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2012年度第6回(1月)の関東例会の報告

2013年1月26日(土)に行われました2012年度第6回関東例会(会場:東京外国語大学本郷サテライト)の議事録を以下に掲載します。

第1報告
「19世紀前半ビルマにおける米国バプティスト派宣教師のカレン人像形成―キリスト教徒カレンに関する伝記とその言説分析を中心に―」
報告者:藤村瞳氏(上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻 博士前期課程)
コメンテーター:池田一人氏(東京外語大学非常勤講師) 

【報告要旨】
 本報告では、19世紀前半ビルマにおける米国バプティスト派宣教師が抱いたカレン人像について、宣教師の著作や宣教日誌を通じた内容分析を行うことで<カレン像>が描き出される過程とその意味合いが明らかにされた。報告者は、現代ビルマの民族意識運動を率いているのがカレンの中でも少数派のキリスト教徒であることに関心をもち、後世に語り継がれている<カレン像>がいかなるもので、その<カレン像>の源泉がどこに求められるのかについて発表を行った。
 19世紀初頭において、カレンの人々は「怠惰で無気力なカレン」、「教化すべき未開で蒙昧なアジアの民」とみなされていたとされ、それは現代のカレン民族運動史や民族意識研究の中でも再解釈され、引用されている。しかし、報告者は「宣教師の視点の先に想定されたカレンの人々がどのような人達であったのかが具体的に検討されてきていない」と先行研究の不十分な点を指摘し、19世紀に宣教師によって書かれた書籍や日誌を基に、単一のカレン像を形成した構成要素、および過程を本発表で明らかにした。具体的には、フランシス・メイソンという宣教師と彼の著書『カレンの使徒:カレン初の受洗者コー・タービュの伝記』および『カレンの伝統』を取り上げ、タービュがなぜキリスト教徒カレンを代表するように描写されたのかを考察した。
 まず、米国バプティスト派によるカレン宣教の開始と拡大について、ビルマにおける宣教活動の歴史を概観した。1824年の第一次英緬戦争が勃発するまでは布教の対象者がカレンに絞られておらず、カレンが宣教対象として意識されたのは戦争後の1827年~1830年頃であった。カレン宣教が開始された契機は1827年に宣教師ボードマンが来緬し、テナセリム地方に拠点を移したことにある。その後、1828年5月28日に初の受洗者としてタービュが誕生した。1830年代~1850年代にカレン宣教は拡大した。年次報告書では、カレン宣教がビルマ宣教より勢いがあったことが窺える。同時期に、宣教学校の設立やカレン文字の考案、聖書法、聖書の翻訳が進んだ。
 次に、メイソンという人物像と宣教活動の特徴が説明された。彼は1831年1月にビルマへ派遣され、宣教活動以外にスゴーカレン語で書を出している点で他の宣教師とは異なる。聖書の翻訳にも積極的に取り組み、新約聖書、旧約聖書と次々に完成させた。また、聖書翻訳以外にも、カレンの風習や伝統などを記した民俗誌の類のものを著している。
 さらに、報告者はメイソンが抱いた<カレン観>を考察し、宣教雑誌における記述から、非キリスト教徒(=精霊信仰、仏教徒)とキリスト教徒受洗者への異なる視点があることを指摘した。前者には慣習や作法に対して厳しい非難をしている記述が多く見られるが、後者に対してはその働きぶりを高く評価しているという点に特徴がある。また、メイソンが1834年に発表した『カレンの伝統』では、①カレンの伝承とキリスト教との世界観と類似点 ②カレンの伝統や慣習とは聖書の教義の一致 ③ユダヤとカレンの共通点、という3点の特徴が示されていることを述べ、カレンの伝統・伝承にキリスト教教義との関連、歴史的繋がりを見出そうとする試みであったのではないか、とした。
 そのような流れの中で発表されたのが『カレンの使徒』であり、そこに登場するのがタービュである。同書の中で報告者が注目したのは、①祈りに対する姿 ②勤勉さ ③偶像崇拝を拒否する姿勢の3点であり、ここからメイソンがタービュを「神に祈ることを怠らない、誰よりも福音を愛した非常に敬虔なキリスト教徒」と位置付けていることを示した。タービュについては「精霊に対する信仰心に満ち溢れた、善良なる者」とも描写されており、これが示すのは仏教徒のイメージの対極にある存在としての「良きキリスト教徒」である。つまり、メイソンが創出したタービュの言説は「祈りという行為とキリスト教宣教を通じて開化した真面目で敬虔なカレン、キリスト教受洗者」であって、キリスト教を通じたという前提を抜きに語ることのできないカレンの使徒言説であったのではないか、と報告者はみている。
 また、カレンの使徒言説が創出されなければならなかった背景として外的要因と内的要因を示した。外的要因をバプティスト宣教局の財政状況に着目し、総資金額と余剰額、負債額に焦点を絞って、アメリカ社会との経済的な関係性で説明できるのではないかとした。また内的要因として、メイソンの宣教活動に対する危機感を挙げて、宣教活動を取り巻く環境の変化、資金不足、人員不足が焦燥感を駆り立てていたのではないかと内面的な部分を推察した。それら宣教側の課題を解決するために、具体的なイメージが必要とされ、タービュを模範例として示すことで、カレン宣教の成功や必要性を強調したのではないかと報告者は考察している。
 結論として、キリスト教徒を中心とした<カレン像>は1830年代~1840年代に宣教師によって創出されたものである。タービュを<カレンの使徒>言説として描きだすことは、あくまでも宣教師側の必要性から生じたことであり、それが宣教師の間で正当性をもったと解釈できる。

