼する小作人頭に労働力を組織させていたことが述べられた。
 嶋尾が、クメール人とベトナム人の居住地の関係、国有地払い下げとクメール人の関係について質問したのに対して、1882年の時点でベトナム人とクメール人が一緒に住んでいる村はなく、90年代の村の統合で同一村内の混住が始まった(本来棲み分けがあった)、払い下げのリストの中にクメール人の名前は見られない、クメール人は低地を好まず開発の波に乗れなかったとの回答であった。

(文責:嶋尾稔)


☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:東佳史氏(茨城大学人文学部准教授)
コメンテーター:桑名恵先生(お茶の水女子大学グローバル協力センター講師)
報告題:「インドネシア・アチェ大災害直後の復興調査結果再考 -分析されなかったデータ-」


<報告要旨>
本発表は2006‐7年にIOM(国際移住機構)が収集したGAMゲリラ兵士の人口学的データを、解読可能な形に修復して分析したものである。
アチェに大災害から、すでに8年が過ぎた。当時は軍事行動地域とされていたアチェに大挙して援助団体が入り開発「調査」を始めた。IOMもGAM(アチェ自由運動)兵士4958名に対して職業訓練要望調査を行った。質問票自体は汎用性があったが、問題はデータ入力方法であった。EXCELにデータ入力する際にコード表もなく「文字入力」を繰り返すという初歩的なミスの結果、数字で入力されたデータしか分析できないEXCELの特性故に解析不可能となり4958名の貴重なデータは結果的に無駄となったのである。

今回復旧したデータの主な分析結果は以下の通りである。
1)半数以上の元兵士達の戦闘期間は1年以下に過ぎず、社会復帰の可能性は高かった。
2)年齢構成は39才以下が3分の1を占め、この点からも社会復帰は不可能ではなかった。
3)教育水準は小学校(未卒含む)が3分の1を占め、職歴も農林水産業従事者が3割を占めていたが、逆に職業訓練への要望は自営業(Wiraswasta)や商業(Dagang)が4割近くを占めるなど「現実」を直視しない傾向がみられた。
このデータはその後の社会再統合の為の職業訓練計画作成に重要なものであった。しかし、データが解析不可能であった故に、データに照らして検証する場もないままに元兵士達の要求を鵜呑みにせざるを得なかった。結果的に職業訓練では起業家養成コースが乱立し、本来は農林水産業に社会復帰すべきであった元兵士達は商業・自営業に従事した。アチェ復興は、それを認めたイルワンディ前州知事の下で頓挫したのである*。

[*東 佳史(2008), インドネシア、アチェ独立運動除隊ゲリラ兵士とその再統合-大水流れ来たりて わが魂に及べり- 2006年世銀調査、2006-2007年ⅠOM調査との比較から 平成19年度 独立行政法人国際協力機構 客員研究員報告書 JR0731]

2012年度第5回(11月)の関東例会のご案内

関東例会11月例会(11月24日開催)のご案内を致します。

今回は、高田洋子会員による「仏領期メコンデルタのトランスバサック地方と大土地所有制―コンセッションの展開を中心に」及び、東佳史会員による「インドネシア・アチェ大災害直後の復興調査結果再考-分析されなかったデータ-」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。

<2012年度11月例会>
日時: 2012年11月24日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:高田洋子氏(敬愛大学国際学部教授)
コメンテーター: 古田元夫先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)
報告題:「仏領期メコンデルタのトランスバサック地方と大土地所有制―コンセッションの展開を中心に」

<報告要旨>
メコンデルタ西部は、コーチシナ植民地経営の基盤である輸出米生産=不在大地主制の発達した典型的な地方であった。西部地域は20世紀前半のメコンデルタ開拓最前線の地であり、フランス人の権益も集中した。報告では、こうしたトランスバサック地方における植民地権力による土地払い下げ(コンセッション)の状況を明らかにし、大土地所有制成立との関係を考察する。今回は、1880年代以降に新行政区が設置され、ベトナム最大級の大地主が存在したバクリュウ省の事例をとりあげる。大規模な土地分配の実態を通して、当時のメコンデルタ多民族社会における支配構造の一端を明らかにしたい。植民地政府による払い下げ令、省行政文書、臨地調査等から得た資史料に基づき、ベトナムの「辺境」に置かれたメコンデルタ西部の近代史に光を当てる。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:東佳史氏(茨城大学人文学部 准教授)
コメンテーター:桑名恵先生(お茶の水女子大学グローバル協力センター講師)
報告題:「インドネシア・アチェ大災害直後の復興調査結果再考-分析されなかったデータ-」

<報告要旨>
本発表は2006‐7年にIOM(国際移住機構)が収集したGAMゲリラ兵士の人口学的データを、解読可能な形に修復して分析したものである。
アチェに大災害から、すでに8年が過ぎた。当時は軍事行動地域とされていたアチェに大挙して援助団体が入り開発「調査」を始めた。IOMもGAM(アチェ自由運動)兵士4958名に対して職業訓練要望調査を行った。質問票自体は汎用性があったが、問題はデータ入力方法であった。EXCELにデータ入力する際にコード表もなく「文字入力」を繰り返すという初歩的なミスの結果、数字で入力されたデータしか分析できないEXCELの特性故に解析不可能となり4958名の貴重なデータは結果的に無駄となったのである。

今回復旧したデータの主な分析結果は以下の通りである。
1)半数以上の元兵士達の戦闘期間は1年以下に過ぎず、社会復帰の可能性は高かった。
2)年齢構成は39才以下が3分の1を占め、この点からも社会復帰は不可能ではなかった。
3)教育水準は小学校(未卒含む)が3分の1を占め、職歴も農林水産業従事者が3割を占めていたが、逆に職業訓練への要望は自営業(Wiraswasta)や商業(Dagang)が4割近くを占めるなど「現実」を直視しない傾向がみられた。
このデータはその後の社会再統合の為の職業訓練計画作成に重要なものであった。しかし、データが解析不可能であった故に、データに照らして検証する場もないままに元兵士達の要求を鵜呑みにせざるを得なかった。結果的に職業訓練では起業家養成コースが乱立し、本来は農林水産業に社会復帰すべきであった元兵士達は商業・自営業に従事した。アチェ復興は、それを認めたイルワンディ前州知事の下で頓挫したのである*。

[*東 佳史(2008), インドネシア、アチェ独立運動除隊ゲリラ兵士とその再統合-大水流れ来たりて わが魂に及べり- 2006年世銀調査、2006-2007年ⅠOM調査との比較から 平成19年度 独立行政法人国際協力機構 客員研究員報告書 JR0731]


終了後、懇親会を用意しております。


多くの方々のご来場をお待ちしております。

2012年度第4回(10月)の関東例会の報告

2012年10月27日(土)に行われました2012年度第4回関東例会(会場:東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース)の議事録を以下に掲載します。


☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:黒田景子氏(鹿児島大学法文学部人文学科教授)
コメンテーター: 西井凉子 先生(東京外国語大学AA研教授)
報告題: 「クダー内陸部のタイ寺院とタイ語話者の移住:境域の内陸世界」


<報告要旨>

タイ=マレーシアの境域にあたるクダー州は、マレー半島で早くにイスラーム化したスルタン候国としてしられマレー人人口も多い。しかし同時にシャム(タイ)の朝貢システムを受け入れており、1909年になって英領マレーに組み込まれた。クダーのシャムへの朝貢は名目的なものといわれているが、実際にクダーの内陸部には南タイからの移住によるタイ語話者、ムスリムと上座仏教徒がおり、クダーの歴史に影響が色濃くみられる。本報告はクダー内陸を中心として存在するタイ仏教徒寺院の全調査をもととする。この分析により、クダースルタンは内陸部を把握していたのか、主たる歴史資料に記載されないクダー内陸とはどのような世界であったのか考察した。


☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:宮脇聡史氏(大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻アジアⅡ講座講師)
コメンテーター:内山史子先生(都留文科大学講師)
報告題:「フィリピン・カトリック教会「刷新」の20年:何がどうなったのか」

<報告要旨>

カトリック教会の積極的な参与を伴った民主化政変の高揚から5年、第2フィリピン教会会議(PCP-2)が1991年に召集され、「教会の刷新が、民主化したフィリピン政治社会の変革に貢献する」というビジョンを掲げた決議文及び実行計画書は、特に教会内において画期的なものとして受け止められた。それから20余年、4度の大統領選、エストラーダ大統領の弾劾裁判に始まる政権交代劇とデモの連鎖、アロヨ政権の度重なる不正疑惑等による政権の正統性の失墜など、政治情勢は変転し、またマクロ経済の成長、中間層の増大、市民社会運動の活発化と諸課題の露呈、貧富差の拡大といった社会経済上の変化もあったが、教会はこうした変化に翻弄されつつ政治社会関与を続けてきた。教会の新たなアイデンティティ・ステイトメントたるPCP-2を参照しつつ、この20年ほどの教会の言説と政治関与の状況を概観することで、フィリピン政治社会における教会の存在のもたらす意味を再吟味した。

2012年度第4回(10月)の関東例会のご案内

関東例会10月例会(10月27日開催)のご案内を致します。

今回は、黒田景子会員による 「クダー内陸部のタイ寺院とタイ語話者の移住:境域の内陸世界」
及び、宮脇聡史会員による「フィリピン・カトリック教会「刷新」の20年:何がどうなったのか」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2012年度10月例会>
日時: 2012年10月27日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:黒田景子氏(鹿児島大学法文学部人文学科教授)
コメンテーター: 西井凉子 先生(東京外国語大学AA研教授)
報告題: 「クダー内陸部のタイ寺院とタイ語話者の移住:境域の内陸世界」


<報告要旨>

タイ=マレーシアの境域にあたるクダー州は、マレー半島で早くにイスラーム化したスルタン候国としてしられマレー人人口も多い。しかし同時にシャム(タイ)の朝貢システムを受け入れており、1909年になって英領マレーに組み込まれた。クダーのシャムへの朝貢は名目的なものといわれているが、実際にクダーの内陸部には南タイからの移住によるタイ語話者、ムスリムと上座仏教徒がおり、クダーの歴史に影響が色濃くみられる。本報告はクダー内陸を中心として存在するタイ仏教徒寺院の全調査をもととする。この分析により、クダースルタンは内陸部を把握していたのか、主たる歴史資料に記載されないクダー内陸とはどのような世界であったのか考察する。


☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:宮脇聡史氏(大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻アジアⅡ講座講師)
コメンテーター:内山史子先生(都留文科大学講師)
報告題:「フィリピン・カトリック教会「刷新」の20年:何がどうなったのか」

<報告要旨>

カトリック教会の積極的な参与を伴った民主化政変の高揚から5年、第2フィリピン教会会議(PCP-2)が1991年に召集され、「教会の刷新が、民主化したフィリピン政治社会の変革に貢献する」というビジョンを掲げた決議文及び実行計画書は、特に教会内において画期的なものとして受け止められた。それから20余年、4度の大統領選、エストラーダ大統領の弾劾裁判に始まる政権交代劇とデモの連鎖、アロヨ政権の度重なる不正疑惑等による政権の正統性の失墜など、政治情勢は変転し、またマクロ経済の成長、中間層の増大、市民社会運動の活発化と諸課題の露呈、貧富差の拡大といった社会経済上の変化もあったが、教会はこうした変化に翻弄されつつ政治社会関与を続けてきた。教会の新たなアイデンティティ・ステイトメントたるPCP-2を参照しつつ、この20年ほどの教会の言説と政治関与の状況を概観することで、フィリピン政治社会における教会の存在のもたらす意味を再吟味する。



終了後、懇親会を用意しております。


2012年度第3回(6月)の関東例会の報告

2012年6月23日(土)に行われました2012年度第3回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

2012年度東南アジア学会6月関東例会の議事録

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:根本 敬 氏(上智大学外国語学部アジア文化研究室教授)
コメンテーター: 奥平龍二 先生(東京外国語大学名誉教授)
報告題:英領期ビルマにおけるShoe Question (1916-1920)―「パゴダ境内土足禁止」をめぐる言説と植民地政府の対応―

【報告要旨】
 本報告は、1916年から1920年にかけて英領インド帝国ビルマ州で展開された「僧院およびパゴダ境内における土足禁止」を求めるビルマ人仏教徒による請願運動(shoe question)をめぐる関係者の言説と植民地政府側の対応をとりあげたものである。報告では、史料として大英図書館所蔵India Office Records L/PJ/6/1630 File No.6472‘Shoe Question(1919)’所収の諸文書が使われ、本運動の文化的・政治的特徴に関する検討が詳細になされた。
 請願運動の展開と請願の内容分析においては、運動の宗教的側面と反英ナショナリズムの萌芽としての側面の両方に着目し、そのことに関する考察がおこなわれた。報告者は、請願者が僧院・パゴダの敷地内に入るときに裸足になることは仏陀の教えに基づいており、たとえ非仏教徒であってもビルマでずっと続いてきた習慣を尊重すべきと主張していたことに宗教運動としての側面が見られると指摘する。一方、同じビルマ人であるパゴダ管財人への請願者らの不信感や、英国人が境内に土足ではいることを見逃してきた彼ら管財人や一般ビルマ人の権威に対する卑屈な態度の反省を求めている点に反英ナショナリズムの萌芽としての側面が見られるとした。また、この問題に対し寛容な姿勢をとった考古学局長のTaw Sein Ko(福建人とシャン人のハーフ)を強く批判した点も注目に値するとした。報告者はここに1930年代以降のビルマ・ナショナリズムで顕著となる「我ら(の側のビルマ人)」と「彼ら(の側のビルマ人)」を区別する認識の萌芽があるとみなす。しかし、請願者たちのほうに当時そのような意識がどこまであったかは微妙であるとし、のちのタキン党の運動に見られるようになる「我ら」対「彼ら」という意識までには至っていないのではないかと指摘した。
 一方、ビルマ州政府(植民地政府)側の対応について、報告者は二つの特徴を指摘した。ひとつは州政府がこの請願運動が起きる以前にこの問題に対するビルマ人側からの批判はなかったとみなしていたことであり、もうひとつは裸足になることへの英国人としての文化的抵抗感と境内の汚さに基づく衛生上の嫌悪を理由にして反論を展開したことである。その際、境内での西欧人の土足を容認する隣国シャムの対応をとりあげ、その差異を強調することで仏教が本来有している寛容的な姿勢について言及し、自らの反論の正当性を訴えたことにも触れている。
しかし、1919年9月15日に出されたshoe questionに対するビルマ州政府の最終見解では、「西欧人の仏教施設内における履物の問題については、各宗教施設の管財人らにその判断を一任する」という判断が示されることになる。これをもって、請願運動の勝利とするのが定説であるが、報告者は州政府側の主張はあくまでもパゴダ管財人が請願運動側の政治的圧力に屈して判断を下すことがないようにという点が中心であったことを強調する。そこではビルマでの植民地統治を開始して以来、州政府側が維持してきた「宗教中立政策」に基づく立場が前提とされており、この最終決着は請願運動が勝利し植民地政府が敗北したと捉えるより、自らがビルマで導入した宗教中立政策による自縛的対応に過ぎず、州政府は初めからshoe questionにおいて妥協せざるを得ないことが定められていたと報告者は結論づける。また、州政府がこの判断に関する公式のビルマ語訳が完成するまで英語に通じていない一般ビルマ人は判断を留保するよう要請していた点についても指摘し、州政府が請願運動の中に反英ナショナリズムの萌芽を強く感じ取っていたからこそ、このように英語ができない一般ビルマ人への強い不信感を表明したのではないかと解釈できるとした。

<奥平先生からのコメント>
 本報告は、異文化摩擦に対する関心を改めて呼び起こす興味深い内容で、大英図書館の第一級の史料を駆使した丹念な研究報告である。1916-20年のshoe questionの問題の全貌を解明しようとしたものであり、史料が明かす範囲に限定した手堅い歴史研究の手法に学ぶところが多い。また、本報告は、報告者が専門とする後期ナショナリズム運動に繋がる、資料的に空白の多い前期ナショナリズムの萌芽期の事例研究であり、その意味でも高く評価できる研究である。

(1)土足と裸足の問題
 西洋人は聖域では靴は履いたまま、脱帽するのがマナーとされる。実際、西洋人にとって履物を脱いで裸足になることは物理的に面倒な行為であり、また、衛生面や文化面での嫌悪感もあり、さらに、人前で裸足になること自体下賎な者の行為と捉えられていた。
(2)ビルマ独特の寺院形態
 ビルマは上座仏教圏諸国の中で寺院形態が独特の構造をしており、この構造にこそ、Shoe Questionを惹起してきた一つの要因が潜んでいるのではないかと考えられる。   
仏教は、仏・法・僧の「三宝」を篤く敬いこれらに帰依する宗教だが、ブッダ入滅後は「仏」と「法」を対象としてその供養塔が建てられ、当初は僧侶達も供養に関わっていた。やがて、法を実践する「僧」中心の仏教が興隆していき、その流れを汲む上座仏教がスリランカで大成し東南アジア大陸部にも伝来した。ビルマでは、出家者中心の「僧院仏教」と、それ以前から盛んであったインド初期仏教の象徴的存在で、のち在家者に運営管理されていく仏塔供養の信仰(「仏塔信仰」)とが、各々、独立した形で発展してきた歴史的経緯があり、内実はこの両者の二重構造からなっている。従って、本来的には、三宝の重要度は仏>法>僧の順であり、仏塔はその弟子達が修行する僧院よりも上位に位置すると考えられる。それ故、仏塔は全体が聖域でありそこに土足で上がる行為は、僧院の境内(建物内部では裸足)を土足で歩くのと異なり、ブッダを土足で踏みつけるに等しい行為として許されるべきではない、というのが、仏教の教えにことのほか忠実であろうとするビルマ人の考えである。なお、1980年5月の上座部「全宗派合同会議」の決議により、在家中心の「仏塔」の管理委員会のメンバーとして「顧問僧」(オーワダーサリヤ)が加わり、仏塔の管理運営に助言を与えることが制度化された。これを機に出家僧が仏塔に出入りするようになった。
(3)仏典に見る裸足の根拠
 ビルマ人が仏塔や僧院で履物を脱がなければならないという根拠を示した仏典は特に見当たらない。ただし、学識あるビルマ上座仏教僧が強いて挙げる仏典の根拠を挙げれば以下の通りである。
 ① 長部経典のSilakhanda Vagga では、「ジャータサットゥ王が(象から降りて)徒歩でブッダの面前にひざまずいた」、と説明。
 ② 律蔵のSula Vagga では、ブッダの面前で、「(相手を尊重し低くして)履物を脱いで」との記述もみられる。
 ③ 律蔵の註釈書のParivala Atthakathaでは、「ブッダを尊敬しない者は、(仏)塔や菩提樹のある場所には行かない。―――この者はブッダに対して尊敬がない、と理解すべきである」との記述あり。
(4)王朝時代のShoe QuestionとYMBAが問題にしたshoe questionとの関係性
 Shoe questionの歴史はパガン時代のNarathihapate王治世の1272年、モンゴル・フビライ汗のパガン遠征軍が王宮で示した不遜な態度の史実まで遡ることができる。また、バドン王治世、英国駐在官コックスの記述に、「ビルマ政府の命令で、靴を履いたままパゴダに上ることは許されない。しかし、多くの西洋人がその命令をすり抜けパゴダに土足で上がっているのを見た」とある。インド総督クラウフォードの記述(1827年)によると、1795年のサイムズや1819年の宣教師ジャドソンの記述に見られるビルマ人の西洋人に対する不敬の念とは異なり、プロームのシュエサンドーパゴダを参拝した折にはビルマ人から尊敬の眼で見られた、とある。これは第一次英緬戦争直後であったので、西洋人が平然と土足でパゴダを歩いていても、ビルマ人自身西洋人の振舞いを許容していた可能性がある。のち、ビルマ州政府がビルマ人が許容していたとの反論の根拠の一つになりえたかもしれない。
(5)仏教王権観念への西洋人の無理解
 ビルマの仏教王権観念では、王はブッダの末裔であり仏教宇宙の中心に聳える須弥山の頂上層を支配する帝釈天の地上におけるカウンターパートなるが故に、王宮は仏教の聖域でもある。ビルマ王の自尊心の根拠に、マハータマダ王を起源とし、菩薩、弥勒仏の化身或いは仏教世界を自在に支配する転王聖王といった王権観念があり、また、自らを「諸王の王」を自負していた。Shoe Questionは王宮へ西洋人外交使節が土足で上り込むことへのビルマ側からの、自国の伝統的文化慣習に対する西洋人の無理解や傲慢さに嫌悪感や不快感を抱くなかで生起した反発であったといえる。
 他方、駐在官Burneyは「ビルマ人がそれを単なる慣習の履行としてではなく、王の権力を高め彼ら自身のプライドを満たし、英国人の自尊心を傷つけ面目を失わせることになるうぬぼれの手段である、だから自分は靴を脱がないのだ」と述べている。以上の王朝時代のShoe QuestionはYMBAが問題にしたShoe Questionと関わりがあるのではなかろうか。王朝時代のShoe Questionを仏教の問題として捉え直し、ナショナリズム高揚のための武器として仕立てたのではないだろうか。
(6)仏塔管理委員会の優柔不断な態度―Taw Sein Koの記述
彼の別の文献(Burmese Sketches, Vol.II)では、「宗教施設という聖域で靴を履くことに伴う罪(sin)があるとしたら、その罪は靴を履いた人間によって負うことになるのであって、靴を履くことを許可することも許可しないで保留しておくこともできない管理委員会によってではない。仏教は寛容と思いやりの卓越した宗教として世界的に賞揚されている。この特性を保持することが信者にとって相応しい」、と。このことから、「仏教界は寛容であるべき」とするTaw Sein Koの真意が汲み取れると同時に、管理委員会の体制側の圧力に屈した優柔不断な性格が読み取れる。
(7)Shoe Question(1916-1920)における宗教運動と政治運動の側面
 ① 宗教運動の側面:請願内容における宗教的正統性の主張が19世紀末の僧侶らの著作に依拠している点について仏典の根拠は極く僅かであるが、それ以外に根拠となる記述があるのだろうか。また、僧院と仏塔における土足禁止の差異に言及がなされているのだろうか。それとも、僧院も仏塔も一律に論じられているのだろうか。
 ② 政治的側面:この時期のShoe Questionは、王朝末期のShoe Questionが植民地化によって一旦挫折した動きが、形を変えて再燃したとも考えられる。英国側が支配者として抵抗運動の再燃に神経を尖らせたとし   ても不思議ではない。
(8)請願に対する植民地政府の反論とその特徴
 ① 文化的抵抗感と不衛生の問題
 ② 他の上座仏教圏諸国との比較:タイ、カンボジア、ラオスなどの寺院は、本来的には、塔院(仏塔を僧院が取り囲む形式)で、今日、全ての施設が一つの敷地内に備わっている。また、構造上土足で歩けるようになっている箇所が多く問題は特に生じない。
 ③上座仏教諸国の中でも、ビルマは歴史的にも、もっとも「パ-リ化」が進み、また、仏教の教えの原理に頑ななまでに忠実であるビルマ人仏教徒(出家も在家共)の信仰心の篤さと、かつて、ブッダの末裔として卓越した出自を誇り中国や英国と対等の立場を強調してきた「王中の王」たるビルマ王権思想への西洋人の無思慮と侮辱がShoe Questionの根底にあると思われる。

