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2019年度第3回関東例会(2019年10月5日)議事録

第一報告(13:35~15:15)
報告者:勅使河原章氏(東京外国語大学大学院)
コメンテータ:菊池陽子氏(東京外国語大学)

報告題目:仏印処理後のインドシナの諸相―ラオス駐在ベトナム人行政官帰国問題とベトナム在住ラオス王子の帰国要請を通して

コメンテーターによるコメント
■仏印は、フランス植民地政権と日本による共同統治が長く続き、1945年3月9日からの仏印処理後、日本の単独支配となった。数年間日本の軍政地域であった他の東南アジアでは、戦後50年の時に資料集の作成や、証言の聞き取りがなされた。しかし、仏印に関しては戦後50年の時にそのような作業がなされず、当時の研究するにあたっては個別に史料を探していかなくてはならない。また、これまでの仏印研究は、ベトナムの個別研究が中心で、ラオスやカンボジアに関しては資料の所在すら検討されてこなかった。 
他の東南アジアとは異なり、仏印は軍政が敷かれず、外交官が活躍しうる余地があった。しかし、日本本国の本省や現地との関係性については明らかになっていない。特に、日本の単独支配の時期に、ベトナム・ラオス・カンボジアの三国間に対して外交的な調整を行った責任者は誰なのかも分かっておらず、史料の有無や所在も確認されていない。

■日本の軍政が一定期間敷かれたラオス・カンボジアでは、第二次大戦後ナショナリズムが昂揚する。多くの研究者は日本の軍政期を、ナショナリズム萌芽の時期として捉えているが、史料がなくその内実は明らかになっていない。戦後70年以上たった今、体験や証言を集めるのが困難な状況のなかで、今後何を史料とし、どのような方向性で研究を進めていくか検討する時期に来ている。今回の勅使河原さんの発表はわずかな史料をもとに構成され、想像の余地が大きい結論が導かれている。しかし、現地のこれまで使われてこなかった史料を掘り起こして研究をするという、一つの方向性を示せたのではないか。

フロアからの質問やコメント
■当時ラオスで働く「外回りで働いている公務員、職人」階層のベトナム人は、何語で
現地のラオス人とやり取りをしていたのか。
=>仏印期のラオスは、都市人口の6割~7割はベトナム人が占め、ラオス人は圧倒的に少数。行政語としてラオス語は機能していなかったのでは。またベトナム人は都市で仕立屋や靴屋などを営んでおり、ベトナム人にとって日常生活のなかでもラオス語習得の必要はない。1941年の資源調査団のラオス訪問時には、働いている人の大半がベトナム人だったとの記録も残っている。

■スパヌボンが、ベトナムの公共事業に携わっていたとあるが、彼はベトナム現地の人とベトナム語でやり取りができたのか。
=>スパヌボンは、ベトナムの中学校と高校を卒業しておりベトナム語ができたのは確実である。

■「ベトナム外務省の職員は塚本ではなく横山正幸に行政官帰還問題について相談していることから、横山がある程度の権限を持っていた」とあるが、ベトナム帝国管轄下のベトナム外務省であれば、総督府の塚本ではなくベトナム帝国の最高顧問の横山に相談するのは当然ではないか。また、行政官帰還問題に関して、ベトナム側と日本側のそれぞれ意向が示せるような史料は見つかったのか。
=>インドシナ総督府の塚本まで本件はあげられずに、横山が最終決裁をしていることから、横山が一定の権限を与えられていたのではないかと考えている。

■横山正幸が行政官帰還問題を決裁したからといって、彼が内実を熟知して決断したとは言えない。横山の当時の役職は軍の嘱託であり、一人の外交官として活躍できるような状況ではなかったことも踏まえておくべき。
「ベトナム人の再雇用に関してはフランス人を解雇してベトナム人を雇用しようとした」
とあるが、それは可能性の話であり、史料がないなかで結論づけるのは慎重になるべき。

■「日本政府」と書いているが、どの機関を指しているのか分からないので、用語について精査するべき。聞き手には行政官帰還問題は見通しが立たずに、場当たり的に対応しているように見えてしまう。今後、どのような方向性で進められていたのか示すべき。

■「ベトナムの行政で重要な役割を果たしているラオス王族はベトナムにとどめる」ことが、
ベトナムのナショナリズムの現れだとしているが、なぜその2つが結びつくのか理解しづらい。

■スパヌボン王子の帰国要請についても、サワン皇太子からの電報と、1ヶ月後の塚本からの電報の2つしか見つかっておらず、経過が分かる史料が出てきていないため、まだ系統だった結論をだせないのではないか。



第二報告(15:45-17:45)
報告者:川島緑(上智大学名誉教授)
コメンテーター:菅谷成子(愛媛大学)

報告題目:「19世紀~20世紀初頭ミンダナオ島ラナオ地方における紙の流通 ―イスラーム写本に使用された紙の検討を通じて―」

 コメンテーターの菅谷氏は、スペイン帝国の統治は文書行政に支えられており、フィリピン統治に関する様々な文書がスペイン本国やマニラの公文書館に保存されており、その中にはフィリピン行政文書特有のデザインの文書もあることを指摘した。それに関連して、最近、マニラの公文書館では、スペイン統治期の文書は現物ではなくデジタル画像やマイクロフィルムで閲覧に供することになっているとの報告者の説明を受けて、紙を調査するためには文書の現物にあたる必要があるため、紙の研究は以前より難しくなっていることが確認された。そのうえで、スペイン政庁の紙の輸入に関する統計資料に関して、紙の種類の分類方法、単位の不統一、紙製品が紙の統計に含まれている可能性等についての質問がなされた。これに対し報告者より、1862年以前の紙の貿易統計にはこれらの問題点があるが、1863年からは紙の分類法が単純化され、単位も重量に統一されたため、1863年の統計を利用した旨、回答があった。菅谷氏は、中国から輸入された紙のなかには、紙巻きたばこ製造に使用されたものが含まれていることを指摘し、これに対し報告者より、貿易統計からは輸入時点で申告された紙の種類はわかるものの、実際にどのような用途で使用されたからは不明であるとの回答があった。さらに、スペイン領フィリピンとミンダナオとの間の沿岸交易の実態や、ミンダナオにおける紙の流通の担い手に関して質疑応答が行われた。
 フロアーからは、港市に輸出用産品を供給する内陸部後背地では、様々な人や情報が行きかう港市におけるよりも宗教運動が急進化しやすいという特徴があり、その点においてラナオ地方とスマトラ島ミナンカバウの間に共通性があるというコメントがあった。また、東南アジア大陸部の貝葉文書・折本との比較の観点から、紙製の写本の耐久性や保存状況を問う質問や、異教徒が製造した紙をイスラーム文書に用いることについてイスラームの観点からどうみるのか、知識伝達の媒体としてではなく、モノとしての紙にはどのような意味があるのか、20世紀に入ってからの紙の輸入先や種類の変容など、多岐にわたる質問があり、これらをめぐって活発に議論が行われた。(文責:川島緑)


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