【池田一人氏のコメント】
池田一人氏によって3点が指摘された。
1.19世紀のカレンの民族意識の創生過程を広い文脈から位置づけ
本発表について池田氏は「19世紀のキリスト教徒カレンの民族意識の形成」というテーマであれば、19世紀におけるキリスト教カレンのイメージの全体像、ならびに宣教師メイソンがどのような位置づけにあるのかを明らかにする必要性があると指摘した。その際に、19世紀におけるキリスト教徒カレンの民族意識形成に重要な影響力をもったメイソンの存在、カレン語の考案に携わったジョナサン・ウェイドを挙げ、言語学史的にカレンの集団性を外郭という点で規定した人物を紹介した。さらに、宣教師が主導しているような19世紀カレンの民族意識形成の段階で、そこに参加したコミュニティのカレンが重要な役割を果たしているのではないかという話が以前よりあるが、その部分の解明が進んでいない現況を説明した。その側面から、19世紀の宣教の際にスゴーカレン語で書かれた史料を基に、当のカレン人たちがどのように考えていたのか、どのように受け取っていたのか、明らかにする必要性を述べた。それに加えて、19世紀のバプティスト派キリスト教徒カレンは、ビルマ内において非常に狭い範囲だとし、20世紀初頭に明らかにされた1921年のカレンの人口割合の統計を引用して、8割の仏教徒がどのような状況下にあったのかを考える必要があるとした。また、これによって19世紀におけるカレンの民族意識形成の全体の位置づけというものがなせるのではないかという指摘が挙がった。

2.<カレン民族意識>を明らかにすることによって何が分かるのか
現代的な文脈で「カレン」が扱われると、大抵の場合はKNUとなる。未だ中央のビルマ政府に反旗を翻したまま武装闘争を続けている存在だが、彼らのリーダシップはスゴーのキリスト教徒カレンにある。その人達がコアな<カレン民族意識>として持つその源流は19世紀にあるのではないかと考えられる。そのことから、カレン民族意識を明らかにする意義というのは、現代ビルマの民族共存問題につながってくるのではないだろうか。どのような意味合いで、また自身の問題として、メイソンがもっていたカレン観を問題として析出していくかが今後は必要になるだろう。

3.宣教の政治学
池田氏はアメリカ本国のバプティスト宣教本部の総資金・基金総額・余剰負債額推移をカレンの民族意識形成と結びつけている点を評価した。これは、今まで論じられてこなかった視点である。アメリカ本国の宣教本部と派遣されている宣教師の関係は不明な点が多い。確かに、メイソンが『カレンの使徒』という書物を著したのには意図が認められる。その背景に、本国の財政がひっ迫していたのではないかという報告者の仮説はすごく面白い。しかし、メイソン自身が具体的に、バプティストボードの財政事情に対して危機感をもって反論をしている証拠がない。したがって、今後は具体的な証拠を出しながらこの仮説を用いれば、説得力が増して面白い話になってくるのではないだろうか、と指摘した。その点で、宣教の政治学という新たな視点を投げかけた。19世紀のカレン研究の視点では今までなかった視点なので、ぜひとも今後ひろげていってもらいたいとコメントした。