<コメントに対する報告者による返答>
 非常にわかりやすく僧院とパゴダの違いについて詳細なコメントをいただいた。パゴダはより深い存在であり、パーリ化が進んだこともあって仏教における聖域性がパゴダによって強調されるようになった。一方、僧院の境内では靴を履いても良いという寛容的な僧侶の姿勢もあるという点など勉強になった。19世紀のshoe questionとそれ以前の宗教的歴史の背景の繋がりは確かにあっただろう。請願運動の中心を担ったU Thein Maungとしてはこのような歴史的背景を英語で十分説明しきれなかったのかもしれない。もしくは、こうした根源的なことを説明しなければならないという認識がそもそもビルマ人らの間でなかったのだとも考えられる。
バーニーの発言は興味深い。裸足になるべき理由としてビルマ国王の権力を根拠とするなら、私は敢えて靴をはくというような対応は1916-20年の植民地政府の対応と似ているところがある。室内で衛生上の理由から裸足になることを要求するというのならともかく、宗教的な理由に基づいて境内すべてで裸足になれというのは、仏教徒ではない英国人としては納得がいかないという反論を彼らが展開したからである。

【質疑応答】
質問
① イギリス側の公式見解が発表されたことで事態が収束したというが、ビルマ人の側ではどうだったのか。イギリスの譲歩をひきだしたことで終わりとしたのかどうか。
② また、その後のナショナリズムのなかでこの問題が言及されることはあったのか。

・報告者による回答
①請願運動に関わっていた人達/YMBAの間では、自分達の勝利としてこの問題は一件落着したと捉えられた。
②自らの要求を通したとして解釈され、その後のビルマ史の中でナショナリズムを振り返るときに、これが最初の組織的な反英運動として記憶されている。一方、イギリス側の反応としては、この後、彼らがパゴダを訪れることがすくなくなったといわれている(事実確認はこれからの精査が必要)

質問
1919年の最終見解の記事の見出しはどのようなものか。

・報告者による回答
「政治的な圧力と関係なく、管財人は判断せよ」という見出し。どっちが負けた勝ったというような内容ではなかった。故に、イギリス政府側もこの記事を好意的に捉えたであろう。

質問
一般ビルマ人への不信感の表明とは?一般ビルマ人の発言が許されていないのか、それとも英語文面をビルマ語に訳して伝えてはいけないということなのか。

・報告者による回答
ビルマという国では、今も昔も情報や見解が口コミで広まることが多い。英語がわからないビルマ人は尾ひれのついた噂や言説を広めることが多かった。よって、公式のビルマ語版の声明を出すまでは正確な内容が伝わらないだろうというイギリス人側の見解があった。

質問
当時のイギリスの宗教中立政策とは。どのような背景で導入されたのか。

・報告者による回答
ビルマに先立つインドの英植民地化があり、多宗教なインド社会においてイギリス政府が宗教問題に介入して失敗した経緯が存在した。その後に開始されたビルマ統治においては、インド政庁は仏教をはじめビルマの宗教問題には原則関与しないことを決定した(インド本土でも同じ対応をとる)。これはイギリス国教会やそのほかのキリスト教諸宗派も支援しないことを意味していた。中立政策をとった時点で、靴を履かないことが仏教的見解であるならばそれに対する反論は国家としてはできないということになり、結論は最初から決まっていたと言える。

質問
①インドにおける国内の宗教間の対立構造の存在は理解できる。しかし、ビルマにおいても同程度敏感にならなければいけなかったのか。
②反英運動的な側面があったというイギリス側の解釈ということだが、根拠はどのようなものがあげられたのか。どのような言い方がされたのか。

・報告者による回答
①ビルマの宗教的多様性がインドほどではないにしても、ビルマをインドの一州としたことで、ビルマ州だけ例外にはできなかった。イギリスは同じ政策を取らねばならなかった。
②この問題に関する植民地側の公文書の内容すべてに、これを反英的な運動とみなす見解が示されている。

質問
①行政の最終見解とはどのように出されるのか。広報なのか、他の手段なのか。
②管財人に判断を委ねるという最終見解であるが、宗教と距離を置くのならば、この決定は自主的な要請なのか、命令なのか。

・報告者による回答
2番目の質問に関すると、命令権はなく要望を出したというのが法的解釈となるだろう。最終見解の文書は実は軍事部門がまとめている。しかし内容はshoe questionに関するものである。これをビルマ語に翻訳後、定期刊行物や政府系新聞などで出す。この問題に関しては1920年10月に最終見解が出され、11月には新聞に掲載されている。

質問 当時のビルマ語新聞の数はどれくらいか。
報告者による回答
正確にはわからない。ナショナリズムに拠ったビルマ語新聞の最初の発行は1911年。この問題が生じた1910年代後半は英字新聞の数の方が圧倒的に多かったであろう。1920年代以降、その数は増加する。

質問 
U Thein Maungのこの問題以後の経歴をみると、彼は政府の要職を占めている。これを考慮すると、当時の請願運動の際に穏当な立場を取り、これは方便としての宗教的な運動であると主張したと考えることは可能ではないのか。

・報告者による回答
そのような解釈は、U Thein Maungのその後の経歴やビルマの歴史を知っている我々がその知識の影響のもとに下す結論となってしまいかねない。彼らが生きたリアルタイムの運動がいかなるものなのかを考えるとき、当時のナショナリズムのかたちは1920-30年代のもののように確固としたイメージはまだ形成されていなかったと考えるべきである。一方で、ビルマ人を「ビルマ側につくビルマ人」と「イギリス側につくビルマ人」とに分ける認識は存在したといえる。U Thein Maungらはまだそのことを自覚はしていないのだが、実質的に政府運動に足を踏み入れていたと解釈できるのではないか。

質問
王朝時代のShoe Questionと、英領期のShoe questionとの関連性、当時のビルマ人の見方に関してどう考えるか

・報告者による回答
Thein Maungらがビルマ庶民の考え方の特徴として「権力にへつらう」ことを指摘し、それを批判している。王朝時代には王権に、英領期にはイギリス(植民地)政府にということであるが、そこに彼から見て王朝時代との連続性を見出そうとしたといえる可能性はある。資料を持ち合わせていないが、質問者がコメントで指摘してくださったパゴダに土足ではいることはブッダそのものを汚すことになるという古くからのビルマでの解釈は、今回扱ったshoe questionにも通ずるところがあると思う。

(文責・上智大学グローバル・スタディズ研究科地域研究専攻博士前期過程2年 藤村瞳)

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:鈴木陽一 氏(下関市立大学経済学部准教授)
コメンテーター:左右田直規 先生(東京外国語大学准教授)
報告題:プラナカンの多島海 シンガポール・クアラルンプール関係史、1963-1966年