【質疑応答】
質問1:この問題の背景がどういったところにあるのか。
回答1:ジャドソンが来緬して以降、最初はビルマ人に限定するわけでなく、周辺の人々に対して教会を設けずに宣教をしていた。タービュを身請けして受洗させたのは、カレンの宣教のきっかけとして宣教側にカレンの人が欲しいということで引き入れた経緯がある。

質問2:カレン全体の中でキリスト教徒が20%を切っているのならば、見いだされてキリスト教徒になったカレンの集団というのは、どういった人達であったのか。
回答2:仏教徒のカレンの人達よりも精霊信仰をしていたカレンへの宣教の方が上手くいっていたのは分かってきているが、受洗した人達がもともと何を信仰していたのかは細かい記述が残されてないので分からない。

質問3:カレンの中でも仏教徒と精霊信仰といっているが、生業や分布の違いと信仰の違いは対応関係にあるのか。
回答3:平地に住むカレンは、仏教社会に溶け込んでおり仏教徒であると捉えていたようである。それに対して、山地のカレンは、精霊信仰を信仰する人々が多い。その人達の方が平地に住むカレンより反応が良いようだと宣教師の記述に残されている。住む地域によって宣教の拡大の度合いが違うとは言える。

質問4:創られたカレン像がタービュであったというのは、過去に犯罪者であったということが重要なのではないか。犯罪者の改心と規範的なキリスト教徒はカトリックの使徒やプロテスタントのキリスト使者とよく似た物語的な構造ではないか。
回答4:受洗前の犯罪者としての姿がより重要であったのではないかという指摘はそこまで考察を深められていなかったので、今後、検討していきたい。

質問5:洗礼の成功者としてのタービュ、洗礼前のタービュが分離してカレン像として定着したと考えて良いのか。
回答5:模範的なキリスト教徒としてのカレン、怠惰で無気力なカレンというのが同時に存在していたのか、もともと怠惰で無気力だったけれどもキリスト教で統一されていったのか、そこの位置づけも検討する余地がある。私は後者を考えていたが、変化をしていったというだけではなく、同時に存在していたという新たな視座からもう一度検討してみると新たなことが言えるのではないか。

質問6:メイソン自身は「一つのカレン」という認識がなかったのではないか。
回答6:記述の中でメイソンは一貫してカレンを使用している。しかし、同じ言葉を使っているからといって、想定されている意味が同じとは限らない。『カレンの使徒』を発表した際に単一のカレンという認識はなかったのかもしれない。しかし、ここで作り上げられた言説が、その後参照枠組みの民族としてカレンとして再解釈され、広まっていったのではないか。

補足説明(根本会員):メイソンに「一つのカレン」という認識がなかったのではないかという指摘だが、『カレンの使徒』の原題では、his nationになっている。これがhis peopleであれば、認識がなかったのではないかという議論は成り立つが、わざわざhis nationであるから、民族という枠組みでメイソンはカレンを捉えている。キリスト教を受容する準備のできている民族だという認識があるのではないか。「the Karen apostle」も「a」ではなく「the」であるから、模範的な受洗者、象徴されるカレン像はコー・タービュだけである。

質問7:ビルマにおいて特異なのは、「イスラエルの失われた民」というのがいつまでも残って語られ続けている点ではないか。
回答7:カレンの神学校の修士論文・博士論文ではカレンの歴史についてメイソンが提唱した「カレンのヘブライ起源」が引用されているのも、その特異性を示していると思う。

質問8:経済をやっている者からすると、アメリカで起こった不況がそのままカレン宣教に影響するというのは短絡的な感じがする。送金方法はどのようにやっていたのか。宣教師のファンドレイジングシステムがあると思うが、それを分析せずに語るのはどうか。
回答8:送金方法に関してはアメリカから直接送っていたと思うが、インドの英国バプティスト教会との関連も深いので、ここで寄港して換金するなりしてきたのではないかと推測している。バプティスト宣教局との関連で送金方法を確認し、今後、確証あるものにしていきたいと思う。

第2報告
「ベトナム・ハノイの都市民衆による互助と協力―ハンホム通り「ハビ亭」をめぐる公共圏の構築について―」
報告者:長坂康代氏(京都大学文学研究科GCOE研究員)
コメンテーター:三尾裕子氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

【報告要旨】
本報告は、政治都市ハノイにおいて、民衆がいかに自らの意思をもって生活をしているのかを、旧市街のハンホム通りにある、ハビ亭をめぐる行政との拮抗を中心に、いくつかの事例を述べたものである。
 ハンホム通りは、漆工芸を生業とするハビ村出身の移住者によって開拓された通りである。そこにあるハビ亭は、そのハビ村民によって築かれた集会所であり、宗教機能も合わせもつ宗教施設である。参拝日は旧暦1日と15日で、主にハビ村出身者および関係者、ハンホム通りの店主らが参拝したり茶話会を開いたりしている。また、同郷会は、同じ村出身の人たちが中心になってその関係者を組織した民衆の会である。
ハノイでは、行政によって宗教施設が再建され、行政による運営がより強化されてきている。ハビ亭も、公には行政の管理に委ねられるものの、実質的には同郷会が運営しているが、2009年には行政の視察が入り、ハビ亭の主要部分は保持のまま、敷地内が整備されることになった。
 報告者の調査によると、ハビ亭は、2006年ごろから、同郷会によって、民衆の利益と志向に適合的な神を祭祀の対象に加えることで、宗教性を増してきた。そして、ハンホム通りの新住民やハビ亭を篤く信仰する非会員を受け入れて、より広い都市性を獲得してきた。同時に、地元の起源となる漆信仰を再確認しながらも、より広い商業性や現世利益信仰を包摂することによって、都市的な民間信仰に見合った形にその信仰の拡大・再編成をはかってきた。このように宗教化をはかるのは、ハビ村出身者が築いたハビ亭を、ハビ村の長老の意見を尊重しながら、その子孫と関係者が保守する意図があるからである。
 同郷会の役員や店主らは、インフォーマルで親密な家族領域に閉じず、ハビ亭というこの宗教的寄り合いと茶サロンを基軸に、社会的交流を広げている。そして、都市の宗教施設管理や文化財保護、あるいは観光化による都市振興をめぐって、意見を交し合うハノイの文芸的公共圏を創り出している。
 ハビ亭の将来管理に関する行政の計画に対して、同郷会は、民衆の意思を主張しようとしてきた。ハビ亭の会員として長く同郷会に関わり、議論の場に居合わせた発表者が、この社会的共同性に注目して、知恵を出し合いながら民衆が共闘して政治的公共圏にまで成熟していこうとする動態の芽があることを発表した。

【三尾裕子氏からのコメント】
 本報告は、大変細かな資料を揃えていたというのが感想である。自身のベトナムでの研究対象地であるホイアンでも、行く度に通りの店舗が変化しているため、通りの店の様子を調査していけばよかったとも思っている。行政が入っていい部分とわずらわしい部分がある。入っていい部分は、住みやすくなることである。今、やっている地域も、国家行政の煩わしさがある。建物や家が、行政の手が入って新しくなると、行政側の言うことを聞かなければならなくなる。入場料がかかるようにしても、思いのほか収入が少ない。行政に立て直してもらうことは、小額のお金のために行政の言うことを聞かなければならなくなるということである。それなので、自分たちでお金を出してやったほうがいいと、地域の民衆は思っている。
 背景的なもので、在ハノイ・ハビ村同郷会とハビ亭という施設が、一体いつごろ成立したのか、会長が5代目ということは、ずいぶん前からだと思うが。
発表者は、1947年の抗仏戦争が契機だというが、社会主義化やドイモイによっても介入を受けているかどうか。また、それ以前の同郷会の様子はどうだったのか知りたい。人びとは、宗教化させたいという議論があって、ドイモイのときに再構築がされたのだと思うが、社会主義化やドイモイによって介入を受けているか。
昔の共同体、コミュニティに戻るのがよいのか、それとも個がつながりあえるような公共圏につなげたほうがよいのか。社会全体の状況の変化を説明したほうがよい。