【コメンテーターの発言】
 一次史料に基づく重厚な研究である。また、シンガポール独立におけるシンガポール側の主体性という新しいパースペクティブの提供もあった。しかし、議論に不明瞭なところも多い。
(1) プラナカンという言葉に着目すべき理由について
 プラナカンという言葉に着目すべき理由が見えない。プラナカンという言葉に、現地で生まれている、現地との混血、英語教育、イギリスへの忠誠などといった属性を見出し、そうした意味合いを込めてこの言葉を使用したことはわかる。しかし、人民行動党主流派についてはこれまでは英語教育組という言葉で表現されてきたし、リー・クアンユウ本人も自らをプラナカンとは規定していなかったように思われる。
 今回、プラナカンという言葉を用いることで、シンガポールの英語教育組以外の人々も含めたある種の人々に着目した歴史を書こうとしたことは理解できるが、そのような概念操作によって議論に混乱は起きていないか。
(2) PAPがマレーシア全体のプラナカン化をめざしたという仮説について
 連盟党を構成するMCA指導部は明らかにプラナカンに分類される人々であった。その彼らはなぜPAPと手を組もうとしなかったのか。MCA指導部がビジネスに手を染めていてシンガポール経済と対抗関係にあったということだけで説明がつくのか。
(3) 本質主義批判について
 これまでのエスニック分類論を構築主義の立場から批判して、プラナカンというエスニックグループの存在をあぶり出そうとした意図は理解できる。しかし、プラナカンという言葉を多用し、PAPがプラナカン国家をめざしたとすることで、報告は逆に本質主義的な陥穽に陥っているきらいがあるのではないか。

【報告者の返答】
 かなり大風呂敷なスキームを出したことは理解している。かつて、資本、労働、矛盾の拡大といった分析的な概念を用いることで、歴史の理解が深まったことがあると聞いている。ここでは同様に、プラナカンという概念を用いることで、新たなパースペクティブを示したかった。
(1) 指摘された通り、プラナカンという概念を用いるにあたっては、もう少し詰めて考える必要がある。確かに英語教育組が自らをプラナカンと呼ぶことはあまりなかった。ただ、ここでは、彼らをあえてプラナカンと規定することで何が言えるのか、示したかった。それが趣旨になる。
(2) MCA指導部がプラナカンによって占められていたというのはそのとおりである。それゆえ、PAPとしてはタン・シュウシンたちの協力関係をつくりたいという気持ちはあったが、MCA指導部はPAPをライバル視してそれに応じなかった。また、MCA上層部の方針がどうであれ、選挙の際、PAPがマラヤの華人層から自分たちへの支持をとりつけられれば、MCA支持層を切り崩し、半島進出を成功させることもできたであろう。しかし、実際にはそうはならなかった。単純に事実関係を追えば、そのようなことが言える。
(3) 指摘された通り、プラナカンという概念を用いるにあたっては、もう少し詰めて考える必要がある。

【質疑応答】
Q.1(長津会員)
 はぐらかされた気がする。繰り返しになるが、二つ質問したい。
(1) プラナカン国家という言葉に曖昧性が残る。このとき、プラナカンとは、華人エリートのみを指すのか、それとも在地の人々すべてを包括しうるとするのか。
(2) プラナカンという概念は自他を差異化する集団構成の原理として働いていたのか。

A(報告者)
 この場合、プラナカンというエスニシティ概念を本人のアイデンティティによってではなく、置かれた社会構造によって規定される概念として用いた。この点については、そうしたエスニシティの規定の仕方がこれまでもあったのか、また可能なのか、人類学者の方たちにご教示頂けたらと思っている。
(2) プラナカン概念はアイデンティティと切り離して定義したため、自他を差異化する概念としては機能しないことになる。実際、プラナカンたちは、置かれた状況によって自らを華人と規定したり、プラナカンと規定したりしており、自他の境界はきわめて曖昧である。ムラユ概念にもそうした傾向があるが、プラナカン概念がこうしたシチュエーショナルな概念として機能してきたことを説明すべく、アイデンティティから離れた置かれた社会構造に着目して定義しようとした。
(1) 華人エリートのみではなく、在地の人々すべてを包括しうる概念として用いた。

Q.2(坪井会員)
 定義上、どう考えても、プラナカンは多数派になり難い。それにもかかわらず、彼らが主流派をめざしたというのならば、人々にはどのように支持を訴えたのか。イギリスとの協力を訴えるのでは不足があるのではないか。

A(報告者)
 民族融和のために英語の使用を訴える。こうした論法を用いることで、自らの優越的な地位を維持できる国家をつくろうとした。

Q.3(根本会員)
 レヂュメに「歴史的マラヤに複合社会を回復し、本来担うべき主導権を回復」しようとしたとある。この場合、複合社会のイメージがつかめない。PAPはこれとは全く違う政策をとっているように思われる。

A(報告者)
 「複合社会」とは、多民族社会程度の意味である。ファーニバルの定義とは違う。言葉の使用方法が適切ではなかったかもしれない。

Q.4(板谷会員)
 シンガポール政府はマラヤ共産党との闘争を通して非常事態立法を成立させ、その足場を固めて来たという経緯がある。そうした文脈において、プラナカン国家の創設とはどのような意味があるのか。

A(報告者)
 今回の報告は、マレーシア形成を東南アジア史のより広い文脈のなかに置こうと考え、あえてプラナカンという概念を用いた。マレーシア形成を推進した彼らこそは外世界との媒介者としての役割を担うことで自らの拠り所を築いてきた者たちであった。リー・クアンユウは帝国から信任を受けつつも影ではマラヤ共産党との共闘関係の構築も進めており、まさに媒介者であることがその権力基盤となっていた。そうした意味でも、彼らは自分たちが優位する新国家をつくろうとしたのだと思う。ちなみに、今回の報告はリーと協力関係に入ったとされるマラヤ共産党・プレンの回想録にあったアイディアをふくらましたものになる。

Q.5(左右田会員)
 PAP側の主張は説得力があったように思われる。英語を社会の基盤にしようということであれば、広い層から支持を得ることができたはずだ。それにもかかわらず、彼らはなぜ半島では拒絶されたのか。

A(報告者)
 マレー人たちが拒否した。まさにここに分離の原因がある。

Q.6(青山会員)
 PAP側の主張は説得力があったように思われる。それにもかかわらず、なぜ彼らは半島華人たちからさえも支持を得ることができなかったのか。

A(報告者)
 当時、インドネシアとのコンフロンテーションが続いており、連盟党政府は国民からの強い支持を得ていた。これが大きな誤算となった。

(文責:下関市立大学 鈴木陽一)

2012年度第3回(6月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

関東例会6月例会(6月23日開催)の案内をお送り致します。

今回は、根本敬会員による「 英領期ビルマにおけるShoe Question (1916-1920)―「パゴダ境内土足禁止」をめぐる植民地政府の対応― 」及び、鈴木陽一会員による「プラナカンの多島海 シンガポール・クアラルンプール関係史、1963-1966年」の2報告です。 

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2012年度6月例会>
日時: 2012年6月23日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:根本 敬 氏(上智大学外国語学部アジア文化研究室教授)
コメンテーター: 奥平龍二 先生(東京外国語大学名誉教授)
報告題:英領期ビルマにおけるShoe Question (1916-1920)―「パゴダ境内土足禁止」をめぐる言説と植民地政府の対応―

<報告要旨> 
1916年から20年にかけて英領インド帝国ビルマ州で展開された「パゴダ境内土足禁止」を求めるビルマ人仏教徒たちによる請願運動をとりあげ、運動の経緯と宗教的・政治的背景を明らかにし、それに対する植民地政府の対応を分析する。史料としては大英図書館所蔵のIndia Office Recordsファイル(L/PJ/6/1630 File No. 6472 Shoe Question (1919))を主に活用し、下記5点を明らかにする。

(1)運動がどのように展開されたのか、そのクロノロジーの確認                          
(2)ビルマ人仏教徒による請願内容の分析(宗教運動としての特徴と反英ナショナリズムの萌芽の両方を合わせ持つ点)
(3)請願に対する植民地政府(英側)の反論とその特徴(この問題にリベラルな対応をとるタイとの比較、裸足になることへの文化的抵抗感、請願運動に含まれる政治性への危機意識、など)
(4)最終的に請願内容の部分的・条件付き受け入れという妥協的姿勢に至らざるを得なかった植民地政府側の事情(自らの宗教中立政策がもたらしたこの運動に対する自縛的対応) 
(5)当時のビルマ社会における破戒僧の問題(マンダレーのパゴダで1919年10月に発生した破戒僧による西欧人襲撃事件から読み取れるもの)


☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:鈴木陽一 氏(下関市立大学経済学部准教授)
コメンテーター:左右田直規 先生(東京外国語大学准教授)
報告題:プラナカンの多島海 シンガポール・クアラルンプール関係史、1963-1966年

<報告要旨>
本報告は、マレーシアからシンガポールが分離独立した原因について、マレーシア設立からシンガポール分離後一年までのあいだの両政府のやり取りを見ながら再考しようというものである。これまでその原因については次のような理解が両国の人々の公定言説となってきた。分離独立は、マレー系住民と非マレー系住民のあいだのエスニック対立が高まるなかの苦渋の決断であった、と。しかし、こうした言説はクアラルンプール側のイニシアティブを強調するあまり、シンガポール側の動きを軽視し、また、現在のような両国の分立が分離時に達成されたと考え、統合防衛委員会まで設立しようとした分離当時の事情を軽視している点で問題がある。さらに言えば、なぜエスニック対立が起こったのか、その考察に乏しいとも言える。本報告の解釈は次のようなものである。マレーシアとはそもそも巨大なプラナカン国家創設の試みであった。プラナカンたちはイギリス帝国の支援を得ながらプラナカン国家にマラヤを呑みこもうとしたのであった。しかし、結局、帝国が支配の意図と能力を失うなか、これは失敗した。両者のあいだに長く続いた協力関係は崩れ、プラナカンたちはマレーシアからの脱出を図った、と。

終了後、懇親会を用意しております。

2012年度第2回(5月)の関東例会の報告

2012年5月26日(土)に行われました2012年度第2回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

5月関東例会は、大橋厚子会員の発案による「「銀の時代の終焉」と東南アジア―19世紀のビルマとベトナムの貨幣制度から―」と題したシンポジウム形式で開催致しました。

そのプログラムは以下の通りです。

プログラム
 13:30-13:45 趣旨説明 大橋厚子(名古屋大学大学院国際開発研究科教授)
 13:50-14:40 「コンバウン期ビルマの貨幣制度と改革:18世紀末から19世紀中葉まで」斎藤照子(東京外国語大学名誉教授)
 14:40-14:50 質疑応答
 14:50-15:10 休憩
 15:10-16:00 「19世紀ベトナムにおける銀流通の構造と変容-阮朝の成立からピアストル本位制の確立まで」多賀良寛(大阪大学博士課程前期M2)
 16:00-16:10 質疑応答
 16:10-16:25 休憩
 16:25-16:35 斎藤・多賀発表に対するコメント 谷口謙次(甲南大学非常勤講師)、大橋厚子
 16:40-17:45 総合討論

☆シンポジウムの趣旨説明
 19世紀は近世諸帝国が消滅しイギリス帝国が覇権を握る時期と見なされている。その一方で19世紀には1810年代から40年代、1870年代から90年代に英米で不況が観測されたほか、銀本位制から金本位制への以降、さらに気候変動が世界各地で見られた。このようなグローバルな環境変化のなかで東南アジアでは何が起き、どのような対応がなされたのであろうか。東南アジア史研究において19世紀初めから中葉までは、従来、本格的に研究されることの少ない時代であった。このシンポジウムでは、なかでも研究が少ない北ベトナム、ビルマを主要な対象とし、社会経済の変化および政権の対応を、貨幣制度を中心に考察する。さらに比較と関連の手法を駆使しつつ当該期東南アジアの変化の構図を描くこと、およびその構図をより広域の空間における事象と関わらせることが本シンポジウムの目的である。(文責:名古屋大学大学院国際開発研究科教授 大橋厚子)

☆第一報告:斎藤照子「コンバウン期ビルマの貨幣制度と改革:18世紀末から19世紀中葉まで」に関して
 東方学会『紀要』次号に掲載予定

☆第二報告:多賀良寛「19世紀ベトナムにおける銀流通の構造と変容-阮朝の成立からピアストル本位制の確立まで」に関して
<報告要旨>
 19世紀初頭に成立した阮朝は、従来から流通していた銅銭に加えて、銀の流通を積極的に推進した。東アジアにおいて銀は秤量貨幣として使用され、その貨幣的価値は銀地金の重量・品位によって決定された。そのため貨幣として銀を受容した国々では、形態や品位を異にする様々な銀地金が共存し、相互に複雑な銀―銀関係を形成することとなった。本報告で扱う19世紀ベトナムもその例外ではなく、阮朝の支配領域内にはインゴットから西洋銀貨にいたるまで、多様な銀貨幣の流通がみられた。
 19世紀ベトナムの場合、このように多様な銀流通の中で特に重要な意味を持ったのは、①精銀②土銀③洋銀の三種類の銀貨幣である。精銀とは純銀を指すカテゴリーであり、品位の異なる銀を換算する際の基準として用いられた。阮朝は「官銀」や「中平銀」と呼ばれる銀錠の鋳造を行ったが、それらは基本的に純銀を用いて鋳造されたため、史料上では官鋳銀と精銀がほぼ同義で用いられる。官鋳銀を実質内容とする精銀に対し、北部の山間地帯で主に流通していた低品位銀は土銀と総称された。ベトナムの越北・西北地域は有力な鉱山地帯であり、18世紀以来華僑が中心となって鉱山資源の開発が進められた。またこの地域にはタイ系の少数民族が多く居住しており、華僑や少数民族を主体として、西はラオス、北は雲南・広西につながる独自の山地経済圏を形作っていた。こうした平野部とは一線を画する山間地帯で流通していたのが、土銀と呼ばれる一群の銀塊である。阮朝は当初土銀による納税を認めておらず、山間地帯にも精銀での納税を要求していたが、1830年代以降順次土銀による納税が許可されていった。山地経済を代表していたのが土銀とするならば、海域ネットワークを介してベトナムに流入してきたのが洋銀であった。洋銀とは16世紀以来アジアに流入してきた1ドル銀貨の総称で、特に有名なのはメキシコで鋳造されたスペインドル(メキシコ独立後はメキシコドル)である。19世紀になるとベトナムにも相当量の洋銀が流入するようになり、一部では洋銀による納税も認められた。阮朝二代皇帝の明命帝は、洋銀に範をとった「飛龍銀銭」と呼ばれる独自の計数銀貨を鋳造しており、ここからも洋銀の与えた影響の大きさを伺い知ることができる。以上阮朝治下ベトナムの銀流通構造をまとめれば、山地経済圏を代表する土銀と海域アジアネットワークを代表する洋銀とが交錯するなかで、阮朝は精銀を媒介にして国内銀流通の統合を図ったといえるだろう。
 1850年代以降に本格化するフランスの侵略は、ベトナムにおける在来銀流通の様相を大きく変化させることとなった。フランス軍は現地で必要な軍需物資を調達するため、当時東アジアにおける国際決済通貨であったメキシコドルをコーチシナで大量に散布した。その結果、コーチシナを中心にしてメキシコドルの通用範囲が急速に拡大していき、阮朝治下にとどまっていた北中部ベトナムでも洋式銀貨の流通拡大が顕著となった。当初フランスはインドシナにもフランを導入しようとしたが、当時のインドシナの貿易構造は香港やシンガポールといったアジア圏とのつながりが圧倒的に強かったため、メキシコドルを排除して本国幣制を導入することはできなかった。植民地当局は暫定的にメキシコドルを本位貨にすえ、1885年になってようやくメキシコドルに重量・品位を合わせたピアストルの導入に踏み切ったのである。ピアストル導入後も本位貨としてメキシコドルとピアストルが併存する状況が続いたが、植民地当局は1905年にメキシコドルの法定通用力を停止して、本位貨はピアストルに一本化された。
(文責:大阪大学博士課程前期M2 多賀良寛)

☆質疑応答部分の議事録
<斎藤報告に対する質疑応答>
大橋(司会):ボードーパヤー王が貨幣改革を行おうとした背景にある飢饉の年代を見ると、フランスとほとんど同じ時期に飢饉が起きている点が面白い。また、ジャワでは19世紀初頭にバーミンガムなどから銅貨が密輸された。ビルマにはバーミンガムから貨幣鋳造機が一式来ていた。ヨーロッパ中心史観を持ちたくないが、東南アジアのいろんなところでヨーロッパの影響が見られる。

高橋:ngwe-khan-thu(assayer)が信用される下地は何か。

斎藤:地域社会に限った信用だと思う。地域社会のなかでそれなりの金が安定するのならば、大丈夫だろうというものだろう。

高橋:図1の1810年ごろのインフレは貨幣的現象ではなく、飢饉によるものか。

斎藤:図1は物価全般ではなく、米の価格である。旱魃で米が取れなくなり、米の価格が上昇したと考えられる。

<多賀報告に対する質疑応答>
大橋:齋藤先生の報告と比べると、ベトナムでもやはり様々な貨幣が最初は使われていたようだが、両替商や貨幣の鑑定人はいたのか。

多賀:当然そのような人がいるはずだが、阮朝の漢文史料を見る限りでは両替商や貨幣の鑑定人は出てこない。20世紀のフランス人が書いた史料を見ると、華僑や印僑が行なっていたようである。

大橋:ベトナム南部は海の東アジア銀貨圏に入るのか。海の東アジア銀貨圏はどのくらいのところを指しているのか。

多賀:ベトナム南部は当然入ってくる。香港ができるとベトナム北部もそのような銀貨圏に入ってくると思う。ちょうどシンガポールと香港の中間にベトナムがあり、19世紀後半に東アジア銀貨圏に徐々に包摂されていく。

大橋:18世紀半ばに広南阮氏がピアストルを拒否しているのはなぜか。

多賀:史料を読んでもよくわからない。しかしコーチシナの国王の印章を刻めば用いてよいとあるので、シンボリックな面で、コーチシナの王が硬貨の図像を気に入らなかったということかもしれない。

<総合討論>
大橋:
(谷口コメントに対するコメント)時期はずれているが、ジャワでもインドと同じことが起こっている。ビルマやベトナムよりは早く、インドよりは遅くなるが、ジャワでは1820年代にオランダ植民地政庁が植民地のギルダーを作って大量に使い始め、だんだんとドミナントになるが、50年代でも貨幣の多様性は残っていた。1820年代以前は、インド・ビルマ・ベトナムと同じく、いろいろな貨幣がいろいろに使われており、両替商は中国人であった。
(谷口コメントへの質問)ビルマとベトナムでは銅貨が先行し、のちに銀が入ってきて重要になった。インドではそのようなトレンドがどこかにあるのか。
 イギリス人が統合していったルピーの支えとはなんであったのか。インドの商人の支えなのか、植民地政府の支えなのか。
 イギリス東インド会社が銀本位制を指向したとあるが、本国は金本位制であった。これはインドの実情にあわせたということか。また、インドから本国に銀を送っていたピークや終わりはいつなのか。
 1825年、1835年といった年はジャワの社会経済史においても重要な年である。この時期に何かあったからこういうことになったということか。

<谷口コメントに対する報告者の応答>
斎藤:(ベンガル同様、ビルマやベトナムでも市場の分化がみられたが、多様な貨幣と密接な関係があると言えるか、について)テナッセリムやシャン高原ではそれぞれの貨幣が使われており、シャンから雲南への経済圏があったものと考えられる。産品や交易の形態、交易圏によって使用される貨幣は異なっていた。しかしここでは中央平原が政治的にも統合され、経済的多様性も少なかったにもかかわらず、多様な貨幣が用いられていることを報告した。