【コメントに対する報告者による返答】
 ハビ村の質問にたいして、大体100年前、会長は遷都1000年なので、1000年前と言っている。1947年、抗仏戦争のときに、ハンホム通りとハビ亭も空爆に遭い崩壊したので、そのときに再建をしている。ハンホム通りは、旧市街ができてからなので、100年ほどではないかと思う。ハビ亭は、ハンホム通りを築いたハビ村出身者のための集会所なので、そのころではないかと思う。
 会長については、現会長から2代前まで、さかのぼって確認しているが、それより先はわからない。1947年当時のフランス統治時代のハビ亭の資料で確認している。
 村では、ディンが1、亭が1、寺が1など、それぞれ存在するが、ハンホム通りに集会所は1つしかなかった。
しかし、同郷会は、ハンホム通りに接したハンクワット通りのトゥアンミー亭(=ディン)とトゥアンミーデンは、ハビ村のものだと言っている。1947年の空爆以降、現在は、同郷会の会員が家を建てて住んでいる。トゥアンミーデンは、ハビ村と関連のない貧しかった者を堂守として住まわせていた。しかし、その堂守は、歴史を改ざんして、ハビ村との関連をなくしてしまった。歴史文献をあたると、実はハビ村のものではないということもわかっている。行政でなくても、民衆間でも、社会主義化やドイモイといった混乱期に、こういった宗教施設は取ったり取られたりしている実態がある。


【質疑応答】
(質問)
①オントーとは、漆の神のことですね。デン・ディンの区分けは、行政の区分けの仕方であって、ディンも神を祀るので、デンでなくても大差ないのではないか。
②ハビディンの鍵は誰がもっていますか。

(報告者による回答)
①確かに、デンもディンも神を祀る空間である。ハビ亭に参拝に来る同郷会の会員も、ハビ亭で、「ここはデンかディンか」と議論をしたこともある。結局、そのときはデンでもディンでもいいのではないかとなったが、一般民衆からみたら、確かに(デンもディンも)同じだと思う。しかし、同郷会の会長は、行政にもかんでいて、他の宗教施設が行政によって取り込まれるところをみている。自分が行政と関わることを喜ばしく思っているが、自分の運営するハビ亭に行政が介入するとなると、それは困るとなる。また、行政に呼び出されて、同郷会の会長は、(行政のもとで)宗教の勉強もしている。行政の動きも把握しているので、やはり、より宗教化しないと、取られてしまうということもわかっている。だから、デンにしていこうという同郷会の動きはあるのだと思う。
②ハビ亭の鍵は、同郷会の会計監査がもっている。以前、ハンホム通りの塗料販売店の店主で行政寄りの男性が、ハビ亭の鍵を黙って持ちだしたことがある。それを、同郷会の役員は「なぜ鍵を持っていったのか、合鍵をつくるためではないか」と疑ったこともある。

(質問)
①行政が、監視ではなく、観光が目的だったという根拠は何か。
②同郷会の役員は、亭(=ディン)をどうしていきたいのか。デンを目指すのか。発表者の話からは、宗教空間と公共空間のどちらもあるように思うが、どうか。

(報告者による回答)
①2004年のハノイ市のホアンキエム区人民委員会の資料によると、金曜から日曜の夜に、旧市街のある通りを歩行者天国にして、夜店を出している。これは、観光目的である。また、今回この資料を提示していないが、宗教施設についても明記している。ホアンキエム湖に近い宗教施設では、それまでは民衆が運営していたが、行政が介入し、宗教施設がきれいになった分、毎日施設を開けざるを得なくなった。それは観光客を呼び込むためである。わたしは、これは、やはり観光目的であって、監視というふうにはとらえていない。
②公共的であり、宗教的な空間でもある。公共圏については、ハビ亭にも茶サロンがある。サロンとは、本来ならば文芸的公共圏を作り出しているところで、ハビ亭も信仰だけでなく、そういった空間にもなっているといえる。

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