斎藤:(ビルマのywet-niは計算貨幣なのか、について)最初から計算貨幣なのではなく、1830年代ぐらいから性格が変わり、換算の基準になった。

多賀:(ベンガル同様、ビルマやベトナムでも市場の分化がみられたが、多様な貨幣と密接な関係があると言えるか、について)水平方向と垂直方向で考えるとわかりやすい。垂直方向では、銀は地域間の決済通貨として使われ、銭はローカルな市場で使う現地通貨であった。市場によってエスニシティが分かれていた。流通を握っていた華僑は銀を用いた。水平方向で見ると、山地の市場圏と海域の市場圏で使われている貨幣が異なっていた。土銀は内陸部で使われていた。一方洋銀は港湾税やマカオから来た商人への取り立て、シンガポールへ行く役人に対する給料に使われた。

多賀:(精銀は秤量貨幣なのか、どのような形状なのか、について)精銀は実物があると思っていたが、計数貨幣という可能性も否定できない。精銀は100%の銀であるため、実物が流通していたのではなく、多様な金と銀を結びつける計数貨幣としての表現だった可能性も排除できない。

多賀:(阮朝は銀管理を目指したが達成しきれなかったのか、そもそも土銀・洋銀は自分たちの管理外だと理解していたのか、どちらなのか、について)両方の可能性があり、皇帝によっても異なる。明命帝や紹治帝の時代は中央が末端まで把握しようという意思があったため、土銀や洋銀もその換算レートを把握しようとしていた。19世紀後半には土銀という表現がなくなり、洋銀という表記が増える。これは中央の権力が弱体化したため、山地の土銀を把握できなくなったためなのか、他の経済的要因によるのか、わからない。

多賀:(19世紀後半にピアストル銀貨は流通しなかったのか、について):洋銀はピアストル銀貨も含めて洋式銀貨一般の名称である。

多賀:(洋銀が流通したことで仏領インドシナ経済圏に包摂されたと理解してよいのか、について)フランスが植民地する際に問題となったのは、ベトナムが中国を中心としてシンガポール・香港を軸とする経済圏のなかに包摂され、対アジア交易の比率が高かったことである。しかしフランスとしては宗主国との結びつきを強化したい。フランスは金本位制であり、ベトナムがタッチしている中国を中心とする経済圏は銀を用いた。これをどうしたらよいかについてフランスでは意見がわかれ、延々と議論が続けられた。現実のインドシナの経済や貿易にとっては銀本位制を維持したほうがよいが、フランス本国としてはインドシナへの投資や本国への送金のために金にペッグしたほうがよい。世界恐慌が起こるとフランスは植民地と本国のつながりを強化するために金にペッグしていく。

斎藤:(Bodaw-hpaya王の改革失敗の要因として、両替商の問題としていたが、現地経済の問題ではないのか、について)現地経済との問題とは考えにくい。というのも証文のなかにボードーパヤーの貨幣は全然出てこず、どこの地域でも使われていない。勅令に人々がボードーパヤーの貨幣を受け取らないと書いてあるが、これは一般的な人々ではなく、貨幣を私鋳する権利を持ち、それによって利益を得ている人々が貨幣を受け取らなかったと考えるべきである。

斎藤:(下ビルマを占領された状態で新貨幣はペッグされたが、かえって上ビルマが英領ビルマ=インド経済圏と一層結びついたのでは。これにより、英国によるビルマ統一=影響インド統合が早まったのではないか、について)ミンドン王の貨幣は英領インドのルピー貨にペッグされた。これは自ら英領ビルマ経済圏に組み込まれたということになるが、それだけ切羽詰まっていたということである。飢饉によって、上ビルマの米だけでは足りなくなる都市が出てきたため、王権にとって使える貨幣が必要になってきた。ただし英領化が早まったと言えるかはわからない。

<大橋質問に対する回答>
谷口:(インドにおける銅から銀へのトレンドについて)インドでも17世紀後半から銅から銀への転換が起こった。ムガル帝国治下で16世紀末以来銅貨中心であったのが、17c半ば以降、貨幣表示の銀建てへの切り替えが進み、地方でも銀貨の鋳造所が作られてゆく。この現象は、一般的に当時イギリスを中心とするヨーロッパからのルートと、レバント交易によるペルシャからの陸続きのルートによりインドに銀が大量に流入したことによって説明されるが、17世紀後半から銅の産出量減少による世界的な銅価高騰を背景とする銅貨から銀貨への転換のトレンドと結びつける見方もある。

谷口:(ルピーの信用を支えたものについて)もっとも大きいのは当時のインド国内の生産拡大ではないかと思われる。当時、大量の綿花が輸出され銀を吸収しており、東インド会社もベンガルの生産力に依存していた。

谷口:(本国への送銀のピークについて)東インド会社が銀(地金)を本国に送るのは通説よりもかなり後の話。19世紀に入るまではその他の商品が本国に送られる形であったのが、他国の会社や密貿易商の参入によって国内製品が売れなくなり、代わって茶を輸出するアヘン貿易の形式となる。本国に銀を送る状況が生まれたのはそのすぐ後、つまりインドの貿易独占権がなくなってからの19世紀前半のごく限られた時期に過ぎない。19世紀半ば以降はシティの金融市場取引により地金が直接送られることはなくなる。

谷口:(貨幣改革が共起する背景について)貨幣改革と、地域経済や自然災害など地域経済を変動させる要因とを関連づける見方は、今回参加して得られた視角であるので、今後の検討課題としたい。


青山: 今回取り上げられている時代の前後とのつながりはどうなっているのか。「銀の時代の終焉」の意味は?一般に言われる銀の時代は16-17世紀であり、今回の話はその延長として、重層的な貨幣状況を持つ地域経済の上層で銀本位が進展し、さらに植民地経済に組み込まれる中で統合が進んだという流れで理解した。その後は世界恐慌などを経てグローバルな金本位への転換ということになると思うが、その前の時期とのつながりはどうなっているのか?

大橋:「銀の時代の終焉」という言葉はある論文のタイトルからとったもので、19世紀前半特に1930-40年代までを指し、スペイン帝国が崩壊してスペインドルの国際通貨としての地位が崩壊し、地域通貨が生まれていく時代、というある意味ヨーロッパ中心の見方である。しかし、今回見てきたように、実際には東南アジア、中国、インドは銀本位を保ち続けており、終焉の時代ではない、というある意味皮肉な使い方となった。

多賀:ヨーロッパで金本位になると、それまで複本位制で使用されていた銀がアジアに流入し、アジアが銀本位にとどまったという側面があり、表裏の関係にあるともいえる。

川口:(タイの状況について補足コメント)そもそもタイの貨幣研究は乏しくわかることは限られているが、18世紀末-19世紀前半にかけて銀経済が浸透してゆく方向にあるのは確かといえる。アユタヤ朝の滅亡後、成立したトンブリ、ラタナコーシンの2つの王朝は対中交易を経済基盤としており、当初からそこから得られた銀の色が濃かった。当初から米、胡椒、砂糖を中国に輸出することにより銀を得ていたが、1820年以降、対中交易に引き付けられる形でシャム国内での換金作物の栽培が盛んになり、国内経済での銀使用が進み、特に徴税システムで銀への移行が見られた。1820-30年代は国内課税が強力になる時期で、物納税が銀に置き換えられ、徴税請負制での商税、流通税も銀納であった。地域社会における使用貨幣については、貝貨や主に中国人が賭博場で用いていたとされる陶貨など多様な貨幣が使われていたようだが詳細は分からない。多賀報告にあった明命~紹治帝期の銀流通管理や地方支配の強化については、シャムでも同様の動きが見られ、同時期のラーマ3世治世下では、贋金(おそらく私鋳銀)を撲滅する委員会が作られ、鋳つぶして国家が発行する銀貨に置き換えようとする動きがあり、また、1830年代、ベトナムと戦争していたこともあって東北タイを中心に地方支配が強化された。ビルマとの比較でいうと、斎藤報告の英領インドの貨幣との標準化という動きに対し、1855年のバウリング条約以降イギリスとの経済的関係が強まる中で、ラーマ4世が貨幣を作っており、同様の標準化の意図があった可能性もある。

多賀:谷口コメントで17世紀後半からの銅から銀への転換の背景に世界的な銅価高騰があったという話があったが、ベトナムでも、銅銭を輸入し使用していたコーチシナの広南阮氏が18世紀中頃から銅銭に代わって亜鉛銭を使用するようになるので関係があるかもしれない。
(文責:岡田雅志(大阪大学大学院文学研究科・特任研究員)及び、川口洋史(名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程))

以上。




2012年度第2回(5月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

関東例会5月例会(5月26日開催)の案内をお送り致します。

今回は、大橋厚子会員の発案による「「銀の時代の終焉」と東南アジア―19世紀のビルマとベトナムの貨幣制度から―」と題したシンポジウム形式で開催致します。
シンポジウムの趣旨とプログラムの詳細は以下の通りです。

多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2012年度5月例会>
日時: 2012年5月26日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

シンポジウム:「銀の時代の終焉」と東南アジア―19世紀のビルマとベトナムの貨幣制度から―
発案者:大橋厚子(名古屋大学大学院国際開発研究科教授)
<趣旨>
 19世紀は近世諸帝国が消滅しイギリス帝国が覇権を握る時期と見なされている。その一方で19世紀には1810年代から40年代、1870年代から90年代に英米で不況が観測されたほか、銀本位制から金本位制への以降、さらに気候変動が世界各地で見られた。このようなグローバルな環境変化のなかで東南アジアでは何が起き、どのような対応がなされたのであろうか。東南アジア史研究において19世紀初めから中葉までは、従来、本格的に研究されることの少ない時代であった。このシンポジウムでは、なかでも研究が少ない北ベトナム、ビルマを主要な対象とし、社会経済の変化および政権の対応を、貨幣制度を中心に考察する。さらに比較と関連の手法を駆使しつつ当該期東南アジアの変化の構図を描くこと、およびその構図をより広域の空間における事象と関わらせることが本シンポジウムの目的である。

プログラム
 13:30-13:45 趣旨説明 大橋厚子(名古屋大学大学院国際開発研究科教授)
 13:50-14:40 「コンバウン期ビルマの貨幣制度と改革:18世紀末から19世紀中葉まで」斎藤照子(東京外国語大学名誉教授)
 14:40-14:50 質疑応答
 14:50-15:10 休憩
 15:10-16:00 「19世紀ベトナムにおける銀流通の構造と変容-阮朝の成立からピアストル本位制の確立まで」多賀良寛(大阪大学博士課程前期M2)
 16:00-16:10 質疑応答
 16:10-16:25 休憩

 16:25-16:35 斎藤・多賀発表に対するコメント 谷口謙次(甲南大学非常勤講師)、大橋厚子
 16:40-17:45 総合討論

なお、懇親会にはLi Tana先生(オーストラリア国立大学)がおいでになる予定です。
多くの方々のご来場をお待ちしております。

2012年度第1回(4月)の関東例会の報告

2012年4月28日(土)に行われました2012年度第1回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録データをアップします。

2012年度東南アジア学会4月関東例会の議事録

☆第一報告
日時:4月28日(土)13:30~15:30
報告者:荒 哲(福島大学共通教育科目非常勤講師、奥羽大学非常勤講師)
報告題:「日本占領下のフィリピン・レイテ島における対日協力と抗日ゲリラ戦との相克」
コメンテーター:岡田泰平先生(成蹊大学文学部助教)

■ 報告要旨
 本報告では、フィリピン史研究の中で十分追求されてこなかった地方史の文脈での日本占領期について、フィリピン中部ビサヤ諸島の中のレイテを事例に分析されている。この研究では、レイテ島ひいてはフィリピン全土で広範囲に展開された抗日ゲリラ戦が「過酷な占領政策を強いる日本軍が住民を敵に回したこと」をきっかけとした、等とする視点を見直し、対日協力と対日抵抗という概念を相対的に位置づける。この分析枠組みに基づき駐留日本軍に対する現地エリート層を中心とする反応を三つの町(オルモック、アブヨグ、ラパス)で展開された日本占領を事例に考察した。方法としては、フィリピンで渉猟した史料(主にフィリピン大学所蔵のPeople’s Court Paper)を用いて、上記三つの町で展開された各町の町長を中心とする対日協力を手掛かりに、抗日ゲリラを巻き込んでの日本占領がレイテの地方政治にどのような影響を及ぼしたかを検証した。
 オルモック町においては、カタリノ・ヘルモシリャによる対日協力を中心に、占領期における権力基盤の構築や戦後におけるヘルモシリャ家の同町の政治家族としての没落が考察された。アブヨグ町においては、1930年代からの派閥政治が生み出した二大派閥、ガリェゴ・ランディア派とカーニャ・コリャンテス派について考察され、日本占領期においては後者が対日協力を行ったが、戦後、カーニャ・コリャンテスに対する徹底的締め付けがあった一方で、前者と後者が最終的に和解し、後者の対日協力問題は曖昧な形で幕引きされた経緯を考察した。ラパス町における考察でも、アウステロ派とモロン派という二大派閥が町政に君臨し、日本占領時代においては後者のモロン派が対日協力を行った点が示された。占領中、モロン派による徹底した反アウステロ派への弾圧(アウステロ派抗日ゲリラへの徹底掃討等)が見られ、戦後は反対にアウステロ派によるモロン派への血なまぐさい報復劇があったことを明らかにした。
 結論として、報告者は、1980年代にアメリカのフィリピン史研究者アルフレッド・マッコイが提示した、フィリピンの地方における戦前、戦後を通した寡頭政治体制の継承についての仮説がレイテにおいても適用できることを示した。報告者は、この三つの町の事例以外にも他のモノグラフにおいて七つの町(ヴィリャバ、パロンポン、ナヴァル、サンタフェ、ドォラグ、ソゴド、バイバイ)での事例も考察しているが、これら町々においても寡頭政治体制の継承という政治現象を見出せるとした。このマッコイが提示した仮説適用の再確認という作業の一方で、従来から日本占領期の特徴として語り続けられている駐留日本軍が関わったとされる様々な残虐行為が町レベルの占領において、各地域の派閥政治に基づく政治抗争がその一因とする、という新たな視点を提示した。

■ 岡田先生のコメント並びに質疑応答
 成蹊大学助教、岡田泰平氏によるコメントにおいては、マッコイが過去に提示した仮説の当報告における研究への適用作業についての疑問が示された。マッコイは、エリートの継続性、日本占領がもたらした現地人への精神面での影響の検証、フィリピン政治における綱領のない党派主義と政治資源を巡る政治家族の争いの継続等を当時の日本占領下のパナイ島での例を手掛かりに分析した。岡田氏は、マッコイの分析は、今回の報告で触れられている町レベルでの分析というよりはむしろ、州レベルでの対日協力と対日抵抗の相克を分析しており、マッコイが指摘する占領中の「二重忠誠」も州と町ではその位相が著しく異なっており、この報告がマッコイの研究そのものへの対応とは言いづらいのではないかと指摘した。そのため、岡田氏は、この町レベルの対日協力を事例にしてマッコイの研究を検証する意義があるのか疑問を提示した。こうした疑問を基に、岡田氏は、戦後のレイテにおける権力の継続を語るのであれば、レイテ島における日本占領時代の記憶を検証する必要性を主張した。例えば、マッコイの研究が前提としている現代フィリピン政治の政治資源を巡る暴力が日本占領時代を分水嶺に激化したのか否かを検証し、マッコイが主張するこの政治資源をめぐる綱領無き争いと政治をめぐる暴力は基本的に別問題であることを提示する意義を主張した。また、将来の研究課題として岡田氏は、レイテ戦のフィリピン史における位置づけをより明確にし、レイテ占領史を手掛かりに、東南アジアの他地域との比較や連関性を検証する必要性を示した。
 茨城大学人文学部教授の木村昌孝氏は、日本占領時代におけるレイテにおける州レベルと町レベルでの対日協力が派閥政治の枠内でほぼ一致していたのか否かについて質問した。これに対し報告者は、レイテにおいて州レベルの派閥政治が町レベルの派閥政治に影響することはあっても、その影響はごく限定的なものであり、州と町とでは派閥政治についての論理に大きな違いがあると答えた。
 大阪大学世界言語センター講師の宮脇聡史氏は、戦前と戦後のレイテ政治に具体的な変化があったとすれば、どのような変化であるのか、という質問を行った。これに対し報告者は、これについては戦後の状況を具体的に検証しなくてはならず、未だ詳細な「変化」について提示することはできない、とした。また報告者は、政治的には抗日ゲリラ戦での一つの相克例、カンレオンとミランダをそれぞれ支持するレイテ住民が、1948年に行われたフィリピン大統領選挙の際、前者が対日協力問題に曖昧な態度をとるロハスを支持し、後者が対日協力問題を徹底して追及しようとしたオスメーニャを支持したと言われ、この選挙行動が戦後間もない頃のレイテ政治の一特色ではないかとした。しかしながら、これについては具体的な検証は未だなされておらず、今後の研究課題の一つであるとした。

(文責:福島大学非常勤講師 荒 哲)

********************************

☆第二報告
日時:4月28日(土)15:45~17:45
報告者:盛田茂氏(立教大学アジア地域研究所研究員)
報告題:「ケルビン・トン監督のホラー映画『The Maid』が浮き彫りにするシンガポールの一側面」
コメンテーター:左右田直規先生(東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授)

■ 左右田先生のコメント
1. 発表の意義について:ホラー映画制作と政府との交渉をとおして、抵抗と相互依存の関係を明らかにしているところに意義がある。監督は作品中に可能な限り社会問題を提起したい意思を持つ一方、政府系資本からの制作資金支援も求めざるを得ない。
2. 同国の整備された部分を映し出す一方、方言(潮州語)を話し、伝統芸能に従事し、ショップハウスに暮し、シングリッシュを話すという、いわば周縁化された人々を描いている。なお、アー・スンという息子も知的障碍者だという意味でその一人だ。
3. 本作は観る人によって様々な受け止め方ができる。エンターテイメント映画としての性格を持ちながらも、家事労働者をめぐる複合的な権力関係も映し出す興味深い社会派の作品でもある。
例えば、知的障碍者であるアー・スンとメイドのエスター、ローザの関係はどちらが強者か弱者かが、コンテクストによって変わってくる。エスターは、障碍者であるアー・スンの身の回りの世話をする人として強者の立場に立ちうるが、被雇用者としては弱者の立場に立たされている。女性のエスターが男性のアー・スンに乱暴されるという場面では、エスターがアー・スンとの関係において性的弱者となりうる事も描かれている。

■ 左右田先生よりの質問
1:監督ならびに本作はシンガポール映画の何を代表しているのか。監督ならびに本作はシンガポール映画における典型的事例なのか、あるいは希少な先端的事例なのか。
2:国家と資本は一枚岩と考えて良いのか。
3:フィリピンと香港の資本が参加しているが、制作する際にも、フィリピンや香港など海外で上映するのが想定されていたのか。
4:気になったところもあった。監督は意図していないかもしれないが、ステレオタイプ化している描き方をしている。ローザは健気で無垢で献身的で家族思いという、家事労働者を理想化して描かれている。健気な少女が蹂躙されているという風にとらえられてしまうのではないか。
また、知的障碍者のアー・スンもステレオタイプ化されて描かれている。つまり他者化されているのではないか。
5:観客にどう評価され、どう受け入れられたのか。

■ 報告者の回答
 何を代表しているのかについては未だまとめきれていない。
 現在、マレーシア、インドネシアとの共同制作、及び1本当たりの制作費が増えており、インディーズ映画の制作が難しくなってきている。劇場上映できる娯楽映画を監督も制作者も考えるようになっている。
 ケルビン監督は、アンディ・ラウから華語映画の奨励金を受け『Love Story』 を制作する一方で、『Rule#1』を香港で制作したが、カルト的思想に侵された若者の集団自殺がテーマになっている内容的なので同国では制作が困難だった。迷信や非論理的なものを描いた映画は同国では許可が下りないので、香港で100%ロケをした作品である。一方、最新作『Great Great World』は、レインツリーが100%出資した商業映画になった。 妥協の幅が広くなっており、商業主義化していると言える。
 ステレオタイプ化については、おっしゃる通りだと思う。しかし支援を受けざるを得ない状況を考えると、これがこの監督の妥協点だと思う。無垢でまじめなヒロインのイメージは両者の妥協だと思う。今度会った時に、監督に聞いてみるつもりだ。フローラ・コンテンプラシオン事件後、10年経ってフィリピンとようやく共同制作ができるようになったとも言える。フローラ・コンテンプラシオンだが、フィリピンでは彼女をヒロインにして映画が制作された。フィリピンでどう受容されたかは調べていないので、何時か調べたいと思っている。なお、左右田先生より「フィリピン人家事労働者を描いた1995年のフィリピン映画と本作を比較した論文が去年公刊されている」との紹介があった。
 本作は高い興行収入を上げたが、シンガポールではホラー映画としての位置づけでしかなく、社会問題まで踏み込んだレポートはない。
 また、フォルテシモ社が買い取りアメリカでも上映されたが、同国での反応については調べていないのでわからない。日本でも単館上映されたが評判にならなかった。ビデオは販売されている。

■ 質疑応答部分
渡辺先生よりの質問
1:カトリックの住込みメイドが子供たちに与える影響があるかどうか。
2:タイトル、『The Maid』の意味。 
3:ホラー映画としてしか位置づけられず、迷信的、狂信的なマイナス・イメージをもたらすのではないか。

報告者の回答
1:子供達への影響を調べた事がないので分からない。統計的にはキリスト教徒が増えているが、関係は不明である。タガログ語を覚えて困るという冗談話に母親の拒絶的姿勢が感じられる。
2:以前は、AMA(阿妈)と呼ばれる中国出身のメイドがいた。漢字タイトルの「女佣」はメイドの意味で、同国の人々が日常的に使用する言葉である。   
3:ホラー映画の位置づけとしては、必ずしも同国でなくても良い、マレーシア、香港にもハングリーゴーストはいるし、メイドもいる。シンガポール人も、必ずしも国産映画でなくても良いと言っている。
 同国は、コスモポリタンとハートランダー(庶民階級)に二層化している状況が問題視されている。本作の登場人物達はハートランダーである。監督(父母は商売をしていた)は、英語、華語を話し、コスモポリタンだと言える。コスモポリタンの考える「虐げられた人々」という見方をしているのではないか。監督が、ジャック・ネオ監督のようなハートランダーだったら、別の描き方があったかもしれない。
 監督が頭の中で考えた庶民像であるのは否めないが、問題意識を持っていると思う。同国で継続的に映画を作るのは非常に大変で、商業的であろうが、妥協して作り続けるしかない。

松岡氏(一橋大学)よりの質問
1:同国でも、若者たちが立ち上がって運動を始めている。例えば、お墓をつぶす時、見学ツアーを組んで監視する。この結果、政府が再調査をする事になった。そういう若者達がこの映画を観た時、単純なホラー映画とみなすだろうか。社会問題を扱ったものとして見ていたのではないだろうか。
2:「共有できる文化観」の意味がよく分からなかった。

報告者の回答
1:輝かしい同国の歴史に若者がうんざりしている面もある。歴史を見直そうとする若者が増えてきた。文部省の若手官僚が研究会を始めた。新しい流れが見られる。短編映画は政府の支援なしで作れるので、福建語100%の映画を作った人もいる。疑問や問題を提起する映画も作られるようになってきた。一般公開は不可能だが。
 監督が最初に作ったインディーズ映画「吃风」が、2年前に「記録に残すべき映画」の第一位に選ばれた事から理解できるように、埋もれてきた映画再評価の動きも出始めている。
2:国産映画や、シンガポールのアイデンティティについて、監督はよく考えている。英語の国産映画に限らず、マレー語の映画でも良いし、広くアジアと共有できると監督は考えていると思う。
 一方、役人は迷信、理不尽なものは拒絶し共有できないものと考え、蓋をしようとする。一方監督は異なるものではなく共有しうるものととらえている。


深沢先生よりの質問
 どこまで行ったら検閲でダメになるのか。

報告者の回答
 ありがたい質問だ。どこまで行ったらダメかは検閲当局でないから分からないが、例えば、方言50%以上はダメだ。役人は総て方言をカウントしている。ジャック・ネオ監督は、一つの文をコードスイッチするなどして、40%以下に抑えた。但し、検閲当局は「50%以上はカットだ」とは言わないし文書もない。
 ドキュメンタリー映画監督マーティン・シーの映画は、M18指定となり一般上映できるはずだが、劇場での公開は拒否されている。私的上映会でのみOKである。
 また、検閲当局は国内と海外とでは対応を変えている、海外ではR21でも方言でも、なんでもOKなのに、国内は厳しい。しかし、リー・クワンユー元顧問相の「今までは無視していたボヘミアンも、これからは活用していこう」なる発言を考えると変化の兆しが見え始めたと言える。
 映画関係者は、常に、リアリスト、アーティスト、アイデアリストでなくてならない。ケルビン監督もレインツリー社のコンサルタントになるという、リアリスティックな生き方をしている。二項対立的には捉えられない。

司会者(青山先生)よりの質問
 OBマーカーとは何か。

報告者の回答
 ゴルフ用語で、アウトオブバーンズの意味である。但し、ゴルフとは違って、境界がはっきりしていない。いつも政府が決め、OBマーカーを超えていると言っても、理由は説明しない。

北川先生よりの質問
 OBマーカーにかかって劇場上映できなくても、ユーチューブを使って自己発信する事が可能だが、同国ではどうなのか。

報告者の回答
 例えば、マーティン・シー監督はユーチューブに載せ、「十数万人が自分のブログを見た」と言っている。しかし、ユーチューブに載せても制作資金回収できないし、単なる自己満足に終わっていると思う。また、ユーチューブにはもっと過激なものもあるし、誰でも見られる。掲載後如何に発展させていくのかが課題だが、その影響力については調べていない。
 一方で、自作の映画を学校に持ち込んで先生と生徒に見せティーチインを行っている監督もいる。この方が現実的だと思う。マーティン監督は理想主義的に過ぎると思う。交渉しようとしてもMDAは彼に会ってくれない。しかし、彼は編集者としての実績もあり、何時でも海外に行けるが同国に拘っている。政策は嫌いだがシンガポールは好きなのだ。また多くの監督が彼をエディターとして雇って支援している。

(文責:盛田 滝子)

2012年度第1回(4月)の関東例会のご案内

東南アジア学会会員の皆様

今年度も前年度に引き続き、東京外国語大学の青山が、東南アジア学会関東担当理事として関東例会の開催を担当致します。
例会委員として活動する院生ともどもよろしくお願いします。

2012年度関東例会4月例会(4月28日開催)のご案内を致します。

今回は、荒哲会員による「日本占領下のフィリピン・レイテ島における対日協力と抗日ゲリラ戦との相克」、及び
盛田茂会員による「ケルビン・トン監督のホラー映画『The Maid』が浮き彫りにするシンガポールの一側面」の2報告です。

詳細は下記をご覧下さい。多くの方々のご来場をお待ちしております。

<2012年度4月例会>
日時: 2012年4月28日(土)13:30~17:45
会場: 東京外国語大学・本郷サテライト5階セミナースペース
http://www.tufs.ac.jp/access/hongou.html

☆ 第一報告(13時30分~15時30分)
報告者:荒哲氏(福島大学非常勤講師)
コメンテーター:岡田泰平先生(成蹊大学文学部助教)
報告題:「日本占領下のフィリピン・レイテ島における対日協力と抗日ゲリラ戦との相克」

<報告要旨>
 かつて太平洋戦争時の日米決戦の場として余りにも有名なフィリピン・レイテ島で展開された日本占領については、不思議なことに従来からほとんど研究されていません。この研究では、レイテ島が占領日本軍にとってそれほど戦略的重大性がなかった時期(1942年5月~1943年11月頃)、来るべき米軍との決戦に備えた時期(1943年11月~1944年10月)、そして米軍上陸後(1944年10月以降)の三つの時期区分においてエリートを中心とする現地住民がどのように駐留日本軍に協力あるいは抵抗し、そしてその日本占領がレイテ島にどのような政治的影響力を与えたかについて分析します。

☆第二報告(15時45分~17時45分)
報告者:盛田茂氏(立教大学アジア地域研究所研究員)
コメンテーター:未定
報告題:「ケルビン・トン監督のホラー映画『The Maid』が浮き彫りにするシンガポールの一側面」

<報告要旨>
 ケルビン・トン監督は、同国を代表するエリック・クー、ロイストン・タン、ジャック・ネオ監督と並び、継続的に長編映画を制作している一人である。本発表は、同監督のホラー映画『The Maid(女佣)』(05年)から浮き彫りにされる、豊かでクリーンな同国のイメージとは別の側面について、以下の2点に焦点を絞り考察する事を目的とする。なお、華人社会の伝統的宗教儀礼(鬼節、冥婚)を背景に、差別・抑圧されるフィリピン人メイドを描いた本作は、メディア開発庁、レインツリー社、及び香港のDream Movie Entertainment社、フィリピンのMovPix International 社の共同出資作品である。
1、同国の宗教政策、メイド・アビューズをキーワードとして、同監督は本作を如何なる問題意識をもって制作したか。
2、政府の海外共同制作推進政策に則りながらも、同監督は如何なる現実主義的抵抗/相互依存関係を構築しようとしているか。


また、以下に今後の例会の日程を提示しておきます。

■ 2012年度の例会 開催日時(1回につき2報告)
   ・第2回 2012年5月26日(土)  13時30分~17時45分
   ・第3回     6月23日(土)  13時30分~17時45分
   ・第4回    10月27日(土)  13時30分~17時45分
   ・第5回    11月24日(土)  13時30分~17時45分
   ・第6回 2013年1月26日(土)  13時30分~17時45分

なお、このうち5月の関東例会は、すでに報告の予定が入っておりますが、6月の関東例会はまだ報告者が決まっておりません。
関東例会における報告のお申し込みは、随時受け付けております。皆様のご応募をお待ちしております。
報告のお申し込みは、下記アドレスまでメールでお願い致します。

青山 亨(東南アジア学会理事・関東地区担当、東京外国語大学東南アジア課程)taoyama@tufs.ac.jp
田中浩典・平田晶子・寺井淳一(関東例会委員、東京外国語大学院生) kanto-reikai@tufs.ac.jp
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